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<title>日々の気付き</title>
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<description>その時その時の気付きをシェアーしたいと思います。</description>
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<title>アセンブラーへの興味　3</title>
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<![CDATA[ <p>その当時、コンピュータ系の技術誌<br>（多分、「インターフェース」だったと思います）に<br>再配置可能（リロケータブル）の「逆アセンブラー」<br>と言う記事が発表されました。<br><br>これは、メモリー内やファイルのデータを読み込んで<br>機械語から、もう少し人間が分かり易いアセンブラーの記述に<br>変換してくれる上、空きメモリーなら何処にでも配置出来るという<br>絶対アドレスが当たり前の当時では信じられないくらい高性能なアプリでした。<br><br>これも、Z80の拡張命令を活かして作られたものでした。<br><br>会社のシステムは、全てBASICで組まれていたので、<br>私がアセンブラーの知識を得なければならない理由は<br>無かったのですが、知っていれば近い将来、コンピュータで<br>工作機械を制御しなければならなくなった時、役に立つだろう、<br>ぐらいの軽い気持ちで、その記事のリストを「ソード電算機」の<br>パソコンに組み込まれていたアセンブラーで打ち込み始めました。<br><br>何故アセンブラーが標準で組み込まれてたのか、<br>今振り返って考えてみると、スーパーBASICも<br>そのアセンブラーで作成されていた為、<br>メンテナンスの意味も有って標準システムに組み込まれていたのでしょう。<br><br>ところが困ったことに記事はZ80用の洗練された<br>シンプルなアセンブラーで記述されていたのですが<br>ソード電算機のアセンブラーはインテルの<br>変な（私の個人的な偏見です）アセンブラーを<br>更に変更したやっかいな代物でした。<br><br>雑誌のリストのZ80用のアセンブラーを<br>ソード電算機のアセンブラーにすべて自分で翻訳しながら<br>打ち込まなければならなかったので大変でした。<br><br>仕事の合間を見ながら、1ヶ月近く掛かったような記憶があります。<br><br>こういう場合、雑誌のリストにも間違いが有り、<br>私の打ち込んだリストにも間違いが有って<br>動かないことが多いのですが<br>（私とマイコンの最初の出会いもそうでした）<br>奇跡的に最初から狙い通り動いたのです。<br><br>それを使って、スーパーBASICのあちこちを<br>逆アセンブラーを使って解釈したりしたので、<br>私のアセンブラーに対する知識が深まりました。<br><br>当時、8080用のアセンブラーを解説した本は何冊か出ていたのですが<br>Z80用のは、雑誌の特別号でZ80が取り上げられていた1冊だけだったので<br>実物の正確に動いてるスーパーBASICを逆アセンブルして<br>アセンブラーの教科書代わりにしてました。<br><br>私の人生で頻繁に起こる不思議なことなのですが、<br>アセンブラーにも自信を持ち、準備が出来たと思った頃、<br>上司は私が何をやってるのか分からなかったと思うのですが、<br>「お前、客先と協力して、コンピューターで<br>シリンダー（工作機械の一種）を<br>制御して見ないか？」と言う話を持ってきたのです。<br><br>準備が出来た時に、それを活かせる現実がやって来るという<br>私の「成功パターン」の一つです。<br><br>勿論、私は準備が出来てるので即答で「はい、やります！」と<br>返答しました。<br><br>そして、客先の私と同年代の若い技術者と力を合わせて<br>Z80を組み込んだシステムで、例のCP/M上のZ80アセンブラーで<br>ソフトウェア開発を始めました。<br><br>この時は、正規のZ80用のアセンブラーが使えたので<br>楽しくて仕方がありませんでした。<br><br><br>今日は、ここまでにします。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12307111114.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Sep 2017 21:39:41 +0900</pubDate>
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<title>アセンブラーへの興味　2</title>
