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<title>本家蓬莱の戯言</title>
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<description>なんとなく適当な人生を送っているおっさんであるおいらが単に思った事あった事を徒然書いて行こうかな　と。</description>
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<title>今日の格言・名言：ナホバ族の格言　2015/5/25</title>
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<![CDATA[ 素晴らしい夢を見て　それを行動に移せ。<br>By ナホバ族の格言<br>（アメリカのニューメキシコ，アリゾナ，ユタの各州に住むアメリカインディアンの一民族）<br><br>ちょっとここ数日出張等で時間が取れず、ウンチクがおろそかになります。<br>申し訳ありません。
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<link>https://ameblo.jp/hourai222/entry-12030919190.html</link>
<pubDate>Mon, 25 May 2015 10:00:00 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：ウテ族の格言　2015/5/24</title>
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<![CDATA[ 家族の間に調和が保てれば、<br>人生は成功だ<br>By ウテ族の格言　（カメルーン共和国に住む部族）<br><br>カメルーン共和国は中部アフリカに位置する共和制国家です。<br>南西に赤道ギニアに隣接し、南西部が大西洋のギニア湾に面します。<br>首都はヤウンデで、フランス・イギリスの植民地だった事もあり<br>経済・文化等はフランスよりですが、1995年にイギリス連邦に加盟しています。<br><br>ウテ族はカメルーン中部のサバンナ地帯に住んでいて、<br>1978年調べの人口は3万5千人、いくつかの村落にまとまっています。<br>言語はアフリカ中南部で広く使われてるバントゥー語です。<br><br>男性は狩猟し、畑を耕して作り、<br>女性はその畑で主食のトウモロコシ等の植え付けと手入れをします。<br><br>ほとんどの男性が複数の妻で一家を構えます。<br><br>そりゃ、この格言が生まれるわ。ｗｗ
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<pubDate>Sun, 24 May 2015 10:15:00 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：柳生宗矩　2015/5/23</title>
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<![CDATA[ 刀剣短くば一歩進めて長くすべし。<br>By 柳生宗矩　（剣術家・大和柳生藩初代藩主）<br><br>何事も工夫次第でどうにでもなるもんです。<br><br>以下ウンチク・<br>「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立して「兵法家伝書」を残し後世の武術・武道に大きな影響を与えた人です。<br><br>1571年、大和国柳生庄（現・奈良市柳生町）生まれ。<br>父の新陰流の剣術家・柳生宗厳（石舟斎）が領地を没収され浪人となっていましたが、1594年、京都に徳川家康公が訪れた際に父が招かれて無刀取りを披露し、父と共に謁見し200石で公に仕えることとなりました。<br>1600年、会津征伐に従軍し、石田軍の動きをけん制する為、柳生庄に戻り<br>親交のあった筒井氏や大和の豪族と協力してこれを成します。<br>その後家康の元に戻り、関ヶ原の本戦では本陣で参加しました。<br>これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2000石を取り戻します。<br>1601年、後の2代将軍徳川秀忠公の兵法(剣術)指南役となり1000石加増されて3000石の大身旗本となります。<br>1615年、大阪の役で将軍・秀忠のもとで従軍、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人を瞬く間に倒したとされています。<br>1616年、友人でもあった坂崎直盛氏の反乱未遂事件の交渉をし、直盛氏の自害のみで事を治めると約束しましたが、後に幕府はお家を取り潰ししました。<br>結果、直盛氏を陥れた事となった宗矩氏は柳生家の家紋に副紋として坂崎家の二蓋笠加えて使い続けています。<br>1621年、後の3代将軍となる徳川家光公の兵法指南役となり、新陰流を伝授し、家光公からの信任を深めていきます。<br>1629年、従五位下に叙位、但馬守に任官、<br>1632年には3000石を加増され初代の幕府惣目付（大目付）となります。<br>1636年、4000石の加増で1万石となり、大名となり、大和国柳生藩を立藩しました。<br>1640年には、加増と亡くなった次男の遺領を合わせられ、計1万2500石になります。<br>唯一、一介の剣士から大名にまで立身した剣豪となりました。<br>立身出世の話で言えば豊臣秀吉公にかなわないでしょうが、それでも、ものすごい出世ですね。<br><br>幼少の頃から将軍の指南役として使え、剣術のみでなく心得に重きを置いて教えられ、絶大な信望を寄せられていた氏です。<br>家光公に「なぜ剣術が上達しないか」と問われ<br>「これ以上は心構えを鍛える事が必要です」と答え<br>そのためには禅が良いと、沢庵和尚を紹介しています。<br><br>柳生一族と言えば嫡子・柳生三厳十兵衞が有名ですが、あまりに十兵が奔放不羈なことに手を焼いています。<br>沢庵和尚からは<br>「父親がおかしいんだから、息子だってグレたくなるさ」<br>と言われ、落ち込んだそうです。<br><br>1646年、江戸麻布日が窪にある自邸で病床に臥します。