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<title>山田のブログ</title>
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<title>善なるものと神の意義－自殺しない生き方のために</title>
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<![CDATA[ 長い間、１０年２０年という単位の長い間、「善」というものはひどくあやふやで、だからそれは頼りにならないと思っていた。<br>１０代後半の年齢に達し、自己と他者を客観的に比べてみることができるようになればこれは同意してもらえると思う。<br>「絶対的な善などないのだ」<br>そう、無いのだ。少なくともあらゆる「善いこと」はすぐに「しかし副作用がある」とか「そうは言っても上手くいかない」とか「それでは一部分しか解決しない」とか、「こいつはいいな」と思った事もすぐに、ほんのちょっと視野を広げるだけで「いやイマイチだな」とわかる<br>要するに「なんでも解決！ な魔法のステッキは無いぜ」と知るのが普通だ。<br><br>しかしそれでも信じよう<br>それが「善」だ<br><br>意味が解らない？<br>そうだろう。<br>だってこれまで何度も何度も、いやそんなに繰り返していないかもしれないけど<br>何回かは「裏切られた」はずだから<br>「これでいい」と思ったこと、要するに「善いこと」は「実はそんなに善くないこと」だと、教わったのではなく、経験として知ったはずだから<br><br>しかしそれでも信じよう<br>それが「善」だ<br><br>正気なのかと？<br>無論だ。<br><br>「この生き方が自分を幸せにし、自分を取り巻く人々を幸せにし、そして間違いなく多くの人を幸せにし、その拡張の繰り返しで全ての人が幸せになる、そうした生き方なのだ」と信じること<br>それこそが「善」という概念が指し示すものなのだ<br><br>「正しい」のでもなく「より良い」のでもなく「善」だ<br>「全く間違いなくすべてのひとが幸せになる生き方が各々にあり、それらの中で私がそう生きて良い生き方を与えられている。だから私はこのように生きていて間違いは無い」<br>あるいは<br>「たとえ今このときに苦しんでいる人がいたとしても必ずそうした人々も満たされる時が来るようになっており、むしろそのために私がこうして生きていく必要があるのであって、だから私がいまこのようにそしてこれからもこのように生きていく事は一片の疑いも無く肯定される」<br>あるいは<br>「それに心身の全てを捧げて悔いが生まれることはないと約束されている」<br>それが「善」だ<br><br>狂っている、と思うだろうか<br>であれば問おう<br>むしろこれは過酷な問いであろうが<br>「君は生きていて君自身の幸福と君の周囲の人の幸福に間違いなく寄与していると言えるか？」<br>この問いに「はい」と留保なく返答のできる人間はいるのだろうか？<br><br>言葉にした事はなくとも、考えた事はなくとも、全ての「人」はこの「善」の概念の下に生きている<br>なぜなら「生きている事それ自体が苦痛であり、この生の時間が苦痛の継続でしかない」のであれば、苦痛を止めるために死ぬはずだからだ<br>マイナスを減らすためにマイナスの増加を止める<br>ただそれだけのことだ<br><br>もっとくだけて言ってしまえば<br>「生きてりゃそのうちいいことあるやろ」<br>これが「善」だ<br>「いいこと」そのものではなく「生きていればそのうちいいことがある」という概念が「善」なのだ<br>そして、なぜか我々はそう思えなくなってしまうようになっている<br>「生きてきていいことなんてひとっつもなかったし、どうもこれから先もいいことなんてひとっつもありそうにない」<br>だから我々は次々と自殺する<br><br>それはなぜか<br>こちらは少々難しい<br>端的に示すのであれば「宗教観の喪失した状態での科学教育」が原因と言うほかない<br><br>本来であれば「科学的思考＝懐疑主義」は「信仰をもつこと＝善へ至る真理があるということ」に裏打ちされた「生きるための方法論」であった<br>しかし現代日本に生きる我々は不幸なことに「信仰」を根腐れさせられ、「科学」のみを頼りに生きるように仕向けられた<br>いや、それは歴史の必然でしかなかったのだが<br>しかしこれは不幸の源泉と言うほかない<br>なぜなら「私は生きていて良い」ということ、「教わる事に従って生きていて良い。間違っていた場合は改めれば良い。知らなければ学べば良い。気づかなければそれでも良い。なぜなら「そうであること」を認められているからだ」という形の生を初めから奪われているからだ<br>「ほんとうにそうか？」という「科学的態度＝懐疑主義」の方が正しいものと教わってしまっているからだ<br><br>「私は生きていて良い」<br>「ほんとうにそうか？」<br>「間違いない。なぜなら神が我々をつくり、我々を導いてくださっている。