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<title>Hedda Gabler Blog</title>
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<title>今後掲載の記事一覧</title>
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<![CDATA[ このブログでは「ヘッダ・ガブラー」をより楽しむために以下の記事を掲載します。<br>お時間あれば、ぜひお読み頂き、「ヘッダ・ガブラー」をよりお楽しみ頂ければ幸いです。<br><br>【掲載記事一覧】<br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10285428356.html"><br>・イプセンの生きた時代（1828年-1906年）について</a>(06/21UP）<br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10293536700.html">・イプセンの時代の女性の教育水準について</a>（06/30UP<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/173.gif" alt="アップ">）<br>・イプセンの時代の女性の生活について<br>・イプセンの時代の女性のヘアスタイルについて<br><br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10290576290.html">・「将軍」の権威について</a>（06/26UP）<br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10293538340.html">・「教授」の給料はどれくらいなのか？</a>（07/02UP<img alt="アップ" src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/173.gif">）<br><br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10286700208.html">・用語解説：中世ブラバントとは？</a>（06/22UP）<br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10294356445.html">・用語解説：ドロミティーとは？</a>（07/03UP<img src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/173.gif" alt="アップ">）<br><br>・ヘッダとテスマンの新婚旅行について<br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10288601514.html">・赤毛の歌手　フレイケン・ディアナについて</a>（06/24UP）<br>・ぶどうの葉っぱについて<br><br>・イプセンにとってのヘッダ・ガブラーとは？<br>・イプセンとブラック判事について<br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10290553231.html">・「ヘッダ・ガブラー」を執筆していた時のイプセン</a>（06/25）<br><br><a href="http://ameblo.jp/hedda/entry-10288595261.html">・「ヘッダ・ガブラー」上演史</a>（06/23UP）<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hedda/entry-10284804224.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jul 2009 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>用語解説：ドロミティ</title>
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<![CDATA[ ・用語解説：ドロミティ<br><br>　「あなた、このへんてこな形の山、なんて言ったっけ?」<br>　「これは、ドロミティ。」<br>　「そう、そう、ドロミティ、そうだったドロミティって言うの、そうなのよ」<br><br>新婚旅行の写真をめぐってのヘッダとテスマンの会話である。<br>いったい「ドロミティ」とは何なのだろうか。<br><br>ドロミティ（Dolomiti）とは、ヨーロッパを横断するアルプス山脈の南側、イタリア北東部に位置する分嶺。<br>ドロミティ山塊、ドロミティ・アルプスとも呼ばれる。<br>スイスのアルプスの優美な山々の連なりとは異なり、ドロミティは、荒々しい岩肌がむき出しの山並みが特徴である。