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<title>hiroのブログ</title>
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<title>某宗教団体入信希望者の話</title>
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<![CDATA[ テレビで某宗教団体の特集をやっていた。<br><br>その中で入信を希望するある若者が取り上げられ、インタビューを受けていた。<br><br>その若者は「もう洗脳でも何でもいいから自分を変えたい変わりたい。そしてもっと優れた人間になりたい」と語っていた。<br><br>その宗教団体そのものの是非等々は置いておいて、この若者のこの言葉だけを聞くと、「素晴らしい。その向上心を持ち続け、更なる優れた人になれるよう頑張ってください」なんて言葉をかけ、更には自分の子供たちに「お前たちもこういう志の持てる人間になりなさい」なんて言う親まで出てくるかもしれない。<br><br>そこまでいかなくても、少なくとも世の中の大半はこの言葉に肯定的な考えを持つように思える。<br><br>でも、僕は思った、この言葉を肯定的に受け止めたり応援したりしてはダメだ。益々この若者の苦しみは増大し、そこから抜け出せなくなってしまう。そして偽りの人生でこの世を終えてしまう。<br><br>この若者の問題は何か。<br><br>それは自己否定しているところにあると思う。この若者は自己を肯定できていない。<br><br>世の中の常識や価値基準等で自分の本質を測ってしまっている。<br><br>違うんだよ。世の中の常識や価値基準は、この世間を生きていくうえで他人とぶつからない為の単なる道具に過ぎない。自分の本質はそんな安っぽい道具で測れるものじゃなく、もっと高次元の高尚なものなんだ。だから、そんな安っぽい道具なんかに囚われずに、自分を温めて行きなさい。<br><br>って言ってあげたい。
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11998775006.html</link>
<pubDate>Sun, 08 Mar 2015 06:28:03 +0900</pubDate>
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<title>パニック障害（2）</title>
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<![CDATA[ 最近久々に思い出したのだが・・・<br><br>‐‐‐<br><br>僕は25年ほど前にパニック障害になった。<br><br>処方されたメンタルの薬を飲むことは何が何でも嫌だった。<br><br>そんな中、森田療法の本をたまたま見つけ、その内容を自己流で実践してみた。<br><br>当時、発作（及び発作の予兆の不快感）に襲われないことだけが唯一最大の望みだった。<br><br>僕は、きちんと専門の先生の指導を受けずに何せ自己流でやったため、間違った方法を実践してしまったのかもしれないが、ただ「症状をありのまま事実として受け入れて、症状に囚われず客観視する」ということを、「症状が出ても怖がらず、見て見ぬふりして無視する（相手にしない）」と解釈して実践した。<br><br>症状は2週間ほどでかなり軽くなり、多少のビクビク感は残っていたものの、会社にも戻れた。<br><br>ただ、そのとき以来感じていたことは、自分が喜怒哀楽を失った人形のようになってしまった感覚だった。<br><br>不安感や恐怖感はなくなった（封じ込めた）。でも、ワクワク感や喜び、楽しいという気持ちなどを感じる感覚も無くなってしまった。<br><br>‐‐‐<br><br>今、僕は改めて思うのだが、メンタル症状は自分自身を無理矢理抑えつけている自分に対する心の叫び。<br><br>症状を排除しようとすることは勿論だが、症状を客観視（見て見ぬふりをする、無視、相手にしない）しようとすることも、本来実践すべきものではないのではないだろうか。<br><br>自分の心がその症状を現出させることによって精一杯の叫びを上げているのに、その叫びに応えず相手にしないとは何事か。<br><br>本当に今、僕は改めて思うのだが、そういう心の叫びを目に耳にしたとき、忌み嫌うのではなく、愛おしい自分自身の心の叫び（症状）を客観視ではなく、真正面から主観的に一生懸命受け止め、心がそこまでの叫びを上げざるを得なかったほど自分は素の自分の一体何を無理矢理我慢し抑えつけているのか、それを考えてみてほしいと思う。<br><br>おそらく、自分が無理やり我慢しているものは何か、容易に気づけると思う。自分はそれを既に知っていると思う。<br><br>そしたら、その我慢を取っ払ってやる。<br><br>心がそこまでの叫びを上げざるを得ないほど自分が我慢し続けてきたのだから、その我慢は社会（家庭を含む）における自分の地位を確保・維持するためにとてつもなく重要なもので、取っ払ってしまうと社会から抹殺されるほどの恐怖感を感じさせ得るほどの絶大なものと思われているかもしれない。<br><br>でもその我慢のおかげで、心はもがき苦しみ続け、ついにはその叫び声を上げたのだ。