そして私はそれに従っている」<br>「ほんとうにそうか？」<br>「私が誤っていたとしても、神は疑えない。私が誤っていれば、正しい導きが得られる」<br>これが正しい、というよりも「生きるため手段としての科学的態度が弁えるべき限界」だ<br><br>しかし我々は人が所与のものとして与えられるはずの「善＝神」を奪われている<br>一神教であるとか多神教であるとか、キリスト教であるとかイスラム教であるとか、仏教には仏があるのであって神はいないとか、そういう次元の「神」ではない<br>「ただお前は生きているだけであるが、それでよい」という意味での「善」を我々は奪われている<br>そういう意味での「神」だ<br>そしてそうした意味での「善＝神」は生活の中での信仰によって与えられる<br>朝夕にお経を上げる、位牌に供え物をする、朝日を拍手で迎える、「いただきます」と「ごちそうさまでした」は食物そのものに対しての言祝ぎと教わる<br>そんな素朴な信仰でいいはずなのに<br><br>どうしても解りにくければ「魂」でもいい<br>我々には「魂」がない<br>我々は我々が「ただ生きているだけで生きている」という事が許されていない<br>「ほんとうにそうか？」という問いをやめることができない<br>それが「魂の不在」であり「神の不在」だ<br>本来であればこんな状況は途轍もない知の格闘の末に到達するほとんど悟りの境地のはず（「神は死んだ」と言う例のアレだ）であるにも関わらず我々日本人は小学校でそれを得る<br>例えば「いただきます」は農家の人が一生懸命働いて食べ物を作ってくれたことにお礼を言うという意味なんだよ、と教わる事。そうしてこの世の機構の外にあるものを逐一否定していくことによって<br>ばかげている<br><br>あると信ずるほどの「魂」がない<br>肉体が存在する以上の「意味」がない<br>生きて生きてその果てに納得がいくような「死」はありえない<br>いつも「駅のホームからうっかり落ちて電車に引かれてバラバラ死体になる」程度の現実しかない<br>だから「快楽」しかこの生を肯定するものがない<br>「それでも生きていて良いのだ」と力強く肯定するものが何もない<br>虚無と言うべきだ<br><br>虚無の荒野、いや、虚無の虚空をさまよい泳いで真理に到達しようというほどの覚悟がないのなら<br>しかも「真理は本当にあるのか？」という疑問を抱えながら。つまり全ては徒労であったという終わりを見据えながら生きていくほどの覚悟がないのなら<br>祖父母の代にはあったはずの、ごく素朴な信仰に帰ったほうが良い<br><br>疑う余地のあるものを全て疑ってしまったら我々は我々自身の肉体以外の現実を持たなくなる<br>「魂」の存在は信じてよい<br>どのような「魂」がありうるのかを教えてくれるのが宗教だ<br>どのような「魂」であっても、それは良き生を送るために与えられていると知る事が「信仰」だ<br>様々な「魂」から生まれる一人一人の生が認められる<br>篤実なものでなくていい<br>ただそう、なにものにも依らずに生きられるほど強い自我を持つ事はかなり難しい<br>そしてそれほどまでに強い自我はおそらく社会と相容れない<br><br>だから他者の信仰を否定すべきではないし（それがどれほど愚かしく見えても）<br>ましてや自己の中の素朴な宗教心を疑うことはやめたほうがいい（友人の理解が得られなくても）<br>もし、自分の中にいままで気づかなかった宗教心、何かこの世のものではないものを信じる心、科学では証すことのできないものを見つけたら<br>それには素直に従ったほうがいい<br>それに従って生きる事が「善」だからだ<br><br>もし形が必要であれば近所の寺院なり教会なりを訪ねるといい<br>貴方が抱えている生活上の問題を解決してくれることはないだろうが<br>しかしどれほどの問題があったとしても、焦ったり悔いたり投げやりになったりするほどのことではないと教えてくれるだろう<br>「それでよい」と<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiroyamad/entry-11496765165.html</link>
<pubDate>Sun, 24 Mar 2013 00:08:52 +0900</pubDate>
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<title>ある人の物語は誰のための物語なのか</title>
