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<title>栗本軒貞国の狂歌（仮）</title>
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<title>二つ折り</title>
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<![CDATA[ 母が見ていたテレビ番組で三津浜焼なるものを紹介していた。<div>三津浜といえば、広島から松山行フェリーに乗ると、昔はそのあたりに着いていた。</div><div><br></div><div>さて、三津浜焼はお好み焼の一種で、広島のような生地の上に先に炒めた麺をのせて、キャベツはその次、裏返した後二つ折りにして供されるところが、番組でも広島とは似て非なるものと紹介されていた。</div><div><br></div><div>ところが、私には、この三津浜の焼き方は昔の広島と全く同じに見えた。もちろん、具材は三津浜特有の紅白ちくわなどが入っていたが、出来上がりは昔の広島と同じだった。</div><div><br></div><div>先に麺をのせるのは、我々はオールドスタイルと呼んでいて、うどん派の私はわざわざこの焼き方のお店を探して食べている。今はそばを後から乗せて裏返し、そばをパリッとさせるのが主流だが、オールドスタイルだと卵と野菜が絡みやすい利点もあり、うどん入りはこちらの方がうまいと私は思っている。</div><div><br></div><div>また、出来上がってソースを塗った後、二つ折りにしてトトントンと大きなへらで切れ目を入れて、持って行った皿に入れてテイクアウト、というのが近所のお好み焼き屋さんでは当たり前の光景だった。いまでも、呉市や島しょ部では二つ折りが普通に行われている。広島市内では、他地方のお好み焼きの影響だろうか、昭和50年代ごろから鉄板でへらで食べる人が増えてきて、変容していったように思われる。</div><div><br></div><div>前にも書いたが、お好み、なのだから好きに焼いて食えばいい。ただ、番組に出ていた広島出身のタレントも広島とは違うと言っていて、昔の記憶が失われていくのは残念なことだと思って、書いてみた。子供のころ、祖父がバスで広島市内に出かけたらお土産は旧バスセンターの、にしき堂の生地にカレーが入った細長いまんじゅう（名前はしらない）、芸備線で出かけたら麗ちゃんのお好みと決まっていた。包んだ新聞紙にソースが染み出していたものだ。私にとってのソウルフードは、二つ折りで皿に入ったうどん入り、ということになる。</div><div><br></div>
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<pubDate>Wed, 03 Jan 2024 15:11:36 +0900</pubDate>
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<title>近況</title>
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<![CDATA[ <div>また６０日の広告が出ているようなので、ちょっとだけ近況を。</div><div><br></div><div>ヤフオクで狂歌「寝さめの花」を落札したのですが（とても高かった）、最近は母も病気がちであまり読書も進んでいません。暖かくなったら、山口の図書館にも出かけて、ぼちぼち進めたいと思っています。</div>
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<pubDate>Tue, 24 Jan 2023 14:18:03 +0900</pubDate>
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<title>米粉</title>
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<![CDATA[ <div>今回は、由縁斎貞柳詠「続家つと」（1731刊）、夏の部より一首。</div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　　瑞龍寺雪巣和尚へ暑気御見廻申ける折</div><div>　　　　　ふし黄檗山より米粉まいりけるを相伴仕りて</div><div><br></div><div>　　切麦やうとんげよりも珍しきべいふんたりけ空にじゃくする</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div>詞書と歌でページをまたぐので画像は二枚だが、私が持っているのは手書きの写本で、<a href="https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&amp;id=RB00033127#?c=0&amp;m=0&amp;s=0&amp;cv=16&amp;xywh=3316%2C1607%2C3296%2C2627" rel="noopener" target="_blank">元の木版本</a>には米粉（ヘイフン）、空（クウ）とルビがふってある。</div><div><br></div><div><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251022/16/hemojiro/b9/dd/j/o0839102415701030330.