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<title>牛久教会のブログ</title>
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<description>牛久教会のブログです。礼拝メッセージなどを、あげていきます</description>
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<title>「大きなかぶならぬ大きな岩」の話</title>
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<![CDATA[ <p>「大きなかぶならぬ大きな岩」</p><p>&nbsp;</p><p>４月８日水曜日のおやつの時間。私が他のリーダーと話して持ちかけたこともあり、「畑の候補地に出てきて発掘中のあの岩、よく来るオリーブ保育園のちいさいこが転んではまって頭打ったらあぶないから埋め戻さない？」とリーダーがお話してくれました。すると、しばらく飽きたのかあの岩は、ほったらかしだったにも関わらず、えー！という男子たちの声。せっかくここまで掘ってきたのに、ということでした。</p><p>そのときわたしは、「そっかー、みんながあの岩にそんなに思いがあったこと知らなかったよ」と言いました。</p><p>その時、リーダーは、「自分もあの岩がんばって掘ってたからみんなの気持ちもわかる、では明日みんなでほってみて、掘り出せなかったら諦めて埋め戻そう」ということになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>以下の（　）はリーダーさんや、子どもたちからの聞き書き。</p><p>（次の日の木曜日。発掘作業が再開されました。</p><p>やっぱりだめだあー埋め戻そうかという子たちの声も。</p><p>めっちゃ重い大きな岩なのです。大きなかぶどころではないのです。</p><p>けれどもリーダーがロープをつけました。</p><p>そして大きなかぶの話のようにみんなで引っ張りました。</p><p>せーの、せーの、で、声を合わせ。</p><p>ふだん注意されがちな子も一緒に力を合わせて。</p><p>すると！！岩が動きはじめ、掘り出せたのです。</p><p>途中から加わり、手伝った子どもたちもいました。）</p><p>とのことでした。</p><p>&nbsp;</p><p>木曜日、地区の会議の後、夕方戻ってきて畑をみたら、綺麗に平らになっていたので、一瞬、あー、やっぱり埋め戻したのかあと思いました。</p><p>が。「お芋、どこに植えようか？」とおやつの時間に聞きに行くと、「あの岩掘り出せたんだよ！」という声が。</p><p>めっちゃ驚きました。みると、ほんまに大きな岩がありました。です。</p><p>これはすごい！！と大きな声で言いました。</p><p>めっちゃ驚いた～無理だと思ってたんだよ、と言いました。</p><p>すると、いつも注意されがちな子も、誇らしげな、とてもうれしそうな顔をしていました。</p><p>ある女の子も、わたしも引っ張ったんだよ！と言ってきました。</p><p>&nbsp;</p><p>リーダーさんたちは、迎えに来た保護者に、</p><p>今日はこのこもよく協力して</p><p>大きなことを成し遂げました、と</p><p>お伝えしていました。</p><p>&nbsp;</p><p>この岩は、4月にみんなで協力して成し遂げることができた初めてのこと、その象徴となりました。</p><p>金曜日にはこの写真が張り出され（顔出しOKだそうです）ました。子どもたちは、YMCAのカレンダーの表紙にしてほしい！と言っていたそうです^_^</p><p><img alt="" referrerpolicy="origin-when-cross-origin" src="https://scontent.fhnd6-1.fna.fbcdn.net/v/t39.30808-6/670289465_2770379443347841_2912518104802422386_n.jpg?stp=cp6_dst-jpg_p552x414_tt6&amp;_nc_cat=103&amp;ccb=1-7&amp;_nc_sid=13d280&amp;_nc_ohc=stes1FnPp-kQ7kNvwGkeq_6&amp;_nc_oc=AdoxCiGbEF6tuqPhIvlzWoHVgQlDIDeeMBzbgoXDUxZVaYv79AZcxQpXmyjRSiMvSwfAu6xPbK2BH8jkORGm8LDR&amp;_nc_zt=23&amp;_nc_ht=scontent.fhnd6-1.fna&amp;_nc_gid=72kdL74kMHyzNglEaAokEg&amp;_nc_ss=7a3a8&amp;oh=00_Af2momwq2JuZ0hSIFFLx3kOS8wyLggeBjYEBOvGp0P2dRw&amp;oe=69E2A9B1"></p><p>&nbsp;</p><p><img alt="" referrerpolicy="origin-when-cross-origin" src="https://scontent.fhnd6-1.fna.fbcdn.net/v/t39.30808-6/671541080_2770379413347844_4479860492794436238_n.jpg?stp=cp6_dst-jpg_s590x590_tt6&amp;_nc_cat=111&amp;ccb=1-7&amp;_nc_sid=13d280&amp;_nc_ohc=JZUx79K6LtsQ7kNvwEHEmZX&amp;_nc_oc=Adraq1sT3Nv032Gq3CuikP1HiGqEfwjBKaCr_rILQxvHGscYKKHQyqxgT2LBw__WW8i3hs6rJKH9HVAAaPjrG36A&amp;_nc_zt=23&amp;_nc_ht=scontent.fhnd6-1.fna&amp;_nc_gid=72kdL74kMHyzNglEaAokEg&amp;_nc_ss=7a3a8&amp;oh=00_Af1NhApymptYWohi2CuK-cYODjQJPTSDHjC_jfi3KXG5Hg&amp;oe=69E2C373"></p><p><img alt="" referrerpolicy="origin-when-cross-origin" src="https://scontent.fhnd6-1.fna.fbcdn.net/v/t39.30808-6/668270549_2770379500014502_1898482814844583172_n.jpg?stp=cp6_dst-jpg_s590x590_tt6&amp;_nc_cat=104&amp;ccb=1-7&amp;_nc_sid=13d280&amp;_nc_ohc=PSBaph0N1hEQ7kNvwGAp1Pk&amp;_nc_oc=Ado5rvaiian4E_FZP63AfUZ3YcNNVnJHkx4IUrdsbFdsQ_1zUEILk6xks8-Ee7OHZ3QakuyOsd0MYbF4fGBd9y5o&amp;_nc_zt=23&amp;_nc_ht=scontent.fhnd6-1.fna&amp;_nc_gid=72kdL74kMHyzNglEaAokEg&amp;_nc_ss=7a3a8&amp;oh=00_Af0P__JUqxAtiqwYAklC0WdSBo-vUzP569283HHV6DGXyw&amp;oe=69E2A29C"></p><p><img alt="" referrerpolicy="origin-when-cross-origin" src="https://scontent.fhnd6-1.fna.fbcdn.net/v/t39.30808-6/667381111_2770389053346880_3573353465748426449_n.jpg?stp=cp6_dst-jpg_s590x590_tt6&amp;_nc_cat=100&amp;ccb=1-7&amp;_nc_sid=13d280&amp;_nc_ohc=iqvPhVmsHFsQ7kNvwGuduK2&amp;_nc_oc=AdpLuBDHGvpum5YYgZAOLJN1KtUtjTh6-fG9914yvk26G_Xisc6tMPJ5q2ZFVPbQDAahPsaat2goS2fG-hQQymdw&amp;_nc_zt=23&amp;_nc_ht=scontent.fhnd6-1.fna&amp;_nc_gid=72kdL74kMHyzNglEaAokEg&amp;_nc_ss=7a3a8&amp;oh=00_Af34Egj3RxBZW5qZi3g9fzk488DENlmlOcnyicGBvFDw0w&amp;oe=69E2C1F3"></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/haduki-sy222/entry-12962918283.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Apr 2026 21:40:22 +0900</pubDate>
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<title>20260412　牛久教会主日礼拝　「ありがたいこと」池田季美枝牧師</title>
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<![CDATA[ <p>２０２６０４１２</p><p>ヨハネによる福音書２０章１９～３１節</p><p>説教「ありがたいこと」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>おはようございます。先の日曜日の復活日には、多くの方々と共に礼拝・賛美のひとときを持つことができて感謝でした。主が復活なさり、弟子たちの生が１８０度変わって彼らが力強く世界に向けて宣教し、それゆえに遠く東の地に住むわたしたちにまでイエスの福音、救いが告げ知らされていることの不思議を思います。復活節の輝きの中にある今日、また神に招かれて親愛なる皆様と共に礼拝をささげられますことを感謝いたします。</p><p>&nbsp;</p><p>一昨年は召された会員の方が少なくなく、長くお姉さまのようにあるいは妹のようにあるいはお兄様のようにあるいは弟のように、家族のように親しくされていた皆様にとっても寂しいことだったでしょう。本日の聖書の箇所の最初にも、愛する師匠イエスの死後、悲しみの中で、不安定な心の状態でいた弟子たちの姿が描かれています。ヨハネによる福音書２０章１９節にはかれらは「ユダヤ人を恐れて、自分達のいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。ユダヤ人というのは、もともとはイエスの直接の弟子たちにとっては同じ民族、同胞のはずでありました。もともとは同じ民族、同じ宗教のユダヤ人たち、そのユダヤ人たちから近親憎悪のように殺されることを恐れていたというのです。しかもこれまで心の支えであった師匠を失ったショックや悲しみ、あるいは心から愛していたはずの師匠を見捨てて逃げてしまったという罪悪感の中で、ビクビクしている弟子たちの様子が描かれています。</p><p>恐怖、悲しみ、罪悪感、この時の弟子たちの気持ちはいずれにせよマイナスエネルギーに満ちたものであったのでしょうが、その暗黒の、悪霊のようなものの支配の中にかたくなにみずからを閉じ込めているような弟子たち。そんな弟子たちに、イエスは顕現、顕現とは「あきらかに現れ示すこと」という意味ですが、弟子たちの真ん中に、あきらかに現れたのでした。</p><p>イエスはしかも、あたかもマイナスエネルギーにとらわれていた彼らの心の中にすうっと入ってくるように、鍵をかけていたはずなのに、すうっと「真ん中に立ち」宣言をされたのだ、と聖書は伝えています。そしてそれは「シャローム」という言葉ではなかったか、と伝えられています。シャロームは、当時挨拶のようにも使われていた言葉であるようです。平然と、「おはようございます」「こんにちは」と言った、そのようにとらえることができます。</p><p>&nbsp;</p><p>シャロームには平安、平和という意味がありますが、ヘブライ語で平和（平安）とは、神が共におられる時のことであり、その時が平安（平和）であると考えられていました。神の臨在、神がそばにいることに触れている、こんなに安心・平和なことはないというのがシャロームという宗教的背景があり、かつ挨拶の言葉です。こう考えると、イエスを見捨てて見殺しにした罪や、同胞にとらえられる恐怖におののいている弟子達に、イエスがそれでもなお、「神が共にいてくださるよ」と宣言しておられることになります。裁く神ではなく、赦す神として神は弟子達と共にいてくださっています。</p><p>&nbsp;</p><p>児童クラブの子どもさんの妹さんや弟さんで、保護者の方と一緒にお迎えにきたときに、「にいにいを迎えにきました！」と大声で叫んで迎えに来てくれる子がいます。また、オリーブ保育園の子どもたちが時々遠足のようによちよちあるいて園庭に遊びにきます。２歳の子が多いのですが、彼女たち彼らも元気よく「おじゃましまーす！」とわたしがその場にいてもいなくても、門をあけるときに叫んで入ってきてくれます。純粋な、ま心が伝わる挨拶は人の心を和ませます。こどもたちの元気な挨拶の声をきくと、そのときたとえいろいろなことにとらわれていたとしても、ハッとしてさわやかな気持ちになります。</p><p>&nbsp;</p><p>他教会の役員さんで、手紙の冒頭に必ず「シャローム！」と書かれる方がいらっしゃいました。そのときそのひとがどのような状況であろうとも、「シャローム」それは挨拶でもあり、平安の神が共にいてくださいますようにという祈りでもあります。イエスも、「シャローム」とあいさつしてあらわれました。そしてその意味は、「平安がありますように」でした。イエスは弟子たちの前にあらわれ、まず、シャロームと平安祝福を祈り、そして十字架上で傷ついた手とわき腹をお見せになりました。傷ついた手とわき腹をみて、弟子たちは主だとわかり喜んだとありますが、その痛々しい傷は、イエスのまさに、「傷つくほどの愛」「信頼が深いからこそ深い傷」を示すものです。</p><p>これは「ありがたい」（有り難い）ことです。思いがけない神の「赦し」に触れ、喜びにあふれる弟子たちに対して、イエスは重ねておっしゃいます。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そのようにおっしゃって、イエスは、復活の喜び、ゆるしの喜び、それだけにたちどまることなくその福音を告げ知らせるように弟子達を「派遣」します。そして同時に、弟子たちに息を吹きかけて聖霊を受けなさい、といわれます。この個所がヨハネ福音書におけるペンテコステ、聖霊降臨と言われるゆえんです。</p><p>そんな聖霊降臨の出来事が今日の聖書の前半ではなされていましたが、今日の聖書の後半では、「見なければ決して信じない」と言った人がでてきます。疑い深い、しかしある面非常に慎重で賢く現実的な人ともいえる弟子、トマスです。そのトマスにもイエスはあらわれて、やはり彼の真ん中、心の真ん中に立ち「あなたに平和があるように」と言われたのでした。</p><p>疑うこと、それはこの詐欺師じみた人が多い世の中では必要なこともあります。電話やメールは本当にそんな類のものが多くて、銀行からの連絡だとか、あなたのカードがとめられましたとか、それが本当であったとしても区別が困難なくらいにひどい世の中です。宗教も一瞬で何千万円も巻き上げようとするもの、高価なツボを買わせるようなものもございます。ですから、疑うことも時には必要です。スーパーに行ったとき、果たしてこれが適正な値段なのか、高すぎても、安すぎても考え込むようなことも皆さんにはおありのことでしょう。そのように、わたしたちがものを購入するときにそれが果たしてほんものかどうかよく吟味してから購入することのほうが現実的に賢いとされるように、疑うこと自体は決して悪いことではありません。</p><p>トマスは非常に現実的なひとでありまして、さらに、兄弟のように親しかったであろう他の弟子たちのいうことも聞き入れることをしない人でした。すなわち、自分が信頼している人の言うことでも、自分自身が納得しないと聞き入れない部分があった、ということなのでしょう。多くの場合は、自分が信頼している友人の言うことであれば聞く耳の一つは持つのではないでしょうか。トマスには自立心と同時に、強い頑なさがみられます。しかしそんなトマスにもイエスは近づいて、「平安あれ」「シャローム」と言われたのでした。頑なであったからこそそれが解けたときのトマスの悔い改めと喜びの心は強くなります。トマスは素直に自分の非を認めます。「わたしの主、わたしの神よ」というトマスの言葉からは驚きと戸惑いと感激のほどが伝わります。</p><p>&nbsp;</p><p>人にはいろいろな背景があります。これまで培ってきた経験などからのプライドもあったりします。