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<title>onumahiroakinのブログ</title>
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<title>久しぶりにブログを描く。花粉症の話。</title>
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<![CDATA[ 久しぶりにブログを書いてみる。去年の９月ぶりに書いてみる。去年の９月から書いてないからもう７ヶ月くらいブログを書いていないことになる。もう７ヶ月もたった<br>。あっという間だ。（そういえばこの７ヶ月「馬」に一度も乗っていないし、馬肉も食べていない。ぼくは賭け事もやらないし、三年ほどロンドンに住んでいたけど、上流階級の遊びとされている競馬も見に行ったことがない。イギリスでは日本と違って上流階級の人たちがおしゃれなファッションに身を包み、社交界の乗りで競馬を見に行くそうだ。また今年の９月にロンドンに行くから、その時に機会があれば見に行こうと思う。）<br><br>何か人生を変えるような重大な変化がこの７ヶ月の間に起こったのかといえば、そんな大層なことは起こっていないかもしれないが、とりあえずこの前のブログから７ヶ月が過ぎた。この７ヶ月いろんなことがあった。人は半年の間でどのくらい変わることができるのだろうか。別に変わらなくてもいいのだが、変わることはたくさんある。変えたいのに変わらないこともたくさんあるけど。<br><br>変わる、変わらないという抽象的な話をすると、話がややこしくなる場合がある。人は常に変わっていくという考え方もあるし、結局同じだという考え方もある。要するに、変わる、変わらないという議論はどっちでも捉え方によって言えるわけで、とくにどうでもいいことかもしれない。すごい抽象的な話なのだ。どうでもいいんだ。なにもしゃべっていない。<br><br>一方で未来の目標からいまの自分を計ることは出来る。一つの視野を定めると抽象的な話も具体的になり、分かりやすくなったりする。目標に近づくことを「ぼくは変わった」と言えるし、目標にまったく近づけていない時は、「ぼくは何も変わっていない」と言えるときもある。まったく当たり前の話だ。うんうん。<br><br>一つ具体的にすると話がわかりやすくなって、いい感じになったりする。<br>ぼくの場合、IELTSのスコアをこの７ヶ月の間で幸運にも取ることが出来たので、そのおかげで僕の目標に一歩近づいたことは確かだ。<br><br>環境が変われば考え方も興味も変わることがある。初めて上京する人なんかは今まで大切に育ててくれた両親への感謝を抱くことだろう。あんなに早く家を出たかったのに、いざ親元を離れてみるとすごく寂しい、そんなこともあるでしょう。うんうんそうでしょう。<br><br><br><br>最後のブログはトマト杯について書いた。ぼくは今でもトマト杯が好きだ。居酒屋に行った場合、最初の2杯はビールで、そのあとは適当な頃合いを見計らってトマト杯を頼む。平均2杯くらいは頼む。二日酔い防止に良いそうだ。味もなんか健康的な味がするので、ぼくは結構好きなんだ。<br><br><br>結局、最近ブームの『健康志向』という波に乗りました。ってこと。<br>っていっても一体いつから「最近の健康ブーム」が始まったのかってことは、よく知らないけど、そのことには触れないことにする。<br><br>ぼくは一ヶ月に最低でも５回ぐらいは、いやそれ以上かもしれない、１０回以上かもしれないけど、『ダイエット』という言葉を会話の中で使う。なぜか『ダイエット」したい。目標は今より５キロ痩せることだ。無理して痩せる気はサラサラないけど、まぁなんとなくダイエットしたいらしい。すぐにその理由が何個かでてくるけど、とくにぼくがなぜダイエットしたいかなんて理由に興味がある人なんていないと思うし、とりあえずこの話はなかったことにしてもらいたい。<br><br>ではでは本題に入ろうと思う。<br><br>花粉症の話だ。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>みなさん花粉症に負けないで！！！<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>おやすみなさい。ちゃんちゃん。<br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 17 Mar 2013 01:18:07 +0900</pubDate>
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<title>トマト杯についての考察</title>
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<![CDATA[ 最近ふとしたきっかけでトマト杯をよく飲むようになった。一ヶ月前くらいから飲み始めたのかな。いつの見始めたかっていう正確な日にちは記憶してないけど、なんだかいつのまにか自分のなかの定番になっていた。<br>みんなトマト杯ってそんなに聞かないかも知らないから、一応作り方だけ説明しておく。<br>焼酎少々とトマトジュース少々。お好みで焼酎いっぱいにトマトジュース少なめでも可。<br>オレはどっちかというとトマトジュース多めが好きだけど、みんなと同じように酔いたい時は焼酎を多めにする。たまに酔いたい時ってあるよね。<br>そんな時のお供がトマト杯なんだよ。<br><br>で、けっこう自分が好きなものとか、まぁ趣味でもなんでもいいけど、そういったものって、たまぁ～に友達とかだれか親しい人とかと共有したくなる時あるよね？自分が好きなものを仲いい人と共有したり、好きなものを良さを誰かにわかってもらったりしたらうれしいよね！<br><br>とにかくみんなとトマト杯のおいしさを共有したいんだ！！<br><br><br><br>友達１０人くらいにオススメしたんだ、<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>1人しかおいしいって言わなかった。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>結局トマト杯よりトマトジュースの方が<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>おいしい！！<br><br><br><br><br><br>お休み～<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hiroakionuma/entry-11362914711.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Sep 2012 16:17:48 +0900</pubDate>
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<title>また歯医者に行ってきたの巻</title>