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br></div><div><br></div><div><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251022/16/hemojiro/b6/e6/j/o0849102415701030333.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br></div><div>（ブログ主蔵「（写本）続家土産」）</div><div><br></div><div><br></div><div>この米粉は切麦やうどんと比べていることから、今のビーフンのような麺であったと思われる。ビーフンの由来については正確に書いてあるものが見つからない。レシピのサイトなどによると、鎌倉時代に日本に伝わったが禅寺の精進料理などに限られ、1960年にケンミンが焼きビーフンを発売するまでは一部の人だけが知っているマイナーな存在だったようだ。ここでも貞柳が珍しきと詠んでいて、禅寺であっても本山の万福寺からもらわないと食べられないものだったようだ。どのような料理であったか、これも現代の禅寺のレシピだと精進の具で炒めたものが出てくるのだけど、ここでは暑気見舞いとあり、暑い時分であるから素麺のように食べたのではないかと想像しておこう。</div><div><br></div><div>「珍しき」のあとは、「べいふんたりけ」これは米粉と分陀利華（ふんだりけ）をつなげている。分陀利華は親鸞の正信偈に出てくる言葉で、元は極楽浄土に咲く白蓮、転じてすぐれた念仏行者を指すという。貞柳は東本願寺門徒で、そちらではおなじみの言葉だったかもしれないが、黄檗宗との関連は調べても出てこなかった。そのあとの「空にじゃくする」は、黄檗宗の開祖隠元の遺偈「一切空寂 万法無相」を「 空に寂する」と七文字におさめたのではないかと思われる。上の句のうどんを優曇華としたのも、もちろん仏教の縁語である。</div><div><br></div><div>ここで貞柳は「珍しき」だけで味の感想は言っていない。もしかすると、素麺の方が良かった、おいしくなかったということで、下の句は仏教用語で埋めたのかもしれない。</div><div><br></div><div>貞柳の「続家つと」には、雑の部にもう一首黄檗宗の歌がある。ついでに紹介しよう。</div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　　　　　　東山にて</div><div><br></div><div>　　南無おみは黄檗のみと思ひしに南禅寺にもとうふ有けり</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251022/16/hemojiro/b8/7e/j/o0844102415701030340.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br></div><div>（同上）</div><div><br></div><div>これも<a href="https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&amp;id=RB00033127#?c=0&amp;m=0&amp;s=0&amp;cv=26&amp;xywh=-1%2C-292%2C6592%2C5254" rel="noopener" target="_blank">元の木版本</a>には、黄檗（ワウバク）、禅（ゼン）とルビがある。</div><div><br></div><div>黄檗宗では「南無阿弥陀仏」を唐音で「なむおみとーふー」と唱えるそうで、それで「南禅寺にも豆腐ありけり」という落ちになった。万福寺といえば普茶料理が有名であるが、二首とも黄檗と食べ物を絡めた仕上がりになっている。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<pubDate>Sat, 17 Sep 2022 16:37:33 +0900</pubDate>
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<title>なんぼほど</title>
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<![CDATA[ <div>一本亭芙蓉花撰、由縁斎貞柳詠「狂歌拾遺家土産」（1758刊）、春の部から一首。</div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　　　　　　春のはしめのうた</div><div><br></div><div>　　なんほほと愚かなる身も楽しみをたのしみとしるけさの初春</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251022/16/hemojiro/0e/76/j/o1024073815701030323.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br></div><div>（ブログ主蔵、「狂歌拾遺家土産　巻上」乙ウ・１丁オ）</div><div><br></div><div>立春に紹介した一茶の還暦の句「春立や愚の上にまた愚にかへる 」と同じような趣向ながら、「なんぼほど」という口語が効いていて「楽しみを楽しみと知る」と続ける貞柳一流の味わいのある一首に仕上がっている。</div><div><br></div><div>さて今回はこの「なんぼほど」について考えてみたいのだが、まずネットで引くと、「万一其身にもしもの事が有たらば、跡に残ったててごの身では、なんぼ程悲しからふぞ」 という浄瑠璃・夏祭浪花鑑の用例が出てくる。