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<title>Lovery  Strawberryのブログ</title>
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<description>ブログの説明を入力します。</description>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　従軍慰安婦？について覚え書その４</title>
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<![CDATA[ <p>　積極的に客を取るものばかりで、泣く泣く強姦された</p><br><p>というような話はあり得ない。この言葉が発生したのは</p><br><p>昭和３０年以降だと思う。慰安婦？ではない売春婦は皆条件を示され</p><br><p>金欲しさに自分から応募した者ばかりだと思う。</p><br><p>朝鮮籍の者も皆、日本人である以上、同胞に剣付鉄砲を突き付けて</p><br><p>強制的に連行したなんて話はあり得ない。</p><br><p>いま、「私はそんな目にあった」と言っている８０前後の女、</p><br><p>然らばその時１０代前半だったことになる。</p><br><p>そんな年でそんな事をしたのか。不思議な話である。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11891792507.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 09:04:32 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　従軍慰安婦？についての覚え書その３</title>
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<![CDATA[ <p>　「従軍慰安婦」という言葉は戦前・戦中において聞いたこともない。</p><br><p>「従軍看護婦」「従軍記者」というのはあったが。</p><br><p>これ等は何れも部隊の中で生活し、部隊と共に行動するものであった。</p><br><p>部隊の中に慰安婦が居たなど聞いたことも無い。</p><br><p>余の居た部隊にもそんな者はおらず、古参兵は何れも北京に在った</p><br><p>慰安所に行っていたらしい。そこには本籍が日本本土の者や</p><br><p>朝鮮の者が混在していたが、朝鮮の者は金を稼ぐのに日本人より</p><br><p>多く客を自ら進んで取っていたらしい。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11891306071.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Jul 2014 10:41:39 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　従軍慰安婦？について覚え書その２</title>
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<![CDATA[ <p>　　余はその後、北京の北京日本中学校に転校したが、</p><br><p>３年の時少年兵として全員北京郊外の三家店に駐屯する</p><br><p>部隊に編入された。</p><br><br><p>もちろん同級生である朝鮮人も一緒に。</p><br><p>この部隊は２００人くらいであったが、１０人くらいの朝鮮人の少年兵が</p><br><p>居た。このように朝鮮人は凡て日本人として扱われ、</p><br><p>何の差別もなかった。</p><br><p>日本陸軍の幹部を養成する陸軍士官学校にも合格した者もいて、</p><br><p>これ等はその後将校になっていた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11890020639.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Jul 2014 23:44:11 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　　従軍慰安婦？について覚え書　その１</title>
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<![CDATA[ <p>　　戦前の韓国人は皆、日本帝国の国民であった。</p><p>　</p><p>当時朝鮮全土は日本の領土であり、そこに住む者は凡て</p><br><p>日本人であり、本籍が鹿児島県か朝鮮かというくらいの</p><br><p>違いだけであった。</p><br><p>從って皆、義務教育である小学校に行く必要があり、</p><br><p>日本本土に住む朝鮮人も我々と同じ小学校に</p><br><p>通っていたものだった。</p><br><p>余は日本本土で４回転校したが、どこの学校にも朝鮮人がおり、</p><br><p>同じクラスに必ずいたものだった。</p><br><p>旧制中学は入学試験に合格した者だけが行けるが、</p><br><p>余が入った天津中学校にも何人もいて、余の入った寄宿舎でも</p><br><p>雑居（７人くらい）の中に２～３人いることもあった。</p><br><br><br><p>　</p>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11887996300.html</link>
<pubDate>Thu, 03 Jul 2014 03:49:58 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　その１０</title>
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<![CDATA[ <p>　汽車で天津港に着くと、日本人捕虜は工場跡の建物に収容された。</p><br><p>約２か月後の昭和２１年五月、戦車揚陸艦　LST　の下部に乗せられ、</p><br><p>天津港から山口県の仙崎港に到着。</p><br><p>仙崎港に着いて、しらみを退治するため皆頭からDDTという白い粉を</p><br><p>真っ白になるくらい振りかけられた。</p><br><p>　何か月か前に我が家でとっている大手の新聞に戦後の思い出として</p><br><p>「やっとの思いで日本に着いたと喜んでいたら頭から真っ白になるまで</p><br><p>粉をかけられ、こんな屈辱的のことはなかった。」という記事が</p><br><p>載せられていたが、当時このように思った者は</p><br><p>居ないのではないだろうか。</p><br><p>何百何千のしらみの痒さ、不快さと言ったら大変なものである。</p><br><p>アメリカ進駐軍の好意により、DDTでしらみを撲滅することができた</p><br><p>のだと思う。感謝こそすれ、屈辱を感じるなどおかしいではないか。</p><br><p>テレビもそうだが、新聞も情報操作されている、と日頃感ずる</p><br><p>ところである。</p><p>　</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11876588163.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Jun 2014 09:04:32 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　その９</title>