しかしどんなにさまざまな過ち多き者にもイエスはその人の前に顕現、本当の意味で現れ示して、その時に応じて罪の赦しの宣言を力強く、なしてくださり、聖霊を送り、われわれを日々新しくしてくださいます。</p><p>「ゆるし」ということについては、納得できない人もいるのではないでしょうか。なんでもゆるされてはならないと思う方もいるのではないでしょうか。確かに、暴力や手ひどいハラスメントなどはゆるしたら共同体はたいへんなことになります。最近は病院などにも、「暴力・迷惑行為・セクハラはNG」と書いて貼ってあります。お客様は神様などではなく、カスタマー・ハラスメントもNGだとコンビニなどにも掲示されています。そしてそれらの行動が過激な場合はしかるべき機関（警察などに通報します）と。その対応は、共同体内部のひとをまもるために、たいせつだと思います。それらの行動、たとえば暴力をゆるすことは、戦争をゆるすことにもつながります。ですから、わたしも同意します。ただ、基本的にキリスト教のゆるしとは、言動のゆるす、ゆるさないとは次元が違い、そのひと自体の存在のゆるし、なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>三浦綾子氏が書いた作品に「羊が丘」というものがあります。酒にも女性にもお金にもだらしないなんだか表面的にはどうしようもなく見える良一という男が出てきます。そしてその男性の妻となる、最終的には彼のあまりにひどい放蕩に彼をどうしてもゆるせなくなる牧師家庭に育った妻奈緒実という女性が主人公です。お金にも女性にもだらしなく、何を言っても何をやっても死ぬまで変わらないように見えた夫が、自分の父母や自分とのつきあいを通して、徐々に、徐々に、じっくりと実は変わってきていたということを、奈緒実は彼の死後にやっと知ることになり、気が付いて深く悔い改めるという話です。ですから実はこの「ひつじが丘」という物語は、どうしようもない男良一の悔い改めではなく、自分を正しい人間、清い人間におきがちであった奈緒実、自分を正しい人間、清い人間におきがちなプロテスタントのキリスト者の深い悔い改めの物語となっています。</p><p>この作品は、昔キリスト教主義学校で私が国語教師をしていた時、その学校は受験のない学校だったので教科書を少しはなれて取り扱わせてもらった作品の一つでありましたが、高校生たちは他の「氷点」や「道ありき」「塩狩峠」などを自ら読んでくれるほどに関心を示してくれました。ひとことでいえば、「羊が丘」は、「愛とは、ゆるすこと」ということがテーマなのです。ですが、実はその作品を教科書にしようと思ったとき、少し、迷いがありました。というのは、私は２０代の頃は今よりもっと頭が固くガチガチでマジメでありまして、先生にかまってほしいかのように騒ぐ幼い男子生徒たちの怠惰な態度や遅刻に非常に厳しかったこともある教員だったのです。こわかったんです、わたし。あ、今もこわいかも笑。たとえば、朝ＨＲが終わり、一時間目の授業が始まり、もう始業時間から１０分以上遅れていても遅刻して平気な顔で入ってくる生徒がゾロゾロいるクラスがありました。そんなとき私は、ポケットに手をつっこんでガラガラドアを開けて入ってくる男子生徒に、かなり乱暴なことば、（ふざけんじゃねえ、など）ちょっとここでははばかられるような言葉を用いて罵倒するようなこともあった教師だったのです。よく今も誤解されますがわたしは冷静でおだやかなタイプではありません。生徒の授業の感想にはいつも熱血教師、でありました。体育の教師ともよく間違えられていました。話は戻りますけれども、要するに、ですから時には他人にビシバシものをいうことが多かった私、その私が「愛とはゆるすこと」などということがテーマのキリスト教の本を扱って果たして説得力があるんやろかというか、大丈夫なのかなあ、ということが最初取り上げる時の不安でありました。</p><p>しかしそれは全くの杞憂に終わりました。高校生たちは作品をとおして、ゆるすということが、不誠実な態度をゆるすとか、遅刻をゆるすとかゆるさないとか、そんなちっぽけなことではないことを理解してくれました。神の赦しとはそんな次元をこえたものです。仕方がないから、このひとは病気なんだからこういう状況なんだからこんな家庭環境なんだから許してあげる、といったどこか上から目線にもなりがちな「許し」「許容」人間の「寛容」のようなことと、神の赦しは異なります。</p><p>聖書の話に戻りますが弟子たちは単なる寛容とか、許容、受け入れを超えた、神の大いなる「赦し」に触れ、変わっていきます。自分の存在が大いなるものに、しっかりと支えられているという確信があってはじめてひとは良い行動に促されます。そんな大いなる「ゆるし」にふれ、はじめて、弟子たちは変わっていくのです。そしてその後かれらがイエスにゆだねられた行動とは、その神の愛、神の根源的な赦しを現わすイエスを宣べ伝える、宣教であります。良い知らせを伝えることです、悪い知らせではなく。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスはトマスに、信じない者ではなく、信じる者になりなさい、と促しています。</p><p>そして、「見ないのに信じる者は幸いである」と伝えています。これは、我々に投げかけられている言葉でもあります。トマスの物語は、結果的に見ずして信じる人への大いなる祝福のことばとなっています。トマスの物語の真意は、実は疑うことに対するダメ出しではなく、見ずして信じる人々の祝福、ここにあります。</p><p>&nbsp;</p><p>いつも共に在し「平安あれ」と言ってくださる主、目に見えない聖霊、目に見えない神からの大きな愛、赦し、それをさまざまな形で、さまざまな方法で、それぞれの現場で「赦された者」「解放されたもの」「自由を得たもの」の責任として証ししていくことが、伝えていくことができればと思います。神からの平安・平安を受けて、ここから遣わされていきましょう。<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260414/07/haduki-sy222/22/1c/p/o0871044115771244826.png"><img alt="" height="213" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260414/07/haduki-sy222/22/1c/p/o0871044115771244826.png" width="420"></a></p>
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<pubDate>Mon, 13 Apr 2026 21:28:55 +0900</pubDate>
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<title>20260405 「喜びの知らせ」池田季美枝牧師</title>
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<![CDATA[ <p>２０２６０４０５「喜びの知らせ」</p><p>今日も教会に集う皆さんと共に礼拝できますことを神さまに感謝いたします。</p><p>&nbsp;</p><p>復活日礼拝を共にできますこと感謝です。教会では最もたいせつにしてきました祝日です。本日のために心を尽くしてさまざまなご奉仕をしてくださっている方々がいらっしゃいます。それぞれお身体が痛かったり体調が悪かったりご家族が体調が悪かったりする方もいらっしゃいますのに、あたまがさがります。主のねぎらいと癒しと祝福を願っています。まず感謝のお気持ちをお伝えします。</p><p>&nbsp;</p><p>この春は、年度のはじめの日曜日が復活日礼拝です。今年度赴任される先生方や教会の方々を思いました。当教会ではうれしいことにまた１人会員が増えましたが、児童クラブではこの春、９人も子どもたちが増えました。小学１年生だけでなく、学校の児童クラブに入りきれず高学年で入ってきた子たちもいます。これまで心を尽くしてがんばってこられたリーダーさんたちのお力が大きいと思っています。先日行われた子どもイースターの日も、子どもたちはとっても静かにお話を聞いてくれていました。反応も楽しく、昨年やおととしの話をおぼえてくれていた子もいて、みんなで答えを導いていくことができて楽しいものでした。子どもイースターの日としましたから、児童クラブ以外の子どもが数人でも来てくれたらうれしいなと思っていました。すると来てくれた子どもたちや保護者がいらっしゃいました。外国人のお友達で、日本に来たばかりです。お母さまが子どもたちと日本の子どもたちの交流を喜んでくださっていて感謝でした。カトリック教会に行ったことがある、と上のお兄ちゃんは言っていました。けれどもエッグハントは初めてだったと。教会のイベントということで安心感をもってきてくださった様子であることも感謝でした。またここで再会できればうれしく思います。児童クラブ以外のお声をかけた子どもたちを含む子どもたち、そしてリーダーや教会の人たちと合わせると３０名以上で歌をうたい、お話を聞き、祈り、その後エッグハントとなりました。児童クラブの保護者の中にはこどものいえ幼稚園出身者の方々もおられます。この春は教会員のお孫さんもスプリングスクールから入ってくださっていて、やはりお母さまは教会学校やこどものいえ幼稚園の卒園生です。そんなつながりもうれしいことです。それらの方々は古くなった施設をなつかしいと言ってくださるのです。ですがおことばに甘えず補修すべきところは子どもたちに危険がないように補修が必要です。すべて神の定めた良きようにはこぶよう、お祈りください。</p><p>&nbsp;</p><p>皆さんが、新年度のリーダーさんやきっとまだ少し不安がある子どもたちのためにお祈りを合わせていただけると心強く思います。といいますのは、クリスマスくらいはともかく、イースターのおはなしをするよと言って、普通の無宗教の児童クラブがそれに応じてくださるかというと、むずかしいときもあるのではないか、と思うからなのです。教会がとなりにあって、日々お祈りをし、また、イースターやクリスマスには礼拝堂に入る子どもたちに、神様のあたたかな愛が自然と伝わるよう願っています。</p><p>こどものいえ幼稚園でおはたらきの方はよくおわかりであるように、これから１年生になる子たちはまだ身体も小さく、幼稚園生のなごりがあり、かわいいです。あ、身体も小さくといいましたが、年度によっては、あなた、４年生？５年生？くらいに間違えるような小学１年生もいました。ですが体の大きい1年生はしっかりした体の小さな１年生よりあどけないぼーっとしたところがある子もいて、どんな風に見えても、やっぱりおなじ１年生なんですよね。大人も一年生、はじめて、の時があります。その職場は初めて、その土地ははじめて、の時ですね。わたしも４年前はある意味そうでした。。牧師になってからは１５年以上たって、今は２０年目になりますけれども、まったく知らない土地にやってきたことに関しては、不安の中にありました。そんなときです。児童クラブのほうへ用事で行きましたら、ある同じ１年生の子がわたしにべたーっとくっついてきました。「なあに？」というと、手をつないで、手をひいて、わたしをえほんが並べてある図書室につれていきました。えほんがすきなの？というと、うなずきます。それで、えほんを読んでほしいということなのかなあと思ったんですね。そしたら、その子はわたしに、好きな絵本を逆に読み聞かせてくれました笑。本というのは、人によっては中学生になっても、なかなかすらすらとは読めません。まだ１年生なのに、ひとにえほんをよみきかせられるなんてほんとにすごいと思いました。その気持ちと、感謝を伝えました。そして、それはなんだかとても癒され、自然と謙遜な気持ちにさせられた出来事でした。</p><p>&nbsp;</p><p>今年度は、リーダーが異動になったりやめたり新しく来たりして、体制が大きく変わりました。どこの学校でも見られる光景ですが、年度のはじめの先生方やリーダーさんたちは膨大な事務作業のみならず、泣いたり笑ったり叫んだりする子どもたちに追われてとてもたいへんそうです。ですがやっぱり新１年生たちが可愛くて癒されるとおっしゃっていました。子どもたちをみていて、大人が気が付かないありやはち、幼虫、きのこをみつけてくることに驚くことがあります。動物に、植物、小さな子、そしてそれが大きな人であっても人の小さなやさしさが癒しとなることは人にはあるかと思います。もう召されてしまったある方が、「日常の中にある、小さな幸せを積み重ねていくといいわよ」とおっしゃっていたことを思います。「１日にひとつ、誰かの笑顔がうれしかったとか、小さな幸せをあたためて１日を送る」と言っていた友人の言葉も思い起こします。「どんなときにも感謝」という聖書のことばも、もちろんそうです。（<b>テサロニケの信徒への手紙一5:16-18）</b>例えば、わたしなどは気恥ずかしくてなかなかできないこともあるのですが、とてもおいしかったとき、「ごちそうさま」のみならず、「おいしかったです」と必ず店員さんに言う方がいます。それはそのお店の人にはとても励まし、「小さな幸せ」になることなのではないでしょうか。クリスマスイブに子どもたちがわざわざ厨房にきて、「おいしかったです！」と叫んでいたとき、それを聞いていただけの人々もうれしいきもちになりました。イエスはちいさな子をたいせつにされました。そしてわたしたちの中にある小さな子もたいせつにしてくださいます（マルコ９：３６～３７）。子どもたちにも、いくつになっても神からみれば子どもであるわたしたちにも、よく教会にきたね、と神は言ってくださっていることでしょう。</p><p>そんな神の子イエスの復活を知らせる聖書のことばに今日は聞いてまいりましょう。</p><p>　今日のマルコの復活を伝える記事は、女性たちはお墓を出て逃げていきました。とても怖くて震えて、正気を失っていました。そして、そのことを誰にも言いませんでした。こわかったからです。で終わっています。そこで正式な文章は終わっていて、独特の余韻を残す書き方をしているのがマルコによる福音書です。</p><p>&nbsp;</p><p align="left">単純に考えて、もし彼女たちが実際に誰にも何も言わなければ、復活したイエスと弟子たちとのガリラヤでの出会いは起こらないことになりますので、実際には彼女たちはのちに落ち着いて考えたあと、主の御使いの通りにしよう、と決意し、復活を宣べ伝えたと考えてよいでしょう。ただこの聖書を書いた人はここで、「復活」ということがこの女性の弟子たちに、にわかにはとても信じられないほど、人間の理解を超えた出来事だと言いたいのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスは息をひきとったあと急いで埋葬され、おそらくは犯罪者という立場ゆえに埋葬の儀式に制限が課されていました。そのため、3人の勇敢な女性たちが日曜日の早朝、墓へと向かい、埋葬の儀式を完遂し、墓の前で静かに涙を流そうと決意した、ということで復活物語ははじまっています。女性たちの関心はまず、お墓の前のあの重い石、あれを誰がどけてくれるのだろうかということでした。それを心配していました。といいますのは皮肉なことに、イエスの男性の弟子たちの中には、この手助けをしてくれる者が一人もいなかったからなのです。しかし、その疑問はすぐに無意味なものとなりました。彼女たちが墓に到着すると、石はすでに転がされていたからです。墓の中に入ると、一人の若い人がいました。福音書記者マルコは彼を「天使」とは呼んでいませんけれども、その描写の在り方から主の御使いと解釈できるように描いています。</p><p>&nbsp;</p><p>主の御使いは、驚愕する女性たちに、ナザレのイエスが復活し、墓にはおられないと告げます。そしてそのひとは、イエスの遺体が安置されていたまさにその場所を見よと命じます。するとイエスは確かにいなくなっていました。彼女たちは弟子たち、とりわけペテロのもとへ行き、イエスがガリラヤで彼らより先に行くこと、そしてそこでイエスに会えることを伝えるよう告げられます。</p><p>実はここには皮肉な要素が込められています。男性の弟子たちは逃げ出し、おそらく死んだ先生であるイエスを置き去りにして、それぞれの故郷に、帰路についたところでしょう。しかし、イエスは彼らより先にガリラヤに到着し、「ガリラヤで」彼らの「先を行く」というのです。これは、復活したイエスが、神の国の宣教活動を続ける中で、引き続き弟子たちを導いていくことをあらわしています。イエスは先だってガリラヤに行かれていることが告げられます。</p><p>&nbsp;</p><p>　マルコの福音書は、女性たちがあまりの驚きに恐れおののき、言葉を失ったという記述で唐突に終わっています。おそらく、物語はその後も続き、女性たちは与えられた使命を果たし、イエスは約束どおり弟子たちの前に姿を現したのでしょう。マルコの福音書は劇的な結末で幕を閉じ、<u>イエスの畏るべき力を改めて強調しています。イエスは、宣教活動中だけでなく、その死と復活においても人々を驚嘆させた</u>のだ、と。福音書の冒頭で、イエスは「神の子」と明示されており（1:1）、その身分は１章１１節では天からの声によって確認されます（1:11）。