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<![CDATA[ <p>その当時、パソコンのOSはその機種のハードウェアーに特化したものが<br>アセンブラーで組まれていました。<br><br>機種が変わる毎に毎回書き換える量が多く、大変な作業でした。<br><br>インテルの8080が大ヒットした頃、アメリカのゲイリー・キルドールと言う人が<br>OSの汎用の部分とプロッピーやディスプレイなどの<br>外部機器を制御する部分をハッキリと分けた、汎用のOSを作ったのです。<br><br>そうすれば自作のコンピューターでも外部機器を扱う部分を自分で作れば<br>立派なOSを組み込む事が出来るし、多くの出回っているアプリも<br>そのまま自作のパソコンでも使えると言うことになるという優れたOSでした。<br><br>「CP/M」と名付けられ、世界で初めてパソコン用の汎用OSとなりました。<br><br>この考え方は、WindowsやiOSなどの現在使われているすべてのOSに<br>継承されていると言っても過言では無いと思います。<br><br>それほど、画期的で革新的なOSでした。<br><br>その為、海外では爆発的に普及しました。<br><br>只、日本では漢字と言う問題が有ったので<br>世界で普及したほどには普及しませんでしたが、<br>私自身はよく使いました。<br><br>このCP/Mは、8080用のOSなのですが、Z80でも問題無く動作しました。<br><br>と言うのも、どちらも嶋さんの設計で、Z80は8080を知り尽くしてる嶋さんが、<br>8080の特許を避けて全て別の方法で設計したものだったからです。<br><br>そして、8080の命令は全てそのまま使えました。<br>その上、Z80には多数の拡張命令が組み込まれていました。<br><br>一般にZ80は8080の上位互換CPUと受け止められていて、<br>品質や性能にこだわる日本人には8080より好まれました。<br><br>その為、日本で使われるCPUは圧倒的にZ80が多かったのです。<br><br>インテル嫌いだった私は勿論Z80を愛用しました。<br><br><br>今日は、ここまでにしておきます。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12306728977.html</link>
<pubDate>Fri, 01 Sep 2017 17:16:41 +0900</pubDate>
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<title>アセンブラーへの興味</title>
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<![CDATA[ <p>前回からアセンブラーの話に入ってしまって<br><br>続きをどうするか迷ったのですが<br><br>私がのめり込んでしまった内容なので、<br><br>サラッとだけでも書いておこうかと思います。<br><br>CPUに興味の無い人は読み飛ばして下さい。<br><br>更に詳しく知りたい人は、<br><br>検索すれば一杯詳しく解説したサイトが有るので<br><br>そちらの方を読んで下さい。<br><br>ここでは何となく雰囲気を味わって頂ければ<br><br>良いかと思います。<br><br><br>アセンブラーのソースを例えば下記のように書いたとします。<br><br><br>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; LD &nbsp; &nbsp; &nbsp;A,0<br>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; LD &nbsp; &nbsp; &nbsp;HL,LABEL0<br>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; LD &nbsp; &nbsp; &nbsp;DE,LABEL0+1<br>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; LD &nbsp; &nbsp; &nbsp;BC,5<br>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; LD &nbsp; &nbsp; &nbsp;(HL),A<br>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; LDIR<br>LABEL0:<br><br><br>何をしているのかというと<br><br>A という8ビットのレジスタに0をセットして<br><br>HLという16ビットのアドレスレジスタにこのコードが置かれる<br><br>次のアドレスをセットします。