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<title>帽子作り５０年のブログ</title>
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<description>帽子やアパレルを海外工場で生産する経験談</description>
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<title>サンプルを製作する為の生産管理システム 1</title>
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<![CDATA[ 今から30年以上前の私がまだ若い頃、私はアシックスの神戸本社のアスレティック部門の企画室に帽子の注文を請ける為に年中通っていましたが、そこでは毎晩遅く迄企画室の女の子達が、鉛筆と定規でスポーツウエアーの規格書を書いていました。それは大変な作業でしたが、それが無いとアシックスではサンプルの製作も生産計画も作れなく、大変重要な作業でもありました。<br><br>そのうちアシックスではそれらの図面や技術情報をデーターベース化して、それぞれの商品の必要項目をデーターベースから呼び出し、一つの規格書としてまとめ上げる構想が計画され、私もその一部で、技術情報のデーターベースをお手伝いした事が有りました。この構想はその後材料手配やコスト計算、工場での進捗状況管理へと発展して、どの工場でも同じ物が生産出来る様になり、今でもその進化した物が、生産の要として生きていると聞いています。<br><br>衣料は世の中に数えきれない種類とデザイン、使用目的に合わせた型や素材、幾多のファッションが存在していますが、それらは全て「人間が身につける物」としての1点に集約されます。（もっとも、当社が現在生産している犬の服などは、人間の為の衣服とは全く別の発想が必要ですが。）<br><br>衣類や帽子などの小物も無数の型が有りますが、実はその基本型は何百、何千と有る訳ではなく殆どの物は、その基本型の一部修正によるバリエーションに過ぎません。また素材においてもニットや布帛、不織布などたくさんの種類が有りますが、デザインや使用目的に有った素材をデーターベースの中から選び出すのはそれほど難しい事ではなく、日進月歩で進化する新素材をデーターベースに取り込む事の方が、大変な作業だと思います。<br><br>型、素材、細部の仕様、配色、付属品のこれらの製品としての情報をデーターベースから選び出して、一つの企画書にまとめあげ、それを基にお客様の企画担当と個々の細部について、データーベースに用意されている選択肢の中から選び直して、企画書をまとめた場合、それはよりお客様の希望する内容の物になるとともに、既に用意されている材料や仕様内容になりますし、それに対応する英語や中国語の企画書が、自動的に出来ればサンプル製作の現場もより早くサンプルを作ることが出来る訳です。またこのとき出来るだけビジュアル化した説明と、イメージ図や写真を添付する必要が有ります。<br><br>次回はより具体的なサンプル製作の企画書を作る手順について、説明しようと思います。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11891504702.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Jul 2014 17:41:01 +0900</pubDate>
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<title>生産と販売のギャップを埋める生産管理</title>
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<![CDATA[ サンプルを製作する段階で、生産管理者や工場は、サンプル製作の完璧な企画書を求めますが、営業担当者は殆どが現場の生産技術者ではなく、ましてお客様の企画担当者やデザイナーは、全体の商品構成の中で企画をまとめているので、細部の技術情報はコメントせずに思った以上のサンプルが出来てくる事を期待しています。<br><br>　売れるサンプルを作るという事は、サンプルを工場現場に依頼する生産管理者の生産知識はもちろんの事、マーケットの動向や新素材の知識を生かして、如何にサンプルを依頼する顧客の企画担当者のアイデアを生産管理者が理解して、それ以上の物を作り上げる熱意が必要だと思います。<br><br>　また生産管理者は如何に工場のサンプル制作者に、細部にわたる仕様内容を理解させるかと共に、型や材料の品番や色番などを具体的に提示して、サンプル製作段階での間違いや確認の為の手待ちが無い様にしなければならず、さもないと工場も顧客も無駄な時間を費やして、結局思った様なサンプルが出来ずに販売に掛ける様になり、顧客も工場もいい結果が得られずに終わってしまう事になる危険が有ります。<br><br>それほど迄に生産管理者の技量や能力は、その商品が成功するか否かの大きな役割を担っているのですが、ではそれほどの能力を持った生産管理者が十分にいるかと言えばそうではなく、またいたとしても、昨今の多品種少量生産の現状では、その能力を十分に発揮出来る余裕が、無いのが現状です。<br><br>45年にわたり生産管理者として、仕事をしてきた私（あまり能力が有るとは言えませんが）でもいつまでたっても、顧客のアイデアに対する理解の間違えや、工場に対する指示間違えは日常茶飯事で、顧客や工場に迷惑をかける事ばかりです。<br><br>ではどうしたら生産管理者に要求される能力を満たして、顧客も工場も満足出来るサンプルを作り上げる事が出来るのでしょうか、次回我が社が取り組んでいるそのシステムを紹介します。
