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<title>ＲＯＹ教授の準備室</title>
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<description>幅土大学の歴史学教授にしてレラカムイファンの本名「はよし」。通称ＲＯＹ　ＬＩＮＮ。本業の歴史のつぶやきをはじめ、不定期に自分を語ります。</description>
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<title>空白の時代</title>
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<![CDATA[ さて、今年平成２４年の６月に<br><br>全国の新聞紙上において、九州大宰府で最古の木簡が発見されたとの報道がありました。<br>http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG12031_S2A610C1CR8000/<br><br>最古かどうかはこれから先もどんな発掘が全国であるかわかりませんから<br><br>そんなに重要ではありませんが<br><br>ここでは「評」（こおり）という行政区分名が出てきたことが重要です。<br><br>ご存知のように日本で最初の法律とよばれる大宝律令では国郡里制を採用しているので、<br><br>大宝律令下のものではない。<br><br>ここで客観的にわかることは西暦７００年以前に評という行政区分が九州に存在していた、<br><br>ということです。<br><br>この評。<br><br>日本書紀の中でも顔を出す言葉なので、以前施行されていた評などの行政区分を<br><br>大宝律令の制定にともなって再編成して郡になおしたのではないかという学者の説が一般的になっていますが、<br><br>そんなことは日本書紀には書かれていません。<br><br>実際の大宝律令全文が出てくればシロクロつけられるのですが、<br><br>この時点では学者の説は仮説のひとつでしかありません。<br><br>仮説のひとつであれば、<br><br>古田史学のひとつである、評とは大和朝廷が支配する以前の東鯷国（とうていこく）の行政区分ではないのかという説もあげられます。<br><br>そこから導き出せるのは、今回の発表で<br><br>大和朝廷以外の国家が使っていた行政区分ではないか、<br><br>もっとつきつめると<br><br>九州王朝の行政区分だったのではないかと言えるのです。<br>　<br>今回の発表でその思いを強くしていた矢先、<br><br>偶然にしてある先生の小論文に出会いました。<br><br>川端俊一郎先生です。<br><br><br><br>その川端俊一郎先生の意見も所謂九州王朝説です。<br><br>この先生は我が北海学園大学の経済学部の教授でありながら、<br><br>建築学の造詣が深く、また古代の日韓中外交史にも持論をお持ちであるという<br><br>異色の先生で、<br><br>その論文に法隆寺における中国南朝尺使用から<br><br>ずばり九州王朝説を展開するものがあります。<br><br>基本的には古田史学に近いものがあるように感じられますが、<br><br>アプローチの手法は少し違うようです。<br><br>しかし、既存の歴史学者や教科書が目をそむけている<br><br>中国、韓国の文献を丹念にひろい、日本書紀の隠しているものを<br><br>あぶりだしていく手法は軌を一にするものがあります。<br><br><br>川端先生の論で新たに認識したのは<br><br>大宰府とは何か、ということですが、<br><br>単純な地名で無い事は理解して下さい。<br><br>府とは何かと云うと、特定の官職にあるものがつかさどる統治機関のことで、<br><br>この大宰府とは王を助けて国を治める人の官職である太宰に就いた人が長官の役所、<br><br>統治機関であるということです。<br><br>この大宰府は代々中国南朝に存在する機関でした。<br><br>倭国はこの中国南朝と冊封関係にあり、その将軍もしくは大将軍の役職を自称または<br><br>実際に与えられていました。<br><br>その南朝配下の将軍である倭国王が南朝の出先機関として都督府をたてていましたが、<br><br>南朝が北朝の隋に滅ぼされたことによって独立したと判断し、それまでの都督府から<br><br>大宰府と自らの統治機関を名乗る事になったのです。<br><br><br><br>僕の個人的な見解では。<br><br>邪馬台国に一大率という官職名が出てきます。<br><br>その一大とは同じ倭人伝にでてくる一大国のことで、全国を畏怖させたという<br><br>一大率とは壱岐国から九州北部に侵入した軍事、もしくは政治勢力かと考えています。<br><br>そしてその一大率が太宰の帥となり大宰府に受け継がれたもの、と想像していました。<br><br>つまり前回登場した大倭（だいい）は外交交易の役職で、<br><br>一大率（いたのそち？）は内政の機関であると。<br><br>しかし、すると倭王の都督府とその存在がバッティングしてしまうのでした。<br><br>一大率は置いておいて、川端先生の大宰府論だと、都督府と大宰府の関係性が<br><br>すんなりとしてきました。<br><br>　<br>まず、教科書にある、<br><br>なんでも大和朝廷＝奈良・大阪に結びつける考え方は忘れて、原文にある事実関係だけをとどめおいてください。<br><br>中国の歴史書に、最初に通じてきた倭国は<br><br>漢倭奴国で、<br><br>初めて冊封関係になり、金印をもらいます。<br><br>次に登場する卑弥呼の時代、その国は魏に使いを送り、<br><br>魏は使いをその国に送ってきました。<br><br>魏は親魏倭王の称号と金印を卑弥呼に与え、倭国内の抗争に対して卑弥呼の支持にまわりました。<br><br>その後は魏が晋に取って代わられ、中国国内は南北朝時代に入ります。