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<![CDATA[ 今日歯医者に行ってきた。二日おきに最近通っている。もう一回行けばもう終わりだ！<br>うれしい限り！ありがとうせんせい！！<br><br>歯医者なんて久しぶりだったから、あのドリルが肉をすこしだけ削る痛みを忘れていた。<br><br>『ギギギギィギーーーズズゥーーーーーギーーギギーーィ。』<br>『はい。』<br>『お口ゆすいでください。』<br><br>『がらがらがら、ごっ。ぺっ。』<br><br>『えっ？』<br><br>こんなに血がでるの？<br><br><br>この痛みをわすれないように毎日歯を磨こう！ごしごしごしごしやさしく毎日磨こう！<br><br><br>ジャーナリストのベンジャミン・フルフォード曰く、<br>『中曽根康弘は80年代に、日本の厚生労働相に圧力をかけて、日本の洗剤、シャンプー、歯磨き粉、あらゆる製品に避妊剤や女性ホルモンを混ぜることに参加したんです。日本の人口削減のために。日本の男性をインポにするためにやりました。』<br><br>なんか５０年前に比べて精子の数が半分になってるし、ちんこが小さくなってるらしい。<br>なんかいろいろと悪いものが日用品に入ってるらしい。<br><br><br>ではおやすみ～。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hiroakionuma/entry-11353112265.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Sep 2012 20:53:36 +0900</pubDate>
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<title>歯医者に行ってきたの巻</title>
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<![CDATA[ 昨日はおとといがっつり楽しんでしまったおかげで予想外の二日酔いに襲われ、風呂に行って吐いては水をのみ、また吐きそうになったら静かに横になり、そして布団の中に入りながら、一方では扇風機をかけつつyoutubeを見るという、そんな日でした。ウーロン杯という焼酎とウーロン茶でうまい具合に混ぜ合った液体を飲み過ぎました。一見するとウーロン茶の中のなにかの成分がアルコールの分解を助けると思いきや、飲み過ぎた場合そんなことはなく、そんなことは起こるはずもなく、いや少しは助けてくれたのかもしれませんが、昨日のぼくの酒臭さはウーロン茶のような無臭に近いにおいは全くしませんでした。<br><br>酒くさっ。<br><br>そして酒草。<br><br>そんな感じでした。<br><br><br>そして今日は二回目の歯医者に行ってきました。三日前に歯医者に行って、今日は二日目。半年以上前に左上の奥歯の銀のかぶせものがとれてしまって、神経むきだしのままそれから過ごしてきました。もちろん左側の歯を使える余地もなく、もし間違えて左上の奥歯でなにか食べ物をかんだ場合、それはもうすんごい痛みでした。そんな恐怖もあり、半年以上右の歯を中心に食べ物を食べていたため、右のえらの発達が著しく、極端にいうと顔が形の悪いなすみたいな感じになっていまいました。左側の輪郭はシャープな感じで、右側はえらの発達によりごっついです。筋肉がしっかりしています。<br><br>それで今日、歯医者二日目。施術はあっというまの五分ほどで終わり、ありがたやって感じでした。<br>九月の末にロンドンにもどるのですが、それまでには問題の歯の施術が完了すると先生に聞き、少しほっとしました。<br>ありがたや。<br><br>１１時前くらいに家に帰って来て、シャケを焼いてご飯と一緒に食べ、特に何もすることがないのでこの前買ってきた木田元さんの反哲学入門を少し読みました。文章がわかりやすく読みやすいのですが、どうしてもわかりづらい哲学を扱っている本の為、睡魔に襲われそのまま三時過ぎ位までお昼寝をしました。きっとシャケとごはんを食べてお腹いっぱいになったせいもあると思います。人間はらいっぱい食べたらダメですね。人間というか僕はばかになります。<br><br>そして三時過ぎに起き、すこし絵を描き、急に禁煙という二文字が頭の中を過りました。昨日は二日酔いだった為タバコもろくに吸えず、しかも今日たまたまタバコが切れていたのです。これはチャンスだと思いました。タバコをやめる。なんていい響きなのでしょう。僕は決心しました。<br>俺はタバコをやめて、また一つ自由になるんだ！！そんなことを思いました。友達の話によるとタバコ会社はタバコ依存を促すべく、依存性の高い化学分質をあえて入れているらしいです。だからやめられない。お金を踏んだくられている。でもやめられない。でもやめたい。でもやめられない。<br><br><br>じゃあやめてやろう。<br><br>僕は決意を固めました。<br><br>タバコをやめるにあたりタバコをやめたら起こるいいことをネットで調べテンションをあげました。そして禁煙七時間経過後あたりで、吸いたくなったのでネットで見つけたアドバイスを思い出しました。『タバコを吸いたくなったら音楽を聞く、あめを舐める、ジョギングする。』<br><br>『よし音楽を聞きながらジョギングしよう！』<br>僕は思いました。<br><br><br>ぼくは鍵だけ持って家を出て、６キロ強先のセブンイレブンまで目標を決めて走り出しました。足にまめを作りながらセブンイレブンの看板にタッチし、ノンストップで折り返しました。その後三キロくらい走ったところでしょうか、僕の２０メートル先でなんかイケイケのにいちゃんがかっこいいイケイケのジープを道に止めつつ僕のことを見ていました。遠くからでもわかったのですが、敵意とかなにかしらの怒りとか睨みつけるような仕草は彼にはありませんでした。僕は半裸で走っていたので、なんか知らないけどいちゃもん付けられるのかなって思いましたが、そんな気配はありませんでした。そして、だんだんと顔がはっきりしてきました。<br><br><br>彼は僕の親友でした。<br><br>彼は言いました。<br>『すぐわかったよ！なにしてんの笑』<br><br><br><br>その後財布を持たない俺はコーラを買ってもらい、たばこをもらい、ラーメンを奢ってもらいました。ほんとに外に出るとなにかが起こる、そんな日でした。<br><br>ありがとう！！！！<br>
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<pubDate>Mon, 10 Sep 2012 23:25:40 +0900</pubDate>
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<title>久しぶりに日記を書きます。</title>
