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<title>日向神話のブログ</title>
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<description>神武天皇のふるさとを日向神話研究会の研究資料を集めて報告いたします。古代宮崎が確立するまでの物語を現地の古老達の言い伝えをもとに解説します。</description>
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<title>Amebaから届いたエール♪</title>
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<![CDATA[ <div data-id="topicsTemplate"><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.amebame.com/pub/ads/rch/bnr/a376426f-3b90-435e-90a4-79c459f8fe26.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="473" src="https://stat.amebame.com/pub/ads/rch/bnr/a376426f-3b90-435e-90a4-79c459f8fe26.png" width="300"></a></p><p style="text-align:left">&nbsp;</p><h3 class="limited019_heading04" data-entrydesign-alignment="center" data-entrydesign-count-input="part" data-entrydesign-part="limited019_heading04" data-entrydesign-tag="h3" data-entrydesign-type="heading" data-entrydesign-ver="1.54.1" style="margin:8 auto 12px;font-weight:bold;color:#333;font-size:16px;line-height:1.6;min-height:32px;word-break:break-word;text-align:center"><span style="background:url(https://stat100.ameba.jp/ameblo/entry_designs/v1/sources/assets/limited019_heading04_back_slash.png) no-repeat left bottom;background-size:12px 20px;padding-left:24px;display:inline-block;max-width:343px;box-sizing:border-box;min-width:12px;vertical-align:bottom"><span style="background:url(https://stat100.ameba.jp/ameblo/entry_designs/v1/sources/assets/limited019_heading04_slash.png) no-repeat right bottom;background-size:12px 20px;padding-right:24px;display:block;box-sizing:border-box;min-width:12px;vertical-align:bottom"><span data-entrydesign-content="" style="display:block;min-height:20px"><b style="font-weight:700">特別に教えて</b></span></span></span></h3><h2 class="ameba_heading03" data-entrydesign-alignment="center" data-entrydesign-count-input="part" data-entrydesign-part="ameba_heading03" data-entrydesign-tag="h2" data-entrydesign-type="heading" data-entrydesign-ver="1.54.1" style="margin:8px 0;font-weight:700;color:#08121a;font-size:20px;line-height:1.6;min-height:32px;overflow-wrap:break-word;text-align:center;background:url(https://stat100.ameba.jp/ameblo/entry_designs/v1/sources/assets/ameba_heading03_underline.png) no-repeat;background-position:center bottom;background-size:72px 10px;padding-bottom:14px"><span style="display:block"><span data-entrydesign-content="" style="display:block">ブログを始めたきっかけは？</span></span></h2><p>　この地域を知りたいと思いました。</p><p>私の生まれは鹿児島県の種ケ島、此処は宮崎県延岡市です。</p><p>結婚、仕事でこの地を選択して、此処に住みました。</p><p>新たな故郷、「子供にとっては、本物の故郷」です。</p><p>&nbsp;</p><p>　そんな関係から、この地を知りたい思いから、調べると</p><p>「古事記にある、土地名の多さに」びっくりしました。