そして、ツイッターのツイート検索でも、</div><div><br></div><div>「なんぼほど煙草吸うんや」</div><div>「村上選手なんぼほど打つんや」</div><div>「なんぼほど走らすんや」</div><div>「なんぼほどゲッツーしますねん 」</div><div><br></div><div>などと現代でも使われている。しかし見比べてみると、現代の用例は回数・量をカウントできるものが多く、江戸時代の「愚かなり」「悲し」のような程度の甚だしさにはあまり使わないようだ。</div><div><br></div><div>さらに書籍検索で昭和の用例を調べてみると、</div><div><br></div><div>「手数料の話だすけど、あんたは、なんぼほど取ってはりますねん」&nbsp;</div><div>「オーバーてなんぼ程するのやろか 」</div><div>「なんぼほどか聞いとこかい 」</div><div>「前にはなんぼほど持っていたのや?」&nbsp;</div><div><br></div><div>などと、ハウマッチと尋ねる場面が圧倒的に多い。今の若者が使っているような回数が甚だしいというのは無いことはなく、</div><div><br></div><div>「お母はん、あんた、なんぼほど飲みなはるねん」&nbsp;</div><div><br></div><div>などと出てくるが、ハウマッチに比べるとわずかと言っていいだろう。逆に今は、ハウマッチの場面では「なんぼほど」とは中々言わないようだ。</div><div><br></div><div>そして興味深いのは、ヤフー知恵袋で、「なんぼほど」は昔は言わなかった、最近出てきた言葉ではないか、という質問があった。これは以前書いた「ほっこり」でも同じような指摘があった。確かに、私が関西に住んだ４０年前に「なんぼほど」は聞いたことがなかった。回数・量が甚だしいという意味での「なんぼほど」の用例は今世紀に集中していて、昭和には少ない。今の使われ方は、最近のものと言って良いのかもしれない。</div><div><br></div><div>「ほっこり」は、江戸時代の用例は物理的に加熱した場合、特に蒸気湯気を伴う暖かさであったのに対し、今世紀の用例は心あたたまるがほとんどである。そして、京ことばに意味の違う「ほっこり」はあったものの昭和の頃はほとんど用例がなく、私の国語辞典にはのっていない。</div><div><br></div><div>「なんぼほど」も上述のように江戸時代の用例は程度の甚だしさであったのに現代の若者は回数、量の甚だしさと少し使い方が違うようだ。そして、昭和の「なんぼほど」はハウマッチがほどんどであった。ということは、江戸時代の意味を掘り起こしたというよりは、昭和の「なんぼほど」に違うニュアンスが加わったと評価すべきだろうか。古い用例をもう少し探してみたいものだ。</div>
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<link>https://ameblo.jp/hemojiro/entry-12940103384.html</link>
<pubDate>Sat, 10 Sep 2022 14:05:32 +0900</pubDate>
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<title>うどん入りを皿で</title>
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<![CDATA[ <div>　昔からお好み焼きとはあまり言わなくて、お好みと言うことが多い、今回はそのお好みの話。</div><div><br></div><div>もう五十年以上前になるけれど、今の家（当時は安佐郡）で過ごした幼少期、祖父が広島駅で買ってきてくれるお好みは楽しみなものの一つだった。二つ折りにしてあって、包んだ新聞紙にタレが染み出ているのが常であった。タコヤキは移動販売が時々来ていたけれど、近所にお好みのお店は無く、祖父が帰ってきてソースの匂いがするとうれしかったものだ。店の名前は知らなかったが、これはもう舌が覚えている味、おそらく麗ちゃんだと思う。今公式サイトを見たら、私が生まれる数年前の創業と出ていた。</div><div><br></div><div>その後、広島市内に引っ越すと、近所のお店には皿を持って買いに行った。やはり二つ折りにして鉄板の上で切れ目を入れてから皿に乗った。もちろん店にはエアコンもなく、夏はかき氷の旗が出て、今度はかき氷を買いに行った。広島のお好みの起源は一銭洋食、テイクアウトが基本であった。そして住宅地のお店には皿を持って買いに行くのが一般的だった。店にはイカ天焼いて昼間からビール飲んでるオヤジはいたけれど、あまりお店で食べた記憶はない。広島で人口当たりのお好み焼きの店が多いのは、住宅地のお店の存在が大きいと思う。</div><div><br></div><div>焼き方も、昔は生地の上に魚粉を敷いたら、まず炒めた麺を載せるのが普通だった。今はソバをあとからパリッと焼くのが主流であるが、昔の焼き方も卵とキャベツがからみやすい利点があった。ホットプレートで自分で焼くときは、いつもオールドスタイルである。</div><div><br></div><div>鉄板でヘラを使って食べる人が増えたのはカープが初優勝した昭和五十年前後からではないかと思うのだけど、これ以前には食べるときに使う小さいヘラは広島では徳川という関西風のお店以外ではあまり見かけなくて、需要がないから作ってもいなくて、住宅地のお店では小さいヘラを手に入れるのに苦労したとも聞いた。ヘラを使って食べるスタイルは、やはり関西の影響だろうか。