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<title>ミッドタイムスのブログ</title>
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<title>気分は変わる・・・2015年へ</title>
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<![CDATA[ 僕も相当気分が変わる、また左右されるみたいだ。<br>このブログもかなりな間手をつけることができないまま時が過ぎた。<br>そして間もなく2015年へと移り変わってゆく。<br><br>目指す星を見失うとこうなるのだろう。<br>また意味を求めすぎると論理を考えすぎてしっまって進路を見失ってしまう。<br>何を書いているかわからないだろうが、われわれは多様な次元に囲まれていることに目覚めた。<br>その足場が流れてしまっては言葉は出ない。<br><br>時空の放浪者・・・<br><br>今日の空
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11971589572.html</link>
<pubDate>Wed, 31 Dec 2014 23:42:37 +0900</pubDate>
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<title>おいしいはずだよ、いなり寿司。</title>
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<![CDATA[ おいしいはずだよ、いなり寿司。<br><br>食べ物にどれだけ手が掛かっているか考えた。手はずとし。<br><br>たとえばこの場合チーズといなり寿司を例にとって見た場合、こうなる。<br>牛を飼う→乳を搾る→菌と一緒にして数日待つ。→出来上がり。楽な作業ではないにしても、内容的に約3工程だ。<br>比べて「いなり寿司」。<br>豆を栽培する→豆をもぎ集荷→豆を細かく砕く→豆腐を作る→豆腐を油で揚げる→だし汁で煮る→ご飯を炊く→油揚げにご飯をつめる→出来上がる、となる。<br><br>にがりを作る工程も別にあるだろうが別にして、ここに書き出したがけで8工程もある。<br>あんなに簡単そうで、その技を語られないいなり寿司にして、口に入るまで何気なくこれだけの手が掛かっているのである。それだけではなく、豆からにがりとあわせ豆腐を作る。一度立派な食べ物として仕上がった豆腐をさらに揚げる。このように創意と工夫に飛んでいるのだが、いったいどのようにして考えられ生まれたのだろうか？<br><br>いなり寿司にちなみつくづく思うのである。<br>あんな庶民的で日陰（失礼、そうではないかもしれないが）の食べ物にもこれだけ人の手が掛かっているのである。かめばかむほど味が出るとたとえられる「スルメ」に対抗して、かめばかむほど愛がにじみ出ると「いなり寿司」を賞賛したい気持ちである。贅沢三昧になってきた世の中、他にも見過ごされている逸品がありはしないだろうか。さらに気をつけて誠実にまなざしを向けてみたいものである。<br><br>美味しいはずだよね！<br>
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11925257521.html</link>
<pubDate>Mon, 15 Sep 2014 15:48:33 +0900</pubDate>
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<title>地球鎖国時代-江戸時代をしのぶ</title>
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<![CDATA[ 爪切った<br>　　数日前の<br>　　　　　日々いずこ・・・<br><br>いまやIT時代に突入し、要不要関わらずものすごい量の情報が地球上を走り回っている。ここで大事な事は、政府や軍隊だけが閲覧できるという代物ではなく、一般人に対してもツーカーの、オープンな情報源となっていることだろう。今僕が知りえた　事が同じときに違った場所で、（たとえばエジプトで）同じ事が知り得るのである。これで子供達がアマゾンの川底の魚についてなど知ってたりするわけだ。体験の無い知識というのは怖いものだがここではそのことではなく、交通機関など全ての「スピード化時代×IT時代」が意味することは、地球上の全ての国々が一つの地方都市的側面を持ち始め、地球が一つの国として鎖国に入ったような時代を迎えるということである。<br><br>かつての地理的、知識的、習慣的距離は無くなっていくであろう。敵国はいずこ？という設問ははるか先に考えることにして、これと同様な聞き覚えのあることばは江戸時代の、日本鎖国時代である。我々は全世界の中で既に「鎖国」を実体験しているのである。シミュレーションするにしても相当現実味を持たせられるであろう。この国は、生体実験ならぬ直の実験をすでにやってた国である。<br><br>僕が触れたいのは子に時代に醸成されたであろう、文化・人間の営みで起こる問題の交通整理、というものである。<br><br>この資源を利用しない手は無いだろう。僕はものすごく価値のある現実だと想う。世界で紛争が起き繰り返し争い、人々を犠牲にしているこの時代に、むしろ未来に役立つものが相当秘められていると想う。<br><br>戦争の件もそうだが、一番知るべきはアメリカとか中国とか韓国とかいう外国人ではなく、それらの現実を踏みしめて育っている本人、我々日本人こそが自分のことを（自分の価値観でいいから）知るべきであろう。教育の原点はそこにあるとも思う。またたとえば戦争の件で靖国どうのこうのと外国を気にする前に、本当に失礼なことをしたのは我々日本人に対してなのだ、と認識してもらいたいものである。正義だ国益だ安全のためだと詭弁を弄しながら我欲に基づいて歯止めが利かなかった利己的な動機だったと、立派な言葉を並べる前にかみ締めてほしいものである。本当の「仕方が無かった・・・」ことについての判断も正反対に変化するであろう。<br><br>話の要点が逸脱してしまったが、要するに、我らの資源を見直したいというものである。単なるはやり、すたりではなく、こういう教育に出会いたかった。マッカーサー氏に巧妙に方向を変えられてしまったのはなんだったのか、敵ながら尊敬するという発言は、それを見極めてから言ってほしいものだ。<br><br><br>今見たら、エキサイト翻訳サイト・ビジネス版にちょうどこんなのが乗っていた。<br><br>世界を動かそうと思ったらまず､自分自身を動かせ｡ - ソクラテス<br><br>そうかもね・・・・・・・・<br>
