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<title>歴史学科の大学生が歴史について徒然語る</title>
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<description>歴史学科の大学生です。とにかく歴史が好きなのが高じてブログを書いてみようと思いました。(半分自己満)毎回何か歴史の事柄をのんびりと語っていけたらな、と。僕のブログがきっかけで歴史好きの方が増えると嬉しいです。</description>
<language>ja</language>
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<title>第2回 応仁の乱</title>
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<![CDATA[ <font color="#ff0000" size="5"><b>1.</b></font><font color="#ff0000" size="5"><b><i>はじめに</i></b></font><div><br><span style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0);">&nbsp;この前の回に戦国末期の関ヶ原の戦いを取り上げましたので、今度は戦国の幕開けたるこの</span><font color="#0000ff"><b><u>応仁の乱</u></b></font>を取り上げようと思います。</div><div><br></div><div>&nbsp;応仁の乱というのは名前だけで言えば学校で習ったことがある、というように有名だと思います。</div><div>&nbsp;しかしその実情はどんなものなのかというと結構知らない人も多いと思います。</div><div><br></div><div>&nbsp;というのもこの戦い、すごい<font color="#ff0000"><b><u>グダグタ</u></b></font>なんですよ(笑)</div><div>&nbsp;戦いはなんと10年以上も継続しており、その勢力も入れ替わり立ち替わりの様相を呈していますので、実際問題わかりづらい(￣^￣)</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし意外と調べると後世にも影響していることがあったりするので、深く調べると結構面白いですよ！</div><div><br></div><div><br><font color="#ff0000" size="5"><b>2.</b></font><font color="#ff0000" size="5"><b><i>室町幕府とは</i></b></font></div><div><font color="#ff0000" size="5"><b><i><br></i></b></font></div><div>&nbsp;応仁の乱に触れる時、一番重要なのは室町幕府についての知識だと思います。</div><div>&nbsp;室町時代というと教科書でもあっという間に終わったりするので、あまり人気のない時代です。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし最盛期の室町幕府の権力は、江戸幕府のそれを大きく上回っていると個人的には思います。</div><div><br></div><div>&nbsp;なぜなら三代足利義満の時代には天皇を差し置いて義満自身が<font color="#ff0000"><b><u>日本国王</u></b></font>と称されるように、莫大な力を持っていたことが見えるからです。</div><div><br></div><div>&nbsp;さらには世界的にも有名な日本の世界遺産、<font color="#bfbf00"><span style="caret-color: rgb(191, 191, 0);">金閣寺</span></font>が作られたのもこの頃の話です。</div><div><br></div><div>&nbsp;この通り室町幕府には強力な力がありました。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし盛者必衰が歴史にはつきもの。最盛期を迎えたのちに室町幕府の権威は徐々に衰えていきます。</div><div>&nbsp;その弱体化が決定的となったのが6代将軍、<font color="#ff0000"><b><u>足利義教の暗殺</u></b></font>と言えるでしょう。</div><div><br></div><div>&nbsp;この足利義教という人物は義満の五男で本来は将軍の座は遠いとされてきた人物でした。なにせもう将軍にはなれないだろうと出家もしていたのですから。(僧侶としては非常に優秀で、天台開闢以来の逸材と称されたようです)</div><div>&nbsp;しかし突然彼に転機が訪れます。</div><div><br></div><div>&nbsp;5代将軍の義量には実権がなく、政治の実権は義量の父の義持が握っていたと言われています。</div><div>&nbsp;もともと義量は病弱で、さらには大酒飲みということでわずか19歳にして亡くなります。