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<![CDATA[ 今日は朝９時くらいにやけに重いまぶたをこすりながら起床し、パソコンのスイッチをつけました。<br><br>その後いつものように何となくyoutubeとfacebookをチェックし、ついでにgmailもチェックしました。<br><br>いつもyoutubeみるけど、自分が何を見たのかってことは案外すぐ忘れるものです。<br><br>Facebookも同じなのです、友達がなにをアップしようがなにしようが、自分に対する『いいね』の数やコメントが気になろうがなるまいが、悲しいことにあまり記憶にはのこらないのです。どういうことなんでしょう。<br><br>ぼくはyoutubeで見る動画に対してもそういう解釈をしています。<br><br>youtubeで見る動画はすぐ忘れてしまう。<br><br>そんな感じです。<br><br>今改めてなぜぼくがyoutubeでみる動画はあまり記憶に残らないと思っているかを考えると理由はいくつか要因というか、なんかそれっぽいことがいろいろ出てきます。<br><br>あたりまえの理由かもしれませんが、いろいろと出てきます。<br><br>まず一つ目にyoutubeはひとつ動画をみると隣に関連動画が出てきて、ほかの動画にどんどん飛べるわけですよね。<br><br>これが記憶の定着を遮る一つの要因ではないかと思うんです。<br><br>情報過多とそれがもたらす集中力の低下。<br><br>あまりにもバンバン動画を飛ぶもんだから、そりゃひとつひとつのムービーの記憶をはっきりおぼえているのは至難の技ですよね！<br><br>二つ目は、記憶を共有していないからではないのかなと思います。<br><br>というのは基本的にぼくの場合ではyoutubeをみるときはイヤホンして見ます。<br><br>一人で画面とにらみっこして、周りの音をシャットアウトします。<br><br>友達と見るときは別です。<br><br>友達といるときはお笑いや、BGMとしてyoutubeのなんかしらのPVを流す場合もありますが、二ヶ月くらい前にぼくの実家に戻ってきてからは友達家のほとんどはwifiがつながっておらず、パソコンをいじろうなんていう発想はありません。<br><br>そして今の季節はもう秋に顔半分突っ込んでしまいましたけど、まだまだ残暑というか夏の残り火みたいな儚い余韻があるわけです、そんなときに友達と集まってパソコンをピコピコといじくって遊ぶなんてのは、ぼくはなるべく避けたいと思っています。<br><br>つまり、友達とは外で、ときには内でもいいけどなんかパソコン以外の楽しいことをしたいと思ってます。<br><br>なんかなんか話がよくわからないところへ逸れていったような、いかなかったような。<br><br>そうやって友達と遊んだ記憶や彼女と一緒に映画館にいった記憶っていうのは結構覚えていると思うんです。<br><br>でもyoutubeでみた動画はわすれやすい、そうそう記憶を共有していないからなんです。<br><br>仮定ですけど、一つの原因としてあげられるんではないかなと思います。<br><br>友達と一緒にyoutubeの動画を見た場合は別です、そこには記憶の共有、そしてyoutubeが物語としてきちんと機能します。<br><br>あれめっちゃおもしろかったとか、あれ感動したという会話の交換が行われた場合、きちんとyoutubeの動画であろうとなかろうと、友達と一緒に、誰かと一緒に見た場合、そんなに簡単に物語の記憶はなくなりません。<br><br>ただ、ぼくの場合はyoutubeは基本的に一人で見ますし、見た動画についてどうこう友達や誰かと話すことはあまりしません。<br><br>動画を見た後にネットの書き込みや、動画を見ながらの書き込み（ニコ動）をするのであれば、もしかするとなんとなくしっかりと動画の記憶が残るかもしれませんが、ぼくは書き込みになぜか億劫な気持ちがあるんでできません。<br><br>なぜでしょう。<br><br>まぁ～なにしてもいいんですけど。<br><br>そんなに別にいちいち今日何の動画を見たかってのを記憶してなくてもなんにも不自由はしないんですけどね。<br><br>ただ、ぼくは今日一日なにしたかっていう日記を書こうと思って、今久しぶりに日記を書いているわけなのですが、朝一番にたしかにyoutubeを開いて何かしらの動画をみた気がするのですが、それがなんなのか、自分がなにを見ていたのか、全く覚えていないのです。<br><br>記憶がなくなっていることに気がついてしまったのです。<br><br>まぁ～寝ぼけて記憶がぼやぼや～っとしていたかもしれませんが、でもどうでしょう。<br><br>まぁいいでしょう。<br><br>でもでも、facebookはすごく便利ですね！<br><br>ぼくはfacebook依存症じゃないかと思うこともあります。<br><br>いやきっと依存症です。<br><br>ぼくがfacebookをはじめてのは２００９年の秋頃だと記憶しておりますが、いやまてよ、冬ごろじゃないか！。。。<br><br>まぁそこのところはあまり正確には記憶してませんがだいたいそのころ２００９年頃に初めてたわけです。<br><br>２００９年はぼくが初めてロンドンに留学した年でもありました。<br><br>そこの友達（日本人）からfacebookっていうmixiの世界共通版みたいなやつがあるんだよ！って紹介されたのがfacebookを知るきっかけでした。<br><br><br>あっめんどくさくなったので、ここで今日はやめます。<br><br>まぁ今日は念願の歯医者も行けたし、ポークカレーも食べれたんでいい日だったと思います。<br><br><br>おやすみなさい。
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<pubDate>Fri, 07 Sep 2012 21:48:01 +0900</pubDate>
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<title>モテキを観た。</title>
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<![CDATA[ オススメのドラマとかある？っていう話を友達としてて、オススメされたのが「モテキ」。<br><br>どうなんだろう？<br>「モテキ」ってけっこう日本で流行ったのかな。日本のドラマ事情とか流行ってるものとかそういう情報はミクシイくらいでしかチェックしてないから「モテキ」の知名度があるのかないのかわかんない。<br>もし知名度がなくてもみんな見てなくてもこのドラマはすごく良かった。<br><br>色々「モテキ」について書きたい思いもあるんだけど、なんかこれから見る人にとってネタバレみたいな感じになるのはやだからやめとこう。うん辞めとこう。あっやっぱり書こう。でも内容については全く触れません。ただおもしろいと思ったところだけ書きます。ちょっと。<br><br><br><br>しっかし今まで見たドラマでかなり上位に入るおもしろさだった。一口におもしろさっていっても色んな意味のおもしろさがあると思うけど、大きな括りのおもしろさっていう枠組みのなかでかなり上位に入る久しぶりにハマったドラマだった。<br><br><br>昨日サッカーして捻挫して酒飲んで足引きずって家に帰ってきて、まぁ夜の１０時くらいかな帰ってきたの。<br>それから友達からDVD借りてたの思い出してなんとなくみてみようと思ってかるい感じでみてみたんだけど、こりゃびっくり。<br><br>予想していたおもしろさが１０だとすると１００くらいのおもしろさがあったね。１０倍。いやちょっと言い過ぎかもしれないけど、今の気持ち的にはそのぐらいいっちゃても全然かまいませんって感じ。まぁ予想していたおもしろさが１０だとするとまぁ厳密にいうと１００ではなくて８０くらいかもしれないけど、まぁいい意味で裏切られた作品でした。<br><br>自分の中でなんかむかしあった「電車男」と似てるテイストかなと思ってたんだけど、それが１０っていう俺の期待値を出したんだけど、いやまぁー第１話で完全に裏切られましたね。