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<title>ハーブのミュージアム　― アロマ・ハーブ・自然についての博物館 ―</title>
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<description>アロマテラピー・ハーブ・自然環境などについて情報提供や交流を行うためのサイトです。</description>
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<title>エラシストラトス</title>
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<![CDATA[ <!-- 画像 --><div class="img-center margintop1lh"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20150430/10/herb-museum/cb/9a/p/o0500040013291541871.png"><img alt="エラシストラトス" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20150430/10/herb-museum/cb/9a/p/o0500040013291541871.png" width="350" height="280"></a></div><!-- /.image-center --><!-- /画像 --><!-- キャプション --><p class="align-center margin-left_less margin-top_less margin-top_7px">＜アンティオコスの病の原因を発見するエラシストラトス＞</p><!-- /キャプション --><p class="margin-top_1lh"><strong>エラシストラトス</strong>（前304～前250年頃）は，ヘレニズム時代に活躍したギリシア系の医学者です。</p><h2>経歴</h2><p><b>エラシストラトス</b>は，ギリシア系の人で，紀元前300年頃にエーゲ海の島で生まれました。一時は西アジアのシリアに住み，その後，当時の学問の中心地であったエジプトの<b>アレクサンドリア</b>へと移りました。</p><p>シリアでは，<b>セレウコス朝シリア王国</b>の建国者<b>セレウコス1世</b>の息子アンティオコスの病気の原因を見事に突き止めて見事に解決へと導き，名医としての評判を得たと言われます。そして，アレクサンドリアでは，解剖学の祖として知られる<b>ヘロフィロス</b>とともに医学校を設立し，人体の解剖を行って人体や病気の原理についての研究と指導に従事しました。</p><h2>業績</h2><p>エラシストラトスは，人体の解剖にもとづいて，循環器系や神経系などについての研究を行い，生理学の領域において大きな成果を上げました。</p><p>彼は，心臓と血管を詳しく調べて血液循環の仕組みについて重要な発見を行い，また脳と神経を調べてその構造やメカニズムについて仮説を提唱しました。</p><p>このように，実験にもとづいて人体の機能・仕組みについての本格的な研究を行ったことから，エラシストラトスは生理学の祖とされています。</p>
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<pubDate>Thu, 30 Apr 2015 11:00:00 +0900</pubDate>
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<title>ヘロフィロス</title>
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<![CDATA[ <p class="margintop1lh"><strong>ヘロフィロス</strong>（前340年頃～前260年頃）は，ヘレニズム時代に活躍した，小アジア出身でエジプトのアレクサンドリアで研究を行った医学者です。</p><h2>経歴</h2><p><b>ヘロフィロス</b>は，紀元前340年から紀元前330年頃に，小アジアの北西部のカルケドンで生まれました。</p><p>後に，当時の学問の中心地であったエジプトの<b>アレクサンドリア</b>に移り住みます。このアレクサンドリアで，彼は医学の研究を行い，また医学校を設立して指導も行いました。</p><h2>業績</h2><p>ヘロフィロスは，初めて科学的な人体の解剖を行った医学者として知られます。</p><p>彼は，人体の構造を調べるために，さかんに人間の身体の解剖を行いました。死刑囚を使って生体解剖を行ったとも伝えられています。</p><p>このような解剖を通じて，ヘロフィロスは，神経・血管・消化器・生殖器などの器官を詳細に調べ，その構造を明らかにしました。彼は，神経については感覚神経と運動神経を，血管については動脈と静脈を識別し，また消化器では十二指腸，生殖器では前立腺を発見して命名しています。</p><p>こうして，ヘロフィロスは解剖にもとづく医学研究の先駆者となり，解剖学の祖とも呼ばれています。</p>
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<pubDate>Tue, 24 Mar 2015 22:30:00 +0900</pubDate>
