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<title>小鹿のようにおぼつかず</title>
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<description>ブログのタイトルは、私が本格的にアニメにハマるきっかけとなった『放浪息子』のセリフから拝借しています。アニメとか本とかについて語ります。基本的にネタバレありでいきますのでご了承ください。</description>
<language>ja</language>
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<title>硝子をつなぎとめる結絃のカメラ『映画　聲の形』</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:1em;">　『映画　聲の形』の秀逸な表現力の一つは、記号的表現によって視聴者の感情の動きを巧みに整理していることだ。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　登場人物の手足の所作や、あるいは花や小物などを、記号的に意味付けされるように映し、人物の感情や関係をセリフによる説明なしに視聴者に伝えている。それによって論理的情報の過剰を避けつつ、2時間強の映画の中に多くの出来事を盛り込むことに成功している。そして視聴者が、登場人物の感情の動きを追うことに専念できるようにもなっている。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　動作や物体が記号的に配置されている一方で、手などの動作は関節の動きまで現実的に描かれている。また物体も、ロケハンに忠実につくられた空間に無造作に置かれている。その現実的な雑多さのおかげで、個々の意味付けは意識されにくい。視聴者に論理的な煩わしさは感じさせず、無意識のレベルで感情情報を整理させるように絶妙に計算されている。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　そのような記号として用いられている物体の一つとして、結絃のカメラに着目してみたい。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　結絃は虫や動物の死骸を写真に撮り、それを家の中に貼って姉の硝子に見せることで、硝子が自殺を考えないようにしようと図っていた。また将也たちに会ってからは、将也たちがまた小学校時代のように硝子に危害を加えないか、ファインダー越しに監視するためにもカメラを用いるようになった。</span></p><p><span style="font-size:1em;">　このように結絃のカメラは、硝子が自殺したり他人に危害を加えられたりしないように監視し、硝子を安全につなぎとめる役割を果たしている。　　</span></p><p><span style="font-size:1em;">　そしてこの役割を担うカメラは、結絃がいつでも硝子の身を案じているという、過剰ともいえる思いやりの象徴でもある。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　本作の驚異的なところは、カメラがその役割を徹底しているところだ。</span></p><p><span style="font-size:1em;">　まず結絃が手話教室で将也と初対面し、彼を門前払いにしたシーンの後では、机に置かれたカメラはレンズ剥き出しのまま教室の戸の方を向いている。将也に対して「おまえを硝子には近づけさせないぞ」という威嚇の表れだ。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　将也の手話教室への2度目の訪問時には、将也と硝子が橋の上で語るのを、結絃は永束とともに教室のベランダからカメラのファインダー越しに見守る。将也が硝子に対して誠意をもって接するのか確認するためだ。</span></p><p><span style="font-size:1em;">　ちなみにここでは、将也と硝子が手話で話しているために、遠くにいる結絃にまで会話の内容が伝わるようになっている。手話とファインダー越しという、本来効率が悪いはずのメディアが2つ組み合わさることで、遠くまで意思が伝わる状況になっている。聲の形らしい奇遇なコミュニケーションの成立がここでも見て取れる。</span></p><p><span style="font-size:1em;">　その後も植野と硝子が観覧車に同乗する際には、硝子にカメラをビデオを回した状態で持たせて植野を監視させた。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　花火を観ている最中に硝子が家に帰り、飛び降り自殺を図った際には、結絃が将也にカメラを家に取りに行くことを依頼したおかげで、飛び降りようとする硝子を将也が見つけて助けることに成功する。将也が欄干に立つ硝子を見つけて慌てて駆け寄ろうとする際に、将也が置き直したカメラがアップで映される。「どやぁ。俺はちゃんと硝子を見守っていたぜ」と言わんばかりの堂々ぶりである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　そんなカメラも最後には役割を終える。</span></p><p><span style="font-size:1em;">　硝子の自殺未遂を乗り越えた結絃は、休んでいた学校に再び通い始める。彼女は勉強を教わりに将也の家を訪れ、写真コンクールの入選結果を見せる。そこに写っていたのは、以前に撮影した鳥の死骸があった場所の周りから、春になってクローバーが咲き誇ったところを撮った一枚である。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　死ではなく再生を写したカメラは、結絃の傍らにレンズカバーを閉じて置かれている。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　それまでは机などに置かれている場合でも、カメラは常にレンズを曝け出していた。いつでも硝子の周りを監視していなければならないからである。</span></p><p><span style="font-size:1em;">　そのレンズにカバーが被せられたことは、結絃が硝子のことばかり案じて見守っていることをやめ、自分の人生を歩き始めたことの象徴だ。</span></p><p><span style="font-size:1em;">　このシーンは空を飛ぶ鷺を撮影する一人称視点のカットで締め括られる。カメラは結絃自身の自由な表現のための道具になったのである。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　結絃は愛用のカメラさながら、硝子や将也たちをときに注意深く、ときに温かく見守っている。結絃の眼差しを借りて本作を観ると、また新たな景色が見えてくるかもしれない。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12303209125.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Aug 2017 20:26:36 +0900</pubDate>
