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<title>hkakeyaのブログ</title>
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<title>メタレベルで議論を捉える</title>
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<![CDATA[ <p>この世の中には二種類の議論がある。一つは、真理により近づくための議論、もう一つは、自己利益達成のためにより多くの支持を受けることを目的とした議論である。後者の議論を行う者は、あらゆる詭弁を用いて自己正当化を試みる。そういう詭弁を見抜くときに役立つのが、その議論をメタレベルで考えることである。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで議論してきた学者による政治活動について考えてみよう。学者Ａが政治活動をしている。それを学者Ｂが批判する。学者Ａが、政治活動を批判すること自体が政治活動であると反論する。その反論が通るとどうなるか。学者はどんな政治活動をしても許されることになる。結果として学問と政治の境界が無くなり、学問は消滅する。</p><p>&nbsp;</p><p>学者の政治活動禁止は、学問に関するメタレベルの議論であるのに、そのレベルの違う議論を同じ土俵に引きずり込むと、学問そのものを消滅させることができるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>これと似た話は、ダイバーシティ（多様性）に関する議論でもある。今のダイバーシティ信奉者は、多様性を認めない思想に対しても寛容ではなければならないと主張する。欧米においては、それまで主流であったキリスト教やその国の文化・伝統を守るという思想は厳しく糾弾する一方、イスラム原理主義や左翼原理主義のように、多様性を認めない思想であっても新興勢力に対しては寛容なダイバーシティ論が強い力をもっている。そうしたダイバーシティ論に基づいて政治を行うとどうなるか。その社会は多様性を認めない新興勢力に乗っ取られ、結果としてダイバーシティが全く認められない社会が誕生することになる。多様性を維持するためには、多様性を認めない思想だけは認めないというメタレベルのルールが必要なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>こうしたメタレベルを意識した思考は、詭弁を見抜くために必須なものである。今後社会的論争に遭遇したとき、ぜひ実践していただきたいと思う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hkakeya/entry-12377060031.html</link>
<pubDate>Sat, 19 May 2018 08:52:19 +0900</pubDate>
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<title>学者の肩書を使っての政治活動が許されない理由</title>
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<![CDATA[ <p>人が個人として活動するとき、所属を隠すことはしばしば行われる。たとえば、現役の官僚である中野剛志氏は、雑誌等に論考を寄せるときは「評論家」の肩書を使う。これは、その見解が所属する省庁の見解であるとの誤解を防ぐためのもので、中野氏に限らず、組織に属する人がこうした配慮を行うのはごく一般的なことである。</p><p>&nbsp;</p><p>大学教員の場合、学問の自由があるので、基本的にはその肩書を隠すことはあまりしなくていい。中野氏も大学教員の時は、所属大学名を使って活動していた。しかし、大学人として行うことが不適切な活動の場合はその限りではない。</p><p>&nbsp;</p><p>教育基本法にはこう書かれている。</p><p>&nbsp;</p><p>第7条　大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。</p><p>第14条2　法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。</p><p>第15条2　国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。</p><p>&nbsp;</p><p>教育基本法第14条2項で、法律に定める学校（大学を含む）は政治活動を禁止されている。大学の教員がその肩書を使って活動していれば、それは大学の活動の一部であるから、大学が政治活動をしていることになる。これは明らかな法律違反である。</p><p>&nbsp;</p><p>これに対して、教育基本法第14条2項は大学の政治活動を禁止しているだけで、教員個人の政治活動は禁止していないと反論する人がいる。たしかに、大学の名前を使わずに一個人として政治活動をする自由はある。しかし、所属大学名を使って活動すれば、それは教員個人の活動ではない。</p><p>&nbsp;</p><p>このことは、第15条の方を考えてみれば分かりやすいだろう。国公立大学の教員が、大学教員の肩書を使って宗教活動をすることは許されるだろうか。これについては、流石におかしいと思う人が多いだろう。大学名を使った政治活動については、多くの教員が既にその禁を破っているため、何となく慣れてしまっている人が多いかもしれないが、法律上は国公立大学名を使った宗教活動と同列に禁止されている行為なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>さらに例を挙げよう。安保法制反対の人の大多数は、大学の軍事研究に反対の立場の人である。では、ある大学教員が、これは教員個人の研究であると強弁して軍事研究を始めたら、それを許すのだろうか。