<br><br>北朝はいわゆる匈奴系の国とみなされ、<br><br>それぞれ易姓革命を繰り返しながらも、南朝が漢族の正統な王朝であるとみなされていました。<br><br>そして倭の五王時代、<br><br>朝鮮半島での覇権をめぐる戦いに倭国も強くかかわっており、<br><br>戦いと親交を繰り返す混沌の時代に入っていました。<br><br>教科書は多くを語りませんが、<br><br>好太王碑文は事実を語ります。<br><br>新羅王家とは血筋につながりがあったり、新羅の重臣に倭国出身のものがいたり、<br><br>最終的に朝鮮半島の拠点となる任那（みまな）と呼ばれる加耶諸国を新羅、百済両国に奪われますが、<br><br>尋常ではないつながりと抗争のなかにありました。<br><br>だから五王たちは戦いの先陣に立ち、<br><br>戦いで命を落とし、<br><br>そして力だけではなく、その権威を求めて自らの先祖達が行った冊封関係をより前進させるために<br><br>南朝へ朝鮮半島を支配する将軍職を求めて朝貢しました。<br><br>当然、対抗する百済や高句麗もです。<br><br>その結果得られたのが倭王武の使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王<br>という称号でした。<br><br>このなかに百済がはいっていないのは百済は自立した王として南朝の宋に認められていたからです。<br><br>この動きのなかで倭国は都督府をたてたわけです。<br><br>そして南朝の崩壊とともに大宰府とした。<br><br><br><br>全国に旧国府あとが遺構や地名として残っていますが、<br><br>この大宰府のある筑紫と多賀城のある陸奥のみが<br><br>独立した国府を持っていません。<br><br>それぞれが国府としての機能を負っていたからです。<br><br>ただ、筑紫は国府を別に立てた記録がありますが、まったく存続しませんでした。<br><br>　<br>さあ、これらの話から何が見えてきますか。<br><br>すべては漢倭奴国からはじまっていますね。<br><br>そしてその金印が江戸時代に福岡の志賀島で発掘され現存しているという奇跡。<br><br><br>中国の歴史書は一貫して倭国をこの倭奴国を引き継いだ国として記載しています。<br><br>その中に出てくる金印が志賀島から出土した以上、<br><br>倭国は大和朝廷ではありえないといえるでしょう。<br><br>大切な宝物をそんなところに埋めますか？<br><br>ちなみに聖武天皇の御物を収めているのは東大寺の正倉院ですね。<br><br>また、大和朝廷の武器を収めていたのは石上神宮です。<br>　<br>　<br>　<br>そんな中国の歴史書から倭国が消え、日本国にバトンタッチすることになるのが<br>新唐書、旧唐書の記述からです。<br><br>教科書が絶対に載せないポイントですね。<br><br>この時期に何があったのか、<br><br>磐井の反乱、日出天子、聖徳太子、白村江の戦いが次のキーワードです。<br><br><br>記事中、一大率を一大宰と強引に書いちゃいましたので、訂正しました。
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<link>https://ameblo.jp/hayoshi/entry-11387061466.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Oct 2012 21:46:32 +0900</pubDate>
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<title>ヤマトタケルの謎</title>
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<![CDATA[ およそ今の日本に統一されたのは文武天皇の頃からではないかとの説があります。<br><br>それは前稿でも書きましたが、九州王朝が日本の王者であり続けたからです。<br><br>すなわち、九州王朝が倭国。大和朝廷は日本。<br><br>日本の国名のもととなったのは大阪府にある草加です。<br><br>そこは昔巨大な入り江だった大阪平野の東岸にあって、<br><br>河内湾ともいうべきその入り江の入り口からそこを望むと<br><br>まさに日の下（ひのもと）。<br><br>飛ぶ鳥の明日香と同じようにその地は日の下草加と呼ばれ、やがて日下でくさかと読まれるようになります。<br><br>つまり、大阪が日の下、日本だったのです。<br><br>この地は出雲の勢力と北九州の物部勢力によって作られた国でしたが、<br><br>やがて神武の東征によって次第に物部宗家以外の勢力は東に追いやられ、<br><br>出雲は神として祀られる事によって徐々に大和朝廷が形作られていくことになります。<br><br>考古学的には近畿周辺で流行した銅鐸がある時全て壊され地中に埋められている事実があり、<br><br>それは西は岡山、四国の東半分、東は東海地方までにおよぶ銅鐸文化圏が<br><br>それを否定する勢力に駆逐された事実を反映しているのです。<br><br>つまり、神武の東征の証拠。<br><br>一大勢力だった銅鐸文化圏が大和朝廷の土台でない事は続日本紀で近江で発掘されたいにしえの宝鐸が登場し、<br><br>それが何なのかわからないという記事からもうかがい知れる事です。<br><br>銅鐸の国日下がはじめにありき。<br><br>倭の血を受け継ぐ神武がそれを奪ってできた大和朝廷。<br><br>当然本家として優位に立つ九州王朝の倭国。<br><br>最後に倭国を奪った大和朝廷が書けない歴史です。<br><br>しかし、記紀から漏れ出る片鱗からうかがい知れる事なのです。<br><br>今日の最後にヤマトタケルのお話をしましょう。<br><br>古田学説に立脚したお話ですが。<br><br>ヤマトタケルはもともとヤマトオグナという名前でした。<br><br>それが父である景行天皇の命で単身、熊襲征伐に向かい、<br><br>女装してクマソタケルの兄弟のそばに潜入することに成功したヤマトオグナは<br><br>最後にクマソタケルを刺殺する事に成功しました。