<br><br>本当の自分はそんな我慢なんかに価値を見出しておらず、そんな我慢なんかしたくないのだ。<br><br>僕は、当時それに気付かなかった。<br><br>症状を無視し続けた。心の叫びを無視し続けた。<br><br>そしたら、心の声が聞こえなくなった。喜怒哀楽を感じる感覚を失った。<br><br>僕はもう自分の心の叫びを決して無視したりしない。<br><br>むしろ、よく声を上げてくれたと歓迎する。<br><br>よりよい人生を送るため、もっと頻繁に叫びを上げて欲しいとさえ思う。<br><br>そして、その時々で自分が抑え我慢しているものを解き放つ。<br><br>それが何かは、他人には言い辛くても自分には明確に判っているはずだ。<br><br>そして、その我慢は取っ払っても自分が抹殺されることはない。<br><br>より豊かな人生が目の前に広がるだけだ。
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11977443621.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Jan 2015 13:35:56 +0900</pubDate>
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<title>本当の自分（素の自分、ありのままの自分）を受け入れるということ</title>
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<![CDATA[ 本当の自分を受け入れて、「楽」に人生を楽しみたい。<br><br>そう思い始めてここ数年、何とかして「本当の自分（若しくは本当の自分がやりたいと思っていること）」を見つけ出して、それを極めたいと思い過ごしてきた。<br><br>最初は、どこかの道の片隅にでもそれが転がっているんじゃないかと思って、一生懸命外の世界を見て回ってみた。<br><br>でも、見つからなかった。<br><br>次に、実は自分の中にそれは既にあって、今までの「社会人」となるべく受けた常識その他を含む世間の目等による洗脳のなかで自分の目に見えなくなってしまってるんじゃないかと思って、一生懸命それが見えるように神経を研ぎ澄まして内なる世界を見直すべく努めた。<br><br>でも、見つからなかった。<br><br>今度は、自分の目に見えなくなってるということが、実は自分の目だけの問題ではなくて、宝物は通常土の中等に潜んでいるから、「本当の自分」をそこから掘り起こしてやらないといけないのではないかと思って、覆っている「土」と思しきものを払い除けていくことを試みた。<br><br>でも、やはり見つからなかった。<br><br>そして日々のアルコール量だけが激増していった。<br><br>体もだるく、辛い。背中も痛い。もう体も限界に近い。・・・<br><br>そんな中で、ふと思った。<br><br>本当の自分を見つけようとしてここ数年繰り返していたことは、「今やっていることは間違っている。正解は他にある。」と信じて他所ばかりに目を向けることだった。<br><br>「自分の中に埋もれている本当の自分を掘り起こす」と言っている時でさえそうだ。<br><br>それは何を意味するか。<br><br>それは紛れもなく、自己否定に他ならない。<br><br>僕は本当の自分を見つけようとして、結果的に何年もの間、本当の自分を否定し続けていたのだ。<br><br>分かった！<br><br>だからだ。だから本当の自分を見つけ受け入れるということが叶わないばかりかアルコールが益々増えていってたんだ。<br><br>「本当の自分」、それは自分の本意であると感じてようといまいと、今、この瞬間自分がやっていることや思っていることなのではないだろうか。<br><br>そしてその時、「これは本意ではない。自分は○○でありたい。」と自己を矯正しようとする思いは、向上心ではなく、単なる自己否定なのではないだろうか。<br><br>それが本意でないと感じても、その瞬間瞬間の自分の行いや思いを、そこにある「事実」として素直に受け入れる・・・<br><br>それが自分だとしっかり認識する・・・<br><br>「自分は○○でありたい」と自己否定し自分の望む方向へ向けて自己矯正を試みることは、自己否定を延々と繰り返す結果を生み出すもの以外の何者も生み出さず、仮に自分の本意でなくともその瞬間瞬間の自分を事実としての自分として受け入れていくことが、実は「本当の自分」の実現に向けて後押ししてくれるものなのではないだろうか。<br><br>逆説的だが、正にそう思う。<br><br>そして、毎日朝からアルコールにばかり手を出していた自分を「なんでこうなんだろう。今日で絶対禁酒しよう。」と否定的・悲観的に思うのではなく、「これも本当の自分の姿なんだ。」と思ってみた。<br><br>なぜか妙に楽だった。何の抵抗もなかった。<br><br>そうしたら、「アルコールに手を出し続けさせることで、『おまえがいつまでたっても自己否定を繰り返すのに憤慨してるんだ！僕は不満なんだ！ストレス溜りまくりなんだ！』と、それを手段として、僕自身が僕自身に対して不満を訴え、警告を発し続けていたんじゃないだろうか。」とも思うようになってきた。<br><br>そしてここ数日、何の我慢も努力もなく、自然とアルコールの量が劇的に減ってきた。<br><br>また、先日久しぶりにパニック発作の前触れのような嫌な感覚が襲ってきたとき、「これも自分だ。何らかの自分自身からのメッセージなんだ。否定すべきものではない。Welcome!」なんて思ってみたら、その瞬間急に心も体もポカポカ・ワクワクし始めて、なんとも心地よかった。<br><br>不思議だけど不思議じゃない、なにか確信めいたものが、今は僕の中にある。(^-^)