<br><br>そして、DEという16ビットのレジスタに、<br><br>更に1バイト後のアドレスをセットします。<br><br>そして、BCという16ビットのレジスタに、<br><br>5という値をセットします。<br><br>その上で、A という8ビットレジスタの値を<br><br>HLレジスタの指すメモリーに書き込みます。<br><br>その後、BCレジスタの値を-1として、<br><br>HL、DEレジスタをそれぞれ+1して、<br><br>次のアドレスを指すようにして<br><br>BCレジスタの値が0になるまで繰り返します。<br><br><br>そうなんです、CPUの中では本当に単純なことしかしてないのです。<br><br>その単純なことを本当に信じられないくらい積み上げて<br><br>いかにも複雑な判断をしているようにプログラムの力で<br><br>見せているだけなのです。<br><br><br>この当時は、8ビットのCPUがマイコンの主力だったので<br><br>メモリーの最大が64キロバイトに限られていた為、<br><br>OSもアセンブラーで書かれるのが普通でした。<br><br><br>アセンブラーでプログラミングする為には、<br><br>全体で何をやっているのかを見失わないように<br><br>コーディングする必要が有り、長時間集中力を保つ必要が有りました。<br><br><br>こんな作業は辛くて、苦しくて嫌だと感じるか、<br><br>面白いと感じるかは人それぞれですが、<br><br>私は、面白いと感じのめり込んでしまったのです。<br><br><br>私には、長時間強烈な集中力を保つ能力が有った、<br><br>と書けばかっこ良く聞こえるのですが、<br><br>実際の所、楽しくて楽しくて、夢中になってやっていたら<br><br>あっという間に長い時間が経っていた、と言うのが本当でした。^^;<br><br><br>その当時、私の上司も含め、周りの人達は何故か、<br><br>コンピューターを扱うと言うことを苦痛だと感じる人が<br><br>圧倒的に多かったのです。<br><br><br>それ故、私が真面目さ故、苦痛に耐えながら頑張っている、<br><br>いわゆる努力している、と私に取っては評価が高くなる方へ<br><br>「誤解」してくれていたのです。<br><br><br>上司にも「あんだけコンピュータにかじりついて画面を見ていて、<br><br>お前は、真面目やからなー。」とよく言われてましたが、当時は<br><br>その意味がよく分かってませんでした。<br><br><br>真面目だったのは間違い有りませんが、<br><br>苦痛に耐えて頑張って居た訳では無かったからです。<br><br><br>今日は、ここまでにします。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12306477385.html</link>
<pubDate>Thu, 31 Aug 2017 20:35:19 +0900</pubDate>
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<title>外部機器を制御する事への興味</title>
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<![CDATA[ <p>前回は嶋さん一色になってしまいました。<br><br><br>でも、それはその頃からハードウェアーに対する興味が<br><br>深まってきたことの表れだったと感じてます。<br><br><br>何しろ、工作機械が工場内に一杯有って、<br><br>金属材料をミクロン単位の精度で加工する会社に居たので、<br><br>コンピューターを使って機械を制御することには自然と興味を持ちました。<br><br>当時はまだ、コンピュータで工作機械を制御することは<br><br>普及してませんでした。<br><br><br>その前段階の「数値制御」が叫ばれ始め、<br><br>デジタル制御することに世の中の流れが変わり始めた時でした。<br><br>「数値制御」も後には「NC制御」と呼ばれるようになりましたが、<br><br>コンピュータで制御するのが当たり前になると<br><br>どちらの表現も使われなくなりました。<br><br><br>コンピュータを使って工作機械を制御したい、<br><br>と私と同じように感じる技術者がドンドン増え始めた時代でした。<br><br><br>只、その当時の8ビットのCPUではメモリーも<br><br>最大でも64キロバイトと小さくて遅かったのと、<br><br>パソコンのプログラミング言語BASICでは出来る事が限られていた上、<br><br>インタープリターと言って人間が分かるプログラムから<br><br>一端中間言語と言うものに変換されて、<br><br>実行時にもう一度コンピュータが直接分かる機械語に変換される<br><br>という、制御に必要な高速なリアルタイム性に欠けていたのでした。<br><br><br>その為、制御にコンピュータを使おうとすると、機械語に1対1で<br><br>対応していたアセンブリー言語でプログラミングするのが普通でした。<br><br>このアセンブリー言語に対応したアプリをアセンブラーと呼んだのですが、<br><br>当時は、ごちゃ混ぜで全てアセンブラーと呼ばれてたような気がします。<br><br><br>次回から、このアセンブラーでプログラミングし始めた様子を書こうと思います。<br><br>今日は、ここまでにします。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12306151733.html</link>