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11915994010.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Aug 2014 16:06:44 +0900</pubDate>
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<title>「みんないっしょ」の価値感</title>
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<![CDATA[ 考えることややることに関し、なんでもかんでも「みんないっしょ」という風習がある。個人的に感じるのは”もうよしてくれよ”と思うところまでこのしばりを押し付けてくると感じる。それは良いところも有るし悪いところもあるだろう。さしずめオリンピックで強みを発揮できることになるあたりは良い点であろう。悪い面は、もんなが同じ子のようなまなざしで見つめるので個人個人の融通がきかない面であろう。<br>ところで、ここで言いたい事はその善悪に関してではなく、このような価値観が世界中に通用すると思わないでほしい、ということである。たとえば僕がしばらくいた中国では、（日本では賄賂社会として否定的な話や貧富の格差といった話題が多いが）道路に目をやれば、自動車を乗れる層のための「自動車道」、自転車しか乗れない層のための「自転車道」、人間の移動の原則として「歩道」の3層がほとんどの都市で普及している。そこでは貧民のための必要と在りかたが意識されているといえるのではないだろうか。日本人的発想をすれば、そもそもあのような貧富の佐賀生まれること事態が許しマ時期事であろうが・・・。<br><br>しかし考えてみれば、”あたりめえだ”、”常識で考えろ”みたいなもので、このような「一丸」となれる気質が先の第二次世界大戦突入し、特攻隊というものまで生み出し結果、戦況に関しては果てて言ったのである。実は、ここでもっと重要な点は、そこで何を反省すれば言いかを見出せないことである。「世界」に対しどんなことをどんな風に表明すればいいかを判らないでいることである。今言われている積極的なんとかいう茶番なども言わずもがなである。<br><br>中国・韓国の要求している本質はお金ではない。世界中に通じ達する意思表示であろう。喧伝している「お金金にたかっている」という話はまちがいである。策士、策を論じるあまり策におぼれていることに気がつけないでいるとも思えるのではないか。<br><br>「みんないっしょ」でくくられた視点しかないこのステージに立つ人民に、今後どのような軌跡を描くであろうか。戦争に関する話のときだけは一歩譲った姿勢が会ってほしいものである。　
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11915355145.html</link>
<pubDate>Tue, 26 Aug 2014 09:01:56 +0900</pubDate>
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<title>やってる事と・なってる事</title>
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<![CDATA[ 面白い発想が浮かんだ。<br><br>なんらか人間の意志によって「やってる事」と、初めから、また常時意思に関係なく「なってる事」。<br><br>それを考えてみた。<br>今日はさわりだけにするが、人間は自我があって、「なんでも自分の意思で」のように考えるが、<br>一部はただ感情移入して何か意思に基づくように思えるが、実はただ「なってる」事も多いものだ。<br>たとえば歩くという行為は、歩こうとする意思、目的地という意思などがあるが、<br>歩くという行為は「なってる」モノだ。<br>手を大きく振ってバランスをとって、とかいう健康レクチャーも有って習慣づけたりするが、<br>普通手足が動いているのはあなたの意志によってではなかろう。<br><br>実はこれらぼ分別は、先に書いた「宗教はなぜあるか」に関係してくるものである。<br>で、このテーマはだらだら長引くと思うので、今日のところはこの”さわり”で止めておこう。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11913928827.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Aug 2014 09:29:16 +0900</pubDate>
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<title>宗教はなぜあるか</title>