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11966469237.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Dec 2014 15:43:14 +0900</pubDate>
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<title>脳トレ？</title>
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<![CDATA[ 脳トレ、脳トレって天下でも取ったかのように騒いでる人々…<br><br>まぁ、やりたきゃ好きなだけやればいいけど…<br><br>傍から見てると滑稽にしか見えない。<br><br>ひとこと言わせていただければ…<br><br>本当に必要なのは「心トレ」ですよ！<br><br>それも、「トレ」って「制御」する術じゃなくて「解放」する術！<br><br>そんなこと言っても、脳トレって騒いでる人々には多分理解できないだろな～…
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11955339401.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Nov 2014 00:00:01 +0900</pubDate>
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<title>命って・・・</title>
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<![CDATA[ 命って人生のためにあるんですよね・・・<br><br>人生が命のためにあるんじゃない。<br><br>でもそれを取り違えてる人が多い気がする。
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11921642572.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Sep 2014 02:12:18 +0900</pubDate>
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<title>「守り」に入るということ</title>
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<![CDATA[ 「守る」という言葉はどこか何かを育んでいるかのようなニュアンスさえ抱かせる嫌いがある。<br><br>でも、具体的に考えてみると「守りに入る」ということは、ドアを閉め、鍵を掛け、カーテンを閉め切りること。<br><br>この状態は、身体や財産の安全を確保するといえば多少は聞こえが良いが、よくよく見みてみると、単に「閉ざし、籠って」ているだけ。<br><br>何も「育んで」はいない。<br><br>「守る」という言葉の持つこのある種肯定的なニュアンスに騙されている人は多いのではないだろうか。<br><br>そして「守る」ことを良しとして日々の生活を送っているうちに、知らず知らずのうちに自らの心を「閉ざし」てしまっている人が結構多いのではないだろうか。<br><br>「守る」とは一時的な緊急避難の策であり、日々踏襲するものではない。<br><br>長年「守り」を継続させることにより、知らず知らずのうちに「心を閉ざし」た状況に恒常的に陥り、ドアの外の景色に気づかなくなってしまえば、その景色の美しさも享受できない。<br><br>楽しい毎日なんて送れるはずがない。<br><br>何か日々の生活に楽しさを感じられないという人は、自分が日々ついついやってしまっている「守り」を小さなものからでも外していってみてはどうだろうか？<br><br>例えば、好きな人には好きと言ってみるとか、素敵だなと思う人がいれば食事に誘ってみるとか、財布と相談ばかりして結局何も買わないようなことを止めてみるとか、将来の人生設計に頭を悩ますことを止めて今気の向くままに旅行に出てみるとか等々。
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11920709572.html</link>
<pubDate>Sat, 06 Sep 2014 08:01:16 +0900</pubDate>
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<title>理想と現実</title>