某総本店に伝わる屋台の隅で食べさせたのが鉄板で食べる起源という話も、まさかお好みをひっくり返す大きなヘラではないだろう。おそらくは箸で食べていたのではないかと思う。</div><div><br></div><div>時代の流れで、近年はパリッと焼いたソバ入りを鉄板の上でヘラで食べるのが普通なのかもしれない。お好みだから好きなように焼けばよい。それで結構だと思う。私はというと昔のままに、うどん入りを皿に入れてもらっている。ところが、ソバ入り、鉄板、ヘラを三種の神器のように考えている人たちがいて、うどん入りを皿で食っていたらケチをつけられることがあるのだ。</div><div><br></div><div>流川にＦちゃんという店があって、この店のソバは生麵をゆでている。そこでうどん入りを食っていたら、この店の生麺を食わずしてうどん入りとは愚かな事よと常連さん？から言われたことがある。私に言わせれば、うどん入りは魚粉との相性が重要であって、Ｆちゃんの魚粉は香りが良くて美味であったから通っていたのだが、それからＦちゃんには行っていない。そして、他所から来た人にうどん入りを食わせたら、うどん入りもうまいじゃないかと言われるから、うどん入りは邪道と観光ガイドブックに書いてあるのかもしれない。ハラペーニョ入りで知られる横川のロベズの店長は「うどんは甘い」と言う。外国出身者の味覚からするとそうなのだろう。広島人の味付けといえば、酒でも寿司でもオタフクソースでも鮮烈な味とはいえなくて、ぼんやり甘ったるいのがその特徴だ。その甘さゆえに、うどん入りは今でも一定の需要がある。メニューにあるものを頼んで他の客からぶつぶつ言われるのは困ったものだ。まあ、広島ではちょっと歩けばお好み屋に当たる。昔と違って我が家のまわりにも徒歩圏内に数店あり、配達もしてくれる。変な常連がいる有名店に行かなくても困ることはない。</div><div><br></div><div>文化史という観点からいえば、上記のようにテイクアウト又はお皿で食べるのが伝統的であってヘラは関西のパクリと反論することはできる。しかし、何度も言うがお好みだから好きなように焼いて食えばよいと思う。お皿でテイクアウトする文化があったことは知っていただいて、人の食い方にケチをつけるのはやめていただきたいものだ。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<pubDate>Wed, 31 Aug 2022 15:13:49 +0900</pubDate>
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<title>可部に耳あり</title>
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<![CDATA[ <div>可部の町は私の家からは徒歩圏内で、安佐北区では一番の賑わいのある場所である。広島から出雲に抜ける街道の途中にあり、太田川の水運の拠点でもあった。また、戦国時代には鋳物造りが始まって今に続いている。それから私事ながら、愛飲している旭鳳酒造は可部の地酒である。今回はその可部にまつわる狂歌を、まずは元文二年（1737)「狂歌戎の鯛」という歌集から、福王寺の寺宝、さざれ石を題材にした歌を引用してみよう。</div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　加部町福王寺碝石物語を見れは<br>　　　　いにしへ千里の浜にあり業平卿<br>　　　　もて遊ひ給しと也<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　同国正佐<br><br>　　かべに耳あれはこそ聞碝石千里の浜も爰にありはら</div><div><br></div><div><br></div><div>正佐は貞佐の門人と思われる。「碝石（さざれいし）物語」という書物は見当たらないが、この狂歌集から五十年ばかり後の時代の「<a href="https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563666/15" rel="noopener" target="_blank">雲根志</a>」という本に福王寺の碝石の条がある。一部引用してみよう。</div><div><br></div><div>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; <strong>碝石（さゞれいし）</strong></div><div><br></div><div><strong>安藝国加部庄金龜山福王寺の什貲也むかし清和天皇貞観五年の春紀伊国千里（ちり）の濱に夜々光明をはなつ浦人其所をたづぬれは一ツの碝石あり</strong></div><div><br></div><div>ここには千里（ちり）とルビがあるのだけれど、伊勢物語、枕草子にも出てくる紀州の千里の浜は「ちさと」現代では「せんり」とも読むのが一般的で、<a href="https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2567702/32" rel="noopener" target="_blank">枕草子の木版本</a>には「ちさと」とルビが入っているものが多いようだ。一方、北村季吟「伊勢物語拾穂抄」には「ちり」とルビがあり、雲根志はそこからの引用かもしれない。このあと、右大臣良相から子の常行の手にわたり、その常行が山科の禅師の親王に奉る場面は伊勢物語七十八段から引用している。その中に「<strong>きのくにの千里のはまにありけるいとおもしろきいし奉れりき</strong>」とあり、この伊勢物語の話と関連付けるために千里の浜の産としたようだ。