そして福音書の後半では、イエスの処刑を監督し、おそらくイエスを嘲笑したことさえあったであろうローマの百人隊長の変化が描かれます。彼は、十字架にかけられた者がまさに「神の子」であることを１５章３９節ではっきりと告白しています（15:39）。この告白は、復活、空の墓の発見、そして女性たちが遭遇した若者によって裏付けられました。イエスは、父から与えられた杯を飲み干しました。「多くの人の身代金、身代わりとなって自分の命を捧げる」（10:45）ことが成し遂げられました。しかし、確信を持って予告・予言されていた通り、イエスは死からよみがえり、弟子たちの先頭に立ち、これからも、いまも、引き続き指導を続けてくださるのです。そして、宣教の初期に選ばれ、任命された弟子たちの使命は、今や新たな活力とビジョンをもって継続されることになります。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスが十字架にかかったとき逃げてしまい、あるいはおろおろするばかりだった弟子たち。ルカによる福音書では「ゆるしのイエス」が強調されます（ルカ２４：３６）。しかし、マルコによる福音書によれば、１６：１４に弟子たちの「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。それは、復活をかれらが信じなかったためであり、自分を見捨てて逃げたからではありませんでした。ここでイエスはかれらが女性の弟子が告げた復活を、たとえば女のたわごとのように、まったく信じなかったこと、そして他の二人の弟子がイエスを見たと言ってもまったく信じなかったことをとがめています。イエスが彼らをとがめた理由を、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったから」とはっきりマルコは記しています。</p><p>心のかたくなさ、が指摘されています。ですが、復活のイエスに出会った弟子たちはその心のかたくなさと不信仰を素直に反省し、心を神に向けなおし、まさに回心し、その後力強く伝道する者へと変えられていきました。ここに、弟子たちの新たな出発、復活が見られます。リアルな人の復活、再生が見られます。</p><p>&nbsp;</p><p>復活とはそんな風に、神さまのみ力を感じた時に、変わる、変えられることです。自然と変えられる力がはたらくと言ってもいいでしょう。かたくなで頑固な人間にはなかなか難しいかもしれませんが、神さまのみ言葉を聞くことによって少しずつでも変わっていこう、神さまの力によって自分だって神の定めたよきように変れると信じ歩むときに変化が起こります。</p><p>その昔、観光バスでも働いたことがある運転のプロがおりまして、わたしに大切なことを教えてくれました。運転に慣れないうちはやたらとブレーキを踏みすぎたり、目の前のことばっかりみてしまう。しかし、遠くを見ることがたいせつだ、と。身の回りのことに気を付けるのはもちろんだけれども、遠くを見ながら、行きたい方向を見ながら運転すると、運転はスムーズになる。いろんなことを予測しながらすすめるようになるとおっしゃったのでした。われわれも、日々の人へのやさしさなどを大切にしつつ、同時に、こんな自分でも、いつか神の定めたよきように変れるのだと信じ続けることで、かわってくるのだと思います。実際、教会には驚くべき変化を遂げる方々が大勢いらっしゃいます。</p><p>&nbsp;</p><p>（本日は転入会式のあと、聖餐式という、この教会では洗礼を受けた人しかあずかれないパンとぶどうジュースの儀式があります。その人が信仰深い人かどうかなんて、誰にもわからない、神さましかわからないことですから、私たちは「洗礼」という神さまと人の前で神様への信仰を告白し、水を注がれた人をクリスチャンと呼び、教会員として、一応教会員でない人との線引きをしていますが、そこにあんまりこだわりすぎるのもおかしなことです。クリスチャンだって、なかなか変わっていけないこともあります。逆にクリスチャンでない人にも、大勢イエスさまの教えに近いようなことをした人、例えば非暴力主義を説いた素晴らしい人たちがいます。</p><p>ですから、キリスト教会では一応の線引きとして洗礼を大切にしてきたけれども、洗礼を受けたからすぐに神が定めた良きようにだれでも変われるものでもありません。しかし、いつか自分も良きように変化していける、もっと人生がよくなっていくとだまされたと思って信じてみることがはじまりではないでしょうか。</p><p>洗礼を受けたらすぐに変われるとか、人間はそんな単純なものではないということ、洗礼という事実があることでどこかしらお高くとまったキリスト者をうみだしてしまったり、洗礼という儀式が逆に垣根をつくってしまうこともあります。けれども洗礼は、洗礼を受けたんだから教会にはいかなきゃかな、洗礼を受けたんだから私もあのお弟子さんたちのように変われるかな、と思うきっかけにはなると思います。）</p><p>実際のところ、教会に来るようになって、洗礼をお受けになって教会生活を送っているうちに、良い方向で変わっていく人たちがいます。教会に来た頃、つらそうな表情をしていた方が、だんだん明るくなっていくということを、私は幾度もまのあたりにしてきました。何か美しくなったというか、輝いていく人々がいます。おだやかになっていく人々がいます。何より実際、若返っていく人たちがいます。９０前後でも魂の若々しい方々がおられる牛久教会はその証です。本当に不思議なことに、キリスト者には元気で長生きな方も少なくないですし、神のみちびきとしか思えないといいますか、本当にそういうことがあるのです。人間は信仰により変われるのだということ、神がさだめたその人に良いように変わっていけるのだということ、そういうことすべてが、まさに復活そのものです。</p><p>&nbsp;</p><p>昨日はたいへんおいそがしいなか、多くの方々がお集まりくださり、本日の準備やイースターエッグの準備がなされました。感謝です。今日いただきますイースターエッグは復活、新しく生まれ変わること、その象徴です。</p><p>聖餐式の式文に「互いに励ましあいながら」キリスト者としての道をすすもう、という祈りがあります。この互い、はキリスト者だけなのでしょうか。いや、違うでしょう。教会に集うこどもたちから、柔軟な人たちから、冷静な人たちから、あたたかい人たちから、もの静かな人たちから、さまざまな性の方から、さまざまな年代の方から、その存在により自然な励ましを受けて、日々新しく生まれ変わって共に歩んでまいりましょう。</p>
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<pubDate>Sun, 05 Apr 2026 18:42:00 +0900</pubDate>
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<title>復活日（イースター）礼拝のお知らせ</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260330/07/haduki-sy222/ee/28/p/o0855066115765873487.png"><img alt="" height="325" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260330/07/haduki-sy222/ee/28/p/o0855066115765873487.png" width="420"></a></p>
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<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 07:46:16 +0900</pubDate>
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<title>20260322「キリストのいのちがけ」牛久教会主日礼拝　池田季美枝牧師</title>
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<![CDATA[ <p>２０２６０３２２「キリストのいのちがけ」</p><p>おはようございます。牛久教会に集うみなさんと礼拝をまもることができますことを感謝いたします。</p><p>&nbsp;</p><p>　休暇をいただき、ありがとうございました。ようやく、親友の墓前で手を合わせることができました。墓前には平日にも拘わらず古くからの友人が来てくれまして、お祈りして、と、キリスト教徒でない友人が言ってくれたこともありがたかったです。天の国で変わらぬ笑顔でいる友人を思うことができました。また、ようやく墓前で祈る、そんな気持ちを持たせてくださったことには、牛久教会の皆さんの常々のお支えを思います。感謝です。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、今日の聖書の場面はエルサレムへの旅の途中で、まず、マルコ福音書の3回目の受難予告がなされます。それが10章32-34節です。「受難の道を歩むイエスに従う」というテーマは10章17-31節から続いています。これまでの２回の受難予告同様、ここでもイエスの受難の道について無理解な弟子たちの姿が表われていますが、この弟子たちに向けて、イエスはご自分の受難と死の意味をもっともはっきりと語られます。仏の顔も三度までとか、三回目の正直とかいう言葉がございます。通常、三度も同じことをいえば、それがたいへん重要事項であることが伝わります。けれどもですね。何度言われてもひとはなかなか変われないこともあるのです。わたし自身も、親しい人からこうした方がいいと言われても、なかなか変えられないことがございます。弟子たちも、イエスにしてみれば真剣なまなざしで生死をかけておっしゃっていることであろうのに、その真剣さに気づけないでいます。イエスの生死をかけた十字架と復活の道のことば。そのことばに対して弟子たちは無邪気な反応やとんちんかんな反応をいつもしてしまっています。マルコ書ではそんな弟子たちの愚かさがそのまんま描かれています。</p><p>たとえば今日の箇所は、ほかの福音書では、こんなことを弟子たち自身が言ったとは書かれていません。彼らのお母さんたちが言ったと記します。そこには、その後キリスト教会で聖人としてあがめられてゆく彼らには似つかわしくない愚かなことばだという、聖書を記した司祭たちの判断がみられます。</p><p>&nbsp;</p><p>　ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ペトロと並んで弟子たちの中で一番イエスの近くにいた弟子です。その彼らが「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)とイエスに話しかけています。</p><p>なんとなく、この声掛けは変わっています。みなさん、こんな風に人に声をかけたこと、ございます？わたしはちょっと、思い当たりません。そしてこれが人ではなくて神さまの祈りのことばであるとすると、やはり不適切です。なんとなく、神にも人にも不適切な声のかけ方のように思います。</p><p>そうですね、小さな子が、お母さんやお父さんに、「ねえねえ、わたしのお願いごとかなえてもらえる？」と切り出すようなことにも、似ている気がするのです。そんな風に言われたらどうします？「おねがいごとって、おねがいごとによる」と大人側の人は思うのではないでしょうか。</p><p>そしてこの二人のお願い事というのは。イエスが「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というものでありました。イエス自身はですね。このときはもうすでに覚悟を決めているような時です。といいますか、イエスは洗礼者ヨハネがとらえられて活動をはじめました。イエスは最初から自分の暗雲を感じて活動しています。ですからイエスにしてみれば、「なにいってんねんそれどころやあらへんねん」という気持ちだったんじゃ、ないでしょうか笑。そうですね。お母さんお父さんがこれから死ぬくらいつらい道に旅出ようとしているときに、無邪気に周りの人が「ねえねえぼくのわたしのおねがいごと聞いてくれる？」と言ってきて、「あなたが偉くなったらぼくもその次にえらくしてね」「あなたがお金持ちになったらわたしもお金持ちにしてね」と言ってくる類のことです。何やらこの二人の願いは、いずれイエス先生は栄光をお受けになる、ということだけははっきりとは信じています。これまでの驚くべき奇跡を目の当たりにしてきてそう思っているのでしょう。そしてその栄光のときに、右腕、左腕となって先生をお助けする栄誉にあずかりたい、というものでありました。</p><p>これまでの聖書の解き明かしの中で、ペトロの考えていた救い主像、メシア像は「十字架のキリストではなく、キラキラした栄光輝く姿のメシア」であったと読んできました。今日のところでも、ゼベダイの子ヤコブとヨハネはやはりそのようなメシア像をイエスに重ねていたことがわかります。弟子たちのイエスに対するイメージは、マルコ書では総じてそのようなこの世の王的なものだったのです。驚くべき奇跡をなさるイエス先生が王となり、この世のさまざまな人々の病を癒し、力を持ち、生活に悩み苦しむ我々を世の非道な権力者たちから救ってくださるはずだという、そんな栄光のイエス像です。であるから、弟子たちはイエスが力なくとらえられてしまったとき、二重三重にショックを受け逃げました。自分たちの期待を裏切られたとすら感じたかもしれません。</p><p>裏切り者として知られるユダについての諸説の中でも、ユダはユダで、真っ先にイエスが自分たちのイメージしていた王とは異なる者であったことを気がついた、つまり裏切られたと思ったからこそ裏切りに走ったという説があるくらいです。ユダは会計係でした。たとえば太宰治の「駆け込み訴え」ではユダは誰よりもイエスを熱愛していた人物として描かれ、熱愛していたからこそ裏切られたと思った時の悲しみも深い、人間関係の複雑さを私たちに深く考えさせてくれます。人は、勝手に人を信頼しておきながら、その人が自分の信頼に応えない言動をすると、勝手に「裏切られた」と感じてしまいます。しかし、信頼と裏切り、人の愛と憎しみは表裏一対のところがあります。人間は弱く愚かだからです。イエスはすべてをわかっておられます。</p><p>ともあれ、このとき弟子たちはイエスのことを全然理解できていないのですが、そんな弟子たちにイエスは言います。「あなたがたは自分が何を願っているかわかっていない。このわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」けっこうはっきり言っています。「自分が何を願っているかわかっていない」という言い方は、「父よこの人たちをおゆるしください。自分が何をしているのか、わからないのです」という、十字架の前にイエスを苦しめたひとたちに対するイエスのことばを想起させるものです。</p><p>ヤコブとヨハネの願いは一見無邪気なものに見えますが、イエスは恐らくその根底にある、いわば氷山の一角、つまり名誉、権力、名声といった、あまりにも人間的な欲望を見抜いていたのでしょう。イエスは弟子たちを叱責はしませんでしたが、彼らに問いかけました。イエスが与えようとするものを望むなら、それを経験する覚悟はあるのか？イエスの傍らに座りたいなら、イエスの運命を共にする覚悟はあるのか？弟子たちはできると答えますが、できませんでした。かれらのかわりに、十字架でイエスの右と左にはりつけにされたひとは、弟子たちではなく、犯罪人として捕らえられた人でした。</p><p><br>　イエスのおっしゃる「わたしの飲む杯」の「杯(さかずき)」は普通、救いと喜びのシンボルです。しかし、日本語にも「苦杯をなめる」という表現があるように、苦しみのシンボルにもなります。ここではもちろん「苦しみの杯」の意味です。「洗礼」もわたしたちにとっては救いと喜びのシンボルですが、洗礼(ギリシア語の「バプティスマbaptisma」)の元の意味は「水に沈めること、浸すこと」ですから、死のイメージもあります。ここでは「死」のイメージで語られています。イエスは、自分と同じ苦しみと死を引き受けることができるか、と問いかけているのです。</p><p>　二人の弟子はどこまでこの言葉を理解していたのか分かりません。もしかして杯は喜びの杯と思っていた可能性もあります。イエスの杯と洗礼について、彼らは39節で「できます」と答えます。イエスの考えには全然追いついていけていませんが、とにもかくにもかれらはこのとき、イエスは力ある人だとおもってついてきていて、これからもついていこうと思っていたのでしょう。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」。ヨハネの最期は聖書に伝えられていませんが、ヤコブは後に殉教したと伝えられています(使徒言行録12･1-2)。最終的に確かにかれらは復活のイエスに出会ったあとに変えられいのちをかけて宣教するものとなりました。しかし、イエスは報いとしての地位をこの時点で、彼ら「だけ」に保障していません。ただ、「定められた人々」にゆるされる、とのみ伝えます。