<pubDate>Wed, 30 Aug 2017 19:25:30 +0900</pubDate>
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<title>嶋正利さんに関連して思っていたこと</title>
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<![CDATA[ <p>嶋正利（しま　まさとし）さんについて思い出してみると<br><br>当時の私が感じていた苛立ちが3つ有る事に気が付きました。<br><br><br>1つは、CPUをワンチップのICにしてしまって、それまでのように<br><br>毎回回路自体を設計し直すのでは無く、プログラムを書き換えるだけで<br><br>新しいものを作り出そうと言う発想が日本人のものだったことを<br><br>当時の多くの日本人が知らなかったことです。<br><br><br>2つめは、世界で最初のワンチップ化されたCPUの設計者が日本人だったことを<br><br>これも多くの日本人が知らなかったことです。<br><br>私自身は色んなパソコン雑誌を読みあさっていたし、コンピュータ関連技術誌も<br><br>読みまくっていたので、あちこちに散らばっていた嶋さん関連の記事から<br><br>次のように私は理解していました。<br><br><br>電卓の会社にいた嶋さんが、当時の日本でそのアイデアを実際に製品に出来る技術と<br><br>生産設備を持ってる会社が無かったので仕方無く、</p><p>&nbsp;</p><p>アメリカのインテル社に発注したのだそうです。<br><br>でも、1年以上返事が無かったので、</p><p>&nbsp;</p><p>怒り狂った嶋さんがインテルに乗り込んで行ったのだそうです。<br><br>そして、相手の担当者に怒鳴りまくっていたら、</p><p>&nbsp;</p><p>相手が「事情は分かったけど、そんなに怒るなよ。<br><br>実は、俺も昨日雇われたばかりなんだよ。」と答えたのだそうです。<br><br>つまり、後に世界を一変させる革新的なアイデアも</p><p>&nbsp;</p><p>当時のインテル自身が気付いてなかったのです。<br><br>日本から技術者が来ると言うことで慌てて担当者を採用するという、<br><br>今から考えると信じられないような対応だったのです。<br><br>そして、嶋さんと二人で設計を始めたのだそうですが実際に始めてみると<br><br>力の差が大きく、結局嶋さんが発注者側なのに<br><br>大部分を設計しなければならなかったそうです。<br><br>そうして、世界最初のワンチップ化された4ビットのCPU、4004が出来上がったのだそうです。<br><br><br>3つめは、コンピューターの世界で日本がドンドン力を付けていき、<br><br>それを驚異と感じていたインテル社のムーア氏が、「日本はアメリカの技術を横取りしてる」と<br><br>批判していた時、私は「CPU開発の名誉を横取りしてるのはお前だろう」と反感を感じました。<br><br>実際、この後世界を席巻した8ビットCPUである8080の開発には、<br><br>嶋さんがインテルにスカウトされ、</p><p>&nbsp;</p><p>これまた主任設計者として殆ど一人で作り上げたからです。<br><br>この時の主力開発メンバーと嶋さんがスピンアウトして、ザイログ社を立ち上げ、<br><br>嶋さんが設計したZ80が当時私が使っていたパソコンにも採用されていたのです。<br><br><br>この時のムーア氏への反発から、私はインテル社が嫌いで<br><br>インテル社のCPUを使い始めたのはムーア氏が亡くなって<br><br>多分10年以上経ってからです。^^;<br><br>もう、あの世に行ってしまった人に反発していても仕方無いだろうというのと<br><br>インテルのライバル会社の力が落ちてしまって、その差が歴然となってしまってたからです。<br><br><br>今日は、ここまでにします。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12305844748.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Aug 2017 19:34:15 +0900</pubDate>