</p><p>例,</p><p>ホオリ川、可愛(え)山陵、五っ瀬川、あがた、笠沙山、逢瀬川</p><p>他、吉野、三輪、三須、五十鈴川など数限りなく存在します。</p><p>&nbsp;</p><p>知り得た、この地の魅力を誰かに知って頂きたいと思うようになりました。</p><p>何故何故が多い話題です。</p><p>言い訳、説明、関連性など、どうしても長文になります。</p><p>&nbsp;</p><p>やはり、此処に書く方法以外に無いと判断しました。</p><p>やっと、少しずつ、皆様に届く文章になればと、思いつつ</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align:center">&nbsp;</p><p style="text-align:center">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p></div>
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<link>https://ameblo.jp/himukasinwa/entry-12842900953.html</link>
<pubDate>Sun, 03 Mar 2024 10:06:16 +0900</pubDate>
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<title>ふたつの神話道　　第2章の（1）</title>
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<![CDATA[ <p align="center">第2章　神話道　猿田彦道</p><p align="center">&nbsp;</p><p>次に猿田彦のお話です。新しく猿田彦道と名付けました。</p><p>日本書紀巻第二　第九段一書（一）　　</p><p>先駆の者の還りて、「一柱の神有りて天八達之衢（あまのやちまた）に居り。其の鼻の長さ七咫（ななあた）、背（そびら）の長さ七尺（ななさか）あまり。まさに七尋（ななひろ）と言うべし。また口尻（くちわき）明り光れり。眼は八咫鏡の如くして然（てりかがやけること）赤酸醤（あかかがち）（ほおずき）に似たり」。</p><p>そこで従えていた神を遣わして尋ねに行かせた。この時、八十万（やおよろず）神がいたが、皆、眼力負けて相い問うを出来ず。そこで（皇孫らは）特に天鈿女命に「汝は眼力の勝（すぐ）れし神である。行て尋よ」と勅（みことのり）す。</p><p>以下が天鈿女命と衢神（ちまたのかみ）猿田彦の問答である。</p><p align="left">　1. 天鈿女命：胸をあらわにし、衣の紐を臍（へそ）の下まで押し下げあざ笑い、衢神に向かい立つ。→　猿田彦：「天鈿女、汝の為す（そんなことをする）は何の故ぞ」と尋ねた。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　2. 天鈿女命：「天照大神の御子（皇孫）が進む道路（みち）に如此（かく）居（いま）す者有るは誰ぞ。敢て問う」→　猿田彦：「天照大神の御子、今、まさに降り行くと聞く。故に迎え奉りて相い待つ。我が名は猿田彦大神ぞ」</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　3. 天鈿女命：「汝、我を将（い）て先（さきだち）て行くか、それとも、我、汝に先て行くか」→　猿田彦：「我、先て啓（みちひらき）て行かん」</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">4. 天鈿女命：「汝は何処（いずこ）に到るや。皇孫は何処に到るや」→　猿田彦：「天神の御子、まさに筑紫の日向（ひむか）の高千穗（たかちほ）の触之峯（くぢふるのたけ）に到るべし。我は伊勢の狭長田（さなだ）の五十鈴（いすず）の川上に到るべし」更に続け、「我の素性を明らかし者は汝なり。故、汝、我を送りて致るべし」</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210306/11/himukasinwa/12/5b/j/o2304172814906162289.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210306/11/himukasinwa/12/5b/j/o2304172814906162289.jpg" width="420"></a></p><p>　その後、天鈿女命還り詣（いた）りて状（かたち）報（かえりこともう）す、とある。そこで皇孫は天磐座（あめのいわくら）を脱離ち、天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別て、天降（あまくだ）る。果して先の期（ちぎり）の如く、皇孫は筑紫の日向の高千穗の触之峯（たかちほのくじふるのたけ）に到る。</p><p>　猿田彦は伊勢の<ruby>狭長<rp>(</rp><rt>さな</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>田<rp>(</rp><rt>だ</rt><rp>)</rp></ruby>の五十鈴の川上に辿り着き、天鈿女命は猿田彦の乞う所の随に送り届けた。そこで皇孫は天鈿女命に、「汝は素性を明らかにした神の名をもって姓氏とせよ」と勅し、これによって猿女君の名を授かった、とある。</p><p>天鈿女命の「汝は何処（いずこ）に到るや」の問いに猿田彦は「我は伊勢の狭長田（さなだ）の五十鈴（いすず）の川上に到るべし」と答えている。</p><p>&nbsp;</p><p><u>日本には五十鈴川は二つある。この日本書紀に書かれている五十鈴川はどこの五十鈴川か？</u></p><p><u>と言う問いが生まれます。</u></p><p>&nbsp;</p><p>　天照大神を伊勢の地に祀った、斎宮の伝説上の起源とされる人物は「日本書記」では「倭姫命「古事記」では「倭比売命」と表記される。