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<title>エッセイ</title>
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<description>遠い日ののどかな秋田の暮らしの中で、牛などの動物と触れ合う細やかな観察力を通して感じたものや、神奈川県に就職し一生を終えるまで、最後は中咽頭癌の記録を自ら書きとめました。</description>
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<title>中咽頭癌の発症と治療</title>
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<![CDATA[ 中咽頭癌の発症と治療<br><br>　平成１８年頃から飲食すると、時折喉に違和感があったが、そのうちに直るだろうと安易な気持ちで放置していた。<br>　その違和感が一向に改善する気配がなかったため、２年後の平成２０年の暮れに胃がんの定期健診と併せて外科でCTやMRIなどの検査を受けたが画像上何ら異常は見当たらないと診断され、安堵と不安の入り混じった気持ちで経過を見守ることにした。<br><br>　ところが日が経つごとにのどに痛みを伴うようになり、平成２１年８月、同じ病院の耳鼻科の診察を受けたところ、喉頭癌の疑いがあると診断され、放射線治療設備の整っている横浜市立大学病院（市大病院）を紹介され、その日のうちに入院手続きがとられた（診察した医師が市大病院に所属いていることから、入院手続きがスムースに行われたものと思う。）<br><br>　数日後、市大病院に入院し再度CTやMRいの検査を受けたところ、中咽頭癌と食道癌が確認された。今後の治療方針として、病状の比較的進んでいる中咽頭癌を先に治療することとされた。また、治療には外科手術と放射線治療があるが、胃癌の前歴があることや喉の周辺には神経が集中しているため外科手術は難しいことなどから放射線を患部に照射して癌細胞を死滅させる治療は行われることとされた。<br>　放射線治療は、老若男女を問わず、同一部位は生涯一度だけ、放射線の照射時間は一回１５分程度で４０回が限度とされているそうで、それを超えると多臓器に機能障害が生ずる恐れがあり、いわゆる外部被爆状態となる可能性が高まるため、限度を超える放射線治療は行っていないとのことであった。<br><br>　このような治療制限の中で、平成２1年８月末、喉は４０回、食道は３０回照射することとされた。照射時間は１２～３分と短いが、副作用による事故などの懸念があるので入院して治療を行うこととされ、喉の治療終了後は一旦退院し、それまでの治療によってどうしても起こる免疫力の低下や体力の減退を栄養剤の補給によって回復させ、喉の照射終了から概ね１ヶ月後に食道の照射が行われることとされた。<br><br>　喉の治療は、手術によってすぐにでも直るものと楽天的に考えていた。それというのも平成７年の胃癌の手術が順調で、その後も転移などがなかったため、今回の治療も安易に考えていたのかも知れない。<br>　しかし、喉の手術は、あたかも機械を修理するがごとくで、平たく言えばあごや舌をとりはずした後、患部を切り取るというもので極めて難しい手術であるという。<br>さらにこの手術を難しくしているのは、脳につながる神経はすべて喉を経由しているためである。<br>先進医療として行われている病院はあるが、神経を傷付けないで行われた手術の成功率は２０～３０％で極めて難しい手術の一つであるという。そして喉の治療は医学の進歩が遅れている分野でもあるようである。<br><br>喉の照射は当初４０回とされていたが、経過観察などから、３９回の照射で終わりその後、栄養剤を補給し、平成２１年１１月１３日退院した。<br>　この後は食道の放射線治療を待つことになる。<br><br>食道の治療は、１２月初旬から行われる予定であったが、病床が満床であったため平成２１年１２月２４日に入院したものの、放射線の治療は翌年の１月から行われた。