「定められた人々にゆるされる」というのは、「神がお決めになることだ」という意味で、それはあなたにもわたしにも関係ない、と、イエスは彼らに対して突き放した言い方をしています。<br>　実際、ヤコブとヨハネのことばに対して、他の10人は腹を立てます。彼らが腹を立てたのは、自分たちも同じようなことを考えているのに、ヤコブとヨハネが抜け駆けしようとしたからでしょう。そうでなければ腹を立てる必要はありません。かれらはかれらで、自分たちだって、イエス先生が大好きだから、イエスさまのお役に立てることであればという気持ちがあったことでしょう。そして、イエスが任命してお前たちを代表の二人に選ぶというならまだしも、ぬけがけするなよ、という気持ちが二人に対してあったことがうかがえます。</p><p>弟子たちは、仕事も捨てて、家も捨てて皆イエスにしたがってきた人たちです。ですからそれなりに、承認欲求も強いのです。「認めてほしい」「愛されたい」という気持ちを多くの人はいだきます。それが自分が大切なひと、大切と思われるようなはたらき、たいせつと思う仕事であればなおさらです。</p><p>ただ、イエスの弟子たちが非常に困難な状況の中で前進するためには、権威の地位を争うのではなく争いがちな者は仕えることを求め、一番になることを主張するのではなく最後になる覚悟を持たなければならなかったのでした。そうです、一番になるのではなく最後となる覚悟です。一番になりたい、それはこの世の論理であり、教会には関係ないのでしょうか？？否、教会にもそんなことはみられます。たとえば、あの人のような立派な信仰者にはなれないと思ってしまうとき、そこには自分と他者の信仰を比較してしまっている自分がいます。また、牧師さんの中にも、家族のためといいつつ、大きな教会に行きたいとか、教区長や教団議長に自らなりたいとか思うタイプの人はおりますよ。そうですね…わたしは１月に、修道院に研修に行きました。しかしその修道院は、司祭でない管理人が２４時間常駐していて廊下などはいつもピカピカでした。そして朝９時より前に修道院が開くことはありませんでした。すなわち２４時間管理人が常駐していても、だれにも彼にも２４時間対応するようなことは、管理人さんはなさらないのです。それはかれにも人権があるのですからたいせつな働き方のように思いました。そして、彼が祈りをもってなしているというお掃除により、ピカピカのその施設は、冷暖房完備でした。プライバシーも守られた居室がわたしたちには与えられ、研究にも専念できました。お風呂もたいへん立派でした。寒風吹きすさぶ牧師館にお住まいの女性牧師さんたちは、ここは、天国のようだとおっしゃっていました。プロテスタント教会は教会の大小、牧師の境遇にも落差がありすぎることが大きな問題です。屈強そうな男性の牧師さんたちが自分には家族がいるからと謝儀も高く、大きな教会の立派な牧師館に住み、小さな細い体の女性の牧師さんたちが小さな教会の寒風吹きすさぶお住まいにお暮しということがどこの教派でもみられます。それでよいのでしょうか。教団の教会の矛盾、独立採算制のプロテスタント教会の矛盾ということを私は常に思ってきました。私は現在は皆のご理解のもと近くに別の勉強に専念できる住まいを与えられ皆様に導きに感謝しています。しかし明らか牧会や研究にも支障が出る住まい、そんな環境にいると、もう少しマシな環境で良い説教が書けるように、勉強に専念できる環境の教会に行きたいと思うひとはどうしても出てきます。そして、いろんな長などの役職を経たりして、待遇の良い教会の牧師になりたい、それはプロテスタント教会間にはあまりに待遇に格差があるゆえに、どこかしらこの世の競争意識に牧師すら絡み取られてしまうのではないでしょうか。ですが、イエスは問いかけます。一番でなく最後になる覚悟、謙遜さや仕える態度がたいせつだとイエスは説きます。教団の教会も、聖書に即すなら、ほんとうは小さな教会こそ厳しい環境でも耐ええる体力と伝道力、小さな教会を大きくできる人が赴任するほうがいいです。しかし、そうはなっていないので、大きなところがますます大きくなり、小さなところがますます衰えがちという矛盾があります。格差をなくすためにいろんな工夫はとられるようになりました。千葉で長く大きな教会の牧師さんだった方が、お子さんの手が離れたときに、小さな教会にかわったという事例がございました。せめてこれからはそんな工夫がなされていくことを願っています。小さな教会ほど信徒さんが、生活に支障をきたすほどにたくさん献金されているという矛盾も、今後は共同牧会などいろんな工夫がなされて、そんな格差も解消されていくことも願っています。</p><p>　イエスはわれわれに伝えています。世の権力者は権力をふりかざすが、「あなたがたの間では」そうであってはならない、その反対でなければならない、と。４５節には新共同訳聖書では翻訳されていませんが、原文では「なぜならば」という意味のことばが入っています。「なぜならば」それはすべての人の王であるイエスが、すべての人に仕えるのだから。そして「なぜならば」それは多くの人の身代金として自分の命をささげるためだから、と続いています。　この45節は、<u>マルコ福音書の中でもっとも明確にイエスの使命と死の意味が語られている箇所</u>です。</p><p>著者マルコは、イエスの生を無視してイエスの死について語ることはありません。マルコにとって、イエスの十字架上の死はまさに、「奉仕」に生き尽くした彼の生の極点です。「いちばん上になりたい」承認欲求の強すぎる弟子たちにイエスは諭します、あなたたちはでは、イエスに倣いてイエスのように本当に「すべての人の僕として」謙虚にただ神の栄光のみを求め、すべての人に仕え、すべての人をゆるして生きることができるのか、そのように死ぬことができるのか、と。そのようなことは、まさに神のような人にしかできないことです。その意味がわかっている者には、ヤコブとヨハネのように簡単に「できます」（マルコ１０：３９）とは決していえないことでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　イエスが来たのは「仕えるため」「我々の身代金となるため」でした。これは生涯の最後の受難に向かう歩みだけでなく、これまでのイエスの歩み全体を貫く姿勢を表しています。「身代金」と訳された言葉はギリシア語で「リュトロンlytron」です。本来は奴隷を解放するために支払う代金のことを意味したので「身代金」と訳されています。本来的な意味をたいせつにするなら、神のことがぜんぜん理解できない人間、その愚かで弱い人間のために、自分は「身代わり」になるためにイエスはいらっしゃったというのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　イエスはたとえば戦時下において、あるいは火災において、子どもをまもろうとして大人が小さな子を抱きかかえるように、大人が地震のときに隣で寝ていた小さな子をかばうように、われわれの身代わりとなりました。その子が望もうと望むまいと、イエスはわれわれの身代わりとなりました。</p><p>身代わりとなってくださったイエス。それをおもうときに、守られた子どもたちであるわれわれは、どう生きるべきなのでしょうか。自分もだれかの身代わりとなるべきなのでしょうか？わたしは、イエスにまったくならってあまりに自己犠牲的になるような生き方があまりおすすめしていません。というのはともすればそれは自分のいのちを粗末にしてしまうことにもなりかねないからです。ですが、イエスが自分の身代わりとなって死んでくださり、復活して共にいる、ということはつねにおぼえておきたいと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>取りなし手であり師であるイエスが身代わりとなったということは、常に念頭において、歩みたいと思います。イエスのような人に近づけなくても、少なくとも私のようなもののために主が死んでくださったことを知って、どうして神の前にへりくだらないでおられるでしょうか。イエスのいのちがけのゆるしの意味を知らせられているわれわれが、どうしてなんでもゆるしていただけるのだからなにをやってもいいなどと思えるでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスはいのちがけで、そして神は、愛する子を失うというある意味自分が死ぬよりつらい思いをして神もいのちがけで、われわれへの愛を知らしめてくださいました。そんなにもわれわれは神に愛されています。そして愛されているという自覚が深くある人には、自然と愛があふれます。</p><p>不完全な人の弱さや愚かさを知り、自分のいろんな欠けも認め、ゆるしあい敬愛しあい助け合い歩むときに教会共同体にも不思議な力がはたらきます。</p><p>　神の恵みの光の中で、レントを恵みふかく過ごしたいと願います。</p><p>（祈り）</p>
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<link>https://ameblo.jp/haduki-sy222/entry-12962135392.html</link>
<pubDate>Tue, 24 Mar 2026 11:16:49 +0900</pubDate>
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<title>２０２５０３１５「雲の中からの『声』」池田季美枝牧師</title>
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<![CDATA[ <p>２０２６０３１５　牛久教会主日礼拝「雲の中からの『声』」</p><p>マルコ９：２～１０より</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260316/23/haduki-sy222/63/af/p/o0488068415761312802.png"><img alt="" height="589" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260316/23/haduki-sy222/63/af/p/o0488068415761312802.png" width="420"></a></p><p>おはようございます。今日も教会に集う親愛なる皆様と共に礼拝できますことを神に感謝いたします。</p><p>&nbsp;</p><p>（絵画）（はじめに）</p><p>「変身」を描いた映画や漫画などの作品は多いです。スパイダーマンや、スーパーマン、ドラゴンボールのスーパーサイヤ人、メルモちゃん、ゴレンジャー系列のヒーローものなどなど、枚挙にいとまありません。</p><p>特に小さな子どもは、自分が大きくなって、別人のように強くなることにあこがれがあるのかな、と思います。あらゆる舞台も、別人の人生を生きる、そこにやりがいを見出していますという舞台人のお話も聞いたことがあります。ダンスや歌、音楽をなさる方にも一種の共通点があるかもしれません。ふだんの平凡な自分とは違う特別な姿となる、そんなことを人は実体験として経験したり、また、他者が舞台に出て輝く姿にそれを見たりもします。</p><p>先ほど読ませていただいた聖書の箇所も、とても不思議な場面を描いた箇所です。「高い山に登ると、イエスの姿が急にヒーローの変身のように変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れてイエスと語り合っていた。」さらし職人の腕も及ばぬほど、には、どんなクリーニング屋さんの手にかかってもできないほど白い、という意味がありました。そのくらいの変貌ぶりです。白くまぶしく光輝くイエスの姿です。</p><p>イエスの衣服の白さは、地上最高の洗濯業者の力を超えています。最も近い類似例はモーセの輝く顔（出エジプト記 34:30）でしょう。</p><p>これは現代を生きるわれわれにとってとても不思議に感じる記事ですが、聖書が書かれた時代のユダヤ教徒、旧約聖書に親しみ、エリヤ、モーセの伝承に詳しかった人々にとっては、このような記述は、ああ、イエスはやはりエリヤやモーセのような偉大なヒーローとつながる人なのだ、という風に大きな意味を持つ場所だったようです。（絵画）またキリスト教的には、この変貌の場面は、復活のイエスの先取りというイメージにおいてとらえられ、その関係で、この箇所は初期キリスト教会の頃から大切にされてきました。</p><p>四旬節にこの個所、いわゆる「主の変容」「主の変身」の箇所が読まれるのは、教会の古い伝統です。山の上でのイエスの栄光の姿は、イエスが受難と死をとおって受けられる復活の栄光の姿が前もって現されたのだと考えられてきました。そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。</p><p>&nbsp;</p><p>変容を描いた絵画はいくつもあります…（絵画）</p><p>（１，「出来事」による受難予告）</p><p>今朝のマルコ９章の箇所の直前の箇所は、8章の、いわゆるペトロの信仰告白と最初の受難予告です。<br>　（「31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32a しかも、そのことをはっきりとお話しになった。32b すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」）<br>　マルコ福音書は3回の受難予告を伝えますが、いつも同じパターンがあります。<br>　(A) イエスがご自分の受難・死・復活を予告する(31-32節前半a)。<br>　(B) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれのことを考えている(32節後半b)。<br>　(C) イエスは弟子たちに受難の道の意味を語り、同じ道に弟子たちを招く(33-35節)。<br>　きょうの出来事はこれと密接に結びついています。8章31-35節が言葉による受難予告であったとすれば、きょうの箇所は「出来事による受難予告」と言ってもよいでしょう。イエスがこの世の生を生きていた頃、３人の弟子たちは、弟子たちの復活経験に先立って、何かイエスの復活を予感させるような特別な経験をしたのでしょう。</p><p>モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとこの2人が話し合っていた内容まで記しています。その内容とは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきを明確にしています。<br>　ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは的外れな発言ですが、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。（絵画）しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。マルコ福音書は、ここでもイエスをダビデのような栄光のイメージでしかとらえられない弟子の無理解を描こうとしているのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>（２　「雲」）</p><p><a name="_Hlk224212734"><span style="color:#000000;">「雲」も旧約聖書とつながりの深いものです。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。</span></a>イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節)。</p><p>マルコの記述（9:2-8）と出エジプト記の間には、次のような具体的な類似点が明らかです。（1）「六日間」への言及（マルコ9:2、出エジプト24:16）、（2）山を覆う雲（マルコ9:7、出エジプト24:16）、（3）雲からの神の声（マルコ9:7、出エジプト24:16）、（4）3人の仲間（マルコ9:2、出エジプト24:1、9）、（5）姿が変わる（マルコ9:3、出エジプト34:30）、（6）恐れの反応（マルコ9:6、出エジプト34:30）。。</p><p>このマルコの記事の中で、弟子たちを「雲が覆っていた」という記述は、そんな旧約聖書の言語と比喩を彷彿とさせます。「モーセは証しの幕屋に​​入ることができなかった。雲がそれを覆い[ἐπεσκίαζεν]、幕屋[ἡ σκηνή]は主の栄光に満ちていたからである」（出エジプト40:35参照）。</p><p>雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1章11節)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエスは、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されています。</p><p>そして、雲とエリヤとモーセが突然消えたことは、弟子たちが目を向けるべきはイエスであるという点を強調しています。マルコはさらに強調します。