<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>hzsanutuのブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/hzsanutu/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/hzsanutu/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>口調はテンションで変化するから気にしないでほしい。内容は基本的にhzさんが思ったこと、考えたことを書き連ねていくだけです。考察なんかに近いでしょうか。コメント等あれば気軽にどうぞ。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>何の為に生きているのか？</title>
<description>
<![CDATA[ これに対して様々な答えがあるだろうが、<br>それらに共通するのはズバリ「幸せになる為」である。<br><br>幸せになれない人が「生きていたくない」と思うのも<br>あるいは必然なのかもしれない。<br><br>ともかく、我々人間は幸せになる為に生きているのだ。<br>幸せというのは何とも曖昧な定義だが、個人の見解として、<br>本人が「幸せだ」と感じればどんな些細な内容でもそれを<br>「幸せ」と呼んで差し支えないと考える。<br><br>しかしここで眉をひそめる人もいるだろう。　<br><br>【自分の思い描く幸せを感じることができない、<br>幸せを実感できない、何が幸せか分からない、<br>自分が幸せになっていいとは思えない。】<br><br>そんなことを考える人もいる。かくいう私もそうなのだ。<br><br>もちろん、楽しいと感じることはたくさんあるし、<br>特に大きな悩みもない。しかし<br><br>【自分の思い描く幸せには届かない】<br><br>それだけで深い悲しみに苛まれ、とてつもない絶望に<br>捕らわれてしまう。<br><br>「くだらない」「何を贅沢なことを」そう思う人も<br>少なくないだろう。<br><br>ただ、それが人にとってどんなに些細で稚拙な内容でも、<br>本人にとっては命に置き換わるレベルの絶望になりうることを<br>皆さんにも知って欲しい。<br><br>私の場合、「あの人と共に生きたい」というものだ。<br>相手が死んだわけではないし、元気にやっている<br>ようだが、絶対に叶うことがない願いである。<br><br>私はそんなつまらないことで日々に絶望を感じ、<br>幸せを味わうことができず、死んだように生きている。<br>ほんのわずかな可能性を信じているのか、<br>はたまた他の幸せを見つける日を待っているのか。<br><br>自分が何をしたいかというのは案外分からないものだ。<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/hzsanutu/entry-12334955206.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Dec 2017 11:01:21 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>特別な存在</title>
<description>
<![CDATA[ <p>今日書く内容はただの愚痴、願望である。読まなくてもいいと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>私は誰かの特別な存在になりたいと切に願っている。</p><p>以前の記事でも書いたかもしれないが、私は他人の為に行動することが自分の喜びに繋がるタイプの人間である。</p><p>それの影響なのか他の要因があったのか定かではないが、私はいつも、どんな人間からも、「都合がいい人」として扱われるようになった。</p><p>&nbsp;</p><p>それが分かっている今でも、私は自分の行動を変えようとはしていないのだが、私はとにかく都合がいい人だ。</p><p>これは何を意味するかといえば、実際のところ相手からすれば誰でもいい、ということだ。</p><p>hzさんでなくとも、他に都合がいい人間がいればそれで済んでしまうし、決して私を特別視してくれているわけではない。</p><p>&nbsp;</p><p>別にそれ自体は構わないのだが、やはり人は愛されたいという願望を抱かずにはいられない。誰からも同じ反応というのはひどくつまらない。特別な人になりたい。たった一人、唯一として扱われたいという欲がでるのは自然というものではないか。</p><p>&nbsp;</p><p>これはおそらく贅沢な悩みなのだろう。そもそも人に虐げられる人もいる時代だ。私なんぞの悩みはまったくもって贅沢極まりないだろう。</p><p>しかし私は欲が深い人間ではない。たった一人、自分が「この人がいい」と思った人間にさえ、</p><p>特別視されるのであれば、満足である。それはとても難しいことだし、また、私も難儀な性格をしているものだから上手くいく可能性は恐らく低いだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>アナタは誰かを特別扱いしているだろうか。また、されているだろうか。必要とされているアナタは、アナタでなくてもいいかもしれない。いつもそんなことを考えて生きていくのは心がすれてしまう。しかし私は考えることをやめることが出来ない。本当に難儀な性格である。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/hzsanutu/entry-12276988694.html</link>
<pubDate>Mon, 22 May 2017 18:42:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>命の価値</title>
<description>