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11891459290.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Jul 2014 14:26:59 +0900</pubDate>
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<title>生産と販売のギャップ</title>
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<![CDATA[ 少し時間が空いてしまいましたが、今日はどの業種にも有る、生産する側と販売する側の間に有るコミニュケーションのギャップについて、書こうと思います。<br>以前私が経営していた日本での帽子工場では、東京に有る本社の販売部門と地方の工場との間で、製品の仕様内容や生産スケジュールでトラブルが発生する事が多々有りました。<br>これはどんな業種での生産会社でも発生する事だと思いますが、特にデザインを重視するアパレル業界では、多発する事ではないでしょうか。<br>なぜなら多品種、少量、短サイクルを余儀なくされる販売体制の中で、細部にわたる仕様内容が確認されておらず、また生産背景も十分検討されない状態での顧客に対する回答をしなくてはならないので、顧客の要求する物との違いが発生したり、予定納期が守れない事も多々有ると思います。<br><br>生産側から言わせると、「なぜうちの営業は細部の内容や付属品のつけ位置等、顧客の確認を取らずに受注したり、余裕を持ったスケジュールで、納期を設定しないのか」等、営業に対する不満が常に有り、また営業側は「我々は細部の技術内容は分からないし、お客様も具体的な指示は無いので、生産側がプロとして具体的な提案を出すべきだ」、生産状況についても「日々の生産状況の報告が生産側から来ない」「生産側のスケージュールでは注文は取れない、顧客の要望にいかにスケジュールを合わせるかが、生産管理の仕事だ」等々、問題が山積みされ結果、納期遅れや製品の間違いなどトラブルが発生して、値引きや返品、採算どがえしの修正に発展して行く事は、以前の私の工場だけではないのではないでしょうか。<br><br>まして20年以上前の台湾や韓国の委託工場、その後の中国やフィリピンでの自家工場では、なおさらの事、日本では常識でいちいちコメントする必要がないと思っていた事が、後で大きな問題に発展する事も、多く有りました。<br><br>今私が仕事の上で一番重要と考える言葉は「日本人の考える常識は、海外では通用しない」との結論で、日本ではいちいち確認する必要がないと思える事も、確認する事を心がけています。
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11891328534.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Jul 2014 09:12:06 +0900</pubDate>
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<title>帽子の価値</title>
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<![CDATA[ ダラダラと私の仕事の歴史を書いてきましたが、今日は私の帽子についての考えを書こうと思います。<br>当たり前ですが、頭に被れない帽子は帽子では有りませんん。そして有史以前から帽子は被る人の地位や職業を表す重要な物でした。<br>大昔から人と一緒に在った帽子は、頭部を守り寒さや暑さを防ぎ、被る人の誇りや満足感を与える物で在ったと思います。そして何と言っても被る事で、気持ち良さと幸せを与えるもの、それが帽子であると思います。<br>でも気持ち良さや幸せを与える帽子とは、どんな帽子でしょうか。<br>　もちろんその形や色、デザインなどその外見で、人を引きつける要素は非常に大事ですが、それと共に長時間被っていても、不快を与えない快適な帽子でなければならないと思います。<br>　長時間被っていると頭が痛くなる帽子、帽子の中が蒸れて髪の毛が頭にべったりくっ付いてしまう帽子、頭を急に動かしたり風が吹くと頭から動いてしまう帽子、重たくて肩が凝る様な帽子、等々、デザインとしてはすばらしくても、帽子本来の機能が不足している帽子も少なく有りません。そしてそれは帽子の作り手が、帽子本来の目的を忘れてただの商品として、生産した結果だと思います。<br>　一般的に帽子を被ったとき、頭回り（帽子の頭に触れる裾の部分）は、きつくない程度の装着感が有り、それより上のクラウンの部分は、頭に触れないか触れても頭部を押さえつけない状態の物が、被りやすい帽子だと思います。