<br><br>今わの際でクマソタケルは自分の暗殺に成功したヤマトオグナをほめ、<br><br>タケルと名乗るよう命じます。<br><br>そしてその日からオグナはヤマトタケルになるのです。<br><br>ここまでは手塚治虫の火の鳥にも描かれる有名な英雄伝説です。<br><br>しかし、子供のころに読んだときはすんなりと受け入れるだけでしたが、<br><br>今は違います。<br><br>問題が大アリ。<br><br>まず真っ先に上がる疑問は命名権者。<br><br>暗殺とは言え討伐対象の賊であるクマソタケルがタケルを名乗れと言います。<br><br>その名をヤマトオグナは名乗ります。<br><br>父である景行天皇の許しを受けたのでしょうか？<br><br>いや、それよりも犯罪者から付けられた名前を名乗るでしょうか？<br><br>あり得ない話です。<br><br>そこで考えられる事は<br><br>「タケル」という名前が一つの称号的かつ象徴的な名前で自分の格をあげるものであった。<br><br>いや、それにしても反逆者から命名されるのは大きなお世話です。<br><br>何もクマソタケルに許されたから名乗ったという逸話を残さずにもっと適当な<br><br>例えば景行天皇から猛々しい皇子であることから命名されたとでも言えば良いはずです。<br><br>しかしそうではない。<br><br>名前を命名すべき人とはどんな人でしょう。<br><br>まずは親。<br><br>そして武士なら主君。<br><br>いずれも上位者以外ありえません。<br><br>もうおわかりでしょうか。<br><br>ヤマトタケルの熊襲征伐とは<br><br>軍隊を送って正面きっての戦争ができない相手で、<br><br>しかも称号を与える事ができる<br><br>すくなくともヤマトタケルよりも上位に立つ者を<br><br>暗殺した話です。<br><br>それは九州に勢力をもっている大和朝廷の上位者。<br><br>九州王朝の王者、倭国王以外にありえないのです。<br><br>さてそろそろ今日のお話の最後にしますが、<br><br>先ほど飛ぶ鳥の明日香、日の下草加のお話をしましたが、<br><br>日本語の地名や人名の漢字表記には本来の読みとはかけ離れたものがあります。<br><br>飛鳥や日下、長谷などがその代表ですが、<br><br>みなさんはもっと多く目にしていながら疑問に感じなかったものはありませんか。<br><br>それが<br><br>大和です。<br><br>やまと<br><br>本来は山野辺をあらわす日本が地名になったものと考えられますが、<br><br>なぜだいわと書くのでしょうか。<br><br>これは私の推論ですが、<br><br>恐らく大和朝廷が九州王朝より優位に立つ事ができた時、<br><br>諸国、諸豪族に対して自分の国の名前を<br><br>大倭なる山門と称したのではないでしょうか。<br><br>飛鳥も日下もその文字は地名を形容する言葉です。<br><br>では大倭とは何か。<br><br>魏志倭人伝に初めて出てくる言葉ですが、<br><br>市場や交易を監察する役職として使大倭というものが出てきます。<br><br>王ではありませんが<br><br>今の外務省と経産省を合わせた部署の長官のようです。<br><br>しかも倭の文字を使っている。<br><br>恐らくは邪馬台国の枠を超え、鉄をはじめとする交易品を欲する<br><br>日本のすべての国の窓口だったのでしょう。<br><br>だから大倭。<br><br>多分、まだ九州王朝が存在してる時代、しかしその力が衰えた時。<br><br>白村江の戦い以後、<br><br>王者ではないが外国に向けた日本全体の窓口であることを知らしめるために<br><br>大倭なるやまと。<br><br>大和朝廷はそう名乗りをあげたのではないでしょうか。<br>　<br>次回は木簡発見から考察される九州王朝の最期。<br><br>キーワードは大宰府です。
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<link>https://ameblo.jp/hayoshi/entry-11283104301.html</link>
<pubDate>Thu, 21 Jun 2012 08:14:28 +0900</pubDate>
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<title>ここで伝えたい事</title>
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<![CDATA[ 福岡で戸籍の木簡発見のニュースが流れて、はや一週間がすぎました。<br><br>これは大きいニュースです。<br><br>どうもせつな的なこの準備室ですが、<br><br>ここでこれまでの物部論からちょっと離れて整理したいと思います。<br><br><br>私が何を伝えたいのか。<br><br>できれば書こうと思っている「神々の時代（とき）」という小説、<br><br>その結論を先に述べましょう。<br><br>日本の歴史は大和朝廷だけのものではない。<br><br>例えば神話の世界も<br><br>出雲から始まります。<br><br>そこは葦原の中つ国と呼ばれる世界。<br><br>そして舞台はほんの少し北九州や高千穂へ移ります。<br><br>そこは高天原と呼ばれる世界。<br><br>そして大和にたどり着くのです。<br><br>神々の時代は大和が主ではなかった。<br><br>例えば神無月、全国の神は出雲に集う為、地元からいなくなります。<br><br>たったこれだけのことですが<br><br>参勤交代を思い出して下さい。<br><br>江戸に集まる大名。<br><br>主従の在り方に変わりはありません。<br><br>出雲では神在り月。<br><br>出雲が日本を代表していた時代があったのです。<br><br>そして国譲り。<br><br>高天原の神々が出雲の神々に国譲りを求めます。<br><br>大国主が国譲りをしたあと、高天原の神々が出雲に下ったという話はありません。