<![CDATA[ <p>命に価値は平等なのだろうか。</p><p>毎度毎度突然の問いかけに読者を困らせていることであろうが、気にしない方向で進める。</p><p>我々人間の命に価値を付けるとすれば、平等ではないと私は考える。</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも「価値」とはなんなのか。具体的な定義はwikiなんかで調べてほしいが、</p><p>私が思うに、価値というものは人間が何かを見定めるときに、他のものと相対的に考えて付ける重要度に近いものだ。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば金の価値は高い。これは他の金属に比べて希少であり、尚且つ輝きを放つなどの人間にしか分からない付帯的な価値があるからだ。</p><p>ではもしどの金属も山ほど採れるならばどうだろうか。付帯的な価値も薄れ、金の価値は地に落ちることになるだろう。</p><p>このように、価値というものは別のものと相対的に考えるからこそ上がるものであり、単体では価値を付けることは難しい。</p><p>&nbsp;</p><p>それでは人間、はたまた命に価値を付けるとするならば、どのようにして価値を付けるべきなのだろうか。</p><p>先ほど述べたように、相対的に考えるために、他の人間、他の命と比べる必要があるだろう。</p><p>ここで念頭に置いてほしいことは、人間は千差万別、多種多様であり、一人として同じ人間はいないということだ。つまり全く同じ価値の人間など存在しない。この時点で命に価値を付けることが（倫理的観点を無視するならば）出来るようになっただろう。</p><p>&nbsp;</p><p>では、Aさんの命とBさんの命、どちらに価値があるか考えてみよう。</p><p>Aさんは人望が厚く、100人を養っている大富豪だ。</p><p>一方Bさんは快楽殺人を繰り返して100人も殺して収監されている凶悪犯だ。</p><p>どちらの命が価値があるのだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>Aさんの命が奪われた場合、養っているたくさんの人も困窮してしまう。</p><p>これは間接的にとはいえ、100人分の価値があるといっても差し支えないのではないか。</p><p>&nbsp;</p><p>ではBさんの命はどうか。彼は100人もの人間を快楽の為に殺している。</p><p>この場合も間接的にとはいえ、100人分の（屍の）価値があるといえる。</p><p>&nbsp;</p><p>しかしこの話を見てアナタはおそらく、「Aさんの命の方が価値がある」と答えるだろう。</p><p>そこに一体どんな違いがあるのだろうか。Aさんはこれからの命も担っているから？</p><p>Bさんは殺しただけで結局は1人分の命の価値しかないから？</p><p>いろんな考え方はあるだろうが、つまるところ考え方によって変わるということだ。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、命の価値など我々自身が判断しなければならないのだ。</p><p>母と彼女どちらを助ける？といった質問と似た意味合いである。</p><p>何が正しいかなんて関係ない。自分が正しいと判断した答えこそが真実であり真理だ。</p><p>&nbsp;</p><p>この話を通じて私が何を言いたいのかといえば、自分の命をどう思うかということだ。</p><p>先ほど話したとおり、命の価値は自分の判断で決めるものだとしよう。</p><p>ではアナタ自身が、自分の命の価値を見出せなくなってしまったとき、アナタはどうするのだろうか。私は今、この瞬間、このブログを書きながら、自分の命の価値を探している。</p><p>自分が生きている意味、価値、そういったことが見つからないのだ。</p><p>アナタはどう考えるだろうか。自分が誰にも必要とされていないと思ってしまったとき、</p><p>それでもまだ自分の命に価値を見出せるだろうか。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/hzsanutu/entry-12276807470.html</link>
<pubDate>Mon, 22 May 2017 02:32:20 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>自由とはなにか</title>
<description>
<![CDATA[ <p>アナタは今自由だろうか。自由とは何だろうか。どういう状態だろうか。</p><p>「自由とは自分の意志で選べること」だと私は考える。</p><p>自分の意志に関しては前回までのブログを見て、自分を見定めてから考えてみてほしい。</p><p>&nbsp;</p><p>自由の定義はさておき、自由であることは幸せなのだろうか。</p><p>もちろん、自由であることに越したことはない。しかし、自由であるからといって幸せであるとは限らないと思う。なぜならその選択は得てして自分の望んだものではないからだ。</p><p>もちろん、自分の望んだ結果、自分の選んだ結果が満足のいくものであれば話は別だ。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし世の中というものはどういう訳か我々の思い通りに行くことの方が圧倒的に少ない。</p><p>仮に自由であったとして、その自由の中に自分が本当に望むものがあるのかどうか。</p><p>少なくとも私は、今まで与えられた選択肢の中に自分の望むものがあったことはないと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>ならばどうすればいいのか。自分で手に入れるしかない。自分が動くしかないのだ。</p><p>それもまた自由である。自分の見えている範囲の選択肢が全てではない。自分の行動次第で選択肢はどこまでも増えるのだ。</p><p>私は今、自分の欲するもののために、今ある選択肢全てを放棄して、「新しい選択」を選んでいる。</p><p>これはとても苦しいことだと感じている。先の見えない道ほど怖いものはないのだ。</p><p>生きていく上では困難を極めるである茨の道を自ら選択してしまった。はっきり言って辛いことこの上ない。鬱ブログなので仕方ないのかもしれないが鬱が加速しそうである。</p><p>&nbsp;</p><p>アナタも自分の自由を、自分の選択を、しっかりと見極めて後悔しない道を選ぶべきだ。</p><p>私はこの苦しい道を選んだことを若干後悔しかけている。鬱ブログを書くような人間なのだ。心が強いはずがない。アナタはそうでないことを願う。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/hzsanutu/entry-12275895683.html</link>