<br>　この間年末年始の休みと機器の検査などから治療ができず１２月２８日から１月１１日まで外泊することになった。そして外泊が終わり、１月１２日に病室へ入る前に行われる検温などの簡易検査を受けたところ、感染症である帯状疱疹を発症していることがわかり、すぐに隔離病室（個室）に移され、１月１８日までは病室を一歩も出ることは許されず、つらい一週間の毎日であった。隔離病室から一般病室に移された後、放射線治療も再開されたが、その治療と平行して行われる検査の結果、免疫力が低下していることが判明した。このため、入院によるストレスをなくし免疫力の回復状況を血液検査（ヘモグロビンの数値）により確認しながら、引き続き通院により治療を行うこととされた。食道の治療は、想定外の事態が加わったものの平成２２年２月１４日をもって終わり、放射線治療６９回の全日程を終えることができた。<br>　放射線の担当医からは、治療限度の照射回数のなると副作用などから途中頓挫する患者が多い中でよく頑張ったといわれた。<br>　放射線治療すべてが終わった後の経過観察の中で体力や免疫力の低下が著しいことから、数回の輸血により、この危機を乗り越えることができた。<br><br>　平成２２年は年明け早々あわただしかったが。その後は月に数回の経過観察のための通院で終わり、目立った動きはなかった。<br><br>　平成２３年に入り、１月４日に耳鼻科では、素人にはどのような検査かよくわからないが「ポジトロン断層撮影検査」（通称PET検査と呼ばれCTよりも詳細な画像による検査）を、外科では経口内視鏡検査を受け、一週間後、中咽頭癌および食道癌の再発が見られるとの説明を受けた。<br>　今後の治療としては、「治療方法がない」ので薬物による化学療法と緩和ケアによることになると言われた。しかし、これらの治療は病気の進行を遅らすことで癌細胞を死滅させる方法ではないとの説明を受け、一時呆然となり、何をする気にもならず気力が吹き飛んだような思いであった。<br>　それでも執拗に他の方法がないか主治医に尋ねたところ、同じ放射線治療であるため、治療が受けられるかどうかわからないが、「サイバーナイフ」という専門病院があると紹介されたので受診する旨を伝えたところ、主治医からは「紹介状」とCT・MRIの画像がコピーされたDVDが手渡された。<br><br>　平成２３年１月２６日にサイバーナイフ（石心会　新緑脳日神経外科　横浜市石沢町）へ行き、担当医（市大病院所属の放射線科女医　週に一日のみサイバーナイフで勤務）の説明によると、一度放射線の治療を受けていると通常は治療できないが、市大病院で病状を調べたところ、何とか治療は可能であるが副作用が以前より強くなる。それでも治療を受けるかと念を押された。<br>　説明をひと通り聞いた後、市大病院の放射線治療とサイバーナイフのそれとでは何がどう違うか尋ねたところ、市大病院の治療は一般的に行われているもので、患部の周辺臓器に影響を与えない範囲で広く浅く放射線を照射して癌細胞を撲滅し、転移を防ぐものである、サイバーナイフの治療は定位治療法と言われ、患部の一点を強力に集中して癌細胞を死滅させるものであるという。<br><br>　その後、サイバーナイフの担当医が照射する範囲、深さなどを治療方針として定め、その内容の説明を受けた。それによると２月４日から２月１０日までの５日間、１回の照射時間は３０分とされた。照射する範囲や深さなどの計算についても説明があったが、とても理解できるようなものでなく、医師からもこの計算には相当の時間を要するとの話しがあった。<br>そして、２～３日後に院長から再度説明があった後　治療を受けるか否かの確認を求められたので同意書に署名捺印し、治療が開始された、サイバーナイフへのアクセスは悪かったが、相鉄線上星川駅と二俣川駅から病院の患者専用の無料バスが運行されていたため、同行の妻共々容易に通院し、治療を終えることができた。<br><br>　サイバーナイフの治療終了後、市大病院に戻り、鼻からの内視鏡の検査、血液検査などの簡易検査により経過観察が行われた。その結果、患部は見事に焼却され、血液データも良好であったため、当分この観察を続けることになり、ひとまず安堵した。