</div><div>&nbsp;その後もしばらくは義持が政治を運営していたのですが、そんな彼にもいよいよ最期の時が訪れます。</div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;しかし義持は自分の後継者を指名しませんでした。</div><div>&nbsp;困った幕府の首脳陣は会議の結果、<font color="#ff0000"><b><u>クジ引きで将軍を決めよう</u></b></font>という結論に。<br></div><div>&nbsp;京都は石清水八幡宮に集まった義持の弟の四人。その中には義教の姿もありました。</div><div><br></div><div>&nbsp;義持の死の翌日に開かれたクジの結果は、義教の将軍就任でした。</div><div>&nbsp;もともと僧侶として名声を得ていた義教が将軍になるということで民衆や幕臣たちは期待を寄せます。</div><div>&nbsp;僧侶として名高い義教様ならば慈悲ある良い政治を行ってくれるに違いない、と。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし現実はそうなりませんでした。</div><div><br></div><div>&nbsp;実は義教には僧侶として優秀な反面、苛烈な一面も持ち合わせていたのです。</div><div>&nbsp;あるエピソードでは、侍女に対してお酌のやり方が下手くそだといって、その侍女に対して暴力を振るい、髪を切り落としてしまったという話もあるぐらいです。</div><div>&nbsp;現代ならパワハラ通り越して傷害事件です(･_･;</div><div>&nbsp;こういった苛烈な面を評して、<font color="#ff0000"><b><u>万人恐怖</u></b></font>という言葉が残っています。</div><div>&nbsp;さらには織田信長に先んじて比叡山を焼き討ちしてたりします。比叡山が攻められたのは信長が初めてではないのです。</div><div><br></div><div>&nbsp;こんな義教ですが将軍としては優秀でもあったようで、落ちぶれていた幕府を一時的とは言え立て直したり、各地の反乱分子を沈黙させたりなどという功績もあります。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし義教は苛烈すぎました。ある意味彼の最期は必然だったのかもしれません。</div><div><br></div><div>&nbsp;義教は家臣の赤松満祐の招待を受けます。名目は池で飼っている鴨の子がたくさん生まれたということと、結城合戦という関東の反乱を収めた戦の慰労というものでした。</div><div>&nbsp;祝宴は盛大なもので、義教は猿楽を楽しんでいたと言われています。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし凶刃はすぐそこに迫っていました・・・。</div><div><br></div><div>&nbsp;突如として門の閉まる音が屋敷に響きました。屋敷では馬がいきなり暴れ出すということが。</div><div>&nbsp;義教は「何事であるか⁉︎」と怒鳴りつけます。</div><div><br></div><div>&nbsp;その直後、甲冑を着た武者達が祝宴に乱入。そして義教の首を一瞬にして刎ねました。</div><div><br></div><div>&nbsp;この事件が俗に言う<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>嘉吉の変(嘉吉の乱)</u></b></span></font>という事件です。</div><div><br></div><div>&nbsp;将軍が自分の家来に殺されるというこの事件は室町幕府の権威を著しく損ないました。</div><div>&nbsp;これを機に室町幕府は転がり落ちるように弱体化していきます。研究者によっては、これが戦国時代の始まりと捉える人もいるようです。</div><div><br></div><div>&nbsp;<font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b>3.</b></span></font><font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><i>応仁の乱勃発</i></b></span></font></div><div><br><span style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0);">&nbsp;かくして弱体化していく室町幕府。時代は進み、時は8代将軍</span><font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>足利義政</u></b></span></font>の時代へと進んでいきます。</div><div><br></div><div>&nbsp;義政は先ほどの義教の三男として生まれました。本来は将軍にはなれない立場でしたが、兄の義勝が若くして亡くなったため、彼に将軍の椅子が回ってきました。