<br>そしてこの岩肌は、独特の灰色をしており、それはドロマイト（苦灰石）の成分によるもの。<br>この鉱石を18世紀末に発見したフランスの学者、ドロミウが名前の由来となっている。<br><br>同じく、二人の新婚旅行についての会話に登場する、アムペッツァの渓谷 （Conca Ampezzana）は、このドロミティ・アルプスにある谷の名前である。<br>ドロミティは、そのひときわすぐれた美しさから世界遺産（自然遺産）にも登録されている。<br><br><br>&lt;&lt;演出家・古川貴義より&gt;&gt;<br>雄大な海よりも、山々の表情の変化の方が好きです。<br>スイスアルプスの、アイガー、メンヒ、ユングフラウ。<br>この三山を眺められるユングフラウ鉄道に乗りたい。<br>「世界の車窓から」を地で行きたい。<br><br>国内なら断然黒部ダムです。<br>何故か、ダムです。<br>やはり海外と国内では、山の雰囲気が全然違います。<br>特にアルプス山系には惹かれてしまうなあ。<br>山麓にある古城に惹かれるのにも近いかもしれません。<br>ノイシュバンシュタイン城(『カリオストロの城』のモデル)が練馬あたりにあっても、誰も興奮しないと思うのです。<br>自然の中、山の上、森と共生するようにあるその佇まいに、心惹かれるのです。<br><br>ごく個人的な野望としてスイス旅行を掲げているのですが、今回こうやってドロミティの存在を知ってしまい、どうしてもドロミティ地方を訪れたくなってしまいました。<br>もちろんイプセンの母国、ノルウェーも。<br><br><br>【ドロミティ（ドロミテとも言う）】<br><div align="center"><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090706/11/hedda/be/93/j/o0800060010208668081.jpg"><img height="165" width="220" border="0" alt="Hedda Gabler Blog" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090706/11/hedda/be/93/j/t02200165_0800060010208668081.jpg"></a></div></div><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hedda/entry-10294356445.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Jul 2009 11:29:56 +0900</pubDate>
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<title>「教授」の給料はどれくらいなのか？</title>
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<![CDATA[ ・「教授」の給料はどれくらいなのか？<br><br>「君との結婚は、一生に一度の大博打だったんだ。・・・結婚、旅行、この家、すべてはこのぼくにとって身分不相応なことだ。でもあのポストがあれば、何とか乗り切れると思った。」<br><br>テスマンが、ヘッダと結婚、そしてその希望を全部叶えてこれたのも、約束されたポスト、つまり「教授」の地位があったからである。<br>半年間の新婚旅行、そしてヘッダのあらゆる要望を叶えるだけの「教授」とは、いったいどれほどの待遇だったのだろうか。<br><br>18世紀から19世紀の教授職について調べをすすめると、ドイツの教授職についての興味深い資料を見つけることができた。<br>それによると、まず教授職に就くに不可欠なのが学術的な貢献。<br>そして博士の学位を前提として、教授資格論文の提出、口頭試問、試験講義などによる審査が行われたとされている。<br>また18世紀後半から19世紀にかけては、高等教育を受ける学生数が増えたこともあり、各国で教育制度の改革も行われていた。<br>この資格制度にともない、教授の給与も根本的に改善され、大学教授の平均年収ランクは、全人口の上位1％以内であったといわれている。<br><br>ちなみに、日本の大学教授の平均年収は1121,1万円、平均月収は66，6万円。<br>平均時給は4133,5円とのこと。<br>（平成20年度厚生労働省「賃金構造基本統計調査」より）<br><br><br>&lt;&lt;演出家・古川貴義より&gt;&gt;<br>結構儲かるんですね、教授って。<br>なるほど、そりゃみんななりたがるわけですよ。<br>自分の好きなことばっかり研究して、たっぷりお金貰って。<br>あぁ、なんで大学教授を目指さなかったんだろうか。<br>もう一度人生を送れるなら、大学教授を目指してみよう。<br>もちろん、なりたいだけでなれる職業ではないことは知っての狼藉発言です。<br><br>凄いなあ、大学教授。<br><br>そりゃテスマンも必死になりますわ。<br>なりたがりますわ。