<br>　平成２３年５月２６日に食道癌の経過観察の一環としてPET-CT検査を受けたところ、食道癌が再発していることが判明したので、６月８日（６７歳の誕生日）に入院し翌日「内視鏡的粘膜剥離手術（患部に内視鏡で生理食塩水を注入し、盛り上がったところを　こそげ取る切除手術）を受け、3日間の絶飲食を経て６月１４日に退院した。<br>　その後も内視鏡やエックス線CT、PET-CT、血液検査などにより経過観察が行われたが、食道癌については再発の兆候は見られなかった。<br>　後にきがついたことであるが、平成２３年２月初旬に行われたサイバーナイフの治療以後、耳鼻科では鼻からの内視鏡の軽易な観察のみで、食道癌のようなCTやPET-CT検査、観察、治療が行われなくなったことである。新年早々に中咽頭癌の再発が確認され薬物による化学治療の方法しかないと判断した結果として、病状の進行に気をつかわなくなったのであろうか。このように思っていることが、医師を信頼していないことになり患者のひとりよがりといわれても返す言葉がない。<br><br>　平成２３年１０月２４日になってようやく耳鼻科主治医の依頼をうけて准教授によって喉の生検（内視鏡に装備されているはさみで患部の組織を一部切り取って行う検査）を受けたところ、一週間後に再発していることが確認された。<br>　このため、再度「サイバーナイフ」で治療の可能性について相談してみてはどうかと言われ、紹介状とDVDが手渡された。<br>　１１月２日に再度「サイバーナイフ」で治療の可能性について尋ねたところ、説明の担当医（前回と同様　横浜市大病院の医師）は、前回の治療も多少の無理をして治療を行った。横浜市大病院の放射線治療を含めて３回目となると、治療の原則から大きく乖離しており無理であると断言された。<br>　<br>　食道癌については、その後も血液検査やCT検査、内視鏡による経過観察が行われたが、再発の徴候はみられなかった。<br><br>　中咽頭癌の治療については「サイバーナイフ」の放射線治療が困難で（あることが判明した結果、今後の治療としては①気管切開手術（注１）②胃ろう又は腸ろうの造設手術（注２）が必用であると言われ、平成２３年１２月５日および１２日に血液検査、心電図レントゲン等の検査を受け、手術が可能であると判断され１２月１４日に入院した。<br>　（注１）気管切開手術…舌の付け根下の患部が盛り上がり口や鼻からの呼吸が難し　くなり　窒息する可能性があることから、患部の下部に穴を開け呼吸が容易に出来るようにするための手術<br>（注２）胃ろう又は腸ろう造設手術…患部が盛り上がってくることによって呼吸だけでなく飲食も難しくなるため、食事は管によって胃へ運ぶ（流動食）手術が必用であり、胃へ運ぶのが無理であれば腸へ運ぶ手術が必要である。この両者が無理であれば鼻から管で注入する方法がとられるが、顔面を管が走っていいると見栄えが悪い。<br><br>　入院の翌日には気管切開手術が行われ、局所麻酔で約１時間の手術であった。<br>切開した喉の跡にはビニール管（カニューレという。）が埋め込まれ傷跡が落ち着くまでの約１週間は声の出ないカニューレが使用され、その後は声の出るカニューレに切り替えられた。手術後、食事は３食ともゼリーでほとんど食べることは出来なかった。<br><br>　麻酔のまだ覚めやらぬ間にも明日の胃ろう造設手術の準備が行われた。麻酔科の医師から手術の概要とそれに伴う麻酔の調整の説明を受けた後、動脈からの血液検査を行うための採血が行われた。<br>　通常血液検査は腕などの静脈によって行われるが、いずれの場合も検査内容は概ね同じである。それでも動脈からの血液検査が行われるのは、静脈から得られないデータが得られることやデータの内容が鮮明であるという。<br>動脈は体の深い部分を通っているので採血する場所は股間の内側の動脈から採血された。動脈の血液は濃くそして勢いよく流れていることから、止血処置を万全にするとともに止血するまで看護師の監視が続いた。<br><br>　胃ろう造設手術は、開腹手術と内視鏡による手術があるが今回は患者の体力負担軽減から内視鏡による手術は気管切開手術が行われた翌日に行われることとされた。