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<title>ケンシロウのブログ</title>
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<title>ＳＭＡＰ　けいおん　一騎打ち</title>
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<![CDATA[ <p><strong><font color="#800080">・SMAPのCDで初となる『通常盤』・『SB Version』・『SS Version』の3種販売を行う。<br><br>・初回限定盤の『SB Version』・『SS Version』はカップリング曲が一部異なる他、<br><br>・それぞれ別内容のDVDが付属される。また、ジャケットには「お楽しみYour Number」が000001から　記されており、<br><br>・当選番号と一致した50人には、2010年9月15日のコンサートのバックステージに招待される。<br><br>・『通常盤』には、「メンバー着ボイス」が期間限定でダウンロード出来る、シリアルナンバーが封入　される。</font></strong><br></p><p>ジャニーズの本気きたよｗｗｗｗｗｗｗｗ　スマップは週間１０万前後かと思ってたが初日で１０万超えてきたｗｗｗｗｗｗ　けいおんは２万８千か　まあまあ順調だｗ　ジャニーズえげつないですｗ　もうちょっと接戦を期待してたのに、これは明らかに前回とは力の入れようが違うｗｗｗ　まあそれだけ危機感もあったんだろうが、それにしても初日で１０万ｗｗｗとかすごいなｗｗｗ　やっぱりスマップｗｗｗ　けいおんの一位は事実上無理だからスマップの歴史に残るような売り上げたたき出しちゃってくださいｗ</p>
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<pubDate>Wed, 04 Aug 2010 23:35:36 +0900</pubDate>
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<title>グローバル</title>
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<![CDATA[ 概念は強い概念で打ち消すよりない。認知の領域でだが。今の日本の中央集権体制は各地域の国民の能力を過小評価していると思われる。領域は狭いが、確実な発展を遂げている国というのはいくつも存在する。それは各戦略がとても一貫性のある確固としたものだからに他ならない。才能ある主体であればその名前と場所、そして事業分野とが結び付けられて記憶されるだけでなく、あたかも磁石の力でひきつけるように、無関係なほかの事業分野の多くの企業をもひきつけてしまう。確かにひきつける主体は優れた能力を持っていると思われるが、ひきつけられたほうはどうなのだろうか。単なる乗換えではないのか。協力することが必ずしも社会的な発展につながっているのか。まあいい。中国では国営企業に自助努力を要求して、中央は何も関与しないという姿勢をとっているようだ。だから地方で支えるか、民営化するかといったことになる。ここからの議論の流れとして面白いのが、中央が地方への管理をかなり弱めたため（経済的なものが大きいと思われる）その結果として各都市や省は世界中からの支援を求め始め、その結果外国直接投資が流入してくることになったという指摘である。共通性か。ある程度の共通性を持っていればそれは差別排除の対象となる。極は分散していたほうが望ましいとおもう。統合された範囲の中の競争を促すのは複数の極だと思われるからだ。巨大な人口を擁する国では繁栄の中核はかなり狭い地域であり、そのため、国ごとでなく地域ごとで経済力を測るというのが重要になっている。人口の少ないシンガポール、フィンランド、スウェーデンといった小国は中央政府が異なる利害を持つ多くの地域間の調整をする手間が省けるため、組織や制度の変更が比較的短期間に出来る。大国ではいったん、ある地域が成功への途上にあると評価され始めると、中央政府や成功の要素に恵まれなかったり、立地に恵まれなかったほかの地域からの嫉妬が生まれる場合もある。この妬みは、たいがいが国全体の平等や連帯を強調し、無害を装った政策の形で、地域の成功の邪魔をする試みとして現れてくる。まあそんなことをしても格差は開くものであるが。にしても方針というのは持つのが当然でそれに沿って書き進めるものだとされてるけど方針に疑義が生じたときもかまわず進めてるのがおおいだろうね。適当な理由付けて、薄い理由でもそれで一応納得できるならね。以上、大前健一著新・経済原論から
