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<title>h4731278のブログ</title>
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<title>72歳で死んだ人々　文学者　舟橋聖一</title>
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<![CDATA[ <p>舟橋聖一　1904年（明治37年）12月25日～1976年（昭和51年）01月13日</p><p>東京市本所区横網町に東京帝国大学助教授舟橋了助の長男、旧制水戸高等学校、東京帝国大学文学部卒業、大学在学中に『朱門』の同人となる。</p><p>『丹羽文雄とのライバル関係は有名で、丹羽さんの話をすると機嫌が悪くなった。丹羽文学は禁句だった。</p><p>昭和30年代の終りごろ毎年、芸術院会員の発表がある11月が近づくと周期的に神経がいらだってくる兆候が見えた。そこに自分の名がなく、ライバルや後輩の名前が出ることが続いたから。</p><p>昭和40年、還暦翌年の10月、眼疾を患い心楽しまぬ日々を送るようになり一段と癇癪持ちになった。家族や使用人、診察に来る医師たちにも完全主義を振りかざし屋敷の中には不機嫌からくる陰気さが漂っていた。医者を信用せず」医者を変えているうちにやぶ医者にひっかかり左目を失明する。</p><p>勲章好きで昭和50年秋文化功労章をもらうことになったが弟妹達がお祝いの品物を届けなかったと大癇癪を起している。その後心臓喘息の発作を起こし年が明けて13日大発作を起こし日本医大付属病院に運び込まれ急性心筋梗塞で死去。</p><p>「兄は煩悩の塊と言ってよい人だった。その死に顔を見たとき、私は兄の体から、もろもろの煩悩がまるで見えない煙かなんぞにになってすうーﾂと空中へぬけて行くような感じを受けた」』（船橋和郎『兄・船橋聖一の素顔』より）</p><p>主な作品</p><p>戯曲『白い腕』・『ダイヴィング』・『木石』・『雪夫人絵図』・『悉皆屋康吉』・『花の生涯』・『江島生島』・『新・忠臣蔵』・『お市御寮人』</p>
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<link>https://ameblo.jp/h4731278/entry-12946805484.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Mar 2019 10:30:23 +0900</pubDate>
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<title>72歳で死んだ人々　文学者　佐佐木茂索</title>
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<![CDATA[ <p>佐佐木茂索1894年（明治27年）11月11日～1966年(昭和41年)12月01日</p><p>京都府の種油製造業の息子として生まれる。京都府第一中学校中退。新潮社、中央美術社等に勤務、1919年「おじいさんとおばあさんの話」で作家デビュー1925年大橋房子と結婚。1946年1月、菊池寛創業の文藝春秋社が1946年03月に「戦争協力」で解散、同年06月に株式会社文藝春秋新社設立、社長として復帰、終生社長。</p><p>ふだんの自分の感想や思いつきをメモる習慣があった。</p><p>「昭和四十年7月十五日記。</p><p>一、&nbsp;&nbsp; 飛行機は落ちるかも知れないから、こうゆう場合、大てい遺言めいたことを書いてきた。どこからか沢山出て来るだろうが、これが最新のものである。</p><p>一、&nbsp;&nbsp; 死ぬのはイヤ。勿論その通りだが、死ぬのも自然だから止むを得ない。晩年になるほど幸福になったのは至幸である。要するに相当な一生であった。何物かに深く感謝をささげる。</p><p>一、&nbsp;&nbsp; 多少書きたいこともあったが、今はどうでもよい。</p><p>一、&nbsp;&nbsp; 葬儀は極力寂しいものにしてほしい。結婚式の時は招かれた人だけ出席する、その流儀で葬儀、通夜も招いた人だけでありたい。むつかしい事だが、その努力を切望する」（抄）</p><p>昭和四十一年十二月一日午後、腸間膜動脈栓塞で虎の門病院で死去</p><p>主な作品</p><p>『春の外套』・『夢ほどの話』・『南京の皿』</p>
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<pubDate>Mon, 11 Feb 2019 06:03:43 +0900</pubDate>
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<title>72歳で死んだ人々　文学者　佐藤治夫</title>
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<![CDATA[ <p>佐藤治夫　1892年（明治25年）04月09日～1964年（昭和39年）05月06日。</p><p>和歌山県東牟婁郡新宮町（現・新宮市）に医師・佐藤豊太郎（号は鏡水）、政代の長男として生まれる。近代日本の詩人・作家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及ぶ、筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。</p><p>谷崎潤一郎の妻・千代を、1930年（昭和5年）に譲り受けた。谷崎と千代の離婚成立後、3人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されて反響を呼び起こした。</p><p>5月6日、夕方頃に「放送朝日」の「一週間自叙伝」というラジオ番組の5月20日放送予定分を自宅の書斎で録音中、「私は幸いにして…」という言葉を発した直後心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。京都の知恩院に葬られ、忌日を「春日忌」と呼ぶ。贈従三位、賜銀杯一組。法名は凌雲院殿詞誉紀精春日大居士。</p><p>1964年（昭和39年）、東京オリンピック開会式に、前年に作詞した「オリンピック東京大賛歌」が歌われた。北海道十勝国中川郡豊頃町の長節湖畔に四行詩碑建立。</p>
