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<title>ヒーリングスペース　カムイ　http://www.kamui2007.jp  のブログ</title>
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<description>バッチフラワーレメディのお知らせを中心に、その他、その時々の思いをつづっていきたいと思います。</description>
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<title>バッチ勉強会便り（第５号）</title>
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<![CDATA[ ２０１６年６月２１日（火）のバッチ勉強会は、レメディ考察の回で、カテゴリー「内心が不確かな人に」と「人や周囲に敏感過ぎて影響されやすい」に分類されるレメディ、合計１０種についてでした。<br><br>カテゴリー「内心が不確かな人に」には、セラトー、スクレランサス、ゲンチアナ、ゴース、ホーンビーム、ワイルドオート、の６種のレメディが分類されています。<br><br>いったいどのように、内心が不確かなのでしょうか？<br><br>レメディの意味を考えるとき、なぜこのカテゴリーなのか？をも考えてみると、レメディの質やレメディが伝えようとしていることに近づけるように思います。<br><br>「内心の不確かさ」に関わるレメディを見ていると、他のカテゴリーでもそうかもしれませんが特にこのカテゴリーでは、魂の声が聞こえにくくなっているように思います。<br><br>ゆえに起こる「不確かさ」。<br><br>自分の意思に確信が持てない（＝魂の声が聞こえない）ゆえに、他人の意見を聞いて回るセラトー。<br><br>自分の進むべき、あるいは進みたい道が分からない（＝魂の声が聞こえない）ゆえに、方向性に迷って苦しんだり、やってはみたものの達成感を得られなかったりするワイルドオート。<br><br>魂は決して希望を捨てないのだが、その魂の声が聞こえにくくなっているから、容易に落胆してしまうゲンチアナ。<br><br>どんな状況でも、生きていられるということは、その人が肉体的に生きるのが許されているということで、それは魂が希望を捨てていないということなのだが、その声が聞こえないがために、希望を持つことすら信じなくなってしまっているゴース。<br><br>魂の不変と普遍さ、それは安定感をもたらすものだが、その声が聞こえにくくなっていると、軸を失ったと同じように安定さを失い、結果、振れ動いてしまうのではないか、と思われるスクレランサス。<br><br>私たちの「魂」は達成できる仕事しか私たちに与えはしない、のだが、魂とのつながりを意識しないで、人格（肉体的、物質的存在）にのみに意識が向いているから、目の前のことをやり通せるとはとても思えない感覚にとらわれるのではないか、と思われるホーンビーム。<br><br>という部分で、魂の声が聞こえにくくなっていることが、表面に出てきているように思えました。<br><br><br>さて、カテゴリー「人や周囲に敏感過ぎて影響されやすい」に移ります。<br>ここに分類されているレメディは、アグリモニー、セントーリー、ウォルナット、ホリー、の４種です。<br><br>この４種は、う～ん、確かに、まさしく、「人や周囲」に「敏感過ぎて」、「影響されやすく」、苦しい思いをしますよね。。。<br><br>アグリモニーとセントーリーは、大雑把な言い方をすると、基本的にどちらも「平和主義者」で「とても良い人」ですよね。<br><br>でも、無理しているんですよね。。。<br><br>アグリモニーさんは、大いに気がかりなことがあろうとも、傷つくことがあったとしても、周りの空気をこわさないように、陽気に快活に、時に冗談に変換してみたり、、、<br>そんな心の中に他人は気が付かない。<br>もっと悪いのは、そうやっているうちに、自分自身すら真の問題を見ようとしなくなること。<br><br>「アグリモニーさん、あなたの明るさとユーモア、溌剌とした輝き、今は無理をした仮面であっても、本来の自然体でもきっとそうであれる素質があるからこそできることなんだと思います。だから、はやく、気が付いて、楽になって、無理のない自然体での明るさで輝いてほしいな。。。」<br><br><br>セントーリーさんって、絶対この人、悪いことしてませんよね！<br>「良きこと」しかしてないもん！<br>でも実は、宇宙はそれだけで良しとはしないのです。<br><br>自分を大切にしていますか？<br>他人にしてあげているのと同じように自分にも優しくしてあげてますか？<br>自分を守ってあげてますか？<br>自分を許してあげてますか？<br><br>宇宙はもっと厳しいことも言う。<br><br>あなたが、「ノー」と言わなかったから、相手は自分の間違いに気が付くことができずに、成長できずにいるかもしれない、と。<br><br>あなたが相手の気持ちを先読みして配慮したつもりでも、元々気付ける感覚を持っていない相手にとっては、感謝の対象にはならないどころか、当然事として間違った理解をして、間違った常識を身に付け、成長できないかもしれない、と。<br><br>でも、もちろん宇宙はフォローする。<br><br>たとえそうでも、それはあなたのせいではなく、どんなことがあろうとも、すべては自分の責任だから、相手が成長できないのはあなたのせいではない。<br><br>しかし、あなたが「善行」と思ってしたことが、本当に全てが、真に他人を救うことになっているのか、というのは、見直してみる価値はあるよ、と。<br><br><br>さて、ウォルナットさんとホリーさん、大雑把に言えば、どちらも、あ～影響受け過ぎ！<br><br>ウォルナットさん、<br>外部の意見、出来事、に、ガガ～～～ンと一撃受けて、グラグラグラグラ、、、、<br>或いは、ざわざわざわ～っと心に引っかかり、フラフラと思いが揺らぐ、、、<br>ウォルナット飲んで、「外部の影響受け過ぎ」から脱出しましょう！<br><br>ホリーさん、<br>他の人の言動に敏感過ぎて、つまり過敏に反応してしまうからこそ、ムカっとなったり、くっそぉ～～～！となったり、いいなぁ～うらやましい～～と思ったり、絶対仕返ししてやる！とか、絶対何か企んでいる、と思ったり、と日々穏やかならぬ心中に悩まされるわけなんですね。これって、ホント自分が疲れるし、何よりその激しい感情は自分自身を傷つけています。こういう時、特に急激に起きた激しい感情にはホリーを飲むと、びっくりするくらいス～っと楽になりますよ！経験済み・保証付き！！！<br><br><br>ではでは、今回はここで終わりにします。<br><br><br>次回は、２０１６年７月２６日（火）、９：３０～読書会、今年の最終回です。<br>ご一緒できる方、楽しみにしております。<br><br>※この記事は、「ヒーリングスペース カムイ」のホームページと同時掲載のものです。<br>
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<link>https://ameblo.jp/healing-space-kamui/entry-12176555120.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Jul 2016 15:40:47 +0900</pubDate>
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<title>バッチ勉強会便り（第４号）</title>