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10610022022.html</link>
<pubDate>Wed, 04 Aug 2010 19:29:29 +0900</pubDate>
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<title>論</title>
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<![CDATA[ 技術の成果に関する前提があることにより、より技術的な側面が重視されることになり、その能力が求められることになる。読書の際にちょっと反射的にまとめすぎか・・・まあそれと同時に振り返ってまとめるってのも重要なのかもしれない。意志はそれ自体を失うこと無しにそれ自身を否定できる。ある意味今は過去を否定できるのと同様だ。無というのもどういうものなのかについて考えてみると深いね。雰囲気での納得の議論が出てきやすいのは神学だというのがね。まあ言い切ること自体は議論を進める上でも必要だし、それが更なる洗練された議論を生むんだけどね。不安と無は密接である。不安を生ぜしめるのは、無についての抽象的認識ではなく、無が人間の存在の一部であるという自覚であるということを意味するのである。不安を生ぜしめるのは、万物の儚さを認めることによるのでも、あるいは他者の死を見ることによるのでもなく、それらの出来事がわれわれ自身死すべき者であると言う絶えず人間に潜在する意識に対し影響を与える、そのことによるということ。また、不安とはそれが自らのものとして経験されたところの有限性であるといっている。思索的な人間であればこの文章に沿った理由で解釈することは可能かもしれない。恐怖と不安は根本的に異なり、対象をもっているかが決定的な違いだという。特定の対象によって引き起こされた恐怖ならばそれは参与することが可能であり、勇気で覆ってしまうことが出来る。しかし不安は対象が特定されない、もしくは虚無（あらゆる対象を否定している状態）であるため、それへの参与であったり、闘争というのも出来ないということ。範囲というものは統計で表されて大体理論的に表されるが、なぜ特定の局所だけ集中するということが起こるのか。キーワードに関する語をちりばめてひとつの話題領域を作り上げていく。数字が重要ではなく、自分が何を考え感じたかをまとめるのが重要だ。というかそれは重要と思ってもいい場面が異なるため一概には言えないが。人間がそれ自身の存在を保持することが出来ないことの不安がすべての恐怖の根底に横たわっている。無よりは有のほうが分析はしやすい。というか完全な無は分析が出来ない。人間の認識として存在は無に優先している。肯定は否定に優先している。連続ってのはきついわ。やっぱりｗ連続的な否定は特にねｗ要約に戻る。無は人間存在の存在的自己肯定をば、相対的には運命という仕方において、絶対的には死という仕方において、脅かす。無は、人間存在の精神的自己肯定をば、相対的には空虚さという仕方において、絶対的には無意味性という仕方において、脅かす。無は、人間存在の倫理的自己肯定をば、相対的には罪責という仕方において、絶対的には断罪という仕方において、脅かす。単純に自己基準から見るとこうだね。とかはいいよ別に。現実を先に語るべきだったかな。まあいいや。死の不安があるからこそ（まあ倫理的にいえばとか効率的にいえばとか要因は別のところにあるといいそうだが）人間は法律による脅かしが効果を持つ。死の不安は全般的な不安に間接的にかかわっているということだ。より根本的なものとして存在の偶然性による不安を上げている。時間的、空間的、対象現実、因果的相互依存関係などがあり、それらに関して考える限り、なんら究極的必然性を持っていない。偶然によって存在し、因果関係の中にあり、刻々それによって規定されており、最後にはそれによって外へ放り出される。その前提に立つと運命は必然性と同一視されるべきではなく、むしろ何が起こるかわからない暗さによって不安の対象となるとの事。後で自分で捜索した他人の批判に関してはなかなか鋭いことを言ってるよねｗ経験の有無に関してとか確かに無だと何もいえないんだよねｗまあジャンルをあえて変えてそこの次元で話をするとか言うのはあるけどね。深く突っ込むというのもいいな。それが人生の主要テーマとなっているのならね。まあ引き下がったほうが得な場合が多いがあまりにも断定的だとね。無は消滅、喪失、攻撃を受けるときにかかわる出来事に対して寄り添っている。経験の無について問われたときはそれに関しての恥じらいを捨てて、手順を踏むことかな。なんでもそうだけど。そうするに至らない自分の主義もありかｗそこに正当性を感じ取らないならもともとその経験をしても結論は変わらんと。漫画のキャラみたいに完全に受け流すのもありかｗ形式はすばらしいが、画一的である。本題。