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<title>ひるねクリッパー</title>
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<description>オタ話用にとりあえず用意してみました。</description>
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<title>触れ得ざる者</title>
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<![CDATA[ <blockquote style="border:1px dotted #7070a0; background-color:#dfdfff; padding:12pt;">敢えて問うなら答えもしよう。望むることはささやかなりし。<br>この腕に掻き抱けるだけの夢でいい。この胸に納まるだけの真実でいい。<br>例えて言うなら、その名は「フィアナ」。フィアナこそ我が命。フィアナこそ我がさだめ。<br>『装甲騎兵ボトムズ・赫奕たる異端』最終回「触れ得ざる者」。ああ、まさにその名の如くに。<br></blockquote><br>『装甲騎兵ボトムズ』のTV本編から32年後のアフターストーリーとして製作されたOVA作品『赫奕たる異端』は、ヒロインであるフィアナの扱いを巡って、ファンの意見が賛否両論激しく別れていた。特にキリコとフィアナのラブストーリー的側面を中心にして見ていたファンにとっては、せっかくTV最終回で美しく完結した物語をフィアナの死という形で損なってしまったという点が、どうしても受け入れられなかったようだ。<br>　私もTV本編の最終回で話を終わりにしておいたほうが、物語としては美しかっただろうと思う。ただ、敢えて続編として語られたキリコとフィアナの物語は、決してフィアナの存在をないがしろにするものではなく、むしろキリコにとってフィアナの存在がいかに大きかったかを強調するものであったと思う。まあ、強調するだけなら何も殺さなくても他の手だってあったろうに、とも思うが。<br>　作中で「触れ得ざる者」という表現は、マーティアルから見た時のキリコと、キリコから見た時のフィアナという、二種類の異なった対象に向けて使用されている。この二つのベクトルは並行的に見られるべきものであるという意図だろう。一見全く異なるように見えるこの二つの視線は、見る者にとって対象が何らかの意味で絶対的な価値を持っている点で共通している。『赫奕たる異端』最終回予告の「例えて言うなら」という言い回しに、その視点が垣間見えるように思う。<br>　同時に、共通しているからこそ、この二つの“絶対的な価値”の間の懸隔もまた強調される。一方はマーティアルのほとんどの人物が（もしかしたらロッチナとテイタニア以外一人も）その姿を見たことすらない、いささか抽象的な“神殺しの男”としてのキリコであり、もう一方はキリコ自身が共に死線を潜り抜けてきたフィアナ。前者の価値の絶対性は抽象観念であるが故にマーティアルの人々の間でなんとなく共有されるが、後者の価値の絶対性はキリコ自身の胸の内にしかない。ゴウトたち３人組ならある程度理解しているだろうが、彼等とてキリコ本人ではないから価値を“共有”できるわけではない。キリコは彼にとって唯一の絶対的な存在の喪失を、「触れ得ざる者」の重みを、ただ一人で抱え込まざるを得なくなったのだ。<br><br>　……艶と儚さと力強さを兼ね備えた声によってフィアナというキャラクターに息吹を吹き込んだ声優の訃報に触れて、久しぶりにボトムズについていろいろと考えを巡らせていた。<br><blockquote style="border:1px dotted #7070a0; background-color:#dfdfff; padding:12pt;"><a href="http://www.cinematoday.jp/page/N0067868"><strong>声優・弥永和子さん、67歳で死去　シガーニー・ウィーヴァー吹き替えなど</strong>（2014年11月4日）</a><br><br>　シガーニー・ウィーヴァーやスーザン・サランドンの吹き替えなどで知られる声優・女優の弥永和子（やながかずこ）さんが1日に敗血症のため亡くなっていたことがわかった。67歳だった。<br>　所属事務所によると、通夜は6日午後6時より、告別式は7日午前11時より港区・青山葬儀所にて行われる予定。喪主は夫で声優の大塚芳忠が務める。<br>　弥永さんは他にも「装甲騎兵ボトムズ」のフィアナや「新・エースをねらえ！」の緑川蘭子、「幽★遊★白書」の佐藤黒呼などの声を務めていた。（編集部・中山雄一朗）<br><br>（<a href="http://www.cinematoday.jp/page/N0067868">http://www.cinematoday.jp/page/N0067868</a>）<br></blockquote><br>