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<title>数多くのきらめきの中の2つ - 『月がきれい』オープニング</title>
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<![CDATA[ <p>　『月がきれい』の新オープニング映像には息を呑んだ。</p><p>　活き活きとした演舞や、緊張感のある徒競走の様子が緻密に描かれている。しかも繊細な映像でありつつも、山車の上での演舞中に下にいる人々がいっせいに提灯を掲げるような躍動感に満ちた場面もある。サプライズも欠かさない作りになっていて、エンタメの名手である岸監督らしさを感じた。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/55/a3/p/o0955054213947839785.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="238" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/55/a3/p/o0955054213947839785.png" width="420"></a></p><p>　このオープニングでの小太郎と茜の描き方は、このアニメの2人の捉え方を象徴しているように思える。</p><p>　本作は主人公である小太郎と茜に徹底して焦点を合わせて描かれている。2人は互いのことに集中していて、2人だけの世界が成立している。しかし初恋にときめく2人は、それを取り巻く数多くのきらめきのうちの2つでしかないことが、視聴者に対しては明示される作りになっている。</p><p>&nbsp;</p><p>　たとえばオープニング冒頭の小太郎と茜が交差するシーンでは、その手前に陸上部員の葵がピンボケで写り込んでいる。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/37/a5/p/o0959054113947839726.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/37/a5/p/o0959054113947839726.png" width="420"></a><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/ba/92/p/o0960054113947839745.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/ba/92/p/o0960054113947839745.png" width="420"></a></p><p>　これは2人の関係が数多くの人々に囲まれた中でのつながりであることの示唆だ。2人の世界というものが、2人が他の人々と隔絶したところにいるからではなく、多くの人達の中で互いを選んだことによって成立しているということの表現である。そして2人を取り巻く人達もまた、2人と同等のみずみずしい感情を持って、様々な心の動きの中で生きていることが保障されている。</p><p>　このようなことは現実には当たり前のことだが、映像で表現することはとても難しいだろう。しかもこれをエンターテインメントとして成立させるのは並大抵のことではない。</p><p>　2人は特別ではなく、数多くあるきらめきの中の2つでしかない。本作はそんなありふれたきらめきの中の2つにクローズアップしているのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　100m走の場面でも、特別でない2人に注目していることが覗える。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/04/c9/p/o0960054113947840045.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/04/c9/p/o0960054113947840045.png" width="420"></a><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/01/b4/p/o0960054213947840074.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/01/b4/p/o0960054213947840074.png" width="420"></a></p><p>　まず茜を含む走者全員を映してから、その後のカットで茜一人を映している。走者全員が映っているカットでは、茜にピントが合っているということと赤の目立つユニフォーム以外には、他の走者と見た目の差異があまりない。本作では視覚の情報量による主人公の差別化を控えめにして、一人だけを映すカットを入れることによって主人公であることを表明している。小太郎についても同様の描写が行われている。</p><p>　つまり主人公たちが特別な存在なのではなく、たくさんいる輝ける中学生たちの中からあえて2人を選んで目で追っているだけ、というのがこのアニメの視点なのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　数多くのきらめきの中の2つを選んでいるという姿勢は、オープニング終盤の風鈴の映像でも象徴的に表現されている。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/78/f2/p/o0960054113947839813.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170528/19/hannibalskipio/78/f2/p/o0960054113947839813.png" width="420"></a></p><p>　無数の風鈴が揺れる美麗な情景だが、この中にもちゃんと主人公たちがいる。中央左の水色の風鈴と、その右の赤色の風鈴だ。この2つより手前の風鈴はピンボケしており、2つより奥の風鈴は隠れてしまって全体が見えない。カットを通じて形の7割方が見えているのは、この2つの風鈴だけだ。</p><p>　やはり同等に美しさを放つ多くの人々の中から、2人を選んで焦点を当てて見ているという表現となっている。</p><p>&nbsp;</p><p>　たくさんあるきらめきの中の2つに過ぎないからといって、魅力が減じることはない。無数の風鈴が美しいのは、ひとつひとつの風鈴が美しいからだ。その中の2つにクローズアップすると、個々の美しさがいろいろな葛藤や情念を内包したものであることがわかる。同じように多くを抱えた美しさが、2人の周りにも数多く満ちているのだ。</p><p>　2人の恋模様を追うことで、ありふれたきらめきの価値に気づく。そのかけがえのないきらめきが世界に満ちているということだ。本作はありふれた経験への祝福である。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12278726392.html</link>