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<![CDATA[ 理想と現実は違う。そんな叶いもしない理想ばかり追いかけてないで、もっと大人になって現実的に物事を考えろ！…<br><br>なんて言葉をよく見聞きする。<br><br>でも目の前の現実に囚われずに理想を追求して初めて理想は叶うものだと思う。<br><br>「現実的に考えろ」と全てを悟ったかのように偉そうに言うヤツは、実は目の前のチープな欲に縛られて物事の神髄など見えてはいない。<br><br>「理想と現実」…<br><br>「『○○でありたい』と素直に願う心と『○○であるべき』と社会的模範解答をひねり出す頭」<br><br>原発問題にしろ砂浜が消滅している九十九里の問題にしろ、はたまた人の人生そのものにしろ、世の中で偉そうに「後世のため」とか「○○のため」とか言って「現実的」な策を講じていると主張・自負している人々は、その主張・自負に反して、社会からよく見られたい等といった「我欲」しか追い求めてはいない。後世に対する責任など微塵も感じてはいない。<br><br>人類は生来持ち得たその素直な理想を追求することで自分自身の幸福を実現・満喫できるだけではなく、後世に「住みよい環境を残す」という大きな責任を果たすことが出来るのではないだろうか。<br><br>いろいろ考えず、あるがままの「自然こそ全て」…そんな気がする。<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11917850205.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Aug 2014 14:28:01 +0900</pubDate>
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<title>最近自殺のニュースを見ていて思うこと</title>
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<![CDATA[ 最近自殺のニュースを見ていて、こういうフレーズが付いているものが気になる。<br><br>「○○さんは○年前に内科系疾患を患ったが手術（若しくは投薬または放射線治療等）は成功。しかし、その後重度のウツを患っていた。」<br><br>このウツは本来この人が悩まされなくてもよいものだったのではないだろうか。<br><br>医学に限ったことではないが、現代社会は偏った科学崇拝に陥っている。<br><br>無理矢理延命治療を行って本人が拷問に思いかねないことも、それを行わなければ医師が罰される。<br><br>また、患者側もどこかを患ったら、その病魔に戦いを挑むべく無理な治療でも受けないといけないというように洗脳されている。<br><br>でも、本当に病とは人間の敵であって撲滅すべく戦いを挑まないとならないものなのだろうか。<br><br>僕は最近、病とは人間の敵ではなくて、むしろ共存すべき「自然」であるような気がする。<br><br>そして、病は、その人がその人らしく自然に生きたとき、神様が示した「逝くべき時」に逝けるよう自然に導いてくれるものであるような気がする。<br><br>それを無理矢理手術等の無理な治療を行ってしまうことは神様の摂理に背くことになり、結果的に「逝くべき時」に自然に逝けなくなり、その結果、本来の天寿を過ぎて無理に生きるという無理が祟って本来患う必要のなかった他の病に陥ることとなるような気がする。<br><br>人間はもっと色んな意味で「自然の一部であって、自然と共存する」ことに目覚めるべきではないだろうか。<br><br>自然は自分たちの外に広がるものだけではなく、自分たちの内にも大きく広がっている。<br><br>そんな気がする。
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11908815584.html</link>
<pubDate>Tue, 12 Aug 2014 15:40:15 +0900</pubDate>
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<title>生きるということ、死ぬということ</title>
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<![CDATA[ 最近祖母の老衰が進み、「死」というものを現実味を持って正面から見つめ、そして考える時間が多くなった。<br><br>そのなかである記事が目に付いた。<br><br>僕の解釈で補足しつつ、一部を要約して引用させて頂くと次の通り。<br><br>===== 引用 =====<br><br>「呼吸」の「呼」とは「吐く息」のこと。「吸」とは「吸う息」のこと。<br><br>「呼吸する」とは「吐いて」それから「吸う」こと。その繰り返し。<br><br>決して「吸って」から「吐く」のではない。<br><br>赤ん坊が、母の胎内からこの世に生れ出て上げる第一声の産声は、この世に「息を吐き出す」ときの声。<br><br>そして「吐き出す」から次の息が「吸える」。「吸える」から「生か」される。<br><br>一方、産声に対して、臨終最後の息は「引き取る」という。「吐き取る」ではない。<br><br>最後の息は「吸い込む」。<br><br>「吸い込む」けど「吐けない」。