オタクの要素もけっこうあると思うんだけど、なんていえば一番いいんだろうなぁー、なんかもっとさりげないオタクの感じを出してるんだよね。例えばさりげなく主人公の部屋に会田誠のポスターとか置いてあるんだよね。俺は特に全然オタクじゃないから、そんなにがっつりとオタク的な要素を見つけられなかったけど、それでもところどころに「いやーいいね！！」っていうなんか心の何処かにある自分だけの少しマニアックな部分をくすぐられる感じがしたね。きっとそういったちょっとビックリするような共感やいつの間にかキャラクターたちの人格に自己投影しちゃっているっていうすこし「はっ」とする体験みたいな感覚が味わえるかもしれない。様々なパーソナリティーを持ったキャラクターが登場するし、当たり前だけど思考とか感情って流動的じゃん。いつの間にか自分の感情って移り変わって、過去の自分に腹立ったり感謝したりするじゃん。なんかそんな感じ。<br>そこら辺がほんとうまく表現されてるなーと見終わった後思ったね。<br>ほんと単音じゃなくて倍音のような感じ。同じ人なんだけどいくつかの人格があるみたいな、一つの言葉なんだけどダブルミーミングが感じられるというか。<br>まぁ一見すごくわかりやすいパーソナリティーの持ち主かなって思っても、いやいやこれ案外違うかもっていう感覚ってあるじゃん。そんな感じ。<br>きっと登場人物たちの行動っていうか感情の動きが重層的で倍音的なんだよね。こう、たまに自分でも自分がなに考えてるのかわかんなくなるときってあるじゃん、そういう心理描写がうまいって思った。<br><br>まぁでもほんと音楽もやばいね。日本のポップってすっごくいいなーって思ったし、いっぱいほじくりたいなって思ったね。音楽だけでも十分聞く価値はあると思う。いい音楽ってほんと山ほどあるんだなーって思ったよ。<br><br><br>朝まで一気にみちゃったいました。全部で１２話あって大体5時間くらいみるのにかかるんだけど一気にみちゃいましたよ。ほんとなぜか徹夜みたいなことになってしまいました。おもしろすぎて。<br><br>ではでは。「モテキ」最高。<br><br>観てない人は一度だまされたと思ってレンタルしてみてください。あっネットにあるかもだけど、でも画質はなんだかんだ重要だよね。なぜか誰かにオススメしたくなるね。友達がひとに薦める気持ちがわかるわ。<br><br><br><br>ではでは。<br><br><br><br><br><br><br>あっ酒飲んでみるのがすごくオススメ！！！！<br><br><br><br><br><br><br>今週金曜日はセントマの面接！！がんばろう！！！！！<br><br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110510/01/hiroakionuma/bc/4f/j/o0621041211218840852.jpg"><img border="0" alt="onumahiroakinのブログ" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110510/01/hiroakionuma/bc/4f/j/t02200146_0621041211218840852.jpg"></a><br>演技もうまい！！モテキさいこう！！！！！！<br><br><br><br><br><br><br>　<br>
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<pubDate>Tue, 10 May 2011 01:01:13 +0900</pubDate>
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<title>あまり考えないほうがいいこと。</title>
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<![CDATA[ 今日はいつも月２でやっているサッカーをしてきた。でも今日はちょっと特別で、チャリティーイベントだった。けっこういろんなチャリティーイベントがロンドンで開催されている。<br>で、参加料として１０ホンド払い「play for japan」ってロゴが入ったリストバントを貰った。ロゴが「PRAY FOR JAPAN」じゃなくてよかった。言葉尻を捉える言い方かも知れないけど、何に対して「祈る」のかが分からないから。「祈る」のはどこか遠くにある手の届かない存在に対してであって、実際に現実に起きている問題に対して祈ったところで果たしてどうなのか、俺には良く分からない。<br>ただ、まぁそれはただの言葉のニュアンスであって、そんなのをいちいち気にしていても仕方がないと思うし、「PRAY FOR JAPAN」という名の下でいろんなチャリティーイベントを開催している人たち対して、日本人としてすごく感謝しているし、本当に暖かい気持ちでいっぱいです。<br>俺が言うのも少し変かもしれないけど、本当にありがとうございます。<br><br>それで今、なんとなく右の手首に付けている。なんとなくじゃいけないのかも知れないけど、なんとなく付けている。<br><br><br>いつ外すかはまだ分からないけど、今のところ外す気はないし外す予定もない。（そんなことはどうでもいいことかもしれない）<br>あの震災を意識させるものを身に付けるという行為は、うまく言えないけど、いいか悪いかという基準から考えれば少なくとも悪いことではないと思う。<br>ロンドンにいて日本の為に何ができるかと考えた時、結局、何もできそうにない自分っていうものが圧倒的に浮かび上がって来て、その都度無責任な自分と「play for japan」できない無力な自分を感じる。<br>抽象的な問題を考える時はいつもそんな空虚で大きくぽっかり開いた空洞が、いくつも心のなかに浮かび上がる。きっと抽象的っていうのはそんなものなのかなって少し思ったりする。<br>誰かの為に何かをする場合には、それはきっと具体的じゃなきゃいけない。<br><br><br>抽象的なものは良くも悪くも抽象的な心象をどこからか呼んでくる。<br><br><br><br>問題を大きくして、解決策や答え、ゴールのような目標が何も見えない抽象的な事柄は、自己世界の確立や、自分だけのパーソナル空間の線引きを助長する面ではうまく機能するかも知れないけど、現実的で実践的な社会と名の付くシステムの上だと、精神的な病や出口の見えない悩みのようなものを作り出す可能性を多く含んでいる。<br>それはいいことなのか悪いことなのかは分からない。もしそれがいいことなのか悪いことなのかが最初に分かっているのなら、きっと誰も悩むことはないんだと思う。<br><br><br><br>とりあえず、思うのは、抽象的な話はあんまりしないほうがいいってこと。<br>具体的な話が実生活では死活的に重要になってくるってこと。<br><br>実生活という面においては。<br><br>だから日本のことはあまりしゃべらない。あんまり正直喋りたくない。<br>ただ自分ができる範囲でできることをする。それしかない。<br><br><br><br><br><br>きっと関係性の中でどこかで全部が繋がっている。<br>すごくスピリチュアルな言説に聞こえるかも知れないけど、そうじゃないかなって最近よく思う。<br>だから自分ができることをしなくちゃならない。関係性の一部であり、全体としての自分として。<br><br><br><br><br><br><br><br>日本で具体的な行動をしている人がいっぱいいる。