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<pubDate>Fri, 07 Nov 2014 23:07:16 +0900</pubDate>
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<title>イスラエルの観光宣伝アニメ</title>
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<![CDATA[ 　駐日イスラエル大使館がアニメで観光宣伝をするという試みを始めて、ちょっとした話題になっているようです。<br><blockquote style="border:1px dotted #7070a0; background-color:#dfdfff; padding:12pt;"><a href="http://animeanime.jp/article/2014/10/29/20672.html"><strong>イスラエル大使館、日本スタイルのショートアニメで観光紹介　国際アニメーションデーに配信開始</strong>（2014年10月29日）</a><br><br>アニメやマンガ、キャラクターで、地域の魅力を紹介する自治体が増えている。そんな動きが日本だけで海外にも広がっている。<br>在日イスラエル大使館は同国の魅力を紹介するためのショートアニメを制作、国際アニメーションデーにあたる2014年10月28日にYouTubeでその第1話を公開した。作品は仲のいい姉妹がイスラエルに観光に訪れて、その楽しさを満喫するストーリー。日本のマンガやアニメのスタイルで描かれているのが特徴になっている。<br>今回のショートアニメは、在日イスラエル大使館が歴史的史跡だけでない、死海やリゾート、IT、そして豊かな緑、おいしい食事などのイスラエルの魅力をポップカルチャーを通じて紹介する第2弾である。第1弾は在日大使館初のゆるキャラ「シャロウムちゃん」を通じた広報だったが、これが好評だったことから今回のショートアニメ企画が実現した。日本スタイルのアニメでの広報活動は、こちらも大使館初だ。<br>アニメは「いいね！イスラエル～咲と典子の姉妹旅行～」とタイトルされ１話およそ7分のエピソード、全7話で構成される。第2話以降も順次配信予定だ。<br>……<br><br>（<a href="http://animeanime.jp/article/2014/10/29/20672.html">http://animeanime.jp/article/2014/10/29/20672.html</a>）<br></blockquote><br><br><iframe width="480" height="270" src="https://www.youtube.com/embed/UFT22S9euEI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><br>「日本スタイルのアニメでの広報活動」とありますが、実際に見てみると、アニメ自体の作りはテレビ放送されているようなセルアニメ風のものではなく、企業の広報サイト素材や業務用教育・研修ビデオなどでよく見かけるFLASHアニメに近いものです（エンドクレジットにサービスブランド名の出ている<a href="http://www.manganimation.jp/">株式会社Resorzという会社</a>が受注・実製作を行ったようです）。従ってアニメといっても、仲良し女子高生４人組がバンドを組んだり、僕と契約して魔法少女になるような今どきのアニメっぽいものを期待して見ると肩透かしを食らいますが、そもそも在外公館が観光宣伝をこういう形式の映像で行うこと自体が、いかにもジャパニーズ向けな現象ということなのかもしれません。<br>　公開された第１話の内容はさしあたり無難な観光案内になっていますが、最後にドラマ仕立ての“引き”を作って、続きを見たくなるような仕掛けが用意されています。むむ、やるな。しかし観光案内アニメでは、最後まで見てもアレとかコレとかの話題は出てこないんだろうな……<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiruneclipper/entry-11946059356.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Oct 2014 22:17:44 +0900</pubDate>