<br>僕自身の出自、日本大学芸術学部にも、本当に好きなことしか研究してない教授がいました。<br>助教授だったのかな。<br>あまり研究室に従属していない感じの人たち。<br>地位や役職は、その教授の話が面白いかどうかではないんですな。<br>研究の学術的価値や、発表した論文の内容如何、そして研究室内での政治力で決まるのでしょう。<br>でも好き勝手に研究している人たちの専門講義は、本当に面白かった。<br>とことんまで突き詰めているから、話の拡がりや収斂にたまらなくゾクゾクしたものです。<br>教授と一緒に行く飲みも楽しかった。<br>集まる学生との話も盛り上がった。<br>そういう講義が、何故か、演劇学科以外の、他学科公開講義や一般教養過程に多かったのは良かったのか悪かったのか。<br>むしろ、演劇学科にいたからこそ、余所の芝生が青く見えたのでしょうか。<br>近親憎悪と言いますか、やはり同じ演劇を志す者として、教授といえどもその考え方に賛同できないことが多々ありましたしね。<br>何より、早く演劇を実践したくてしょうがない若獅子の一匹だったわけですから、実践よりも思考、研究を重視している(ように見える)教授連には牙を剥いてしまっていました。<br>演劇学科の研究室には、お世辞にも好かれているとは言えない学生だったんだろうな、僕。<br>卒論提出とかギリギリだったし。<br>今となっては、その思考、研究の重要性と必要性が身に染みて分かります。<br>ただやっぱりそれは、どこまで行っても、実践の前提でしかないと思います。<br>更に言えば、土壌としては必要だけれど、実践するときに足枷になってはいけない。<br><br>イプセン論はたくさんあるし、『ヘッダ・ガブラー』にも様々な解釈があるだろうけれど、今、僕たちが作っている『ヘッダ・ガブラー』を信じて。<br>「こういう『ヘッダ・ガブラー』もアリだね」ではない。<br>「これが、イプセンの『ヘッダ・ガブラー』です」と自信を持って言える。<br>そこいらのイプセン研究者に、一家言持っている人たちにもぜひ観て貰いたいですね。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hedda/entry-10293538340.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Jul 2009 13:09:58 +0900</pubDate>
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<title>イプセンの時代の女性の教育水準について</title>
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<![CDATA[ ・イプセンの時代の女性の教育水準について<br><br>イプセンの故郷、ノルウェーといえば、現在は教育水準も高く、女性の社会的地位の高い国として知られている。<br><br>実際にノルウェーは、国連開発計画（UNDP）が様々な国の生活レベルを比較するためにもうけた「人間開発指数」（国民所得・平均寿命・教育水準）の調査で世界第１位（日本は９位）、女性が積極的に経済界や政治活動に参加して意志決定できているかを測る「ジェンダー・エンパワーメント測定」でも世界第２位である。（ちなみに、日本は44位と大きく後退）<br>男女を比べてみても、現在高等教育を目指す男女の割合はほぼ同じで、2008年の調査によると、約63％の女性が大学を卒業している。<br>こういったノルウェーの高い教育水準は、長い歴史の中で一歩ずつ女性が勝ち得てきたものであり、女性が大学入学のための試験(Artium)を受ける権利を得たのが1882年、女性がすべての学部で卒業試験を受ける権利が認められたのが1884年のことであった。<br><br>つまり、イプセンの時代、女性は高等教育を受けることをそもそも許されていなかったのである。<br>女性の教育は確立されておらず、その内容も日常最低限のものに限られていて、日常的な読み書き・算数の教育や簡単な絵ごころは推奨されていたが、学問的な教育は好ましくないとして閉ざされていた。<br><br>そんな中で中・上流家庭では、娘たちへの音楽教育、ピアノの教育が熱心に行われていたと言われている。<br>優雅な調度品や家具とともに、かつては王侯貴族の持ち物であったピアノを自宅に所有するようになっていた。<br>そして娘たちにとっても、サロンやパーティーでピアノを披露する、というのがある種のステイタスとなっていた。<br>（参考資料：「ピアノの１９世紀　女子教育とピアノ」）<br><br><br>&lt;&lt;演出家・古川貴義より&gt;&gt;<br>女性ってこう、どうして、そういう扱いを受けてしまうんでしょうね。<br>歴史的に。<br>迫害ではないし、差別だとも思わないけれど、やっぱりどこの国にもある。<br><br>日本では、雇用機会均等法だの何だのと、ジェンダーの差をなくすことに躍起になっているフシがありますが、それはどうなんでしょうか。<br>差をなくすことが平等に繋がるってのは、思い過ごしなんじゃなかろうか。<br>必要なのは、差を認めること。<br>違いを認めること。