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし、彼は政治に興味を失っていきます。というのも、幕府のどうしようもない現状と、各地で発生する一揆などが原因です。</div><div>&nbsp;もともと芸術に精通していた文化人であったため政治には興味はなかったのかもしれません。</div><div><br></div><div>&nbsp;やがて政治にうんざりし始めた義政は弟の<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>義視</u></b></span></font>に将軍職を譲ろうとします。義政は、妻の<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>日野富子</u></b></span></font>との間に子供がなかなか産まれませんでした。その為、なかなか将軍を引退できず仕方がないので、弟の義視に職を譲ることとしました。義視はすでに出家し、僧侶となっていましたが、兄の頼みを受けて将軍になろうとします。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし運命とは妙なもので、そんな時に妻の富子は子供を、しかも男子を産みます。のちに<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>義尚</u></b></span></font>と呼ばれる少年を将軍にするべく富子は夫の義政に迫ります。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし義政、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに政治への興味を失っていきます。</div><div><br></div><div>&nbsp;この富子という女性、良くも悪くも行動力ありすぎな人です。自分の子供を将軍にするため、頼りにもならない夫を見限って、<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>山名宗全</u></b></span></font>という武将に協力を要請します。</div><div>&nbsp;宗全は幕府における<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>四職</u></b></span></font>という役職に就いておりました。この役職は現代でいうところの警察兼軍人といった具合の役職です。</div><div>&nbsp;先の嘉吉の乱において乱を平定するという功績を挙げ、この時点では幕府の中でも屈指の発言力を持っています。</div><div><br></div><div>&nbsp;対する義視はそれに対抗するため<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>細川勝元</u></b></span></font>という人物に力添えを頼みます。</div><div>&nbsp;勝元は<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>管領</u></b></span></font>という役職に就いている人物です。</div><div>&nbsp;三管領家(細川、畠山、斯波の三つの一族。彼らが交代で管領に就任する)というのがございまして、細川家はその一角の超名門出身という事になります。</div><div>&nbsp;当然権力も強大です。なにせ将軍に次ぐ幕府のナンバー2的立ち位置なのですから。</div><div><br></div><div>&nbsp;さらにはそこに他の管領家の内部紛争も絡んできます。他にもさまざまな守護大名たちが己が思惑を張り巡らせながらこの後継者争いに参戦していきます。</div><div><br></div><div>&nbsp;かくして京都に20万を超える軍勢が集結しました。義視派の細川陣営は<font color="#0000ff"><span style="caret-color: rgb(0, 0, 255);"><b><u>東軍</u></b></span></font>、義尚派の山名陣営は<font color="#ff7f00"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>西軍</u></b></span></font>として対峙。</div><div><br></div><div>&nbsp;ここに空前絶後の大乱にして戦国時代の幕開けたる<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>応仁の乱</u></b></span></font>が勃発するのです。</div><div><br></div><div><font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b>3.</b></span></font><i style="caret-color: rgb(255, 0, 0); color: rgb(255, 0, 0); font-size: x-large; font-weight: bold;">応仁の乱、その結末</i></div><div><br></div><div>&nbsp;ついに勃発してしまった応仁の乱。