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<title>女の子でもガンプラバトルしたい！？</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141026/11/hiruneclipper/88/6a/j/o0320036213109534426.jpg" alt="" border="0" style="float:right;">『ガンダムビルドファイターズトライ』の主役陣はセカイ、フミナ、ユウマの三人組（トライファイターズ）ですが、３話まで放送されたところでは、ガンプラバトルを巡る物語は紅一点のホシノ・フミナが牽引しています。ガンプラバトル部の人数が減っていって、遂にただ一人の部員（部長）として残ってしまったフミナが、それでもガンプラバトルを諦めきれずに部員集めに奔走して、そもそもガンプラの存在すら知らなかったセカイを半ば強引にバトル部に引き入れたところから、この作品はスタートしています。ユウマはもともとフミナの幼なじみでガンプラバトルにも強い興味を持っていましたが、昔の手痛い敗北の経験が元で、本編開始の時点では一時バトルから身を引いていました。<br>　前作における主要女性キャラクターの位置付けと比べると、今作では明らかに女の子とガンプラの関係が異なった形で描かれています。前作のメインヒロインと言ってもいいコウサカ・チナはもともとガンプラ自体に興味があったわけではなく、気になるクラスメイトのイオリ・セイがガンプラに夢中になっているのに釣られて自分でも作るようになっていました（それでも作中ではっきり作っているのがわかるのはスターターキットとベアッガイIIIのみだったかと）。アイラは後半までガンプラバトル自体を嫌っていましたし、キララはトップアイドルになるための手段として仕方なくガンプラ製作を始めたという経緯があります。リン子さんは大量のガンプラを陳列したイオリ模型の実質的な店主ではありますが、彼女自身が必ずしもガンプラに強い興味を持っているようには見えず（完成したビルドストライクをセイにお披露目された時の様子から推測）、どちらかと言えばタケシやセイがガンプラに夢中になっている様子を楽しんでいるといった感じです。最終的には皆がガンプラバトルそのものにも強く引き込まれているようですが、それはガンプラバトル自体に惹かれたというよりも、あくまでも好意を抱いている身近な人間関係からの影響によってそうなったという流れになっています。<br>　フミナは明らかにそれとは異なり、むしろ自分が主導して周囲の男の子をガンプラバトルに引き入れています。また３話で登場した“ギャン子”ことサザキ・カオルコも、前作最終回エンディングの様子（と使用する機体のチョイス）から考えて最初は兄ススムからの影響だろうという推測は出来るものの、少なくとも本作の描写を見る限りでは、自分が好きだからこそガンプラバトルをしているキャラクターとして描かれています。さらにユウマが再びガンプラバトルを始めるに至るまでの最後の一歩は、なんと憧れのお姉さんたるセカイの姉カミキ・ミライに背中をひと押しされたことでした。<br>　総じて言えば、ガンプラバトルを巡る興味の持ち方が、前作と今作とでは男女逆転しているのです。一応作中での背景説明としては、３話でミライのモデル撮影シーンで「最近は女性でもガンプラを作る人が増えている」という語りが入っておりますが（層が厚くなった分だけそういう逆転現象が起きる可能性も増える？）、前作との差別化として面白い構図になっているのではないでしょうか。<br>
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<pubDate>Sun, 26 Oct 2014 11:00:00 +0900</pubDate>
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<title>『銀河鉄道の夜』（1985年アニメ版）</title>
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<![CDATA[ 　たまには護教的な本もじっくり読んでみようかと、15世紀中欧の修道士トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』（岩波文庫）を読んでおりました。人間や地上の世界にはそれ自体としては何等の価値も無く、全ての価値と栄光はただ神とイエスからのみ発するという信条で全体が貫かれており、なるほど宗教・信仰における信念を突き詰めるとこういうものになるのか、ということが読んでいるだけでビンビンに伝わってきます。21世紀に生きる読者は、ここから熱心な信仰の純粋さだけでなく、その半面の危うさをも行間から読み取るべきなのでしょうが。<br>　全体が短い章立てに分かれているこの本の中に、十字架を主題とした一章があります（第二巻第十二章「聖（とうと）い十字架の王道について」）。なかなか強烈なテンションですが、この本は全編がだいたいこんな感じです。<br><blockquote style="border:1px dotted #7070a0; background-color:#dfdfff; padding:12pt;">　次のことばは多くのひとには苛酷に聞こえる、「自分自身を否定して、あなたの十字架を執り、イエスに従いなさい」。