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<title>高木たかし</title>
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<title>宇宙のリズムに酔うヒッピー</title>
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<![CDATA[ <div id="D0C82F9F-8D1F-4ACA-BFE4-427D99FB3DF1"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180104/20/heaven1953/22/e1/j/o0480064014105330626.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180104/20/heaven1953/22/e1/j/o0480064014105330626.jpg" border="0" width="400" height="533" alt="{D0C82F9F-8D1F-4ACA-BFE4-427D99FB3DF1}"></a></div><br><div id="4CD79651-E55E-4751-83DD-309DD557F9F6"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180104/20/heaven1953/09/bd/j/o0480064014105330646.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180104/20/heaven1953/09/bd/j/o0480064014105330646.jpg" border="0" width="400" height="533" alt="{4CD79651-E55E-4751-83DD-309DD557F9F6}"></a></div><br><div id="E052C719-BF73-48A0-8CC0-5764AC8B2933"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180104/20/heaven1953/b0/63/j/o0480064014105330667.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180104/20/heaven1953/b0/63/j/o0480064014105330667.jpg" border="0" width="400" height="533" alt="{E052C719-BF73-48A0-8CC0-5764AC8B2933}"></a></div><br>
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<pubDate>Thu, 04 Jan 2018 20:43:02 +0900</pubDate>
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<title>男と女</title>
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<![CDATA[ 神は人を作り、そのあと「他の生き物が一対なのに人だけが一人では寂しいと考えて女を作ったという。すなわち初めに作った人というのは男である。神は「人を自分に似せて完全なものとして人を作った」のならば、その完全な人がなにゆえ寂しくなる、すなわち何かの不足を思うことがあろうか？そしてのち、その女がきっかけで人は罪を犯したとされ死ぬことにもなるのである。神が女を 作らなければ、そんなことは起こらなかったのである。聖書とは、女の問題で罪を犯してしまって死刑にでもなった人が、人にはどうにもならない大いなるものを想定して正当化しようとした物語ででもあるかのようだ。その話しに乗るとして、一体、女を作ることは、初めから計画されていたことなのか、それとも男を作ったあとで、そう思って作ってやったのかだが、人だけが一人では寂しいと考えてというのだから、そこまでいってから作ることにしたと考えられる。また、人(男)は完全に作ったとは言ったが、女は完全に作ったとは書いてない。そしてその作った理由は「人だけが一人では寂しいと考えて」のことだという。必要なものだったのならば初めから作れば良かったのである。あるいは、「完全に作った」というのであれば、寂しくなることもなかろう？ &nbsp; &nbsp;そういう感情や理性といったものもあるのも、完全なうちだとの反論があるが、寂しくなったり、不幸で嫌になったりするのまでを「完全」という言葉の意味に含めるとしたら、もはや「完全」という言葉が崩壊している。言葉を同じ意味に使わないならば、その言葉を使わないで語るしかないが、これも先の物語的に言うと、死刑にまでなってしまった女との付き合いは、自分が一人では寂しいと考えてしまったのが悪かったとの反省がみられる。そしてそれは、元の神が一人で寂しかったからではないのか。<div>その寂しさゆえ、のちには人の女であるマリアを身ごもらせるにまで至る。ところが</div><div>まだまだ苦難が続く。寂しいひとが求めるのは愛だ。だから、神は、人に対して執拗に愛を要求する。しかし、愛は要求されてできるものではないから、いつまでたっても、その愛の要求に応える人は少ない。大いなるものを見立てて愛が欲しかった、愛があれば、寂しくなく、罪も犯さなかったのにとの悔やみ節か？</div>
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<pubDate>Sat, 09 Nov 2013 12:15:49 +0900</pubDate>
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<title>永遠の命の木の実</title>
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<![CDATA[ 個人的な人の体や心の永続性を願うのは無理だ。その必要もない。命が引き継がれている、遺伝子によって。 そうだ！完全には死んでいないんだ。オスは、自分の精子がメスの卵子に届いて受精した時、まだ永遠の命というほどではないが、次の体に乗り移ったのである。そこでこの今の自分の体の限界を超えたのである。このことをハッキリと肝に銘ずれば、私個人の死は取るに足りないものとなろう。そのあとの自分は、有る意味で抜け殻である。<div>&nbsp; &nbsp; 自然界は、キチンとした自然の法則に則っているというが、ライオンの子でも、ちょっと遠くに遊びに行き過ぎて</div><div>ワニに食べられてしまうような過ちがいくらでもある。</div>
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<pubDate>Thu, 07 Nov 2013 21:06:08 +0900</pubDate>
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<title>死</title>