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<title>ガレノス</title>
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<![CDATA[ <!-- 画像 --><div class="img-center margintop1lh"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20141118/03/herb-museum/41/ce/p/o0300040013132634750.png"><img alt="ガレノス" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141118/03/herb-museum/41/ce/p/o0300040013132634750.png" width="168" height="224" class="img-border"></a></div><!-- /.image-center --><!-- /画像 --><!-- キャプション --><p class="align-center margin-left_less margin-top_less margin-top_7px">＜ガレノス＞</p><!-- /キャプション --><h2>経歴</h2><p><b>ガレノス</b>は，西暦2世紀のローマ帝国で活躍した医師・医学者です。</p><p>ガレノスは，西暦129年頃，小アジア西部の<b>ペルガモン</b>で，ギリシア人の家系に生まれました。彼は，エジプトの<b>アレクサンドリア</b>などで医学を学んだ後，故郷に戻って医師になります。</p><p>西暦162年には，ローマ帝国の首都である<b>ローマ</b>へと渡り，この地で医師として活躍するようになりました。周囲の医師からの嫉妬のために一度は帰郷しましたが，ローマ皇帝の<b>マルクス・アウレリウス・アントニヌス</b>から熱心に招かれためにローマに戻り，その侍医として仕えました。</p><h2>業績</h2><p>ガレノスは，<b>ヒポクラテス</b>以来のギリシアの医学を基礎としつつ，自身でも人体や医学について幅広い研究を行い，多くの業績を残しました。</p><p>ガレノスは，サルやブタなどの動物の解剖を行って，生物の体の構造について理解を深めました。彼は，こうした実験にもとづいた知識を活かしながら，人体や病気の原理についての探究を進め，体の機能や病気のメカニズムについての理論を提唱しました。また，治療のために，食事や運動を重視したほか，植物を原料とする薬剤も製造しています。</p><p>こうしてガレノスは，ギリシア・ローマの時代に発達した古代の医学を集大成することになりました。以後，その研究は，アラビアの医学の発展を支え，またヨーロッパでは医学の基本とされるなど，ガレノスは17世紀頃まで医学の世界における最大の権威であり続けました。</p>
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<pubDate>Tue, 18 Nov 2014 03:00:00 +0900</pubDate>
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<title>ディオスコリデス</title>
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<![CDATA[ <!-- 画像 --><div class="img-center margintop1lh img-border"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20141111/16/herb-museum/70/fd/p/o0300040013126091417.png"><img alt="ペダニウス・ディオスコリデス" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141111/16/herb-museum/70/fd/p/o0300040013126091417.png" width="168" height="224"></a></div><!-- /.image-center --><!-- /画像 --><!-- キャプション --><p class="align-center margin-left_less margin-top_less margin-top_7px">＜ペダニウス・ディオスコリデス＞</p><!-- /キャプション --><h2>経歴</h2><p><b>ペダニウス・ディオスコリデス</b>は、西暦1世紀、ローマ帝国初期の時代のギリシア人の学者です。</p><p>ディオスコリデスは、小アジア南部の出身で、医学について学び、ローマ皇帝<b>ネロ</b>の時代にローマの軍医になりました。彼は、ローマ軍の遠征を機会として帝国内の広い地域を訪れ、各地で入手した植物を利用して研究を行いました。</p><h2>業績</h2><p>ディオスコリデスが植物の研究を集大成したものが、『<b>薬物誌</b>』（『<b>マテリア・メディカ</b>』）です。</p><p>この『薬物誌』は、約600種もの植物について特に医薬的な効能に着目して記述したもので、薬草についての集大成といえる書物です。</p><p>『薬物誌』は、これ以後のヨーロッパで、古代から中世・近世まで1500年ほどにもわたって薬草の資料として使用され続けました。こうして薬学の発展において大きな貢献をしたことから、ディオスコリデスは『薬学の父』とも呼ばれています。</p>