<br>3月20日、家光公が見舞いに訪れた際には、病床にありながらも公の兵法諮問に答え、何か望みは無いか尋ねられた時に、残された子供達の事をお願いしています。<br>3月26日、亡くなられました。（享年76歳）<br>死因は生前の煙草好きから、肺がんであったのではないかと言われています。<br>仲の良かった沢庵和尚も、煙草の吸いすぎを<br>「このままではカク（肺病）になる、煙を遠ざけなさい。」<br>と注意していたのですが、氏は数メートルの長さのキセルを作らせて<br>「これで遠ざけましたｗｗ」　とか言っていたそうです。<br><br>家光公は氏の言葉通りに子供達を約束どおりの手厚い処遇にし、<br>その死を惜しんで従四位下に推挙しました。<br>その後も、何か問題があるごとに<br>「宗矩が生きていれば、尋ねるのに」<br>と口癖のように言っていたそうです。<br><br>剣術のみでなく、政にも手腕をふるい、幕府に強い影響力を持ちました。<br>この事から、多くの物語の中で、善悪どちらの役柄でも厳格で知勇兼備な強い権力を持った人物として描かれています。<br><br>「平常心をもって一切の事をなす人、これを名人と言うなり。」<br><br>その域に達する為、平気な顔をして、オネエチャンを口説きたいものです。
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<link>https://ameblo.jp/hourai222/entry-12030062084.html</link>
<pubDate>Sat, 23 May 2015 13:53:17 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：北米・ミンカス族のことば　2015/5/22</title>
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<![CDATA[ 感謝する理由がみつからないとしたら、<br>落ち度は、お前自身にある。<br>By 北米・ミンカス族のことば<br><br>すいません、今日のウンチクは多忙の為、お休みさせていただきます。
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<pubDate>Fri, 22 May 2015 17:10:00 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：ジミー大西　2015/5/21</title>
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<![CDATA[ エジソンの言葉で、99％の努力で1％のひらめきやって、<br>残した言葉があるんですけど、<br>あれは誰かが英訳間違えてるんとちゃいますか？<br>僕は99％の遊び心で1％のひらめきやと思うんですよ。<br>誰が99％も努力します？　しませんよ。<br>僕は楽しんだ思いますよ。<br>失敗して失敗して、失敗することを<br>楽しんでたと思いますよ 。<br>By ジミー大西　（画家）<br><br>やってるやってるぅ！！<br><br>以下ウンチク・<br>本名・大西秀明、大阪出身。<br>よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属タレント。<br>知らない人はいないでしょう、ジミーちゃんです。<br>生年月日はめでたく、1964年1月1日。<br><br>勉強は苦手で、小学校の時の成績表を見て母親が<br>「1、2、1、2、ってあんた、マラソンみたいやね」<br>と言ったそうです。<br>美術の成績も良くなく、空の絵を描く時も雲が象に見えて<br>そのまま象を描いて同級生に笑われたりしていました。<br>でも、担任の先生は大西君はこれでいいんだよ、とそのまま評価してくれていたそうです。<br>先生が絵を描かせる時に、ヘッドホンで音楽を聞かせてくれていたそうで、その為、氏は今でも作画中はヘッドホンをしています。<br><br>運動神経は良かったそうで、小中と野球部等で活躍し、高校はスポーツ推薦で大商大堺高校に行きましたがサインが覚えられなかった為、ずっとマネージャーだったそうです。<br>この高校時代にいじめられて、駅を通過する快速を止めてくれと強要され<br>裸で線路に落とされて電車を停めてしまい、学校は停学処分、さらに国鉄から賠償金を請求され、親が借金をして払っています。（数百万円と言われています）<br><br>就職先がなかなか見つからなかった為、担任が吉本興業に頼み込んで、在学中からアルバイトの形で入り込みます。<br>なんば花月の裏方をしている時に明石屋さんま氏に出会い、卒業後正式に吉本に入った際には、さんま氏の勧めによりぼんちおさむ師匠に弟子入りしました。<br><br>「あのボケが意図的であればチャップリン以来の大天才」と見ていた欽ちゃんと対談する事があり、その感想で欽ちゃんは「天然だったねぇ」と述べた事が「天然ボケ」という言葉の発祥だったとされています。<br><br>吉本興業から「ものにならん」と見放されかけていた頃、<br>さんま氏に「おれの運転手をやらへんか」と誘われた時に免許を持っていなかったため、さんま氏が費用を出して自動車学校の合宿に行かせました。<br>が、試験に何度も落ち（問題の漢字が読めなくて質問が判らなかった）、その都度さんま氏が金をださざるを得なかったため、後にさんま氏は<br>「もう一台、車が買えたね・・・」と言っています。<br>運転手時代、料金所で窓を開けるのを忘れて手を思い切りガラスにぶつけて骨折したというエピソードは有名です。ｗｗ<br><br>さんま氏の元ではさんま氏がジミーちゃんの魅力を存分に引き出していきました。<br>一発ギャグを覚え、天然ボケをいじられ、さんま氏との見事な連携は<br>北野武氏をして「パブロフの犬のような条件反射ですごい！！」と絶賛しています。<br><br>嗅覚は異常にするどく、警察犬にひけを取りません。<br>何度かテレビで紹介されていますが、女性が来ていた服をどの人が着ていたか当てる、とか履いてたスリッパを当てる、とかしています。<br><br>テレビの番組で絵の上手いタレントが描いた絵はいくらで売れるか　みたいな企画が有り、絵の心得のある人たちに混ざってオチとして呼ばれた氏の絵が、思いもよらず最高額をたたき出します。