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<![CDATA[ <p>　昭和２１年３月、天津港から日本人を乗せる引上げ船が</p><br><p>出る事になった。</p><br><p>北京で抑留されていた我々は無蓋列車にぎゅうぎゅう詰めに</p><br><p>乗せられた。</p><br><p>無蓋列車は物資を運ぶための物であるので、屋根は無いし勿論</p><br><p>トイレも無い。</p><br><p>列車が止まったらただちに飛び降りて線路の近くで用を足した。</p><br><p>それは若い女性も同じであったが、何の予告も無く突然動き出す</p><br><p>列車に飛び乗ろうとしても高さがあるため女性の腕力では</p><br><p>なかなか難しく、走って「待って～！」　と追いかけても</p><br><p>追いつけるものではない。</p><br><p>かなりの数の日本人女性が置き去りにされたと思われる。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11875974242.html</link>
<pubDate>Wed, 11 Jun 2014 10:45:13 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　その8</title>
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<![CDATA[ <p>　北京市郊外での抑留生活について</p><br><p>毎日1人茶碗１杯のこうりゃん飯と、ただ塩味が付いただけで</p><br><p>具は何も入っていない汁が配給されていた。</p><br><p>今にして思えばよく飢え死にしなかったものだ。</p><br><p>食べ盛りの男の子２人をかかえて、母は勇気ある行動に出た。</p><br><p>支那人の格好をして、日本の着物などを持って北京市内の闇市に</p><br><p>物々交換に出掛けたのだ。着物は米などの食糧にかえてきた。</p><br><p>父も遅れて赴任先から北京に来て、ともに抑留されていたのだが、</p><br><p>意気地がなくて買い出しには行けなかった。</p><br><p>その為母のお供はいつも自分であった。</p><br><p>もしも日本人である、ということがばれていたら親子ともども</p><br><p>処刑されていただろう。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11875555148.html</link>
<pubDate>Tue, 10 Jun 2014 18:24:19 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　その７</title>
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<![CDATA[ <p>　ちょっと　話がそれますが・・・・・</p><br><p>天津の日本人学校にいた時のこと。</p><br><p>中国では遺体をきちんと埋葬する、という習慣はあまりないんでしょうか？</p><br><p>日本なら考えられませんが、その頃学校からそれほど遠くないところに</p><br><p>支那人の遺体がごろごろ捨ててあったそうです。</p><br><p>そして、死肉を食べに野犬が群がる。</p><br><p>その頃の食糧事情は良くなかったので、食べ盛りの彼らは</p><br><p>時々野犬を捕まえて、ばらして鉄製の洗面器で煮て食べたそうです。</p><br><p>食物連鎖・・・・・という言葉を思い出しました。　　(^_^;)</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11874114298.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Jun 2014 06:14:05 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　その6</title>
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<![CDATA[ <p> 北京日本人中学校の校庭で、全員武装を解き、</p><br><p>銃や懐剣を校庭に集めた。</p><br><p>アメリカ軍のP３８戦闘機が上空を旋回しながら警戒に当たっていた。</p><br><p>　　それから幾日かして中国の正規軍が北京に到着した。</p><br><p>我々日本人は北京市郊外に捕虜として抑留された。</p><br><p>何万人いたか定かではない。</p><br><p>幅５メートル深さ１，５メートルくらいの塹壕に住まわされた。</p><br><p>屋根の代わりにござをのせただけの粗末なところである。</p><br><p>高さが１．５メートルしかないので腰をかがめていないと</p><br><p>天井に頭がついてしまう。</p><br><p>全くもって窮屈であった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11873713519.html</link>
<pubDate>Sun, 08 Jun 2014 14:46:02 +0900</pubDate>
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<title>昭和１ケタのおじいさんの思い出話　その５　</title>
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<![CDATA[ <p>　昭和２０年８月１５日、玉音放送を聞いた。</p><br><p>戦争に負けたのであればきっと中国の正規軍が我々の身柄を</p><br><p>拘束に来るだろうから</p><br><p>とその場から移動せずに待っていた。</p><br><p>ところが５日経っても６日経っても正規軍は来ない。</p><br><p>１週間経ってやっと学生は各々家に帰るように通達があったので</p><br><p>軍装のまま学生のみで隊列を作って汽車に乗り、北京市に到着した。</p><br><p>北京市の周りは高さ２０メートルくらいの城壁で囲まれていたのだが、</p><br><p>到着してみると城壁はすっかり無くなっていた。</p><br><p>駅から北京日本人学校までやはり隊列を作って行進していった。</p><p>　</p><p>その頃はまだ北京の日本人は迫害を受けておらず、北京市内も</p><br><p>平和的な感じであった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ianfuinaize/entry-11873000968.html</link>
<pubDate>Sat, 07 Jun 2014 14:37:51 +0900</pubDate>
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