<br>局部麻酔により内視鏡の手術が進められたが、約１時間にわたって内視鏡で調べたところ、胃の中からは、腹の皮を通じての外光は確認できないことから手術は中止と決まった。<br>胃の中へ外光が確認出来ず暗くなっていることは、ほとんどの場合、胃と他の臓器が癒着していることが多く、このままでは手術できないということであった。このため、入院を延期し、体力の回復を待って「胃又は腸ろう」造設手術が行われることとされた。この間検査等はなく年末年始にもなっていたので、平成２３年１２月２９日から翌年１月9日まで外泊し、１月１０日に手術が行われることとされた。<br><br>　内視鏡による手術ができなかったことから、今回は開腹手術により、胃の癒着があれば胃ろうを、それが無理であれば腸ろうを造設することとされた。胃のほうが優先されるのは、胃の中に流動食を一時的に貯めておくことができるため、一食分ほぼ１時間で流し込むことができる。一方、腸には食物の保管機能がないため、流動食の栄養を吸収するまでゆっくり時間をかけ、そして絶えまなく流さなければならず、３食分の流し込みは２４時間にもなるそうである。<br><br>　いよいよ手術だということで手術着に着おえたところで、手術は中止となった。中止の理由は、前日の血液検査から「炎症反応」がみられ、誤えん（飲食物が肺に入ること）により、軽い肺炎を起こしているのではないかと思われ、手術を中止することにしたとの担当医の説明であった。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ichieko917/entry-11309337759.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Jul 2012 22:35:47 +0900</pubDate>
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<title>涙を流す牛のはなし</title>
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<![CDATA[ 涙を流す牛のはなし<br>　　　　　　　　<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　エッセイ<br>平成05年11月01日<br>私の家で飼っていた動物は、多いときで豚３頭と鶏数羽、そして牛１頭であった。昭和30年前のことではなかっただろうか。<br>両親は、犬や猫が嫌いであったかどうかは知らないが、わが家では飼っていなかったので、私が今でも犬猫が嫌いなのは、このときの影響を受けたものと思っている。<br><br>神奈川県庁に入ってからも、県税の滞納整理に向かった折、滞納者の玄関に犬のマークがあると、臨宅して納税折衝や差押さえをすることもなく、そそくさと役所に帰り、仕事を先延ばししてきた。<br>私にとって、慣れない脳に響くあの泣き声は、例え小型犬や座敷犬であっても精神的な動揺はいかんともしがたかったのである。<br><br>私が小学校の入学前だったと思うが、ある日突然、わが家に子猫が舞い込んできたことがあった。どこから舞い込んできたかわからないが、子猫は、爪を研ぐために柱によじ登り、いたるところの柱を傷だらけにして成猫になると姿をくらまし、その後のことはよくわからない。<br><br>後年、横須賀に移ってから、ヤクルトおばさんが子犬をもらって欲しいとの勧めがあり、気が進まないまま妻と息子の思い入れもあって飼うことにした。<br>子犬の名前は、当時小学入学前の息子がテレビのアニメを見てのことだろうか、｢プッチー｣と名付けられた。<br><br>犬は、猫と違い柱などを傷つけるようなことはしないと思っていたのは、過去に犬を飼ったことのない浅はかな先入観であった。犬は、猫のように爪は研がないが、犬歯が伸びるときに硬いものを噛んで犬歯の伸びるのを抑える習性があり、このため、新築したばかりの柱などが噛まれてぼろぼろにされてしまった。眼立つところの柱であったため、後年修理をせざるを得なかった。