この戦いはあまりに大規模すぎました。</div><div>&nbsp;次々と繰り返される戦闘により京都は荒廃していきます。著名な寺社仏閣は無残にも破壊され、さらには神社が戦の舞台になることさえありました。</div><div>&nbsp;戦の激化により人々は京都から逃げていきます。それに伴い祇園祭といった祭りも当然中止されます。</div><div><br></div><div>&nbsp;さらにひどい事に、途中で義尚が東軍サイドに、義視が西軍サイドへ、と陣営が入れ替わるという珍事も発生。もはや将軍の後継争いなどどうでもよくなってきたのです。</div><div><br></div><div>&nbsp;この戦の途中で山名宗全、細川勝元といった中心人物は病死。もはや軍のトップが死亡し、指揮系統もよくわからない状況になっていきます。</div><div><br></div><div>&nbsp;結局、将軍の座は義尚に決定されました。この時点でもはや戦争の理由はなくなったように思われますが、戦争とは始めるのは容易くとも、終わらせるのは至難のようで、この後もグダグダと戦争が続いていきます。</div><div><br></div><div>&nbsp;結局、応仁の乱は11年も続き、京都は焼け野原と化し、何も残らない虚しい結果で終わりました。よく年号で人世虚しい(1467)で覚えられますが、まさしくその通りの結果となりました。</div><div><br></div><div>&nbsp;こんな生産性のない戦争を続けていたため、各地の守護大名は軒並み弱体化していきました。その大元締めの室町幕府は言うまでもありません。</div><div><br></div><div>&nbsp;なおこの時弱体化した守護大名の抜け穴を埋めていったのが地元の有力者である<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>国人</u></b></span></font>です。</div><div>&nbsp;この国人たちが後の<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>戦国大名</u></b></span></font>となっていくのです。</div><div><br></div><div>&nbsp;<font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b>4.</b></span></font><font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><i>おわりに</i></b></span></font></div><div><font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><i><br></i></b></span></font>&nbsp;応仁の乱は日本における戦の中でも屈指の大規模な戦争です。</div><div>&nbsp;その戦によって京都は深刻なダメージを負う事になってしまいました。</div><div>&nbsp;しかし京都の人々はたくましかった。</div><div>&nbsp;彼らは戦が終わると少しずつ京都に帰り始めてきました。そういった人たちが京都を自分の力で再興していこうとしていきます。特に裕福な富裕層が中心となり町は徐々に復活していきます。</div><div>&nbsp;これこそ戦国時代において強い自治力を持つ京都の始まりとも言えます。</div><div><br></div><div>&nbsp;そして息子に将軍職を譲り、隠居した足利義政ですが、将軍としては結果を残せませんでしたが、芸術面において彼が残した功績は極めて重要と言えるでしょう。</div><div>&nbsp;彼は自分の趣味のため、京都の東に山荘を設けました。その山荘は東に位置していたことから東山山荘と呼ばれました。</div><div>&nbsp;彼の趣味と芸術的才能はこの地で開花していきます。</div><div><br></div><div>&nbsp;その山荘には書院がありました。畳を敷き詰めた部屋と、襖が部屋を区切っていくというこの建築様式、<font color="#ff0000"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><u>書院造</u></b></span></font>はこれより後の日本建築に多大な影響を与えます。</div><div><br></div><div>&nbsp;さらに彼はその山荘を気に入り、次々と大規模な 建築物を作っていきます。そして義政の死後、それらは義政を弔うため寺として改められていきました。</div><div><br></div><div>&nbsp;その寺、慈照寺は、その見事さから建築からおよそ500年後世界遺産に登録されました。</div><div><br></div><div>&nbsp;そう、これこそ日本が世界に誇る<font color="#b9b9b9"><span style="caret-color: rgb(185, 185, 185);"><b><u>銀閣</u></b></span></font>です。</div><div><br></div><div>&nbsp;義政はこれより後の日本文化にとてつもない影響を残しています。