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<![CDATA[ ツイッターでちまちま書き散らしていた事が少しまとまったので残しておく<br><br>「ロマン主義とは一人一人が物語を持つ事なのだ」というようなことを書いた。より正確には、「様々な手段によって個の力の強大化を目指すモダニズム（近代主義）の下において、たとえ卑小な個人だとしても尊重されるべき根拠はあるはずだというのが人権概念であり、それを物語の付与という形で保障するのがロマン主義だ」という意味合いになるだろうか<br><br>個人が物語を持つ場合においての、いわゆる「大きな物語」により多くの人々が参加し一体化するのがファシズム（全体主義）だと言える。ファシズムに至るいくつかの前段階に国家主義（ナショナリズム）や在郷主義（パトリオティズム）や共同体主義（コミュニタリアニズム）などがあると言っていい。これらは「大きな物語を共有する事」で個々人の存在意義を保障している。（共同体主義は「中くらいの物語」と言うべきかも知れない）<br><br>そうした「大きな物語」が信用ならなくなったので、個人が個人としての等身大の物語を持つ事を各個に承認しあう時代というのが第二次大戦以降であり、言葉を作ってしまえば「ポストファシズム」と言ってしまってもいい。誰もが義務感に駆られたように自分の物語を語り合う状態だ<br><br>そもそもの話で言えば「自分にまつわる物語を持つ」ことは「存在するだけでは存在が承認されない人々への慰め」なのだから、誰もが自分の物語を語るというのは不気味かつ情けない状態に社会が陥っているともいえる。そうした自己物語化を許容する枠組みとして「自己実現」などという思考行動様式も存在したりする<br><br>さらにそもそもの話として言えば、「物語があるという状態は誰のためなのものなのか」という問いもある。例えば生まれてすぐ死んだ赤ん坊の物語、生後一週間に死んだ赤ん坊の物語があるとして、それは誰のための物語なのか。「そりゃあ、その死んじゃった可哀相な赤ちゃんのためですよ」というのなら、生後数時間で死んだ赤ん坊の場合はどうなのか。分娩直後なら？ 産道を通ってきたときにはすでに死んでいたら？ そもそも流産なら？ 堕胎されていたら？ 胎盤形成が上手くいかなかったなら？<br><br>自意識を持つ前の存在に付与される物語がその胎児なり四分割卵細胞なりのためにあるというのが当然に滑稽であるのなら、つまりは語られるべき物語があるという事は、その物語の主人公のために物語が存在するわけではないのだ、という事が解る。<br><br>物語があるということはその物語を語る人とその物語を聞く人のためにあるということなのだ。そうなると「語られるべき」というときの「べき」はエクスキューズとして存在するということになる。つまり「こんな可哀相な人のことも私たち（話者と聴衆）は考えていますよ」というエクスキューズだ<br><br>そして話者と主人公が一体となっている「私の物語」を語ることの意味というものもこれで解りやすくなる。「私はこういう人生を歩んできたんですよ（これでいいですか？）」というエクスキューズに対して「なるほど貴方の人生はそのようなものなのですね（それもありですよね）」という承認になる<br><br>これは「個人が尊重されるべき」という人道主義（ヒューマニズム）に合致する。<br>しかしそんな事にどんな意味があるのだろうか？<br><br>マスメディアが発達し多くの人が「物語」に接する事で、自己の生を「物語化」しようとすることが珍しくなくなった。老若男女が大なり小なり物語の中に自分を投入し、あるいはそれが個人に収めるには過大な物語であったり非現実的な物語であれば「中二病」であるとか「宗教乙」であるとか言われている<br>伝統宗教であっても、その物語の中に自己を投入しているという意味においては大差はないのだが。前世に世界を救った戦士であると信じる事と来世にたいそう幸せな状態を神様が用意してくれると信じる事にどの程度の違いがあるのかを明示できる人間はそれほどおるまいし、異世界や平行世界は存在するんだという確信と彼岸此岸の在り方の違いをプラトニズムからしっかりと説明できる人間はそうそういないだろう。魂の有無と心脳問題を切り分けて考える事にしてもそう<br><br>ロールモデルもストーリーも存在しない生は辛いかもしれないが、ストーリーを持つ事（＝目標を持つ事）を強要するのもまた残酷な事だと思う<br>自分が自分の物語を持ってそれを人に語るのは勝手にすればいいしそうした公開自慰を人生の愉しみとするのも勝手にすればよいのだが、「ねえ！ 君は将来どうしたいの！？」などと言って共同マスターベーション大会に他者を巻き込むべきではないと私は思うのだ<br><br>夢や希望のない生はつまらない、目標を持たない生は残念なものだ、というのなら<br>その牢屋いろいろと暇つぶしの玩具あって楽しそうですね。とりあえず鍵は開いているので扉も開けておきますけど見えてますか<br><br>と伝えておこうか<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiroyamad/entry-11477159909.html</link>
<pubDate>Sun, 24 Feb 2013 00:38:08 +0900</pubDate>
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<title>人権を掛け算で考えてみたらどうか</title>