<br>上岡龍太郎氏に、自身の絵画を褒められ、岡本太郎画伯に「君は画家になりなさい」と手紙をもらい画家の道を歩き始めます。<br><br>氏は自分の事を画家ではなく絵描きだと言っています。<br>「大切にしているのは思いつきやひらめき、<br>技法を追求したりはしないので<br>画家ではなく、絵描きでいたい。」<br><br>現在、二つの仕事の切り替えは上手くできないという理由から、画家として活動しています。<br>芸人としてほぼ引退する事に対して松本人志氏は<br>「もったいないな、あいつには誰も勝たれへんで」<br>と惜しむコメントをしています。<br>今では、その天然ボケがテレビで見られるのは、さんま氏からの出演依頼、ダウンタウンの笑ってはいけないへのビデオ出演くらいでしょうか。<br><br>1997年、当時の担当マネージャーの椎木真由美さんと結婚しています。<br>スペインに同行した夜に夜這いし、その後結婚までこぎつけましたｗｗ。<br>氏は結婚時の感想を<br>「彼女はこれからジミー大西というハンデを背負って行かなければいけない。」<br>としています。<br>家庭では、洗濯以外の家事はほとんど氏がしているそうです。<br>嫁の親戚筋から「昔のギャグは禁止」とかも言われているそうで<br>「結婚は耐えること」<br>と名言を言われています。ｗ<br><br>氏の絵は2003年・2005年とボジョレ・ヌーボー等のラベルデザインにも採用されています。<br><br>未だに精力的に絵描きとしての活動を続けている氏ですが<br>さんま氏に「人に画はならってはいけない」<br>と言われた忠告をかたくなに守り、自分の絵を貫いています。<br><br>天然ボケと言われ、障害があるのではと言われる氏ですが、<br>単に障害というモノではなくアスペルガー症候群ではないかと言われてます。<br>私は一般に知的障害とヒトくくりに言われているものの殆どは<br>コレなのではないかと思っています。<br>平均値でバロメーターが作られている人が”一般人”だとしたら<br>その有る面では確かに平均値を大きく下回っているが<br>他の何かにとんでもなく上回ってている所があるのがそれであると。<br>あとは、その才能の部分を見つけて伸ばす事が大切なのだと思っています。<br><br>どういう意図があったのか、今では計り知れませんが<br>岡本太郎画伯から、画伯の生前、紫の絵の具を贈られました。<br>氏の作品を見ると、その彩鮮やかな中に紫は使われていません。<br><br>「紫という色はとても難しい色で、今はまだ使う事はできない。<br>いつか貰った絵具で絵を描けるような画家になりたい。」<br><br>氏はこう述べて今も成長を続けられています。
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<pubDate>Thu, 21 May 2015 15:48:19 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：国木田独歩　2015/5/20</title>
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<![CDATA[ 実行せざる思付きは空想と称し、又た妄想と称す。<br>By 国木田独歩　（小説家・ジャーナリスト）<br><br>氏はこうも言っています。<br>「男女相愛して肉欲に至は自然あり。<br>肉交なき恋は事実にあらずして空想なり」<br>身体も許せないのに、心が許せるワケ、ないじゃないのｗｗｗ<br><br>以下ウンチク・<br>1871年、千葉県銚子の旅籠で旧龍野藩士の父・国木田専八が養生していた時、そこの女中・まんとの間に出来た子だそうです。<br>幼名を亀吉と言いました。<br>当時、まんは離縁して連れ子が居る状態、専八は国元に妻子が居ましたので戸籍上、まんの元亭主が父親となっています。<br>1874年、父はまんと亀吉を連れて上京し今の台東区に家を構えました。<br>ちなみに国元の妻との離婚が成立したのは1899年とかなり時間が経っています。<br>父は司法省の役人となり中国地方を転々とした為、氏は5～16歳まで<br>山口、萩、広島、岩国などに住んでいます。<br>少年期、学校の成績は優秀で読書好きだったそうですが、自分の出生の秘密について思い悩み性格形成に大きく影響したと言われています。<br><br>1887年、上京し翌年、東京専門学校（現在の早稲田大学）に入学します。<br>初作品「アンビシヨン（野望論）」を女学雑誌に発表、その他の雑誌にも寄稿するようになります。<br>1889年、哲夫と改名しました。<br>1891年、学校改革や校長への不信感から中途退学します。<br>しばらくは田舎に身を寄せ、釣りや野山の散策をし近隣の子どもを集めて英語や作文などを熱心に教えていたそうです。<br><br>1894年、「青年文学」に参加、民友社に入り「国民新聞」の記者となりました。<br>日清戦争に海軍従軍記者として参加し、弟に宛てた文体で「愛弟通信」というルポルタージュを書き、「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名になります。<br><br>帰国後、晩餐会で知り合った信子さんと熱烈な恋に落ちますが、彼女の両親から大反対されますが、彼女を家から勘当させて結婚し、伊豆で生活をはじめます。<br>しかし、あまりの貧困生活に耐えられず帰郷し両親と同居します。<br>翌年信子さんが失踪し協議離婚となります。<br>信子さん側から見た手記があり、氏は理想主義的である反面かなり独善的で男尊女卑的な人物であったと書かれています。<br><br>1896年、今の渋谷区に居を構え、作家活動を再開します。<br>1898年、下宿の大家の娘・榎本治（はる）さんと結婚します。<br>後に治さんは、国木田治子の名前で小説を発表しています。<br><br>二葉亭四迷氏がツルゲーネフ氏の「猟人日記」の一節を逐語訳した「あひゞき」に影響され、「武蔵野」「初恋」などを発表し、浪漫派として作家活動を始めました。<br>「牛肉と馬鈴薯」「鎌倉夫人」「酒中日記」と書き続け、<br>1903年発表の「運命論者」「正直者」で自然主義の先駆となります。<br><br>新しい文体で綴るこれらの作品は高評価を受けながらも、まだあまり理解されず、物書き一本では暮していけなかったそうです。