<br><br>ここで譲ったのは日本の代表権でしょう。<br><br>出雲は日本海を隔てた朝鮮半島とのつながり、そして鉄資源で強国となりました。<br><br>それよりも縄文の昔から黒曜石の産地として沿海州からも人の集まる地域でした。<br><br>だから強大な力を誇ったのが、やがて出雲より朝鮮半島に近く<br><br>もっと大量に鉄資源を手に入れられ、そのせめぎ合いの中で武力を磨いていった<br><br>北九州勢力にとってかわられたのでした。<br><br>そして神武の東征。<br><br>舞台は河内、大和に移ります。<br><br>この神武たちはけっして日本の代表ではありません。<br><br>彼らは兄弟で十余年をかけて東をめざしますが、<br><br>そんな長い間、国の統治を放っておく王はいません。<br><br>彼らは国ごと移動したわけではなく、<br><br>高天原からはずれた勢力だったのです。<br><br>高天原は有り続けなければならない。<br><br>大和に入り込んだ神武たちは<br><br>しかし、大和の近辺しか支配していない。<br><br>決して大和に入れた事で日本全国を支配したわけではないのです。<br><br>では高天原はどうなったか。<br><br>九州の王国は綿々と受け継がれ、中国には倭国と呼ばれます。<br><br>その倭国こそ高天原。<br><br>先祖を同じくする大和もやがて少しずつ力をつけていきます。<br><br>やがて日本書紀に筑紫の君磐井の反乱と記される事件が起きます。<br><br>磐井が起こした反乱を鎮める為に<br><br>継体天皇と物部物部麁鹿火が筑紫に向かうのですが、<br><br>この時、物部麁鹿火に向かって継体天皇は<br><br>「筑紫より西はお前が取れ。長門より東は朕が取る。」と云いました。<br><br>自分の領土内で起こった反乱とは思えない言葉。<br><br>どう考えても侵略者の言葉です。<br><br>また攻められた筑紫の君磐井も不思議な事に本拠地で戦う事になりますが、<br><br>攻める気満々の敵を自分の本拠地に来るまで何もしない反乱者がいるでしょうか。<br><br>まずはできるだけ自分の領域の外に出て戦うはずです。<br><br>つまり、なんらかの軍事行動の必要があるため<br><br>共同で戦うはずだった磐井軍と継体軍。<br><br>この継体軍が筑紫に到着してから裏切りを行った、そうとしか考えられないのです。<br><br>しかも、その言葉通り筑紫の地は物部麁鹿火のものとはならず、<br><br>磐井の子供の葛子が後を継ぎます。<br><br>この時期の朝鮮の歴史書には<br><br>日本の天皇とその子供が急死したと書かれていますが、<br><br>継体天皇が子供と一緒に死んだ事実はありません。<br><br>おそらく、磐井とその嫡子が戦死した事実の事でしょう。<br><br>このあと中国は隋、唐の時代になり、有名な隋書倭国伝の記述がでてきます。<br><br>とうてい聖徳太子とは思われない日いずるところの天子、多利思比孤。<br><br>実際には俀国伝であり、多利思北孤なのですが。<br><br>この記述のあと九州の王朝は次の唐の時代まで消えます。<br><br>そして新唐書、旧唐書。<br><br>この間、大和朝廷が筑紫を攻めた事実はありません。<br><br>しかし、あの白村江の戦いが起こるのです。<br><br>この時、九州王朝の王は<br><br>倭の五王の時代からの伝統通り、前軍の先頭に立って戦っていた事でしょう。<br><br>そして大和の軍隊は後軍にあって戦いを見守っていたのです。<br><br>そして日本軍は敗退します。<br><br>多分、後軍の大和軍は前軍、中軍を助けることなく引き揚げたものと思われます。<br><br>この戦いでは日本国中から兵士が参加しています。<br><br>それは数名の捕虜となった兵士たちが戦後帰国した時の記録からわかります。<br><br>しかし、そこには近畿地方の兵士はいなかったのです。<br><br>そして帰ってきた捕虜の中に筑紫の君の名前がありました。<br><br>あの磐井の子孫。<br><br>九州王朝の王者であるはずの人物です。<br><br>このころに日本は九州王朝を抱え込んではじめて本当の日本となるのです。<br>
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<link>https://ameblo.jp/hayoshi/entry-11282507758.html</link>
<pubDate>Wed, 20 Jun 2012 17:37:32 +0900</pubDate>
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<title>出雲の系譜</title>
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<![CDATA[ <p>記紀によって神代史がゆがめられたとしたら、では何によって真実を探せばよいでしょう。</p><br><p>例えば秦の始皇帝がそうしたように</p><br><p>自家の歴史を正当化し、諸説を殺すための方法に焚書坑儒があります。</p><br><p>都合の悪い歴史や思想を記した書物をすべて焼き払い、始皇帝の場合は</p><br><p>あらゆる儒家を捕まえ、生き埋めにすることによって歴史思想を一本化しようとした。</p><br><p>これが日本書紀編纂の際にも行われたのです。</p><br><p>天武天皇の言葉に諸家の持つ帝紀旧辞の誤りを正すという日本書紀編纂の意義があり、</p><br><p>持統天皇によって石上神宮(いそのかみじんぐう)や大神神社(おおみわじんじゃ)の古文書や</p><br><p>佐伯氏、大友氏、上毛野氏など有力豪族１６氏の系図などが取り上げられました。</p><br><p>元明天皇の時代に禁書を持って山に逃げ込んだものの罪を投降すれば許すといった恩赦も出されていますから</p><br><p>これらはかなり徹底して行われたものと思われます。</p><br><p>中でも石上神宮、大神神社は物部氏の祖神を祀る神社で、</p><br><p>この二社の持つ歴史がいかに朝廷にとって邪魔であったのかがわかります。