第11代垂仁天皇の第四皇女です。垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされる。</p><p>&nbsp;</p><p>　伊勢神宮を創祀したときの天照大神から倭姫命への神託は「日本書記」に次のように載せる。是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國（この神風（かむかぜ）の伊勢の国は常世の浪の重浪（しきなみ）帰（よ）する国なり。傍国（か　たくに）の可怜（うまし）国なり。この国に居（を）らむと欲（おも）ふ）</p><p align="right">— 垂仁天皇25年3月丙申（10日）条</p><p align="right">&nbsp;</p><p>　つまり伊勢神宮祭りの創建は、十一代垂仁天皇<cite>の娘ですので</cite>神武東征後のお話です。かたや天孫降臨の後にお話です。</p><p>　日向初代の邇邇藝命→二代山幸彦→三代鸕鶿草葺不合尊→初代神武天皇です。その十一代垂仁天皇の娘ですから、時代が著しく違います。天照大神を伊勢に創建した時にお話に出てくる五十鈴川が天孫降臨後直ぐにあったとは考え難い。ですから天孫降臨後の猿田彦神に出てくるお話の五十鈴川や伊勢は現三重県のものでは無い<cite>。</cite></p><p>　又「我は伊勢の狭長田の五十鈴の川上」にと川名一つと場所を指す場所名が伊勢・狭長田があります。狭長田・伊勢も地名です、三重大学名誉教授宮崎照雄氏によると「現在の門川から日向市にかけての、五十鈴川から伊勢ケ浜にかけての平野部が狭長田でしょう」と、又伊勢の国の成立は神武天皇東征中か大和王朝成立後とされている。</p><p>　私論は、吾田に到着後の猿田彦の言葉です。もし現在の三重県の伊勢ならば関門海峡や瀬戸内海を超えてとの表現はあるべきですが無い。つまり越えるべき川は五十鈴川だけだった。</p><p>　このような表現に至ったと考えます。では沖田川は？当時は海でしたので山側の浅瀬を越したのでしょう。つまり五十鈴川だけは越えるのに難渋したとの意味もあり、このような表現になったものと思います。故に五十鈴川を越えると到着できる場所で伊勢と呼ばれる所となりますので、五十鈴川は現門川町を流れている五十鈴川になります。</p><p>&nbsp;</p><p>参照　<b>伊勢神宮の五十鈴川</b></p><p>伊勢市南部に源を発し北流。伊勢市街を流れ、伊勢湾に注ぐ。 倭姫命が御裳のすその汚れを濯いだという伝説があり、御裳濯川（みもすそがわ）の異名を持つ。古くから清流とされ、和歌にも多く歌われた。 神路山を源流とし、支流島路川と合流、（伊勢神宮皇大神宮内宮）の西端を流れており、御手洗場（みたらしば）が作られている。この御手洗場では、かつては手洗いだけではなく、口濯ぎまで行われた。現在でも伊勢神宮の公式ウェブサイトで「神聖な川、清浄な川として知られる五十鈴川の水で心身ともに清めてから参宮しましょう」「天気のいい日は五十鈴川「御手洗場」で、口と手を清めることをお勧めします」と記載され、推奨されている。</p><p>参照　<b>門川町の五十鈴川</b></p><p align="left">宮崎県にも同名の「五十鈴川」という二級河川がある（東臼杵郡門川町および美郷町を流れる）。五十鈴川（いすずがわ）は、宮崎県美郷町・門川町を流れる二級河川。 三重県伊勢市の伊勢神宮を流れる五十鈴川と同名である。 美郷町北部（北郷区）に源を発し東流。門川町を流れ、門川湾に注ぎ、県内で6番目に大きい。</p><p>富高陣屋の記録「日向國御陵発端其外旧記」（1858年）に皇孫ノ御遊幸ハ櫛日二上天ノ浮橋ヨリ高千穂ニ御立玉ヒデ御橋を渡リ速日ノ峯ヨリ吾田長屋笠狭ノ御崎（延岡城シタ）ニ至リ玉ウ・・・とあり、</p><p><b>&nbsp;</b></p><p align="left">　　　猿田彦道は吾田（現延岡市）より（現門川町）を経由して（日向市）細島の伊勢（伊勢ケ浜）に至る。道とする。</p>
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<link>https://ameblo.jp/himukasinwa/entry-12660673429.html</link>
<pubDate>Sat, 06 Mar 2021 11:08:15 +0900</pubDate>
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<title>ふたつの神話道　　第１章の（3）</title>
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<![CDATA[ <p>第１章の（2）　　神話の道　邇邇藝道（ににぎみち）</p><p>&nbsp;</p><p><b>３.&nbsp; </b><b>ホオリ尊と祝子川　</b></p><p>　ホオリの尊は瓊瓊杵尊の第２子である。別名は火折尊・山幸彦。母はコノハナサクヤ姫。神武天皇（初代天皇）の祖父である。山幸彦として知られ、兄に海幸彦がいる。名は彦火火出見尊（ひこほほでみ）、火遠理命（ほおり）とも称す。大山積の神の孫とも言える。現在の祝子川は尊が産湯を浴びたとされます。海幸彦と山幸彦のお話の主人公達です。</p><p>&nbsp;</p><p>　ホオリの尊はコノハナサクヤ姫が火中出産の時に「熱を避りて居たるときに生り出ずる児」であるという。兄のホデリ命と弟のホオリ尊は生まれながらに各々釣針と弓矢という「幸」を持っていた。そこでホデリ命は海幸彦、ホオリ尊は山幸彦と呼ばれるようになった。あるとき海幸彦と山幸彦は試しに「幸」を交換してみたが、どちらもうまくいかなかった。そこで「幸」をお互いに返すことにしたが弟は兄の釣針を無くしてしまっていた。</p><p>　激怒した兄は弟がいくら代わりの釣針を作っても許さなかった。困った山幸彦はと出会い海神の宮に送ってもらった。　（塩土老翁は事勝国長狭との説あり）</p><p>&nbsp;</p><p><b>４.&nbsp; </b><b>大瀬川と五ヶ瀬川の川名の変更</b></p><p>　大瀬川の下に瓊瓊杵尊とコノハナサクヤ姫の出逢いの場所「吾田の長屋の笠沙の御前」があります。