<br><br>昨今、小学校や中学校では、生徒たちの差を見えないようにするため、テストの点数での順位付けがなされていないと聞きます。<br>それどころか、運動会などの競争でも、1位や2位を決めないらしい。<br><br>それ競争になってないじゃないか。<br><br>何やってんだか。<br>愚か極まれり。<br>差は、あるんです。<br>人間なんだから。<br>工業製品じゃないんだから。<br>数学や物理じゃないんだから。<br>100人居たら100人とも違うんです。<br>それぞれに色々なことを考え、色々な行動を取っている。<br>違って当たり前なのに。<br>その差を、違いを明確にしなければ、埋めようとしたり、別なフィールドで戦おうとしたりする意識が育たないではないか。<br><br>男と女は根本的に違うんです。<br><br>ただ、だからといって、「男のくせに」「女なんだから」と括ってしまうのもよろしくない。<br>遺伝子レベルで確実に違っているということだけが確実。<br>だって、僕は子供は生めませんから、どうやったって。<br><br>例えばヘッダ・ガブラーが男だったら。<br>誰も相手にしないだろうなあ。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hedda/entry-10293536700.html</link>
<pubDate>Tue, 30 Jun 2009 12:58:19 +0900</pubDate>
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<title>「将軍」の権威について</title>
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<![CDATA[ ・「将軍」の権威について<br><br>イプセンは、「ヘッダ・ガブラー」の仏訳者モーリッツ・プロゾール伯に宛てた手紙の中で、次のように語っている。<br><br>「・・・戯曲のタイトルは『ヘッダ・ガブラー』です。タイトルをそうすることで、私はヘッダが人間として、夫の妻であるよりはむしろ、父親の娘とみなされるのを暗示したかったのです…」<br><br>ヘッダの父親とは、劇中でも何度かその名前が言及されている、「ガブラー将軍」である。<br><br>「将軍」といっても、その権威は現代の私達が想像するような、いわゆる軍隊の指揮官、武将というだけではない。<br>それは、英訳すると「aristocratic general」、つまりある地域を統括する貴族に代わるほどの権威であった。<br>つまりそこには「高貴さ」と「偉大さ」があり、夫の妻ではなく父の娘として描かれたヘッダはその象徴なのであった。<br>そして、だからこそそのピストルは尊敬を持って語られるのである。<br>しかし、19世紀のはじめ以降、ノルウェーは平和であり、「ガブラー将軍のピストル」は一度も実戦で火薬の匂いをかいだことがない可能性が高い。<br>だとすると、ガブラー将軍の手で育てられたヘッダが、その誇り高いが、戦闘で血をながしたことのないピストルを、気晴らしの玩具のように扱っていても不思議ではない。<br><br><br>&lt;&lt;演出家・古川貴義より&gt;&gt;<br>とにかく、ノルウェーにおける「将軍」という職業は、とてつもなく高貴で偉大だったようですね。<br><br>「ある地域を統括する貴族に代わるほどの権威」というと、日本では何でしょうね、知事とか？<br>でも現代の知事はそんなに尊敬されてないし、全然高貴じゃない。むしろ下賎なイメージがつきまといます。<br>もちろん一部の知事たちは頑張っているのでしょうが。<br>江戸時代までさかのぼれば、親藩大名とか徳川御三家あたりに例えられるのでしょうか。<br>んー、日本に無理矢理置き換えようとすると、どうしても無理矢理感が出てしまいますね。<br><br>それならそのまま、戯曲の舞台となった国、状況を活用するのが得策。<br><br>とにかく、ノルウェーにおける「将軍」という職業は、とてつもなく高貴で偉大だったんです。<br>そんな将軍の娘であるヘッダが、結婚してもガブラー姓にこだわり、一介の市井の民であるテスマンの姓を名乗ることを拒絶するのは、当たり前の感覚ではあるのかもしれません。<br>勅使河原家から鈴木家に嫁に行くようなものかもしれません。<br>いやもっと凄い。<br>しかしヘッダは、結婚してしまった。<br>イェルゲン・テスマンという、権威に憧れる側の人間と。<br><br>また、「将軍のピストル」は、「将軍の娘」と同様に、高貴さと偉大さの象徴でもあります。<br>そして江戸時代に例えるならば、相州正宗や大般若長光のように、美しさと機能性を有し、燦然と輝く名刀のごときものでしょう。<br>平和な時代になってしまったが為に血をすすることのなかった、その本来の機能を生かす場を失ってしまった、過去の威光のような存在と言えます。<br><br>まるで、ヘッダ・ガブラーそのものじゃありませんか。<br><br><br>