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<pubDate>Tue, 11 Nov 2014 17:00:00 +0900</pubDate>
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<title>プリニウス</title>
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<![CDATA[ <!-- ペースト部分開始 --><!-- 画像 --><div class="img-center margintop1lh img-border"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20141002/02/herb-museum/23/48/p/o0120015813084753923.png"><img alt="プリニウス" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141002/02/herb-museum/23/48/p/o0120015813084753923.png" width="168" height="224"></a></div><!-- /.image-center --><!-- /画像 --><!-- キャプション --><p class="align-center margin-left_less margin-top_less margin-top_7px">＜プリニウス＞</p><!-- /キャプション --><h2>経歴</h2><p><strong>ガイウス・セクンドゥス・プリニウス</strong>は、西暦1世紀に活躍した、古代ローマ帝国初期の軍人・学者です。</p><p>プリニウスは、ローマ帝国初期にあたる西暦23年にイタリア北部で生まれ、軍人・官吏となってヨーロッパ各地やアフリカに赴任しましたが、そうした経験を通じて見聞を大いに広めました。また、強い知識欲を持ち、余暇には常に休むことなく学問の研究に没頭していたと言われます。</p><h2>著作</h2><p>プリニウスが、そのような自身の見聞・研究に加え、膨大な参考資料ももとにして書き上げた作品が、『<b>博物誌</b>』です。</p><p>この『博物誌』は37巻からなり、2万もの項目を持つ大作で、生物から芸術まで各地の自然・文化について広く総合的に記録した一種の百科事典となっています。なかでも、植物と薬草については16巻ものボリュームが使用されており、特に情報が充実しています。</p><h2>最期</h2><p>晩年のプリニウスは、海軍の司令官としてイタリア南部のナポリ方面に駐在していましたが、そうしたなか、西暦79年、ナポリに近いウェスウィウス山の噴火が起こります。</p><p>彼は噴火活動の監視や人命の救助のために山の近くの町に上陸しますが、そこで火山ガスのために倒れ、絶命しました。</p><p>こうして彼は死去しましたが、彼の残した『博物誌』は、貴重な情報源となり、後世にも読み継がれ影響を与えていくことなりました。</p>
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<pubDate>Thu, 02 Oct 2014 03:00:00 +0900</pubDate>
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<title>イエス・キリストの受難と復活</title>
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<![CDATA[ <!-- 画像 --><div class="img-center margintop1lh img-border"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20141001/05/herb-museum/9a/8c/p/o0398053113083723262.png"><img alt="ベタニアのマリアとイエス" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141001/05/herb-museum/9a/8c/p/o0398053113083723262.png" width="210" height="280"></a></div><!-- /.image-center --><!-- /画像 --><!-- キャプション --><p class="align-center margin-left_less margin-top_less margin-top_7px">＜ベタニアのマリアとイエス＞</p><!-- /キャプション --><h2>ベタニアのマリアと香油</h2><p><b>イエス・キリスト</b>は、西暦紀元30年頃からパレスティナで説教や奇蹟などの活動をさかんに行っていましたが、32年の3月、祝祭の時期にあわせて<b>イェルサレム</b>へと向かいました。</p><p>イエスと一行は、イェルサレムから近いベタニアの村に立ち寄ります。