そんな人が人を幸せにしている。適材適所。<br><br>今の俺は具体的に生きなくちゃならない。<br>誰が望んでいるでもなく、今俺が望んでいる。<br><br><br><br><br>あっタイトルのあまり考えないほうがいいのは自分っていう概念のこと。話が繋がると思ってたけど、うまく繋がらなかった。笑。（強引に繋げます。）<br><br>一度この概念にどっぷり飲み込まれると、どうもちっとやそっとじゃ抜けられなくなる。俺はこっちに来てからずっと抜けられなくなった。それが悪いことなのかは分からないけど、その「抜けられない」っていう感覚は、ある種の悩みのようなものに近かったんだろうと思う。（ある意味「悩みのようなもの」として誤解してしまうほど姿形が似通っていたのかもしれない。）<br>その「抜けられない」感覚は日常生活に怠惰や無気力を運んでくる。そして、この日常の世界さえも抽象的なものに変えてしまう。<br><br>別に、頭の中で何を考えてもいいと思う。哲学や宗教的な宇宙論を考えても全然いいと思う。<br>それについて考えたり悩んだり学んだり、それって素晴らしいことだと思う。俺はそういった話が大好きだし、そういった物語にある意味救われてきた。<br>結局、何を考えても感じても、それはすごく素敵なことで、すごく自由なことだと思う。<br><br>ただ、最近自分に言いたいことは、生活は具体的に過ごさなきゃいけないんじゃないのかってこと。ちゃんとしたルーティーンを通して、しっかり繰り返しの日常を過ごさなきゃいけないんじゃないのかってこと。<br><br>具体的な生活者じゃなきゃ抽象的な話に説得力を与えられない。そんなことを思う。<br>説得力や人を感動させる力や人を引き込む能力は、具体的な生活者にしか持つことができない能力じゃないのかなって思う。<br><br>だから、（俺は自分に言っている。）しっかり生活しましょう。<br>いろんなことをぐるぐる小宇宙の中で考えてもいいけど、生活はしっかりやりましょう。<br>ちゃんとしっかり戻ってきましょ。この日常にしっかり戻って来ましょう。<br>行き過ぎてもその分しっかり戻ってくる。それが中観っていう考え方であり、中道っていう正しい生き方なんじゃない。<br><br>そういうことが一番大切なんだなって、すごく時間がかかったけど最近分かった気がする。<br>まぁあとはやるだけ。<br><br><br><br>具体的に春は過ごしましょ。そんな気持ちで毎日を過ごしましょ。<br><br><br><br><br>今、気持ちの中で長い冬が明けた気がする。ようやく、現実的な行動に焦点を当てて考えられるようになった気がする。<br><br>だから、気持ちがハッピー。<br><br><br><br>すごくうきうき。<br><br>何にもなくてもいいじゃない。何にもないわけがないんだから。<br><br><br><br><br><br><br>日常が一番の宇宙だよ。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>そんないつもの抽象的なブログでした笑<br><br><br><br>おやすみ。<br><br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110418/06/hiroakionuma/fc/cc/j/o0480036011172762155.jpg"><img border="0" alt="onumahiroakinのブログ" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110418/06/hiroakionuma/fc/cc/j/t02200165_0480036011172762155.jpg"></a><br>Hexstatic-Salvador<br><br>オススメ↑<br>
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<pubDate>Mon, 18 Apr 2011 05:37:07 +0900</pubDate>
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<title>ロンドンでの友達。</title>
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<![CDATA[ 先週から一週間友達が俺の部屋に泊まってた。<br>友達と言ったけど、六歳も上だから俺からしたら人生の先輩でもあるし、どこかお兄ちゃんのような存在でもあった。<br><br>一緒にサッカーやってたんだけど、先週まではサッカーの集まり以外で会ったり遊んだりすることはなかったけど、この一週間ですごく感覚的な言葉かもしれないけど空気感のようなもの、なんていうか人それぞれが出す何かしらの波長のようなものがすごく違和感なく近づいたような気がした。<br><br>本当にいい人で、先輩風なんていうものをまったく吹かず、ほんとこんな年下の社会経験がないくそ坊主と同じ目線で会話してくれていたような気がした。そんな風に年下の人と接せるかと自分自身に問いかけたら、きっと今の自分では難しいなーと思う。うん厳しいなと思う。うんすごく難しい。<br><br>けっこう、年上だからなんだって思ってしまう生意気な面がかなり最近まであったけど、やっぱり年上ってすごいなってこっち来てから肌で感じるようになった。がつんと上から見られるのは未だに好きではないけど、それでも学ぶところは誰に対してもきっとあって、例え自分が糞野郎と思っている人にもきっとあって、そういう学ぶべきところとか尊敬できるところが見当たらないのはきっと自分の価値観やらが盲点となって、見えないようにしているだけだなって少し思う。<br><br>まっでもそんな理想ばっかり掲げても今は生きて行けないし、まだまだ本当に未熟だし、そんな悟りの境地のような高みにはまだまだ足を踏みいれてないから、本当に嫌いだなと思う人には素直に嫌いだなと思うし、ある程度の距離を置いちゃう。でもたまに人のいいところを探す努力をしないときっと自分のいいところって思える範囲がずっとずっと狭くなって、散らかった心の部屋に引きこもって世の中敵ばっかりになってしまう気がする。<br><br>敵が多いと思っている人の人生って、けっこうもろくて息が詰まりそうで不自由そうだから、やっぱ嫌だな。<br>そうならないように時々あたりを見渡して今のポジションを確認できたらいいなと思う。<br><br>楽な心の状態で、楽な身体の使い方をすればきっと敵なんてものは存在しなくなる。<br>そもそも敵なんてこの世にはいないし、それを作っているのはほとんどの場合自分自身であって実際に敵なんてものは存在すらしていないと思う。<br><br>今はすごく心が平和。すごく静か。<br><br><br><br><br>こんな気持ちにされてくれたのもゆうとさんのおかげです。<br>蔭ながら今度のご活躍を期待してますし、応援してます。<br><br>本当に感謝してます。<br><br>ハッピーになりました。<br><br><br><br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110413/00/hiroakionuma/80/e8/j/o0170017011162804552.jpg"><img border="0" alt="onumahiroakinのブログ" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110413/00/hiroakionuma/80/e8/j/t01700170_0170017011162804552.jpg"></a><br> やくしまるえつこ　nekomeshi<br><br><br>この歌ここ二日聞きっぱなし笑<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hiroakionuma/entry-10859989164.html</link>