精神的に創造的であるためには、人は必ずしも創造的な生産活動をする必要はないが、その人たちの独創的な創作物に意味ある仕方で参与すること。だそう。現実を多面的に解釈するには手っ取り早く言語化するしかないと思うが、創造的に変化させるものとして自分自身を肯定できるものでもあるらしい。彼（自分のこと？ｗ）がその精神的生活の内容を愛するのは、それが彼自身の実現であるからであり、またそれは彼を通して現実化させられるからである。人間を構成する要素として色々あるけど、どれかがかけたら普通とは見られないというのはよくあるねｗどれかほかの要素で補いにくいというのはあるねｗしかし、相手の言明なんかより重視して考えられていたのは相手の否定的態度だったんだろうね。そしてその態度をとった後の否定的な態度の継続なのだろうね。言明そのものよりその中にある否定の強さ、持続性を感じ取っていたのだろう。それに対して否定的な自分がまた顔を合わせるということも嫌なんだろうしｗ肯定は前提としてある。肯定の中で経過をたどって否定が出てきたら減点法で肯定の度合いが薄まる。本文。人間は問うことができるのは、彼が問うている対象に参与しながらもそこから離れているからである。かけたものに関する意識は結構強いものがある。持っていないという意識が持っているという意識を飲み込んでしまったとき、懐疑は方法的懐疑であることをやめ、実存的絶望となるのである。さて、何か大きな括りの懐疑が生じたとき、その懐疑は現実全体から分離されているその分離から生じるものであり、参与していない欠如に基づくものであり、自己の孤絶から生じるものであるので、各個人と共通なものと同一視したり、各個人の分離とのかかわりを放棄することによってこれを解決しようとする。自発的な問い・答えをすることを放棄して権威的に支持される答えで納得する。だが、それで納得するのはある種合理的である。それを怠って無意味の不安を抱えるのよりはましだ。ちょっと多い。また改めて。パウルティリッヒ　生きる勇気より
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10608566675.html</link>
<pubDate>Mon, 02 Aug 2010 22:08:08 +0900</pubDate>
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<title>中国社会を考えつつ他色々</title>
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<![CDATA[ 結果を想定してそこから動いていくってのがいいのかもしれないね。というより結果から過程を逆にたどる。チャンスの少なさは尋常じゃなかったけどそういうのに適応できればね。いうことはない。あってもなくてもかまわないと、ないほうがいいとかって混同して考えてしまうことはあるな。失敗を積み重ねることしかないね。そして失敗内容を把握しておくこと。しかないね。しかし、現実に失敗分析が少ないのはなぜだろうね。異常に少ない気がするよ。スイッチはいればいいけどなぁ～。どこで入れるかね。要素を集約して一極集中の思考が出来ればね、それに越したことはないんだけどもね。ユーモアについてもちょっと研究しとかないとね。拡散したものを収斂させる。まあまとまった文を書けばそれなりに発話も収斂すると思うけどね。しかし地域の発展においても重点的に開発されなかったところはそのまま衰退していくしかないのかね。もしくは重点的に開発されたところとの差が開く一方なのかね。広域行政というのはこれからのトレンドになるかもね。特に大国になると財政面において効率的な配分がなされない恐れもあるし、さらに面積が広いから何段階も地域区分のレベルがある。細かなところまで財政を任せていては権限の差によって不公平が生じ、結果非効率が生じるのかもしれない。ある程度広域な地域に財政権を任せて非効率、不公平をなくし、画一的な開発、サービスを実現するようにするのが、あり方かなと思う。否定は過剰なレッテルにつながり、間違った認識につながりうる。どんなに馬鹿馬鹿しいことであろうと、どうでもいいことであろうと、それを議論されているのと、無視されているのはたとえ結論が同じでも異なる状態である。結論は何回修正されれば真剣に考えられている議論となるのだろうね。中国の鄧小平が唱えた社会主義とは日本の経済発展の理念と近いのではないかな。一部の先行的な発展が全体の発展につながってそこはいたる経過時間中には公共サービスを充実させる。ってね。中国の指針として経済社会協調発展論ってのがあり、経済発展と同時に、社会事業の発展を重視し、就業、教育、医療、文化などの政策の調整を通じて、経済と社会の釣り合いの取れた発展を推進することであることなのだと。農村に配慮してもいる。