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<![CDATA[ ２０１６年５月２４日の勉強会は、読書会の回で、「汝自身を癒せ」第５章と第６章でした。<br><br>昨年までの読書会では、１回に１章ずつ読み進めていたのですが、今年はレメディ考察の回と読書会の回とを交互に構成して、レメディ全種と「汝自身を癒せ」全章を消化すべく計画のもと、読書会では毎回２章ずつ読み進める形をとっています。<br><br>第１章と第２章の組み合わせ、第３章と第４章の組み合わせ、のときは、違和感なく、どちらかと言うとかえって２章続けて読む方が各章の流れとつながりがしっくりくる感もあったくらいですが、今回の第５章と第６章は、続けて読むと、それぞれが独立した深いテーマで展開されていることを強く感じ、分けて考察したい気分になりました。<br>些細な事ですが、意外な発見でした。<br><br>第５章は、病気の真の原因ともいえる「真の個性の欠如」に大きな影響を及ぼす背景について解説すべく、「親と子、学校教師と生徒との正しい関係」について説かれています。<br><br>第６章は、病気の本質を理解するがゆえに求められる真の医療の世界、また医学の専門家が認識し成長し実践すべきこと、について説かれています。<br><br>どちらのテーマも、それぞれに話題や思いが尽きることなく、時間が足りないくらいで、来年はこの二つの章はそれぞれ単独で扱うことを検討しようと思いました。<br><br>さて、第５章について、、、<br><br>病気の真の原因ともいえる「真の個性の欠如」とは、バッチ博士の言葉では「人格への干渉を許し、その干渉によって『ハイアーセルフ』の命令に従うのが妨げられる状態」と説明されていますが、それは、今までの章に繰り返し出てきた表現に置き換えれば「人格と魂の不調和」と言え、それは「魂の目指す道を歩んでいない状態」を指しています。<br><br>そして「この状態はしばしば幼児期から始まる」ということに大きく関与する親と子の関係、教師と生徒の関係、を考えるこの章でも基本的に訴えていることは、もちろん第４章までと変わることはありません。<br>それは、「人は誰もが自分の魂の命令にだけ従い、決して他の人格の支配を許してはならない。」ということであり、それは同時に「人は誰もが、決して他の人格の自然な進化（自分の魂の声に従う成長）に干渉してはならない。」ということでもあります。<br><br>そしてこの状態こそ、真の自由と言えるのではないでしょうか？<br><br>そして、真に自由に生きるからこそ、自覚が芽生え、自己責任も自ずと育つのではないでしょうか？<br><br>そして、生きていること、を実感し、味わうことが出来るのではないでしょうか？<br><br><br>逆に、この自由を認めないのが「支配」。<br><br>「支配する」ことはもちろんですが、「支配を受け入れる」こともまた、ユニティに反する行動と言え、「支配しようとする者の成長のためにも、支配を静かに優しく拒むべし」と、読めましたが、みなさんいかがでしょうか？<br><br>この「支配」ですが、支配というと、何かすごく強烈なイメージを持ってしまうかもしれませんが、意外に何気ないところにも、決して悪意のないところにも、「支配」は潜んでいます。<br>実はこのことに気付くことが難しいのかもしれません。<br><br>親が子のために、教師が生徒のために、との思いからでの言動であっても、決して支配しようとか思い通りにしようなどというつもりは無かったとしても、多大な影響力を持っている立場の人間の言動は、時にほぼ強制と変わらないということへの認識と配慮が非常に薄いと感じています。<br><br>だから、気がつかないのでしょうが、現実には支配的な構図なのに、支配する側も支配を受けている側も、疑問を持たずにいる家庭や教育現場を実際に目にします。<br><br>それともうひとつ、気づきにくいことがあります。<br>自分の支配欲です。<br><br>「支配＝バイン（Vine）」というレメディの選び方は正しくはありませんが、代表的な例として、バインだとしましょう。<br><br>誰でも、バッチを始めて間もない時は、３８種のレメディの中には自分にあまり関係なさそうに感じるレメディがいくつかあるように思うものです。<br><br>しかし、確信を持って言えますが、全ての人が、全てのレメディの要素を持っています。<br><br>バッチを続けていると、「関係ない、必要なさそう」と思っていたレメディを飲む日が必ず来ます。<br><br>全ての人が、３８種のレメディに表現される状態になる可能性をもっているのです。<br><br>つまり、全ての人が、例えばＶｉｎｅ、を、必要とするような状態になる可能性はあるのです。<br><br>しかし、その時、「自分が支配しようとしている」と意識している人は少ないです。<br><br>本人は、支配しようという悩みを持っているのではなく、相手の愚かさに嘆いていたり、理想を求めていたり、正義を通そうとしていたり、愛情が伝わらないことに憤っていたり、また、無意識下に他者を動かすことの快感があったり、と、様々な背景や意識があって、結果的に、支配欲に動かされている、支配欲に支配されている、というケースを見受けます。<br>（補足：上記の例でいうと、行動はＶｉｎｅでも、実際のバッチ選び的にはＶｉｎｅ以外も必要だったり、場合によっては、Ｖｉｎｅ以外だけで良かったりします。）<br><br>「ほんの少しでも支配したいという欲望がないかどうか、親となる最初にチェックするべきです。私たちは、強欲さの奴隷になりさがって、他人を自分の持ち物のように動かしたいという願望に駆り立てられることを拒否しなければなりません。」と、バッチ博士は述べています。<br><br>まさしくそうだと思うだけではなく、これは、親や教師に限らず、全ての人が、全ての生き物に対して、このようにあるべきだと、強く思い、切に願って止みません。<br><br>さてさて、今回も長くなってしまい、第６章に移らねば、、、<br><br>第６章も思いは尽きませんが、ここはひとつ、一気に短くまとめるべく、第６章を代弁するつもりで願いを書きます！<br><br><br>医療現場が、部品を扱うだけの工場に陥らず、<br>生き物には、生き方があって生きている、ということに敬意を払い、<br>生きる意味を共に考え、<br>生き方にガイダンスを与え、<br>幸せに導けるような、<br>そんな医療の世界になってほしい。。。<br><br>では、また、次回！<br><br>※この記事は、「ヒーリングスペース カムイ」のホームページと同時掲載のものです。
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<link>https://ameblo.jp/healing-space-kamui/entry-12170279560.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Jun 2016 16:13:02 +0900</pubDate>
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<title>バッチ勉強会便り（第３号）</title>
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<![CDATA[ ２０１６年４月１９日（火）の勉強会は、レメディ考察の回で、カテゴリー「不安と恐れ」と「他人の幸せを気にしすぎる」に分類される合計１０種類のレメディについてでした。<br><br>「不安と恐れ」（または「不安と恐れをもつ人に」）分類されるレメディは、ロックローズ、ミムラス、チェリープラム、アスペン、レッドチェストナット、の５つです。<br><br>このカテゴリーは、レメディの質とカテゴリー名が比較的結びつきやすいですね。<br><br>それぞれのレメディを「恐れ」と結びつけて短い言葉で言えば、ロックローズは極度の恐れ、ミムラスは理由のある恐れ、チェリープラムは理性を失う恐れ、アスペンは理由を説明できない恐れ、レッドチェストナットは他人の身に起こる良くないことへの恐れ、というように、「恐れ」と関わる表現ができる質の部分を持っています。<br>もちろん、各レメディはそれぞれに、こんな一言では説明しきれない個性もあります。<br><br>さて、今回は、なるべくバッチ博士の哲学と関わるようにお話してみたいと思い、「汝自身を癒せ」の文章からいろいろ引き出してみるよう心掛けてみました。<br><br>第７章の後半あたりに、「この時代には、病気に対する恐怖心がどんどん大きくなって、人を害する大きな力になってしまいました。なぜなら、恐怖心は、私たちが怖れおののいているものに扉を開き、それが入ってきやすくするからです。そういう恐怖心は、実際利己的です。というのは、私たちが他の人々の幸せに夢中になって没頭しているときには、自分個人の病気を気にする暇はないからです。」という部分があります。<br><br>これは、私自身、ミムラスへの大きな気づきと助けになりました。