「吐けない」から「死ぬ」。<br><br>===== 引用終わり =====<br><br><br>人間が「生きる」ということ、そしてそれを支配する自然の摂理は、「吐いて（output）」それから「吸う(input)」（言い方を変えると、「吐く」ために「吸う」）という流れになっていると思う。<br><br>しかし、現代社会は、具体的な使う目的(output)ありきでそのために必要な分だけ金銭を稼ぐ(input)ことを考えたり、食べる(output)ために必要な分だけ家畜の命をいただく(input)というふうにはなっていない。<br><br>全く逆。<br><br>こんな状況では、「生きる」ために「生」を受けた現世で、果たして真に「人間を生きる」ことが可能だろうか。<br><br>みんな死にもの狂いになって、金・権力・地位・その他諸々を「吸っ」て「溜めこむ」ことばかりを考えていて、何のために「吸って」いるのかを忘れている。<br><br>「吐けなく」なったとき・・・それは「死」を意味する。<br><br>だからみんな生きながらにして死んだような酸欠の息苦しい毎日のなかでもがき苦しみ、精神を病んでいく。<br><br>一度思い切り肺が空になるまで「吐き」きってしまって、人間としての幸福を味わうためのごく自然な第一歩を踏み出してみてはどうだろうか。<br><br>「『吐く』ために『吸う』」、「『吐く』ために『吸う』」、・・・<br><br>この呪文を毎日唱えてみるだけでも、軌道は修正されるかもしれない。<br><br>以前ブログで「インプット vs アウトプット」というのを書いたことを思い出した。
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11901583261.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Jul 2014 12:20:17 +0900</pubDate>
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<title>性の享受</title>
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<![CDATA[ 決して興味本位のふざけた話ではなく、大真面目な話。<br><br>以前のブログでも少し触れたが、僕はゲイだ。<br><br>子供の頃はまだ「好きな人に好きと言えない」程度の苦しみだったが、社会に出るころには「バレたらこの社会から抹殺される」という恐怖観念に常に追いかけられ怯えるようになった。<br><br>自分がゲイであるという性的指向を必死で抑圧して無理やり女性と付き合ってみようともしてみたが、これは単なる自分のエゴで相手の人生を犠牲にすることになると思ったし、何より自分に無理がありすぎて苦しくてギブアップ。<br><br>湧いてくる性欲を抑えきれなかったときに襲われる罪悪感と自己嫌悪。<br><br>暇な時間ができると性欲に襲われると恐れていたのか、無理やり毎日夜遅くまでやった残業そして休日出勤。<br><br>それでも暇な時間ができたときは、性欲を必死になって紛らわすためにパチンコ屋で丸一日過ごして５万とかスッたことも度々あった。それでも「性欲に流されなくてよかった」とホッとしながら、缶チューハイ片手に夜道をトボトボ家路に向かういつもの休日。<br><br>そんな毎日を３０年近く続けて・・・そして、数年前、自分から仕事を取ったら自分には何も残ってなく、ただただ空っぽになっている自分に気づいた。<br><br>まるで屠殺場で内臓をすべて抉り取られてお腹が空洞になって逆さに吊るされた牛のようだった。<br><br>「性」を分解すると「心」と「生」。<br><br>勝手に解釈すると「性」とは「心を生きる」という意味か。<br><br>そうすると、自分の「性」を受け入れられず抑圧し、そして仕事に逃避し続けてきた僕は、自分の「心」を「生きて」なかったということか。<br><br>だから４０半ばになって、「自分は一体何がやりたいのか分からない」という状況に陥って、自分の「心の中が見えなくなってしまった」のか。<br><br>「性」の話は疎ましいと敬遠されがちだが、実は人間が幸福な人生を送るうえでとても大事なことのように思う。<br><br>一人一人顔が違うように、「心」も、そして「性」も多種多様だと思う。<br><br>メジャーだと言われる異性愛でさえも、個々人が持つ「性」の中身は多種多様に渡ると思う。<br><br>そんな多種多様な「性」の重要性をもっとオープンに話し認知して、皆でごく自然にその多様性を受け入れていける環境が整ったら、個々人も何の障害もなく自然に自分の「性」を享受し、そしてそれは「心を生きる」ことそのものであり、幸福な人生の実現が叶うのではないかという気がする。<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiro1-50/entry-11894444065.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Jul 2014 11:31:41 +0900</pubDate>
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