「彼らはもはや誰にも見えず、イエスだけが彼らと一緒にいるのを見た。」と。神の救いの計画を達成できるのは、偉大な預言者エリヤや偉大な立法者モーセではなく、イエスだけです。</p><p>&nbsp;</p><p>（３「聞く」とは）</p><p>そして雲の中からの声、「これに聞け」の「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、「シェマー・イスラエル」「神のことばに聞け」と同じようなニュアンスだと指摘した本がたくさんありました。なので、単に聞くというより、こころで、神のことばに聞いていく、神に従っていく、仕えていくといったことを意味します(申命記18章15節参照)。この直前の受難予告でイエスが「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8章34節)と言っていることとこの、「これに聞け」は対応していると言ったらよいでしょう。</p><p>イエスの変容の姿は受難のイエスに従うよう弟子たちを励ますものでしたが、弟子たちは結局従うことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14章50節)と、マルコははっきり書いています。受難予告を理解できず、最後までついて行けなかった昔の弟子たちをマルコは非難しようとしているのでしょうか。そうではなく、自分たちも同じ過ちを犯す危険があると警告しているのでしょう。どんなありがたい言葉も、現象も、それが自分の外側で起こっているような、外的な出来事であるうちはあまり意味がないのかもしれません。弟子たちは実際にイエスの死と復活が起こった後で、本当の意味で理解し、従う者となりました。</p><p>わたしたちはもうすでにイエスの歩まれた道を知っています。そのわたしたちをイエスはご自分の道に招いてくださっています。では、現代に生きる我々にとってイエスにこころで「聞く＝聞き従っていく」とはどういうことなのでしょうか。</p><p>　あるマラソン・ランナーのインタビューを記したものにこのようなものがありました。インタビュアーが「途中で辛くて、やめたくなりませんか。そういう時どうやって持ちこたえるのですか」と尋ねると、「辛いですよ。でもゴールの喜びを想像し、その映像を脳裏に浮かべて走ります」と答えていました。</p><p>ところでわたしは、３月末に行われる、牛久市の６キロのウォーキングに出ようか出まいか、今迷っています。お花見もかねていて、楽しそうです。６キロくらいなら歩けますよという方がいらっしゃいましたら、お声がけください。YMCAの方にも声かけしようかな、と考えています。出場するかどうか、自分でもわからないのですが。少しの運動でも、おっくうに感じることがわたしたちにはあります。しかし、途中の綺麗な景色の喜びや、ゴールの喜びを想像すると、ちょっとやってみようかな、と思うことも、あるのではないでしょうか。マラソンや登山のゴールの喜びについてのこの言葉は、今日の箇所を理解するのに、一つのヒントを与えます。イエスは真っ白に輝く姿に変えられました。そして、イエスを信じ、従う者は、<u>変えられる</u>、と言います。しかし、変えられるまでには、苦難があります。自分の十字架をイエスと共に担い背負うことを経て、その結果として、与えられる栄光です。ですが、その光栄を、ある時期のペトロは信じることが出来ませんでした。イエスを直接見ることの出来ない私たちは、なお更です。神は、その弱さを知っていてくださり、その希望が確かになるために、一瞬ですけれども、その栄光の姿を見せてくださったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>（絵画）（４まとめ）</p><p><br>アブラハムは、神の約束だけを信じて行き先を知らずに旅立った、と言います。私たちもある意味では、行き先はわかりません。どういう道がこの先に待っていることか、どんなに苦しいときもいったい最後まで信仰を持ち続けられるものか、見当もつきません。しかし、最終的に到達地点は知らされています。だからこそ、たとえ今どのような所にいたとしても、いろんな不遇が続いたとしても、神はすべてを益としたもうと、神の導きを信じて歩いていきたい、と思います。</p><p>&nbsp;</p><p>先週は、聖書の「あなたはわたしを何ものだと言うのか」というイエスのことばから、皆さんにとってイエスとはどんな人か、ということを紙に記していただきました。皆さんのイエスについてのことばには力強いみなさんの信仰を感じました。そしてこの教会に集うみなさんにとってやはり中心となるひとはイエス・キリストのみだとも思いました。これからもイエスへの信仰を真ん中において皆さんと共に歩んでいきたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>今日の箇所については、復活の、輝くイエスの記事からきたものである、という説もあると今回調べていて新たに知り、合点がいくところがありました。今日のイエスの姿は、復活のイエスの先取りのシーンです。そのようにイエスの変身、イエスの変容はイエスの復活と神の国の力を予示するものであり、イエスが復活された時に宣べ伝えられるものです。白く輝くイエスの姿を脳裏に浮かべ、さまざまなときも共に寄り添われるイエス、力強い白く輝くイエスを見つめつつ、受難節を恵み深く歩いてまいりましょう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/haduki-sy222/entry-12959967111.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 23:42:33 +0900</pubDate>
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<title>20260308　礼拝メッセージ　「誰にも話してはいけない」</title>
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<![CDATA[ <p><b>２０２６０３０８「誰にも話してはいけない」</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>今日も教会に連なる皆さんと共に礼拝をささげられますことを神に感謝いたします。</b></p><p><b>　レント、受難節も半ば、三週目に入りました。今年のイースターは４月５日になります。</b></p><p><b>今日の聖書箇所は、「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の場面です。マタイ（１６章１３～２０節）やルカ（９章１８～２１節）にも記される、福音書の転換点となっている箇所です。一番弟子のペトロが、目をキラキラさせながら「あなたは、救い主です」というのに対し、イエスは「わたしは、殺される。だが、復活する」という、一見矛盾するかのようなことが語られています。<u>一方では、イエスはメシアです。しかし、他方では、彼の運命は死ぬことです。この相反するかのような二つのことの緊張関係を解消するのは、イエスの復活の予言です。</u></b></p><p><b>（スライド１　地図）</b></p><p><b>舞台となっている「フィリポ・カイサリア」は聖書の巻末の地図６番に載っています。（スライド）ガリラヤ湖から北へ約40キロメートルに位置し、ガリラヤ湖に流れ込むヨルダン川の源流の地です。「カイサリア」は「ローマ皇帝(カエサル)の町」を意味しますが、同じ６番の地図の地中海東岸をみますとそこに既に「カイサリア」という町があります。このカイサリアの町と区別するためにガリラヤ湖北の町は「フィリポ・カイサリア」と呼ばれました。この町にはローマ皇帝を神格化して礼拝する神殿のほか、ギリシアの神々がまつられ、さらに古くはバアル神祭儀が行われた地であると推定されています。イエスは異教が根付く地に赴いて、まず、自分についての人々の意見をたずね、更に弟子たちの考えを問いかけます。</b></p><p><b>イエス自身に対する人々の意見を尋ねるイエスの質問に対し、弟子たちは四通りの世評を述べます。一つは「洗礼者ヨハネの再来」という捉えかた、そして旧約聖書に出てくる預言者エリヤ、エレミヤの再来という捉えかた、そして預言者の一人という捉えかたです。この時、洗礼者ヨハネはすでに処刑されていました (マルコ６章１４節～)、そのヨハネだという説。また、「エリヤ」は紀元前９世紀の北イスラエルの預言者ですが、神の決定的な裁きの前に神から遣わされると考えられていた人物です(マラキ3章23節参照)がそのエリヤだという説、「エレミヤ」は紀元前７～６世紀の南ユダの預言者で、同じように世の終わりに再び現れると考えられていた人物ですがそのエレミヤだという説、がありました。 ここであがっている世の評判は１２章における「悪霊の頭ベルゼブル」（マルコ３：２２）などという噂に比べれば決して悪いものではありません。</b></p><p><b>その三つの噂を聞いたイエスは更に弟子たちに質問をしています。「世の評判はわかった。では、あなたがたは、あなたはわたしを何者だと言うのか」と。</b></p><p><b>ここで、みなさんに質問です。みなさんにとって、イエスとは何者、どんな人でしょうか？紙に簡単に書いて、献金あるいは礼拝後ご提出ください。記名は自由です（配る）（地図のスライド閉じる）</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>（スライド２「あなたは私を何者だというのか」）</b></p><p><b>「あなたは、私を何者だというのか」その質問に対して、ガリラヤ湖の漁師からイエスの弟子となったシモン・ペトロはイエスに対して「あなたは、メシア（救い主）」という言い方をしています。これは、ある意味模範解答といえる解答です。</b></p><p><b>しかし、ペトロは「あなたこそメシア」という究極の告白をしましたが、それでイエスがすべてわかったわけではありませんでした。すぐ次の場面では、十字架に向かうと予告をしたイエスに向かって、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」いさめるとは叱るの意味であり、このペトロの言葉遣いは厳しく、敬意を欠くほどです。３つの良いうわさが出るほどのイエスの成功、幅広い人気、そしてメシアとしての認知を考えると、苦しみと死の予言は全く的外れに思えます。しかし、この予言がマルコの読者に伝えているのは、イエスの先見性と、人々のそんなのんきなうわさや予想をはるかに超える自己理解です。イエスは、順調に進んでいる公の宣教活動の興奮に囚われるのではなく、これから何が起こるかを知り、今それを語り始めています。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>（スライド３「サタン、引き下がれ」）</b></p><p><b>３３節に「イエスは振り返って弟子たちを見ながら」とあるように、イエスは弟子たちを見つめながら、今度は逆にペトロを叱責します。その叱責は厳しいものです「サタン、後ろに下がりなさい」。 後ろに行け」という命令は、列に戻る、つまり他の弟子たちに再び加わるという命令に近いものです。これを聞いた人はおそらくペトロがイエスに反感を持ったことを推測するでしょう。イエスがペトロを「サタン」と呼んだため、その叱責は特に厳しくなりました。 これは「反対者」を意味します。新約聖書時代に流布していた文献には、サタンを表す称号が数多く用いられています（ベリアル、ベリアル、マステマ、ベルゼブル、ベルゼブブなど）。イエスがペトロを叱責する際にこんな厳しい言葉を用いたのは、ペトロを闇の王子と具体的に同一視したというよりは、形容詞的な意味合いだったのでしょう。</b></p><p><b>言い換えれば、イエスは「私に逆らう者よ、後ろに下がれ！」と言われたのです。この説は、続く「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っているからです」という説明によって裏付けられます。ペトロの考えは神の霊感を受けたものではなく、彼の知恵は一般的な人間の知恵を反映していました。というよりもイエスの霊感に満ちた重大な預言の前に彼の心配はあまりにも一般的でした。</b></p><p><b>ペトロを含むイエスの弟子たちが十字架と復活の予告、これらすべてに困惑するのも無理はありませんでした。彼らもまた、民衆の期待を多く共有していたのです。いわば、ペトロのいうキラキラしたメシア像と、イエスご自身がとらえているメシア像には、大きな違いがこの時点ではありました。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>（スライド４「当時の世の人々が望んだメシア像」）</b></p><p><b>イエスに対し、人々は具体的な世の変革を願っていました。マルコによる福音書にも厳しい当時の世の中の状況がいくつも描かれています。家族と物質的な富を失ったことに対する不満（10:28–31）や、期待される新政権における権力と特権の座をめぐる駆け引き（10:35–45）は、民衆が依然として抱いていた希望の証です。そしてイエスが逮捕され、その後処刑された際に裏切られ、弟子たちや信望者たちに見捨てられたことは、弟子たちがイエスのビジョンを受け入れていなかったことを如実に示しています。「人の子」が「三日目に」よみがえらされた時、復活のイエスに出会い、ゆるされたとき、初めて彼らの考えは変わっていったのでした。</b></p><p><b>要するに、イエスこそ、メシアですとすぐに答えたペトロにすら、ペトロには十字架と復活のイエスの告白の意味がわかっていなかったのです。イエスが差し迫った受難を極めて明瞭な言葉で予告したにもかかわらず、弟子たちの間には恐れと混乱が生じました（9:10、32、10:32参照）。また、忠実な弟子たちでさえも、抵抗を招きました。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>（スライド５　われわれの信仰告白）</b></p><p><b>ペトロの話となっていますが、十字架と復活を知らされている私たちの信仰告白もまた、どれも途上にあるものなのではないでしょうか。たとえばわたしたちの教会では信仰の真髄ともいえる使徒信条をかかげていて教会の土台としていますが、それをどう理解するか、どう自分たちのものとするか、どう生きていくかという意味では、同じく途上にあるものであって、暫定的な性格を持つものです。中味に何をつめていくかという意味において、まだ開かれているところがあります。完結していません。よって、完全に理解してからでないと、洗礼を受けられないなどということでもありません。完結していないから、私たちは何度も読み、心に留め、共に聞き続けているのです。「イエスは主である」という告白も、最後の模範解答ではなく、そこから本当にイエスだけが主であり、そこから自分を作り、世界を作っていくという起点です。同じようなことが主の祈りに関してもいえるでしょう。主の祈り、これは例えば子どもにとってはことばとしても難しく、文語訳を口語訳になおしてもまだわからないところはたくさんあるでしょうが、繰り返し祈っているうちに、だんだん言葉の意味はわかってきて、そこにこめる祈りの内容も豊かになっていく、というところがあるでしょう。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>（スライド６　誰にも話してはいけない）</b></p><p><b>とにもかくにも、意味がよくわかっていないにしてもイエスの問いかけに対して、「あなたはメシア、救い主です」という模範的解答をしたペトロに対して、イエスは「そうか」でも「よく言った」でもなく、「誰にも話してはいけない」と言っています。</b></p><p><b>「この話、秘密ね」というと、かえってその噂は広まってしまうことはよくあります。それは案外、「この話、多くの人に広めてほしい！」というより、効果的なのかもしれません。この言い方は「メシアの秘密」ともいわれる言い方です。</b></p><p><b>「そしてイエスは、自分のことについてだれにも話さないように、と弟子たちにきびしく命じられた。」…イエスはなぜ弟子たちに、自分についてだれにも話さないように命じたのでしょうか。マルコによる福音書の文脈では、イエスの評判が高まり、それに伴い人気が高まったことに重点が置かれています。時には、イエスは群衆に押しつぶされそうになり、異例の手段（例えば、船の上から教えること [4:1]）をとったり、単に人前から離れたりすること（1:35; 6:31–32）を余儀なくされるほどでした。「メシアの秘密」は、イエスがメシアであることの力を否定するようなものではありません。それは、イエスへの畏敬の念を高め、同時にイエスのメシア性を明確にするための福音伝道者の戦略の一部なのです。これまでのところでもたびたび、そんなところがあります（５：４３，７：３６）</b></p><p><b>次週に読む「イエスの変容」の場面でも、マルコによる福音書記者は、「イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。