<br><br>バッチ博士の言葉で、ミムラスは「世の中で起きること、病気、痛み、事故、貧困、暗闇、孤独、不幸などに対する恐れのためのレメディです。日常生活の中で感じる恐れです。」と書かれています。<br>これらはすべて、先述の「そういう恐怖心は、実際利己的です」に入りますよね！<br>自分自身に降りかかる災いに対しての恐れ、ですもんね！<br>そうか、自分の心配しているんだ！と気づいたら、なんだか、とってもちっちゃなことに思えてきて、急に軽～くなれました。<br>あぁ～私はただ自分のこと心配してただけなんだぁ～、なあ～んだ、なんか、おっかしぃ～～～って、なんだか滑稽で可笑しくなって、と同時に、恐れもなくなりました。<br><br>そして思いました。<br>ああそうか、ミムラスの意味ってそういうことか。<br>利己的、という点で、ユニティに反する行動なわけだ、と。<br><br>では、他人のことを心配するレッドチェストナットはどうでしょうか？<br>自分の心配ではないけれど、、、<br><br>これに関しては、「汝自身を癒せ」第４章の後ろの方にある部分「私たちは、人に希望を持たせ、そしてできることなら、その人が前に進めるように、知識や現世的な機会を与えて助けなければなりません。私たちが険しく困難な人生の山道を登るとき、誰かに助けてほしいと思うのとまったく同じように、私たちも、自分より弱く若い兄弟に対して、いつでも助けの手を差し伸べて、より広い知識からの経験をあたえるようにしましょう。親が子に、教師が人々に、仲間が仲間の人に対する態度はこんな風であるべきです。必要で役立つと思われるかぎり、気にかけ、愛し、守りながら、しかも一瞬といえども、その人格の自然な進化に対しては決して干渉しないのです。」というところを引き合いにしてみました。<br><br>みなさんも経験ありませんか？心配され過ぎて、閉口したことが。。。<br><br>と書きながら、ああ、そういう思いにさせてしまった、つまり自分がレッドチェストナットになっていることに気が付かず、本当に心配してはいたのだが、かえって相手の心に負担をかけることになってしまったことを思い出し、今になっては申し訳なかったな、と思えることに気づきました。<br><br>レッドチェストナットの心配の仕方が間違っているところは、相手に何か力を与えられるような心配の仕方ではなく、かえって不安にさせたり、気持ちをくじくことになったり、楽しみしていることへ水を差すようなことをしたり、場合によっては心配のし過ぎで相手が経験しようとしている機会を奪ったり阻止してしまうことさえ起り得る、という点にあります。<br><br>悪気もないし、自分の思い通りに操りたいわけでもなく、本人的には、本気で心配しているのではあるかもしれないけれど、よくよく考えてみれば、それはある意味良くないことが起こる（すでに起きている場合はもっと悪くなる）ことを予想している、ということになります。<br><br>心配しているといっても、「こんな悪いことが起こるんじゃないか。もっと悪いことが起こるかもしれない。こんな悪いことが起こりそうだよ。もっと悪いことがおきそうだよ、、、こんな悪いことが、こんな悪いことが、、、」と言っているに過ぎないとしたら、それは何ひとつ相手のためになることはありません。<br><br>相手に希望や喜び、あるいは困難な状況を切り抜けられるような力や意欲、時には知恵や導き、または必要に応じて実質的な助力を与えられるのでなければ、それは、バッチ博士が言う「仲間が仲間に対するあるべき態度」とは言えないでしょう。<br><br>そういう意味で、これもまた、ユニティに反する行動と言え、あるべき行為ではないと言えるのではないでしょうか。<br><br>それに、「心配」は、はたして、「愛」と言えるのでしょうか？<br>これに関しては、この日のもう一つのカテゴリー「他人の幸せを気にしすぎる」のところで合わせて書くこととします。<br><br>さて、「不安と恐れ」のカテゴリー全体に対してバッチ博士の哲学から言えることがあります。<br><br>そもそも、不安や恐れは、私たち自身である「神性」を理解すれば、存在し得ないことになるということです。<br>このことを、しっかりと、心に留めておきましょう。<br><br>長くなってしまいましたので、この日のもう一つのカテゴリー「他人の幸せを気にしすぎる」に移ります。<br><br>このカテゴリーには、チコリー、バーべイン、バイン、ビーチ、ロックウォーター、の５種のレメディが分類されています。<br><br>チコリーは自己中心的な愛し方が問題になるし、バーべインは熱狂的で押し付けがましかったり、バインは強制的だったり支配的だったり、ビーチは他人に批判的で、ロックウォーターはひたすら自己に厳しく、これらの一体どこが「他人の幸せを気にしすぎる」なんだ？と、いう思いにかられかねないところを、では、どのように他人の幸せを気にしているんだろう、という視点で見てみました。<br><br>その視点で拾ってみると、<br>チコリーは、自分の愛する者たちの幸せを願うがゆえ、口出しし過ぎたり世話のやきすぎに至り、<br>バーべインの根本は自分が信じる正義で他人を幸せに導きたいところにあり、<br>バインは、自信ある自分の判断に従うことは相手のためと確信しているところにあり、<br>ビーチは、他人がもっと良く、もっと美しい生き方ができるべきだと感じるからであり、<br>ロックウォーターは、自分に高い基準を課し、頑なまでに目指しますが、それは、他人が向上するお手本になりたい、自分の実践を通して他者を向上に導けるようになりたい、という心理があるからです。<br><br>実は、他人の幸せを気にしてるんですね！<br>でも、バランスを崩して≪<strong>し過ぎる</strong>≫まで行ってしまうと、結果的には他人のためにも自分のためにもならない行為に及んでしまうんですね。<br><br>バッチ博士の哲学で言う「愛」を、ダライ・ラマさんの言葉を引用させてもらって考察してみました。<br><br>ダライ・ラマさんが、愛と慈悲について問われた時に答えられた言葉で、「愛とは、相手の幸せを願うもの。慈悲とは、相手の苦しみがなくなることを願うもの。」というものがあります。<br><br>この表現、シンプルですが、真の「愛」の姿を教えてくれていると思いました。<br><br>「愛」は相手の幸せを願うもの、、、<br>願う、は、押し付けたり、支配したりはしないですよね。<br><br>愛とは、何の重圧も与えず、ただただ暖かく存在するもの、相手は救われる感覚のみに満たされるもの、そう考えると、いくら「相手の幸せのために」あるいは「心配しているからこそ」といっても、支配や強制、批判などの行為は、愛とは言えないですよね。<br>愛を盾に正論化できるものではないはずです。愛に反する、ユニティに反する行為と理解されますね。<br><br>そして、先にも投げかけた「そもそも心配は愛なのか？」についても、「相手に良くないことが起こる」ことを予想する「<strong>だけ</strong>」の行為なら、「愛とは、相手の幸せを願うもの」からは遠いものと言えます。真に「相手の幸せを願う」のであれば、「無事を祈る」「相手の判断なり能力を信じる」「適切な、必要とされる助力や助言を与える（もちろん、過干渉や過剰介入ではなくて）」などに置き換わっていくのではないでしょうか。<br><br>長くなってしまいました。<br>今回はここで締めにします。<br><br>さて、次回は読書会の回で、「汝自身を癒せ」第５章と第６章です。<br><br>どの章も重要なのですが、特に第５章は、真に自由に生きること、真に個性を理解し尊重すること、それらを阻む潜在する大きな障害、について強く訴えている章で、より多くの人に真摯に受け止め考える機会にしてもらいたいと思う章です。<br><br>では、ぜひ、共に学ぶひとときをご一緒できますように！<br><br>※この記事は、「ヒーリングスペース カムイ」のホームページと同時掲載のものです。
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<link>https://ameblo.jp/healing-space-kamui/entry-12159596079.html</link>
<pubDate>Thu, 12 May 2016 16:16:11 +0900</pubDate>