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<pubDate>Fri, 26 Jun 2009 18:38:27 +0900</pubDate>
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<title>「ヘッダ・ガブラー」を執筆していたときのイプセン</title>
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<![CDATA[ ・「ヘッダ・ガブラー」を執筆していたときのイプセン<br><br>イプセンが「ヘッダ・ガブラー」を執筆したのは、1890年、妻と共にミュンヘンに滞在をしていた時期である。<br>そして、イプセンは友人であるスウェーデンの抒情詩人、カルル・スノイルスキーに宛てた手紙にその当時の様子を綴っている。（手紙の日付は1890年6月29日）<br><br>「・・・わたしはいま新作戯曲に取りかかっているんですが、そいつがいろんな理由からはかどらなくなっていたので、第一稿が出来上がるまでミュンヘンを離れるわけにはいかないのです。7月に仕上げられる見込みはほとんど、いや、はっきりありません。したがってわたし達はたっぷり秋まで、多分この町に残っていなくちゃならないでしょう・・・」<br><br>現在も残っている「ヘッダ・ガブラー」の草稿はおそらくこの頃のものであると考えられる。<br>また、イプセンが残した様々な覚書きやメモの内容も興味深い。<br><br>「人生はおびただしい幸福の可能性を提供しているはずなのに、どうしてもそれが彼女に信じられない。それでヘッダは絶望している。」<br><br>「男と女は同じ世紀に住んでない」<br><br>「みんな、その生涯に、生涯の宿題があることは感じているが、それがつかめないのだ。」<br><br>「人生はヘッダにとって、最後まで見る価値の無いファルスのようなものである。」<br><br>草稿の段階でのタイトルは「ヘッダ」であった。<br>それから「ブドウの葉っぱ」のような台詞を書き加えたり、推敲を重ねたうえで、「ヘッダ・ガブラー」として最終稿が完成したのが1890年11月6日であった。<br><br><br>&lt;&lt;演出家・古川貴義より&gt;&gt;<br>はかどらなくなっていた理由は、女なんですよ。<br>ミュンヘンで出くわした、18歳の女。<br>エミーリエ・バルダッハ。<br>きっとね。<br><br>60過ぎのクソ爺、かつ妻帯者でありながら、18の小娘に翻弄され、芝居の主人公に据えるくらい影響を受けてしまったイプセン。<br>えぇ、凄く良く分かります。<br>作家というものは、経験と想像力を元に物語を紡ぐ生き物です。<br>齢60にして、それほどの感銘を受ける出会いがあったとは、羨まし過ぎます。<br><br>例えば20歳前後に出会い、恋をした相手は、今も心の中のどこかに息づいています。<br>誰にでもそういう人が一人は居るのではないでしょうか。<br><br>他人の運命を変えるほどの影響力を持った女性。<br><br>出会ってみたいものです、還暦を過ぎてから。<br><br>「人生はヘッダにとって、最後まで見る価値の無いファルスのようなものである。」<br><br>良いメモですね。<br>『ヘッダ・ガブラー』の台詞が、ストンストン腑に落ちていくような言葉です。<br><br><br>
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<pubDate>Thu, 25 Jun 2009 17:53:38 +0900</pubDate>
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<title>赤毛の歌手　フレイケン・ディアナについて</title>
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<![CDATA[ ・赤毛の歌手　フレイケン・ディアナについて<br><br>「ヘッダ・ガブラー」には、舞台上に一度も登場しないが、なぜだか印象に残る女性がいる。<br>それが、「赤毛の歌手、フレイケン・ディアナ」である。<br>（イプセンの原作でも、本公演同様、名前しか登場していない）<br><br>エイレルト・レェーヴボルグとかつて噂になっていた女性、そしてエイレルトの最期を知る、とんでもないことをやりかねない女性。<br>イプセンと同時代のフランスの画家トゥールーズ・ロートレックの作品にフレイケン・ディアナを思わせるような女性がいる。<br>それは「赤毛の女〈身づくろい〉」という作品である。（１８８９年・オルセー美術館所蔵）<br>ロートレックは、ダンスホール、キャバレー、娼館などに通いつめ、踊り子、歌手、そして娼婦などのありのままの姿を描きあげた画家である。<br><br>そして、フレイケン・ディアナの髪が「赤毛」であることにも注目したい。<br>「赤毛」には、情熱的で癇癪持ち、道化そして誘惑という、社会のステレオタイプ化されたイメージがある。<br>例えば、キリストを裏切ったユダは赤毛で描かれることが多く、道化は赤毛のかつらをかぶる。