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<![CDATA[ ちょっと思い立ったことを書いててみる。<br><br>こういうタイトルを書くと、なんか深遠なことじゃないかと感じるのではないだろうか。<br>たいてい大先生が書籍でものしてることだから。<br>それらを読んでて感じるのは「集団的自衛権」よろしく、<br>まな板にあげられた魚のことをやいのやいのやってるに過ぎない、という感じがする。<br>なんか正義感というか、価値があらねばならないを前提に語っているからである。<br><br>しかし問題の核心は、それが大事かどうかの議論の前に、<br>何故そういうテーマが今現れたか、という必然性についてであろう。<br>今、宗教が何故あるか、を語る前にそんなことを一言いっておきたい。<br><br>もし宇宙がどうのこうの、神がどうのこうの語ってみたところで、<br>自我無き・人格無き・自覚なき、（あえてそういわせてもらえば）のことなど判るはずが無い。<br>つまり我々は誰一人自分の意思で、知ってる世界に生まれてきたわけじゃない、ゆえに、<br>たような迷ういの中、ある種方便として神の必要が出てきたからであろう。<br><br>世の中には、「子供は親を選んで生まれてくる」という発想があることは知っている。<br>この中で、かくかくの世界がある、ということを知ってるように思うことは詭弁であろう。<br>自分がこれから世に生まれてくることも親のこともおそらく思いだせる人はいまい。<br>なのに超能力はシンクロにシティか何かをかまされ信じてしまうのだ。<br><br>かくいう僕も、実はこれらの宗教を全面否定しているわけはない。<br>当然人間の頭脳の論理では開けない真実があると思うからだ。<br>しかし、なにも認識できないことを”ありがたや、ありがたや”とやる気はしない。<br><br>こんなタイトルをかかげたように、まずは端的に答えるならば、<br><br>誰しも、知らない世界に落ちた（生まれた）ゆえに、<br>それを知ろうとする志向が「宗教」を生み出すのであろう。<br><br>何かにすがりたいからという議論は、<br>人間が持つそのような志向が何故あるかを考えてから話題にすべきであろう。<br>最初からそういう観点で論ずるのは、<br>自分が今使っている水たまりが、海なのか、湖なのか、河なのか知らない人間の行いに見える。<br>そういえば、「井の中の蛙」なんとかということわざがあったな。<br>こういう言葉を知りながら、ほとんどわが身には当てはまらないで消えていく不思議。<br>言葉の意味よりもこちらのほうが価値がありそうな・・・。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11913922763.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Aug 2014 08:54:15 +0900</pubDate>
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<title>幸福電車</title>
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<![CDATA[ 先日バスに乗り、80歳の老女と隣り合わせに座った。<br>つらつら話し出したら、彼女いわく、<br>”人生で今が一番幸せ”と。<br><br>なんでも息子が役所に就職して、最近4階建ての家を建てたそうな。<br>その建物の3階を自分ひとりで使っている、ということだった。<br>年金と小遣いで買い物を楽しみ、自由気ままに暮らしているそうだ。<br><br>考えてみれば、仕事する義務も、子育ての責任も、既に何も無く、<br>要するに気がかりなことは何も無く、自由なスペースとお金があって、<br>大変幸せだろう・・・な。<br><br>こんな立場になってみたい気もするが、別な面を見れば、<br>彼女がこうして人に話せる「幸せ」にたどり着いたのは、<br>人生80年の後なのだ。<br><br>長く生きてみないと「人生」は語れない、ということを示唆しているのかもしれないが、<br>こういう感じ方をするということは、苦労した時代は、やはり減税に幸せのための基盤、<br>そうなるのだろうか。<br><br>僕なんかは、そんな風に、順序だててはモノを考えない。<br>問題を抱えて緊迫している「今」が大事なのだ。<br>こういう暗黒の中の手ごたえとして「幸せがある」。<br>めんどくさい書き方をしたが、「今」がある、という事が幸せなのだ。<br><br>やれやれどっこいしょ、しあわせ、では無い。<br>それでもある種、本人が語る「幸せ」という声には、<br>なんともいえぬ人生の味わいがあるような気もする。<br>もっと話したい思いがあり、物足りない気がするが、<br>この短い乗り合わせのバスにおける話だった事が、また、何かを示唆しているように思える。
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11912420047.html</link>
<pubDate>Wed, 20 Aug 2014 02:56:56 +0900</pubDate>
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<title>顔面記号論</title>
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<![CDATA[ なにやらものものしいタイトルで書き出したものの、今はまだ観察程度で、書類的研究なんかやっていないので、気軽なものである。<br><br>以前女性の風貌についてコメントしたが、何か類型に落ちていく（収まっていく）現象に気づき、書いたものであるが、それがついに来るところまで来てこんなタイトルになったものである。<br>突き詰めると顔立ちは個性の表れではなく、人間が安心して理解し覚えられる「記号」なんじゃないかと。<br>大胆に・・・<br><br>「類型」、そう思うのだが、その「類型」にはそれなりにそれぞれなんか性格が垣間見えて、驚きもある。<br><br>こんな考え方をすると、人間、歳とともに見分けるだけの特徴がいらなくなってくる、という悲しい結果あるいは解釈になってしまうのだ。どういうものだろう、これが本当に核心なのだろうか。<br><br>自分の顔を見つめ、なんとも不思議な気持ちになるものである。