</p><br><p>しかし、社伝を奪われたのは巨大であったその二社であり、</p><br><p>また文書が奪われても口碑は残ります。</p><br><p>大きな柱は奪われても、その柱を支える支柱から柱の存在は見えてくるのです。</p><br><p>つまり、今に残る神社の社伝、</p><br><p>それも記紀成立以前の創建になる神社の社伝を追っていけば</p><br><p>記紀とは違う視点から我が国の成り立ちが見えてくるはずです。</p><p>　</p><br><p>　</p><p>そこでひとつ注目すべきものがあります。</p><br><p>天皇と天王。</p><br><p>てんのうとは日本の頂点に立つ王様の称号です。</p><br><p>しかし、字は違いますが同じてんのうを称する神様がいます。</p><br><p>牛頭天王(ごずてんのう)。</p><br><p>この牛頭天王を祀る天王社の総本社が三重県津島市にある津島神社。</p><br><p>ここの祭神は建速須佐之男命＝素戔嗚命(スサノヲノミコト)です。</p><br><p>社伝によると欽明天皇の時代に神社が創建され、</p><br><p>平安時代の嵯峨天皇によりスサノヲのことを皇国の本主なりと呼び、</p><br><p>神社を日本総社とされました。</p><br><p>そして一条天皇から天王社の称号を与えられたとあります。</p><br><p>大事なところは嵯峨天皇からスサノヲノミコトが皇国の本主と呼ばれたことです。</p><br><p>どういうことかというと</p><br><p>常識からいうと、皇祖神は天照大神でなければいけません。</p><br><p>天皇家の初代神武はさかのぼるとアマテラスの系譜であり、</p><br><p>アマテラスは孫のニニギノミコトに葦原の中つ国を統治させるために</p><br><p>大国主に国譲りをさせたのです。</p><br><p>そのオオクニヌシノミコトの義理の親、もしくは数代前の祖先にあたるのが</p><br><p>スサノヲ。</p><br><p>この国譲りはどこまでのものかわかりませんが、</p><br><p>豊かな葦原の中つ国を見た高天原の連中がアマテラスの子孫こそが治める国だとして</p><br><p>大国主に全面降伏を呼びかけるのですが、</p><br><p>温和なオオクニヌシは子供たちに判断を任せるといい、</p><br><p>長男の事代主(コトシロヌシ)は承諾して入水したが、次男の建御名方(タケミナカタ)承諾せず、</p><br><p>使者である建御雷神(タケミカズチノカミ)と争うが負け、諏訪湖まで追い詰められて降参する。</p><br><p>これによりオオクニヌシは自分たちの社を作ってもらう事を条件に降伏するのです。</p><br><p>長くなりましたが、</p><br><p>要するに正当な統治権を主張するなら、なにも被征服側の権利を認めなくても良いはず。</p><br><p>嵯峨天皇が皇国の本主とスサノヲを呼ぶ理由は</p><br><p>天皇家が実は武力で統治権を勝ち得たのではないことに由来していると考えて良いでしょう。</p><br><p>とすれば</p><br><p>まず、この国はスサノヲの系譜にあるものが出雲と</p><br><p>少なくとも中国、近畿、北陸、東海地方を統治していたとの認識にたって良いと思われます。</p><br><p>そう、この中国地方という言葉も曲者です。</p><br><p>秀吉の中国大返しという言葉もありますから戦国時代にはその呼称は定着していたと思われますが、</p><br><p>なぜ中国というのか不明でした。</p><br><p>九州も不思議ですよね。</p><br><p>筑紫国、肥国、豊国、日向国、薩摩国の五か国なのに。</p><br><p>でも中国は中つ国と呼べば簡単に解けます。</p><br><p>山陰山陽合わせて大国主の領域である葦原の中つ国であった、その記憶が生きて</p><br><p>中国地方と呼ばせている、と考えればスムーズに理解できます。</p><br><p>　</p><p>天皇家は記紀において語るように、このあと高千穂に天孫降臨し、</p><br><p>しかるのち神武の代になってはじめて中つ国の領域を長い時間をかけて横切り</p><br><p>やがてナガスネヒコの抵抗の後、熊野から上陸し大和盆地に侵入することになります。</p><br><p>この神武の東征の際、河内にたどりついた神武は</p><br><p>ナガスネヒコと相対し、その際に神武より先にこの地方に降臨した神がいて</p><br><p>その神に妹を嫁がせ臣従していることを告げられます。</p><br><p>そこで神武はナガスネに天孫の証明として弓矢を入れる道具を見せます。</p><br><p>すると臣従しているニギハヤヒが持っているものと同じなので、天孫であることは認めますが、</p><br><p>当然降伏することを認めません。</p><br><p>ところがニギハヤヒは神武を受け入れても良いといいます。</p><br><p>そこで神武対ナガスネの戦いが起こるのですが、</p><br><p>その地が日の下クサカ。(ひのもとくさか)</p><br><p>実に今の日本の国名のもとになった地名です。</p><br><p>ここにも出てきますが、この日の下を納めていたのがニギハヤヒ。</p><br><p>スサノヲの息子たる天照國照彦天火明<strong>櫛玉饒速日</strong>尊の事なのです。</p><br><p>天皇家が大和に入る前の王が</p><br><p>スサノヲの系譜だったのです。</p>
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<pubDate>Sun, 15 Jan 2012 13:27:18 +0900</pubDate>
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<title>消された額田王</title>