<br>「赤毛のアン」の主人公アンが、自分の髪を黒く染めようとするのも、赤い髪の色にまつわるこういったイメージを忌避しようとしているとも言えるのである。<br>（参考資料：高橋裕子著「世紀末の赤毛連盟－象徴としての髪」　岩波書店）<br><br><br> &lt;&lt;演出家・古川貴義より&gt;&gt;<br>日本人が赤毛にすると、中学生は不良扱いされ、高校生は不真面目グループの烙印を押されますが、大学生になるとそうでもなくなります。<br>女性の場合特に、染めても脱色してもいない黒髪は、清純派の象徴のように扱われます。<br><br>上記解説にもありますが、やはり、赤毛というものは印象を軽くするんでしょうね。<br>だからといって赤毛の人は全員尻が軽い、というのは間違いですが。尻の軽さと印象の軽さは別物。<br>気を付けないと。<br><br>何の話だ。<br><br>そうだ売春婦の話だ。<br>売春婦、なのでしょう、フレイケン・ディアナさんは。<br>いわゆる娼婦。<br>当時の踊り子や歌い手という職業は、娼婦を兼ねていた、とよく聞きます。<br><br>日本人が男だけで慰安旅行に行って芸者呼んで乱痴気騒ぎするのと一緒ですね。<br>今もやっている人がいるか分かりませんが。<br>時代劇なんかの、代官と廻船問屋がお座敷に芸子を招いて、なイメージでしょうか。<br>まあこれはイメージで、実際にはあんまり悪さしてなかったらしい。<br>ただ、娼婦と遊ぶことは、悪さとはちょっと別物な気がします。<br>娼婦を買う、売春婦として生計を立てる。<br>男性と女性それぞれの欲望を橋渡しする、人間の本能に基づいた商売システムの一つだと思います。<br>社会的なイメージは最悪ですが。<br><br>ヘッダ・ガブラーという女性の、「女性という性に対する意識」。<br>これを考えながら観るのも、今回の作品の見所の一つになっています。<br><br>追記ロートレックとイプセンが同世代という点は、また別な機会に突っ込んで研究したいトピックです。<br><br><br>【ロートレック　赤毛の女】<br><div align="center"><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090627/16/hedda/2d/99/j/o0522064010203749415.jpg"><img height="270" width="220" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090627/16/hedda/2d/99/j/t02200270_0522064010203749415.jpg" alt="Hedda Gabler Blog-赤毛の女"></a></div></div><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Wed, 24 Jun 2009 16:39:43 +0900</pubDate>
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<title>『ヘッダ・ガブラー』上演史</title>
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<![CDATA[ ・『ヘッダ・ガブラー』上演史<br><br>『ヘッダ・ガブラー』は、1890年ミュンヘンで執筆されたイプセンが外国生活中に執筆した、最後の作品である。<br>その初版10,000部は、1890年12月16日、コペンハーゲンとクリスチャニアで、ギュルレンダール出版から出版された。<br>しかし、当時世間の反応は、否定的なものであったといわれている。<br><br>ある批評家は次のように書いている。<br><br>「結局のところ、『ヘッダ・ガブラー』は想像力が生んだ邪悪な産物としか言いようがない。<br>所詮、著者が作り出した女性の姿をした化け物というべきで、現実の世界にこうしたモデルは存在しない。」<br><br> 『ヘッダ・ガブラー』の初演は、1891年1月31日にミュンヘンの宮廷劇場 (Residenztheater) での上演。<br>その最初の夜イプセン自身も観劇したが、ヘッダ役の女優の演技が大げさすぎるという理由で、気に入らなかったと言われている。<br>その後は短期間に多数の劇場で上演された。<br><br>- ヘルシンキのフィンランド劇場（2月4日）<br>- ヘルシンキのスウェーデン劇場（2月6日）<br>- ベルリンのレッシング劇場（2月10日）<br>- ストックホルムのスウェーデン劇場（2月19日）<br>- コペンハーゲンの王立劇場（2月25日）<br>- クリスチャニアのクリスチャニア劇場（2月26日）<br>- ヨーテボリのアウグスト・リンドベｒグ劇団（3月30日）<br>- ロンドンのヴォードヴィル劇場（4月20日）<br><br> ヨーロッパでの出版当時の評価が芳しくなかったのに対し、日本では「小説神髄」で知られる、坪内逍遥はこの作品を高く評価し、翻訳を発表。<br>そして日本での初演は1912年（明治45年）である。