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<pubDate>Sat, 09 Feb 2019 14:17:46 +0900</pubDate>
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<title>顕微鏡+スマホ</title>
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<![CDATA[ <p>スマホで写真の撮れる顕微鏡を買いました。</p><p><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251118/21/h4731278/0f/a1/j/o0453064015719764589.jpg" alt="" border="0"></p><p>蝋梅の花を見て見ました。</p><p><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251118/21/h4731278/a8/e5/j/o0640048015719764596.jpg" alt="" border="0"></p><p>雌蕊</p><p>花粉<img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251118/21/h4731278/63/2b/j/o0453064015719764600.jpg" alt="" border="0"></p><p>&nbsp;</p><p><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251118/21/h4731278/be/be/j/o0453064015719764606.jpg" alt="" border="0"></p>
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<pubDate>Mon, 04 Feb 2019 22:50:41 +0900</pubDate>
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<title>72歳で死んだ人々　文学者　徳田秋声</title>
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<![CDATA[ <p>徳田秋声(1872年2月1日・明治4年12月23日～1943年・昭和18年11月18日）</p><p>現在の金沢市横山町に加賀藩家老横山氏の家臣徳田雲平の第6子（3男）として誕生（翌年の誕生日が暦の変更のため来なかったこともあり、生涯誕生日は12月23日、年齢は数え歳で通した）小説家。本名は末雄（すえお）。</p><p>自伝小説『光を追うて』によれば、雲平は秋声が3番目の妻タケの胎内にあるうちから「産まれ落ちたら知り合ひの農家へくれる約束」をしていたが、生まれた顔を見て思いとどまったという。明治維新後、秩禄公債で苦しい生計を立てていた没落士族の末子として「宿命的に影の薄い生をこの世に享け」た子供であり、4歳で生家を引き払って後は居を転々とし、また病弱であったため小学校へも学齢に1年遅れで入学しなければならなかった。随筆『思い出るまゝ』には、「私は幼い時分から孤独であつた。憂鬱の虫が体中に巣くつてゐた」と記されている。</p><p>小学生時代（現在の金沢市立馬場小学校）、一学年下に泉鏡花がいた。1891年・明治24年、父が死去したため、第四高等学校を中途退学。1892年･明治25年、友人の桐生悠々と上京し尾崎紅葉の門を叩くが、玄関番の泉鏡花に不在を告げられて辞去。･明治28年、博文館の編集部に職を得、当時博文館に出入りしていた泉鏡花の勧めで紅葉の門下に入る。1896年（明治29年）、被差別部落出身の父娘に取材した『薮かうじ』を「文芸倶楽部」発表して「めざまし草」の月評欄に取り上げられ、処女作となる。1900年･明治33年「讀賣新聞」に連載した『雲のゆくへ』が出世作となる。1906年･明治39年4月末、秋声の一家は本郷森川町の住居に転居。1910年･明治43年『足迹（そくせき）』を読売新聞に連載、1911年･明治44年『黴（かび）』が東京朝日新聞に連載、この2長編によって、島崎藤村、田山花袋らとともに、自然主義文学の担い手として確固たる地位を築いた。</p><p>1941年（昭和16年）6月、50年にわたる秋声文学の集大成ともいうべき最後の長編『縮図』を「都新聞」に連載したが、芸者の世界を描いていたために、情報局から時局柄好ましくないという干渉をうけ、80回で作品を中絶。翌年の夏から健康がすぐれず、1942年・昭和18年7月3回にわたる鼻血をだして病臥する。8月、島崎藤村の葬式に列席する川端康成の見舞に訪れる。このあと帝大病院に約一か月入院肺がん（肋膜がん）の診断を受け10月退院、本郷森川町の自宅書斎で1942年・昭和18年11月18日、死去。</p><p>主な作品</p><p>『薮かうじ』・『雲のゆくへ』・『出産』・『北国産』・『新世帯』・『足迹』・『黴』等</p>