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<title>自然療法への転換（その１：転機）</title>
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<![CDATA[ その大きな転換へ向かうことになったのは、我が家の末っ子デューク（バーニーズマウンテンドッグ、男の子）のリンパ腫の治療を通して感じた疑問と気付き、と言えます。<br><br>そういう意味では、デュークが自然療法へ案内してくれたと思っています。<br><br>「デューク自然療法クリニック」の「デューク」は、もちろんこの子、我が家の末っ子の名前からつけたものです。<br>「デューク自然療法クリニック」の前身は、「デューク動物病院」という名前で、ごく普通の、いわゆる一般西洋医学の動物病院として１９９８年に誕生しました。デューク８歳の年。<br><br>病院のロゴマークはデュークがモデル。<br><br>デューク本人も大人気でしたが、木で作ったロゴマークの看板も大人気で、共に多くの人に愛され、親しまれ、私たちもとてもにうれしく幸せでした。<br><br>しかし、<br><br>２年後、デューク１０歳の年、リンパ腫発症。<br>最も抗がん剤治療に反応する腫瘍。<br>当時得られる限りの情報の中で、最も有効で、かつデュークに与える苦痛は最小限にとどめられるプロトコールを検討した。<br><br>治療効果や安全性の確率は、たとえどんなに高く見込めるといっても、決して１００％のものはない。<br>仮に、９９％安全というものがあったとしても、１％の危険性は存在する、と言っているわけだ。<br>そしてその１％の中に入ってしまうこともあるわけだ。<br><br>また、治療効果と安全性はイコールではない。<br>「治療効果は最大限に得られました。でも、死にました。」もあり得る、というわけだ。<br><br>だから、決して安易に決断はしなかった。<br><br>まず、全身くまなく検査して、一つでも懸念要素があれば、実行しないということ、そして、改善させられるものがあれば改善させてから再検査して、その結果その時点でまた検討するということ、を、絶対条件にした。<br>そして、全ての要素が一定基準を満たした状態であっても、最悪のことが起こらないとも限らないことを覚悟出来るかを、夫婦でよく話し合い、デュークが少しでも長く元気でいられる確率が高いことに賭けよう、という結論を出した。<br><br>徹底した体調管理とサポート体制の中で、抗がん剤治療に踏み切った。<br><br>その結果は、有頂天にもなりかねない程の良経過。<br>デューク本人が自覚するような副作用を防ぎつつ、完全寛解に至る。<br>とは言っても、もちろん我々獣医師はこれからが正念場であることも理解している。<br>１回目の完全寛解には成功しても、それは完治ではなく、必ず、「再燃」と言って再び病状が表面化してくる。そしてその時再び抑え込める可能性は格段に低い、という統計的事実。そして、仮にその２回目の抑え込みに成功しても、次の再燃はさらに早くやって来て、さらに反応性が悪くなっている。<br>そして、前に使った抗がん剤はすでに効かなくなっているので、違う種類、異なる性質の抗がん剤の組み合わせを、救援プロトコールとして一歩も二歩も先に先に用意して常に臨戦態勢で気は抜けない。<br><br>ありがたいことに、しばらくの間、検査や触診等で分かる異常もなく、一般全身状態も良好な日々を送り、ふと、ずっとこのまま再燃しないでいられるんじゃないか？とさえ思ってしまうほどであったが、、、<br><br>再燃は避けられなかった。<br><br>ここで負けてなるものか！<br>精密に検査して、全身状態は良好、あらゆる数値が抗がん剤に耐えられると示していた。<br><br>救援プロトコール、行くよ、デューク！<br><br>そして、ここでまた、完全寛解に成功！血液検査結果も良好！<br><br>だが、その直後に強烈な副作用発現。<br><br><br>「抑うつ」　　「食欲廃絶」<br><br><br>数字には現れない副作用。<br>数字では予見できない副作用。<br>確かに、副作用として、「抑うつ」「食欲廃絶」の可能性があるのは理解していたが。。。<br><br><br>「抑うつ」「食欲廃絶」<br>この、たった何文字かだけで、いとも簡単に表現していることが、いかに、大きな打撃を与えるか、、、<br><br>そして、それを救う薬はないのだ。<br><br>…抑うつ…<br>まるで死体のように、生気なく全身を投げ出して、横たわったまま、目もうつろ、、、<br>呼びかけに頭を上げようともしない。<br><br>…食欲廃絶…<br>「低下」や「減退」ではなく、「廃絶」ということの重さ、、、<br><br><br>ああ、私は、なんということをしてしまったんだろう…　<br><br>…なんということをしてしまったんだろう…<br><br>…なんということをしてしまったんだろう…<br><br>ごめんね！デューク…<br><br>こうなってもいいなんて、私は思ったつもりは毛頭ないけど、でも、こうなる可能性があることを選択したってことは、こうなってもいいと思ったと同然だよね。<br>ひどいよね！<br>ごめんね！<br><br>覚悟だなんだって、それって、私たちのことだったね。<br>私たち、いったい何を覚悟したの？<br><br>デューク本人は、こうなる可能性があるって知ってたら、デューク自身でこの治療を選択しただろうか？<br><br>こんな辛いめにあう可能性があってもデュークは選択した？<br><br>私がこんな辛いめにあわせたんだ。。。<br><br><br><br>このままでは死んでしまう…<br><br><br><br>この窮地を切り抜け、助けることが出来たのは、獣医師としての我々夫婦ではなく、デュークの親としての我々夫婦の努力、介護と看護でした。<br><br>ごめんね、デューク、、、こんな辛いめにあわせて、、、ごめんね。。。<br>私たちは詫びながら、泣きそうになりながら、なんとか食べさせられるように、気持ちが遠くへ行かないように、寝たきりの体に二次的支障が出ないように、と、必死に努力しました。<br><br><br>その思いにデュークは応えてくれ、復活してくれました。<br><br><br>感謝と同時に、もう２度と抗がん剤は使わないと誓いました。<br><br><br>その後、更なる再燃を見ることなく、臨床症状、血液検査上も問題なく過ごすことが出来ました。<br>生活に何か支障が出ることもありませんでした。<br><br>しかし、治癒力の衰退、急速に老いていくような、どこか現世を見ていないような、妙な感覚がありました。<br><br>一緒にいるのに一緒にいないような、、、<br><br><br>そして、治療開始２年後、体重が最盛期の半分以下になったデューク１２歳の年、最期に私の目を見て、私の腕の中で、息を引き取りました。<br><br><br>一般西洋医学的評価、客観的冷静な評価で言えば、治療効果を期待するには不利な条件（<br>大型犬それも超大型に近い大きさ、オス、）の中で、治療成績としては快挙と言えました。<br><br>年齢的にも、何もなくても、超大型犬なら１２歳は十分長く生きてくれたとも言えるでしょう。<br><br>しかし、私たちが痛感したのは、「これは治療ではない。治しているのではないのだ。」でした。<br><br>そして、副作用の苦しみは、数字では示すことができないし、何より本人がどう感じるか、どう受け止めるかにかかっていることであって、確率の問題ではない、ということでした。<br><br>そう、本人がその苦しみを覚悟できるのか、そこに価値を見出せるのか？<br><br><br><br>または、戦争に例えるのもいいかもしれない。。。<br><br><br>戦いには勝ったことになるかもしれないけれど、<br><br>敵は死んだけれど、味方も死んだ、、、<br><br>そもそもこの戦いに意味はあったのだろうか、、、<br><br>ずっと正しいと信じてきたけれど、、、<br><br><br><br><br>リンパ腫になるもっと以前にも、２回、大きな危機がありました。<br><br>１回目は、悪性黒色腫。<br>これは早期発見と、発生部位が体幹部であったおかげで、表面に見える腫瘍塊の３倍ほどもあった腫瘍根も完全に、かなり大きくマージンをとって切除することができ、周囲組織への浸潤を残さず、遠隔への転移もなく、その時は、一般西洋医学的には治ったことになりました。