けれども、次の極端なことばを聴くのは、それよりもずっとつらいことだろう、「呪われた者らよ、私を離れて、永遠の火の中に入れ」という。けだし、いま喜んで十字架のことばを聞き、それに従う者は、そのとき（最後の審判のとき）、永遠なる断罪の宣告を聞いたからとて恐れないであろう。そのとき、存生中、十字架につけられた者（キリスト）に身をならわせて来た、十字架の僕（しもべ）たちは、みな、すっかり安心して、審判者であるキリストに近づくだろう。<br>　そうとすれば、なぜあなたは、天国へ行く道である十字架を負うことを、恐れるのか。十字架にこそ救いがあり、十字架にこそ生命があり、十字架にこそ敵からの護りがあるのだ。十字架にこそ天上なる楽しい思いに身を浸す喜びがあり、十字架に心の堅い力があり、十字架に霊の愉悦がある。十字架にこそ、最高の徳、十字架にこそ聖さの完成がある。十字架において以外には、魂の救いも、永遠なる生命の希望もない。それゆえあなたの十字架を執り上げ、イエスに従いなさい。……（略）<br>　すなわち、すべては十字架にかかり、死ぬことにすべてが存するのだ。また聖い十字架と日々の苦行によらないでは、生命と真の内面的な安らぎへの道はないのだ。……（略）<br><br>（トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、1960年、p.91-92）<br></blockquote><br>　十字架そのものを集中的に語っているのはこの章くらいですが、宗教における象徴（シンボル）が信仰者にとっていかに絶対的な価値を持ち得るかがよくわかる一章であり、同時に一神教の伝統においてしばしば偶像崇拝の禁止というテーゼが提起される事情も、何となく見えてきます。ただのシンボルに対してこんなテンションで苛烈に没入する人を見たら、そりゃムハンマドも「こいつらシンボルばっかり崇め過ぎて神を見てねーぞ」と思ってしまうでしょうね。<br><br>　<img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141026/02/hiruneclipper/c5/97/j/o0360040013109333065.jpg" alt="" border="0" style="float:right;">　この十字架連呼を読みながら何となく連想したのが、少し前に見た1985年の劇場版アニメ『銀河鉄道の夜』の作中で、印象的な形で出現した巨大な十字架の事でした。上記の連呼と違って現れた回数は多くないのですが、ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道に乗ってから展開される主要エピソードのほとんどが、北十字から南十字に至るまでの途中の出来事として描かれており、作中でジョバンニが見聞きする様々な人々の人生とそこに現れる死生観もまたこの間にほぼ集中していることから、まるで、銀河鉄道の旅という形を取ってジョバンニに示された、人間の生死の運命にまつわる黙示の全体を、十字架が「アルファでありオメガ」（黙示録1:8）として括っているようにも見えます。<br>　本作を見てから改めて宮沢賢治の原作を読み返すと、いくつかのエピソードの付加や脚色はあるものの、全体としては驚くほどに原作の展開をほぼ忠実になぞって作られています。二つの十字架が幻想の鉄道によって示される人間の生死の運命全体の画期を為していると同時に、ジョバンニとカムパネルラとの最後の別れがこの二つの十字架の範囲から外れているという構成から、宮澤賢治の死生観やキリスト教観、特にキリスト教の可能性と限界について彼がどう認識していたのかを想像するのも、楽しいことでしょう。<br><blockquote style="border:1px dotted #7070a0; background-color:#dfdfff; padding:12pt;">そして北十字と南十字の二つの巨大な十字架。あのイメージも何か異様に迫ってくる存在感みたいなものがある。キリスト教の象徴的な神々しさとともに，日本人のなじんできたあの世や神への感じ方とは異質な，厳然としてそびえ立つ権威のようなものを感じる光景である。美しいが容赦ない規範のような光が示す天上への道……日本人の渡る来世はあそこにはないような気がする。<br><br>（<a href="http://www.hf.rim.or.jp/~noble/kaikan/ginga.html">「銀河鉄道の夜」この静謐な宇宙 ─ 4マルクの小部屋</a>）<br></blockquote><br>　この1985年劇場アニメ版『銀河鉄道の夜』は、キャラクターが一部の例外を除いて擬人化された猫になっています。ジョバンニたちが特定の人格的ビジュアルイメージに固定化されるのを避けるために、あえて誰にでも見えるし誰にも見えない動物キャラにすることで、原作の持つ強い寓話性を損なわないようにしたのかもしれません。また、もともと原作自体が有名な童話であり、昔からの読者それぞれの記憶の中にそれぞれのジョバンニやカムパネルラのイメージがあるでしょうから、そうしたイメージと反発しないように「誰でもない」キャラクターにしたという発想もあったのでしょう。