<br><br>この犬は雑種でかわいそうに、散歩や世話などをほとんどしなかったため、年中鎖に繋がれていたが、それでもこの犬のそばに近寄ると満面の喜びを浮かべて慕ってくる姿が、犬嫌いの私にも動物愛護の気持ちが湧くようになった。<br>休日に鎖をはずすと、農作業をしている私にまとわりつき、そして顔を私の顔にこすりつけてくる。飽きると山へ登って姿をくらますが、訓練もしていないのに必ず帰ってくる。<br><br>そのプッチーが、生まれて13年目の秋のある日に息を引き取った。翌日の朝、勤務に行く前のあわただしさもあって悲しみを思うゆとりもなく、裏山に祭壇を作り、灯明がなかったため蚊取り線香に火を点して妻と息子で、今までの感謝と心安からんことを祈った。<br><br>私の部下職員に犬好きの職員がいたので、何かのきっかけでこの話をしたら、動物に対する愛情が薄いなどとえらい非難と嘲笑を浴びせられた。<br>しかし、どんな貧しい葬儀であったとしても、そのことにどんな非難があったとしても、プッチーへの家族の愛情は他人にははかり知れないものがあり、プッチーもそのことをわかってくれるものと、今でも思っている。<br><br>豚の飼育期間は短かったため記憶が薄く、きれい好きの豚の舎屋は小さかったが、根菜類のえさと水をやり、排泄物の掃除をすればよく、それ程苦労した覚えはない。<br>当時、わが家では、稲作だけでは生活できない小さな兼業農家であったが、それでも粗末ではあるが米倉と味噌蔵の２棟があり、その横にはにわか作りの豚舎があった。この豚舎を壊して作業小屋を作ることになってはいたが、世話をしていた豚がある日突然いなくなり、その行く方も知らされなかった。おそらく私が学校へ行っている間に、父が肉用として売りに出したものと思う。<br>豚は外へ出して飼育するような動物でないため、印象は薄いが付き合っていると、えもいえない可愛さがあった。<br><br>鶏は、年中放し飼いにしており、近くの田畑で虫や落穂などのえさをたらふく食べて丸々太り、そして躾もしていないのに夕方に合図をすると集団で必ず帰って来、牛舎の上に取り付けてある鶏専用のねぐらに飛び乗り、明日を待つ何とも手がかからないわが家の住人であった。<br>　<br>　この鶏達は、毎日たまごを供給してくれるほか、年に1～２回ほどのわが家の鍋料理と旧暦正月の炭焼き仲間の宴会の食材に使われていた。<br>　山村の中でハタハタと鶏、たまの野うさぎの肉が村人のタンパク源を補給してくれ、命を救ってくれていたのであった。<br><br>　犬や猫は勿論のこと、鶏を除いて飼っている動物は、自給のための食材ではなかったが、私が小学低学年のときに、一度だけ村人が牛と犬をマサカリなどで屠殺したことを知ったことがあった。牛が山の方に引かれて行くときに、牛も感付いていたのであろうか、普段と違って後退りして前に進もうとしないのを私は見ていた。<br>そのうち、牛の苦しそうな鳴き声と犬の甲高い声が聞こえてきたので、父にその訳を尋ねると、食料不足のためやむを得ず屠殺したのだと聞いた。その幼い頃でさえ、涙が流れて仕方がなかったことを覚えている。<br><br>当時の村人の動物タンパクの食料は、鶏、野うさぎが主であったが、その解体は、処理順位があってその順位を守らないと血が肉に回って臭みがでたり、産毛が抜けないなど解体作業に混乱を招くことを後に知った。<br>父の命令に従って、言われるままに作業の手伝いをしてきたが、今思うと、その時に、何故処理方法を習得しなかったのか、悔やまれて仕方がない。今でも鶏の解体には、臆病になっているが、幼い頃の体験がいかに大事であるかを思い知ったことであった。<br><br>私は、牛が大好きである。<br>幼い頃から、労働力として飼っていた牛との付き合いは長く、その性格は極めて温厚である。<br>牛はのろまで、馬と違って綱で人の指示を伝えることは難しい動物であり、その上、好奇心が旺盛というか、怠け癖があるというか、そのため能率が悪く、労働力として活用するのには厄介な動物である。<br><br>わが家の牛の仕事は、春の田起こしに始まり、代かき、秋の馬車での稲束の運搬(その後リヤカーに代わった)、冬はそりで田んぼへの堆肥運びであり、牛が働くのは、年に通算２か月程度であったろうか。