<pubDate>Sun, 28 May 2017 19:53:27 +0900</pubDate>
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<title>奇狼丸派？スクィーラ派？『新世界より』</title>
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<![CDATA[ <p>昨日数人で話していたところで『新世界より』の話題に上り、みんな奇狼丸がかっこいいとおっしゃっていました。そこで若干怖気づいて言えなかったのですが、私はスクィーラが好きでして…。まずいかな？(^^;</p><p>&nbsp;</p><p>自分たちの脅かされざる生存と正当な自由のために、誰よりも努力を尽くしたのは彼だと思うんです。力技の戦闘をするだけでなく、何年もかけてメシアという大戦力を手に入れる辛抱強さや、将来人間を出し抜くためにまずは低頭平身人間に協力する周到さなどを駆使し、妥協することなく勝利を追求しました。理想に突き進む革新主義者ですね。</p><p>やったことはえげつないですが、歴史上の偉人は案外あのくらい思い切ったことをやっています。もちろん今の価値観に照らせば、スクィーラの行動は極悪非道でしかありませんが。世情の違いによる補正をかけて見れば合理的にも見えます。</p><p>&nbsp;</p><p>奇狼丸は人間に勝つことは困難と割り切り、現実的に最低限の生存を求める保守主義者です。妥協的とも言えますが、奇狼丸のやり方とて辛酸をなめ続けることを受け容れた覚悟のあるものです。</p><p>苦境にあって革新をとるか保守をとるか。それぞれの生き様と信念の重さに圧倒されます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12270762110.html</link>
<pubDate>Mon, 01 May 2017 21:38:31 +0900</pubDate>
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<title>『月がきれい』と言わせない。</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/18/hannibalskipio/b7/c8/p/o0959054113922809921.png"><img alt="" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/18/hannibalskipio/b7/c8/p/o0959054113922809921.png" width="420"></a></p><p>　『月がきれい』3話ラストの告白は秀逸だった。</p><p>　文学少年である小太郎は「月がきれい」と茜に告白しようとするのだが、その言葉を言えずに「付き合って」と率直に告げるとになってしまう。本作タイトルでもある「月がきれい」を結局言えないのだが、小太郎にとっては「付き合って」という言葉こそが「月がきれい」的なのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　小太郎は「月がきれいですね」と遠回りな告白を言おうとして、「つき」とたどたどしく口にする。茜はそれを受けて夜空を見上げ「ほんと、月きれい」と何気なく言ってしまう。「月がきれい」という言葉が告白を意味することを茜が知らないということを、小太郎はそれを言おうとする寸前に知ってしまったのだ。自分にふさわしい告白の文句を封じられた小太郎は、やむなく「付き合って」と告げる。</p><p>&nbsp;</p><p>　「付き合って」は意図を率直に伝える言葉ではあるが、文学少年である小太郎が真っ先に選ぶ言葉ではない。小太郎にとっては「月がきれい」のほうが馴染みのある言葉だ。自分に馴染みのある言葉では相手にうまく伝わらないから、他のよりよく相手に届く言葉を探す。こういう意味で「付き合って」は、小太郎にとっては婉曲表現なのだ。</p><p>　「月がきれい」と言えなかった小太郎は、実に「月がきれい」的な文学少年である。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12269186541.html</link>
<pubDate>Wed, 26 Apr 2017 18:09:54 +0900</pubDate>
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<title>開放的な行き止まり～『ラブライブ！サンシャイン!!』5話　津島善子の逃走劇について</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/17/hannibalskipio/db/69/p/o1279072413922787603.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="238" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/17/hannibalskipio/db/69/p/o1279072413922787603.png" width="420"></a></p><p>　中学時代に自らが堕天使であると思いこんで、突飛な行動をしていた津島善子。それを後悔して高校に入ってからは普通の高校生になろうとするも、体に染みついた堕天使的な言動がつい出てしまい葛藤する。そんな善子にスクールアイドル「Aqours」として活動する千歌が声をかけ、Aqoursの地味さを克服するべく参加してほしいと申し出る。堕天使衣装で撮影したAqoursの動画はダイヤに酷評され、善子はAqoursをやめようとするが、千歌たちは改めて善子に「入ってください、Aqoursに。堕天使ヨハネとして！」と勧誘する。</p><p>　以上が『ラブライブ！サンシャイン!!』5話の終盤までの概要である。</p><p>&nbsp;</p><p>　そして千歌の誘いを聞いた善子は逃げ出すが、Aqoursの5人が懸命に追いすがり、水門まで走ってきたところで善子は説得され、ついにAqoursへの参加に同意する。この水門（モデルは大型展望水門びゅうお）は画面として印象的だが、その印象の意味するところを考えてみた。</p><p>&nbsp;</p><p>　水門は海岸にあるので、善子は逃げられないところまで追いつめられたということだ。