<br><br><br>&lt;&lt;演出家・古川貴義より&gt;&gt;<br>「想像力が生んだ邪悪な産物」いいじゃないか。<br>その批評家さんは会ったことがなかったんでしょうねえ、こういう危険で魅力的な女性に。<br>時代のせいもあるでしょうけれど。<br>でも「ヘッダ・ガブラー」という作品は、その時代のノルウェーを捉えた部分も多分にあります。<br>それを見逃して「化け物」と括ってしまうのは、視野が狭いというか、時代が見えていないというか。<br><br>批評というのは、非常に危険な作業です。書き手の価値観、経験値、人間性がすべて露呈する。<br>得てして、創り手より狭い価値観、少ない経験値、偏った人間性の批評家が、大上段に構えて作品を批評し、お門違いな感想を晒している姿はよく見掛けます。<br>本当、大変な職業ですよね、批評家って。<br><br>話が逸れました。<br><br>イプセンが気に入らなかったのは、現実世界にモデルがいたから、でもあるでしょう。<br>それを化け物扱いされ、大げさにやられても・・・、ねえ。<br><br>そう、ヘッダにはモデルがいるのです。<br>この話は別なトピックで詳しく掲載されるでしょうから置いておきます。<br><br>僕らの「ヘッダ・ガブラー」は、イプセンに気に入って貰えるでしょうか。<br>きっと喜んで貰えるでしょう、間違いなく。<br><br><br>
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<pubDate>Tue, 23 Jun 2009 16:26:40 +0900</pubDate>
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<title>用語解説：中世ブラバント</title>
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<![CDATA[ ・用語解説：中世ブラバント<br><br>ブラバントとは、低地地方と呼ばれる、現在のベルギーのフラームス（ブラバント州、ブラバン・ワロン州、アントウェルペン州）、およびブリュッセル首都圏地域、オランダの北ブラバント州を含む、かつての公爵領。<br>ゲルマン民族の大移動でローマ帝国の支配が終わるまで、そこにはガリア人が居住していた。<br><br>ブラバント公国が公式に成立したのは、1183年から1184年。<br>1648年に北部州はオランダ軍管理下に入り、その後正式にネーデルラント連邦共和国の支配下にはいった。<br>南部は南ネーデルラントとしてスペイン・ハプスブルグ家の支配下におかれながらも残存していたが、1795年、フランス革命軍の南部ネーデルラント占領により、ブラバント公国は消滅した。<br><br>ブラ（Bracha）とは「新しい」、バント（bant）とは「地方」を意味する。<br>劇中に出てくる、「ブラバント家内工業」とは、ブラバント公国を含む、低地地方の経済発展の中心を担っていた産業であり、毛織物の生産業をさす。<br>そして、低地地方と並んで、毛織物産業が盛んであったのが、イギリスであり、イギリスでのこの家内工業の発展は、18世紀から19世紀にかけての、産業革命へとつながるのである。<br><br><br>≪演出家・古川貴義より≫<br>「ヘッダ・ガブラー」本編中、テスマンの研究対象として、「中世ブラバントの家内工業」という言葉が登場します。<br>上記解説をお読みいただければお分かりの通り、まあ、興味の無い人にとっては面白くも何ともない(かもしれない)トピックです。<br>熱心な研究者が勤しむトピックというものは得てして、一般人には到底理解できないものであったり、深く深く追求してしまうが故に、入り込む隙のないものになっていたりします。<br><br>日本に無理矢理置き換えてしまえば、「江戸時代の問屋制家内工業について」や、「東北地方における伝統工芸品の変遷」などなど、普段生きていく上ではまず俎上に載らない話題と言えるでしょう。<br>日本史の教科書にちょっと出てきてテストのためだけに暗記し、試験が終われば綺麗すっぱり忘れていく。<br><br>その程度のトピック。<br><br>仮にそういった話題に多少なりとも興味があれば、その研究者の話や考え方というのは非常に興味深いものになります。<br>しかし、まったく興味の無い、興味の湧かないものだったとしたら。<br>そしてそれが旦那の唯一の趣味かつ仕事であったとしたら。<br><br>研究者テスマンは、その研究がてら、旧ブラバント地方を旅行します。<br>新妻ヘッダを連れ、新婚旅行を兼ねて、半年にも渡って・・・。<br>ヘッダの心境たるや、想像に難くありません。<br><br>今回の作品「ヘッダ・ガブラー」や作家の「イプセン」だって、知らない人は知らない、知りようがないものの一つです。<br><br>しかしながら、一般的に理解されうるものであり、入り込む隙だらけでもあります。<br>そして何より、追求のし甲斐がある。<br>深く深く、どこまでも。<br>これほど一般性があり、かつ専門性にも富んでいる芸術も珍しいと思います。