もちろん水泳や、スピードスケートの帽子など目的の特化した帽子は、そうでない物も有りますが、目的の競技や作業が終わった後、彼らはその帽子をすぐに外すでしょう。水や空気の抵抗を抑えたり頭部を守る為の特化した帽子、保温や直射日光から頭部を守る帽子でも、帽子の外側の機能だけでなく、内側の快適さを併せ持つ帽子が、これらの特殊な帽子でも理想的な帽子ではないでしょうか。<br>　有史以前に描かれた壁画では、人物の地位や職業を表すとき帽子も一緒に描かれていました。また古代の絵画でも同じ様に人物と一緒に帽子が描かれています。帽子を描く事に依って誰にでもその人物の地位や職業が理解できる様になる事は現代に於いても同じですが、その上今はアスリートが優勝したりメダルを取った時の写真やテレビのインタビューでは、そのアスリートを援助するスポンサーの名前の入った帽子が、そのアスリートの顔と一緒に画像に映る様になりました。<br>スポンサー企業はそのアスリートを応援する為に何人ものスタッフがそのアスリートと行動をともにし、その選手の為の器具や衣服を開発し、器具の手入れや選手のコンデションを最高な状態に保つ為の全ての事をして、選手と一緒にメダルを取った様な物ですから、写真やテレビの画像に選手と一緒にスポンサー企業の会社名やブランド名が映る事は、当然の事と思います。<br>そのとき最も有効な手段は、名前やマークが入っている帽子です。なにせ顔に最も近いところに有る訳ですから。<br>　そのように帽子は、被る人の考え方や感性、職業や実績、他の人に与えるインパクトは最も強く、手軽に自分をアピール出来る物だと思います。<br>　それだけに帽子自体も被る人にとって苦痛の無い、爽快感を与える帽子を作る事が、帽子を作る立場の人は、忘れてはいけない事だと思います。
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11752520503.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Jan 2014 10:54:22 +0900</pubDate>
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<title>香港での生産活動</title>
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<![CDATA[ 長年の工場運営で、工場運営の楽しさも苦労も味わってきた私は、フィリピン工場の運営から撤退して、直営工場が無くなったのを期に、中国のいたるところの工場を見て回りました。杭州の山奥の工場で手編み帽子を作ったり、南昌で安いTシャツを作ったりと、今迄自家工場で生産出来る物の制約から解き放たれた様に、チャンスの有るものは何でも手を出す様に成りました。またアメリカの"GOORIN BROS." や "NEW YORK HAT" に行って中国生産をアピールしたり、アメリカ各地の帽子工場を訪ねて、生産を依頼したりとあらゆる事をやってみました。<br>　また香港に生産オフイスの有った "GAP"や"DKNY","AIGNER" からも引き合いが有り、中国でOEM生産をしたのですが、長くは続きませんでした。当時数年の間アメリカの"BRONER" にもOEMでニット帽子を生産していたのですが、これも徐々に断ち切れて行きました。<br>　香港に居て私が分かった事は、『日本人が日本の生産ノウハウを基に中国生産した製品は、世界中で売れる』と思っていた事は大きな間違いで、生産方式や品質管理の苦労をせずに中国で出来る物を生産するだけなら、日本人の生産管理会社は、もはや必要としなくなっていたのでしょう。<br>　私に生産を依頼してきた"GAP"や"DKNY","AIGNER" も当初は日本人の私に依頼する事での、メリットを感じていたのかもしれませんが、すぐにそれは直接中国に依頼すれば同じ物が作れると、判断したのでしょう。それほど中国工場の販売意欲は凄まじく、技術革新や中国政府の輸出促進政策も有り、世界の工場に成り得たゆえんではないかと思います。<br>　余談ですが私の住んでいるフィリピンの輸出展示会を見ると、フィリピンで作れるものが並んでいますが、中国の広州交易会や上海の展示会では、世界で売れる物は何でも有ると言った感じで、莫大な種類の製品が、所狭しと並べられています。<br>　また２０年以上も香港に居て感じるのは、香港に居る人々は、その９０パーセント以上は何かを売ろうとしていて、何かを買う為に香港に居る人は、観光客以外ではほんの少ししか、居ないと言う事でした。
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11752109607.html</link>
<pubDate>Fri, 17 Jan 2014 18:30:19 +0900</pubDate>
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<title>ユニクロ製品の生産</title>
