<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>お茶うけ</title>
<link>https://ameblo.jp/haru58aki/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/haru58aki/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>覚え書きだけ</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>「軽躁とは、自我違和的なものでない」</title>
<description>
<![CDATA[ 「本人自身にとって苦痛ではなく、常ならぬ事態が起きているという感じを与えるものではない。それゆえ病的であるという自覚がない。むしろ軽躁は、かくあるべしという本人の理想像であり、とりわけうつ状態のような打ちひしがれた、情けない状態であれば、なおさらそのように感じられるだろう。」<br>内海健『双極性ＩＩ型障害という病　改訂版うつ病新時代』勉誠出版、2013年、ｐ39
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/haru58aki/entry-12052513236.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Jul 2015 11:47:25 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>令制卜部の構造　その4</title>
<description>
<![CDATA[ <div>・沼部春友「四国の卜部」『神道宗教』49号、30-44、1967。のち覆刻版『神道宗教6』第一書房、1987年に収録　の要約</div><div>　　「職員令」では「卜部廿人」。その『義解』によると「卜部長上」2人が置かれた（宝亀6年格参照）。卜術に最も長じる者、という記述から、亀卜の事を掌っていた者だろう。その外、宮主2人（『臨時祭式』）卜部の事に堪えた者から任じる。伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の三国の卜術に優れた者からとる。在京のものを選ぶときは、卜術群を抜くもの以外は充てない。</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/haru58aki/entry-11771243071.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Feb 2014 13:16:47 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>令制卜部の構造　その3</title>
<description>
<![CDATA[ <div>・平野博之「対馬・壱岐卜部について―その成立期についての二、三の問題点―」『古代文化』17（3）、1966、65-72　の要約<br><br></div><div>　　伴部としての卜部の構造を知る最古の文献は『令集解古記』所引『官員令別記』である。別記の内容は以下の通り</div><div>　　　　　　　　卜部　　　　　　　　　　 &nbsp; &nbsp; 同厮　　国造直丁　　同厮</div><div>　　津嶋上県国造　１　　京卜部　　８　　３　　　 　２　 &nbsp; &nbsp;　　　１</div><div>　　下県国造　　　　１　　京卜部　　９　　３　　　 　２ &nbsp; &nbsp;　　　　１</div><div>　　伊岐国造　　　　１　　京卜部　　７　　３　　 　　２　 &nbsp; &nbsp;　　　１</div><div>　　伊豆国嶋直　 　１　　卜部　　　 ２　　３　　　 　２　 &nbsp; &nbsp;　　　１</div><div>　　　　　　　　　　　　斎宮卜部 &nbsp; &nbsp; 　４　　２</div><div>　　上記、国造一口とは、国造の一族から1名出すこと。京卜部は国造の支配下にある京在住の卜部のこと、する。対馬卜部には直姓を持つ者と持たない卜部姓の者がいるのはこのことを示す。</div><div>　　この当時の卜部は力役的性格が大きい。そのため代償として食糧の給付と課役の免除が行われたと考える。</div><div>　　以上から、この（『浄御原令』の）時点の卜部は「官人」へ移行する指向性を持っていたが、まだ成熟はしていなかった。『大宝令（考課令）』で番上官とされたも、これを支持する。この型の品部としては、兵衛や采女が近く、官人として成立していた画師よりは古い型とみられる。その発生時期は6世紀末から7世紀初頭をくだらないか。</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/haru58aki/entry-11771240147.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Feb 2014 13:10:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>令制卜部の構造　その2</title>
<description>
<![CDATA[ <div>・岩橋小弥太「卜部考」『神道学』42号、1964、1-13　の要約<br><br></div><div>　　卜部は伴部の一であり、一般に負名の氏人から採用された。具体的には伊豆・壱岐・対馬3国から亀卜の家柄の者を採用した。定員20名、そのうち卜長上を2名選び（宝亀6年の格 --国史大系本『類聚三代格』前篇p.163-- による）、さらに宮主2名が選ばれた。慶雲元年に大宮主が長上官とされ、養老3年に宮主が別勅長上とされた。</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/haru58aki/entry-11771239055.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Feb 2014 13:08:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>令制卜部の構造　その1</title>
<description>
<![CDATA[ <div>・井上喜久夫「官員令別記について」『日本歴史』（165）、1962-3、35-47　の要約<br><br>　　別記とは、令集解のうち古記および釈記に引用されて伝わった文献で、品部・雑戸などについての基本資料。<br></div><div>　　「別記」に記された卜部の定数は、4カ国の卜部（京卜部を含む）で30名。この数に対して「古記」は「大宝令がこれより少ない（20名）のはなぜか」という問いを載せている。これについて、何らかの理由によって神祇官が大宝令の20名という規定に即応できず、その結果古い記録（すなわち浄御原令の別記）が残ってしまったとする。</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/haru58aki/entry-11771137087.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Feb 2014 09:44:54 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ジョゼフ・フーシェ　ある政治的人間の肖像</title>
<description>
<![CDATA[ <p>シュテファン・ツワイク著　高橋禎二・秋山英夫訳</p><br><br><br><p>バルザック『暗黒事件』に触発されて著したという。そのわりには奥行きが感じられない。まだ途中なので最終的な感想はあとで。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/haru58aki/entry-11742882908.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jan 2014 12:45:17 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