この伊勢物語の中では「<strong>このいしきゝしよりは見るはまされり</strong>」聞いていたよりはましな石だったとあり、後に昼夜鳴動や洪水の大事になるような石ではなさそうだ。それに、伊勢物語にはさざれ石とは書いてない。その後この石は二条の后にわたり、後醍醐天皇の時に中納言公忠が賜ったと続く。そしてその公忠が安芸に左遷された時に武田氏に渡ったというのが次のくだりである。</div><div><br></div><div><strong>勅勘によつて安藝国に左迁せられける安藝の守護武田伊豆守氏信しきりにのぞむによつて伊豆守に傳ふ 氏信よろこびて城中におさめければひかりものして昼夜鳴動やまず故に福王寺におさめける其後又大江輝元城中へ入けるに雷のことく鳴動す一夜とめて福王寺へかへす持行時は人夫八人にて漸運ぶかへる時は一人してかろしと也 又福嶋正則此寺に来り石を一見して奇特をあらはせと扇を以てたゝきければにはかに雨車軸をなして大洪水してげる今に當寺に在て珍宝とす&nbsp;</strong></div><div><br></div><div>武田氏信、毛利輝元、福島正則いずれも碝石を御することはできなかったという。福王寺の公式サイトによると、昭和52年の落雷で他の文化財とともに、さざれ石も焼けたとある。<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/agcjchikyukagaku/57/4/57_KJ00004409940/_pdf" rel="noopener" target="_blank">「さざれ石」の由来と地質学的考察（リンクはpdf）</a>という論文によると、 「1977年に落雷による火災の際に，無数の破片となっ てしまって,元の面影は全く認められなくなってしまった」とある。これは大変残念なことだ。このあとの地質学的考察のくだりで、さざれ石の破片は紀州千里の浜産ではなかったとのことであるが、これは伊勢物語七十八段と関連付けて由緒書を構成したとの推測を裏付けるものだろう。</div><div><br></div><div>なお、雲根志では公忠から武田氏に渡ったとあったが、寺伝では京都から直接賜ったとあり、あるいは温品氏が京都から盗んできたとか異説もある。秀吉がこの石と対面したというお話もあるようだ。</div><div><br></div><div>一首目が思ったより長くなってしまったが、「可部町史」にもう一首、可部に耳ありの狂歌がある。天保の頃、可部の嘯月樓貞川の歌集「鶯哇集」の冒頭に、可部の狂歌連の師匠だった梅縁斎貞風の歌がある。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　　　　　　遣医師音信</div><div><br></div><div>　　流行はとく聞こへけり町の名のかべに耳ある世に御繁昌</div><div><br></div><div><br></div><div>ここで町の名とあるが、広島藩において正式な町は、広島城下、宮島、尾道の三か所だけであったという。ところが可部には町奉行が置かれていて、実質的には町に準ずる機能を持っていた。広島藩の儒学者、頼春水が編纂した<a href="https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777720/14" rel="noopener" target="_blank">芸備孝義伝</a>にも、「可部町饂飩屋清兵衛」という記述があり、公的にも可部町と書いて差し支えなかったことが伺われる。貞風の歌は、可部で繁盛している医者を詠んでいるが、可部町史によるとこの鶯哇集の貞川は商人とある。可部に評判の医者がいたのだろうか。</div><div><br></div><div>以上のように私が見つけた可部の狂歌二首はどちらも壁に耳ありだった。もうひとひねり欲しい気もするが、まずはそう詠むところかもしれない。ついでにもう一つ、狂歌ではないが、<a href="https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181266/401" rel="noopener" target="_blank">小鷹狩元凱著「広島雑多集」</a>にある「可部に往く」という方言の記述を紹介してみよう。</div><div><br></div><div><strong>廣島地方に於て寝（ね）に就くを「可部に往く」という方言あり、可部は広島を距る四里餘りの川上にあり、人々多くは可部を距る又一里許り、吉田に至る道に根の谷という地あるをもて、此方言を生ぜしならんと思えリ、</strong></div><div><br></div><div>根の谷から寝るとは、根の谷川をよく渡っているけど考えもしなかった。さらにもう一説は歌林良材を引いて、</div><div><br></div><div><strong>「かべ」夢をいふ、夢はぬるにみるによりてなり、壁もぬる物なるによつてなり</strong></div><div><br></div><div>とある。せっかく隣町に住んでいるのだから、「可部に往く」も使ってみたいものだ。関連して、柳田国男によると（定本柳田国男集１５巻「廣島へ煙草買ひに」）、「広島に煙草を買いに行く」あるいは、広島に茶を買いに行く、広島に米を買いに行く、というのは死を意味する隠語だという。宮島では島内にお墓を作れないから、広島に行くとは死ぬことと聞いたことがあるが、これは宮島だけの話ではなくて四国九州などもっと広い範囲で言われている隠語だと柳田国男は言う。そして、毛利輝元公がこの隠語をご存じだったなら、広島とは命名しなかったかもしれないとも書いている。しかし、広島に煙草を買いに行くが広島城築城以前から言われていたという証拠を見つけるのは難しい。どうしてそういう結論になったかもうちょっと書いてほしかった。</div><div><br></div><div>最後はいつものように話がそれてしまったが、今回は可部に耳ありの話でした･･･</div><div><br></div><div><br></div><div><br><br></div>