（９：９）と記しています。</b></p><p><b>イエスのことは、うわさや耳当たりのよい言葉で語るべきではないのでしょう。</b></p><p><b>しかし結果としては、「誰にも話してはいけない」と言われるとかえって、そのうわさは一人歩きしてしまった面もあることでしょう。７章３６節には、はっきりと、「イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」とあります。いまも、イエス・キリストとは神の子救い主（メシア）、と言われている人だということは、子どもも含めて多くの方が知っています。しかし、その内実、イエスのゆるしや愛を信じる人が多いかどうかというのは、別の話となってきます。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>（スライド７「第二次世界大戦下でのバルメン宣言」）</b></p><p><b>過去に、ナチス･ドイツが支配するドイツで、ドイツ福音主義教会のある人々はバルメンという所に集まり、ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言という短い文書を発表しました（バルメン宣言）。その第一のテーゼはこうです。「聖書においてわれわれに証しせられているイエス･キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」。</b></p><p><b>　難しい政治的声明を出したのではなく、とてもシンプルなことが述べられています。キリストこそ神の唯一の御言葉であり、我々はそれに聞く。しかし、あの状況の中でそう告白するのは、教会はヒットラーに服従しないということでした。第三次世界大戦すら危惧されている、今の時代にあっても、今一度ききたい言葉です。「聖書においてわれわれに証しせられているイエス･キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>（スライド８「まとめ」）</b></p><p><b>世の嵐、身近なところでの嵐、われわれにはいろんな嵐が吹き荒れます。親しい人々が召されたそんなとき、ある友人が、「天の国はにぎやかになったね」と言ってくれて、慰めを得たことがありました。キリスト者は、親しい人の死すらも、天の国でまたあいまみえることができるという希望をみることができます。また、たとえば、この教会の会員だったNさんのご遺族は、母はこれで、愛犬にやっと再会できるとおっしゃっていました。また、あるホームレスの男性は、仕事も家族も家も失ったそんなときに、この犬は、俺をペロペロ舐めてなぐさめてくれた、犬を捨てて施設など入れない、とおっしゃり、ある牧師に犬の葬儀を頼みました。動物は天使だから洗礼を受けずともそのまま天にいくとその牧師はおっしゃり、わんちゃんの葬儀を執り行いました。天の国でわたしたちはまた親しい方々愛する方々愛した家族生き物とうれしい再会を果たす希望があります。</b></p><p><b>われわれは、ぬぐいがたいあやまちを犯します。しかし預言者イザヤは次のように神の言葉をわれわれに伝えます。「あなたはわたしの目に値高く、尊い。わたしはあなたを愛す」（イザヤ４３：４）「あなたは、わたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と。（イザヤ４３：１）「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と（イザヤ４３：２）。</b></p><p><b>神はそのように、わたしたちひとりひとりを呼んでくださいます。神の声に召され、心あらため、深く神に心を向け、各信仰者が歩むことができますように。イエスのことばの内実、イエスのゆるしの意味を見つめ歩むことができますように。きょう、いま、あたえられている自分の他者のいのちをいつくしみ、そして世の平和を祈りつつ、歩んでまいりましょう。そして、４月５日の復活の希望のときを待ちましょう。</b></p><p><b>（祈り）</b></p>
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<link>https://ameblo.jp/haduki-sy222/entry-12959665666.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Mar 2026 08:11:05 +0900</pubDate>
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<title>２０２２０２２２礼拝メッセージ「野獣と天使が仕える主」池田季美枝牧師</title>
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<![CDATA[ <p>２０２２０２２２</p><p>マルコによる福音書１：１２～１５より</p><p>説教「野獣と天使が仕える主」</p><p>&nbsp;</p><p>おはようございます。皆様と共に礼拝をささげられます恵みを感謝いたします。</p><p>教会の暦では、先週の２月１８日の灰の水曜日からレント、受難節といわれる季節に移りました。灰の水曜日…棕櫚の葉を灰にしたものを額につけまもられてきました。イエスがエルサレムに入場したとき、棕櫚の葉をもって大歓迎した群衆たちが、その後イエスを殺せと叫ぶようになります。集団心理の恐ろしさというものを思います。そんな人の愚かさ、破れを思うときが灰の水曜日です。そしてそこからレントがはじまりました。</p><p>レントはイースター、復活祭の準備の季節です。レントは「四旬節」（しじゅんせつ）ともいわれ、「40日間」を意味します。復活祭までの日曜日を除く40日間がその期間とされたことから、灰の水曜日がレントの始まりの季節の日になりました。そもそもは、復活祭に洗礼を受ける人の準備期間でありました。その後このレントの期間は、教会全体が主の過越（死と復活）にふさわしくあずかるための準備期間とも考えられるようになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>　受難節の最初の日曜日は伝統的にイエスが受けた荒れ野での誘惑の場面が読まれます。マタイやルカはイエスがサタンから受けた誘惑の内容を比較的詳細に伝えていますが、今日のマルコはもっと簡潔です。ですから、今日はいったん頭を白紙にしてください。マルコによる福音書は、他の福音書と違って、本日の箇所が誘惑の克服、ではないのです。むしろイエスの到来により救いが来たことの、喜びの知らせとなっています。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスは４０日間荒れ野におられた、とあります。</p><p>「聖霊」によって「荒れ野に送り出された」とマルコは記します。荒れ野とは水や食べ物が欠乏している場所で、一般的に言えば生きるのに厳しい場所です。しかし、旧約聖書によれば、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。ちなみにマナ。とはヘブライ語で「なんじゃこれは」という意味だそうです。そのくらい人が不思議に思ったマナ。そのマナが人に与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためでした。ですから荒れ野とは、ぎりぎりの生活の中で、神から与えられたわずかなものを、皆で分かち合って生きる場でした。しかしいったんそこから約束の地に入り、定住して農耕生活を始めると、人は倉を建てて作物を貯えるようになります。そのとき、自分の貯えに頼り、神を忘れる危険が生じます。豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はさらに貧しくなる、ということも起こります。そして、そこから振り返ったときに、人は、あの荒れ野の中にこそ、神との生き生きとした交わりがあり、人と人とが分かち合い、助け合う生活があったことに気づきます。また、荒れ野とは、聖書のさまざまな箇所において、神と人が出会う場所でした。</p><p>洗礼者ヨハネからの洗礼の後、その荒れ野にイエスは４０日間おられました。</p><p>この「４０」にちなんでレントの季節も４０日間なのですが、４０（マルコ１：１３）という数は聖書の中では、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。たとえば出エジプト記（３４：２８）では、モーセが４０日間シナイにおり、独り神の前に立って律法を受ける姿が描かれます。また列王記上巻では、（１９：８）エリヤがモーセに続いて神の山であるホレブ山に行き、そこに40日間とどまっています。そのようにイエスは40日間荒れ野にいます。そしてその中でサタンから誘惑を受けた、とあります。マタイ、ルカによる福音書の誘惑物語はイエスが受けた誘惑の内容を詳しく報じていますがマルコは誘惑の内容には全く触れず、「サタンから誘惑を受けられた」とさらっと短く述べているだけです。断食ということばも出てきません。そこにはサタンとの葛藤は描かれていません。天使たちが仕えていた、とは天使たちが食事の世話をしていたととることができる、としたものもありました。</p><p>&nbsp;</p><p>（荒れ野での天使とイエスの絵）</p><p>　</p><p>サタンとは神に敵対する諸力で、ユダヤ教では堕落した天使、神と人間の関係をこわし、破滅をもくろむ天使たちの主と見なされていますが、マルコは悪霊追放、いわゆる悪霊祓いや病人の癒しの記事を通して、サタンの力に対するイエスの勝利を福音書の所々で報じています。ここでもサラッと誘惑を受けた、と書いているだけですね。</p><p>「荒れ野」とは、古代社会は特に、凶暴な野獣たちが潜んでいるところでした。危険の代名詞、という面もありました。しかし、マルコによる福音書は主はその荒れ野にいたころに「野獣と一緒におられた」と独特の記事を伝えます。イエスは、その荒れ野にあって凶暴な野獣と平和のうちに共におり、天使たちが彼に仕えていたと記されています。野獣と共におられた、というのは神の救いの臨在を示しています。</p><p>これは、旧約聖書イザヤ書の預言の成就をあらわすものといわれています。イザヤ書によれば、やがてメシア、救い主によってもたらされる新しい世界は「狼は子羊と共に宿り、豹は子ヤギと共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く」というものでした。（イザヤ１１章１から９節、６５章２５節参照）。それは「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」平和な世界で、主の霊がエッサイの株から生え出た若枝（ダビデの子孫）にとどまることによって実現する、と伝えます。マルコはこのイザヤの預言の成就を、イエスの洗礼に見たのでした。イエスがもたらす世界とは、このようにもはや争いも悲しみもない平和な世界、小さな子どもやこの世で力ない者が治めて支配するような平和な世界なのでした。</p><p>現在も中東諸国で悲惨な戦争が起こっており、時としてむごたらしすぎるこの世ではそのような夢のような言葉はぴんとこないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、イエスが生きた時代も、決して平和と自由、平等に満ちた社会ではありませんでした。また、本日同時に読むことがすすめられている旧約聖書、エレミヤ書の希望の言葉も、首都エルサレムが陥落し、人々が全ての希望を無くしたときにエレミヤに語られたものでした。この部分はエレミヤ書のなかでも新約聖書とつながりの深い部分だといわれているところです。</p><p>エレミヤ書が新約聖書とつながる部分としては、エレミヤ書３１章３１節から３３節に描かれる「新しい契約」のところが知られています。「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。このさっそう契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」。<br>　この言葉はエルサレムが陥落し、人々が全ての希望を無くしたときにエレミヤに語られたものでした。エレミヤが最初に巻物を書いたときから17年が経過していました。紀元前５８７年のバビロニヤ軍の侵攻で、エルサレムは焼かれ、王家は断絶、神殿も破壊されました。旧い契約は破棄された、その時、エレミヤは主の言葉を聞いたのでした。「見よ、私がイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」。都が破壊され、神殿が燃え、民は殺害され、生き残りの者は異教の地に散らされる、そんな絶望の中で、神は自ら壊されたものを再び回復されると啓示されたのです。同じ３１章１６節には次のような希望の言葉も告げられています。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」</p><p>更に３３章１４～１６節のところでもエレミヤは恵みの約束、という希望の言葉を伝えています（朗読）それらのエレミヤの言葉は国を追われた人々の救いのことばとなっていきました。</p><p>預言者エレミヤが告げたこの新しい契約は、単にバビロン捕囚からの解放を預言するものではなく、新約の時代、イエス・キリストによって与えられた赦しと救いに通じるものです。打ちのめされ、どうしていいかわからない時に、始めて神の言葉が聞こえてきて、それを伝えてゆくということを旧約の時代の人々はしていきました。いま、わたしの周囲では、まだ若いのに深刻な病の状況の友人が何人もいます。しかし、友人たちは、以前より日々をたいせつに、日々の出会いもたいせつに、かえって生き生きと生きているようにもうつります。いま、やりたいことをやる、いま、伝えたいことを伝えると言っていました。病となってからのほうが幸せだという人もいて、敬服しています。</p><p>預言者エレミヤは、国の滅亡や民の離散というマイナスに思われる出来事を、神の大きな計画の中でとらえていきました。苦難の渦中にある時にそれはなかなか難しいことでありますけれども、苦しみ悲しみ喜びすべてをこえた根底に神の思いがあるということに、少し視点を変えて、思いをはせていくことができますように。ひとがすべての希望を無くしてしまうようなときにも。たとえば小さな子どもは悲惨な世界の中でも輝く目をしています。絶望は絶望のまま終わることはありません。暗闇が深いほど、光は強く輝きます。そんな希望ある新しい道を、野獣と共におられ、天使が仕える主イエスを通して神はわれわれに伝えます。</p><p>&nbsp;</p><p>嬉しい時悲しい時病める時動けなくなった時いろんな時にいつでもそこに神を見出せるでしょうか。こんな詩をご紹介します。</p><p>&nbsp;</p><p>小学３年生の時、多発性リウマチとなり、５０年以上死ぬまで病床生活をつづけながら詩を書き続けた竹内英子さんの『芸術』</p><p>という詩です。</p><p>　寂しさと言うには余りにも切なく</p><p>　哀しみと言うには余りにも深い</p><p>　表現の技術をはるかに超えた感情が</p><p>　私を包む</p><p>&nbsp;</p><p>　それは干さねばならぬ苦い盃（さかずき）</p><p>　それは耐えねばならぬ人生の試練</p><p>　しかし　その中に得がたい宝が隠されている</p><p>&nbsp;</p><p>　人生の苦悩は真理への扉を開き</p><p>　悲しみは豊かな情念の花を咲かせる</p><p>　測りがたい神の知恵に導かれて</p><p>&nbsp;</p><p>　私は苦しみの時に真理を仰いで</p><p>　悲しみの日に美しい詩（うた）を作ろう</p><p>　そこに真実の芸術がある</p><p>&nbsp;</p><p>　人生がそのまま一つの偉大な芸術であり</p><p>　もし私が独りの芸術家であるなら</p><p>　それは何と素晴らしいことだろう</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>以上です。</p><p>&nbsp;</p><p>人生の苦悩は真理への扉を開き</p><p>　悲しみは豊かな情念の花を咲かせる</p><p>　測りがたい神の知恵に導かれて</p><p>私は苦しみの時に真理を仰いで</p><p>　悲しみの日に美しい詩（うた）を作ろう</p><p>　そこに真実の芸術がある</p><p>&nbsp;</p><p>測りがたい神の知恵に導かれて、苦悩の時に真理への扉を開き、悲しみの時に豊かな情念の花を咲かせる。この方には長年ベッドの上で見ていた、とても深い、静かで深淵な神の世界があるのではないでしょうか。そして</p><p>悲しみが咲かせる豊かな情念の花。どのような花なのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスはサタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。