この村のシモンという人物の家に招かれて夕食をとっている際、同席していた<b>マリア</b>という女性は、貴重で純粋なナルドの香油をイエスの頭に注ぎ、また彼の足にも塗りました。このとき、十二使徒の一人、イスカリオテの<b>ユダ</b>は、高価な油をこのように使用してしまったことをとがめましたが、イエスは「残りわずかな時間しか一緒にいられない私に対して、できるかぎりのことをして、埋葬の準備をしてくれたのだ」と言ってマリアのことを擁護しました。</p><h2>最後の晩餐</h2><p>イエスたちは、ベタニアを出発するとイェルサレムへ向かい、以後、日中はイェルサレム市内で活動し、夜は近郊のオリーブ山で過ごしました。そして、祝祭の日、イェルサレム市内で弟子たちとともに晩餐を行うことにしました。</p><p>この会食の席において、イエスは、「お前たちのなかの一人が、私を裏切るだろう」と不吉な予言を行いました。そして、使徒たちに、パンとブドウ酒を分かち合いながら教えを説くとともに、自身の受難を暗示する言葉も告げました。</p><h2>ユダの裏切りとイエスの捕縛</h2><p>晩餐を終えたイエスたちはオリーブ山のふもとのゲッセマネの園へと行き、そこでイエスが祈りを捧げていました。</p><p>そこに、イエスを裏切ったユダに案内された祭司や警官たちが現れます。ユダはイエスに近づいて口づけを行いますが、これを合図として彼らはイエスを捕縛しました。</p><h2>イエスの処刑と復活</h2><p>最高法院での裁判をへて、総督<b>ポンティウス・ピラトゥス</b>によってイエスの死刑が宣告されました。イエスはゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられ、母のマリアなど親しい人が見守るなかで息を引き取りました。</p><p>処刑後、アリマタヤ出身の<b>ヨセフ</b>という男は、イエスの遺体の引き取りを申し出て、その亡骸を受け取ると亜麻の布でくるんで墓に埋葬しました。マグダラの<b>マリア</b>などの女性たちは、イエスの遺体に油を塗るために香料を買いにいき、それから墓に向かいましたが、そのときすでにイエスの遺体はありませんでした。</p><p>その後、イエスは弟子たちの間に姿を現したとされています。そして、イエスの復活や教えを信じる者たちの間では、<b>キリスト教</b>が生まれることになりました。</p>
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<pubDate>Wed, 01 Oct 2014 05:00:00 +0900</pubDate>
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<title>イエスの誕生と東方の三賢人（東方の三博士）</title>
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<![CDATA[ <!-- 画像 --><div class="img-center margintop1lh img-border"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20140910/05/herb-museum/51/4f/j/o0350035013062015312.jpg"><img alt="東方の三賢人（東方の三博士）" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140910/05/herb-museum/51/4f/j/o0350035013062015312.jpg" width="280" height="280"></a> </div><!-- /.image-center --><!-- /画像 --><!-- キャプション --><p class="align-center margin-left_less margin-top_less margin-top_7px">＜イエスと東方の三賢人＞</p><!-- /キャプション --><h2>イエス・キリストの誕生</h2><p><b>イエス・キリスト</b>は、西暦紀元元年の少し前頃、地中海東岸部のパレスティナで誕生したとされています。当時のパレスティナは、ローマの支配下に置かれていて、ローマから王として認められたヘロデが統治していました。</p><p>『<b>新約聖書</b>』によると、パレスティナ北部のガリラヤの町ナザレに住んでいたヨセフとその婚約者マリアは、聖霊による受胎と神の子の誕生を天使から告知されました。そして、二人が南方のベツレヘムに旅した際に、イエスが誕生したとされます。</p><h2>東方の三賢人（三博士）</h2><p>イエスが誕生すると、星の知らせによって未来の王となるべき子の誕生を知った<b>東方の三賢人</b>（<b>東方の三博士</b>）と呼ばれる学者たちは、その子に会うため、パレスティナを訪れました。</p><p>学者たちは、イェルサレムでヘロデ王に子の場所を尋ねた後にベツレヘムに向かい、そこで赤子のイエスに対面することができました。彼らはこのとき、贈り物として黄金・乳香・没薬を捧げました。</p><p>この後、学者たちは天使の助言を受けて、イエスの命を狙っていたヘロデ王に場所を伝えることなく帰り、これによってイエスを守ることができました。</p>
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<pubDate>Wed, 10 Sep 2014 05:30:00 +0900</pubDate>