<br>そのため「報知新聞」の記者を経て、政治家・星亨氏の機関紙「民声新報」の編集長となり手腕を振るいますが、すぐに星氏が暗殺され退社となります。<br>再び生活に困窮した為、妻子を実家にやり、その後、作家仲間の友人たちと鎌倉で共同生活をしています。<br><br>1903年には月刊のグラフ雑誌「東洋画報」の編集長となります、半年後には雑誌名が「近事画報」となり、1904年に日露戦争がおこると戦況をいち早く知らせる為、月間を月3回発刊として雑誌名を「戦時画報」と変えます。<br>1906年、新しい雑誌を次々企画・創刊しました。<br>子供向けの「少年知識画報」「少女知識画報」<br>男性向けの芸妓の写真を集めたグラビア誌「美観画報」<br>ビジネス雑誌の「実業画報」<br>女性向けの「婦人画報」<br>西洋の名画を紹介する「西洋近世名画集」<br>スポーツと娯楽の雑誌「遊楽画報」<br>等々。<br>新雑誌の売上げは上がりましたが、肝心の「近事画報」は落ち込み、<br>近事画報社が解散すると独歩社を創立し、「近事画報」等５誌の発行を続け、漫画雑誌なども出しました。<br>しかし、1907年に独歩社は破産してしまいます。<br>この破産までの様子を、先の治さんが書き連ねたものが、そのまま「破産」という作品です。<br><br>肺結核にかかってしまった氏は、茅ヶ崎の結核療養所で療養生活を送りつつ「竹の木戸」「窮死」「節操」を発表しました。<br>しかし、病状の悪化で1908年6月23日、亡くなられました。（享年３６歳）<br><br>ちなみに、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で 宮本龍一役を演じた俳優の中島歩氏は、国木田独歩氏の玄孫です。<br><br>「人生は戦場なり。<br>何物、何事、何人に対しても仇討ちの覚悟をもって戦うべし。<br>死すとも勝つの覚悟あれ」
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<pubDate>Wed, 20 May 2015 11:31:08 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：勝海舟　2015/5/19</title>
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<![CDATA[ 成すなかれ、天意に違うことを。<br>By 勝海舟　（武士・政治家）<br><br>良い行いをする、コレに尽きます。<br>まぁ、我々凡人はワルイコトも色々しちゃうんですがねぇ。<br><br>以下ウンチク・<br>1823年、江戸本所の生まれ。<br>曽祖父・銀一は貧農の出でありまがら盲人であるために許されていた高利貸しを江戸で営んで成功し、巨万の富を得て盲官の最高位の検校となり「米山検校」と名乗りました。<br>そして銀一は長男の忠之丞に御家人・男谷（おだに）家の株を買い与えました、これにより武家の仲間入りをするわけです。<br>そして忠之丞の孫であり海舟氏の父である小吉は三男だったので<br>小普請組という無役で小身の旗本である勝家に婿養子に出されました。<br>父の生家である男谷家で７歳まで過ごし、その後は赤坂に出るまで本所入江町（現墨田区）で暮しました。<br>男谷家があった場所は現在、両国公園となっており、公園内に碑が建てられています。<br><br>9歳の時、漢文を習いに行く途中で野良犬に襲われ、睾丸をひとつ噛み千切られました。<br>当時父・小吉は脚気で寝込んでいましたが、連絡を受けるとスグに駆けつけ、医者からも「もう命は助からないだろう」と言われた氏をカゴに乗せ家に連れ帰り、他の外科医を呼び寄せて傷を縫わせました。<br>この医者も助かる見込みは薄いと答えましたが<br>父は庭に出ると裸で水垢離をし息子が助かるよう必死で祈っては氏の元へ行き大声で鼓舞するという事をはじめ、<br>なんと氏の意識が戻る70日あまりの間これを続けたそうです。<br>このトラウマで肝が据わっていて怖いものなしと言われた氏も、犬だけは怖がったそうです。<br><br>父、小吉は「不良旗本」といわれ、自由奔放に生きていましたが<br>胆力が備わっていて喧嘩は強く、人に借金を頼まれると自分が困っていてもなけなしの金をポンと渡してやるような人でした。<br>氏は父親の強い愛情を受けながら、その生き方に大きく感銘していたでしょう。<br>ちなみに、犬に片金にされた氏ですが、父も崖から落ちた怪我で片金つぶしています。ｗｗ<br><br>氏は幼少時代から勉強熱心で、剣術は直心影流の免許皆伝の腕前で、兵学は山鹿流を習得、蘭学も熱心に勉強しました。<br>この蘭学修行中に辞書「ドゥーフ・ハルマ」を1年かけて一部は自分用に、一部は売って金にする用に、二部筆写しました。<br>蘭学者・佐久間象山師の知遇を得て師の勧めで西洋兵学も修め、<br>田町に蘭学と兵法学の私塾を開いています。<br><br>1853年、黒船来航の時、幕府が開国に対しての意見書をあらゆる人たちから募集した時、これに意見書を出し、時の老中首座・阿部正弘の目にとまります。<br>そして幕府海防掛だった大久保忠寛と知り合った事から役入りしました。<br>その後、長崎海軍伝習所に伝習生として入門すると、数週間で聞き取りも出来るようになった為、教監も兼ねるようになり、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めました。<br>そのため長崎では足かけ５年、過ごす事となります。<br>この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬と知り合い、後の行動に大きく影響する事となります。<br><br>1860年、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節を米国へ派遣し、その護衛として咸臨丸が同行し教授方頭取として氏が乗船してます、通訳にジョン万次郎、そして福澤諭吉も同乗していました。<br>行きの航海では氏を含め殆どの日本人はひどい船酔いでまったくの役立たず、ほぼ同乗してくれていた米海軍の人達で航海していたそうです。<br><br>帰国後、他の役職に付いていましたが、1862年の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任しました。