</div><div>&nbsp;将軍としては無能の謗りは避けられないかもしれませんが、文化人としては超一流の人物だったのです。</div><div><br></div><div>&nbsp;なお余談ですが、京都に西陣織という高級な織物がございます。この織物は西陣という場所で作られたため西陣織と呼ばれています。</div><div><br></div><div>&nbsp;この西陣という名前はかつて西軍の本拠地、山名宗全の陣があったためそう呼ばれているのです。</div><div><br></div><div>&nbsp;さらに西陣織は応仁の乱で京都から逃げた職人達が、戦争が終結して京都に戻ってきてはじめた工芸品とも言われております。</div><div>&nbsp;</div><div><font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><i><br></i></b></span></font></div><div><font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><i><br></i></b></span></font><font color="#ff0000" size="5"><span style="caret-color: rgb(255, 0, 0);"><b><i><br><br></i></b></span></font></div><div><br></div><div>&nbsp;</div>
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<pubDate>Fri, 06 Apr 2018 08:46:42 +0900</pubDate>
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<title>第一回 関ヶ原の戦い</title>
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<![CDATA[ <div><div><br><font color="#ff0000" size="5"><b>1.</b></font><font color="#ff0000" size="5"><b><i>はじめに</i></b></font></div></div><div><font color="#ff0000" size="5"><b><i><br></i></b></font>関ヶ原の戦いと聞いてみなさんが思い浮かぶのはなんでしょうか？</div><div>「天下分け目」「西軍とか東軍とか」</div><div>そういったイメージが大きいと思います。</div><div>しかし関ヶ原の戦いに至るまでの経緯というのは意外と複雑だったりします。</div><div><br></div><div><font color="#ff0000" size="5"><b>2.</b></font><font color="#ff0000" size="5"><b><i>関ヶ原に至った経緯</i></b></font></div><div><br></div><div>&nbsp;まず関ヶ原を語るには豊臣政権のことを知る必要があります。</div><div>&nbsp;豊臣政権とは言葉の通り豊臣秀吉により作られた政権のことです。</div><div>&nbsp;秀吉は皆の知っての通り、織田信長の跡を継いで天下を統一した人物です。</div><div>&nbsp;彼は天下統一とともに関白とか太政大臣、つまり現在で言うところの総理大臣とかその辺よりもっと強い権力を手に入れます。(正確に言うと関東征伐という戦いの前にこれらの役職に就任していますので、天下統一以前ですが)</div><div>&nbsp;当初の豊臣政権の力は絶大でした。なにせ群雄割拠の戦国時代を制し作られた政権ですので軍事力は凄まじいです。実際鉄砲の保有数でいえばこの頃の日本は世界でもトップクラスだったそうです。また、刀狩りなどを行い兵農分離(武士と農民の差別化。当時は農民兼足軽とかが普通にいた)を推し進めて、常備軍を作り上げていきます。農民は農作物の収穫などで常に戦いに参加できるわけではないので、常に戦にでられる職業軍人を作ったわけです。これが士農工商という明治まで続く身分制度の始まりとも言われています。</div><div>&nbsp;さらに秀吉は全国の鉱山を己の手中に収めました。当時の日本は金や銀がガッポガッポ取れまして、この頃の日本の銀は世界で普通に流通してたりします。(これを日本銀という)例えば石見銀山とかが有名です。</div><div>&nbsp;これらの政策により豊臣政権は莫大な財力と軍事力を手に入れました。</div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;しかしこれらの栄華は長くは続きません。</div><div>&nbsp;秀吉は権力を手に入れるとともに、残虐な独裁者としての面も見せ始めます。</div><div>&nbsp;その最たるものが「秀次切腹事件」です。</div><div>&nbsp;秀吉には長く世継ぎが生まれませんでした。そのため甥の秀次に関白を就任させて、その後継者にしようとしました。</div><div>&nbsp;しかしタイミングが悪いことに、秀吉の側室の淀殿が懐妊、この時生まれたのが、後の大坂の陣の豊臣秀頼です。