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<pubDate>Thu, 25 Aug 2022 22:37:45 +0900</pubDate>
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<title>狂歌家の風（42）　握りこふし喰ふな</title>
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<![CDATA[ <div>栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は秋の部より一首、</div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　　　　　二王門月</div><div><br></div><div>　　二王門てる月影に浮雲よ出さはつて握りこふし喰ふな</div><div><br></div><div><br></div><div>浮雲よ出しゃばって月を隠して仁王様の握りこぶし食らうなよと、比較的わかりやすい歌だ。ひとつ問題になるのが、「喰ふな」は「くふな」か「くらふな」のどちらなのか。現代の送り仮名の感覚だと「くふな」と読みたいところだが、「こふし喰ふな」で七文字だとすると「くらふな」が有力になる。もうひとつ、初期の広島藩学問所で古学を教えた香川南浜が天明年間に記したとされる「秋長夜話」に、</div><div><br></div><div>　　広島にて人を杖うつをくらはすといふ、</div><div><br></div><div>と出てくる。鉄拳をくらわす、といえば全国で通用するだろうが、ただ、くらわす、と言うのである。宝暦九年(1759)「狂歌千代のかけはし」の中にも、くらはすの用例がある。</div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　　　　　卯の花　　　　　　　　　　　　一峯</div><div><br></div><div>　此花を折れは其まゝくらはすと親は卯の花おとしにそいふ</div><div><br></div><div><br></div><div>作者の一峯は貞佐の門人で吉田（現安芸高田市）住とある。「卯の花おとし」がどのようなものか、はっきりわからないのであるが、ここでは親が子に「くらはす」と言っているようだ。以前に「がんす」の用例を調べた民話の本にも、おさん狐に化かされた男が、</div><div><br></div><div>「ようし、江波のおさん狐めや、今度出会うたら、ぶちくらわしちゃるんじゃけえのう」&nbsp;</div><div>（日本の民話22　安芸・備後の民話１）</div><div><br></div><div>と捨て台詞。たしかに、私の昔の友人にも、くらわしたろうか、にやしたる、ぴしゃげたる、しごうしちゃる等不穏な方言を連呼する乱暴な男がいたような気がする。</div><div><br></div><div>以上のような事から、「喰ふな」は、「くらふな」の方に私の中では傾いているが、確信とまではいかない。</div><div><br></div><div>次に、狂歌家の風には、握りこぶしが出てくる歌が他にも二首ある。紹介してみよう。まずは春の部から一首</div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　　　　　　陰陽師採蕨</div><div><br></div><div>　　占も考て取れ早わらひの握りこふしの中のあてもの</div><div><br></div><div><br></div><div>わらびを握りこぶしに見立てて、中に何が隠されているか当て物をしながら採るという趣向だろうか。しかし、陰陽師のいでたちで占い、当て物をするようなパフォーマンスがあったのか、簡単そうに見えてどんな情景を思い浮かべたら良いのかわからない歌だ。江戸時代の占い事情などもう少し調べてみないといけない。</div><div><br></div><div>次に、哀傷の部から一首</div><div><br></div><div><br></div><div>　　　　　　　先師桃翁在世の折から所持し給へる二王の</div><div>　　　　　　　尊像に欲心のにあふ所を打くたきうちくたく</div><div>　　　　　　　へき握りこふしてとよみ給ふを思ひ出て</div><div><br></div><div>　　目をこする握りこふしておもひ出すうちくたかれし人の事のみ</div><div><br></div><div><br></div><div>桃翁とはもちろん貞国の師匠である桃縁斎芥河貞佐のことで、詞書にある仁王像と欲心の歌は丸派によって享和三年（1803)に出版された狂歌二翁集のモチーフにもなっている。仁王とかけているのだから「欲心のにほふ」が正しいと思うのだけど、ここはいつか原本で確認したい箇所の一つだ。貞国の歌、目をこするしぐさで握りこぶしを持ち出したのは良いが、「うち砕かれし人」とは貞佐のことだろうから、現代人の感覚だと表現が適切ではないような気もする。貞国は貞佐の晩年の弟子で、どうも貞佐を語ろうとするとうまくいかない。また貞国が哀傷の歌はあまり得意ではないというのもあるだろう。</div><div><br></div><div>もっとも、貞佐の欲心の歌は一門の中で知らない人はいない有名な歌であるから、最初の仁王門の月の歌も、貞佐の歌が下敷きにあることは間違いないだろう。こちらについては、欲心と握りこぶしというテーマを貞国らしく再構成した一首と言えるのではないだろうか。</div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/hemojiro/entry-12940103377.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Aug 2022 14:31:54 +0900</pubDate>