<br>碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港であるので神戸港を日本の中枢港湾にすべしと考え、神戸に海軍塾を作ります。<br>薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしました、氏は官僚らしくない闊達さで彼らを受けいれ、受け入れられたそうです。<br>さらに、神戸海軍操練所も設立しました。<br><br>幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指した事で保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送ります。<br>蟄居生活の間、多くの書物を読み、更に造詣を深めていきます。<br>1864年、大阪にて西郷隆盛と会います。<br>語り明かした二人は意気投合し、西郷氏は勝氏を賞賛する書状を大久保利通宛に送っています。<br><br>1865年、淀川の警備の為に右岸に高浜台場、左岸に楠葉台場を奉行として完成させています。<br><br>1866年には軍艦奉行に復帰しましたが、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任された際、宮島大願寺での談判に臨み長州の説得に成功しましたが、慶喜も動いていて停戦の勅命引き出しを画策、コレを得た事に憤慨し<br>御役御免を願い出て江戸に戻ってしまいます。<br><br>1868年、官軍の東征が始まり徳川家の家職である陸軍総裁として呼び戻され、後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う事となります。<br>そして早期停戦と江戸城の無血開城を主張、和平交渉を画策します。<br>これによって最悪なシナリオは避ける事がました。<br><br>維新後、氏は外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任します。<br>このころ伯爵に叙されています。<br>大日本帝国憲法制定時の枢密院審議では、枢密顧問官として出席していました。<br>維新直後から30余年にわたって新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用し、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を活動されました。<br><br>非常に大きな視野を持ち、日清戦争では反対の立場をとりました、<br>曰く中国の大きさを説き、共に手をとり欧米へ対抗しようと述べています。<br><br>晩年は、赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼されて資金援助を受け、何冊もの本を執筆・口述・編纂していますが、あまりに先見すぎたり話を大きくしすぎたりしてホラ吹き扱いされることもあったようです。<br><br>正妻、民子さんの他に5人のお妾さんが居て本妻に4人、お妾さん達に5人、計9人の子供達が居ます。<br>民子さんは九人の子供を分け隔てなく可愛がり、屋敷の人々から「おたみさま」と呼ばれて慕われたそうです。<br>但し、亡くなる時には勝氏の隣の墓には入りたがらなかったそうです。ｗ<br><br>1887年に従三位を授与され、1888年に正三位を昇叙しています。<br>1889年に勲一等旭日大綬章を授かります。<br>死後、贈正二位を賜っています。<br><br>子供達の不幸に悩み続けた不幸な晩年を過ごしていたそうです。<br>1899年、風呂上りに脳溢血を起こし、倒れているところを女中が見つけ、<br>生姜湯をくれと言われたその女中が間に合わないのでと渡したブランデーを飲んでから意識不明となり、そのまま亡くなられました。（享年77歳）<br><br>最後の言葉は<br>「コレデオシマイ」
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<pubDate>Tue, 19 May 2015 14:28:06 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：マーク・トウェイン　2015/5/18</title>
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<![CDATA[ 私に批判的な人たちが私のことを何と言おうと、<br>彼らが真実を語らない限りは気にしない。<br>By マーク・トウェイン　（米　小説家）<br><br>本当の事を突かれると、腹たつんですよねー。<br><br>以下ウンチク・<br>マーク・トウェイン氏は本名サミュエル・ラングホーン・クレメンスと言いフロリダで判事をしている父の元に６人兄弟の５番目として生まれました。<br>生まれた1835年はハレー彗星が観測された年でした。<br>４歳の時、ミズーリ州ハンニバルに移りますが、ここは舟運で栄え、日夜人が来る賑やかな町でした、後の氏の作品の場所や登場人物のモデルになったと言われています。<br>クレメンズ家は奴隷を連れていました、当時のミズーリ州は、まだ奴隷の所有が許されていました。<br>ただし、それほどひどい扱いではなく、住み込みの使用人のような存在で<br>女中のジェニーは第二の母親のようなもので、奴隷の子供達も遊び仲間でした。<br>この環境が後の名作を生みます。<br><br>1847年、氏が12歳の時、父が多くの負債を負ったまま他界したため、長男のオーリオン氏はすぐに新聞の出版を始めました。<br>印刷工場からの帰り道、風で足にまとわりついた紙を見ると、ジャンヌ・ダルクの人生を記したものだったそうです。<br>それから氏は図書館に通い始め、ジャンヌの本を読み、文学に触れていきます。<br>氏はその手伝いに2年間にわたって従事していましたが、<br>その新聞で最も活発な論争の的になった記事のいくつかは、兄が見てないウチに書いた氏の手によるものでした。<br>その後、ミシシッピの蒸気船で働き17歳の時に印刷工としてセントルイスへ移ります。<br>1857年に蒸気船の水先人見習い、1858年に資格を取得して同水先人となります。<br>南北戦争が始まると舟運の仕事が激減した為失業し、アメリカ連合国軍に志願しました。<br>少尉として従軍しましたが疲労による戦闘不能で除隊（もしくは脱走とも言われています。）