<pubDate>Tue, 12 Apr 2011 23:48:26 +0900</pubDate>
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<title>バイト辞めて気持ちがすごく軽い！！</title>
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<![CDATA[ <p>最近読んだ内田樹さんのブログで共感したブログっていったらちょっと生意気だけど、すごくためになったブログを乗せたいと思います。</p><br><br><br><br><br><br><br><p>発作的に思いついた本日の主題は「<wbr>自我の縮小という病態がストレスを強化する」というものである。<br>「自我の縮小」あるいは「自我の純化」は我々の時代の病である。<br>自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、<wbr>オレなりのこだわりっつうの？・・・<wbr>そういった空語に私たちの時代は取り憑かれている。<br>これは市場経済が構造的に追求する消費単位と消費欲望の最小化の<wbr>自動的帰結である。<br>消費単位の規模を「最小化」することをサプライヤーは要求する。<br>当たり前のことだが、消費単位が小さくなれば、<wbr>消費単位の個数は増えるからである。<br>四人一家が消費単位であるばあいには家に一台テレビがあればすむ<wbr>が、四人がそれぞれに「私は自分の見たいものを見たい」<wbr>といってプライベートテレビを要求すれば需要は四倍になる。<br>人間の頭数がそれほど増えないときは、<wbr>消費単位を小さく切り分けて、個数を増やすのが早道である。<br>８０年代のはじめバブル初期の消費文化の旗手だった糸井重里の最<wbr>初の小説のタイトルは『家族解散』であった。<br>思えば、<wbr>これこそが消費文化が消費単位の砂粒化を宣言した歴史的コピーで<wbr>あった。<br>家族解散は消費単位の爆発的増殖をもたらした。<br>解散した家族ひとりひとりはそれぞれに住居を求め、<wbr>それぞれに鍋釜や冷蔵庫やクーラーや自動車を求めたからである。<br>「自立」はマーケットサイズを拡大する。<br>だから、８０年代以降メディアは（<wbr>自立するだけの社会的能力のないものたちにまで）<wbr>家を出て一人で暮らすことを推奨したのである。<br>この時期に７０年代に流行した「同棲」<wbr>に対する社会的評価が著しく低下したことをみなさんもご記憶であ<wbr>ろう。<br>理由はご賢察のとおり。「自立」していた男女に「同棲」<wbr>されてしまうと市場規模が縮むからである。<br>そうやって日本人たちは、家族を破壊し、カップルを解体し、<wbr>砂粒化した個が、（<wbr>未来を担保にいれさえすればじゃんじゃん貸してくれる）<wbr>借金を享楽的に蕩尽することをほとんど「国民の義務」<wbr>でもあるかのように粛々と実践していったのである。<br>やがてバブル経済が破綻したあとも、<wbr>個の砂粒化趨勢はとどまらず、<wbr>それどころかグローバリゼーションの競争原理は国民たちを「<wbr>自己決定・自己責任・自分探し」というさらなる消費単位の規模縮小へと追いやったのである。<br>「自我の縮小」「自我の純化」<wbr>は市場が私たちに要求したものである。<br>買い手の自我の縮小を商品の売り手が要請するのは、<wbr>自我が小さければ小さいほど、「こだわり」<wbr>はトリヴィアルなものとなり、消費者の「こだわり」が瑣末化すればするほど、<wbr>それは商品製造の工程を減らすことに結びつくからである。<br>例えば、「雨具」というものを商品として提供するとき、「蓑」<wbr>や「番傘」や「防空頭巾」や「トレンチコート」<wbr>を提供しなければならない場合と、布の色と模様だけの違う「傘」を揃えればいい場合では「雨具」メーカーの「<wbr>雨具」製作のコストの間に千里の逕庭がある。<br>９９％の工程が同一で、最後の仕上げの１％だけ工程の違う「<wbr>ほとんど同じ商品」が「まったく違う商品」<wbr>として認知されるという消費者サイドの「差異コンシャスネス」の高さは、<wbr>生産者からすればこれほどありがたいものはない。<br>「自我の縮小」<wbr>は生産者サイドからの強い要請にドライブされたのである。<br>「オレなりのこだわり」のある人間は、自分とよく似ている人間（<wbr>端から見るとそっくりにしか見えない）<wbr>との間の差異と共生不能をうるさく言い立てる。<br>それは「キミにそっくりな個体がいくらもいるよ」<wbr>という指摘ほど彼のアイデンティティを脅かすものはないからであ<wbr>る。<br>だから、「縮小する自我」<wbr>にとって家族こそはまっさきに排除されなければならない他者とな<wbr>る。<br>それは生理学的組成も言葉づかいも価値観も身体運用も「<wbr>そっくり」<wbr>である家族の存在そのものが彼の唯一無二性を否定するからである<wbr>。<br>だから、<wbr>縮小する自我たちにとっては口うるさい配偶者も手間のかかる子ど<wbr>もも介護を要する親もおせっかいな隣人も口やかましい上司もしが<wbr>みつてくる部下も、すべては「自己実現・自分らしさの発揮を阻む」他者である。<br>主観的には彼らが「自分とぜんぜん違う」からなのであるが、<wbr>実際には彼らが「自分にそっくり」だからである。<br>限りなく自分に近いものを否定するところから始まる「<wbr>縮小する自我」<wbr>の自己同一性形成は思いがけない方向に突き進んでゆく。<br>というのは、「縮小する自我」にとっては、自分自身の凡庸さや、<wbr>身体の不調や、容貌上の欠陥や、贅肉や、臓器の異常までも「<wbr>自己実現を阻む」他者にカウントされるからである。<br>それは「自分の一部分」であり、<wbr>それとなんとか折り合ってゆくしかないという考え方は彼には浮か<wbr>ばない。<br>彼の幻想的なセルフイメージになじまないすべての彼自身の属性は<wbr>、「自分らしくないもの」として否定される。<br>彼が否定するのは自分自身の心身の「部分」だけではない。<br>ときには自分を「まるごと」否定することだって辞さない。<br>「縮小する自我」はどうも気分がイラつくぜ、<wbr>というようなときには通りすがりの子どもを刺し殺したりする。<br>「むかつきの解消を求める今の私」は、<wbr>それからあとの逮捕取り調べ裁判懲役・・・<wbr>という一連の経験に耐えねばならない「未来の私」を「自我」<wbr>にカウントしていないからそういうことができるのである。<br>彼は裁判では「あのとき僕の中にネズミオトコが入ってきて、『<wbr>殺せ』と命じたのです。