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<![CDATA[ フィリピンの合弁相手との提携を解消して、香港の "SUNSHINE SPORTS PRODUCTS LTD. が独自に生産工場を確保しようとしていた頃、元アシックスの品質管理のマネージャーから電話が有り、今度　ユニクロを展開しているファストリテイリングに入り海外生産のバイヤーとして仕事をするので、香港で打ち合わせをしたいと連絡が来ました。<br>　当初アパレル全般の要求が有りましたが、当社としては帽子や手袋などの小物で、対応する事になり、中国の生産工場をチェックしました。<br>　しかしファストリテイリングの品質基準は、以前アシックスと相談して作り上げた品質管理マニアルをそのまま使う事になり、当時の中国の工場では、まだ無理ではないかと思った私は、今迄の韓国台湾の工場や、香港の地場工場での生産を計画しました。<br>　当時はまだユニクロ商品の生産数もそれほど多くなく、中国では、要求する品質管理マニアルを実行出来るか疑問だったせいも有りました。<br>　<br>しかしその後すぐにコスト面や生産能力として、韓国台湾や香港の工場では無理に成り、日本への輸出になれている華中（特に上海や江蘇州）の工場と交渉して、ユニクロ商品の生産が始まりました。<br>　当時日本向けに合った中国の工場を新たに見つけようとして、以前中経総公司と初めて中国で、工場を探した時とは違うルートをたどって、上海、杭州、寧波、南通、徐州、常州、南京等の工場を回り、いろいろ試験生産もしたのですが、最終的に上海に有る台湾人が経営する布帛帽子の工場と、同じく上海のニット帽子や手袋を中心に輸出している会社に依頼して、当時爆発的に伸びていたユニクロの注文を生産する様に成りました。<br>　特に布帛の工場では、『不良品が発生する前に不良品を作らない』をモットーに材料の入荷から各工程毎に品質管理を行い、不良品を次の工程に渡さないシステムを作り上げ、この工場は数年のうちに飛躍的に伸び、上海の田舎に合った小さな工場は、浦東の工業団地に大きな工場を作る様に成りました。<br>　その頃から中国では、『品質管理を徹底して良い物を作れば、利益に繋がる』との発想がどの業種でも芽生え始めた為、今日の様な『生産大国』になったのではないでしょうか。<br>以前は『品質を守る事は、コストが上がる』との思想がはびこり、問題が起きるといかに責任を逃れるかに終始していた事は、日本の企業が中国で生産する為の生産責任者の誰もが感じていた事では無いでしょうか。
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11749290143.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Jan 2014 18:04:36 +0900</pubDate>
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<title>フィリピンのニット工場２</title>
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<![CDATA[ フィリピン工場が稼働して数年後、フィリピン政府の援助も有りドイツのミュンへンのISPOの展示会に出店して、欧米のスポーツ用品業界にスキー帽を売り込もうとしました。ブースの来訪者は大勢有り、一様に「これだけの物がフィリピンで出来るのか」と驚くとともに、「フィリピンで作っているのにこんなに高いのか」と再び驚いていました。<br><br>フィリピンのニット工場は日本での上代が5,000円近くする特別なスキー帽を作っていましたので、製品としては問題ない物でしたが、コストも日本並みになり、結局欧米からの注文はまとまりませんでした。<br>ただISPOの会場で、当社の商品を見たオーストリアのアイスバー(EISBOR)のオーナーが香港の私のオフイスに訪ねてきて、スキー帽の生産についてたくさんの話をしましたが、当時我々の工場も生産余裕が無く、OEM生産には至りませんでした。<br>　しかし私が初めてヨーロッパで見たスキー帽を日本でも作りたい思って、その目標としたアイスバーのオーナーやデザイナーであるその奥さんと、スキー帽について話し合いの時間が持てたのは、とても幸せな時間でした。<br><br>日本の材料や日系の工場の材料を使い、全て日本と同じ様に作り香港の合弁会社を経由して、日本で販売する製品は、徐々にコストが合わなく成り、香港事務所が開拓した中国の工場の生産技術も上がると、当社にとってフィリピン工場の価値が低下し、日本の本社からもコスト面で、中国工場での生産を要求され、また合弁相手のパートナーからも香港事務所を経由しないで、直接フェニックスに販売すれば、コスト面で、単価を下げる事が出来るとの要求が有り、合弁のパートナーと話し合った結果、それぞれ５０パーセントずつ保有していた、フィリピンと香港の会社を、フィリピンは合弁相手に、香港は私の方に譲渡する事で、それぞれ独自に継続する事になりました。<br>その後 2~３年は日本のニットメーカーを生産管理の仲介に入れ、フェニックスとこの工場の間で、直接取引をした様でしたが、工場は閉鎖してしまいました。<br>即利益を追求する事が一番の現地のパートナーと、『品質や生産システムを確立出来た時に利益は生まれてくる』と考えていた、私の考えとの違いが、結果的に工場運営に失敗した苦い経験になりました。