<pubDate>Thu, 18 May 2017 22:42:34 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>自分とは何か？</title>
<description>
<![CDATA[ <p>人間関係について（２）と題しても差支えがない内容である。</p><p>&nbsp;</p><p>自分とは何か。考えたことはあるだろうか。アナタは自分というものをどうやって認識しているだろうか。</p><p>hzさんの考えでは、「自分は他人から認識されることで形成される」と思う。</p><p>以前、人と関わらずに生きることは出来ないと書いたと思うが、まさにその話の発展である。</p><p>「自分」という確固たるものは、他人との関わりの中で形成されていくのだ。</p><p>自分の考えだと思っていても、必ず誰かの影響は受けているはずだ。（それが自分の考えであることに変わりはないが）</p><p>少なくともhzさんは自分というものを認識するために、他人と関わり、他人に認められることで生きようと努力をしている。鬱ブログなのにしっかり生きようとしているのだ。褒めてほしい。</p><p>&nbsp;</p><p>冗談はさておき、他人に認められることで自分を形成しているのであれば、もしも他人に認められなくなったとき、そこに自分は存在するのだろうか？自分は何のために存在するのか見出すことが出来るだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>hzさんは周囲の人間に一定の期待をされながら生きてきた。「hzさんはこういう人間だ」というある種の押し付けがましい期待を受けながら生きてきた。</p><p>これは大なり小なりこそあれど、誰にでもあることのはずだ。</p><p>&nbsp;</p><p>例として、「Aさんは優しい人だ。大抵のことは笑って流してくれる」という思い込み、期待があるとしよう。</p><p>これが一人ならばともかく、Aさんを取り巻く人間関係において周知の事実であるとするとどうだろうか。</p><p>Aさんはおそらく「俺は優しい人だ。そう思われている。優しくしなくてはならない」と思うのではないか。</p><p>&nbsp;</p><p>ネタバレをするとこのAさんというのはhzさん本人のことであり、実体験である。多少の出来事は笑って流すように期待され、「優しいやつだから」といって良いように使われたりしていた。</p><p>しかしそれを苦に思うことなく、そつなくこなしていける人間など存在しないだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>hzさんは中々長い期間（具体的には2年ぐらいだろうか）それをこなしていた。</p><p>しかし物事には限界というものがある。hzさんも限界が来てしまった。</p><p>「期待に応えたい」のは確かなのだが、その期待がある限り、素の自分を出すことが出来ない。素の自分を出せないことが苦であることは、集団生活を行っているアナタなら痛いほど分かるだろう。</p><p>（オタクなんかはその典型であった。近年はオタクに対する理解が浸透してきたが。）</p><p>&nbsp;</p><p>さて、ここまでの話を読んで本題をもう一度思い出してほしい。</p><p>周囲の期待に応えることができなくなり、他人に認められなくなったとき、自分をどうやって認識するのだろうか。</p><p>素の自分を出せる相手がいれば解答になりうるだろう。</p><p>しかし素の自分が出せない、つまり誰にも認識されないのならば、自分には一体何が残っているのだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>他人に認識されることで自分が形成される⇒しかし他人の期待には応えない⇒素の自分を受け入れてくれる人がいない⇒誰にも認識されない</p><p>&nbsp;</p><p>それでは改めて問い直そう。自分とは何だろうか。もし誰とも関わることがない場合、自分はどんな人間なんだろうか。何のために生きているのだろうか。</p><p>その答えを見つけるためならば、どんな自分でもいいから、認めてくれる人を探さなくてはならない。</p><p>&nbsp;</p><p>hzさんは自分を認識するためにこのブログを書いているのかもしれない。</p><p>こんな拙い文章でも、読んでくれる人がいるというだけで自分を認識できる気がするから</p><p>だ・・・</p><p>&nbsp;</p><p>アナタはどうやって自分を認識しているだろうか。もし認識できなくなったらどうするだろうか。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/hzsanutu/entry-12273870063.html</link>
<pubDate>Fri, 12 May 2017 02:34:46 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>一人の時間</title>
<description>