しています。<br><br>1862年にいくつかの新聞の記者になり、取材した記事を書きつつ、自分の創作のホラ話を風刺の意味で載せたりしていました。<br>1863年に、ペンネーム：マーク・トウェインを使い出します。<br>これは川を蒸気船が航行する際の測深手の水先人への合図、<br>“ｂｙ ｔｈｅ ｍａｒｋ，ｔｗａｉｎ”<br>からとったものでこれは水深２尋という意味の水夫用語で蒸気船が座礁せず安全に通航できる限界の浅さです。<br>なんとか安全に通れるよ、という意味のペンネームを使う所に<br>氏のスタンス、ペーソスが伺えます。<br><br>1869年に新聞に長期連載したヨーロッパ旅行体験記が出版され評判となり、以降も長編旅行記をいくつか出版しています。<br>1870年、オリヴィアさんを娶り、コネチカット州ハートフォードに住んで執筆活動に励みました。<br><br>ちなみに、自分の本を戸別訪問のセールスマンに売り歩かせた、最初の作家だそうです。<br><br>氏は多くの作家達に、酷評めいた手紙を書きましたが、オリヴィアさんはそれを出してきたフリをして、一つも投函しませんでした。<br>もしそんなものをばらまいていたら、敵も増え大変な事になっていたのでしょう、グッジョブ！<br><br>後世の著名な米国作家たちはこぞって氏を絶賛しています。<br>最初の真のアメリカ人作家であり、我々の全ては彼の相続人である<br>By ウィリアム・フォークナー<br>あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィン」と呼ばれる一冊に由来する<br>By アーネスト・ヘミングウェイ<br><br>アメリカの文豪達は子供の頃にトム・ソーヤやハックルベリーに自分を重ねて読んでいたことなのでしょうね。<br><br>投資癖があり、いくつもの投資をしては失敗しています。<br>そのくせグラハム・ベルから電話機の投資話の時には乗らずに後で思い切り後悔したそうです。ｗｗ<br>1891年には投資の失敗を補う為に世界中で講演を行うに至っています。<br>1893年、 ヘンリー・H・ロジャーズ氏の助力を得て、資産の再編成を行いました。<br>このロジャーズ氏はトウェインの姪の娘であるジーン・ウェブスターさんの作品、「あしながおじさん」のモデルと言われています。<br><br>1895年、自分を作家の道に導いてくれたジャンヌ・ダルク伝記を、10年程度かけて完成させています。<br><br>70歳を越えた頃から、人は自分にあった服装をするべきだ　として<br>白い服しか着なくなりました。<br><br>1910年、ハレー彗星が75年ぶりに地球へ到達。<br>ハレー彗星の来た年に生まれた氏は、かねてから<br>「私はハレー彗星とともに地球にやってきたので、<br> ハレー彗星と共に去っていくだろう」<br>と長年言っていましたが、その言葉どおり、<br>この日に心筋梗塞で亡くなりました。（享年74歳）<br><br>「じゃ、また。いずれあの世で会えるんだから。」
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<link>https://ameblo.jp/hourai222/entry-12028077206.html</link>
<pubDate>Mon, 18 May 2015 12:53:54 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：森鷗外　2015/5/17</title>
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<![CDATA[ 人に言うべきことは、最後まできちんと言うが良い。<br>全部は言いたくない事だったら、むしろ初めから黙っていよ。<br>By 森鷗外　（小説家・医学博士）<br><br>わーわー言うとりますが。<br><br>以下ウンチク・<br>押しも押されぬ日本の文豪です。<br><br>本名・森林太郎、1862年今の島根県津和野で代々津和野藩主、亀井家の御典医をつとめる森家に久々の嫡男として生まれました。<br>その家柄から幼い頃から論語や孟子、オランダ語などを学び9歳当時ですでに15歳並みの学力があったとされてます。<br>1872年に廃藩置県などをきっかけとし、父と上京し官立医学校への入学に備えてドイツ語を学びます。<br>家族たちも津和野を引き払って父が経営する医院のある北千住に住み移りました。<br>1873年、第一大学区医学校（現・東大医学部）の予科に入学します。<br>入学資格が15歳以上だった為、2歳年を誤魔化していました。<br>1881年、19歳で本科を卒業する時は席次が8番だったため、研究者として大学には残れませんでした。<br>卒業試験前に火事騒ぎでノート類をなくしてしまったり、勉強せずに本を読み漁ったりしてたせいらしいですが、それでも他の学生達より5歳以上年下だと考えると、ずいぶん秀才だったようです。<br>その時、主席卒業した後の東京帝国大学名誉教授・三浦守治氏は鷗外氏の秀才ぶりに一目置いていてライバル視していました。<br><br>結局卒業後、父の医院を手伝っていましたが、同級生達が陸軍軍医本部に推薦していたり、親友の勧めもあって陸軍軍医副（中尉相当）になり、東京陸軍病院に勤務しだしました。<br>半年後には軍医本部付となり、仕事の結果を出します。<br>ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられ1882年10月にベルリンに入ります。<br><br>1888年に帰国するまでの間、ドイツ各地でいろんな知識を得て、数多くの著名人と親交を深くし、多くの称賛を得ています。<br>それだけでなく、ロマンスもかなりあったようで、帰国した氏を追っかけてドイツ人女性のエリスさんが来日してしまいますが、どうも手切れ金を握らせて追い返したようです。<br>彼女とは後年、文通などもして繋がっていたようですが、これが「舞姫」の素材の一つとなっている事は言うまでもありません。<br><br>1989年、読売新聞の付録に小説論を発表、その後も高い語学力に裏づけられて外国文学の翻訳に実力を発揮していきます。<br>ドイツ語のArbetを日本語に訳して「業績」という言葉を作ったとされています。<br>写真婚で、赤松登志子さんと婚約しました。<br>東京美術学校（現東京藝術大学）の美術解剖学講師を委嘱されました。