笠沙の岬でニニギ尊とコノハナサクヤ姫が出逢った事から、この川の名を逢瀬川（おうせかわ）と呼んでいた日向名所歌集（1867）によると、この名称で読まれている。</p><p>　五ヶ瀬川も五瀬川（いつせがわ）と呼ばれていました。五瀬命は「日本書紀」では彦五瀬命や「五瀬命（いつせのみこと）」「古事記」では五瀬命と表記される。初代神武天皇の長兄である。高千穂神社に祭られた三毛入野命『日本書紀』みけぬのみこと『古事記』で表記されるは彦五瀬命の弟である。　</p><p>　高千穂神社の伝承で御毛沼命は、高千穂に戻り当時一帯を荒らしていた鬼神の鬼八（きはち）を退治、当地に宮を構えたと伝える。</p><p>&nbsp;</p><p><b>５.&nbsp; </b><b>ニニギの尊お墓について　</b></p><p>　ニニギの陵については、「日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」、「延喜式諸陵式」に「日向埃山陵。天津彦瓊瓊杵尊在<sub>二</sub>日向国<sub>一</sub>、無陵戸」とある。明治政府により1874年（明治7年）、新田神社（現・鹿児島県薩摩川内市宮内町）境内の神亀山を「可愛山陵」と治定した。</p><p>　</p><p>　なぜに</p><p>明治になり、鹿児島の国学者は、川内市の神亀山を筑紫日向可愛山之山陵と読み替え知定し、明治天皇の行幸を仰いだのか？日本で唯一日向の地それも可愛岳と銘打った山が存在しているのに、横暴とも言える。日向三代の陵墓を変える行為を誰が何の為に起こしたか、まだ疑問符が付いたままである。</p><p>&nbsp;</p><p><b>6.</b><b>出逢いの聖地「笠沙の御崎」</b></p><p>　古事記に「<u><ruby>此地<rp>(</rp><rt>しち</rt><rp>)</rp></ruby><u>は<ruby>韓國<rp>(</rp><rt>からくに</rt><rp>)</rp></ruby><u>に向かい、<ruby>笠沙<rp>(</rp><rt>かささ</rt><rp>)</rp></ruby><u>の<ruby>御前<rp>(</rp><rt>みさき</rt><rp>)</rp></ruby><u>を<ruby>眞来通<rp>(</rp><rt>まきとほ</rt><rp>)</rp></ruby><u>りて、<ruby>朝日<rp>(</rp><rt>あさひ</rt><rp>)</rp></ruby><u><ruby>直刺<rp>(</rp><rt>たださ</rt><rp>)</rp></ruby><u>す國</u></u></u></u></u></u></u></u><u>、夕日の日照る國</u>と、日本書紀に「膂宍之空國」自頓丘覔國行去 到於吾田長屋笠沙之岬」とあります。</p><p>&nbsp;</p><p>（笠沙の御崎の名を失う）いずれも、笠沙の御前や笠沙之岬が出てまいります。愛宕山は江戸時代中頃までは笠沙山と呼ばれていた。「愛宕山由来記」（宮崎県神社誌1988年）によると「慶長年間（1596年）に延岡城を築城する際、城山の一角にあった愛宕神社を笠沙の岬に移転させたので以後愛宕山と呼ぶようになった。いわゆる消えた聖地です。本来は残るべき大切な地名が消されていた事例です。</p><p>&nbsp;</p><p>　慶長19年（1614年）、肥前国日野江藩より有馬直純が5万3000石で入封した。</p><p>（吾田の名を失う）第2代藩主・康純は縣（延岡）城を修築して城下町を整備。康純の統治38年間に今日の城下町延岡の原型が完成した。1656年（明暦2年）6月、今山八幡宮に梵鐘を寄進（初代「城山の鐘」、内藤記念館蔵）。そこに記された「明暦二年丙申六月吉日…日州延岡城主有馬左衛門佐…藤原朝臣康純」が延岡地名の初見である。</p><p>&nbsp;</p><p>笠沙山と呼ばれていた証拠に「　<ruby>時鳥<rp>(</rp><rt>ほととぎす</rt><rp>)</rp></ruby>　はれぬおもいを　さみだれの　<ruby>雲<rp>(</rp><rt>くも</rt><rp>)</rp></ruby>のかささの　<ruby>山<rp>(</rp><rt>やま</rt><rp>)</rp></ruby>になくらむ」と　有馬直純は「日向国名所歌集」1867年に歌を詠んでいる</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/19/himukasinwa/4c/21/j/o1920128014901930818.jpg"><img alt="" height="147" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/19/himukasinwa/4c/21/j/o1920128014901930818.jpg" width="220"></a>笠沙の御碕から見る日向灘</p><p>&nbsp;</p><p><b>７.「国有りや以不や」</b></p><p>　最後に日本書紀第九段一書（二）から、邇邇藝尊の「国有りや以不や」の問いに国主の事勝国長狭の「是に国有り、取り捨て勅（みことのり）の随（まま）に」から類推されますとおり、</p><p>　もし此処が鹿児島県南さつま市であったら、当時の天皇の國（天孫族）と７２０年迄戦った、薩摩隼人の本拠地です。「阿多隼人の国、言葉も通じない」そんな所に「取り捨て勅の随に」はあまりにも想像を越える創作だと私は考えた。</p><p>&nbsp;</p><p align="left">　邇邇藝道は臼杵郡高千穂の二上山を発し、向山から六峰街道を経て日之影の大人、再度六峰街道から速日峰速日の峯から早日渡の庄そして、八狭、大瀬川を下り天下で上陸吾田長屋笠狭ノ御崎（延岡城シタ）に至る道とする。</p>
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<link>https://ameblo.jp/himukasinwa/entry-12658952174.html</link>