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<![CDATA[ ツイッターで連投したのでまとめる<br><br><br>ふと気づいた人権とは数値化するならば掛け算で扱われるべきものなのではないか<br><br>基本的人権、という風に言った場合、誰しも人権「１」を持つ<br>しかし、一万人の人権を守るために一人の人の人権を侵害したらどうか。１万人は「１」がまもられ、ある一人の人は「１→０．５」と侵害される。足し算の考えならこんなものは誤差レベルだしかし人権が本来は掛け算で扱われるものなら<br><br>誰か一人の人権が「０．５」になったのなら、その社会のすべての人はその掛け算により「０．５」になる<br>なぜなら、ある特定の人が当然に人権を０．５侵害されるのなら、別のある人が同一の境遇におかれた場合、１→０．５の人権侵害は当然に考えうるからだ<br><br>馴染むぞ<br><br>別のある人がまた異なる事情により人権を「１→０．７」に侵害されたら<br>「０．５」の人と「０．７」の人は異なる事情によって人権を侵害されているのだから、その組み合わせた事情に陥った人は「０．５×０．７＝０．３５」まで人権が侵害されうる。組み合わさればより深刻であるという状況にも馴染む<br><br>なるほど公共の福祉とは掛け算であった。最大多数の最大幸福はそれはそれでよかろうが、全ての人の人権「１」が守られなければその社会全体の人権が低下していく。だから人は公共性を持たねばならない<br><br><br>以上、ちょっと訂正した<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiroyamad/entry-11391008587.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Oct 2012 20:08:00 +0900</pubDate>
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<title>自転車操業的社会保障改革案</title>
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<![CDATA[ なうで垂れ流したのをせっかくなのでまとめておく<br><br><br><span class="entry"><span class="text">年金制度が破綻しているのは言うまでもない。破綻した制度を継続させようとするから、この不景気に大増税なんていう手を取るわけだ。かといって年金減額、老齢期の社会保障削減なんて、有権者の多数をしめる老人たちにそっぽを向かれるし、マスコミも叩くだろう</span></span><br><br><span class="entry"><span class="text">要するに社会保障費を減らせればいい。６５歳だ６７歳だって言ったってまだ働ける人はそれなりにいる。この働ける老人たちをシルバー人材として活用する。これぐらいはどこの自治体でもやっているからそれを利用する。</span></span><br><br><span class="entry"><span class="text">希望登録制で「シルバー人材として働いた場合、年金支給額を割り増しした給付チケットを受け取ることができる」ようにする。本来はそのまま貰える年金を、まあ老人の手慰み程度の労働で割り増しするよ、という方向でアナウンス。決して「働かないと損！」みたいなイメージをつけてはいけない</span></span><br><br><span class="entry"><span class="text">お暇でしたらどうぞ、余力がある方はどうぞ、というシルバー労働のイメージが重要。そしてその「給付チケット」は本人が使う場合は自治体の発行する地域振興券として利用できる。本人以外では、「未成年者や障碍者など、福祉施設への寄付」にのみ使える。高齢者向け施設はダメ（悪用阻止の為）</span></span><br><br><span class="entry"><span class="text">そして最後のカラクリ。「給付チケット」による寄付は、「元の年金相当額は本来予算の充当に充てられる」とする。こうすることで、実質の寄付金額は老人たちの労働対価である割増額のみになる。しかしこれは市場労働対価より圧倒的に少なくてもいい。なぜなら老人たちのの暇つぶし趣味労働への対価だからだ。あとは制度運用の費用がかかるか</span></span><br><br><br>以上<br>ちょっと補足した<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiroyamad/entry-11361393142.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Sep 2012 20:04:04 +0900</pubDate>
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