</div><div>&nbsp;跡継ぎが生まれたことにより、用済みになった秀次。そんな彼が邪魔になった秀吉は秀次を切腹に追い込みます。それだけでなく、秀次と親しかった者、妻、側室、侍女、挙げ句の果てに幼い子供達まで皆殺しにしました。これらの惨い事件は当時の人々までもが憤り非難したといいます。</div><div><br></div><div>&nbsp;以後秀吉の行動は精彩を欠くようになります。</div><div>&nbsp;そして豊臣政権に決定的な打撃を与える事件が発生します。</div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;俗に言う「朝鮮出兵(文禄・慶長の役 朝鮮半島では壬申・丁酉倭乱)」です。</div><div>&nbsp;秀吉は本来は明(中国)に侵攻したかったそうですが、その協力を断った朝鮮を明への足がかりとして侵攻を開始します。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかしこれらの戦略はあまりに無計画でした。</div><div><br></div><div>&nbsp;当初は装備の優位性によって優勢に立つ日本軍でしたが、朝鮮に明の援軍が到着すると形勢は逆転。徐々に日本軍は押され始め、一時休戦となります。慣れぬ土地と環境、補給線の維持などが日本軍に影響を与えたのは明らかでしょう。</div><div>&nbsp;しかしその四年後、日本と明の交渉決裂。再び朝鮮は戦火に巻き込まれます。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし、その直後に秀吉が病死。これにより作戦は中止。日本軍は撤退していきます。</div><div>&nbsp;結局この戦いで日本が得たのは兵の損害と国力の疲弊でした。各地の大名達も豊臣政権に対し反感を持つようになります。</div><div>&nbsp;さらに秀吉という絶対的支柱を失い、跡継ぎの秀頼は未だ幼い豊臣政権は徐々に瓦解。再び日本に戦乱の機運が高まります。</div><div><br></div><div>&nbsp;ちなみにこの頃の豊臣政権は五大老・五奉行という実力者達が政権を運営していました。</div><div><br></div><div>&nbsp;五大老・・・各地の大大名。圧倒的軍事力。</div><div>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 徳川家康 前田利家 上杉景勝</div><div>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 毛利輝元 宇喜多秀家</div><div>&nbsp;五奉行・・・豊臣政権下の官僚。領地は少なめ。</div><div>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 石田三成 浅野長政 前田玄以</div><div>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 増田長盛 長束正家</div><div><br></div><div>&nbsp;どこかで見たことがある名前がありますね(笑)</div><div>&nbsp;そう！関ヶ原の戦いにおける中心人物が登場しています！</div><div>&nbsp;</div><div><br><font color="#ff0000" size="5"><b>3.</b></font><font color="#ff0000" size="5"><b><i>関ヶ原前夜</i></b></font></div><div><br></div><div>&nbsp;さて、ここからいよいよ関ヶ原まで時代が進んでいきます。</div><div>&nbsp;上で書いたように、豊臣政権は五大老と五奉行により運営されていました。</div><div>&nbsp;しかし、徐々に家康がその野心をあらわにしていきます。</div><div>&nbsp;初めに家康は各地の大名と私的に婚姻などを推し進めていきます。</div><div>&nbsp;これ、豊臣政権のルールに則ると、本来は禁止された行為です。しかしこれを家康は無視。</div><div>&nbsp;これが面白くないのが他の五大老及び石田三成などの豊臣恩顧の武将達です。</div><div>&nbsp;しかし家康はかつての朝鮮出兵に目をつけます。実はこの件で豊臣恩顧の武将達の中でも対立が起こってました。実際に前線に行って戦闘してきた武将(加藤清正や福島正則など)と後方支援をしていた武将達(石田三成ら五奉行)の間で確執が生まれていたのです。無論後方支援も立派な仕事なのですが、前線で戦ってきた彼らからしてみたら後ろの方でラクしやがってという気持ちになるわけです。</div><div>&nbsp;そこで家康は「あいつらムカつくよな？俺もだよ」って感じで対立を煽るわけです。</div><div>&nbsp;基本前線サイドの武将達は体育会系な性格なのでこれに乗ってしまうわけですね。</div><div>&nbsp;家康はこれにより見事に豊臣政権の分断に成功したわけです。</div><div>&nbsp;しかし、すぐに戦争に発展かというとそういうわけでもなく当初はなんだかんだ言いつつも家康と</div><div>三成はうまくやっていきます。