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<![CDATA[ <p>さあ、その日本書紀では</p><p>いったい何を消し去ろうとし、何を残そうとしたのか。</p><br><p>もちろん残そうとしたものは</p><p>天智天皇の娘である持統天皇の正当性であり、</p><p>その側近として仕えた藤原不比等の正当性です。</p><br><p>そしてそれを残すために消されたものがなんなのか、</p><p>そこが大切なポイントとなってきます。</p><p>　</p><p>そこでひとつ思い出していただきたいのですが、</p><p>万葉集のなかに一人のヒロイン</p><p>額田王という女性が出てきます。</p><br><p>もともとは天武天皇の妻だったはずの彼女が</p><p>天智天皇の妃の一人となった。</p><br><p>その運命に翻弄された女性、額田王。</p><br><p>その名前はぬかだのおおきみと呼ばれていますが、</p><p>つまりは皇族の一人であったわけです。</p><br><p>諸説ありますが、采女（うねめ）であったとする考え方もあり</p><p>今一つさだかではありません。</p><br><p>それというのも</p><p>額田王が日本書紀には現れないからです。</p><br><p>最初の夫天武天皇との間に生まれた十市皇女(とおちのひめみこ)は</p><p>異母兄である大友皇子(おおとものみこ)のもとに嫁ぎ、</p><p>天智天皇の死後、弘文天皇として即位した近江王朝の大友皇子の正妃となります。</p><br><p>このころはまだ皇后の位は皇族でなければ受けられず、</p><p>皇族の中でも正統に近い人物でなければなれませんでした。</p><br><p>十市皇女は天武天皇（大海皇子）が父親なので確かに正妃にはふさわしいかもしれませんが、</p><p>母親の地位が低ければ正妃とはなれません。</p><br><p>ちなみに彼女の夫である大友皇子の母親は伊賀采女宅子娘（いがのうねめ　やかこのいらつめ）と言い、</p><p>采女とは地方豪族が王宮の女官に差し出した娘などのことを言いますから、</p><p>江戸時代の話に置き換えると腰元みたいな地位の女性です。</p><br><p>これでは正統性に難ありで、実際このために近江王朝を支持せず</p><p>反乱側である大海が支持された部分も大いにあるようです。</p><br><p>大友皇子の出自は異例であるにせよ、十市はさにあらず。</p><br><p>ある説によると母親の額田王も采女であるかのようにうたうものもありますが、</p><p>本来、王、皇子、皇女などという呼称は皇室の、しかも正統に近い皇族の位をあらわすもので、</p><p>決して采女などが名乗れるものではありません。</p><br><p>確か官職名を自称で使う例は平安後期の白拍子や遊び女などからだった思います。</p><br><p>つまり、</p><p>額田王は大海皇子、中大兄皇子二人に嫁ぎ、皇后クラスの存在だった。</p><br><p>しかし、中大兄の娘である持統天皇にとって額田は自分の母親より高位であってはならず、</p><p>しかも大海皇子の妻たる自分よりも高位であってはならない存在だった。</p><br><p>ちなみに持統の祖父は蘇我倉山田石川麻呂(そがの　くらやまだ　いしかわまろ)で、</p><p>母親は天智天武系の皇族ではない可能性が大なのです。</p><br><p>そうして額田王は日本書紀から、歴史から排除された。</p><p>　</p><p>ところがである、</p><p>万葉集には生きていた。</p><br><p>持統天皇は天武天皇と相思相愛で固く結ばれていた。</p><br><p>そう思わせなければならないはずなのに</p><p>万葉集には持統を思う天武の歌は無い。</p><br><p>かわりにあるのは</p><p>人目を忍んで歌を交わす人妻「額田王」とその前の夫「大海皇子」の歌。</p><br><p>幸いにも、持統天皇の時代においてこの歌集が持統の目に触れなかったのは明らかだ。</p><br><p>なぜなら日本書紀にあまた登場する皇族が万葉集に歌を残し、</p><p>一人額田だけが書記に名を残さない。</p><br><p>持統と不比等の目の届かないところでこの歌集が編纂され、</p><p>後世の我々に歴史を解き明かす種を残してくれているのだ。</p><br><p>その額田が書記から消された理由のもうひとつに</p><p>物部系の皇族だから、というのがある。</p><br><p>物部系？で皇族？</p><br><p>この物部氏はもしかすると日本古代史の謎の半分を占めるくらいの氏族で</p><p>巨大なテーマです。</p><br><p>高校生程度の知識でいうと</p><p>蘇我氏との間で崇仏論争がおこり、丁未の乱(ていびのらん)で廃仏派の物部守屋（もののべの　もりや）が滅ぶまでは</p><p>大和朝廷の大連(おおむらじ)という有力氏族でそれまでは大伴氏とともに朝廷の権力を二分して支えていたのが物部氏でした。</p><br><p>なかでも物部麁鹿火(もののべのあらかい)は磐井の乱を鎮圧した武将的な豪族で、物部氏が宗教的な支配と軍事力の両方を握っていたことがよくわかります。</p><br><p>その物部氏の先祖がニギハヤヒで、神武天皇よりも先に九州から物部氏十部族を率いて大和に降り立ったとされています。</p><br><p>これは芹田、二田、疋田や十市など物部系地名が北九州と大阪湾岸で一致することからも何らかの記憶の名残であることがうかがわれます。</p><br><p>しかし、その盟主的存在のニギハヤヒがスサノヲの子であるとするとどうなるか。</p><p>物部氏の移動は単に北部九州から河内への移動にとどまらず、さらにその先に出雲から北九州の移動が前提になってきます。</p><br><p>なぜなら、スサノヲこそ出雲の王だからです。</p><br><p>一般的な言い伝えで</p><p>十月は神無月。</p><br><p>出雲地方では神有月というそうです。</p><br><p>年末近くになると神様たちが出雲に集結する。</p><br><p>そこは北部九州でも大和でもない。</p><br><p>出雲に。</p><br><p>神様に位があるとしましょう。</p><br><p>当然、出雲の神様が一番偉いと言わざるを得ない。</p><br><p>ではその中で</p><p>明確に出雲の神様と言われているのはだれか。</p><p>最初の王となるのはスサノヲ。