また水門の大きな佇まいも、そこで道が阻まれるような印象を与える。水門がまず意味するところはここが行き止まりということである。</p><p>　しかしこの行き止まりがブロック塀の袋小路などではなく、水門であることの意味は、青空が広く見える開放的な行き止まりということにある。水門はその上に青空が広がるだけでなく、扉体（ひたい：津波を遮断する構造物）の下や、階段と柱の間からも青空が覗き、画面の中で青空が占める割合が大きくなる。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/17/hannibalskipio/9b/b9/p/o1280072213922787768.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="124" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/17/hannibalskipio/9b/b9/p/o1280072213922787768.png" width="220"></a>　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/17/hannibalskipio/f6/a8/p/o1278072413922787976.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="125" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/17/hannibalskipio/f6/a8/p/o1278072413922787976.png" width="220"></a></p><p>　逃走ははじめ善子のマンション前の暗い路地から始まり、そこから商店街や駅前を駆け抜けて、水門でもっとも広く青空が見えるようになる。行き止まりに追い詰められたにもかかわらず、そこが一番明るく開放感に満ちているのだ。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/17/hannibalskipio/b9/9d/p/o1283072213922790794.png"><img alt="" height="236" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170426/17/hannibalskipio/b9/9d/p/o1283072213922790794.png" width="420"></a></p><p>　善子の逃走は、自分をそのままに表すことからの逃走だ。善子は周囲への迷惑を恐れて堕天使として振る舞うことをやめようとしていたが、千歌たちに追い詰められることによってその配慮が全否定される。そこで善子ははじめて、望まれて堕天使としての自分を解放することができたのだ。</p><p>　善子が辿り着いた水門は、喜びに満ちた開放的な行き止まりであった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12269178457.html</link>
<pubDate>Wed, 26 Apr 2017 17:38:37 +0900</pubDate>
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<title>不完全さを許容する『ハイスクール・フリート』</title>
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<![CDATA[ <p align="left"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20170411/20/hannibalskipio/76/0c/j/o1280072213911682900.jpg"><img alt="" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170411/20/hannibalskipio/76/0c/j/o1280072213911682900.jpg" width="420"></a></p><p align="left">　『ハイスクール・フリート』は粗を指摘されがちなアニメですが、その挑戦には大きな価値があると思います。再評価されてほしい。</p><p align="left">　本作は不完全な人間性をまっすぐに描きつつ、不完全さをニヒルに捉えることなく明るく笑い飛ばし、その上で建設的に成長と協力に向かっていくストーリーになっています。この作風は画期的だと思うのです。<br>&nbsp;</p><p align="left">　第1話で古庄教官が乗る猿島から砲撃を受け、第2話で反乱分子として撃沈許可が下されるところから始まるというように、主人公たち晴風クルーを取り巻く状況は過酷そのものです。にもかかわらず登場人物たちは重苦しい雰囲気に囚われることなく、コミカルな会話で明るさを保ちつつ、果敢に困難を乗り越えていきます。</p><p align="left">　主人公の岬明乃の行動原理も、過去に海難事故で両親を亡くした経験が基礎になっています。その重さも多くの場面では表に出さず、むしろ明乃の明るさと前向きさの素養になっていることが、彼女の言動から見てとれます。</p><p align="left">　このように本作は困難に正面から立ち向かう姿を描きつつも、過度に重く受け取られないような表現になっているのです。<br>&nbsp;</p><p align="left">　困難を軽やかに受け流すストーリーは他の作品でもなくはないですが、そういう作品の多くは登場人物がヒーローのように大活躍するのに対し、『ハイスクール・フリート』は不完全な登場人物ばかりです。超人的なパフォーマンスによってなんとかなってしまうことは、最後までありません。</p><p align="left">　明乃はまさに等身大の人間のリーダーとして描かれています。知識が乏しくて頼りなかったり、仲間が危機のときには自ら飛び出してしまう軽率さがあったりと、実に人間臭い人物です。そんな明乃が立派な艦長として役割を全うする姿が、しだいに堂々たるものに見えてきます。</p><p align="left">　普通の人間の魅力を描き出し、普通の人間に何ができるのかを考えさせてくれる作品には大きな価値があると思います。大半の視聴者はヒーローではない、普通の人間だからです。<br>&nbsp;</p><p align="left">　また集団の中で個人が不完全な振る舞いをしてしまうことを、モブや脇役ではなく主要人物たちに担わせて、他人事ではない形で描いたことも秀逸でした。</p><p align="left">　たとえば本作は全体主義という危うい題材を扱っていますが、これをRATtウイルスが媒介する疾患として描いています。