いずれにせよ、本作のキャラクターは一種の無人称的な存在であり、そうした「誰でもない」キャラクターが「どこでもない」幻想第四次の世界を旅するという、二重に重ねられた強いフィクション性を帯びています。原作が一種の幻想文学であることと、この無人称キャラとは決して無関係ではないでしょう。<br>　本作の幻想性はこれにとどまらず、原作に準拠しつつイメージをさらに膨らませた背景美術にも見られます。スペインあたりの田舎町を彷彿とさせつつも基本的に無国籍的な印象を強く帯びたジョバンニたちの町。銀河鉄道の旅に入ってからは、車窓の内外に次々と非現実的な景色が現れます。北十字と南十字に輝く巨大な十字架はもちろんのこと、プリオシン海岸に横たわる巨大動物の骨の化石、鳥追いの狩人が立つ砂丘らしき場所とそこに飛来する無数の白い鷺、黒々とそびえ立つアルビレオの観測所の遺構のような巨大な建造物。そうした景色の中を時折り飛び去っていく、光る三角錐（原作の所々に出てくる測量用の「三角標」のイメージを膨らませたものでしょう）。<br>　その一方で、タイタニック事件をモチーフにした遭難者が乗り合わせるくだりでは、いきなりジョバンニたちの乗る車両の内外に、海難事故の現場の生々しいイメージが繰り広げられます。この遭難者３人（小さな姉弟とその家庭教師）は、本作の中で唯一、擬人化猫キャラクターではなく人間の姿かたちをしています。また、ジョバンニ以外にこの列車に乗り合わせた人たちが車両を出入りする時には大概がいつの間にかフェードインしたりフェードアウトしているのですが、この３人が車室に入ってきたり、３人を含めた遭難者（と思われる人たち）が南十字に到着した列車から降りていく時には、明確に車室の出入り口のドアを開けて出ていきます。タイタニック事件は（ジェームズ・キャメロン監督の映画を待たずとも）有名な海難事故であり、幻想性が支配する作品世界の中にこうした現実の海難事故のイメージが持ち込まれ、かつその部分についての描写が意図的に幻想性を薄められている（描写のリアリティラインが変わっている）ことで、本作は映像面でも強い「死」のイメージを強めています。<br>
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<pubDate>Sat, 25 Oct 2014 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>『ガンダムビルドファイターズトライ』開始</title>
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<![CDATA[ 　去る10月8日から、ビルドファイターズ続編の『ガンダムビルドファイターズトライ』（GBFT）の放送とネット配信が始まっています。<br>　私も早速見始めましたが、確かに相変わらず楽しい作品で、前作に比ると初手からバトルアクションがかなり増えていたり、前作よりずっとアクティブなヒロインが最初から物語を牽引しているなど、１話で視聴者を物語に引き込んでいく「ツカミ」はずっと強力になっています。<br>　ただ、あくまでも私の個人的な感慨として、十分面白い１話ではあるのですが、前作を見始めた時に感じた「これから何か新しいことが始まるぞ」という期待感やわくわく感がいまいち足りないな……などという思いもありました。とは言えこれは恐らく、GBFTがが前作の続編として作られているからだという、割と単純な理由によるものなのでしょう。考えてみれば、前作ではガンプラバトルの世界観自体が私のような視聴者にとっても初めて目にする世界なわけで、セイがレイジの力を借りながらバトルで勝ち上がりながら世界への視野を広げていく過程は、そのまま視聴者の視野が広がっていく過程でもありました。次々に強力なライバルが出現して絆が広がっていき、また世界大会という舞台も、セイという子供の視点からは新しい世界への入口でした。そして決勝進出と、その裏舞台を構成していたPPSE社とプラフスキー粒子の秘密とそれを巡る一大騒動に至って、その広がりは臨界点に達します。前作が終了した時点で視聴者は、作中世界を上から下まで一応はすべて経巡り切ったことになるのです。GBFTではその過程がいったんスタート地点に戻りました。前作とはまた異なる趣向を凝らせてくるだろうという期待はありますが、いったん前作で行き着くところまで行き着いている後で、これから広がっていく世界はまったく未知の世界というわけではありません。私が感じていた物足りなさの正体はたぶんそういうことなのだろうと思います。<br><br>　もちろん、本作には前作とは異なった本作独自の魅力があるのも確かなので、こういうことはあまり気にせず楽しんで見ていくのがいいでしょう。<br>　前作のヒロイン・チナのおとなしさとはうって変わって、今作のヒロインであるホシノ・フミナはガンプラバトル部存続のために、最初から率先してアクティブに動いています（どちらかというとセイの立ち位置に近いかも）。元気さだけでなく適度な色気も感じさせてくれるフミナは大変に魅力的で、カマキリ部長ならずとも心惹かれるキャラクターです。一方の主人公のセカイは、設定こそ大幅に違うもののどこか前作のレイジの面影を強く残しています。今後二人の仲間に加わっていくであろうコウサカ・ユウマについては、１話ではまだあまり描写されていないので次回以降に期待。何より驚いたのは、「カマキリ男」ことプラモ部部長のミヤガ・ダイキが、『ガンダムAGE』のオブライト・ローレインに見た目が似ているだけでなく、声までオブライトさんと同じ遊佐浩二だったことです。ただし性格はオブライトさんとだいぶ違ってイヤミでいけすかない奴のようで……。<br>