</p><br><p>そしてその娘婿のようだったり、５世の孫だったりして継いでいるのがオオクニヌシ。</p><p>そしてその子供たち。</p><br><p>やがてアマテラスの要求でこのオオクニヌシたちは国譲りをさせられてしまうのですが、</p><p>スサノヲが統治をはじめてからここまでの間は神有月の出雲。</p><p>　</p><p>出雲が日本の盟主だったのです。</p><br><p>そして具体的にその出自が書記では語られないニギハヤヒ。</p><p>　</p><p>彼もまた出雲王スサノヲの子にして河内王でした。</p><p>　</p><p>この痕跡も書記に消されまくっていますが、</p><br><p>実はこのニギハヤヒが本来伊勢神宮に祀られているアマテラスの真の正体だと思われるのです。</p><br><p>というのもニギハヤヒの本名は</p><p><span class="st">天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊（<font size="1">あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと</font>）</span></p><p><span class="st">と言いますが、対する今アマテラスと呼ばれている神様の本名は</span></p><p><span class="st"><font face="ＭＳ ゴシック">大日霎貴（おおひるめのむち）といいます。</font></span></p><p><span class="st"><font face="ＭＳ ゴシック"><br></font></span></p><p><span class="st"><font face="ＭＳ ゴシック">つまりは太陽に使える巫女。</font></span></p><p><span class="st"><font face="ＭＳ ゴシック"><br></font></span></p><p><span class="st">日本書紀から天照大神（アマテラスオオミカミ）と呼ばれるようになるわけですが、</span></p><p><span class="st">後付けの名前。</span></p><p><span class="st">とまり両方の神格を合わせて正体をわからなくしてしまったんですね。</span></p><p><span class="st"><br></span></p><p><span class="st">つまりはこれも日本書紀によってゆがめられた事実なのです。</span></p><p><span class="st"><br></span></p>
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<link>https://ameblo.jp/hayoshi/entry-11130114933.html</link>
<pubDate>Sun, 08 Jan 2012 13:25:24 +0900</pubDate>
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<title>疑問の始まり</title>
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<![CDATA[ <p>では整理してみましょう。</p><p>　</p><p>日本の歴史はどこまでさかのぼって正しいといえるか。</p><p>　</p><p>考古学的見地から</p><p>出土物などで正史の裏付けがされているのは</p><p>続日本紀あたりから。</p><p>このあと六国史が政府発行の歴史書として奈良時代から平安へと続き、</p><p>一度正史は断絶するものの</p><p>貴族の日記がそれを補強するようになっていきます。</p><p>　</p><p>ということは</p><p>まあまあ奈良時代以降は</p><p>教科書に載っていることは信ぴょう性があるということになります。</p><p>ただし、見えていない地方史や反体制側の歴史というのがありますが。</p><p>いわゆるまつろわぬもの＝蝦夷（えみし）や隼人、土蜘蛛とよばれる人たちの歴史です。</p><p>　</p><p>ひとまずそんな地方史を置いておきます。</p><p>　</p><p>問題は中央ですが。</p><p>　</p><p>昨日の番組で出雲大社のお話が出ていました。</p><p>昔の出雲大社は地上48メートルで世界最高のたてものだった。</p><p>というお話です。</p><p>それの傍証のように荒神谷遺跡から出土した三百数十本の銅剣や加茂岩倉遺跡から出土した</p><p>大量の銅鐸から出雲に巨大な勢力が存在していたことがあげられていましたが、</p><p>これは出雲大社とはつながりません。</p><p>出雲大社ができたのは</p><p>少なくとも大国主命をまつる出雲大社ができたのは日本書紀成立以降のことなのです。</p><p>そして驚くなかれ、伊勢神宮もまた然り。</p><p>本来始祖を祀るはずの神社で、国譲りをして出雲を高天原に明け渡した敗者の大国主命を祀る出雲大社。</p><p>負けたもののたたりを恐れて神として祀る魂しずめとしてまつるのはよくあることですが、</p><p>これを日本一の社にするのはどうも不思議な話です。</p><p>ついでに伊勢神宮は皇室の祖神であり、日本神話の最高神となる天照大神（あまてらすおおみかみ）を祀るのに大和朝廷の始源期にすでに皇居から外に出され、宮処が定まらず流浪の末に現在の伊勢にたどりついたのです。</p><p>なぜ皇祖神を都からはなれた彼方に追いやったのでしょうか？</p><p>すべて日本書紀の成立からはじまったことなのです。</p><p>その日本書紀完成のフィクサーこそ</p><p>藤原不比等。</p><p>ふじわらのふひと自身は歴史に編纂者として名を遺していませんが</p><p>彼は壬申の乱で天武天皇に対抗した天智天皇の後継者大友皇子の近江朝側の人間で</p><p>朝廷をおわれているはずでした。