やったのはネズミオトコであって、<wbr>僕じゃありません」というような遁辞をおそらく主観的には非常にリアルなものとして口にすることに<wbr>なるだろう。<br>どうして「僕」じゃない人間が犯した罪を「僕」<wbr>が引き受けなくちゃいけないんだ、と彼は考えるだろう。<br>まったく理不尽な話だ。<br>こんなふうに自我は限りなく縮んでゆく。<br>社会から与えられる自分についての外部評価を承認できないもの中<wbr>には、「諸君の評価は私の『自分らしさ』を満たしていない」<wbr>というメッセージを発信するために、自殺するものさえいる。<br>ここではもう「私の存在」さえも「縮小する自我」の「<wbr>自分らしい」メッセージの運搬具として道具的・<wbr>記号的に利用可能されているのである。<br>「自我の縮小」「自我の純化」の最終的な形態は論理的には「<wbr>自殺」ということになる。<br>というのも「自殺」こそは自己決定・<wbr>自己責任の究極のかたちだからである。<br>誰も私に代わって自殺を決定したり、<wbr>自殺を実行することはできない。<br>自殺する子どもたちの「遺書」<wbr>にはしばしば自殺を通じて社会にある種のインパクトを与える希望<wbr>が書き記されている（自分をいじめた級友に「罰」が下ること、自分を救えなかった教師や学校が社会的指弾を受けること）。<br>生きている自分より死んだ自分の方が「より自分らしい自分」<wbr>であるというこの自己意識の転倒は「自我への執着」がもたらす、<wbr>痛ましいけれども、論理的帰結なのである。<br><font color="#ff0000">自我というのは他者とのかかわりの中で、<wbr>環境の変化を変数として取り込みつつ、<wbr>そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」<wbr>のようなものであるという「常識」が私たちの時代には欠落している。<br></font>自殺する子どもたちは「常識」のない時代の犠牲者である。<br>だが、それが「常識」でなくなったのは、繰り返し言うが、<wbr>もとはといえば市場の要請に私たちが嬉々として従ったせいなので<wbr>ある。<br>というような話（とはだいぶ違う話）をする。 </p><br><p><a href="http://blog.tatsuru.com/2006/12/03_1913.php">http://blog.tatsuru.com/2006/12/03_1913.php</a> 　</p><p>内田樹の研究室「心療内科学会にて」からコピーしました。</p><p><strong><font size="5"><br></font></strong></p><p><strong><font size="5"><br></font></strong></p><p><strong><font size="5"><br></font></strong></p><p>ははーすごい。</p><p>すばらしいお話をありがとうございます。</p><br><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110326/05/hiroakionuma/0e/a6/j/o0260019511125910601.jpg"><img alt="onumahiroakinのブログ" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110326/05/hiroakionuma/0e/a6/j/t02200165_0260019511125910601.jpg" border="0" complete="true"></a> <br>内田樹さん</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/hiroakionuma/entry-10841580106.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Mar 2011 05:50:39 +0900</pubDate>
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<title>バイトやめて気持ちがすっごく楽。</title>
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<![CDATA[ <p>最近読んだ内田樹さんのブログで共感したブログっていったらちょっと生意気だけど、すごくためになったブログを乗せたいと思います。</p><br><p>発作的に思いついた本日の主題は「<wbr>自我の縮小という病態がストレスを強化する」というものである。<br>「自我の縮小」あるいは「自我の純化」は我々の時代の病である。<br>自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、<wbr>オレなりのこだわりっつうの？・・・<wbr>そういった空語に私たちの時代は取り憑かれている。<br>これは市場経済が構造的に追求する消費単位と消費欲望の最小化の<wbr>自動的帰結である。<br>消費単位の規模を「最小化」することをサプライヤーは要求する。<br>当たり前のことだが、消費単位が小さくなれば、<wbr>消費単位の個数は増えるからである。<br>四人一家が消費単位であるばあいには家に一台テレビがあればすむ<wbr>が、四人がそれぞれに「私は自分の見たいものを見たい」<wbr>といってプライベートテレビを要求すれば需要は四倍になる。<br>人間の頭数がそれほど増えないときは、<wbr>消費単位を小さく切り分けて、個数を増やすのが早道である。<br>８０年代のはじめバブル初期の消費文化の旗手だった糸井重里の最<wbr>初の小説のタイトルは『家族解散』であった。<br>思えば、<wbr>これこそが消費文化が消費単位の砂粒化を宣言した歴史的コピーで<wbr>あった。<br>家族解散は消費単位の爆発的増殖をもたらした。<br>解散した家族ひとりひとりはそれぞれに住居を求め、<wbr>それぞれに鍋釜や冷蔵庫やクーラーや自動車を求めたからである。<br>「自立」はマーケットサイズを拡大する。<br>だから、８０年代以降メディアは（<wbr>自立するだけの社会的能力のないものたちにまで）<wbr>家を出て一人で暮らすことを推奨したのである。<br>この時期に７０年代に流行した「同棲」<wbr>に対する社会的評価が著しく低下したことをみなさんもご記憶であ<wbr>ろう。<br>理由はご賢察のとおり。「自立」していた男女に「同棲」<wbr>されてしまうと市場規模が縮むからである。<br>そうやって日本人たちは、家族を破壊し、カップルを解体し、<wbr>砂粒化した個が、（<wbr>未来を担保にいれさえすればじゃんじゃん貸してくれる）<wbr>借金を享楽的に蕩尽することをほとんど「国民の義務」<wbr>でもあるかのように粛々と実践していったのである。<br>やがてバブル経済が破綻したあとも、<wbr>個の砂粒化趨勢はとどまらず、<wbr>それどころかグローバリゼーションの競争原理は国民たちを「<wbr>自己決定・自己責任・自分探し」というさらなる消費単位の規模縮小へと追いやったのである。<br>「自我の縮小」「自我の純化」<wbr>は市場が私たちに要求したものである。