実際のところ全体主義は誰もがその一員になりうるもので、個人の愚かさを責めても仕方ないところがあります。そこで本作では全体主義を病気ということにして、古庄教官や立石志摩、テアのようなちゃんとした人物が罹患する展開を描いています。</p><p align="left">　これにより全体主義に陥る個人を責める表現になるのを避けつつ、自分たちにも起こりうることと捉え、主体的に向き合う姿勢を取っています。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　他にも校長の娘である宗谷ましろが成績優秀とは言えない晴風クラスに配属されていることについて、若狭麗緒たちが噂話をしてましろを傷つけてしまうシーンもあります。</p><p align="left">　噂話に興じる悪癖というのは多くの作品ではモブに担わせて、その他大勢や大衆の卑屈さであるように見下した表現をしがちです。しかし本作では、主要人物がその粗相を犯す形で描かれています。自分のこととして見たくない一番かっこ悪い人間性を、主要人物の行動として主体化して視聴者に突きつけてくるのです。</p><p align="left">&nbsp;</p><p>　こうして不完全な人間性をわがこととして提起しておきながら、次のシーンではすぐさまコミカルなBGMやコントのような会話、ココちゃん劇場などで明るく受け流してしまいます。不完全さを正視しつつも、人が不完全であることを当然として、重く受け止めはしないのです。そして軽快な会話と行動により、皆で協力して困難を克服していきます。</p><p>　ちなみに後の展開で、赤道祭の司会として麗緒と広田空が会話上手を遺憾なく発揮する場面も描かれます。長所と短所が表裏一体のものであるとして、不完全さを否定することなく受け容れています。</p><p>&nbsp;</p><p>　集団の中で、自他の不完全さを容認して建設的であることは難しい。『ハイスクール・フリート』はそこに明るく可能性を提示してくれます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12264753890.html</link>
<pubDate>Tue, 11 Apr 2017 20:36:17 +0900</pubDate>
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<title>『響け！ユーフォニアムシリーズ　立華高校マーチングバンドへようこそ』寸評（ネタバレなし）</title>
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<![CDATA[ <p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20170129/17/hannibalskipio/36/51/j/o0343050013856436285.jpg"><img alt="" height="500" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20170129/17/hannibalskipio/36/51/j/o0343050013856436285.jpg" width="343"></a>　</p><p>　一昨年から昨年にかけてアニメ化されて視聴者を圧倒した、『響け！ユーフォニアム』の外伝小説です。マーチングの強豪校である立華高校に入学した梓を主人公に、全国大会に向け過酷な練習に打ち込む部員たちの日々を描いています。</p><p>&nbsp;</p><p>　小説本編の『響け！ユーフォニアム』でも、演奏シーンの描写が立体的で躍動感溢れるものでしたが、本作ではマーチングなので動作が加わることにより、さらに多面的に情景が浮かぶ表現になっています。<br>　また練習シーンのボリュームがすごい！小説だから会話など人間模様を中心に描きそうなものですが、本作ではかなりの割合が練習シーンで占められています。脚を上げる角度や、隊列の維持のしかた、演奏のタイミングの合わせ方など、詳細に描写されます。<br>厳しい練習シーンが続くのに、それに引き込まれて読めてしまうのが不思議です。</p><p>&nbsp;</p><p>　主人公の梓は実力あるトロンボーン奏者で、自分は他の人より上手くて当然と思っている努力の鬼です。その一方で嫌みのない優しい性格で、弱い立場の人を思いやり世話も焼くという、非の打ちどころのない優等生です。<br>　しかしそんな彼女だからこその危うさが、次第に浮き彫りになります。梓や、彼女を慕うあみかたちの感情が微妙に変化していき、それが互いに伝わらないことにより、ドロドロした人間模様を呈していきます。<br>　それでも彼女らはちゃんと課題を乗り越え、マーチングで最高のパフォーマンスを披露する。強豪校の強さの秘訣も垣間見えます。</p><div>&nbsp;</div>　マーチングの華やかさあり、部活の厳しさあり、絶妙な人間模様あり。エンタメ満載の小説です。
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12242616427.html</link>
<pubDate>Sun, 29 Jan 2017 17:39:59 +0900</pubDate>
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<title>演奏シーンで物語る『響け！ユーフォニアム』</title>
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<![CDATA[ <p>　昨年末に結末を迎えたアニメ『響け！ユーフォニアム』。圧巻の演奏シーンと情感豊かな人間模様が描かれ、最後まで楽しみが尽きなかった作品でした。原作を読み切ってから視聴したにもかかわらず、描かれ方が想像のはるか上を行き、先の展開を知っていることによる退屈さなどみじんも感じることがなかったです。</p><p>&nbsp;</p><p>　本作の演奏シーンがストーリーの展開と密接な関係にあることは、多くの視聴者の方が感じたことと思います。ここでは演奏シーンが物語の上で果たした役割をまとめつつ、原作との違いにも言及してみます。主な論点は府大会と関西大会での表現力の違いについて、次になぜ全国大会の演奏シーンがカットされたのか、そして送別会で何が示されたのかということです。</p><p>&nbsp;</p><p>　まず北宇治高校はコンクールにおいて、府大会、関西大会、全国大会と3回の演奏を行っています。このうち府大会はアニメ1期の最終13話で描かれ、さらに劇場版でシーンを追加して再度描写されます。そして関西大会は2期5話で、7分間の自由曲フル尺の驚異的な演奏シーン。と来たところで、全国大会は2期12話で演奏前の高揚感にたっぷり浸らせておきながら、まさかの演奏シーンカット。そのかわりに最終回の2期13話では、3年生の送別会で1，2年生による自由曲『三日月の舞』の演奏が描かれます。