<br><br>２回目は、胃捻転。<br>注意出来ることはすべて注意していても、起きるときは起きるんだ、と、その時思いました。<br>デュークの異状にすぐ気が付くことが出来るタイミングであったおかげで、即手術することができ、この時も助かりました。<br><br>ここまでは、一般西洋医学上、治していると思っていました。（今ではもう、そうは考えませんが。）<br><br>でも３回目は、「決して治しているわけではない治療法（それなのに「治療」と呼ぶ事実）」しかない病気が用意されていました。<br><br>しかし、そのおかげで、一般西洋医学そのものに対する疑問と気付きを得ることが出来たのでした。<br><br><br>決して治してはいないんだ。<br><br>それなのに、「治療」という言葉を使っている。<br><br>治療って、何？<br><br>生きているって、どういうことかな。。。<br><br>いわゆる「QOL（クオリティ　オブ　ライフ）」という視点の大切さは当然のことで、特筆することもないのですが、もっと、違う、「生きている、ということを大切にする、ということはどういうことかな？」とでも言えばいいでしょうか。。。<br><br>QOLの視点は最低限必要です。<br><br>でも、足りない、それだけじゃ足りない。。。<br><br>生きている意味、生き方、の視点。<br>生き方を選択する権利。<br><br>何か違う、何かがあるはずだ。<br><br>何か、絶対に苦しめないもの、、、<br><br><br>生きている価値は時間の長さじゃない。<br><br>生き方なんだ、どのように生きるか、、、<br><br>生き方を選択するということ。。。<br><br><br>何かある、何かある、、、<br><br><br>ここから、一気に世界が変わっていくことになりました。<br><br><br>ずっとずっと、いつか伝えたいと思っていたことでもあります。<br>長くなると思われますので、今回は、ここまでで、自然療法への転換「その１：転機編」として、一度区切ります。<br><br>では、つづく、ということで。。。<br><br>※この記事は、デューク自然療法クリニックのホームページと同時掲載のものです。<br><br><br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Wed, 30 Mar 2016 12:04:31 +0900</pubDate>
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<title>バッチ勉強会便り（第２号）</title>
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<![CDATA[ ２０１６年３月１５日の「バッチフラワーレメディ勉強会」は、読書会の回で、この日は「汝自身を癒せ」の第３・４章でした。<br><br>読書会で第３章を読むときは、誤解が生じないように、いつも必ず「新訳の序文」で第３章について解説してある部分を読み直すようにしています。<br><br>誤解、というのは、身体症状とマイナス感情を関係づけ、身体症状から感情が推測できる（または推測すべし）と思ったり、そのような視点でバッチを選ぶことを良しと勘違いすることを指しています。<br><br>第３章には確かに、身体症状や病気の性質と感情を直接結びつけるように読める記述もあります。<br><br>欠点、それは、ユニティ（愛を基盤に成り立っている全体性）に反する行動をとる性質を指していて、その欠点に気付き改めることなく行動していると、つまりユニティに反する行動を続けていると、因果の法則により必然の結果として身体のある部分が病に侵されるということが書かれています。<br><br>しかしこれは、バッチ博士が一般西洋医学に見切りをつけ、真の治癒をもたらす真の療法を発見できる確信を得て、その探索の旅に出たころの記述です。<br>バッチ博士は最終的に、身体症状から感情を推測する試みを手放し、あくまでも心の状態、「心がどのように作用しているかを知る」ことの重要性を説いています。<br><br>このことをよくよく認識した上で、第３章を読めば、誤解を避けつつ、バッチ博士の深い人間洞察に触れることが出来て、自己の振り返り（決して他人に対しての評価や決めつけではない）きっかけを与えてくれることもあるでしょう。<br><br>そして第４章では、自己の欠点に気付くことの大切さと、その欠点の克服法が書かれています。<br><br>このような読み方をすれば、バッチ博士の人間洞察をより実践的に自己成長に活用できると感じています。<br><br>とは言え、「うん！なるほどなるほど！確かに確かに！分かる分かる！」と思うは易く行うは難し。。。。。ですよね。。。<br><br>でもここで心強いのが、「しかしそんな完全な状態には、私たちはまだ達していません。もし達したととすれば、私たちはこの世に存在する必要がなくなるでしょう。（第３章より）」「大多数の私たちは、そのような完成の状態に達するまでにはまだ長い旅があります。（第４章より）」という言葉です...ホッ...救われます...<br><br>そうそう、あせる必要はありません。<br><br>第４章からいくつかポイントとして挙げてみます。<br><br>・自分の欠点と決して争うことなく（←この姿勢もいいですよね！）、欠点が顔を出そうにも出せないくらいに、その欠点とは反対の美徳を自分の性質の中に発達させ、欠点を洗い流すことが出来る。<br><br>・正しいか間違っているか、良いか悪いか、というのは、相対的なもの。私たちの理想追求の基準もまた相対的なもの。つまり、置かれている状況、文化背景、思想的背景など、の条件の差による視点が変われば、善悪も、基準も変わってくる。<br><br>・常に、誰もが、自分の「魂」の声にのみ従うべきで、他の誰かからの干渉も受けず、誰の説得にも動かされずに、自分を進化させる。<br><br>・他人に対しては、いつでも助けの手を差し伸べられる用意が必要だが、それは決して偽りの義務感や慣習や他者からの強制であってはならない。<br><br>自分の中に美徳を発達させる、って、言っても、え～？な、な、何が、あるんだろう、な、な、何が出来るんだろう、って思ってしまいませんか？私はそうだったんですが、、、でも、今、これを書きながら、ふと、思いました。あ、自分の中にある魂レベルの愛に気付けってことかな？そうだ、絶対あるんだよね、偽善でも押し付けられたわけでもなく、義務として強制されているわけでもない自然の、自発的な、それこそ魂は愛と喜びしか知らないんだから、真に素のままの、純粋で掛値なしの愛、その愛が自分に何かさせようとする微かなアクションに気付いて、それを実践せよ、ってことかなぁ～って、今、思いました。<br>これなら、きっと、確かに美徳として育っていくだろうし（具体的には全く何とは予想すらできませんが）、決して、他人の成長を妨げることなく、自分を自ら虐げることもなく、自分の個性を発達させつつ周囲への恩恵にすらなり得るんだろうなぁ。。。<br>結局、抽象的になってしまいましたね。。。<br><br>もし、具体的に言うなら、分かっているようで分かっていない「愛」、あまりにも氾濫多用されている「愛」、陳腐化してしまった「愛」、を、真に理解しようすること、そして、その「愛」の声のままに生きること、に集約されるような気がします。<br>≪今回参加された方は思わず笑っちゃうかもしれませんね、今回私は「愛」ばっかり口にしてましたよね（笑）。≫<br><br>ではでは、今回はここまで、にします。<br><br>次回は４月１９日（火）、レメディ考察の回で、カテゴリー「不安と恐れ」「他人の幸せを気にしすぎる」に分類されている計１０種のレメディについてです。<br>４月からは時間帯が午前（９：３０～１２：００）になります。<br>朝の新鮮な空気はすがすがしく、まったりした午後の空気とはまた違った良さがあります。<br>お時間の合う方、また、バッチタイムご一緒しましょう！<br><br>※この記事は、ヒーリングスペースカムイのホームページと同時掲載のものです。
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<link>https://ameblo.jp/healing-space-kamui/entry-12141423754.html</link>