<br>買い手の自我の縮小を商品の売り手が要請するのは、<wbr>自我が小さければ小さいほど、「こだわり」<wbr>はトリヴィアルなものとなり、消費者の「こだわり」が瑣末化すればするほど、<wbr>それは商品製造の工程を減らすことに結びつくからである。<br>例えば、「雨具」というものを商品として提供するとき、「蓑」<wbr>や「番傘」や「防空頭巾」や「トレンチコート」<wbr>を提供しなければならない場合と、布の色と模様だけの違う「傘」を揃えればいい場合では「雨具」メーカーの「<wbr>雨具」製作のコストの間に千里の逕庭がある。<br>９９％の工程が同一で、最後の仕上げの１％だけ工程の違う「<wbr>ほとんど同じ商品」が「まったく違う商品」<wbr>として認知されるという消費者サイドの「差異コンシャスネス」の高さは、<wbr>生産者からすればこれほどありがたいものはない。<br>「自我の縮小」<wbr>は生産者サイドからの強い要請にドライブされたのである。<br>「オレなりのこだわり」のある人間は、自分とよく似ている人間（<wbr>端から見るとそっくりにしか見えない）<wbr>との間の差異と共生不能をうるさく言い立てる。<br>それは「キミにそっくりな個体がいくらもいるよ」<wbr>という指摘ほど彼のアイデンティティを脅かすものはないからであ<wbr>る。<br>だから、「縮小する自我」<wbr>にとって家族こそはまっさきに排除されなければならない他者とな<wbr>る。<br>それは生理学的組成も言葉づかいも価値観も身体運用も「<wbr>そっくり」<wbr>である家族の存在そのものが彼の唯一無二性を否定するからである<wbr>。<br>だから、<wbr>縮小する自我たちにとっては口うるさい配偶者も手間のかかる子ど<wbr>もも介護を要する親もおせっかいな隣人も口やかましい上司もしが<wbr>みつてくる部下も、すべては「自己実現・自分らしさの発揮を阻む」他者である。<br>主観的には彼らが「自分とぜんぜん違う」からなのであるが、<wbr>実際には彼らが「自分にそっくり」だからである。<br>限りなく自分に近いものを否定するところから始まる「<wbr>縮小する自我」<wbr>の自己同一性形成は思いがけない方向に突き進んでゆく。<br>というのは、「縮小する自我」にとっては、自分自身の凡庸さや、<wbr>身体の不調や、容貌上の欠陥や、贅肉や、臓器の異常までも「<wbr>自己実現を阻む」他者にカウントされるからである。<br>それは「自分の一部分」であり、<wbr>それとなんとか折り合ってゆくしかないという考え方は彼には浮か<wbr>ばない。<br>彼の幻想的なセルフイメージになじまないすべての彼自身の属性は<wbr>、「自分らしくないもの」として否定される。<br>彼が否定するのは自分自身の心身の「部分」だけではない。<br>ときには自分を「まるごと」否定することだって辞さない。<br>「縮小する自我」はどうも気分がイラつくぜ、<wbr>というようなときには通りすがりの子どもを刺し殺したりする。<br>「むかつきの解消を求める今の私」は、<wbr>それからあとの逮捕取り調べ裁判懲役・・・<wbr>という一連の経験に耐えねばならない「未来の私」を「自我」<wbr>にカウントしていないからそういうことができるのである。<br>彼は裁判では「あのとき僕の中にネズミオトコが入ってきて、『<wbr>殺せ』と命じたのです。やったのはネズミオトコであって、<wbr>僕じゃありません」というような遁辞をおそらく主観的には非常にリアルなものとして口にすることに<wbr>なるだろう。<br>どうして「僕」じゃない人間が犯した罪を「僕」<wbr>が引き受けなくちゃいけないんだ、と彼は考えるだろう。<br>まったく理不尽な話だ。<br>こんなふうに自我は限りなく縮んでゆく。<br>社会から与えられる自分についての外部評価を承認できないもの中<wbr>には、「諸君の評価は私の『自分らしさ』を満たしていない」<wbr>というメッセージを発信するために、自殺するものさえいる。<br>ここではもう「私の存在」さえも「縮小する自我」の「<wbr>自分らしい」メッセージの運搬具として道具的・<wbr>記号的に利用可能されているのである。<br>「自我の縮小」「自我の純化」の最終的な形態は論理的には「<wbr>自殺」ということになる。<br>というのも「自殺」こそは自己決定・<wbr>自己責任の究極のかたちだからである。<br>誰も私に代わって自殺を決定したり、<wbr>自殺を実行することはできない。<br>自殺する子どもたちの「遺書」<wbr>にはしばしば自殺を通じて社会にある種のインパクトを与える希望<wbr>が書き記されている（自分をいじめた級友に「罰」が下ること、自分を救えなかった教師や学校が社会的指弾を受けること）。<br>生きている自分より死んだ自分の方が「より自分らしい自分」<wbr>であるというこの自己意識の転倒は「自我への執着」がもたらす、<wbr>痛ましいけれども、論理的帰結なのである。<br><font color="#ff0000">自我というのは他者とのかかわりの中で、<wbr>環境の変化を変数として取り込みつつ、<wbr>そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」<wbr>のようなものであるという「常識」が私たちの時代には欠落している。<br></font>自殺する子どもたちは「常識」のない時代の犠牲者である。<br>だが、それが「常識」でなくなったのは、繰り返し言うが、<wbr>もとはといえば市場の要請に私たちが嬉々として従ったせいなので<wbr>ある。<br>というような話（とはだいぶ違う話）をする。 </p><br><p><a href="http://blog.tatsuru.com/2006/12/03_1913.php">http://blog.tatsuru.com/2006/12/03_1913.php</a>　</p><p>内田樹の研究室「心療内科学会にて」からコピーしました。</p><p><strong><font size="5"><br></font></strong></p><p><strong><font size="5"><br></font></strong></p><br><p>ははーすごい。</p><p>すばらしいお話をありがとうございます。</p><br><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110326/05/hiroakionuma/0e/a6/j/o0260019511125910601.jpg"><img alt="onumahiroakinのブログ" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110326/05/hiroakionuma/0e/a6/j/t02200165_0260019511125910601.jpg" border="0" complete="true"></a><br>内田樹さん</p><br><br><br><br>
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<pubDate>Sat, 26 Mar 2011 05:35:22 +0900</pubDate>
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