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<title>パソコンの頭脳CPU創成期の日本人の活躍</title>
<description>
<![CDATA[ <p>私自身は、楽しくて夢中になってやっていただけなのですが、<br>前回書いたように、結果として上司の夢も実現させていたのでした。<br><br>「やりたいこと、好きなことを仕事にする」と言うのは<br>学生時代からの経験で、そうしたいと思っていただけで無く<br>やってみたら本当に「私に取っての成功パターン」でした。<br><br>この時の経験から「成功パターン」については、更に確信が深まりました。<br><br>計画を始めてから約4年間、次から次へと上司の要望を組み込んで<br>実現させ続けていきました。<br><br>只、私の知識欲はその範囲では収まらず、パソコンの頭脳であるCPUや<br>メモリー、ハードディスクといったハードウェアーに対する勉強も<br>一杯やり始めました。<br><br>勿論、他の誰かからやりなさいと言われた訳では有りませんでしたが、<br>逆にもう誰にも止められない勢いになっていました。<br><br>そして分かって来たことは、CPUの開発に日本人が深く関わっていたこと。<br><br>そもそも汎用のCPUをワンチップ化しようという発想そのものが日本人のアイデアだったのです。<br><br>それが、嶋 正利（しま まさとし）氏だと分かったのです。<br><br>Google などで検索すれば一杯出てくるので改めて私が紹介する必要は<br>無いかと思うのですが、その当時そのことを私がどう捉えていたのか<br>書いていこうと思います。<br><br>当時のようなパソコン創成期の少し前、<br>日本では電卓が爆発的に普及した時期が有ったのです。<br><br>最初の頃のものは、今のコンビニのレジよりも大きな<br>今となっては「巨大な」と表現しても良いような大きさでした。<br><br>丁度アメリカの宇宙開発で電子回路がIC化され、それが各分野に<br>爆発的に普及したのです。<br><br>その結果、電卓が急激に小型化して片手で持てる大きさにまでなり、<br>価格が確か1万円を切った頃からあっという間に世間に広まり<br>工科系の大学生だった私も周りの友人が買って見せびらかすので、<br>私も買った記憶があります。^^;<br><br>その頃の、急激な技術の進歩の雰囲気を私はパソコンでも感じていました。<br><br>嶋氏のことを書き始めると、私自身の思い入れも一杯有って長くなりそうなので<br>今日は、ここまでにします。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12305536632.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Aug 2017 18:56:47 +0900</pubDate>
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<item>
<title>私に取っての成功パターン</title>
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<![CDATA[ <p>さて、上司の信頼も勝ち取り、結果として<br>次々と上司の求める機能追加を<br>その後約4年間に渡ってやり続けることになりました。<br><br>最初に上司にこの提案をした時から、この会社を離れる時まで<br>ずっと変わらなかった事が一つあります。<br><br>それは、プログラミングが好きで好きで、<br>楽しくて楽しくて仕方が無くて、<br>夢中になってゲームをやってるように楽しんでいたことです。<br><br>幸運なことに、好きなこと楽しくて仕方が無いことを<br>仕事に出来たことです。<br><br>でも、もし上司に提案する時、実績も経験も無いのだから<br>こんな提案をしても受け入れられないんじゃ無いだろうか？<br>と考えて止めていたら、こんなことにはならなかったでしょう。<br><br>実際、堅実な性格の総務部長は始めてから2年ぐらい経った時に<br>ふと思い付いたように話してくれたことがあります。<br><br>この計画の財布のひもを握ってた人でした。<br><br>私の上司は勿論、社長、副社長も乗り気で総務部長としては<br>仕方無く承認したようです。<br><br>「この計画を聞いた時、こんなものが上手く行く筈が無い。」と<br>思ったそうです。<br><br>「それでも、本当にやってしもうたなー。」と褒めてくれたのです。<br><br>その当時の自分は若かったこともあるだろうし、<br>楽しくて夢中になって居たので、見積もりを3社に依頼する時も<br>1社に決めた時も、何の不安も感じる暇がありませんでした。