</p><p>&nbsp;</p><p>とあって、</p><p>ヨハネが捕らえられるという危機的な状況の中でイエスは、</p><p>「時は満ちた。神の国は近づいた」（マルコ１：１４）と宣教をはじめています。</p><p>&nbsp;</p><p>実際のところ、イエスには当時さまざまな周囲の苦難があり、ヨハネが捕らえられるという危機の時でありました。ヨハネがとらえられ、殺されるというのは、一面イエスの今後の生涯の予見でもあります。しかしイエスは、恐れずにはじめたのです。新しい王国のために、平和な世界のために、です。何か、深いすべてを超えたものの思いを見ていたのでありました。</p><p>&nbsp;</p><p>エレミヤ書３１章２０節にこんな言葉があります。「エフライム（エフライムとはイスラエル、すなわち神の民のことですが）はわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびにわたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴りわたしは彼を憐れまずにはいられないと主は言われる。」「神はあなたを憐れまずにはいられない」</p><p>&nbsp;</p><p>どんなときにも、神は、われわれを憐れまずにはいられない。これはどんな時もわれわれには、神のあたたかなまなざしが注がれているということです。この思いを大切にしていただきたいと思います。本日は臨時総会が開かれようとしていますが、このいつくしみのまなざしのもと、ひとりひとりがあたたかなまなざしのもと、教会への墓地への熱い思いよりはあたたかなぬくもりのこもった発言がなされていくことを願っています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて（回心して）福音（良い知らせ）を信じなさい」…イエスが告げた希望ある新しい王国を、いま、そして将来に夢見ながら、この地上の生活を歩んでいくことができますように。</p><p>ひとりひとりにむけられる、深い神のあわれみ、いつくしみ。そんな思いをレントの季節、じぶんを顧みながら心に深くうけとめ、それぞれがさまざまなかたちで、自然とつたえてまいりましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>（祈り）</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/haduki-sy222/entry-12957548078.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Feb 2026 17:20:21 +0900</pubDate>
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<title>２０２２０２１５「嵐を凪とするイエス」池田季美枝牧師</title>
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<![CDATA[ <p>２０２６０２１５「嵐を凪とするイエス」</p><p>&nbsp;</p><p>　おはようございます。今日もみなさまと共に礼拝できます恵みを感謝いたします。なかなか、風邪が治りません。しかし、先週信頼できる医師に診ていただき、処方されたお薬を飲んだらずいぶん昨日夕方くらいからよくなってきました。薬局で知らない方にお話を聞いていただき、処方されたお薬はあまり効き目がなかったのですが、気は心なのかな～とも、思っていました。体調の悪いときは気分も落ち込みがちなものなのだなあ、とも実感していました。しかし、神様が休め、身体を休めなさいと言っているときかな、と思い、なるべく静養につとめていました。臨時総会もひかえた、たいへんいそがしい時期でしたのに、あたたかくみまもり静かにお支え下さった役員のみなさまに感謝いたします。みなさまもこの時期は体調にはくれぐれもお気をつけください。</p><p>&nbsp;</p><p>また、２・１１集会では、たくさんの牛久教会のみなさまがご参加くださいまして感謝でした。あのときもあまり体調のすぐれないなか会員のみなさまにお支え頂き感謝でした。ズームで１６名も参加してくださった方々もおられました。計５４名となり、盛会でした。厳しい状況下にある入管収容者の方々と、ただただ、面会するという活動を続けてこられた、田中さんの押しつけがましくない真摯な姿勢にも心うたれました。わたしたちにできることはわずかかもしれませんけれども、田中さんのようなボランティア団体の活動を支援するなんらかの働き、皆さんと相談しながら、たとえば衣類などを集めお送りするようなことなどを近くにある教会としてできればと思っています。この国において、それがどの国の人であれ、基本的人権がふみにじられる状況がひとりでもふたりでも減っていくことを願っています。また、信教の自由や、自由や尊厳が憲法に即しまもられていくよう心から願います。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、今もアニメ化されていて大ヒットしている小中学生に人気の『鬼滅の刃』という漫画があります。さまざまな悲しい背景があって「鬼」となり人を食べるようになった鬼たち。その鬼たちを退治するため作られた組織が鬼殺隊です。鬼殺隊士は厳しい選抜テストをくぐりぬけて選ばれ、その後も修練を積んでいます。</p><p>先日、ある牧師さんに『鬼滅の刃』とはどういう話ですか、と聞かれたとき私は端的に「人の心の鬼を斬る話ですよ」と答えました。鬼たちの多くは、鬼殺隊に斬られた時人間だった時の記憶を取り戻して死んでいくからです。同情すべき過去背景を持つ鬼たちも多々いました。</p><p>その話の中に、「凪」(なぎ)の業を用いる富岡義勇という剣士が登場します。義勇は「水の呼吸」という呼吸法を使う鬼殺隊士の中でも群を抜いた達人であり、「水柱」（みずばしら）「柱」と呼ばれています。そして、守りに特化した「凪」の業は、過去の水柱も誰もできなかった、彼しかできない業でした。</p><p>富岡義勇が「凪」の業を繰り出すと、すべてが静寂に包まれ、怒りに燃えた刃を向けてくる敵の刃はパラパラと落ち、無効化されます。場の雰囲気もしーんと静まりかえります。（スライド）実は目にもとまらぬ速さで打ち返しているのですが、一見動きがないように見え、寡黙な義勇らしい冷静沈着さが発揮されている、そんな業です。漫画では、鬼の中でも群を抜いて強い「下弦五の鬼」のひとりとの闘いで用いられました。相手は、高精度、細かくとても硬い蜘蛛の糸のような武器をつかって切り刻む攻撃をしかけてきましたが、「凪」の前にはそれらの攻撃はすべてハラハラと静かに無効化されてしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>本日の聖書でも、嵐を「凪（なぎ）」とするイエスが登場します。イエスが嵐を凪（なぎ）とした時、あたりは静まりかえったことでしょう。この聖書の箇所は、旧約聖書『ヨナ書』１章とよく重ね合わせられて読まれてきました。ヨナ書の話は「ピノキオ」の童話との関連も指摘されるお話です。どちらも大きな魚のおなかの中で不思議と生かされた人の話がでてくるからです。ヨナが大荒れの、命を脅かすような嵐の中でぐっすり寝ていること（ヨナ１：５）、と、イエスが激しい突風の中でも平然と枕をして眠っておられた（マルコ３８）こと、その後嵐は凪となりあたりは静まりかえったことなど、ヨナ書と今日のマルコの話は多くの関連があります。</p><p>&nbsp;</p><p>物語はマルコによる福音書の4章前半から続きます。イエスはガリラヤ湖のほとりでたとえ話を用いながら人々を教えておられましたが、夕方になりましたので、人々を解散させ、弟子たちに｢向こう岸に渡ろう｣と言われました。一日の働きに疲れて、休息の時を持ちたいと思われたのでしょう。弟子たちは舟を出して、漕ぎだし始めました。イエスは疲れのためか、すぐに深い眠りにつかれます。舟を漕ぎ出してまもなく、突然強い風が吹き始め、波が激しくなりました。あたりは全くの暗闇です。風が強まり、波は荒れ、舟は木の葉のように舞い、沈みそうになります。</p><p>ペトロやアンデレはガリラヤの漁師でしたので、湖のことはよく知っていました。最初は自分たちで何とか出来ると思い、努力しました。しかし、このたびの嵐は彼らの手に負えないほどの嵐で、舟は水をかぶって沈みそうになります。ところが、イエスは平気で寝ておられます。弟子たちはイエスを揺り動かし、訴えます｢先生、起きてください。私たちがおぼれてもかまわないのですか｣（4：38）。この「おぼれてもかまわないのですか」には「死んでもかまわないのですか」の意味あいがあります。イエスは起き上がり、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風も波もおさまり、すっかり「凪」（なぎ）となりました。イエスは弟子たちに言われました。「何故怖がるのか、まだ信じないのか」（4：40）。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>人生の大荒れの嵐、あるいは船を教会に例えるなら、教会の大荒れの嵐の中で風を叱りイエスは言われます「黙れ。静まれ」と。</p><p>このしかり方はマルコ１：２５の悪霊祓いの時にイエスが用いたことばと同じです。その時イエスは「黙れ。この人から出て行け」と命じました。そして今日の箇所では「黙れ。静まれ」です。「沈黙せよ」と命じています。この「沈黙」はゆるがない「信仰」と関連があります。</p><p>&nbsp;</p><p>「沈黙のない霊的生活は空白のない文章のようなものだ。空白は文章の意味を理解するのを助けてくれる。そのように沈黙は神と共に生きる人生の意味を理解するのを助けてくれる。」という文章があります。人生には余白、や空白、一拍おくとき、が必要です。このように、沈黙はわたしたちに、人生の意味をより良く理解させてくれるのです。</p><p>礼拝の招きのことばに「全地よ、み前に沈黙せよ」（ハバクク書２：２０）という言葉があります。また、詩編にも「なんじら静まりて我の神たるを知れ。われはもろもろの国のうちにあがめられ全地にあがめらるべし」（文語訳詩編４６：１０）という言葉があります。そのように神の前での「沈黙」神の前での「心の静けさ」は神に心を向ける心のありようの関連で記されます。</p><p>詩篇46篇は「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちのとりで。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」という力強い言葉で始まっています。</p><p>神を信じる者にも、「山が海の真中に移る」ような災害や、戦車に取り囲まれ、絶対絶命というような危機が訪れることがあります。突然の重病の宣告余命宣告という事態もあります。しかし、神は、山にも、海にも、軍隊にも命じられるのです。「静まれ。」と。そして、神の民に語られます。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」わたしたちは沈黙によって神を知っていくことがゆるされています。そして神を知った者はさらに深い、神にある平安、平静さを味わっていきます。「怒る前に１０秒数えましょう」と言っていた人がおりました。自戒をこめてお話していますが、一呼吸おいて会話をすると伝わり方が変わってくることがあります。われわれであれば、怒る前に１０秒祈ることができればと思います。いったんみ前に沈黙する、自分のことばでなく、神に多く語っていただく、そんな時間が人には必要なのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>以下は週報にも載せましたが、ある音響の専門家の話です。その人によれば、わたしたちは耳（特に左耳）に聞こえてくる「音」に感情が左右されているのだそうです。無意識に聞いている音によっても人は、安心したり、不安になったり、うれしくなったり、悲しくなったりします。鳥のさえずりは人を喜ばしい気持ちにさせ、赤ちゃんが母親の胸に抱かれ、心臓の鼓動を聞く時、とても安心するのだそうです。そして、人を最も落ち着かせる音は、「沈黙」という音だと、その専門家は言っていました。けれども、一日中イヤフォンで音楽を聞いたり、一日中だれかとお話していたり、テレビを見聞きしていたりする人々は、静かになるとかえって不安になり、ほんの一分以内の黙祷も難しくなっていきます。沈黙も必要以上に気まずいものと恐れたりします。それは「音」の中毒になっているのであって、決して健全な状態ではありません。「沈黙」「凪」はすべての人に、とりわけ、この騒がしい時代に必要です。</p><p>&nbsp;</p><p>詩編６２編にも、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」（６２：２）ということばがあります。</p><p>「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」とダビデは最初に告白しています。この「沈黙」は、「黙って・・待ち望む」と意訳されることもあります(新改訳)。それは、｢信頼｣と｢沈黙｣は、表裏一体のもので、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。&nbsp;</p><p>　詩編１３１：２には「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」とあります。神の前で「沈黙」する心の状態は、心柔らかく、カタクナさがやわらげられ、平穏な状態です。</p><p>これがイエスがガリラヤ湖の嵐を鎮め、大なぎにしたような状態です(ﾏﾙｺ4:39)。イエスの言う「静める」とは「安んじる」とも訳せる言葉で、目の前に人生の嵐が吹き荒れ、「神よ、どうして！」と叫びたくなるような状況下でも、天地万物の創造主がともにいてくださるという霊的事実を信じて、待っていられる、主を待ち望むことができるような状態です。</p><p>&nbsp;</p><p>ですから神の御前に沈黙できることは、神への最高の愛の表現と言えましょう。それなのに私たちの場合は、神の前でどれだけ沈黙できているのでしょうか。</p><p>&nbsp;預言者イザヤは「神に逆らう者は巻き上がる海のようで静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。神に逆らう者に平和はないとわたしの神は言われる」（イザヤ５７：２０）と、神の前にへりくだるものの対照として語りました。わたしたちもしかし、さまざまなことの前で、「静まることができず、荒れ狂う海のようになり、水が泥や土を吐き出す」ような心の状態になることがあるのではないでしょうか。私自身も、親しい人々が突然の事故や怪我、病気に遭遇したりしますと、動揺します。口先では「神の前に沈黙している、信頼している」と言いながら、行動では、人の目を恐れ、人間的な力や富を頼りにして生きてしまうようなことも、あるでしょう。　皆さんにもわたしにもこの世のさまざまな嵐が吹き荒れることがあるでしょう。そんなわれわれにイエスは「なぜ、怖がるのか」と問いかけます。そして「静まれ」と神の前に安心するように、主のいつくしみを待ち望むように声をかけてくださるのです。</p><p>（最後詩編４２：１に基づいた「鹿のように」の曲を流す）</p><p>この曲は、私と変わらない年齢で召された先輩にあたる牧師さんが好きだった曲です。いつもお母さんが歌っていた歌です、とお嬢さん方が言っておられました。ご葬儀でもお嬢さんのピアノ奏楽により、うたわれました。</p><p>やはり、主への信頼と、主のいつくしみへの待望をうたっています。</p><p>「谷川の流れを慕う鹿のように　主よ　わが魂　あなたを慕う</p><p>　あなたこそ　わが盾　あなたこそ　わが　力　</p><p>　あなたこそ　わが望み　われは主を仰ぐ♪」</p><p>&nbsp;</p><p>（祈り）</p>
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<link>https://ameblo.jp/haduki-sy222/entry-12957596249.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Feb 2026 03:37:50 +0900</pubDate>
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<title>２０２６０２０８「すべてを見抜く神」牛久教会　池田季美枝牧師</title>