おそらく猛反対するであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>迷惑がかかるので匿名にするが、私の知っている教員で一つ例がある。彼は米国の大学のある学者と共同研究を行っている。研究の中身は軍事研究ではないが、米軍から研究費が提供されているプロジェクトである。これに対して、その教員の所属する大学の副学長が、独断でその研究を大学の施設を使って実施するのを禁止し、やりたければ個人として行うように命じた。また、研究成果を発表するとき、所属として大学名を名乗ることも禁じた。大学名を名乗れば大学の活動の一部になるという認識があるからこそ、こういう判断になるわけである。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、私が何を言っても左翼活動家の人には全く響かないことは重々承知している。彼らは自分の価値観が絶対であり、それに合致しないものは法律でも無視する独裁的思考の持ち主である。ここに書いたことは、そうした左翼活動家の論理に何となく流されてしまっている常識と理性を持つ人たちに向けたものであるとご理解いただきたい。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hkakeya/entry-12376008276.html</link>
<pubDate>Mon, 14 May 2018 22:31:01 +0900</pubDate>
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<title>学問と政治の線引き</title>
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<![CDATA[ <p>正論6月号の記事で、学者の肩書を利用した政治活動を批判したが、その批判行為自体が政治活動ではないかとの批判を時々受ける。そうした批判は想定内で、正論の記事で先回りして答えているのだが、ネットで言論活動をしている人は活字アレルギーの人が多いようで、実際に雑誌の記事を読んで批判している人はほとんどいない。そこで、まず記事の該当箇所をここに引用する。</p><p>&nbsp;</p><p>-----</p><p>もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。でなければ、学問の政治的独立性は守れない。実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。</p><p>『学問では何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。</p><p>-----</p><p>&nbsp;</p><p>学問の自由というのは、研究対象を自由に選べることと、研究の結果得られた知見を自由に公表できることを指す。学問の看板さえ掲げれば何をやっても許されるということではない。たとえば、学者が自由気ままに事実を捏造したり改竄したりすることは許されない。そうした学者の倫理に反する行為を批判することも政治活動なのだろうか。学者の政治活動批判も、捏造や改竄と同様に、学者の倫理規範に関することである。学問の倫理規範を守ろうと発言することさえ許されなくなれば、学問は真理追求とは全く縁のないものになる。</p><p>&nbsp;</p><p>政治活動というと、一般には個別の法案・政策の推進・反対、あるいは特定の政党の活動に与することを指す。安保法制反対はこの定義に合致する。こういう個別の政治課題には、どういう方向に進むにしてもメリットとデメリットがあるのが常だが、賛否が対立している場合、政争の当事者は自らの意見をサポートする事実のみを取り上げ、都合の悪い事実は隠そうとする。これは、学問が目指す真理の追求とは相容れない。もちろん、政治的議論を建設的なものにするため、その話題に関する専門的な知見を提供するのは学者の守備範囲である。しかし、特定の政治団体と一体的に行動すると、その政治団体に不利な事実に言及できなくなる。そうなると、それはもう学問ではない。</p><p>&nbsp;</p><p>さらに、学者が政治活動をすると、政治が学問に介入する口実を与えることにもなる。学者が特権階級であると考えない限り、学者が政治に介入できるなら、政治家も学問に介入できるという論理が成り立つ。法の下の平等を想定する以上、政治を学問に介入させないためには、学問も政治に介入しないという原則に則る必要がある。</p><p>&nbsp;</p><p>学術的に得られた知見が、結果として社会的・政治的な影響を持つことはもちろんある。その意味で、学問は社会的価値と無縁ではいられない。たとえば、人工知能がさらに発達して、人間の医師や弁護士以上のパフォーマンスを見せるようになれば、それが医師や弁護士の資格制度に影響が及ぶかもしれない。ただ、技術の進歩それ自体は事実に関する議論として閉じており、資格制度という政治的な問題とは切り離して議論できる。私がＮＨＫだけ映らなくするアンテナを作ったことは政治活動にあたると言う人がいるが、私はＮＨＫ問題で困っている人に現行の放送法の範囲で対抗する技術的ソリューションを提供しただけで、放送法改正などを目指す政治活動にはコミットしていない。</p><p>&nbsp;</p><p>学者として問題になるのは、特定の団体に有利なように事実を曲げる行為である。たとえば、ある企業が排出している物質が公害病の原因なのに、その企業に頼まれてそれを否定するデータを出すことがその行為に相当する。こうしたことは企業だけでなく、政治団体にも起こり得る。たとえば、自然エネルギー推進運動は、科学的に間違った事実をしばしば自らの主張の根拠にしている。それらは高校の理科を分かっていれば簡単に見抜ける誤りであることも多いが、そういう政治運動にコミットしている学者は少なくない。</p><p>&nbsp;</p><p>学問は真理探究を目指すものである。われわれ科学者は、その真理は外の世界にあり、実験や観察によってそれを発見しようとする。学者の政治活動を肯定する人は、自分の頭の中にある理想が真理であると信じているように見える。政治活動はその真理の布教活動という位置づけなのかもしれない。しかし、われわれ科学者からみると、それでは宗教と何ら変わりはないのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hkakeya/entry-12375524805.html</link>