<br><br>ましてや、自分もプログラミングし始めたら、楽しくて楽しくて<br>不安など全く入り込む余地は無かったのです。<br><br>上司も私が次々と上司の望みの機能を実現していくので<br>始まって1年ぐらい経った時、「昨日、こんな夢を見たよ。」と<br>夢の内容を話してくれました。<br><br>上司の机から少し離れた、部屋の中心ぐらいの所に、<br>壁一面を覆うぐらいの大きなディスプレイが有って、<br>そこには会社の全行程の進捗状況、作業状況がリアルタイムに<br>刻々と表示されていたそうです。<br><br>それを満足した気分で、眺めていたそうです。<br><br>この計画は、上司自身がやりたかったことだとその時<br>初めて打ち明けてくれました。<br><br>でも、自分では出来ないから我慢していたのだそうです。<br><br>そしたら、私がこの提案をしたので、<br>あの「全責任は俺が取る。お前がやれ！」と言う言葉に<br>なったのだそうです。<br><br>私自身は、楽しくて夢中になってやっていただけなのですが、<br>結果として、上司の夢も実現させていたのでした。<br><br>「やりたいこと、好きなことを仕事にする」と言うのが<br>「私に取っての成功パターン」だというのは、<br>この時更に確信が深まりました。<br><br>今日は、ここまでにします。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12305182996.html</link>
<pubDate>Sun, 27 Aug 2017 14:52:14 +0900</pubDate>
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<title>第2の成功体験の本格的な始まり 4</title>
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<![CDATA[ <p>前回に書いたように、プロを困らせながら<br>私も勝手にプログラミングに参加してました。<br><br>そんなことが出来たのも、当時のBASIC は今から考えると本当に単純で<br>5つか6つのコマンドというか関数を覚えれば殆ど何でも出来ると言っても<br>良いぐらい簡単だったのです。<br><br>実際、製作依頼してるプロのコーディングを見てもそうでした。<br><br>だからこそ、素人の私にも簡単に理解出来たのだろうと思います。<br><br>現在のように色んな言語が複雑化した所から入る若い人達の苦労とは<br>比べものにならないくらい、入門時の壁が低かったのです。<br><br>そして、ごく少数の大手家電メーカー以外のベンチャー企業は、<br>大型コンピュータのプログラマーをやっていて、パソコンの事業も<br>始めたばかりの会社が多く、実力もアマチュアと大差無いことが<br>多かったのです。<br><br>そして、それほどの実力を必要とされる社会的なニーズも<br>まだ認識されてなかったのです。<br><br>ところが、その年に社会的なパソコンに対するニーズが非常に高まり、<br>あちこちで中小企業まで含めてパソコンメーカーが乱立し始め<br>そのお陰でソフトウェアも産業として確立され始めて来たのです。<br><br>私や私の会社が正にその最初の波が来る時に参入したのは、<br>絶妙のタイミングでした。<br><br>そのお陰で私自身も先行者利益を享受出来たのでした。<br><br>その当時はそこまで意識してませんでしたが、<br>社会がドンドンとパソコンを必要とするように変化して行く、<br>その発展の真っ只中に居ることはさすがに強く感じていました。<br><br>そして、パソコンをよく知っていることに自信を持ち始めました。<br><br>同期入社の仲の良かった友人がよくそのことを褒めてくれてたからかも知れません。<br><br>そうこうしてる内に2ヶ月ほど経って、当初の発注内容が完成しました。<br><br>そうして私が全システムを受け継いだのですが、<br>その頃には、私がコーディングした部分は恐らく<br>1/3か1/4ぐらいにはなっていたと思います。<br><br>プログラム全体を理解していました。<br><br>その自信が外にも現れていたのかも知れません。<br><br>上司は、新しく追加する仕事を私に出来るか？と聞いてきたのです。<br><br>勿論、私は自信を持って「はい」と答えました。<br><br>そして、機能追加が完成した時、経理担当の女性社員に<br>上司が指定するデータを入力し、出力される結果が正しいかどうか<br>いわゆる動作チェックを依頼しました。<br><br>その結果が正しかったので、上司の信頼も勝ち取りました。<br><br>それ以来次々と上司の求める機能追加を<br>その後約4年間に渡ってやり続けることになるのです<br><br>今日は、ここまでにしておきます。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12304916901.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Aug 2017 16:17:08 +0900</pubDate>