２００６年の中央１号文件は「社会主義新農村を建設する」ことを提起し、「工業が農業に恩返しして、都市が農村を支持する」ことと、農民に対し「多く与え、少なく取り、活性化させる」発展方針を定めた。まあ上から目線ではあるが、現実的な対応をしてくれそうな文面ではある。それだけ差し迫っているということもいえる。段階発展のプロセスにおいて気持ちのもちようの変化はある。数字が重視されるのもわかるね。目標も示しやすいし現在地もわかる。中国では２００６年に第十一次５カ年計画要綱を表し、単位当たりＧＤＰのエネルギー消費、単位当たり工業付加価値の水使用量、主要汚染物排出総量、森林カバー率などの複数の資源環境指標を達成義務のある拘束性指標と決め、人と自然の調和の取れた発展の国家目標とした。中国は二酸化炭素排出削減に関しては非常に消極的とされるが、方針としては資源節約型で環境にやさしい社会の構築を提起しているとのこと。どこまでも包括的概念があるなぁ。それもこれもある事象、ある思考がそれ自体基点となって次につながっているからだろう。正しさとはバイアスがかかった条件的なものなのだろうな。中国は２００６年１０月、共産党第十六期六中全会コミュニケで９大目標を提起した。第六が、シンガポールと似ているが、創造する人の私的収益率を高め、人々が社会的創造から利益を手に入れ、人々の創造がまた社会に利益をもたらすことを積極的に奨励するという。模倣が多い中国では創造性がこれからの発展のうえで最も重要なことだと思われているのだろう。イデオロギーはともかくスローガンは柔軟に変更され、ある一定期間の行動指針となる明確なものであるものが望ましいと思われる。スローガンを推進する過程で、その蓄積された悩み、諸問題への対処という経験をみなで共有していくことが望ましいと思われる。圧力団体は必要なものもあるが、業界の利益を代表して活動することで、往々に被害をこうむる人たちが存在するし、他の圧力団体との調整が進まないと何も政策決定が出来ないとかいうことになりかねないのでその存在にはどちらかというと否定的だ。その団体間の諸問題を早急に調整できる仕組みがあれば別だが。「中国の経済大論争」関志雄、朱建栄編。より
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10608213298.html</link>
<pubDate>Mon, 02 Aug 2010 14:27:10 +0900</pubDate>
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<title>論理分析</title>
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<![CDATA[ まとめようかどうか。概念が咀嚼されるまで自分のものとなっていない場合、手早くまとめてしまうか。伊勢田哲治氏の著から。実践的三段論法これが結論へ導くための、より厚い文に持っていくためのパターンのひとつということ。そして実際にはその三段論法はどこまでいっても続いているということ。マクロな結論からミクロな前提が出てきてその前提を構成する前提が出てきてって感じ。わかりきったこと研究してんなぁとかいうこともあったが、それも下地になって次の発展的な議論が出来るなら凄く意味あることなのかもしれない。ルールは合理性があるものがおおいが、抜け駆けしたほうが合理的だということも多い。基本的な言葉の意味を明確にする。事実関係を確認する。同じ理由をいろいろな場面に当てはめる。出発点として利用できる一致点を見つける。いい４か条だと思うよ。話をする際に、最初は比較的薄い記述から入って同じ事を結論として持ってくるときには厚い記述とするようにしよう。薄い記述に条件を付けることで厚い記述に持っていくことと、定義、仕組みなどについて調べること、これについては徹底しよう。有意味って何か。何らかの価値ある目的を達成するために行動すること。何らかの価値ある仕方で自分を超えること。自信や尊敬に値すること。３番目だけいやに現状肯定の気があるが、まあそういう区分もありか。表出している価値観の対立は本当は事実の問題の対立であり、裏では価値観は一緒のことは多い。というか、そんなに根本的な価値観の相違を言う人などほとんどいない。立場、場面、状況によって同じ価値判断をしているにもかかわらず結論が全く違ってくるということは良くある話だ。というかそれは経験を積むことによって前提が複雑になっていったというのがあるのかもしれないが。面白い。一般的な方針としてすでに一致できているところには出来るだけ手を付けず、それでも不整合が生じたら、出来るだけ無理の少ない方向で修正を加えるのがいいとのこと。結論あり気の表現というのは往々にして無理がある主張が多いものだと思うのだが、二重基準が取り上げられている。何が等値かってのを確認しておくってのは大事なことだ。