<br>1990年、長男・於菟誕生、その後すぐに登志子さんと離婚します。<br>赤松登志子さんは赤松則良海軍中将男爵の長女でした、家柄で母が決めた相手らしいですが、嫁姑の折り合いも悪く、結婚1年半で協議離縁しています。<br>面食いだった鷗外氏には容姿に不満があったとか、出産が難産でSEX恐怖症になり、性欲旺盛な鷗外氏に応じなかったとか言われても居ますが、新婚生活中に「舞姫」を発表され、旦那が他の女（しかも異人）に未だに執心している事を知っていたという事も大きな要因かもしれません。<br><br>1892年に慶應義塾大学の審美学講師を委嘱されています。<br>1894年日清戦争が起こり日本を離れます。<br>戦争収束後、4ヶ月ほど台湾で勤務して帰京しました。<br><br>再婚するまで10年間開いています、その中で女性の話も出てきますが、<br>息子の森於菟氏がその随筆の中で、児玉せきさんという愛人の事を書いています。<br>「自然の生理的必要に対する解決のために契約したので、<br>やはり祖母が父のために勧めたのが主な動機と考える。<br>心がけの良いおとなしい美しい、そしてもう一つ進んで言えば子供を生みそうにもない婦人であったが、その他に格別取り柄もなく父の配偶としはふさわしくない。<br>こんな関係がある期間惰性で続き、終わりにその人の生来を傷つけずに解消し、周りの者が心配した父の名誉も損なわれなかった」<br>いわゆる石女（うまずめ）である事が母が愛人として勧めた理由の一つだったのでしょう。<br>そして鷗外氏は一人に長く決める事の危険性を反省して<br>「性生活の処理は結婚以外は一つの対象に集中してはいかぬ。<br>散らしにしておけ」<br>と息子に言っています。<br>酒を好まず、甘いモノ好きな氏は催しに呼ばれた時以外は呑まなかった為、遊郭とかそんな所に行かなかったらしいです、息子には処理するのなら金で済む手軽なところにしておけと。ｗｗｗ<br><br>1896年、「めさまし草」を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭とされました、この頃から論争的であった評論的啓蒙活動は穏健的になっていきます。<br><br>1899年、軍医監（少将相当）に昇進、西部提督部のあった小倉にて第12師団軍医部長に任命されます。<br>これは、最初の妻赤松登志子さんと離縁した為政治的な強い後ろ盾がなくなり、体よく左遷させられたと言う説もあります。<br><br>1902年、母の勧めにより、18歳年下の荒木志げさんと見合い結婚をしました。<br>バツイチ同士の再婚でしたが、彼女は美しく才媛で、鷗外氏にして「美術品ラシキ妻」と言わせるほどで、相変わらず嫁姑戦争はありましたが、彼女はそれに遅れをとらず晩年まで仲良く暮らしています。<br>同年、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任しました。<br>1904年から1906年の間、日露戦争に第2軍軍医部長として出征した後、<br>1907年、陸軍軍医総監（中将相当）に昇進し、陸軍省医務局長（人事権をもつ軍医のトップ）に登りつめました。<br><br>日露戦争の時、戦争によるものより、かっけにより死ぬ兵士が多く出ました。<br>この時、鴎外氏達は「かっけ伝染病説」を強く支持しており、すでに海軍では麦飯を食わせる事だけで改善される事が判っていたのに患者を隔離してしまい、25万人とも言われる多大な死者を出しています。<br>コレに対する責任はうやむやにして全く取っていません。<br>医学的には、発表した論文もほぼ借り物のようなものばかりで、習う事、文学に関しては高い能力を持っていましたが、医師としては疑問が残ります。<br><br>1909年に「スバル」が創刊されると、毎号寄稿するなど創作活動を再開します。<br>「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に載せ、「仮面」「静」の戯曲を発表し、東京帝国大学から文学博士の学位を授与されます。<br><br>が、「ヰタ・セクスアリス」はその題名から卑猥な小説だと考えられ発禁処分を受けてしまいます。実際には直接的なヒワイな描写はなくて主人公が哲学的に性的体験を考えるって話なのですがｗｗ。<br><br>1910年、慶應義塾大学の文学科顧問に就任します。<br>この後も精力的に多くの作品を発表していきます。<br><br>1916年、陸軍省から退き、帝室博物館（現東京国立博物館）総長兼図書頭や帝室制度審議会御用掛に就任します。<br>1918年には帝国美術院（現日本芸術院）初代院長に就任しました。<br><br>1922年7月9日、肺結核から来る腎萎縮のために亡くなられました。（享年60歳）<br><br>娘さん達の著書によると「饅頭の茶漬け」を好んで食べていて、<br>あんこが好きで、汁粉もよく飲み、木村屋のあんぱんも好物だったそうです。<br>果物を煮たもの（細菌学を学んでから生ものに手を出さなかった）が好きで、最後に食べたものも、桃を煮たものだったそうです。<br><br>遺言は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」から始まり、その墓碑には他に何も書くなとされていたため、書家・中村不折氏の筆でその名前が記されています。<br>鴎外氏の墓は東京都三鷹市の禅林寺にありますが、鴎外氏を尊敬していた夏目漱石氏はその向かい側に墓を建てました。<br>「森林太郎」としか書いてない質素な墓石のため、桜桃忌の時期には何も知らないカメラマンがよじのぼって写真をとる際の足場にしていた事が何度もあったそうです。ｗｗｗ<br><br>鴎外氏の子孫は有名なモノ書きになった方がやはり多いのですが、ドイツ留学も含め外国暮らしが長く、語学が堪能な氏は子供達に「パッパ」と呼ばせ、当時とすればとんでもない名前をつけまくってます。<br>長男 於菟（おと）<br>その子供達：真章(まくす）富(とむ）礼於(れお）樊須(はんす）常治(じょうじ）<br>長女 茉莉（まり）<br>その子供達：爵（じゃく）<br>次女 杏奴（あんぬ）<br>次男 不律（ふりっつ）<br>三男 類（るい）<br>ついでに類氏の子供達：五百（いほ）佐代（さよ）りよ<br>[類氏の子供達はみな、鴎外氏の作品のヒロインの名前です]<br><br>氏の名言の中で、我々でも最もよくわかる言葉があります。<br>「実に敵という敵の中で　山の神ほど恐ろしい敵はない。」