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<![CDATA[ 「生まれてくるのも一人、死んでゆくのも一人」などと寂しいことを言う者がいるようだが、生まれてくるときも母さんと一緒、死んでゆくときも愛する人と一緒ということだってある。<div>&nbsp; &nbsp; 生き急いでいないか？ &nbsp; &nbsp;己の命は、そんなに長くはない。</div>
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<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 08:32:47 +0900</pubDate>
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<title>妬み</title>
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<![CDATA[ 他人を妬むのは間違っている。妬む人は、自分は、がんばっていてもうまくいかないのに、他人は、がんばっていないのにうまくいっていると思っているが、がんばらないのにうまくいくことは、ほとんどない。逆に、どんなにがんばってもうまくいかないということも、ほとんどない。ほとんどの場合、うまくいっているのは、がんばってきているからであり、また、自分は、がんばっていないからうまくいっていないだけのことだ。つまり、自分が、がんばっていないからうまくいっていないのを他人のせいにしているだけだ。それは、がんばらなくても、うまくいくようになりたいというズルさに他ならない。そんなことだから、うまくいかないのである。
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<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 08:03:52 +0900</pubDate>
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<title>天国</title>
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<![CDATA[ <div>目次 &nbsp; &nbsp;第一章 &nbsp; &nbsp;遺伝子</div><div>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;第二章 &nbsp; &nbsp;輪廻転生</div><div><br></div><div>第一章 &nbsp; &nbsp;遺伝子</div><div>&nbsp;&nbsp; &nbsp;1.すべての生き物は、本当に生きていることの目的が、「種の保存のため」であるのだろうか？ &nbsp; &nbsp;<div>&nbsp; &nbsp; 2.或る家族が、自分たちは数千年も続く血統があるから重要な家系だ、などと言っているが、今生きている全ての人は、みな同じだけの長い歳月、命を引き継いできて現在があるのである。ただ、普通は、その長い歳月の血統を全て書いてないだけだ。また、その全ての人は、皆これからも続くかどうかはわかっていない。</div></div><div>&nbsp; &nbsp; 3.己を極めることが進化を早める。自分一人ひとりが幸せになってゆくことが進化をしていること、進化を自覚することではないか？専門性を深めることがヒトの進化を速めることになる。自分を磨き、それを表すことがヒト全体の進化の単位である。 &nbsp; &nbsp;</div><div>第二章 &nbsp; &nbsp;輪廻転生</div><div>&nbsp; &nbsp; 輪廻転生とは、人として死んだら、次に虫になって生まれ変わるなどというものである。が、それは、動物の進化として、初め海で魚に生まれ、陸に上がり始めて両生類となり、鳥類になったものもあるが、陸上では、四足の哺乳類となり、猿類の一種として人間が生まれたことを指すものと思われる。我々は進化の歴史として、魚のときを過ごし、魚をやめてヘビに進化して生まれ、次に地上で早く動くことができるようにと、四足動物になり、さらに進化し、こうして人になったのである。ヒトの次はなんだろう？次があるという確証はないが、こんなに長く、様々な生命体にと、われわれ命は変化してきたのだからこの人という形が最後だということは言い得ない。ただ、次にいくとしても、それはすべての個人が行くのではない。永く引き継がれる、より強い遺伝子が代表として、生まれ変われるのである。<br></div><div><div id="{0BAED7D4-968B-49EF-A9C7-C15A69075A4D:01}" style="text-align:left"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20131031/10/heaven1953/76/7d/j/o0480072012733762669.jpg" alt="{0BAED7D4-968B-49EF-A9C7-C15A69075A4D:01}" width="300" height="450" border="0"></div><br></div>
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<pubDate>Wed, 23 Oct 2013 22:58:22 +0900</pubDate>
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<title>索引</title>
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<![CDATA[ ＊ブログの各記事タイトルは、次の４          <br>    テーマに分類されています。<br>1.自然<br>&nbsp; &nbsp; 進化、遺伝子、物理、野生、出産<div>2.社会<br>&nbsp; &nbsp; 国家、貴族、労働、旅行<br>3.生活<br>&nbsp; &nbsp; 死、思い出、妬み、母系、灯火、正食、着<br>&nbsp; &nbsp; 物、予定、<br>4.文化<br>&nbsp; &nbsp; 言論、出版、音楽、茶道、文芸、哲<br>    学、辞典</div>
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<link>https://ameblo.jp/heaven1953/entry-11649131220.html</link>
<pubDate>Wed, 23 Oct 2013 19:45:49 +0900</pubDate>
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<title>死</title>