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<title>第2の成功体験の本格的な始まり 3</title>
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<![CDATA[ <p>発注する業者も決まり、ハードウェアーが会社に持ち込まれました。<br><br>そしていよいよプログラマーがやって来て、B5ぐらいの大きさの<br>紙に書いたBASICのプログラムリストを見ながら打ち込んでいきました。<br><br>紙は1枚か2枚ぐらいだったので、恐らく200～300行ぐらいの<br>今から考えると信じられないくらい少ない量でした。<br><br>それも毎日では無く、週に2，3回、不定期にやって来て、<br>作業時間はせいぜい1時間～2時間ぐらいの短いものでした。<br><br>その当時は何も知らなかったので、そんなものなんだと<br>不思議にも思わず、そのまま受け入れてました。<br><br>そのお陰と言うべきか、1日の殆どの空き時間を<br>私がコンピュータを独占出来るようになったのです。<br><br>リストを画面で見てみると、当時のBASICは「スーパーBASIC]と呼ばれてる<br>そのパソコンでも、素人の私が見て簡単に理解出来るほどシンプルだったのです。<br>（これまでの投稿では当時の呼び方に合わせて「マイコン」と書いてましたが<br>これ以降は、今の呼び方に合わせて「パソコン」と書くことにします。）<br><br>最初に入力された日から毎日、パソコンにかじりついて（上司はそう言ってました）<br>画面のリストを読んでると、それは正に生きた教科書でした。<br><br>BASIC言語の解説書などはまだ殆ど出版されて無くて、<br>パソコン雑誌にチョロチョロと解説記事が載っているような時代だったからです。<br><br>2週間ほど毎日リストを読んでると、コンピュータにやらせる仕事の内容は理解してるので、<br>それをどうプログラミングすれば出来るのかが全て分かってしまいました。<br><br>そうするとプロの仕事にも欠点が見えて来出したのです。<br><br>間違いとまでは言えなくても、こうすればもっとシンプルに、<br>もっと早く、もっと正確に・・・、等々、色んな事が見え出して来たのです。<br><br>その頃既にプログラム修正はスクリーンエディタで簡単に修正出来たのです。<br><br>行番号を付けずにリターンキーを押せば、OSのコマンドとして実行され、<br>行番号を付けて入力すれば、プログラムリストとして記憶されるのでした。<br><br>1画面に治まるような範囲でリストを表示して、<br>それを見ながら、修正変更して、最後にリターンキーを押せば、<br>それが最新のプログラムとして記録されるのです。<br><br>そうなるともう変更したいと言う気持ちは押さえることが出来なくなりました。<br><br>正しく動くと確信を持っていたからなのでしょうか、<br>何の不安も恐怖心も感じませんでした。<br><br>次にプロが来て、紙に書いたプログラムリストを入力し始めた時、<br>プログラムが変わっていることに当然気が付きます。<br><br>プロに「プログラムを変更しましたか？」と聞かれた時、<br>「はい」と自信を持って答えました。<br><br>プロも仕方無く、リスト全体を見ながら再度、<br>追加しようと用意してきたリストを打ち込み始めました。<br><br>そんなことが毎回続くので、遂にプロも堪りかねて<br>「プログラムを修正しないで下さい」と頼まれました。<br><br>でも、その頃には修正しないでは居られない状態になってしまってたので<br>止められませんでした。<br><br>それで、プロも私にでは無く、上司に直接懇願しました。<br><br>その後、上司に呼ばれて笑いながら聞かれました。<br><br>「お前、プログラムを自分で変更してるのか？」と。<br><br>私は自信を持って「はい」と答えました。<br><br>すると上司は「ハッハッハッ」と大声で笑い、<br>そのまま何のお咎めも無く解放されました。<br><br>今振り返って見ても、大胆で豪快な男らしい上司だったと思います。<br><br>今日はここまでにしておきます。<br><br>ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/i-roku/entry-12304610958.html</link>
<pubDate>Fri, 25 Aug 2017 16:37:59 +0900</pubDate>