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<title>プトレマイオス朝とクレオパトラ</title>
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<![CDATA[ <!-- 画像 --><div class="img-center margintop1lh img-border"><img alt="クレオパトラ" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140804/01/herb-museum/b5/ee/j/o0544072513023784614.jpg" width="168" height="224"></div><!-- /.image-center --><!-- /画像 --><!-- キャプション --><p class="align-center margin-left_less margin-top_less margin-top_7px">＜クレオパトラ＞</p><!-- /キャプション --><p class="margintop1lh"><span class="term">クレオパトラ</span>は、エジプトのプトレマイオス朝の最後の女王です。</p><h2>プトレマイオス朝</h2><p>マケドニアの国王だった<span class="term">アレクサンドロス大王</span>による前334年からの東方遠征の結果、西はギリシアから東はインド西北部まで広がる大帝国が出現しました。しかし、紀元前323年にアレクサンドロスが熱病にかかって急死してしまい、これを受けてアレクサンドロスに仕えていた武将たちの間で帝国の後継者争いが繰り広げられることになりました。</p><p>この戦いの結果、アレクサンドロスの帝国は、ヘレニズム諸国と呼ばれる3つの王国に分裂することになりました。エジプトを中心とする地域では、アレクサンドロスの幼なじみでもあった将軍プトレマイオスに始まる<span class="term">プトレマイオス朝</span>エジプト王国が成立しました。</p><h2>クレオパトラ</h2><p>プトレマイオス朝は、初期こそ繁栄したもののしだいに衰えていき、かわってイタリア半島で成立した共和政国家ローマが地中海方面で勢力を伸ばしていきました。こうした状況のなか、紀元前51年に即位したプトレマイオス朝最後の女王が<span class="term">クレオパトラ</span>です。クレオパトラは、その美貌に加えて香りを利用することでローマの権力者を魅惑して関係を結び、自身と王国の栄光を復活させること狙いました。</p><p>クレオパトラは、ローマの将軍<span class="term">ユリウス・カエサル</span>が政敵のグエナウス・ポンペイウスを追ってエジプトにやってきたときに、秘かに彼と接触して恋仲になり、その支持によってエジプトでの自身の地位を確保しました。</p><p>カエサルはまもなくローマで暗殺されてしまいますが、クレオパトラは今度はカエサルの有力な部下で後継者としての地位を狙っていた<span class="term">マルクス・アントニウス</span>を魅惑して恋愛関係に入り、彼とともにエジプトなど東方の支配権をかためました。</p><p>しかし、紀元前31年、アントニウスとクレオパトラは、カエサルの養子ガイウス・オクタウィアヌスにアクティウムの海戦で敗北し、アントニウスは逃亡の後に自殺します。</p><p>これまで何度も危機を切り抜けてきたクレオパトラもここでついに観念し、命を絶つことを決めました。伝承によれば毒蛇に自らの身を咬ませたと言われます。こうして、紀元前30年、最後の女王クレオパトラが死に、同時にプトレマイオス朝エジプト王国が滅亡しました。</p>
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<pubDate>Mon, 04 Aug 2014 02:00:00 +0900</pubDate>
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<title>アレクサンドロス大王の東方遠征とヘレニズム文化</title>
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<![CDATA[ <!-- 画像 --><div class="img-center margintop1lh img-border"><img alt="アレクサンドロス" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140804/02/herb-museum/5b/d4/j/o0590029513023791576.jpg" width="448" height="224"></div><!-- /.image-center --><!-- /画像 --><!-- キャプション --><p class="align-center margin-left_less margin-top_less margin-top_7px">＜アレクサンドロス（左）＞</p><!