反証を前にしたときの言いぬけの仕方が生産的ないい抜けならば評価されるしそれなりの信憑性を持つが、生産的でない言いぬけだと逆になる。理論の適用状況別の階層があるとのこと。確率的に妥当な推論はその妥当性に応じて正しさが判断され、演繹的な議論に劣らない説得力を生み出す。許容される文脈の広がり。大と小の前提の区別、その把握。最初の自分の想定結論に持っていくために力を尽くすが、最終的には妥協の産物となることは必然だろう。論争のレトリックとして視点の違いをあげるのはいいが、マジでそう見えちゃっている場合はまずいと。解釈の違いってのは往々にして生じてて、自他が別のものだけに日常茶飯事だ。それを頭に入れると。共通の世界を作るために相手の力も借りると。文脈の分業、つまり、一致してるところには手を付けないと似ている。橋頭堡、共有世界とかをキーワードとしてやるかな。
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10607009372.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Aug 2010 13:08:03 +0900</pubDate>
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<title>樹</title>
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<![CDATA[ 整理しきれない落ち着けない状況下での経験の蓄積は後の反省の際にブラックボックスとして機能し、思いもしない文言が飛び出してくる可能性がある。また、表に表れる数字はかかわりの強い人をあらわしており、実際それよりも関心は薄いか別の形態でかかわろうとしている人などが圧倒的に多かったりする。波及効果か。まあいい。概念は一つの残した、もしくはすでに浮かんだ文章にしたがって肉付けされたり強化されるものだ。つまり幹がないと枝は発生しないし、枝がないと葉っぱとかもつかんと。新規なものは論理と感覚が一致しないところから、つまり今までの蓄積が通用しないところから生まれてくるものに関してはそれなりのニーズが出るのかなと。緊張もかな。疲労による倦怠とかもそうかもね。よっぽどのものじゃないという前提で。ここでまたその前提をさらにゆるいものと使用とするんだよなぁ・・・いい訳くさい。経験の有無によって同じことを言っていても違うことを含意しているというのはよくある話だ。話し言葉ってたいてい物事を単純化してみちゃうね。概略を語るとき以外にもこういうもんだって何段階ものステップを吹っ飛ばして結論、結果にたどり着いちゃう。表と裏の意図は鏡みたいでも在り、現在（過去）と未来に対しての表出の時間差を表してもいる。いや、何言ってるんだかねｗ
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10606963903.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Aug 2010 13:04:04 +0900</pubDate>
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<title>言の葉</title>
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<![CDATA[ 死んだ文にとらわれて出れない状態に陥っては囚われの何たら状態だ。もはや定義された文は再びは使えないとおもう。本来なら。重要なことって何だろうね。多くの人にかかわることがより重要なことなんだろうね。社会的には。政治も多くの人に影響を与えるからマスコミも専用のニュース組むしね。多くの人にかかわることもそうだしブームとなっていることもそうだ。凄い勢いでコミュニティーの規模を拡大しているジャンルとかもだんだん露出や報道やらが多くなってくる。これは相対的な人気だね。前の国民の大部分に影響のあるジャンルと比べて。まあストックとフローどっちが大事って話なんだけどね。思考というのは完全性を持ったものなのかね。というのはあるジャンルで見たとき、自分の知識の範囲内で完結してしまって、それが１００パーセントだよね。時間がたてばその範囲は変わるけど１００パーセントという範囲は変わらない。思考は１００パーセントに知識の断片を振り分けているのかどうかね。まあどうでもいいことだが。努力とはがむしゃらとかいう感覚的なものではなく、理性的なものによる部分が大きいのかもね。要は感覚よりも分析が今は大きい。
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10606713143.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Aug 2010 03:57:12 +0900</pubDate>