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11747898090.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Jan 2014 16:51:31 +0900</pubDate>
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<title>フィリピンのニット工場</title>
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<![CDATA[ フィリピンに工場を作る迄は、海外の既存の工場に生産を委託して、その生産方法を教え、日本式の帽子を生産してきたのですが、いざ場所の選定、工場の設計建設までまかされる様に成ると、今迄私が持っていた工場の概念や日本での工場経営の経験を生かそうと意気込んで、設計図を書いても、合弁相手の経営者側からは、色々と反対が起こり何度も修正を余儀なくされました。<br><br>当時まだフィリピンのインフラ事情や、工場運営の慣習、工場労働者の考え方に理解の足らなかった私の工場設計図は、単に日本の工場設計の経験に依るもので、現地の事情をあまり考慮していませんでした。<br><br>　小さな町工場に生まれ育った私は、経営者も従業員も一緒のテーブルで一緒に食事をとり、一緒に仕事をする事が、良い事と考えていましたので、設計図の段階では、一カ所の食堂一カ所のトイレしか作りませんでしたが、これは猛反対に遭い、特に生産ライン従業員の予定者達からは、「経営者と同じ食堂やトイレしかない工場では、働けない」とまで言われました。<br><br>海外の工場で生産をするとき、その工場やその国の状況を理解した上で、日本式の生産方法をとけ込ませる努力をしないと、結局は思う様な製品は作れない事をそのとき学びました。<br><br>このフィリピンの工場は、日本の当社の工場のコンピューターの編み機を移設し、当時日本で生産を請けていたフェニックスのスキー帽を生産する事を、当初の目的としていたので、製品の内容や品質は問題なかったのですが、海外工場で生産する目的の一つである原価の低減については、あまり効果はなく、また納期を守る点についても、色々問題が発生しました。<br>　特にフィリピン人は、『仕事よりも家族』の考えが強く、どんなに仕事が忙しい時でも、家族の記念日や地域のイベントが有る時は仕事を休んでしまい、生産を管理する者としては頭の痛い毎日でした。<br>　また仕事の分担をはっきりする意識が強く、私の工場に対する考えで、「自分の工場や職場は、常に自分たちで掃除してきれいにする。そうでないと出来た製品も質の悪い物になってしまう」と、要求しましたが、スタッフの反応は、「それではジャニター（掃除専門のスタッフ）を雇えば良い。その方が常に工場はきれいに掃除され、自分たちももっと仕事に専念出来る」という物でした。<br><br>　ニットの編み糸は、当時フィリピンに有った日本のダイヤファイバースの工場に依頼して、染色からコーンアップ迄した物を仕入れていたのですが、発注から納品迄に時間がかかるので、「どうしてそんなに時間がかかるのか」と文句を言いに工場に行ったところ、実は既に染め上がっているけれど、コーンアップの部門が忙しくてまだ巻き上がっていないとか、既に全ての作業は終わっているけど、配達の予定は来週になっているので、ここに置いてあると言った返事が返ってくるので、私は毎週の様に工場に行って、時には小さなお土産を持って行って、直接その部門の責任者に納期を短縮するよう頼んだり、時には私の車に積んで持ち帰る様に成りました。しかしその後その事が問題になり仕入れ先の社長から「生産の秩序を守れないので、止めてくれ」と言われ、工場への出入りを禁止される事も有りました。<br>　日本の工場で培った『どんな事でもして、納期や品質を守る』アパレル業界の根性は海外では通用しない事も学びました。<br>
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<pubDate>Sat, 11 Jan 2014 12:21:53 +0900</pubDate>
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<title>香港を拠点に</title>
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<![CDATA[ いざ広州での生産を始めると、韓国や台湾の様に日本から出かけていたのでは、中国では間に合わない事に気づき、それではどの国にも近い香港に拠点を置いて、動き回れば良いのではないかと考え、1989年に香港に移り住み翌年会社を立ち上げました。<br>当時は未だ英語もろくにしゃべれない状態で、ただ移ってきてしまっ為、実際の仕事は日本に居た時と同じで、何から始めれば良いか分からない状態でした。そんなとき特に親しかったアシックスの部長が、私の事務所兼自宅の香港の部屋に訪ねてきてくれたのですが、日本に帰って私の弟に電話をして、「あいつは香港のビルの２６階で仙人みたいな生活をしているぞ、どうにかしないと頭がおかしく成るぞ」と言っていたそうです。