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<title>おわび（前の記事「二葉山」を修正しました）</title>
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<![CDATA[ <div>前の記事の二葉山ですが、「加茂の葵の二葉山」と、京都の葵祭に関連した二葉山という言葉が、書籍検索によって出てきました。すると、取り上げた狂歌は広島の二葉山とは無関係の可能性もあり、記事を修正しました。もうちょっと調べれば良いのに、いつもの悪い癖です。お詫び申し上げます。</div>
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<link>https://ameblo.jp/hemojiro/entry-12940103373.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Aug 2022 23:37:23 +0900</pubDate>
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<title>二葉山</title>
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<![CDATA[ <div><a href="http://www.mogurin.or.jp/museum/curator/memo/index13.html" rel="noopener" target="_blank">「ひろしまWEB博物館　学芸員のひとこと」</a>というページに、「二葉って地名と二葉あき子」（2014.5.15 ）という記事があった。その冒頭部分に、</div><div><br></div><div><strong>　広島市内で「二葉」というと、仏舎利塔のある「二葉山」を思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、この山、広島城築城の頃は明星院山と呼ばれていました。では「二葉」の名称はいつごろからあるのでしょう？<br>　天保5年（1834）、新しく作られた饒津神社の名前に、昔の和歌に出てくる縁起のいい「二葉の松」にあやかって「二葉山神社」を社名・山号とし、あわせて明星院山が「二葉山」になったところから始まります。また、神社付近が「二葉公園」と呼ばれ、戦前には広島名所の一つとして絵葉書が出回っていました。そして近くの町名も「二葉の里」になりました。&nbsp;</strong></div><div><br></div><div>とある。この記事だけのリンクができないので少し長めに引用させていただいた。これを読んであれっと思ったのは、天保五年よりも古い、安永六年（1777）撰の「狂歌寝さめの花」に、二葉山が出てくるからだ。引用してみよう。</div><div><br></div><div>　　　　　</div><div>　　　　　　　　　　葵　　　　　　　　　　　　桟道</div><div><br></div><div>　　二葉山神の守りの千とせ猶めでたき御代にあふひ草かも</div><div><br></div><div><br></div><div>この「狂歌寝さめの花」は芥河貞佐とその門人の歌集で、貞佐が広島移住後に獲得した弟子たちの歌が多数入っている。この歌の作者の桟道は初出の歌に備後庄原の人とある。貞佐没後に出版された「狂歌桃のなかれ」を読むと庄原の連雲斎貞桟が貞佐の重要な門人であったことがわかるが、この桟道は貞桟が貞の字を許される前の号であった可能性もある。歌をみてみると、二葉山、神の守り、あふひ草、で連想ゲームとなると答えは広島東照宮と広島人なら思い浮かぶのではないだろうか。広島東照宮は広島城下の東北、鬼門の守りとして家康33年忌の慶安元年（1648 ）に造営され、徳川家の葵の紋を神紋として葵餅という縁起物も配布されている。</div><div><br></div><div>ここまで書いてきて、上の歌とぴったりはまっているから、東照宮の山はもっと古くから二葉山と呼ばれていたと結論づけても良さそうだが、実はそうとも言えなかった。書籍検索で、「<a href="https://www.google.co.jp/books/edition/%E7%B4%80%E6%B5%B7%E9%9F%B3%E4%B8%A6%E6%9C%A8%E5%AE%97%E8%BC%94%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83%E9%9B%86_%E5%85%A8/zEfydxewl5MC?hl=ja&amp;gbpv=1&amp;dq=%E4%BA%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%20%E8%91%B5&amp;pg=PA709&amp;printsec=frontcover" rel="noopener" target="_blank">加茂の葵の二葉山</a>」という語句が出てきて、その説明として、</div><div><br></div><div><strong>加茂の葵祭のことをいふとて葵の二葉山とつづけたりあふひはふた葉なるものゆゑ加茂やまをふたば山ともいへり</strong></div><div><br></div><div>「加茂の葵の二葉山」は「愛護稚名歌勝鬨」の道行の一節と前のページにあるのだけれど、原本は未確認である。