<pubDate>Sun, 13 May 2018 01:10:35 +0900</pubDate>
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<title>事実に関する議論と価値に関する議論</title>
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<![CDATA[ <p>ここ数日、当方のニコニコ超会議の発表と雑誌正論の記事がtwitterに上げられたことで、その内容が種々の議論の対象になっています。最初はtwitter上でコメントしていましたが、字数制限のため十分な説明ができません。そこで、主要な論点についてブログで順に取り上げていこうと思います。ただ、こちらもそれなりに忙しいので、頻繁な更新は期待しないでください。暇を見つけて書いていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>今回は、事実に関する議論と価値に関する議論の区別について考えます。Twitterの反応を見ると、この区別ができていない人がかなり多いようです。ほとんどの人は、まず好き嫌いがあって、自分の価値観に都合のいいような事実だけを集めてきます。そして、都合の悪い事実を指摘する人に対して、すぐ攻撃的な姿勢をとる人も少なくありません。</p><p>&nbsp;</p><p>雑誌正論の記事では、安保法制反対の政治運動に大学名を持ち出して署名する行為が、大学の政治活動にあたるとして問題視しました。個人として署名することは問題ないと本文には書いているのですが、一部の人から安保法制賛成の怪しからん右翼という扱いを受けています。ちなみに、私は安保法制の細かいことはよくわからないので、安保法制自体について積極的に意見する気はありません。もちろん、日本が今後も今の平和を享受できることは願っています。そこで、ここでは安全保障問題について、事実の議論と価値の議論をどう分けるかを考えてみましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>今しがた述べた「平和を享受できることは願う」というのは、当然価値に関する議論です。安保法制や憲法９条改正に対する賛成・反対も価値に関する議論です。その一方で、安保法制や憲法９条改正によって、戦争が起こりやすくなるかどうかは事実に関する議論です。日本には、世界でもあまり例を見ない丸腰平和論というのがあります。（なぜ、日本でこの論の支持者が多いかについては別の機会に論考したいと思います。）この丸腰平和論には、２種類のパターンが考えられます。</p><p>&nbsp;</p><p>１つは、戦って人を殺すぐらいなら、無抵抗に殺された方がいいという考え方です。評論家の森永卓郎さんは、こうしたお考えのようです。おそらく、こういう価値観を持つ人はマイノリティだと思いますが、多様な価値観を尊重するという立場（私もそうですが）に立てば、こうした考え方も尊重すべきです。ただし、「無抵抗に殺された方がいい」と主張している人が、いざそういう場面に遭遇した時に本当にそう振る舞うか否かは事実に関する議論になります。</p><p>&nbsp;</p><p>もう一つは、平和を維持するためには丸腰でいなければならない、丸腰でいなければ戦争になるという考え方です。この場合、生き延びたいという価値観が前提になっていると考えられますから、武装して国を守るべきだという人と価値観自体は近いことになります。その価値を実現する上で、どちらの手段がより有効かという議論は、事実に関する議論です。</p><p>&nbsp;</p><p>事実に関する議論は学問の守備範囲です。学問的（科学的）命題は、実験や観察によってその真偽を判定します。実験や観察という方法論の正当性は、「同一条件下では同一の現象が再現する」という科学的思考の前提を根拠にしています。（この辺の緻密な議論は拙著「学問とは何か」をご参照ください。）</p><p>&nbsp;</p><p>社会科学の場合、実験をすることは難しい場合が多いので、主に過去の類似した事例を観察するという手段をとります。旧ソ連による日本人シベリア抑留、近隣諸国による日本人漁師の銃撃・拿捕、中国における天安門事件や自治区で少数民族が受けた仕打ちなどの事例から判断すると、丸腰でいれば平和が維持できるという論は、事実として間違っていると考えられます。</p><p>&nbsp;</p><p>日本における安全保障の議論がややこしくなるのは、丸腰平和論が上に挙げたような自説に都合の悪い過去の事例を隠蔽しようとすることです。最近の若い世代で、シベリア抑留や天安門事件を知っている人が非常に少ないことにはしばしば驚かされます。自説に都合の悪いことは隠して広く知られないようにするという態度は、学問に携わる者がとるべきものではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>私は、森永さんのように自らの価値観に忠実な丸腰平和論は尊重します。しかし、都合の悪い事実を隠して自説の支持を集めようとする丸腰平和論は、人を騙す議論ですから、批判の対象になって然るべきです。</p><p>&nbsp;</p><p>国際情勢の不安定化に伴い、憲法改正をはじめとした安全保障に関する議論は今後否応なく盛んになるものと思いますが、事実に関する議論と価値観に関する議論がきっちり区別される形で行われることを願っています。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hkakeya/entry-12373515190.html</link>
<pubDate>Fri, 04 May 2018 23:49:43 +0900</pubDate>
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