<br><br>それでも牛でなければできない農作業があり、そのため牛の世話は年中続き、作業は１日足りとも気が抜けず、家族にとっては辛い毎日であった。<br>春から秋への牛への作業は、新鮮なえさを与えるため、毎朝晩青草を刈ってくることから始まり、そして月に２～３度の牛舎の掃除と敷き藁の取替え、腐った古い敷き藁は家屋の入り口(玄関)前の堆肥場へ運ばなければならないなど重労働であった。<br>夏には、朝晩の運動と外で草を食ませ、夕方には川に連れて行って水浴びをさせることであった。<br><br>夏の夕方、牛の世話が早く終わったときは、父と一緒に川へ魚取りに出かけたものであった。水量が豊富で名も知らない魚がたくさん取れ、蟹やウナギが取れることもあった。<br>その後、父とともに川にきれいな小石を水面よりも少し高く、平行に並べて置くと、ウグイがその中に卵を生むために集まり、平行に並べた小石の前後をわら束でふさぐとウグイは逃げ場を失い、40～50匹前後は何なく捕まえることができた。塩焼きにして食べるとおいしく、今思うとアユに引けをとらないと思っている。<br><br>当時、毎日のようにおかずは、１箱に50～60匹入って50円のハタハタであった。炭１俵4kg入りの値段が350円程度であったと思うが、１日４俵できたので、山林の購入代金を除くと1日の収入が５～600円程度であったと思う。<br>生活が苦しいなかで、安くそして動物タンパク質のない山里にハタハタは、格好の食べ物であったが、毎日のように続くと見るのも嫌であった。それに比べると、たまにしか獲れない川魚であっても新鮮さを感じたのではないだろうか。昭和28年頃の話である。<br><br>また、副収入を得るため子牛を作ることも必要であり、自宅から今は五城目町に吸収合併されたが、当時の南秋田郡富津内村台村というところまで約５ｋｍを種付けのため母牛を連れて、父とともに２回程行ったこともあった。<br>種付けの初めての牛は、体格隆々の雄牛にたじろぎ、私に寄り添って助けを求めるしぐさをするが、頭をなでて大丈夫だよというと気を取り直して雄牛に近づいていく姿が何ともかわいく思われてしかたがなかった。<br><br>秋には、冬用のえさとして山の急斜面に生えている青草を刈り取り、その場で天日に干し、乾いた草を自宅まで運ぶ重労働の仕事が待っていた。<br>冬は、秋に持ち込んだ枯れ草と藁を｢うす切り｣という単純な道具で、牛が食べやすいように３～４㎝幅の長さに切っておくのも私の仕事であった。<br>このような辛い作業と思っていても、時々私が牛舎に近づくと、横になっていた牛がいつでも起きあがってきて、話し相手になるよと言わんばかりで首を差し出してくる。辛い作業も忘れるときであった。<br><br>私が小学２～３年生であったろうか、冬のある日、来年の稲の天日干しをするための杭を譲り受け、それを満載したそりを身重の牛に引かしていた。<br>急勾配になるとそりは止まり、いきりたった父は、牛の鼻輪を思いっきり引っ張り、牛を動かそうとするが疲れていた牛は動こうとはしない。そのうち牛の鼻輪は壊れて外れてしまい、牛の鼻からは、かすかながら血がでていた。<br>　それを見て私は、寒い中でかわいそうでたまらなくなり、近づいて私の顔を牛の顔にこすりつけると、私に寄り添ってきて涙を流していたように思えた。<br>　そのとき、幼い私は牛に元気づける言葉もなかったが、その一時の休憩と私とのふれあいが、この難業を乗り越えたものと思っている。そう思うと尽きない牛への愛情がわいてくる。<br><br>出産した後の牛の子に近づくと、野生をむき出しにして母牛は人間にも攻撃してくるが、長い間愛情もって付き合えば、仲間だと思ってのことだろうか、そのような攻撃する気配がなく、私も出産の時に何度か立ち会うことがあった。初産のときは、母親の苦しみは子供ながらわかり、牛の顔をなでて頑張れ、頑張れと励ますと牛の目から涙がこぼれてくる。それを見ていると、もう少しだよ頑張ってねと抱き寄せると安心したのだろうか目をつむってそのときを待っていた。揚水が出て出産が始まると父は出てきた子牛の足を引っ張っていたが、私には親牛の顔をなでて励ますしかなかった。