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<pubDate>Sat, 11 Oct 2014 17:59:26 +0900</pubDate>
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<title>『Gのレコンギスタ』と『仮面ライダードライブ』</title>
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<![CDATA[ 　今週末にスタートした新番組、『ガンダム Gのレコンギスタ』と『仮面ライダードライブ』。方向性は全然違いますが、どちらも作品自体の疾走感、言わば文字通りの「ドライブ感」が、ひたすら見ていて気持ち良い作風になっています。<br>『Gのレコンギスタ』のほうは、世界観の“説明”こそほとんど無いものの、映像やキャラクターの掛け合いによってリギルド・センチュリーの異世界感を“感じさせ”てくれます。とにかく好奇心の赴くまま前のめりに状況に飛び込んでいく主人公ベルリが、視聴者の視点をどんどん牽引してこの世界に導いてくれるので、最初のうちは難しいことは考えず、映像が見せてくれる世界にただ没入していけばいいのでしょう。例えば、いわゆる「富野台詞」は一度見ただけだと一つ一つのニュアンスが取れないということも多いのですが、最初から全てを理解できるなどと思わずに、ただ話が進むままに見ていけばよいのだろうという気分になります。（このあたり、たぶん現実の人間の会話と同じコミュニケーション感覚を、作品で再現しているようでもあります）<br>　もう一方の『仮面ライダードライブ』は、松岡充（仮面ライダーエターナル！）の歌うOP曲「SURPRISE-DRIVE」からして、とにかく超高速で突っ走る“戦士ドライブ”の疾走感を体現しています。主人公の泊進ノ介には一応物語上のトラウマ要素もあり、今後もその要素が物語に絡んでくることはあるでしょうが、まずは１話の段階で「前に走り出す」モチベーションを強く打ち出して、勢いよく新ヒーロー誕生を印象付けています。相棒（「ベルトくん」ではないほう）にあたる詩島霧子の強くて勝気なヒロインぶりも魅力的。放送前には「バイクに乗らない仮面ライダー」という部分がとりわけクローズアップされていましたが（宣伝もそこを強調していたようですし）、実際に見てみるとまるで気になりません。そもそも過去の仮面ライダーでもバイク要素が希薄な作品はたくさんありましたので、むしろ“縛り”が無くなって自由度が増したところで、どんどん新しいことに挑戦してほしいと思います。変身後の「ひとっ走り付き合えよ！」は今後も定番の決め台詞になるのかな？<br><br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141005/21/hiruneclipper/bf/a1/j/o0490011513088654927.jpg" alt="トライドロンの運転シーンは許可を得た私有地内で行っています" border="0"><br>　……とはいえ、今回は今回で別の新しい制約条件も生まれてしまったようで。ナンバー取れなかったのねトライドロン……<br>
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<pubDate>Sun, 05 Oct 2014 20:48:07 +0900</pubDate>
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<title>故郷はメガネブ？</title>