</p><p>&nbsp;</p><p>　コンクールでの演奏は実質2回分がアニメの中で描かれています。1回目の府大会でも音楽、映像ともにすばらしい表現でしたが、2回目の関西大会では明確に前回を上回る感動に浸らせてくれました。府大会からの演奏技術の上達がはっきりと伝わるようになっています。（ただ、私は音楽に詳しくないので演奏の良し悪しはある程度しかわかりません。ご容赦を！）</p><p>　関西大会では特に久美子とみぞれの変化が明示的に描かれています。久美子は府大会で外されてしまったパートの演奏に加わることができ、そのパートが映像での久美子のアップとともに主張を持って表現されています。みぞれのオーボエソロは、府大会では待機中の立華高校の梓を映すことによりカットされていて、もともとの味気ない演奏は2期1話などの練習場面で描かれています。そこから4話で希美と和解した後の優美な演奏を経て、関西大会の本番でも豊かな音色を響かせます。</p><p>　このように、府大会と関西大会の2回の演奏シーンの対比により、部全体の純粋な技術の向上として成長を描いています。また、久美子とみぞれが自身が抱える問題を乗り越えたことを、演奏の場で証明する形にもなっています。演奏シーンが成長物語を成立させているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　それではなぜ全国大会の演奏が描かれなかったのかという疑問が生じてきます。</p><p>　それぞれの大会で3段階の差をつける表現ができなかったのかと言えば、そんなことはないでしょう。ただ、全国大会でさらなる高度な表現をしてもパワーインフレのようになってしまい、物語として伝わるものが無さそうだと想像できます。特に2期後半は、もともと実力者であるあすかが退部の危機を克服したというのが主題なので、演奏技術向上を描くことが物語の成立にあまり寄与しないという面もあります。このように物語上の役割が小さいということが、全国大会の演奏シーンカットの判断につながったのではないかと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>　ちなみに原作では、1巻で府大会は演奏シーンが描写されず、2巻と3巻ではそれぞれ関西大会と全国大会が入念に描写されています。小説での表現もすばらしいです。客観的な状況説明の次の文には、久美子らの感情の動きを描く。トランペットの音色のような聴覚的な表現の次には、シンバルを打ち鳴らす様相のような視覚的な表現が来る。皮膚感覚の描写もあり、客席視点から演奏者視点への移行もありと、ありとあらゆる要素が次々に盛り込まれ、立体感をもって躍動的に表現されます。アニメとの連想でいうと、多次元サーカス表現とでもいうような感覚を受けました。アニメの演奏シーンには圧倒されるばかりですが、小説の描写も見物なので注目してほしいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>　そしてアニメにおいて全国大会のかわりに最終話で描かれた送別会での演奏シーンは、作品全体の締め括りとして大きな意味を持ちます。こちらはアニメオリジナルのシーンです。</p><p>　『響け！ユーフォニアム』では「継承」ということも大きな要素として描かれています。あすかから夏紀や久美子へ、香織から優子や麗奈へ、部の目標や想いが託されていく。その結果を明示して総括するにも、やはり演奏で物語るしかないのが本作です。</p><p>　3年生が抜けて音の厚さは大きく失われましたが、1年前よりも遥かに洗練された演奏が披露されます。ここに1年生を加えたところからスタートできるということは大変な進歩です。</p><p>　</p><p>また印象的なのが麗奈のソロです。麗奈のソロは3回の演奏シーンでいずれも主張を持って描かれており、それぞれでの変化に興味を惹かれます。まず府大会と関西大会を比較すると、関西大会のほうが力強い演奏になっています。これは麗奈の力量が向上したのかもしれませんが、それ以上に正念場を迎えての気合いの表れであるように見受けられます。ともすれば硬さも感じさせる一方で、迫力満点です。</p><p>　それが送別会の演奏では一転して、しっとりして柔らかい演奏になっています。この変化はざっくり言って以下の3通りくらいの捉え方ができると思います。</p><p>　1つは麗奈が滝先生への恋や久美子との関わりにより、感情表現の豊かさを増したということです。2つ目には全体の音量が小さくなっているので、それに合わせたということ。これは演奏上当然ということもできますが、やはり久美子や香織など部員たちとの関わりにより、麗奈が周囲と協調できるようになったという成長の表れと見ることもできると思います。</p><p>そして3つ目はソロ直前の視線の描写で表されているように、このソロ演奏が香織に向けられたものだからです。思い出を偲びつつ、香織を感謝とともに送り出しているので、演奏も柔らかくなっています。麗奈が香織に向けてこのような演奏ができるようになったのも、やはり彼女の成長の表れと見ていいでしょう。</p><p>このように送別会の演奏により、3年生が抜けても継承されたものがあるということが、それを得る過程での苦難と葛藤の回想とともに表明されています。物語を締め括る演奏シーンとして欠かせない機能を果たしているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>音楽アニメだからこそ、物語の結果も音楽で綴る。堂々たるアニメでした。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12238386526.html</link>
<pubDate>Sun, 15 Jan 2017 18:50:20 +0900</pubDate>
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<title>レムリナ姫は勝者である『アルドノア・ゼロ』</title>
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<![CDATA[ <p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20161029/17/hannibalskipio/8c/e7/j/o4000263813784730399.jpg"><img width="420" height="277" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20161029/17/hannibalskipio/8c/e7/j/o4000263813784730399.jpg"></a></p><p>&nbsp;</p><p>レムリナ姫の顛末は悲劇的に見られることが多いですが、私は彼女のあり方はただただ尊くかっこいいものだと思っています。</p><p>レムリナは姉のアセイラムが持っているものすべてを手中に収めようと暗躍し、月面基地の面々を手玉にとった末に、アセイラムすら手に入れられなかったものを勝ち取りました。