というのも緩衝材として家康と同格の大大名の前田利家がいたからです。彼が緩衝材となってギリギリの形で政権は保たれていました。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし利家の死とともにそれは終焉を迎えます。</div><div><br></div><div>&nbsp;緩衝材を失った豊臣政権は急速に不穏な空気となっていきます。ついには三成の暗殺未遂まで勃発するように。これを家康が仲裁したことにより、家康に急速に権力が集中していきます。もはや豊臣政権は崩壊状態となっていました。</div><div><br></div><div>&nbsp;その後、家康は各地の大名に年明けの挨拶をするように命令。しかし上杉家(五大老の一角)がそれを拒否。家康はこれを謀反の疑いとし、上杉征伐を開始。なお、上杉家の家老の直江兼続は家康に対して家康を非難する書状を送りつけます。これが俗に言う「直江状」です。</div><div><br></div><div>&nbsp;一方で石田三成はこれをチャンスと捉えていました。</div><div>&nbsp;家康が上杉の攻撃で畿内を離れたこの時こそが挙兵の好機として、親友の大谷吉継に相談をしたのちに、毛利輝元を総大将として挙兵、大坂にいる徳川方の武将の妻子を人質とし、徳川方の伏見城(京都)を攻撃、これを落城させます。これが関ヶ原の戦いにおける西軍となります。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし家康はこの動きを読んでいなかったわけではなく、すぐさまこれに対応。</div><div>&nbsp;評定を開き、自陣営を対西軍に意見を一致させます。</div><div>&nbsp;ここに東軍が成立します。</div><div><br></div><div>&nbsp;家康は上杉に対応するために東北の雄の最上家と伊達家に協力を要請。これにより勃発した戦いを慶長出羽合戦といいます。</div><div><br></div><div>&nbsp;北の後ろ盾を得た家康は一斉に西進。東海道と中山道の二方面から西軍サイドの城を落としていきます。なお中山道を進んでいた家康の息子の秀忠は信州真田家に足止めを食らい、関ヶ原本戦には間に合いませんでした。これは家康からしたら誤算でした。</div><div><br></div><div>一方、西軍側の動きは少々遅いものでした。そもそも西軍中心の石田三成は人望が薄く、軍全体の士気も高いものではありませんでした。西軍は大垣城で、東軍はそれを包囲する状況で睨み合っていましたが、家康は得意の野戦に持ち込むため、あえて大垣城をスルーしてそのまま大坂に攻め上がる素振りを見せます。</div><div>&nbsp;大坂を攻められてはたまらない西軍主力は大垣城から出撃。ついに両軍は関ヶ原にて衝突するのです。</div><div>&nbsp;</div><div><br><font color="#ff0000" size="5"><b>4.</b></font><font color="#ff0000" size="5"><b><i>本戦</i></b></font></div><div><br></div><div>&nbsp;さて、いよいよ関ヶ原にて衝突した両軍。戦闘の火蓋を切り落としたのは福島正則隊。福島隊は西軍方の宇喜多秀家隊に銃撃を開始。この時はまだ戦場には霧が立ち込めていました。その衝突を合図に各地で戦闘が開始しました。</div><div><br></div><div>&nbsp;当初の戦闘は西軍が優勢でした。兵力の面ではやや東軍が上回っていましたが、陣形を見ると西軍が東軍を取り囲むようになっていました。</div><div>&nbsp;軍隊にとっては挟み撃ちや包囲をされることは避けるべきことなので、この陣形は東軍にとって好ましくないものでした。</div><div><br></div><div>&nbsp;しかし西軍には不安要素があります。それはチームワークの欠如。もともと三成に人望がなく、寄せ集めのような陣営だったので、本気になって戦うような武将が少なかったのです。</div><div>&nbsp;対する東軍は自らの妻子を人質に取られ、さらにそれを行った首謀者が自分の大嫌いな奴という、まさに殺る気満々の状態なので士気は高いと言えるでしょう。</div><div><br></div><div>&nbsp;そしてこの戦いにおけるキーマンが一人。豊臣秀吉の親族にして、五大老の一角、毛利家の親戚筋の小早川家の養子となった小早川秀秋です。</div><div>&nbsp;彼はその領地の規模と軍事力によって西軍の主力を担っていました。</div><div>&nbsp;しかし彼は三成を嫌っていました。なぜなら彼は朝鮮出兵に出陣しておりました。その時三成の秀吉に対する秀秋についての報告により、秀秋は秀吉に叱責を受け、領地を減らされます。その時助けてくれたのが家康のようで、秀秋は家康に恩義があるわけです。(家康の取り計らいで領土は復帰)</div><div><br></div><div>&nbsp;そんな彼が布陣するのは松尾山という関ヶ原の南東に位置する小高い山。ここからは戦場も見渡すことができたでしょう。</div><div><br></div><div>&nbsp;そんな秀秋に家康が目をつけないはずがなく、結構早いうちから接触していたようで、家康が秀秋の陣に鉄砲を撃って脅したという話があるのですが、それを裏付ける史料はないですし、地形的に見ても無理があるそうです。