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<![CDATA[ 死ぬまぎわまで、自分は幸せだと思っていて死んだならば、それは言ってみれば、幸せで終わり、終わってしまったのだから、もう不幸にはならないのではないか？死んだら不幸だとは誰がきめたのか？死んだから不幸だとは他人の認識にすぎない。本人は幸せのまま死んだというのに、他人がその人を不幸だと言うことはない。幸せとは、人それぞれのものだからだ。では、いつ死ぬのか？    それは分からない。いつが死ぬまぎわなのか分からない。だから、いつでも幸せでいるべきなのである。
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<link>https://ameblo.jp/heaven1953/entry-11647248212.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Oct 2013 13:43:22 +0900</pubDate>
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<title>高木たかし自伝</title>
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<![CDATA[ 第一章 &nbsp; &nbsp;思い出<div>&nbsp;&nbsp; &nbsp;1.皆様がた、先立つ幸せをお許しください。私は、これまで過去の思い出に浸ったことがない。前だけを見て生きてきた。が、これからは、これまでのことを思い出してみようと思う。思い出は良い。事実だし、そこでは必ず自分が主人公として関わっているので楽しい。（主人公が、やられそうになる時もあるけどね)    また、一つひとつは、すでに完結しているので、それ自体を改善することができない、すなわち改善する手間がかからない。あとは<br>その解釈と、それでその結果どうなったかという問題だ。解釈の方は自分に決定する権利があるから都合がよい。どう解釈しようと自由だ。良かったと言ってやってもよい。思い出は、どんな良かったか、楽しかったかを実感をもって思い出すことができ、好きなだけゆっくり楽しむことができる。考えているだけだが、それは虚構ではなくて実際に行われた事実であるから確かな拠り所である。他の人がもっと良い思い出や社会的に立派な思い出をもっているとしたところで、自分のなかで自分が主人公である思い出が自分にとって一番であることは揺るぎない。他と比べたい人がいたら、その人が勝手に比べれば良いだけだ。また、思い出は荷物にもならない。<br>    私は幸せだ。良い思い出がいっぱいある。これから一つひとつ思い出してゆくだけで、もうこれから死ぬまでを楽しく過ごすことができるくらい沢山ある。嫌なことなど覚えている必要はない。自分の好きなことだけを自分の思い出として持つことにして、その結果として自分が幸せになっても、他人に何んの差し支えもないのである。</div>
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<pubDate>Thu, 18 Jul 2013 22:19:11 +0900</pubDate>
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<title>言論</title>
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<![CDATA[ ブログは言論の自由の保証である。言論の自由はあるのか、ないのか？自分の意見・主張を言い、書きあらわす自由は必ず守られねばならないと考える。ヒトと他の動物との大きな違いとして二足歩行と火の使用と文字の発明があるが、文字の発明のさらなる進化こそ、言論の自由である。言論とその文字化された出版の自由がなければ<br>せっかく他の動物などとは違うヒトの特徴である文字があっても、良い言論が世に出ることができない。あくまで一つの言論であることを認め、守られてこそ文明社会と言えよう。また人として大人であると言えるのである。文章でも音楽でも自分がつくって自分で楽しみ、またそれを他人が自由に見ることができる形に作品としてあらわす表現活動がある。これらの自由は近年<br>、人類が勝ちとった精神的財産とも言うべき遺産であって、これを脅かすことは文明社会においては犯罪とされている。言論や他の自由をも認められずに多くの民が数千年も苦しめられた旧い野蛮な社会の反省が要る。主義主張は違へども言論の自由がない社会が良い社会であるはずがない。自由主義圏においては、共産圏は言論をはじめとした自由がないなどと言うが、ならば<br>まさか自由主義圏において、世の中は弱肉強食だから言論の自由を認めない、気に入らない言論は強制力をもって否定するというようなことがまかり通っては困りものだ。各人が個性や興味ある専門的な研究成果を文章および映像にて発表し、賛同する人がそれを知識として得られるシステムこそ、まさしく言論の自由を保証するものであり、人類の英知の結晶となろう。それらインターネットのブログ等は世界遺産にしたいくらいだ。ただのたった一人の人であっても、この世に生まれてきて、思ったことが言える。これはとても良いことだ。小さなことであっても、少しはおかしな考えであっても、とにかく自分の考えを文章として発表でき、興味ある人は読むことができるし、間違った考えならば受けいられない。公けに淘汰されるのである。文章に対して意見があるならば文章で反論すればよい。それがヒトに対する礼儀だ。言論に対して物理的な暴力で対応するのは犯罪であり、ついには文明社会の公けの賛同を得ることはできないであろうと私は信じている。<br>    インターネットのブログを始めたというと、「多くの人に見てもらいたいからか」と思われるかもしれない。ブログ案内の中にも、より多くの人に見てもらう方法が説かれている。しかし、私はそうではない。私は自分の考えを記し、自分の考えを極めるために書いてみたい。そして、これで良いと自分が思えれば、そこで終わる。文章をはじめとして「表現」媒体は、作家が作品を作った段階で終わる自己満足完結的側面と、それを他人に見てもらい、良い評価を得てはじめて意味があるとする他力本願的側面がある。これは、どちらも意味があって相互補完するものなので、どちらかだけで良いわけではないが、先ずは自分の考えを書くことが始めにあって、それを他人に見せるという順番にはなる。ブログが良いと思った点は、私としてはここにある。誰しもが何らかの考えを持っている。先ずはそれを書くことだ。そして他人は先ずはその人がそう思った、そして、それを書いたことは認めなくてはならないだろう。書くことは実体ではないから物理的実体として対応する必要もない。手紙や電話、メールでは、特定個人的に、自分の考えを聞かせるということになるが、ブログは、何も他人に見せたくて書いてる訳じゃない。自分が書きたいから書いているだけのことだ。見たくない人には見ない完全な自由がある。本当に見たいと思う人だけがアクセスすれば良い。ネット上の自分の家の住所すなわちアドレスを尊重する。
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<link>https://ameblo.jp/heaven1953/entry-11569324751.html</link>
<pubDate>Tue, 09 Jul 2013 11:48:18 +0900</pubDate>
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