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<![CDATA[ 　10月1日は「メガネの日」だったそうですが、案の定というかなんというか、ネット上で『メガネブ！』の話題を出している人はあんまりいなかったようで。放送中には「何もそこまで言わなくても……」ってくらいネット上ではフルボッコ状態だったので、仮に好きで見ていた人でもいまいち話題に出しづらいのかなぁ、などとも思いますが。<br><br>　まあそれはともかく、『メガネブ！』の映像的な特徴の一つに、極端に彩度を上げたカラフルな（ちょっと目に悪い？）色彩設計があります。最終回の後、なんで『メガネブ！』の絵面はあんなに色がどぎついのかについて、最終回のラストで明かされたある設定を踏まえながら考察している人がいて、なるほどなぁと感心しながら読んでいたのですが、そうした考察を抜きにしてもやはり『メガネブ！』の色合いは独特です。<br><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141002/22/hiruneclipper/cc/3a/j/o0285032113085624032.jpg" alt="" border="0" style="float:right;">　その中でも個人的に特に印象に残っているのは、時々背景に現れる夜空の、過剰なまでのきらびやかさです。多数の星がきらめき、月が十字の光芒を放ち、田んぼに張られた水にまで星空がくっきり鮮やかに映し出され、ほとんど『ガンダムSEED』あたりの宇宙空間描写と見紛うばかりの非現実的で幻想的な夜空が、『メガネブ！』の世界の夜を支配しています。ただ、さすがにそこまではいかなくとも、とにかく空気が澄んでいて、かつ乾燥して空気中の水蒸気が非常に少なくなる田舎の冬空では、驚くほど多数の星が見えることがあります。私もだいぶ前に、多数の星で天が埋め尽くされているかのような星空を一度見たことがあり、数えるほどしか星が見えない関東の夜空に慣れた私の目にはちょっと気味悪く感じられたほどです。<br>　この作品の夜景を見ていてふと思ったのが、いま多感な十代前半から中盤を過ごしながら『メガネブ！』を楽しんで見ていた人の中には、この作中の景色がずっと心象風景として心に残り続ける人もいるんじゃないかな、ということでした。別に夜景のシーンじゃなくてもいいのですが、私自身の経験として、ずっと小さい頃にあるテレビ番組で見た夜景が、その後も原風景のように心に宿り続けたことがあるので、きっと『メガネブ！』でもそれと同じような感慨を抱く人がいたかもしれないな、と。最近では『魔法少女まどか☆マギカ』の最終回で、まどかの存在しない（“概念”化した後の）世界を彩る見滝原の夜景をほむらが見下ろしているシーンでも、やはり同じことを考えていました。<br>
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<pubDate>Thu, 02 Oct 2014 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>アスランの見た景色</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140914/20/hiruneclipper/bb/59/j/o0360040013066539070.jpg" alt="" border="0" style="float:right;">『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』（以下「種デス」）第１話では、オーブ代表首長となったカガリ・ユラ・アスハの随員として、アレックス・ディノという偽名でプラントのコロニー「アーモリー・ワン」を訪れたアスラン・ザラが、コロニー内の光景を俯瞰するシーンがあります。<br>　カガリはプラントの最高評議会議長デュランダルとの極秘会談のためにこの地を訪れているため、この訪問自体が表沙汰にはされない非公式の日程なのですが、さらにアスランの方は自分が元々プラントの人間（ザフト軍人）であったという身分を隠した状態でプラントに入国しています。アスランはいわば二重の意味で「本来ここにいてはならない存在」であり、そんなアスランがかつての“祖国”の景色を見下ろしています。<br>　見慣れているはずなのに、今では遠く手の届かない存在になってしまったこの景色を前にして、自分の名を名乗ることのできないアスランはいったい何を思っているのだろうか……などと想像を巡らせてしまいます。<br><br>「種デス」は放送当時から毀誉褒貶激しく入り乱れていてネット上でも評価が荒れまくった作品だと聞き及んでおりますが、幸か不幸か私は2000年代全般に渡ってリアルタイムでガンダム作品を見ておらず、「種」も「種デス」も「00」も割と最近になって見ています。「種」と「種デス」は2012年からのHDリマスター版放送を期に見始めたため、2004年に種デスが放送された当時の熱気を肌で知らず、後から当時のエピソードを耳にすると、醜い言い争いをも含めた“場”全体の熱気を味わえなかったのは今思うと少々惜しかったかなぁ、などと思っています。<br>　ただ、そうした外野の“雑音”が聞こえない分だけ、あまり他の人の大声に惑わされず作品自体に向き合えるという利点もあり、そんな「遅れてきた」目線で「種デス」を見ると、問題点や首をひねる部分もたくさんありますが、作品全体に漂う雰囲気にはそれなりに私好みの部分も少なからずあったりします。第１話でアスランでプラントを俯瞰するシーンもその一つで、登場人物がどんなことを考えているのかを想像させるような余韻が、「種デス」では結構随所に見受けられるように思います。<br>