<pubDate>Thu, 25 Feb 2021 20:59:50 +0900</pubDate>
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<title>ふたつの神話道　　第１章の（2）</title>
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<![CDATA[ <p>第１章の（2）　　神話の道　邇邇藝道（ににぎみち）</p><p>&nbsp;</p><p><b>理由①六峰街道</b>は背筋のような丘ばかり続く道と言うと、誰もが行けば解るのですが、向山から六峰街道を経て速日の峯までが最もこの文章に合致した地形となります。</p><p>&nbsp;</p><p><b>理由②日之影の大人</b>は山の途中から下られた、その坂を「日の坂」と言う、皇孫が都をどこにするか思案をされた所を「案の塚」と呼びそこから下り岩井川の神社の後方の大地に着かれ、この地を青木原と呼びここを宮とし「大日止」「大日渡」と書いたとの神話伝説が現存します。</p><p>&nbsp;</p><p><b>理由③速日の峯</b>は山名が邇藝速日命（にぎはやひ）に関連する等から、邇藝速日命の降臨の地と思われがちですが、（天照大神からの<span style="display: none;">&nbsp;</span><span style="text-decoration:underline;"><span style="background-color: rgb(255, 255, 255); color: rgb(0, 0, 0);"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D" style="background-color: rgb(255, 255, 255);" title="十種の神宝">の</a></span></span><span style="background-color: rgb(255, 255, 255);"><span style="color:#000000;">十種神宝</span></span><span style="color:#000000;">を</span>授かり天磐船に乗って<span style="color:#000000;">河内国（大阪府交野市</span>）の河上の地に天降り）との説があるので別件と考えます。邇邇藝尊が降ったと考える方が理にかないます。</p><p>&nbsp;</p><p><b>理由④天下</b>は天下と書いてアモリと読む、現在の五ヶ瀬川、この上流から二つに分かれます。当時はこの周辺地は海です。天下は小高い土地ですので、吾田もしくは亜潟と呼ばれたように、吾田湾の半島的な場所であったと推測します。</p><p>この地に天（天孫族）又は天照の孫がお下（くだ）りましたと言う意味で付いた場所名とが天下（アモリ）考えられます。</p><p>&nbsp;</p><p><b>理由⑤吾田長屋</b>は富高陣屋の記録「日向國御陵発端其外旧記」（1858年）に皇孫ノ御遊幸ハ櫛日二上天ノ浮橋ヨリ高千穂ニ御立玉ヒデ御橋を渡リ速日ノ峯ヨリ吾田長屋笠狭ノ御崎（延岡城シタ）ニ至リ玉ウ・・・とあり、この時代に幕府直轄地の富高陣屋においても吾田長屋笠沙之御崎は延岡城下と認識されていた。</p><p><b><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/20/himukasinwa/39/af/j/o1600120014901945049.jpg"><img alt="" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/20/himukasinwa/39/af/j/o1600120014901945049.jpg" width="420"></a>&nbsp;ホオリの尊銅像建立式のお神楽舞</b></p><p>&nbsp;</p><p><b>延岡と古事記・日本書紀</b></p><p><b>１.&nbsp; </b><b>延岡の古称は（吾田・縣）　</b></p><p>　延岡市古い呼び方では吾田です。<span style="color:#000000;">1656年（</span>明暦2年）迄はあがた（縣）と呼ばれていた。当時のあがたはどんな風景だったのでしょうか。現在の城山は島ですよね、野地・野田・西階の高台も島でしょうか。</p><p>　所々潮が引くと繋がる程度の干潟で、中央に笠沙山が半島を為している。小野・石田・伊形は潟又は砂州の多い場所だったのでしょう。小野の貝塚や愛宕の警察署横の洞窟貝塚の位置が潮の高さだったのではと推測できます。　</p><p>&nbsp;</p><p>　その頃この地を支配していた神様のお名前が大山祇（大山積神・大山津見神）と書かれます。意味は山と海を併せ持つ神の名前です「大山（山）津見（わだつみ・海神）」の意味があります。</p><p>　当時は「日本書紀」から国主の事勝国長狭であり、大山津見神は豪族のような人物と想像されます。歴史的文献には、亥宿禰（なおいすくね）で、欽明天皇の 31（570）年に宇佐八幡宮建立に功績（土を盛るのにその袖でくるんで持ち運んだところ、これが崩れなかったのを）欽明帝に褒められ、「土持」姓と日向国を賜り、吾田の荘に住んだとあります。</p><p>&nbsp;</p><p><b>２.&nbsp; </b><b>コノハナサクヤ姫の名前について　</b></p><p>　日本書紀第十段一書（一）（二）（三）（四）要約</p><p>古事記では父を「大山津見神」日本書紀では「大山祇神」と書く、と鹿屋野比売神（カヤノヒメ）の間に生まれた娘で「古事記」では本名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売、「日本書紀」では本名を神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫（かむあたかしつひめ）別名を木花開耶姫とあります。別名を木花開耶姫『播磨国風土記』では許乃波奈佐久夜比売命と表記する。