もうひとつ、夫木集の、</div><div><br></div><div>　　<strong>神垣にかくるあふひの二葉山いくとせ袖の露はらふらん</strong></div><div><br></div><div>という例も出てくる。こちらも書籍検索で読んだだけで原本を確認していないが、とにかく、葵祭の加茂山を二葉山と呼んでいたことがわかった。上記の桟道の歌は広島の山ではなくて、こちらの線で詠まれたのかもしれない。ただ、天保の命名は葵ではなくて二葉の松とあり、「加茂の葵の二葉山」は注釈が必要であってそれほど有名な語句ではなかったようにも思われる。それに、桟道の歌が葵祭の歌と言われても、ピンと来ない部分がある。まだ、結論を出すのは早いような気もするが、どうだろうか。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/hemojiro/entry-12940103371.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Aug 2022 13:43:14 +0900</pubDate>
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<title>かしやんな</title>
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<![CDATA[ <div>ツイッターでフォローしている妖<a href="https://twitter.com/riox5555/status/1226054646399025152" rel="noopener" target="_blank">怪・霊獣・異形の神仏というアカウントのツイート</a>に、</div><div><br></div><div><strong>＜禍（わざわい、か）＞　わざわいをもたらすという、巨大な猪や牛のような姿の妖怪。鉄を食べる。 1.『釈迦八相倭文庫』「わざわい」 #妖怪&nbsp;</strong></div><div><br></div><div>と出てきた。「釈迦八相倭文庫 」の挿絵をみると、天竺の話なのに男女とも江戸の人のようないでたちで、妖怪ワザハヒは日本刀を食っている。そしてこの中に、迦旃延 （かしゃうゑん）という尊者が描かれている。この名前は以前に<a href="https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898569/7" rel="noopener" target="_blank">徒然の友に入っている貞佐の狂歌</a>を紹介した時に出てきた。もう一度引用してみよう。</div><div><br></div><div><br></div><div><strong>　　　　○佛護寺といふこと　　　　芥川貞佐</strong></div><div><strong>佛護寺といふ寺ありけるがいつのころにやありけん借金いたく嵩みければその支拂方に檀家の人々心配しけるときよめる</strong></div><div><strong><br></strong></div><div><strong>　護佛寺は借銭山のお釈迦かな阿難かしやんなもうくれん尊者</strong></div><div><br></div><div><br></div><div>仏護寺は今の本願寺広島別院、浄土真宗本願寺派のお寺であって、原爆以前は貞佐の墓が残っていたという。貞佐の歌をみると、護仏寺とひっくり返してあるのは御仏事にかけてあるのだろうか。釈迦、阿難、目連と尊者の名前をつらねて、「あな貸しやんな、もう呉れん、損じゃ」と面白くまとめている。</div><div><br></div><div>ここではもう一人、「かしやんな」のところはカッチャーナという尊者がいて、最初に出てきた迦旃延（かせんねん）と同じ人である。問題は貞佐が果たして「カッチャーナ」というサンスクリット語の読みを知っていたのか、これは明治２９年に出版されたこの本の作者の作り話ではないのか。貞佐といえば</div><div><br></div><div>　　死んでいく所はをかし仏護寺の犬が小便する垣のもと</div><div><br></div><div>という辞世が知られていて、それで貞佐と仏護寺を結びつけたのではないか、という疑念は疑り深い性格の私でなくても出てくるはずだ。今回のツイートを見て、改めて少し探してみた。国会図書館デジタルコレクションで「梵語」で検索したところ「多羅要鈔」（文政五年）というのが唯一出てきて、「か」の項に迦旃延はあったがカッチャーナは無かった。しかし、出典として信行梵語集という書物の記載があり、こういう本を上方での修行時代に貞佐が見ていた可能性はあるのかもしれない。結論を出すにはまだまだ読書量も知識も足りないが、一応ここまでを書いておきたい。</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/hemojiro/entry-12940103370.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Aug 2022 15:17:16 +0900</pubDate>
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