</p><p>&nbsp;</p><p>レムリナが手に入れたものは「精神の自由」です。</p><p>レムリナは自身を庇護しつつ利用するスレインすら欺いて翻弄し、月面基地以外に行く可能性に至りながらも、自分の意志で留まりスレインに添い遂げることを決めた。「私ならどこへも行きませんよ。」という言葉に、「どこにも行けない」という解釈を含ませることを、自らの行動によって否定したのです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20161029/17/hannibalskipio/00/e2/j/o4000266413784730020.jpg"><img width="420" height="280" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20161029/17/hannibalskipio/00/e2/j/o4000266413784730020.jpg"></a></p><p>もともと身体も立場の上でも自由がないレムリナにとって、行使できるのはアルドノアの起動権限を含む自らの血筋だけでした。しかし彼女はそれを最大限に利用し、スレインに自分の方を向かせたり、マリルシャンの入港を許可して影響力を誇示したりして、ただの道具であることから脱却しようと画策しました。</p><p>呪わしく思っている自身の血を、躊躇なく利用するところが非常にしたたかです。『アルドノア・ゼロ』の登場人物はみな、過酷な現状の中で生きる術を懸命に探す強い人物ばかりですが、レムリナも間違いなくその一員として描かれています。</p><p>&nbsp;</p><p>恵まれない立場から狡猾に行動する人物というのは、他の作品では暴走したあげく非業の死を遂げることが多いです。レムリナがそうならなかったのは、自分と境遇の似ているスレインを守り支えることに、自らの自由の使途を見出したからだと思います。</p><p>さらにそのために、自分にできることを欲張らずに見極めているところが賢明です。アセイラムが捕えられた際には逃亡を手伝い、アセイラムが意のままに行動することを許しました。アセイラムにはスレインがかつて憧れたままの姿でいてもらい、レムリナ自身はスレインの憧れになろうとはしなかったのです。ただスレインに寄り添い支えることが自分にできることだと考え、それを全うしようとしたのです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20161029/17/hannibalskipio/04/e0/j/o3918239013784730204.jpg"><img width="420" height="256" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20161029/17/hannibalskipio/04/e0/j/o3918239013784730204.jpg"></a></p><p>しかしレムリナは自身が支えようとするスレインから、ことごとく虚偽を伝えられます。</p><p>ザーツバルム伯爵の死についてしかり、アセイラムの目覚めについてしかりです。とんでもない裏切りですが、レムリナはこれを受け容れつつ、欺きをもって応えるという妙手に出ます。</p><p>&nbsp;</p><p>まずマリルシャンの月面基地入港を独断で許可し、決闘の末にスレインに新王国の設立を決意させました。</p><p>ちなみにこのときのレムリナは、結末を意図していたのではなく、マリルシャンの「籠の鳥」の話を聞いて漠然と自由を求めて入港許可を行ったのだと思います。意図している場合もあれど、意図せずとも結局は自らの求めるところに向かっているのが、『アルドノア・ゼロ』の人物たちの魅力的なところだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてスレインが秘匿していたアセイラムの覚醒を知ったとき、今度こそは意図をもってアセイラムとスレインを対面させ、双方の真意を糾します。</p><p>レムリナは２人の訣別を目的とはしていません。ただ記憶を取り戻したアセイラムとスレインとが、これからも共にいられるのかを試したのです。それが不可能だと分からせてスレインの心を解き放ち、姉のアセイラムにも信念のままに行動することを改めて決意させました。</p><p>&nbsp;</p><p>偽りには欺きをもって応じ、それによって真実を暴く。「権謀術数めぐらす器量なき者は、かえって信じられません。」と言うとおり、レムリナには欺瞞の世界に生きる覚悟があるのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてアセイラムとスレインの心を知って「かわいそう。あの人も、あなたも。」と言ったのは、レムリナの勝利宣言です。</p><p>自分の方が２人よりも恵まれているところがあると表明したわけです。しがらみや理想に囚われている２人と違い、自分は心を偽らずに言葉にして行動することができる。だから２人を支えられるというわけです。ここに至ってレムリナは、もう自立した一人の人間です。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20161029/17/hannibalskipio/8d/6c/j/o4000238613784730117.jpg"><img width="420" height="251" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20161029/17/hannibalskipio/8d/6c/j/o4000238613784730117.jpg"></a></p><p>最終話でレムリナの「私は行きません！」という言葉が、アセイラムの「私が行きます！」と同等の力強さを持って発せられます。</p><p>誰から命じられたわけでもなく、ただ自分の意志だけで誰かを守り支えることができたのは、おそらく火星側においてレムリナが初めてなのではないかと思います。レムリナが手に入れた精神の自由は、身体も立場の上でも自由がない彼女の自立を可能にする尊いものであるとともに、火星の人々にとっても貴重な第一歩となるはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>その決意のすぐ後に別離となってしまいましたが、スレインと別れてもレムリナは大丈夫です。「本編完結後の世界では幸せになってほしい」と願うファンの同士がいるのはもっともなことだと思いますが、私はそのように願いもしません。</p><p>自らの力で求めるものを手に入れられる人物に対して、そのような願いは必要ないからです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12214356738.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Oct 2016 17:48:13 +0900</pubDate>