読みはコノハノナサクヤビメ、コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。　</p><p>&nbsp;</p><p>　意味は神阿多都・神吾田津・神吾田鹿葦すべてに吾田もしくは阿多が付いています、これは生まれた場所であると考えられます。日本神話に登場する女神オオヤマツミの娘で姉にイワナガヒメがいる。天孫ニニギ尊の妻として、ホデリ（海幸彦）・ホスセリ・ホオリ（山幸彦）を火の中で生んだ。</p><p>　又神吾田鹿葦津姫は父である「大山積の神」の神、吾田は生まれた場所、鹿葦津は母の名前であります。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/20/himukasinwa/68/8f/j/o1728230414901943569.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/20/himukasinwa/68/8f/j/o1728230414901943569.jpg" width="420"></a>笠沙の御碕の碑<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/20/himukasinwa/16/45/j/o1445130614901944192.jpg"><img alt="" height="380" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/20/himukasinwa/16/45/j/o1445130614901944192.jpg" width="420"></a>吾田神話（延岡物語）記事</p>
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<link>https://ameblo.jp/himukasinwa/entry-12658946270.html</link>
<pubDate>Thu, 25 Feb 2021 20:30:47 +0900</pubDate>
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<title>ふたつの神話道　第１章の（１）</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: left;">第１章の（１）　　神話の道　邇邇藝道（ににぎみち）</p><p style="text-align: left;">　「天孫降臨」は、天上界から<ruby>豊葦原水穂國（</ruby>とよあしはらみずほのくに）に天照大神の孫<ruby>天津日子番能邇邇藝<rt>あまつひこほのににぎ</rt>尊<rt>みこと</rt></ruby>が<ruby>天降<rt>あまふ</rt></ruby>りた事を言う。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　さて、天孫降臨後の邇邇藝命は、どこを辿り「吾田の長屋の笠沙の御崎」に辿り着いたのでしょうか。古事記及日本書紀の天孫降臨に関する部分から紐解いてみましょう。</p><p style="text-align: left;">　７１２年古事記が、７２０年日本書紀が作られました。その頃には、まだ日本語に対する文字はありません、中国の漢字を用い、日本語読みにした万葉仮名が使用された文章です。そこで様々な解釈が飛び交います。</p><p style="text-align: left;">　どう読めば正しいのかを確定できないままに、それぞれの都合の良い解釈が流布されました。</p><p style="text-align: left;">　天孫降臨の地が高千穂の峰であった、ニニギと木花昨夜姫の出逢の聖地が鹿児島南さつま市野間岬や宮崎県西都市妻等があります、総じて証拠になる文献資料が明治の前後であり、一人の専門家白尾國柱氏の唱え説であり、旧来の古書や歴史書に出て来ない新説であります。薩摩閥の国学者を中心とした人々の創作と考えられ、この部に関してはこれからの研究課題になると思います。</p><p style="text-align: left;">　これに対しては明治維新より以前の文献がこの解決に一筋の光明を放つのではと考えます。今回は敢えて、天孫降臨の地を「臼杵の高千穂郷二上山」、空國（胸副国）を旧縣藩（あがたはん）現在の延岡市に私見知定して、お話を進めます。</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210306/11/himukasinwa/9e/19/j/o2304172814906162164.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210306/11/himukasinwa/9e/19/j/o2304172814906162164.jpg" width="420"></a>　　</p><p style="text-align: center;">コノハナサクヤ姫とニニギの尊（笠沙山公園）　</p><p style="text-align: left;"><b>古事記には</b></p><p style="text-align: left;"><ruby>古事記</ruby>の<ruby>天孫降臨<rt>てんそんこうりん</rt></ruby>の<ruby>章<rt>しょう</rt></ruby>に<ruby>天兒屋命<rt>あめのこやねのみこと</rt></ruby>、<ruby>布刀玉命<rt>ふとだまのみこと</rt></ruby>、<ruby>天宇受賣<rt>あめのうずめ</rt></ruby><ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>、<ruby>伊斯許理度賣<rt>いしこりどめの</rt></ruby><ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>、<ruby>玉租<rt>たまのやの</rt></ruby><ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>、<ruby>併せて<rt>あわせて</rt></ruby><ruby>五伴緖<rt>いつとものお</rt></ruby>を<ruby>支<rt>わか</rt></ruby>ち<ruby>加えて<rt>くわえて</rt></ruby>、天降したまひき、ここにその<ruby>招<rt>を</rt></ruby>きし、<ruby>八尺<rt>やさか</rt></ruby>の<ruby>勾珠<rt>まがたま</rt></ruby>鏡、また<ruby>草薙劔<rt>くさなぎつるぎ</rt></ruby>、また<ruby>常世思金<rt>とこよおもいかね</rt></ruby><ruby>神<rt>かみ</rt></ruby>、<ruby>手力男<rt>たじからお</rt></ruby><ruby>神<rt>かみ</rt></ruby>、<ruby>天石門別<rt>あめのいわとわけの</rt></ruby><ruby>神<rt>かみ</rt></ruby>を<ruby>副<rt>そ</rt></ruby>え<ruby>賜<rt>たま</rt></ruby>ひて、<ruby>詔<rt>みことのり</rt></ruby>りたまひしく、「これの鏡は、<ruby>専<rt>もぱ</rt></ruby>ら我が<ruby>御魂<rt>みたま</rt></ruby>として、吾が前を<ruby>拝<rt>いく</rt></ruby>くが<ruby>如拝<rt>ごといつ</rt></ruby>き<ruby>奉<rt>まつ</rt></ruby>れ。次に思金神は、前の事を取り持ちて、<ruby>政<rt>まつりごと</rt></ruby>せよ」とのりたまひき。この<ruby>二柱<rt>ふたはしら</rt></ruby>の<ruby>神<rt>じん</rt></ruby>は、さくくしろ<ruby>五十鈴<rt>いすず</rt></ruby>の<ruby>宮<rt>みや</rt></ruby>に<ruby>拝<rt>いつき</rt></ruby>き<ruby>祭る<rt>まつる</rt></ruby>。<ruby>【<rt>（</rt></ruby><ruby>中<rt>なか</rt></ruby>　<ruby>略<rt>りゃく</rt></ruby><ruby>】<rt>）</rt></ruby><ruby>故<rt>ゆえ</rt></ruby>ここに<ruby>天津<rt>てんしん</rt></ruby><ruby>日子番能邇邇藝<rt>ひこばんのうににげい</rt></ruby>の<ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>に<ruby>詔<rt>みことのり</rt></ruby>りたまひて、天の<ruby>石位<rt>いしくら</rt></ruby>を離れ、天の<ruby>八重<rt>やえ</rt></ruby>たな雲を押し分けて、<ruby>稜威<rt>いつ</rt></ruby>の<ruby>道別<rt>ちわき</rt></ruby>に道別て、天の浮橋にうきじまり、そり立たして、<u><ruby>筑紫<rt>つくし</rt></ruby><u>の<ruby>日向<rt>ひむか</rt></ruby><u>の<ruby>高千穗<rt>たかちほ</rt></ruby><u>のくじふるの<ruby>嶺<rt>だけ</rt></ruby></u></u></u></u>に<ruby>天降り<rt>あめふり</rt></ruby>まさしめき。<ruby>故に<rt>ゆえに</rt></ruby>ここに<ruby>天忍日<rt>あめのおしひの</rt></ruby><ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>、<ruby>天津久米<rt>あまつくめ</rt></ruby><ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>の<ruby>二人<rt>ふたり</rt></ruby>、<ruby>天<rt>あめ</rt></ruby>の<ruby>石靫<rt>いわゆぎ</rt></ruby>を取り負い、<ruby>頭椎<rt>くぶつち</rt></ruby>の太刀を取り<ruby>佩<rt>は</rt></ruby>き、<ruby>天<rt>あめ</rt></ruby>の<ruby>波士弓<rt>はじゆみ</rt></ruby>を<ruby>取り持ち<rt>とりもち</rt></ruby>、<ruby>天<rt>あめ</rt></ruby>の<ruby>眞鹿兒<rt>まかご</rt></ruby><ruby>矢<rt>や</rt></ruby>を<ruby>手挟<rt></rt></ruby>み<ruby>御前<rt>みさき</rt></ruby>に<ruby>立ち<rt>たち</rt></ruby>て<ruby>仕え奉り<rt>つかえまつり</rt></ruby>き、<ruby>故<rt>ゆえ</rt></ruby>、その<ruby>天忍日<rt>あめのおしひの</rt></ruby><ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>、<ruby>天津久米<rt>あまつくめ</rt></ruby><ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>、ここに<ruby>詔<rt>みことのり</rt></ruby>りたまひしく、<b>「<u><ruby>此地<rt>しち</rt></ruby><b><u>は<ruby>韓國<rt>からくに</rt></ruby><b><u>に<ruby>向かい<rt>むかい</rt></ruby><b><u>、<ruby>笠沙<rt>かささ</rt></ruby><b><u>の<ruby>御前<rt>みさき</rt></ruby><b><u>を<ruby>眞来通<rt>まきとほ</rt></ruby><b><u>りて、朝日<ruby>直刺<rt>たださ</rt></ruby><b><u>す國、夕日の日照る國なり。