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<pubDate>Sat, 02 Feb 2019 03:54:00 +0900</pubDate>
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<title>72歳で死んだ人々　文学者　西行</title>
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<![CDATA[ <p>西行(元永元年・1118年～ 文治6年2月16日･1190年3月31日）</p><p>武士・僧侶・歌。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・<a title="源清経 (存在しないページ)" href="https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%BA%90%E6%B8%85%E7%B5%8C&amp;action=edit&amp;redlink=1">源清経</a>女。佐藤 義清（さとう のりきよ）。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。</p><p>秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9世孫。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。16歳ごろから徳大寺家に仕える。保延元年･1135年）18歳で左兵衛尉（左兵衛府の第三等官）に任ぜられ、同3年･1137年）に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。保延6年･1140年）23歳で出家した。</p><p>出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。天養元年･1144年ごろ奥羽地方へ旅行し、久安4年･1149年前後に高野山（和歌山県高野町）。仁安3年･1168年に中四国後に高野山に戻る。治承元年･1177年に伊勢国二見浦に移る。文治2年･1186年に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行う、伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺（大阪府南河内郡河南町）に庵居し、建久元年･1190年にこの地で入寂した。</p><p>願はくは花の下にて春死なん　そのきさらぎの望月のころ</p><p>哀々此の世は縦やさもあらばあれ来む斯くや苦しかるべき</p><p>勅撰集では『詞花集』に初出（1首）。『千載集』に18首、『新古今集』に94首（入撰数第1位）をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』（六家集の一）『山家心中集』（自撰）『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。</p>
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<pubDate>Wed, 30 Jan 2019 03:40:47 +0900</pubDate>
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<title>1月26日</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: large;">孫の1歳の誕生日です。</span></p><p><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251118/21/h4731278/21/ce/j/o0640048015719764563.jpg" alt="" border="0"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251118/21/h4731278/fd/fe/j/o0640045315719764571.jpg" alt="" border="0"></p>
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<pubDate>Tue, 29 Jan 2019 12:29:57 +0900</pubDate>
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<title>72歳で死んだ人々　実業家　三井高利</title>
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<![CDATA[ <p>三井高利（元和8年･1622年～元禄7年5月6日･1694年5月29日）</p><p>伊勢国松坂（現 三重県松阪市）で高俊の四男として生まれた。商人。通称は八郎兵衛。三井家のちの三井財閥の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。</p><p>江戸で釘抜三井家を創業した長兄の三井高次（三郎左衛門）に丁稚奉公し、番頭となる。その後、松坂で金融業を営む。1673年、長兄高次の死後、母・殊法の許しを得て江戸本町一丁目に呉服店を開業し、屋号を越後屋（のちの三越）とする。繁盛ぶりに嫉妬した同業者からは迫害され、組合からの追放や引き抜き、不買運動などにあい、店舗の位置を駿河町に移転することを余儀なくされる。江戸の店の実務は主に長男高平らに任せ京都に移り住んだ。店を駿河町に移転後に両替商（三井両替店・現在の三井住友銀行の源流）も開業する。