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<pubDate>Sat, 13 Sep 2014 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>エヴァQ</title>
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<![CDATA[ （Twitterより）<br><br>　ゆうべ「エヴァQ」を地上波放送していたので初めて見た。<br>　エヴァQでは旧劇の時以上に「大人がいない」感が強い。ネルフも新組織のヴィレも、人類がほぼ絶滅した後14年も少数の仲間内だけで活動していれば、不特定多数の見知らぬ誰かと接する機会なんてなくなるだろう。だから、事情を知らない人に対して自分たちの行動の意味を説明する必要があるという、ごく当たり前のことにすら考えが及ばなくなり、それを忖度できない人間を感情的にバカだガキだと罵ることしかできない。そういう社会性を持てずに育ったアスカは、さしずめ28歳のオオカミ少女といったところか。その点で多少は大人だったミサトも、14年も仲間内だけで生きる世界に事実上引きこもっているうちに（それ以外の人間は皆死んじゃったので）、だんだん社会性が退化してきたんだろう。破からQまで14年も時間軸をすっとばしたのは、「大人も子供もこぞって社会性に欠けた人たちばかり」な状況に説得力を持たせるためなのかもしれない。<br>　昔BBCのドラマで核戦争後に文明が衰退した世界を描いた「スレッズ」というのがあったけど、案外Qの元ネタはこのあたりなのかな、などとも思ったりした。「スレッズ」では核戦争後にあらゆるインフラと社会サービスが消滅して、教育を受けられなくなった子供はほとんど野生状態に戻っている。カタコトで喋り、死にかけた親に向かってもただ「働け、働け」としか言わない。たぶんQのアスカもそれと同じ類だ。<br>　そんな社会性を喪失した人たちばかりの中に、事実上タイムスリップしたような形でいきなりぶっこまれたら、シンジ君だってそりゃとまどうだろう。ただ、意図しなかったとはいえ、そうなる状況を引き起こしたのも他ならぬシンジ自身ではあったというのも余計に救いがない。<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiruneclipper/entry-11922593893.html</link>
<pubDate>Sun, 07 Sep 2014 00:00:00 +0900</pubDate>
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<title>富野台詞</title>
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<![CDATA[ （Twitter連投ツイートより）<br><br><blockquote class="twitter-tweet" lang="ja"><p>Ｇレコ先行映像視聴。相変わらず台詞があちこち飛ぶというのか、関係ない話題が挿入されたりしてまとまりないんだけど、リアルに喋ってるとそんなもんだよなという納得感はある。</p>— molgatan (@molgatan) <a href="https://twitter.com/molgatan/status/498565289450020864">2014, 8月 10</a></blockquote><br>　いわゆる富野台詞の特徴の一つって、会話が時々脈絡なく飛躍するように見えるところなんでしょうね。だから時々「えっ、こいついったい何言い出してんの」って思うけれど、描写の中ではそれぞれのキャラが“主観的には”自分の脈絡を持ってしゃべっていて、結果的に会話が噛み合わなくなるわけです。早い話がイデオンの白旗騒動を個人レベルで繰り返しているわけで。<br>　いま再放送しているファーストガンダムの前半でも、WBのクルー内部での会話のいちいちが、予定調和的な円滑コミュニケーションなんて絶対にさせないぞ、という製作側の強い意志に満ちみちています。だからこそ終盤のニュータイプの話が生きてくるのでしょうが。<br>　そう考えると、何だかんだ言って周囲の大人たちがバナージをちょっとずつ的確に導いてくれるガンダムUCって、「ガンダム的」ではあっても著しく「非富野的」な作品なんだろうなあ、なんてことも思ったりします。<br>
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<link>https://ameblo.jp/hiruneclipper/entry-11922584889.html</link>
<pubDate>Mon, 11 Aug 2014 23:00:00 +0900</pubDate>
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