<![CDATA[ 一人の時間というものをアナタは持てているだろうか。<br>一人でいるのは寂しいじゃないかという声もあるだろう。しかし一人の時間というものは大変希少なものであると私は思う。<br><br>人は人と関わらなくては生きていくことは出来ない。スーパーで食材を買うにしてもコンビニで弁当を買うにしても必ず人と関わる。<br>全く人と接することなく自給自足の生活を送っている人がいるとしたらこんなブログは見ていないだろう。<br><br>さて、脱線が多いのは承知であるが自分の考えなので仕方ない。ようやっと閑話休題。<br><br>一人の時間というものは先の説明でもあったようになかなか取れないものである。一人でいるときは泣いたっていいし怒ったっていいし笑ったっていい。何をしてもいいのだ。普段アナタが潜め、隠している感情を吐露できる瞬間なのだ。<br>人間どうしても自分の主張を身近な誰かに明かすことが困難となる。だからこそ不特定多数の人間に見て貰えるTwitterやFacebookなどのSNSコンテンツが流行したのであろう。<br>それも言わば一人の時間なのかもしれない。なぜ私が「一人の時間は大切だ」と言っているのか。それは「自分の中の感情や鬱憤を発散する時間」が必要だからだ。人と関わる上では相手に対する気遣いや空気を読むなどの余計な考えがどうしても浮かぶ。先に述べた時間を取れない人間はストレスを抱えて生きてしまうのだろう。<br><br>かくいう私もそうだった。一人の時間を取れなかった私はストレスの発散が出来ず、ついには感情が制御できなくなってしまった。それによって人生で最もかけがえのないものを失い、後悔と自責の念に苛まれることとなった。私がもっと自分をコントロールできていれば…と今でも悔やまれる。<br><br>「遠慮せず人を頼れ」というやつは山ほどいるが、遠慮はしてしまうものだし、人を頼るというのは如何せん勇気のいるものである。ならばこそ自身で行える調整、コントロールを大事にしなくてはならない。アナタはどうか、自分を見失うことなく、しっかりと管理できた人間であり続けられることを願う。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/hzsanutu/entry-12272295846.html</link>
<pubDate>Sat, 06 May 2017 21:56:12 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>人間関係について（１）</title>
<description>
<![CDATA[ <p>hzさんのブログ、記念すべき（？）第1回目は「人間関係について」です。</p><p>タイトルに（１）と付けたのは恐らくこれから先、何度も取り上げるであろう議題だからです。</p><p>&nbsp;</p><p>人は皆、自己中心的です。これは絶対的です。そんなことないと思う人もいると思いますが、</p><p>とりあえずここから長々と論じているので読んでみてください。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;">問。なぜ人は自己中心的なのか？</span></p><p>この答は簡単なことで、人は生きているからです。自分の命なしでは何も為すことは出来ません。ならば基本的には自分の命が最優先事項として処理するでしょう。（危機的状況では分かりませんが）</p><p>ならば命のない機械ならばどうか。機械は自分の身を守るどころか与えられた命令をこなすことしか出来ません。なぜならば考えることが出来ないからです。</p><p>では近年頭角を現しはじめた、AIはどうでしょうか。AI（人工知能）は自分で考えることが出来ながら命を持たない、言うなれば我々人間と機械の中間的存在です。これは私の推測ですが、おそらく誰かの為に自分の身を投げ出すことができるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>少し話がそれましたが、要するに私が言いたいのは、</p><p><span style="font-weight:bold;">自分の為に行動することは人間として、生き物として自然なことであるということ</span>です。よって人間は自己中心的であると結論付けます。</p><p>&nbsp;</p><p>「俺は人の為に行動するぞ！」という人もいるでしょう。hzさんもそういうタイプなので気持ちは分かります。しかしそれも結局は自分の為なのです。「人の為に動く自分が好き」だったり、「人を助けている自分を認めてほしい」だったりです。事の中心には自分がいます。なぜなら「自分をないがしろにしたら人の為に行動できないから」です。自分あってこその相手、他人なのです。アナタはアナタが一番大切なんです。アナタが世界で一番愛する人も、アナタなくしては愛することはできません。自分を大切にしましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>盛大に脱線しましたが、人は自己中心的です。人間関係においてもそれはそうです。</p><p>「相手の考えてることがわからない・・・」「何が嘘で何が本当か分からない」そんなことが多々あるでしょう。しかしそれは仕方のないことです。人は自分のことを中心においた上で何かを考えて行動しています。相手のことを100%理解できる人間（自分のことも100%理解できないですよね）なんていないんですから<span style="font-weight:bold;">相手の考えがわからないのも当然</span>です。</p><p>&nbsp;</p><p>もしアナタが人間関係で悩んでたらそれは悩むだけ無駄です。相手の考えなんて理解できないし、自分の気持ちを伝える以外にアナタが出来ることはありません。ありったけの気持ちを込めて自分の思いをぶつけましょう。それでダメだったらそれまでです。絶対に保証された人間関係なんて存在しません。何がきっかけで崩壊するかなんて分かりません。</p><p>いろんな悩みがあるしいろんな人間関係があります。もし良かったらいろんな声をお聞かせください。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/hzsanutu/entry-12270364664.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Apr 2017 17:07:39 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