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<title>第2の成功体験の本格的な始まり 2</title>
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<![CDATA[ <p>経営者達を説得出来た後、取りかかったのは<br>システムを組上げてくれる業者を見つけることでした。<br><br>業者探しは、マイコン雑誌アスキーの広告の中から<br>所在地が大阪の業者を探し、実際に訪ねていって<br>責任者と会って話をしました。<br><br>業者の殆どは、一人で会社をやっていて、<br>大型コンピュータのプログラマーをやっていた人達でした。<br><br>私より少し早くマイコンに気付き、<br>私と同じように豊かな可能性を感じて独立した人達でした。<br><br>なので、私と殆ど同じ意識の持ち主達だったので話は楽しかったです。<br>彼らもスタートしたばかりだし、何の気後れも感じませんでした。<br><br><br>最終的に3社に業者を絞り、システムの提案と見積もりを依頼しました。<br>初めてのことばかりだったのですが、何の不安も感じず、<br>次々とやるべき事が浮かんで来て実行するだけでした。<br><br>一番最初に説明に来てくれた業者は、5インチのフロッピーを36枚、<br>入れ替え取っ替え作業をするという、とんでもなく面倒くさい<br>システムの提案でした。<br><br>その当時の5インチフロッピーの記録容量が片面単密で確か160キロバイト<br>ぐらいしか無かったからだろうと思います。<br><br>電源を入れてシステムを立ち上げるだけで<br>6枚のフロッピーを入れ替えなければなりませんでした。<br><br><br>2番目に説明に来てくれた業者は、唯一の大手家電メーカーで、既に<br>実際にデモショップで、似たようなシステムの動作を見せてもらっていました。<br>デモショップの見学には副社長も一緒に来てくれました。<br><br>今から思うと入社2年目の実績も経験も無い若い社員に任せっきりというのは<br>心配だったのでしょう。<br><br>でも、当時の私は目の前の作業に夢中で、そんなことは全く気が付きませんでした。<br><br><br>こちらは8インチのフロッピー2枚で、1枚はシステム用でもう一枚はデータ記録用でした。<br>随分スマートなシステム提案になっていました。<br>8インチのフロッピーは当時、両面倍密で1メガバイトの記憶容量が有ったので<br>スマートなシステム設計が出来たのです。<br><br>感触は悪く有りませんでした。<br><br><br>最後に説明に来てくれた業者は、大型コンピュータのプログラマーをやっていて<br>マイコンの可能性を見い出し、独立したベンチャー企業家でした。<br><br>大型コンピュータをやっていただけ有って、3社の提案の中で唯一記憶装置に<br>当時は珍しかったハードディスクを使用してしました。<br>なので、勿論ディスクの入れ替えは必要有りません。<br><br>今ならハードディスクと言えば、テラバイト単位が当たり前ですが、<br>その時のシステムは、たったの8メガバイト。<br><br>それでも、CPUが8ビットのZ80（ゼットハチマルと当時呼んでいました）の<br>最大メモリ領域が64キロバイトしか無かったので、巨大な記憶容量と感じていました。<br><br>ディスク自体の直径は8インチなので約30cm。<br>ヘッドはディスクの回転軸に対して水平に移動するシリンダー付きで、<br>筐体の大きさは、幅約35～40cm。高さ25cmぐらい。<br>長さというか奥行きは、磁気ヘッドを水平に移動させるシリンダーと電源や<br>制御装置を入れなければならないので約60～70cmという巨大な装置でした。<br><br>その提案で採用されていたシステムのメーカーは<br>日の出の勢いで急成長を遂げていた「ソード電算機」という<br>ベンチャー企業でした。<br><br>OSを含むプログラミング言語は当時はBASICが主流でした。<br><br>このシステムでもBASICが採用されていて、<br>64キロバイトの全記憶容量の内、24キロバイト以上を占める<br>「スーパーBASIC」と名付けられた強力なBASICが搭載されていました。<br><br>ハードウェアー、ソフトウェアーの凄さに圧倒されるシステム提案で、<br>文句無くこのシステムを採用しました。<br><br>そして、ハードウェアーが持ち込まれ、プログラムの組み込みが始まるのですが<br>余りに長くなるので、続きは次の投稿に書くことにします。<br><br>今日もここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Thu, 24 Aug 2017 15:54:20 +0900</pubDate>
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