</div><div>&nbsp;どちらにせよ早いうちから家康は秀秋に対して調略を仕掛けていたというのはほぼ確かのようです。</div><div><br></div><div>&nbsp;そんなことをされていたので見事に秀秋は東軍に寝返り！一気に形勢が逆転します。</div><div>&nbsp;さらには頼みの綱の毛利軍にも家康の調略の手は及んでおり、西軍に属しながらも一切行動することはありませんでした。</div><div><br></div><div>&nbsp;かくして本来包囲しているはずの西軍が逆に東軍に包囲されるという状況に陥ります。兵力にも劣り、士気も劣り、陣形でも劣れば勝てる道理はなく、 西軍は一瞬で崩壊します。</div><div>&nbsp;石田三成は伊吹山方面へと逃亡。大谷吉継は自害。多くの西軍諸将は討死及び逃亡。</div><div>&nbsp;関ヶ原の戦いは東軍の完全勝利で幕を閉じます。</div><div><br></div><div>&nbsp;ちなみに西軍に属している島津義弘という武将がいるのですが、彼は関ヶ原の戦いで敗色濃厚となると、敵中突破を敢行し、戦場を離脱するという荒業を成し遂げてます(笑)。これには東軍も相当驚いたらしく、後の島津家の本領安堵に役に立ったとか(島津の戦いぶりは凄まじく、徳川勢も勝った戦で死にたくないので放置したという話も)</div><div><br></div><div><br><font color="#ff0000" size="5"><b>4.</b></font><font color="#ff0000" size="5"><b><i>その後</i></b></font></div><div><br></div><div>&nbsp;その後三成の本拠地である佐和山を突破し、大坂城を開城させ、家康の目論見は完全に成し遂げられました。</div><div><br></div><div>&nbsp;石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三名は六条河原にて斬首。</div><div>&nbsp;毛利家は100万石の領地から30万石ほどに減封。</div><div>&nbsp;その他西軍の諸将の領土は改易(領地没収)および減封。</div><div>&nbsp;島津家は本領安堵。</div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;それにより空いた土地には東軍の諸将が入ることにより、徳川家の権力はますます高まることになります。</div><div><br></div><div>&nbsp;関ヶ原の戦いにて勝利を収めたことにより、豊臣家の権力はますます低下、対して徳川家の権力が増大したことにより、天下人の座が徳川家に移り始めていくのです。</div><div><br></div><div>&nbsp;まさにこの一戦は戦国から江戸へと時代が変わる重要なターニングポイントであると言えます。</div><div></div><div><font color="#ff0000" size="5"><b><i>&nbsp;</i></b></font></div><div><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180406/00/hiro-rekisi/53/b3/j/o0810108014164911677.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180406/00/hiro-rekisi/53/b3/j/o0810108014164911677.jpg" border="0" width="400" height="533" alt="{00BAFFCE-5E5D-4AE6-BB3E-6F40D1F825E0}"></a></div><br><font color="#ff0000" size="5"><b><i><br></i></b></font></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/hiro-rekisi/entry-12366147718.html</link>
<pubDate>Thu, 05 Apr 2018 18:36:06 +0900</pubDate>
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<title>ご挨拶</title>
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<![CDATA[ まだまだブログ初心者ですが、何か面白く書けたらなと思ってるのでよろしくお願いします。
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<link>https://ameblo.jp/hiro-rekisi/entry-12366055868.html</link>
<pubDate>Thu, 05 Apr 2018 18:29:27 +0900</pubDate>
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