<br><br><br>【ブラバントの紋章】<br><div align="center"><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090624/17/hedda/b4/38/p/o0180020110202183049.png"><img height="201" width="180" border="0" alt="Hedda Gabler Blog-ブラバントの紋章" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090624/17/hedda/b4/38/p/t01800201_0180020110202183049.png"></a></div></div><br>【ブラバントの地図】<br><br><div align="center"><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090624/17/hedda/ec/61/p/o0300026610202183281.png"><img height="195" width="220" border="0" alt="Hedda Gabler Blog-ブラバント地図" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20090624/17/hedda/ec/61/p/t02200195_0300026610202183281.png"></a></div></div><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hedda/entry-10286700208.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 17:10:53 +0900</pubDate>
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<title>イプセンの生きた時代（1828年-1906年）について</title>
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<![CDATA[ ・イプセンの生きた時代（1828年-1906年）について<br><br>『ヘッダ・ガブラー』の作者である、ヘンリック・イプセンが生まれたのは、約12年続いたナポレオン戦争終結の14年後。<br>ナポレオンによって、フランス革命の思想がヨーロッパに広まり、ヨーロッパの歴史が大きな変化をとげている時代であった。<br>イプセンの母国ノルウェーは、当時スウェーデン＝ノルウェーという連合王国で、スウェーデンの立憲君主制のもと、事実上その支配下にあった。<br>そして、ノルウェーが完全独立を果たしたのが、1905年。イプセンがその生涯に終えたのはその1年後のことであった。<br><br>つまり、イプセンは、ヨーロッパの急激な近代化、そしてノルウェーの独立を勝ち得る為の戦いの過程を生きており、社会の変化、そしてそこに生じる軋みや矛盾を敏感に感じていたといえるだろう。<br><br>では、ノルウェーから遠く離れた日本では、このころ何が起きていたのか？<br><br>約200年間続いていた鎖国を打ち破るきっかけとなった、ペリー提督の浦賀湊への来航が1853年。<br>そして第15代将軍徳川慶喜による大政奉還が1867年。<br>江戸から明治へ、日本でも時代が大きく動いていたのである。<br><br><br>&lt;&lt;演出家・古川貴義より&gt;&gt;<br>当時のヨーロッパでの演劇は、世相やパトロン、貴族に迎合する作品がもてはやされていたと、何かで読んだか聞いたかした覚えがあります。<br>そんな中、イプセンは、「人間」というものの在り方、生き方に焦点を絞った作品ばかりを生み出していました。<br>その頃から「社会派」と冠されがちだったようですが、「社会派」と括ってしまうのは勿体無いと思えるくらい、彼は「人間」を描いています。<br><br>ですから、時代に左右されない。<br><br>「その社会に対しての人間の在り方」ではなく、「社会はある、人間は生きる」とでも言うべき作品ばかりだと思います。<br>それゆえに、どんな時代にも通用する骨太さを持っているのでしょう。<br>演劇の持つ同時代性を、「社会」ではなく「人間」を主軸に据えることで、普遍性を持ったあの作品群が生み出された。<br>したがって、明治時代の新劇によって日本にもたらされ、芸術家たちの「社会」に対する意識が濃厚になる時期に頻繁に上演されてしまったのは、イプセンというイメージを「社会派」に偏らせてしまう大きな要因だったと言えるのかもしれません。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hedda/entry-10285428356.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Jun 2009 16:03:13 +0900</pubDate>
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