<pubDate>Mon, 21 Mar 2016 07:07:44 +0900</pubDate>
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<title>「３，１１」</title>
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<![CDATA[ この日のこと、そしてその後の事、に思いを巡らさない日はない。<br>そして、年が明けると、つまり１月を迎えると、３月が身近に感じられるせいか、より一層考えることが多くなる。<br><br>この日を境に、良くも悪くも、変わっていったこと、人々、、、<br><br>この日のあとも、良くも悪くも、変わらないこと、人々、、、<br><br>しみじみ、「人間」というものを考える。<br><br>偽善、欺瞞、便乗、無視、隠ぺい、風化、扇動、、、　　に惑わされずに、自分の意思と心で真実をかぎわけ、他人に強制することなく、誰と徒党を組むこともなく、誰かを攻撃することもなく、たったひとりででも、自分を信じて、自分にも他人にも誠実に、愛が動機で生きていきたい、そういうふうに生きたい、と思い、かつ、誓う、そんな思いでいっぱいです。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Sat, 27 Feb 2016 16:46:52 +0900</pubDate>
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<title>「バッチ勉強会便り」始めました。（第１号）</title>
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<![CDATA[ 今年（2016年）に入って、１月２月と、２回の勉強会が過ぎました。<br><br>いつも、バッチ波長に満ちたこの時間を過ごした後は、その余韻で心地良い時間を過ごせるのでうれしく、かつ、感謝しています。<br><br>今回、２月９日の勉強会が終わって、しみじみ思い返していたら、「あ、この思いを報告として綴ろう。そうすることで、参加できなかった方々とも共有できるといいな。まだ、勉強会を知らない方には、雰囲気をお伝えできていいのでは？」と思いつきました。<br><br>ということで、今回が第１号、です。<br><br>２月９日の勉強会は、レメディ考察の回で、この日は「失意と絶望」のカテゴリーに含まれる８種のレメディ（ラーチ、パイン、エルム、スィートチェストナット、スターオブベツレヘム、ウィロー、オーク、クラブアップル）と、レスキューレメディの合わせて９種類のレメディについて、でした。<br><br>各レメディの説明をしながら、比較、共通点などについてお話していると、しみじみ、置かれた状況が同じであっても、いかに人はそれぞれ違った受け止め方、反応を示すものか、ということに思いがいたりました。<br><br>たとえば、逆境や不運、と表現されるような状況に置かれたとします。<br><br>その時、一生懸命頑張って頑張って、何とか状況の改善を図ろうと努力を惜しまず、希望を捨てず、気を奮い立たせ、手を尽くし当たってきた、が、しかし、状況は一向に良くならないどころか、徐々にさらに悪くなり続けている。もう心身ともに限界を迎えそうだ。今まで出来うる限りの手を尽くしてきたつもりだが、まだ何か出来るのだろうか？　もう残された道はあるように思えない。と、追いつめられ、胸のつぶれるような失意の中にいる「スィートチェストナット」状態を経験する人もいます。<br><br>一方、その逆境や不運に対して、「なぜ自分がこんな目に合わなければいけないんだ。世の中は不公平でおもしろくない。」「そもそも、あいつのせいでこんなことになったんだ。」「つくづく、自分はみじめだ。」とウィロー状態になる人もいます。<br>もちろん、その他の反応、状態になる人もいるでしょう。<br><br>どちらがいいとか悪いとか、どちらがつらいかではなく、その時、その人が感じていることがその人にとっての事実です。<br><br>そして、そのように受け止めてしまう心の状態なのです。<br><br>レメディ選びは、「どんな経験に対して何を選ぶか？」ではなくて、あくまでも、「その人がどのように感じているのか？」という心の姿勢に寄り添って選ぶものだ、ということの大切さがここにあります。<br><br>さらに言うと、どういうことに対して、どのような反応をするか、ということを通して、そういう自分に気付けるきっかけにもなります。<br><br>感情、というのは、時にやっかいで手に負えないように感じることもありますが、真に自分の問題を自分に教えてくれるものだと、バッチを通してしみじみ思うようになりました。<br><br>バッチを続けてきて、「全ては自分の問題」ということと、「全ては自分の責任」ということが、車の両輪のように、がっしり、かつ、ストンと、腑に落ち、確信しています。<br><br><br>次回、2016年３月１５日（火）は、読書会の回で、「汝自身を癒せ」第３・４章です。<br>お時間の合う方、ご一緒できるのを楽しみにしています。<br><br>※この記事は、ヒーリングスペースカムイのホームページと同時掲載のものです。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/healing-space-kamui/entry-12133379464.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Feb 2016 16:01:04 +0900</pubDate>
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<title>セミナー「ワンちゃんと築く、しあわせ時間のために」のご案内</title>
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<![CDATA[ ２０１５年７月２０日（月・祝）<br>しいのき迎賓館セミナールームにて、<br>セミナー「ワンちゃんと築く、しあわせ時間のために」を開催します。<br><br>これから、または、いつか、ワンちゃんを家族に迎えよう！とお考えの方には、<br>　ぜひ、その前に聞いてもらいたいことがあります。<br><br>すでにワンちゃんとの生活が始まっている方には、<br>　・今抱えている困難さ、問題の、理解と解決への糸口になってもらえたら、と思うことがあります。<br>　・十分に楽しく、幸せを満喫している方にも、もしかすると、ついつい見失ってしまっていることがある<br>　　かもしれない大切なことを、折につけ思い出せるきっかけになるお話ができたらと思っています。<br>　・今より、より深く、分かり合えるように。。。<br><br>ワンちゃんと暮らす予定は特に考えていない方にも、<br>　「へぇ～、ワンちゃんって、そうなの？！」とか、「ワンちゃんと暮らすってそういうことなんだ！」とか、<br>　楽しんで聞いていただけたらと思っています。<br><br><br>そして、ちょっと大げさな言い方をすると、<br><br>　「犬」という生き物と、私たち「人間」との関わり方、共生を通して、<br><br>　　人間同士をも含む他者とのかかわり方、尊厳の尊重、<br><br>　　　そんなテーマにも思いを馳せる、そういう機会にもなるとうれしいです。<br><br><br>内容、参加費、お申込み、など、詳細は<strong><font color="#FF0000"><a href="http://www.duke1998.jp/menu/naiyou5/" target="_blank">コチラ</a><a href="http://www.duke1998.jp/menu/naiyou5/" target="_blank"></a></font></strong><br>　
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<link>https://ameblo.jp/healing-space-kamui/entry-11998528116.html</link>
<pubDate>Sat, 07 Mar 2015 16:34:13 +0900</pubDate>