<br>実際何から始めれば良いのか分からずに、数ヶ月が過ぎてしまったのですが、そんな中で中国で、スキー帽を生産する計画の有ったフェニックスの生産担当者が、香港に来て当社の生産計画の確認に来たのですが、未だ何も分からない状態で、香港の材料メーカーや工場を案内して回った時は、冷や汗ものでした。フェニックスの生産担当者にも後で、「菊地さん未だ何も分かっていなかったのでしょう」と言われてしまいました。<br><br>その後、日本語の話せる香港人を雇い入れ、香港の帽子製造組合の会長をしている会社と提携して、香港での帽子生産や、材料調達のルートも出来る様に成りました。当時はまだ色々な業種の工場が香港に残っていて、[MADE IN HONG KONG]の製品が欧米に出回っている時代でした。今は皆無に近いと思いますが。<br><br>1990年 "SUNSHINE MIYAKO CO.,LTD." を香港に設立した後、フィリピンでラタンのバスケットを欧米に輸出している大手の工場のオーナーでフィリピン国籍の中国人と合弁で、香港に "SUNSHINE SPORTS PRODUCTS LTD." とフィリピンに "SUNSHINE SPORTS PRODUCTS PHILIPPINES INC." を設立しフィリピンではマニラ市内の工業団地に2000平米程度の工場を作り、ニット帽子の生産を始めました。<br>布帛の帽子は、広州の工場が有るので問題は無かったのですが、ニット帽子はこれと思う工場が見つからなかったので、日本の工場の主だった機械を移設して、管理者も日本で研修させ、工場長や技術者も日本から移住して、設備もシステムも、全て日本式の工場を稼働させました。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140110/18/hat50s/5e/0b/p/o0539026112809753608.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140110/18/hat50s/5e/0b/p/o0539026112809753608.png" alt="フィリピン工場" border="0"></a><br>
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11745194782.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Jan 2014 19:38:22 +0900</pubDate>
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<title>中国生産のスタート</title>
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<![CDATA[ 天安門事件の有った頃、私は、北京と広州を飛行機で往復する様な事がたびたび有りましたが、空の上から長江や沿岸部を見ながら、この国は50年経っても何も変わらない、それほどに大きくていくら開発しても全体に行き渡るには長い年月がかかる。でもいつかこの国は日本に勝るパワーを持つだろうと漠然と感じていました。でもあっという間の中国の変化は、私の想像を絶するものでした。<br><br>やっとここなら組んで仕事ができると思った工場が見つかったのは、広州市の旧市街に有る工場でした。工員100人程度の中国では小さい部類に入る工場でしたが、総経理や副総経理が私の語る中国生産の夢を良く聞いてくれて、意気投合しました。それでもこの工場で生産が始まるには、技術指導やサンプル作りを繰り返して、約１年の間、何も仕事が始まらなかったとき、私は彼に「何度もサンプルを作って時間と労力をかけているのに未だ注文を出す様なものになっていない。申し訳ないがもう少し頑張って私の言う事を聞いてくれ」と言うと、総経理は「あなたこそ何度も何度も時間と飛行機代を掛けて来てくれているのに、未だ物にならないのは、申し訳無い。もう少し我慢して続けてください」と言われました。即結果を要求する中国の経営者としては珍しく、今は亡くなりましたが、彼とはその後中国での私の父親の様な存在でした。<br>　その後この工場ではスキー帽や野球帽の生産が始まり、工場も広州駅の近くに移って規模を拡大し工員も４００人ほどに増えました。また国営工場で有ったため新たに当社と合弁会社を作り敷地内の１棟を新会社の工場として、日本やアメリカ向けの生産を始めました。<br><br>当時は広州や沿岸部の発展が目覚ましく、広州にも仕事を求めて地方から来る人が後を絶たず、広州駅には一日５万人もの人が溢れ、駅前で野宿する様な異様な状態でしたが、我々もその中をかき分けて工場に行く様な状態で、今と違っていくらでも従業員が集まる時代でした。
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<link>https://ameblo.jp/hat50s/entry-11745192851.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Jan 2014 18:21:11 +0900</pubDate>
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