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11909440832.html</link>
<pubDate>Wed, 13 Aug 2014 20:43:46 +0900</pubDate>
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<title>精神生理学</title>
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<![CDATA[ 以前から僕は「心理工学」なる視点からの発想を心がけてきた。「心理工学」もちろん僕の個人的な造語で、探してもほとんど無いと思う。（今ヤフーで見てみたら「心理工学とはＢ・Ｆ・スキナーとその一派によって・・・」的な数ページ発見。確か考えた当時にはなかった。表ざたになるべき言葉だと思っているので、出てきたら出てきたで歓迎だね。）<br><br>○今日は気分が重い。ではメカタ（重さ）はどれくらい？<br>○落ち込む・・・ほか<br>メカタはどれくらい・・・は架空のレトリックを生み続けるだろう。<br><br>こういう感覚をモノに反映させよう程度のものだが、アップル社の「使いやすい」、「擬似感覚」などを含み、はるかにしのぐものだと感じてる。<br><br><br>「男と女　夢想譚」を書いた後に思った。<br>「精神生理」、「精神生理学」もあっていいのじゃないかと。と考えてこれを書き始め、ついでにネットで調べてみたら、ないと思ったのにあるある。驚いた・・・<br><br>まあ、そんなことを競っているわけじゃないのですぐにパスするが、本家はどういう代物かわからないものの、僕はこんなことを考えている。<br><br>僕は戦争をなくそうという「活動以前に、戦争をなくすという心理技術の創出にかんしんをもっている。<br>これに地なべ場、現代は病気の発生以前に病気をやっつけるというのが主流になっているが、このように、戦争なども発生する前に顕在してない戦争の原因をやっつけるのだ。<br><br>それが出来ればどれだけ戦争が減るだろう。<br>最近歳のせいかとても涙もろくなり、人々の悲しい成り立ちに触れると、とたんに涙が出てしまう。<br>目からこぼれ落ちる汗。井上陽水さんのフレーズだが、涙・泪・涕・・・<br>汗のように軽快にコントロールも効かずカンタンによくあふれ出てくる。<br>汗が止まらない、これも年じゃなく病気かな、などと考える次第である。<br><br>精神生理学で「涙」を研究してみようか・・・<br>
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11909293697.html</link>
<pubDate>Wed, 13 Aug 2014 14:08:00 +0900</pubDate>
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<title>男と女　夢想譚-2</title>
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<![CDATA[ 男と女について思うところがあり、変な妄想をつれづれに書いている。<br><br>一般に男と女は性が違う、異性程度に捕らえられている。<br>失礼ながら書かせていただくと、女も同じように考えるし直立して歩くし姿もほぼ同じだ。<br>それなら誰だって違和感無く繋がってしまうはずだ。<br><br>ところが男の僕は、女は宇宙人だと思っている。<br>じつは彼らが包まれている精神的環境は男とはまるで違うのだ。<br>つまりこの世は男の精神次元と女の精神次元との二つで成り立っているのだ。<br><br>例を挙げろ、といわれるとたくさんあるけどすぐは出てこない。<br>一つだけ例を挙げると<br>25年も前であろうか、同じ会社に偶然近所に住む3年ほど年上の女性が居り、<br>近所というのも縁だから、たまに飲み明かそうよ、ということで、<br>ずうずうしくも彼女のアパートに酒もって押しかけ語り明かしたことがある。<br>その話の中で今も忘れずに「真」だなと思っている事がある。<br><br>彼女曰く<br>「男はいちいち結論を求める、あるいは結論のある、話をしたがるしそういう考え方をする。<br>女はそういう勝った負けたとか白黒・結論のある考え方はしない」と。<br><br>これはとても重要であった。<br>まるで「射精」ではないか。すぐに気が付く。快感も含め。<br>男は「出す」まではそれを深く高く必死に求め、出れば終わる・｛はてる｝のである。<br>このように思考といえど人体の生理に暗黙のうちに影響されているのだ。<br>影響というよりそのものになっているのだ。<br><br>あえて”俺は違う”と強がるにしても、<br>このようになっていることに逆らえるであろうかマツコさん。<br><br>この辺のことを性同一障害となっている人たちに聞いてみたい。<br>それをもって信実が勝たれるのではなかろうか。
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<link>https://ameblo.jp/huayin/entry-11909166862.html</link>
<pubDate>Wed, 13 Aug 2014 08:29:56 +0900</pubDate>
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