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<title>メチャがくれた「あったかオレンジボール」</title>
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<![CDATA[ ひとつ前の記事に引き続き、伝えたいことの第二弾です。<br>前回の記事同様に、ヒーリングスペースカムイのHP並びにデューク自然療法クリニックのHPに、同時UPです。<br><br>こういうのは、勢いとタイミングだな～と、つくづく…<br><br>では、以下、お読みくださいませ。<br><br><br>メチャ、とは、今は亡き愛する次女（雑種猫、毛色だけはシャムそっくり、お顔はタヌキそっくり）の名前です。<br><br>メチャったら、それはそれはもうブチャイクでブチャイクで、おつむてんてんも弱くて弱くて、運動神経といったらそれはそれはもう「お前は本当に猫なのか？」っていうくらいドンクサ～くて、（あ、悪口じゃなくて愛おしい気持ちで言ってます）、そういう意味での宇宙トップクラスでした。<br><br>そのメチャが最期にすっごいことをやってのけたんです！<br><br><br>もう１０年以上経ちます。<br><br>メチャはもうかなり老いていました。<br><br>老いを見守るのは苦しいものです。<br>胸がつぶれる思い、です。<br><br>成長は日々進化、昨日できなかったことが今日は出来る、を更新し続ける。<br>若いエネルギーに満ち満ちて。。。<br><br>でも、老いは、まったくその逆をたどっていく。<br><br>昨日まで出来たことが今日は出来ない。<br>エネルギーが日に日にしぼんでいく。。。<br><br>メチャは検査してもどこも悪くありませんでした。<br>ただ、老いをたどっていたのです。<br><br>どこか悪いのなら、出来るだけの治療をしたいところですが、これは老いなのです。<br>私にできることは、メチャができなくなっていって困っていることがあればサポートすることです。<br><br>だんだん体を動かすことも困難になってきました。<br>でも、できる限り、自分の要求は自分でしたい、と彼女は考えていました。<br>そう、そのころ、私は、彼女の思いを全てわかってあげることができました。<br><br>メチャは、老いと共に威厳を増していました。<br><br>お水が飲みたい、と思っても、そこまで行くのが容易ではない。けれど、ここで寝たままお水を飲ませてもらいたいわけじゃない、自分でそこに行って飲みたいの、と思っているのが分かるので、彼女のプライドを傷つけないよう、そっと支えて、お水を飲むところまで歩いていくのをサポートして、飲む体勢を支え、飲みやすいように食器の高さと角度を支えて、可能な限り、本人的自立をサポートしました。<br><br>やがて、もう食べないと宣言しました。<br><br>それを受け入れるのは勇気が要りました。<br><br>でも、メチャは威厳をもって、気高く、無言で私に宣言するのでした。<br><br>お水はまだ飲み続けてくれました。<br>だから、要らないご飯は強制せず、お水飲みのサポートと、トイレに行っておしっこするお手伝いをつづけました。<br><br>そうして、ついに、もうお水も要らないと宣言しました。<br><br>うちは動物病院です。<br>我々夫婦は獣医師です。<br>中心静脈にカテーテルをいれれば、水分や電解質やビタミンや脂質の補給に留まった一般的な点滴のレベルを超えた生存に必要な高カロリー輸液の点滴ができる知識と技術と機材があります。<br><br>でも、それをしていいのか？<br><br>これは老い、なのだ。<br><br>ゆっくりゆっくり、でも確実に、最期を目指して歩んでいるのだ。<br><br>病気ではない。<br><br>必要な治療は何一つ無い。<br><br><br>邪魔はしないでおこうね、と、私たちは決めたはずだ。<br><br><br>大好きなお父さんのベッドの上で、横になったままのメチャ。<br>何にも要らないって言うメチャ。<br><br>もう手伝えることもなくなってしまった。<br><br>しかし、一切の手伝いを不要と宣言した後、彼女に偉大な変化が起きました。<br><br>色々と出来ることを失っていく過程では、メチャ自身一生懸命であっための険しい表情も見受けられたのですが、メチャ自身が全てを手放して、私たちもそれを受け入れたとき、メチャの表情はこの上もなく柔和になり、幸福に満ち満ちて輝き、骨と皮だけになってゴツゴツと硬く感じられていた身体が柔らかく、被毛もふわふわになり、大好きなお父さんのベッドの上で、さんさんと降り注ぐ太陽の光を浴びて、ゴロ～ンとまん丸になって、気持ちよさそうに、うれしそうに、しあわせそうに、何の苦しみもない様子でまどろんでいるのです。見ている私たちまでもが幸せな気持ちになり、思わず微笑んでいました。<br><br>そして、心底思いました。<br>ああ、邪魔しなくて良かった...と。<br><br>なんて幸せな気持ちなんだろう。<br>私たちは微笑み続け、目からは、幸福の涙があふれていきました。<br><br>そんな幸福な時が二日続いた後。。。<br><br>午後の診察のために、いつものように「メチャ、行ってくるね。」と、気持ちよさそうにしているメチャにキスをして、１階の病院に下りていきました。<br><br>診察が終わり、一足先に夫が２階に上がりました。<br>すぐに音を立てて駆け下りてきました。<br>その形相を見て、何が起きたのか察知して、私も急いで駆け上がりました。<br><br>「行ってくるね。」のキスをした時とおんなじまんまで、その時と全く変わらない姿勢と表情のまま、メチャの生命機能は停止していました。<br><br>駆け寄って、「メチャ」と声をかけた時、全く予想も期待もしていないことが起きました。<br>私の胸の中にあったか～いオレンジ色の大きな（バスケットボールくらいの大きさの）ボールが飛び込んできて、胸の中心からあったか～いものが広がり、満ちていき、この上もなく幸せな気持ちがあふれてきたのです。<br><br>え？<br><br>意外でした。<br><br>カムイが亡くなった時に味わった、壮絶な、想像を絶する痛みに打ちのめされる覚悟でいたのですが、いや、正確に正直に言えば、覚悟はできておらず、恐れていたのですが。。。<br><br>驚きました。<br><br>ありがとう！メチャ！<br><br>痛くない別れ（死別）もあるんだね！<br><br>幸せだったもんね！本当に本当に。。。<br><br><br>「メチャがくれた、あったかオレンジボール」、私はそう呼んでいます。<br><br><br>私は、カムイを失った後、残る３人（３匹）の子供たちとのいずれ来る別れに対して、とてつもない恐れを抱いていました。<br>それは、死が怖いのではなく、そう、死は約束の時でしかないとカムイが教えてくれたので、死自体をマイナスにはとらえていないのですが、怖かったのは、愛する者との死別、愛する者が実際に目で見て手で触れられて言葉を交わすことが出来る状態ではなくなってしまうこと、もうこの目で見ることもこの手で触れることもできなくなってしまうその事実が与える衝撃と痛みと空虚さ、あの壮絶で想像を絶する苦しみを、少なくともあと３回は経験しなければならないのか？という、利己的な身勝手な恐怖でした。<br><br>それを、メチャが払拭してくれました。<br><br>そうなのか、、、痛くない死別もあるんだ。<br><br>いかに、死に向かうか。<br><br>死までの過程。<br><br>どのように死を迎えるのか。<br><br>どのように過ごすか。<br><br>いかに生きるか。<br><br>こわくないんだよ、死別も...　そうメチャが教えてくれました。<br><br>メチャが教えてくれたことは、病気ではない老化だけに当てはまるものではありません。<br><br>いつ、どのように、最期の別れを迎えることになろうとも、それまでの間を、いかに共に生きるか、本当に大切にするべきことは何なのか、この一瞬は２度と来ないということを肝に銘じて、共に生きる幸せの一瞬一瞬を脳裏に焼き付けて過ごす時、時間の密度が増し、輝き出すのを感じます。<br><br>実際、その後デュークとラフィーとの最期へと向かう日々は、恐れずに、いかに「今、この時」を大切に生きるか、今一緒に暮らせる幸せを満喫すること、に集中し、後悔のない、凝縮した光に満ちた日々を過ごすことが出来ました。<br><br><br>カムイとメチャが教えてくれたこと、きっと、多くの人を救うと信じて、これを伝えたいと思いました。<br><br>この記事を読んで下さった方で、一つ前の記事≪カムイが教えてくれたこと...「約束の時」≫をまだお読みでない方は、ぜひ、そちらもお読みください。<br>