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<![CDATA[ <p>２０２６０２０８「すべてを見抜く神」</p><p>マルコ２：１～１２</p><p>おはようございます。皆さまと共に礼拝できます恵みを感謝いたします。わたしもご年配の方を見習って、日曜日に向けて体調を整えるよう、気を付けてはいるのですが、どうしようもないものもありまして、昨日より風邪をひいております。なんとなく、クリスマス疲れが出ているのかなと思います、というのは、１月末からこの時期くらいに具合が悪くなるのは１０年くらい前からそうだったからです。しかし、今年のクリスマスは恵み深いひとときでした。１月も昨年より５名も多い平均人数となっていて、冬の寒い時期は出席率は下がりがちですのに、皆さんのあつき信仰と、神に感謝しています。それにしても、皆さんに風邪をうつすようなことだけは避けたいですので、わたしに近寄らないようにしてください笑。お聞き苦しいところがあればおゆるしください。たぶんすぐ回復しますから、あまり心配はされないでください。体調の良くないときは、皆さんもおとしで体調が悪いときもあるだろうに、と体調の悪い方に寄り添う気持ちを想起できることが恵みです。今週は、この礼拝の後は水曜日の２・１１集会までには回復できれば、と願っています。共に祈っていただければ、心強く思います。</p><p>&nbsp;</p><p>　ところで、本日の箇所には、人の悪い思いを即座に見抜くイエスの姿が描かれています。ある方によれば、他者への悪口や陰口といったものは９割以上その方自身に伝わっている、と指摘していました。そして直接聞かなくても、誰も言わなくても、壁に耳あり障子に目あり、で、敏感な方はすぐそういったことがわかるんだと思います。まして、イエスはすぐにそんなことは見抜きます。修道院に缶詰め朝５時から夜１０時までの研修だった研修会では、対話方法の一つの在り方を学びました。そこでは、３者面談のような形が取られました。私はこの２０年、ずっと一人で牧師をしてきました。私の場合、家族がいたとて、その方がしょっちゅう教会にいるとは考えられません。それで、ということもありませんけれども、若いころは警察沙汰のストーカー被害もあったり、けっこう苦しいところをこえてきました。あの時は役員はじめ、教会の方々にずいぶん助けていただきましたね。警察の方に相談したときには「それはかなり悪質です」と言われ、改めて気が付くこともありました。同じくひとりで牧師をしてきた先輩の女性牧師の方々にも相談し、お心強い助言もいただいたものでした。教会には実にいろんな方がいらっしゃいます。一対一で話し合うと、女性であっても男性であっても急に怒鳴るような人や叫ぶような人や高圧的な態度を取ってくる人もいましたから、そんなときは複数で対応してきました。お心の病気の方はお祈りはしますけれども過信せず餅は餅屋、と、基本お医者さんのいうことを聞くようにすすめてきました。それは女性であっても男性であってもです。皆さんも試してみてください。誰かと話し合いがうまくいかないときに、間に立つ人がいると、人は、態度がかわってくるのです。多くの場合は、話し合いがうまくいかない相手のことをよく知っている人を入れました。そうですね、業者さんに軽い態度を取られたときは、無関係のおとなりのおじいさまなどを連れてくるだけで急に態度が変わって？？と思うこともありましたかね。かなり難しいケースは人権弁護士などの専門家に相談したこともありました。第三者の１～２名も交えて話し合いをし、直接、冷静に思いを伝え合ったほうが一対一の勝ち負けになりがちな話し合いよりうまく事が運ぶことが多かったことを思います。これまでこの教会はどうだったのかわかりませんけれども、主任教師の牧会を助けるのは家族ではなく、役員就任式に読まれるように、牧会を助けるのは基本的に教会役員会です。ですから、役員は何ができるできないだけで選ばれるものでもありません。たとえばパソコンができなくても、五体が不自由になっていても、牧会者としてふさわしい方というのは、役員でも牧師でもいらっしゃるものです。また、基本的にわれわれはもうイエスのことばを知らされている者なのですから、まだ知らない人へとそれぞれが、遣わされているものです。そして現役員会も祈りによって多数の信任をもって選ばれた方ばかりですから、教会役員会をたいせつにしていただきたいと思います。たいへん牧師は、助けられています。そしてそれは、もと役員の方々にもです。</p><p>ところで、海外では夫婦喧嘩であっても、犬も喰わないなど軽くは見ず、また、心の病の方への差別意識も少ないからなのか、ちょっとした喧嘩でもカウンセラーに相談するものだということを耳にしてきました。それも、一対一ではない、また、多数に対して一人ではないコミュニケーションの一つの方法でしょう。メールや手紙などの一方的な伝達ではなく、勝ち負けを決めるかのような一対一の言い争いでもなく、第三者と、キリスト者の場合イエスを互いに想起するそんな話し合いはあらゆる人間関係を良好にしていくことでしょう。どうぞセミナーハウスをおだやかな話し合いの場としてもっと利用していただければと思っています。地の塩の会ではご使用いただいています。聖書研究会でもご使用いただいています。最初の礼拝堂であったあの建物で、前向きなおだやかな話し合いがなされていくことを願っています。あの建物で初期の牛久教会の宣教を支えた永眠者の方々も天の国からまもり導いてくださることでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>ところでイエスは、人の良い思いや神に対する切実な気持ちもすぐに見抜かれます。（マルコ５：２７など紹介）。巷では、人の気持ちに敏感に気が付くひとを、現代ではHSP（Highly Sensitive Person）ハイリー・センシティブ・パーソン</p><p>HSPといいます。HSPとは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質をもった人」という意味で、「Highly Sensitive Person（ハイリー・センシティブ・パーソン）」と呼び頭文字をとって「HSP（エイチ・エス・ピー」と呼ばれています。HSPは環境や性格などの後天的なものではなく、先天的な気質、即生まれ持った性質であることがわかっています。IQというよりむしろ空気が読めすぎる、EQが高い人ですね。周囲の方の気持ちがよくわかりすぎる、同調しすぎるひとのことを指します。HSPのひとは疲れやすく、怒鳴り声や叫び声、大きな音に敏感です。しかし、繊細で気持ちに敏感なひとを、われわれはキリスト者であるならば、弱いと切り捨てるようなことは、違っていることでしょう。そしてイエスとわれわれの違うところは、単なるHSPのひととも違うところは、「霊の力」（マルコ２：８）で人の心の中をすべて見抜くことです。</p><p>さて、本日わたしたちは、マルコ２章の物語を手掛かりに、病の癒しと罪の赦しの問題を考えます。イエスは多くの癒しをなしました。その不思議な業をみて人々は、この人には神が特別な力を与えておられると直感し、イエスのところに押しかけてきました。イエスがシモンの家で人々に話をされていた時のことです。そのときも、たくさんの人々が押し寄せ、家の外まで人があふれていました。そこに、４人の男性に担がれて、中風という麻痺の病気の人が床（とこ）に乗せられたまま運ばれてきました。その時イエスは、「四人の信仰を見て」（マルコ２：５）中風の病を癒します。こんな箇所は他にもあります。百人隊長の信仰を見て、遠く離れた部下の癒しをなしたこともありました。すなわち、そこで語られるのは、信仰あつき者たちが複数で祈るとき、そこに力が宿るということです。たとえばわたしは父が最初の危篤に陥ったとき、友人の牧師たちが祈ってくれました。わたしははっきり言って、私の祈りより敬虔な彼女たちの祈りのほうが効き目があると思っていました笑。父は奇跡的に何度も持ち直しました。二回目にお見舞いに行ったときはだいぶ持ち直しており、きょとんとしていて、「なんでわざわざきたのか、教会は？」という表情をしていて安心しました。父はわたしを修道院に入れたくらいに思っていましたから、毎週の日曜日の準備のため正月にすらなかなか帰省できなくても、そのようなものであろうと思ってくれていたようでした。あのとき、友人たちの祈りの力を感じ、たいへん感謝でした。こんなケースもありました。また、ある教会の牧師さんが難しい手術で身体の臓器のほとんどを取るようなことがありました。しかし手術後とてもお元気そう、かれより若い疲れた牧師たちよりよほどお元気そうにされている様子もみてきました。もちろんそれはいつもそうではありませんが、われわれにはそんなこともあるということです。複数の祈りの力、たとえば、ここにいらっしゃる方々が本気で牛久教会の宣教の発展を祈って下さる、牧師のため教会員のため祈って下さる、そんなことにも不思議な力が宿ります。教会はじわじわと新しい方や戻ってきてくださる方が増え、良い方向にむかってきています。とりわけ、教会員のご家族が４名も洗礼を受けてくださった（Aさん、Mさん、Yさん、Yさん）は、ご遺族の信仰の伝承にとってそれは大きなことでした。転入や現住会員に戻って下さった方々（Iさん、Oさん、Wさん、Oさん、Sさん）が５名もいらっしゃることも、みなさんのお支えとお祈りと天上会員のお祈りと神の導きによるものと感謝です。ことに、お連れ合いに宣教してくださった方に感謝です。天上会員となっても、お母さまもお父さまも牛久教会の会員であったということは、その方のお子さんやお孫さん、ご兄弟、めいごさん、おいごさんに至るまで教会墓所にて祈りを合わせてくださる機会も増え、教会の宣教の機会も増え、様々な方に影響を及ぼすことであるからです。わたしは、ここのところあふれる牛久教会の大きな恵み、クリスマスイブに５０人以上の方々が集い、子どもたちや保護者の方々が歌う声が大きく響いた恵みも合わせ、さまざまな日々の恵みを、そんな天上会員の祈り、今天で子どものため、会員のために今も天で祈りをあわせてくださっている敬虔な方々の祈りの力であると信じています。実は、最近ウクレレをはじめまして、木曜日はリーダーの代わりにウクレレでさんびかの伴奏をしたのです。子どもたちは、以前よりとても大きな声で歌っています。ですからつたない演奏でも、なんとか伴奏になりました。楽しいひとときでした。人生や教会生活は悪いことばかりでもありません。この教会に起きている恵み深いことを数え、祈りの共同体であれかしと願っています。</p><p>さて、本日の聖書において、４人の男性たちは床を担いだまま、屋根に上り、屋根に穴をあけ、その穴から、病人をつり下ろしました。中にいた人たちは驚きました。イエスも驚かれたでしょう。ほこりや土煙が立ったと思われます。しかし、イエスは、そこまでして癒しを求めてきた男たちの熱心さに、感動されたのでしょうか。イエスは「その人たちの信仰を見て」（2：5a）、屋根から降ろされてきた病人に言われました｢子よ、あなたの罪は赦された｣（2：5b）。イエスは必死に求めて来た長血を患う女性にも言われました「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」（5：34）。真摯な信仰（信頼）は、祈りの輪の力は、病を抱えた当事者をこえて、人間の思惑を超えて、さまざまな形でいつか必ず、報われるのです。</p><p>ところが、そこにいた律法学者はイエスの言葉を聞いて、つぶやきます｢神お一人のほかに罪を赦すことの出来るお方はいない。この男は神を冒涜している｣（2：7）。イエスはそれをすぐに見抜いて言われました｢中風の人に『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて床をとって歩け』というのとどちらがたやすいか｣（2：9）。「罪が赦された」と宣言されても、誰もその結果を検証できません。言うのはたやすい。しかし「起きて歩け」と言うのは難しい。「歩け」といって歩けなければ、言った人はうそをついたことになります。イエスは言われます｢人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事をあなたが知るために、私は言おう『起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』｣（2：10-11）。中風の人の病は癒され、床から起き上がり、歩き始めました（2：12）。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスは<u>病の癒しに先立って、罪の赦しを宣言</u>されました。何故でしょうか。｢罪の赦し｣と「病の癒し」は、どのように関係するのでしょうか。これをひとつ、考えてみましょう。私たちが人生において求めるものは、自分の力ではどうしようもない病気や苦難が取り除かれることです。失業すれば、生活困難の問題が生じます。子供がいじめにあったり病気になったり不登校になったりひきこもりになったりすれば、家族は共に苦しみます。元気だった家族で頼りにしていたような人が病気で倒れれば、頼っていたひとたちは困ります。生きることは苦難の連続です。その現実の中で、私たちは現実を打ち破る力、病を癒し、困難を取り除く力を求めています。ここでも、シモンの家には癒しを求める人々があふれ、教会にも癒しを求めて人が訪ねて来ます。私たちがおうおうにして求めるのは、「目に見えない罪の赦し」ではなく、「目に見える病や苦難の解決」や即座に問題が解決することです。<br>　しかし、イエスは中風の人に、病の癒しではなく、まず「罪の赦し」を語られたのでした。当時のユダヤ社会では、病気は「罪を犯した人間に対する神の罰だ」と考えられていました。これはユダヤ教だけではなく、多くの宗教にある「因果応報」の考え方です。イエスはこれをきっぱりと否定されます「あなたの罪は赦された」と宣言されるのです。これは、「あなたは神の怒りの下にあるから病気になったのではない」と言われた、ということです。イエスは神の愛を示すために、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われます。家に帰る、それは社会からつまはじきにされていた当時の社会において、癒され帰る、それは人々との交わりに復帰してきなさい、という意味合いがあります。</p><p>｢罪｣とは必ずしも犯罪などではなく、「神との関係の破れ｣であり、その回復が｢罪の赦し｣です。私たちは神の赦しの中にあります。ですから、教会はイエスの権威を継承して、罪の赦しを宣言してきました。「神はあなたを子とされた、その事を喜びなさい」と伝えます。その時、多くの人は言います｢イエスは神の国のしるしとして病を癒して下さいました。あなたも私の病を癒して下さい。そうすれば信じます｣。罪の赦しという目に見えないものではなく、病の癒しという見えるしるし、即効見える効果を下さいと、いつの時代も世の多くの人々は望みます。しかし「病の癒しはあくまでも神の出来事である」のです。神は必要な時には病を癒し、またある時には、病をそのままにされます。こんな詩がありました。「病まなければささげ得ない祈りがある 。病まなければ信じ得ない奇跡がある 。病まなければ聞き得ない御言葉がある 。病まなければ近づき得ない聖所がある 。病まなければ仰ぎ得ない御顔がある 。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」（河野進「病まなければ」）。病や愚かさや弱さが祝福になることがある。なかなか思う通りにいかず、足元の願いがすぐに叶わなかったとしても、最も良い道を神がわれらに用意してくださっていることにあきらめず信頼をおいて遠い希望を待望する、馬の速さや勇ましさを求めるのではなく、「主を待ち望む」（詩編１４７：１１）ことができればと思います。</p><p>われわれは医者でもなく力もなくイエスのような病の癒しは出来ませんが、自分たちに出来る癒しの業に取り組む必要があります。それは、「癒し」というより「押しつけがましくはない手当」でしょう。わたしどもは足の不自由な人に、「起きて歩け」ということは出来ません。しかし、足の不自由な人が、教会に来ることが出来るように、玄関の段差をなくしステップをつけたり、手すりをつけたり、車椅子のままトイレを使えるようにすることは出来ます。上がり口の高すぎるセミナーハウスの玄関も、よく気が付く方々がいらっしゃり、そんな工夫が取られたことは感謝でした。</p><p>私どもは、病気で寝ている人の病気を直接治すことは出来ません。しかし、寝ている人を訪ね、その枕元で一緒に讃美し、辛さに寄り添い、共に祈ることは出来ます。それは、「癒し」というより「手当て」です。そして、その手当てにも神のはたらきがあり、魂の癒しがあり、それは身体にも良い影響を及ぼしていくことでしょう。われわれはだれもイエスではありませんから、直接的な癒しを行うことは出来ないかもしれませんが、イエスの前に中風の人を運んだ四人の人にはなりうるのです。だれかのために祈ることはできるのです。その方の魂の癒しを願い、祈り、それが医療にも身体にも精神にも心にも良い影響を与えるということはありえるのです。皆の癒しと悪なるものの祓いのために祈りを合わせる、そんな共同体として歩んでまいりましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>（祈り）</p>
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<pubDate>Tue, 10 Feb 2026 10:10:53 +0900</pubDate>
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