-- /キャプション --><h2>アレクサンドロス大王と東方遠征</h2><p><strong>アレクサンドロス</strong>（<strong>アレキサンダー</strong>）は、紀元前330年代から紀元前320年代にかけて活躍したマケドニア王国の国王で、ヨーロッパからアジアに広がる大帝国を築いた人物です。</p><p><strong>アレクサンドロス</strong>は、紀元前356年、<strong>マケドニア王国</strong>の国王フィリッポス2世の子どもとして生まれました。アレクサンドロスは子どもの頃から人並み外れた才能を示していましたが、さらに父から高度な教育を施され、少年時代にはギリシアの有名な哲学者<strong>アリストテレス</strong>を教師としてギリシアの学問や文芸を学んでいます。</p><p>父・フィリッポス2世は紀元前338年にギリシアの征服に成功した後、つづいて、東方の大帝国、<strong>アケメネス朝ペルシア</strong>への遠征を計画しますが、その準備中に暗殺されてしまいました。そこでアレクサンドロスが王位につき、父の遺志をついで紀元前334年に<strong>東方遠征</strong>に出発します。</p><p>アレクサンドロスは、シリアやエジプトをおさえた後、アケメネス朝ペルシアを滅ぼして当初の目的を達成しますが、さらにつづけて中央アジアやインダス川流域まで征服を行いました。この結果、西はギリシア、東はインド北西部にまで広がる大帝国が成立することになりました。</p><h2>東西の文物の交流</h2><p>こうしてアレクサンドロスによってヨーロッパとアジアにまたがる大帝国が形成されたことから、東西の文化の交流が活発になり、西方のギリシア文化と東方のオリエント文化が融合して、<strong>ヘレニズム文化</strong>と呼ばれるギリシア風の文化が成立しました。</p><p>また、この頃には東西交易もさかんに行われました。アレクサンドロスは東方遠征の途中のエジプト滞在時に、ナイル川の河口部に自分の名前に因んだ<strong>アレクサンドリア</strong>（<strong>アレキサンドリア</strong>）という海港都市を建設しましたが、このアレクサンドリアは地中海交易の中心地となり、香辛料などの品物の取引がさかんに行われて繁栄することになりました。</p>
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<pubDate>Fri, 18 Jul 2014 02:50:00 +0900</pubDate>
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<title>古代ギリシア②　テオフラストスと植物学</title>
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<![CDATA[ <h2>経歴</h2><p><strong>テオフラストス</strong>（前372年頃～前288年頃）は、古代ギリシアの哲学者・植物学者です。</p><p>テオフラストスは、紀元前372年頃、エーゲ海に浮かぶレスボス島で生まれました。若くして、ギリシアの代表的なポリス（都市国家）の一つであり学問がさかんな<span class="term">アテネ</span>に移り、有名な哲学者<span class="term">プラトン</span>の創立した学園<span class="term">アカデメイア</span>で学びました。その後は、やはり有名な学者である<em><span class="term">アリストテレス</span>の弟子となり</em>、アリストテレスの創設した学園<span class="term">リュケイオン</span>で彼とともに学問の研究に取り組みます。そして、前322年にアリストテレスがアテネを去り、まもなく死去すると、テオフラストスは彼の後継者としてリュケイオンの学園長となり、以後、研究と指導の両面において活躍しました。</p><h2>業績</h2><p>テオフラストスは、学園リュケイオンを拠点として、植物に関する研究に取り組みました。彼は、ギリシア各地の植物に加え、<span class="term">アレクサンドロス大王</span>の<span class="term">東方遠征</span>で入手された植物なども資料として用い、それらの詳細な観察を行うことで、植物についての分析を進めました。</p><p><em>彼の植物に関する著作としては、<span class="term">『植物誌』</span>（Historia Plantarum）が残っています</em>。これは、生態や機能などによって植物を分類し、それぞれの特徴について記録したものです。この『植物誌』は、これ以後、古代から中世までのヨーロッパで、植物の働きや性質を知るための貴重な資料となりました。</p><p>以上のように、植物の体系的な研究を初めて行ったことから、<em>テオフラストスは植物学の祖とも呼ばれています</em>。</p>
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<link>https://ameblo.jp/herb-museum/entry-11744481344.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Jan 2014 18:30:00 +0900</pubDate>
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