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<link>https://ameblo.jp/healing-space-kamui/entry-11947166061.html</link>
<pubDate>Sun, 02 Nov 2014 14:57:38 +0900</pubDate>
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<title>カムイが教えてくれたこと…「約束の時」</title>
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<![CDATA[ かなり長いこと更新してませんでしたね。<br>書きたいことはいっぱいあるのだけれど、パソコンに向かっている時間を優先することができませんでした。<br>今回、ヒーリングスペースカムイと、デューク自然療法クリニックのHPにUPした記事を少しでも多くの人に伝えたいと思い、ここにも同時にUPします。<br>ずっとずっと前から伝えたいと思い続けてきたことです。<br>ようやく形にできました。<br>また間は空くかもしれませんが、伝えたいこと、これからも綴っていきたいと思っています。<br><br>では、今回の記事、ぜひ読んでください。<br><br><br>「ヒーリングスペース　カムイ」の、「カムイ」とは、愛する亡き長女（茶トラの雑種猫）の名前です。<br>デューク自然療法クリニックのHPのはじめのフラッシュに登場している子です。<br><br>彼女が魂の故郷に帰っていったのは、２０年近く前のことです。<br><br>当時は、まだ一般西洋医学の視点で治療に励んでいたころです。常に、最新、最先端を追い目指していました。<br><br>カムイにも、最新と最善をもって、全身全霊で治療していました。<br><br>勤務先の病院で入院治療をしていたカムイ、晴れて退院、というその日が来るのを信じて、いや正確には信じたくて、退院の時に連れて帰るための素敵なバスケットや、退院祝いのための可愛い首輪を探しまわりました。当時はネットで探して購入という時代では無かったので、休みの日に遠くまで足を運んで探しに行き、ようやく心から納得できる素敵なバスケットを見つけ、首輪は可愛すぎて一つに絞り切れず三つも買って、、、<br><br>今思うと、いや、当時も薄々感じてはいたのですが、くじけず希望をもって治療に取り組み続けられるように、と、自分を奮い立たせていたのだと思います。<br><br>しかし、生きて家に連れて帰ることはできませんでした。<br><br><br>カムイが死んでしまった。。。<br><br>どうして？<br><br>なぜ？<br><br><br>医学的な死因は答えにはなりません。<br><br><br>どうして？　なぜ？　なぜ今死ななきゃいけないの？　<br><br>どうすれば良かったの？<br><br><br>なぜ？　なぜ？　なぜ？<br><br><br>何か月も何か月も、ずっとずっと、自問自答を繰り返していました。<br><br>どの時点で、何をどうしていれば、この死はさけられたのだろうか？と時間を遡って、どんどん遡って、ずっとずっと、考え続けていました。(治療法の選択という意味ではありません。）<br><br><br>そして、半年以上は経った、ある日。<br><br><br>いつものように、夜遅く仕事から帰り、二人の子供（バーニーズマウンテンドックのデュークとシベリアンハスキーのラフィー）の散歩に出かけました。<br>今でも鮮明に覚えていますが、月明かり、という言葉が自然に浮かんでくる、とっても月が明るくきれいな夜でした。夜更けの静かな住宅街を、デュークとラフィーとともに、月明かりに照らされて歩いていました。散歩しながらも頭の中は、記憶を遡らせ、「あの時こうすれば良かったのか？あの時ああすれば良かったのか？」と考え続けていました。<br>そしてどんどん時間を遡って検証していくうちに、そもそもの事の発端になったのは、、、<br>入院治療が必要な事態になったのは、、、<br><br>、、、いつもと違うところに椅子を置いていたためだった、、、というところに行き当たったのでした。<br><br>これを読んでいるだけでは経緯詳細が不明で、なんだかサッパリわからない、と思われるかもしれませんが、大事なのは経緯詳細ではなく、この、「いつもと違うところに椅子を置いていただけ」ということが事の発端になっていた、ということに気付いて、このことに気付いたその時、「それは、もう予想もできなかったし、回避は不可能だった」と悟ったことなのです。<br>「これは回避不可能なことだったんだ。。。」<br>その時、天から何かが落ちてきて、頭を突き抜け、胸にストンと、まるで失くしていたパズルのピースがピタリとはまるように、「約束の時が来たんだ。」と理解したのでした。<br>カムイは、天からこの世にやってくる時に、再び戻っていくまでの時間を天に約束してきていて、「その約束の時が来ていたんだ。しかも、その約束の時は実はもうかなり過ぎていて、延長に延長を重ねて、私の傍にいてくれたんだね。でももう帰らなければいけなかったんだね。この世から天に戻るには、死という手段をとるしかないんだもんね。。。ありがとう、こんなに長く、一緒にいてくれて。ありがとう、ずっと愛してくれて。。。」<br><br>カムイは、自らの死を通して、全ての死における普遍的答えを教えてくれました。<br><br>私は、獣医師という仕事柄、実に沢山の死にも立ち会います。<br>その中には、誰から見ても幸せな大往生と思える死もありますが、あまりに理不尽と思うような死もたくさんあります。なぜ？どうしてこの子がこんなに早く死ななきゃいけないの？飼い主さんも良い人で落ち度もなく何も悪くなく、この子も何にも悪くないのに、なぜそういう運命なの？納得いかない！と思う時もいっぱいありました。<br>その答えも、カムイがくれました。<br>ただ、約束の時が来ただけなのだ、と。<br>どんなに短くても、それは、元々天に帰る約束をしてきた時間なのだ、と。<br>そして、天に帰るための、通り道として死があり、死ぬための現象が必要で、そのために起きた事象なのだ、と。<br>我々は、その約束の時を前もって知ることを許されてはいないので、「普通なら」と想定する時間よりも短い一生だったりすると、そしてそれが短ければ短いほど、理不尽に思え、不幸に思えたり、何か非があったのではないかと自分を責めたりするけれど、実はその時間は、すでにこの世にやってくる前に天と約束してきた時間で、どちらかというとどんなに短く思えても、大抵の場合約束の時間を延長してできる限り長く一緒にいてくれていたのです。<br>ということが、純粋に、自然に、確信として私の中に芽生えたのでした。<br><br>そして、その約束の時間の間をどこでどう生きるかは、最も楽しんで生きられるところだったり、あるいは最も救おうと思うところだったり、あるいは何かを教えようとしてだったり、その魂の目的と力を携えて、選んだところにきてくれている、ということも同時に確信しました。<br><br>このことを伝えたい。。。<br><br>機会あって、直接お伝えできた方々もいらっしゃいます。<br><br>きっと、もっと、この普遍の真理を知ることで救われる人はいっぱいいるだろうと思います。<br><br>「約束の時」の理解が誰かを救えるかもしれません。<br><br>その時は、どうぞ、この真理を優しく伝えてあげてください。<br>
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<link>https://ameblo.jp/healing-space-kamui/entry-11947061632.html</link>
<pubDate>Sun, 02 Nov 2014 09:21:47 +0900</pubDate>
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