幕府の御用為替方を引き受けた。</p><p>元禄7年2月・1694年病んで再起が近いのを知ると京都の越後谷本店に一族を集めて『宗壽様元禄の御遺書』を発表した。「遺産を子供たちに直ちに分割配分するのではなく、全部の共有財産として、その利益から配分を受けよ」というもので後年の三井財閥の基礎はこの遺書で定められた。この年の5月6日念仏を唱えながら大往生を遂げた。高利は子孫のために家訓を残している。</p><p>一、単木は折れやすく、林木は折れ難し。汝等相協戮輯睦（きょうりくしゅうぼく）して家運の鞏固を図れ。</p><p>二、各家の営業より生ずる総収入は必ず一定の積み立て金を引去りたる後、はじめてこれを各家に分配すべし。</p><p>三、各家の内より一人の年長者を挙げ、老八分としてこれを全体の総理たらしめ、各家主はこの命にしたがうべし。</p><p>四、同族は、決して相争う事勿れ。</p><p>五、固く奢侈を禁ず。</p><p>六、名将の下に弱卒なし、賢者能者を登用するに意を用いよ。下に不平怨嗟の声なからしむる様注意すべし。</p><p>七、主は凡て一家の事、上下大小の区別無く、これに通暁する事に心掛けるべし。</p><p>八、同族の小児は一定の年限内に於いては、番頭、手代の下に労役せしめ、決して主人たるの待遇をなさしめざるべし。</p><p>九、商売は見切り時の大切なるを覚悟すべし。</p><p>十、長崎に出でて、夷国と商売取引すべし。</p>
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<pubDate>Sat, 26 Jan 2019 07:09:19 +0900</pubDate>
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<title>72歳で死んだ人々　政治家･官僚　後藤新平</title>
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<![CDATA[ <p>後藤新平（1857年7月24日・安政4年6月4日～1929年･昭和4年4月13日）</p><p>仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる、医師・官僚・政治家。</p><p>台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局（のちの日本放送協会）初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。その経綸の規模がすべて雄大なため「大風呂敷」といわれる。</p><p>愛知県医学校（現・名古屋大学医学部）で昇進し24歳で学校長兼病院長となる、1882年・明治15年、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助診察して「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。</p><p>学長に就任（在職：1919年･大正8年8月2日～1929年･昭和4年4月13日）。学内での様子は当時の記録として「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。</p><p>ボーイスカウト日本連盟（設立年1922年･大正11年4月13日）初総長就任</p><p>少年団が勢ぞろいして、</p><p>「僕らの好きな総長は</p><p>白いおひげに鼻めがね</p><p>団服つけて杖もって</p><p>いつも元気でニーコニコ」</p><p>と、「後藤団長弥栄の歌」を歌うと、彼の鼻眼鏡の下は必ず涙でひかっていた。</p><p>1903年･明治36年、貴族院勅選議員となり、終生在籍した。晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1926年・大正15年2月、第一回目の脳溢血の発作。1927年・昭和2年8月、第二回目の脳溢血の発作。12月から訪露旅行、帰国後、1929年･昭和4年4日、遊説で岡山に向かう途中、醒ケ井駅付近を走行中の列車内で第三回目の脳溢血は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。</p>
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<pubDate>Mon, 21 Jan 2019 04:21:21 +0900</pubDate>
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<title>阪神・淡路大震災</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: large;">阪神・淡路大震災は、1995年1月17日5時46分52秒に発生した。</span></p><p><span style="font-size: large;">この時、私は起きてテレビを見ていた。グラッときて「地震かな」思ったら、テレビの画面が変わり、かすかに炎が上がる暗い阪神の町が写された。炎は広がるのに使者3名の画面が長く続いた。</span></p><p><span style="font-size: large;">あれから24年の歳月が過ぎた。</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/h4731278/entry-12946805458.html</link>
<pubDate>Thu, 17 Jan 2019 21:17:48 +0900</pubDate>
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