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<pubDate>Sun, 17 May 2015 15:57:32 +0900</pubDate>
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<title>今日の格言・名言：貝原益軒　2015/5/16</title>
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<![CDATA[ 酒は天の美禄なり。<br>少量飲めば陽気を補助し、血気を和らげ、食気をめぐらし、<br>愁いを取り去り，興を起こして大変人には有用である。<br>しかし、たくさん飲むと、酒ほど人を害するものはない。<br>ちょうど水や火が人に役立つと同時に、<br>場合によっては人に災いをもたらすようなものである<br>By 貝原益軒　（本草学者・儒学者　「養生訓」より）<br><br>呑みすぎちゃダメでっせ。<br><br>以下ウンチク・<br>貝原益軒（かいばら えきけん）は1630年生まれ、江戸時代の本草学者、儒学者です。<br>筑前国（現在の福岡県）福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれました。<br>名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒（晩年に益軒）、通称は久兵衛と生涯で沢山の呼ばれ方をしています。<br>生まれた当時はまだ、藩の役制が定まっていなかった為、父寛斎はいろんな場所で役目に付きました、この事で幼い頃から庶民の生活に接していて、視野を広げ、庶民の事も考えられる柔軟な考えを持つに至りました。<br>神童と呼ばれ、兄が習っていた和算の本を読み、理解していました。<br>コレを見た父は「幼くて頭がいいのもいいが、この子は長生きしないだろう」と嘆いていたそうですが、どっこい86歳まで長生きしています。<br>この長生きの秘訣はやはり「養生訓」だったのでしょう。<br><br>19歳の時、黒田藩2代目の黒田忠之に衣服調達の出納係として召抱えられますが、藩主に遠慮なしに進言して叱責を受け謹慎させられ2年で任を解かれます。<br>このいわゆる浪人時代、長崎に出向いて船載新書を多数読み、生活の為医学の修行をして過ごしました。<br><br>26歳の時に江戸詰めしている父の身の回りの世話をするという名目で江戸に上ります、この時父は益軒をあちこちにつれて行き紹介しまくったので<br>次第に藩内での知名度が上がりました。<br>27歳の時、忠之が隠居し、3代藩主・光之となった時に許されて藩医として帰藩します。<br>翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を7年間学ばせてもらいました。<br>留学を終え、戻ると150石の知行を与えられ、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担いました。<br><br>39歳の時に22歳年下の秋月藩士江崎広道の娘・初を娶り、東軒夫人とします、共に初婚だったそうです。<br>夫人はとても達筆で、反面益軒は悪筆だったため、書きモノはほとんど夫人がしていたそうです。<br>益軒の書いた　とされる軸モノはほとんどが贋作と言われています。<br>益軒はたいへんな旅好きで、学問のためもありますが、江戸に12回、京都に24回上っていて、旅行携帯品のメモ帳が3冊残っています、<br>このため新しい紀行文学を開いたとも言われています。<br>益軒は何度も夫人を伴って旅をしています、何故かというと<br>「軒さんがきっと嫉妬深かったからだろう」と言われています。ｗｗ<br><br>藩命により「黒田家譜」を編纂し、藩内をくまなく歩き回り「筑前国続風土記」を編纂します。<br><br>光之に45年仕えて70歳で役を退き著述業に専念する事となります、<br>その著書は生涯に60部270余巻に及ぶとされています。<br><br>貝原益軒が外出していた間、ある若者たちが庭で相撲を取って<br>益軒が大切に育てていた牡丹の花を折ってしまいました。<br>益軒は少しも腹を立てた様子が無く、このように言いました。<br>「自分がぼたんを植えたのは楽しむ為であって、怒る為ではない。」<br>益軒はそのまま、この若者を許したそうです。<br><br>「自分が損をして相手を助けていると、いつかそれが益になって返ってくる」<br>という考えを持っていたため、損軒という名前を使っていましたが、<br>78歳にしてようやく　益になった　として名前を「益軒」と変えました。<br><br>1712年、84歳のこの年、50歳頃から試し書き貯めていたものから、<br>長寿を全うするための身体の養生だけでなく、精神の養生も説いていて<br>一般向けの生活心得書として広く民衆に愛され続けている「養生訓」を書き上げます。<br><br>この中で、養生視点の三楽<br>一、道を行い、善を積むことを楽しむ<br>二、病にかかることの無い健康な生活を快く楽しむ<br>三、長寿を楽しむ。<br><br>長寿をまっとうする条件である抑えるべき四つの欲<br>一、あれこれ食べてみたいという食欲<br>二、色欲<br>三、むやみに眠りたがる欲<br>四、徒らに喋りたがる欲<br><br>を述べています。<br>欲は四つとも私の大好きな奴だわ・・・<br><br>1714年、東軒夫人が62歳で亡くなると、益軒もがっくりきて寝こんでしまい、あとを追うように1年を経ずして亡くなりました。（享年86歳）<br><br>1911年　正四位を与えられています。<br><br>「心は楽しむべし、苦しむべからず。<br>身は労すべし、やすめ過すべからず。<br>凡そわが身を愛し過すべからず」
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<link>https://ameblo.jp/hourai222/entry-12027265210.html</link>
<pubDate>Sat, 16 May 2015 13:39:08 +0900</pubDate>
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