故、<ruby>此地<rt>ここ</rt></ruby><b><u>は<ruby>甚吉<rt>いとよき</rt></ruby><b><u>き<ruby>地<rt>ところ</rt></ruby></u></b></u></b></u></b></u></b></u></b></u></b></u></b></u></b></u></b></u></b><b>」</b>と詔りたまひて、<ruby>底<rt>そこ</rt></ruby>つ<ruby>石<rt>いし</rt></ruby><ruby>根<rt>ね</rt></ruby>に<ruby>宮柱<rt>みやばしら</rt></ruby>ふとり、高天の原に<ruby>氷椽<rt>ひぎ</rt></ruby>たかしりて<ruby>坐<rt>ま</rt></ruby>しき。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><ruby><rp>)</rp></ruby></p><p style="text-align: left;"><b>日本書紀には　</b></p><p style="text-align: left;">　日本書紀第九段一書（二）<u>天津彦火瓊瓊杵尊は日向のくし日の高千穗の峯に降り立ち、膂宍の胸副国を頓丘から国覓ぎ行去りて、国主事勝国勝長狭を召して訪う。すると彼は「是に国有り、取り捨て勅の随に。」</u><u>と答えた。</u></p><p style="text-align: left;">　この部の解釈ですが、邇邇藝命は高千穂の峯に降り立ちた後に、膂宍の胸副国(むなそふくに)を、頓丘(ひたを)から国覔(ま)き行去 (とほり)て」とあります。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　古事記の天孫降臨の章に「此地は韓國に向かい、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照國なり。故、此地は甚吉き地」とあります。この文中の韓国は現在の韓国を指すものでは無い、日本書紀にある空の國、胸副国の意であり、そこで、原文のままでは意が通じにくいと日本書記の解説書には（「膂宍之空國」自頓丘覔國行去 到於吾田長屋笠沙之岬」）の注釈があります。</p><p style="text-align: left;">　注釈を現代語に訳してみると膂宍とは「背肉(そしし)」の意 背筋(せすじ)の肉。頓丘（ひたお）の意味は「お」は<a href="https://kotobank.jp/word/%E4%B8%98-451173">丘</a>の意、ひたすらに続いた丘。ただ丘ばかり続く地形。一説には片寄った丘。国覔き行去の意味は神が鎮座すべきよい土地を探し求める事。又は天皇が都とすべきよい土地を探し求める事。</p><p style="text-align: left;">　胸副国の意味は、「空の国」を意味する事から、支配者の居ない国（王の居ない空の国の事）つまり背骨の様な地形のひたすら続いた丘。ただ丘ばかり続く地形の道を神（皇孫）が都とすべきよい土地を探し求めて、胸副国（空）支配者の居ない国を探したとなります。</p><p style="text-align: left;">　では降臨の地からどこを通ると、背骨の様な片寄った丘の地形の土地を通る事になるのか？</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/19/himukasinwa/95/6f/j/o2304172814901930133.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210225/19/himukasinwa/95/6f/j/o2304172814901930133.jpg" width="420"></a></p><p style="text-align: left;">　　　　　　　　　　　　　　　　　　　笠沙の御崎のモニュメント</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　「 高千穂庄から笠沙の御前に向かって歩いた」として察すると、出発の地は槵觸神社（この地は明治４年までは、二上神社と称していた）として考えます。そしてこの高千穂から吾田に至る道を下記の通り新たに邇邇藝道と名付けさせて頂きました。</p><p style="text-align: left;">未開の土地を歩く場合は、尾根を歩く方が理に適うと申します。その考えから邇邇藝命が高千穂庄から吾田の笠沙の御前に向かう道を推測しますと、</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">出発地は槵觸神社から二上山--→向山--→<b>①六峰街道</b>--→<b>②日之影の大人</b>（山を降り留まる）</p><p style="text-align: left;">再度山上がり--→<b>六峰街道</b>--→<b>③速日の峯--</b>→早日渡の庄--→八狭（やかい）筏を組む</p><p style="text-align: left;">→川を下る--→吾田の<b>④天下（あもり）</b>--→<b>⑤吾田長屋の笠沙の御前</b></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><ruby><rt></rt><rp>)</rp></ruby></p>
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<link>https://ameblo.jp/himukasinwa/entry-12658941913.html</link>
<pubDate>Thu, 25 Feb 2021 20:07:10 +0900</pubDate>
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