</p><p>その彼が</p><p>天武天皇の死後、後継者となった皇后持統天皇の側近としてゾンビのごとくよみがえり、</p><p>そして寄り添い、</p><p>ついにはその後数百年続く藤原氏の時代の礎を築いたのでした。</p><p>つまり、天武天皇の時代に始まった国史の編纂事業は天皇の死後も続いており、</p><p>当然あとを継いだ持統天皇の側近だった不比等がその事業を総覧していたのは間違いないのです。</p><p>そして歴史書を編纂するのは客観的な作業とはならず、</p><p>編纂側に有利な情報のみを残す、または整理するとの名のもとに歪曲することも可能となる。</p><p>当然、</p><p>無理やりにでも天武のあまたいる皇子のなかでも自分のおなかを痛めた子だけを即位させたい持統天皇に</p><p>都合の良い歴史を作ること、</p><p>壬申の乱で敗者となった大友の皇子の父天智天皇とその側近だった中臣鎌足を悪者にしないこと、</p><p>勝者天武王朝にとっての客観的記述ではそうはなりえない記述がなされることで</p><p>藤原不比等の影響力が証明されます。</p><p>そして藤原不比等のその名前。</p><p>不比等は史人（ふひと）。つまり歴史をつかさどるという名前なのです。</p><p>　</p><p>なんとなくわかってきましたでしょうか？</p><p>ずばり、藤原氏にとって都合の悪いことを書き換え、都合の良いことを時間をかけて作り上げ、</p><p>アリバイ作りに出雲大社や伊勢神宮などその後の日本人の心のよりどころとなる神道の形を作り替えて</p><p>今の形にしてしまったのが</p><p>不比等による日本書紀なのです。</p><br><br><p>もともと</p><p>諸家に伝わる伝承に誤りがある。このあやまりを訂正してのちの世に伝えなければならないといって始まったのが書記の編纂です。</p><p>しかし、これに先立って国記と天皇紀があったはずです。</p><p>しかしそれは蘇我氏の滅亡とともに焼滅した。</p><p>そころが書記には帝紀、旧辞というネタがでてくる。</p><p>しかもある書にいわくとネタ本がぞろぞろ出てくるし、なかには日本国紀という書名まで出てきます。</p><br><p>さあさあ面白くなってきたぞ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hayoshi/entry-11126293227.html</link>
<pubDate>Wed, 04 Jan 2012 11:36:36 +0900</pubDate>
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<title>全ては壬申の乱から</title>
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<![CDATA[ <p>いつまでも崩壊しっぱなしというわけにもいかないので、</p><p>そろそろ復活ののろしを上げたいと思います。</p><p>が、今日はそのさわりだけ。</p><br><p>最近は関裕二氏の本が多いか、</p><p>どうもそのへんの関係で藤原京から平城京あたりの時代が</p><p>興味の対象になっています。</p><br><p>そこでひとつ。</p><br><p>天武天皇が発案して編纂されたとされる「日本書紀」。</p><p>最初の公式な歴史書でありますが、</p><p>これが天武の死後に完成している。</p><p>そして本来は近江朝から権力を簒奪した正当性を訴えるはずだった書紀が</p><p>いつのまにか天武ではなく天智天皇が主役となっているという不思議があります。</p><p>　</p><p>これからも解説を続けますが</p><p>　</p><p>歴史の疑問点は</p><p>この日本書紀の粉飾によって事実を覆い隠されことから始まっているといっても</p><p>良いのです。</p><br><p>神武の東征。</p><p>聖徳太子の存在。</p><p>蘇我氏が逆賊なのか。</p><p>天武天皇の父親は誰か。</p><p>白村江の戦いの後唐の国は日本に進駐してきているのか。</p><p>　</p><p>古田史学の多元史観のほかにも</p><p>書紀や古事記によって歪曲された神話の真実が</p><p>風土記や神社の言い伝えに残っており、</p><p>考古学による発掘の成果もあって少しずつ書紀の嘘の正体が見え始めてきています。</p><br><p>さあ日本史の謎を楽しむぞ！</p>
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<link>https://ameblo.jp/hayoshi/entry-10883336909.html</link>
<pubDate>Fri, 06 May 2011 18:09:08 +0900</pubDate>
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<title>怖いお話</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<pubDate>Fri, 06 May 2011 08:27:42 +0900</pubDate>
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<title>吐露</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<pubDate>Thu, 14 Apr 2011 18:47:08 +0900</pubDate>
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<title>服喪</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<link>https://ameblo.jp/hayoshi/amemberentry-10855584584.html</link>
<pubDate>Fri, 08 Apr 2011 19:11:37 +0900</pubDate>
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