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<title>無自覚な調停者・黄前久美子『響け！ユーフォニアム』　</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160919/01/hannibalskipio/0c/0c/j/o1280072013751814978.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160919/01/hannibalskipio/0c/0c/j/t02200124_1280072013751814978.jpg" alt="" border="0"></a><br><br><font size="4"><br>　この文は『響け！ユーフォニアム』の小説2巻以降についてのネタバレを含みます。アニメの2期以降についてもネタバレになることが予想されます。支障のない方にお読みいただければ幸いです。<br><br>　『響け！ユーフォニアム』の主人公・黄前久美子はヘタレです。優柔不断で、自分で物事を決めることがなかなかできません。小説を読んでいると「そうだね」「私もそう思う」というセリフが目立ちます。<br>　小説でもそういう人物として描かれていますが、アニメでは特に黒沢ともよさんの独特な演技によって、ヘタレ感が際立っていました。あのリアルかつ突き抜けたヘタレ感は、黒沢さん以外が演じることは想像すらできません。ライトノベルなどで優柔不断な男子の主人公は散見されますが、女子でここまでのヘタレ主人公はなかなかいないです。<br><br>　久美子はとにかく周囲に流されます。麗奈やあすか、緑輝ら押しの強い人物らにひたすら振り回されるのです。この流されやすさは、夏紀がオーディション後に久美子とファーストフード店で語り合った際に、部全体を揶揄して言った「結局うちらは、そういう空気に乗せられているだけ」という言葉を連想させるかもしれません。<br>　しかし、久美子は他の人物たちに流されやすいけれど、空気に乗せられやすい人間とは違う、というのが私の考えです。むしろ久美子は空気に乗せられることとは、もっとも対極にいる人間ではないかと思います。<br><br>　久美子は空気ではなく、それぞれの個人に流されます。そして流されながら迷い、強引に引っ張ってくる相手に対して疑問を投げかけます。これが重要です。疑問を持ち、それをまっすぐぶつける人間は、空気に乗せられる人間ではないのです。<br><br>　久美子は1巻で高坂麗奈の孤高のあり方に魅了されます。そして他のことではなよなよしている久美子が、麗奈に敵対する動向には頑として対峙するようになります。他の誰も麗奈の味方にならなくても、自分だけは麗奈と共にいる。そのことに命を懸けるというくらいの執心ぶりです。フォロワーとしては極めて頑固になれるのが、久美子の人柄のおもしろいところです。久美子が強い意思をもつのは、誰かに共感したときなのかなと思います。<br>　しかし2巻では、麗奈と最も反目していた優子と語り合うことになり、優子が香織やすみれを真摯に支えようとしていることを知ってしまいます。優子はかなり行き過ぎたところもありますが、客観的に状況を把握して、自分が誤っていることを承知の上で行動します。その覚悟に、久美子は否定できない正しさを見出してしまうのです。久美子の麗奈への執心ぶりは、実は優子と似ているのかもしれません。<br><br>　他にも夏紀や小笠原、さらには滝先生の吐露をも聞き、それぞれの真摯さや正しさを知っていきます。また久美子が今まで考えたこともなかった「コンクールが嫌い」という思いをぶつけてくるすみれや、絶対的な心の壁を持つあすかという難物とも向き合い、その心の内を理解しようとします。そうして向き合い続けて納得したときに出てくるのが、「そうだね」「私もそう思う」という言葉なのです。それは同調などではなく、受容というべきだと思います。互いに異なっていてもそれぞれに正しい理屈を、受けとめているのです。<br><br>　そうして久美子がすれ違う部員たちそれぞれの聞き手となり、間に挟まれ迷うことが、結果として部員たちの融和を生みます。もっとも解決のための最後の決め手は、麗奈の圧倒的な演奏力であったり、香織の潔さであったり、優子や夏紀の献身であったり、みぞれと希美が向き合うことであったり、あすかの決意であったりして、結局久美子はそれを支えたり待ったりすることしかできません。それでも久美子がいなければ解決に結びつかなかったのは確かであり、彼女に功があるのです。<br><br>　また久美子がただ聞いているだけで消極的な人物なのかといえば、まったくそうではありません。久美子は半ば無自覚に、かなりデリケートな疑問を、一番聞いてはまずそうな人物に投げかけてしまうのです。明確な主張をしないという一見無難な立ち位置に見えて、実は最も危険な特攻隊長の役割を果たしていると言えます。躊躇なく誠実に聞き出そうという姿勢は強い積極性であり、確かに久美子が相手を動かしているのです。<br><br>　久美子のようにいろいろな立場の人の話を聞いて学び、そのことが結果として融和につながるような人物はいわば「無自覚な調停者」です。このような役割をする主人公は他のアニメにもいて、『機動戦士　ガンダムUC』のバナージ・リンクスや、『RDG レッドデータガール』の鈴原泉水子、『凪のあすから』の先島光などがそういう人物でしょう。ただ、バナージや光が大切な人を守りたいということ、泉水子は自分の生き方を探したいということが、大きな目標として最初から明らかであるのに対し、久美子の根本的な望みはなかなか見えづらいです。<br>　『響け！ユーフォニアム』の小説は実質的に久美子の一人称で描かれていますが、その久美子の人間像が見えづらいという絶妙な作りになっています。それはそもそも久美子自身が、自分を分かっていないからです。なかなか理解できない他者と向き合い、それにより自分自身のわからないところも根本から見つめていくのが、本作ならではだと思います。その久美子の視点を体験することで、読者や視聴者も他者や自分を見つめ直すことができるのです。<br><br>　最後に付け加えると、久美子は優柔不断ですが、決して弱い人間ではありません。そしておそらく作中でも一、二を争う負けず嫌いのように見えます。香織とどっこいくらいではないでしょうか。演奏の実力はかなりのもので、それはひとえに人並み以上の努力の賜です。<br>　それでいながら、他者の考えや自分の至らなさに迷い続ける。久美子はどこまでも豊かで大きな魅力をもった主人公です。<br></font>
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<link>https://ameblo.jp/hannibalskipio/entry-12201317592.html</link>
<pubDate>Mon, 19 Sep 2016 01:10:23 +0900</pubDate>
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