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<title>湧き上がるもの</title>
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<![CDATA[ <p>本当に浮かれると進歩が止まってしまう。馬鹿みたいだ。主目的は進歩であって、だらけていいはずが無いのにな。ひどいものだ。いくつか考えたが、どうやったら浮かれた状態を正常な状態に戻せるか。まず、仕切りなおす。これは風呂に入ったり、本読んだり、運動しに行ったりまあ仕切りなおしをするってことかな。多分、風呂に入るのが一番仕切りなおしにはいいだろうと思う個人的には。思考が働くのが時間切迫のせいだとするならそれはやばいね。精神的にもそうだし、結果もついてこないだろうしね。あ、まあ今日はかぶせてしゃべれてなかったからそこのところを反省して次に生かすとしよう。声質何とかしとけって話かよと思ったね。声というのは相当イメージ変えるんだね。恐ろしいものだね。評価ががらりと変わるんだからね。食べ物を消化するように思考内容を文字化して書き記すという消化作業がない限り次への文の変形はないと思うね。つまり思考内容の変化に乏しく、同じところで躓いたままになってしまう。それは基本的に精神的な理由から身動きが取れなくなっている人にも当てはまるし、神経失調の人にも当てはまるんだろうけど、思考内容として同じところを回り続けているからではないかなとおもう。つまり、思考内容として今までの内容からブレークスルーして発展することが出来たならそういう症状というのは現れないとおもうのだ。まあ推測だが。にしても緊張するってのは思考に大いなる影響を与えるものだ。思考が瞬間瞬間を切り取った即物的な連携となるので、抽象的な言葉が使われにくくなる。というより複雑な議論を組み立てにくくなる。不安が高まるほど定義づいたものを頭で組み立てようとする。傾向といったほうがいいのかな。この概念はこういう傾向があるぞとか、この概念はこういう定義を立てることが出来るとかってのが勝手に浮かんでくる。大体５個くらい面白いのが浮かんでくるね。でも、書き留めるとまたそこからいろんな思考が浮かぶのでエンドレスな恐怖がわきあがってくるね。いつまでこんなことについて考えてるんだと。現実を考えないといけないのではないかと。</p>
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10606704495.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Aug 2010 03:22:48 +0900</pubDate>
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<title>時間！</title>
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<![CDATA[ 緊張はそのステージから抜け出せていないことを示している。現実には解決しても再び浮上したり、解決したと思ったらより大きな問題にぶつかるということが往々にしてある。レベルの同一性での話し、すり替えの話し、相手の本気度の確認、身近な話題と今話している話題との文中でのつなげであったり細かい細部過程のお話であったり色々あったが、やはり話も分析したくなるね。もちろん対応者へのスピーチのついでだけど。
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10605131618.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 14:03:45 +0900</pubDate>
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<title>方針ｈ</title>
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<![CDATA[ スピーチの練習、話の展開に関する練習、話の切り返しに関する練習、効果的な取り組みを進める。
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<link>https://ameblo.jp/hokutonoken2/entry-10605084683.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 12:56:54 +0900</pubDate>
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