<br>　横になっていた母牛は、胎盤の片付けもできていないのに立ち上がり、生まれたばかりの子牛を全身なめて親子の絆を確かめる。感動の一瞬であった。<br>　<br>動物は、子どもを自分の命に代えても守ろうするため、親子の間に近寄ると家族の安全のために攻撃してくるのが本能である。<br>しかし、わが家の牛は、私には攻撃することはなく、母牛に良かったなと言う思いを込めて顔をなでてやると、｢ウォー｣と声を出して寄り添ってくる。人間言葉が言えない牛でも、人より感情のわかるような牛の気持ちが大好きである。<br>他の動物にも時折見られるようであるが、牛が出産するようなときは、何らかの故障で早産となり子どもが死亡することもあり、また逆に出産時期が遅れると体内で子どもが育ちすぎ、人間のように帝王切開もできないことから、親子とも命を落とすこともあるという。<br><br>子どもが死亡して生まれたときに親牛は、子どもの体についている体液を舌でなめて乾燥させ、早く立ち上がれ、立ち上がれと励ましているようで、何とも感動的なシーンである。<br>親が子に対するこの優しさ、厳しさは、動物の子孫を残す本能であり、また植物においてもしかりである。<br><br>かつて、日本の人間社会においても、貧しいときほど家族が、そして国民が、励ましあい寄り添って助け合ってきたことによって、人間関係も人情味あふれ、生活も向上してきたのではないだろうか。<br><br>テレビなどの報道によると、親にとっては障害のある子どもほどかわいく、家族の誰かが職業を辞するなど、生活を犠牲にし、貧しくなってまでも世話や看護をすることがわずらわしくなく、むしろこの子と長くかかわりあいたいという。私は、不遜ながらこの親の気持ちが理解するのに時間がかかった。<br><br>ある日この親は、この子が私達のすべての不幸を一手に引き受けてくれた、神様のような子どもなんです。感謝すれこそどうして見捨てられますか、と涙ながら話されたときのことを思うと、これこそが子を思う親の優しさであり、いきとし生きるものの努めであるのではないだろうか、浅はかな私の考えが恥ずかしくなった。<br><br>言葉で通じ合えるはずの人間が、親殺しや子どもの虐待などの犯罪を平気で起こす今の社会で、このように純真に生きている牛などの動物の心を知って欲しいと思っている。<br><br><br>牛に関する書物をあまり読んだことはないが、手許にある本では、日本詩人全集９　高村光太郎(新潮社　昭和41年11月10発行)の中の｢牛｣と｢狂奔する牛｣くらいのものである。<br>｢牛｣という長い詩は、<br>｢牛はのろのろと歩く｣の小柱にはじまり、利口でやさしい眼と、なつこい舌と、かたい爪と、厳粛な二本の角と、愛情に満ちた啼声と、すばらしい筋肉と、正直な涎を持った大きな牛、牛は大地をふみしめて歩く、で終わるが、その詩のなかには牛に対する愛情がそこここにちりばめられている。<br>　一方｢狂奔する牛｣には、通り魔のように深山の林をとどろかせて奔走する牛の群れを見たので、おびえているのですね。<br>けれどあの露骨な獣性をいつかあなたもあはれと思ふ時が来るでせう、もっと多くの事をこの身に知って、いつかは静かな愛にほほゑみながら―<br><br>　この二つの詩は、高村光太郎が詩や書、彫刻などの作品をのろのろとゆっくり大地に足をしっかりふみしめて完成させるのがよいか、また一方では猛牛のごとく早く完成させた方が良いのか、時によって迷いがあったのでないかと思われる。<br>しかし、｢狂奔する牛｣の最後の部分では、[あの露骨な獣性をいつかあなたもあはれと思ふ時が来るでせう、もっと多くの事をこの身に知って、いつかは静かな愛にほほゑみながら―]と記されていることから、どんな仕事をするにしても、のろのろとでも愛を込めてするのなら、それでも良いではないか、と言っているようである。<br>　高村光太郎⋯明治16(1883)年、東京に生まれる。明治35年東京美術学校彫刻科を卒業。明治40年～42年イタリア、ロンドンなどを旅行。その後翻訳を通じてゴーガン、ドビッシ－、ボードレール、ゾラなどの新芸術を紹介。大正3(1914)年｢道程｣を自費出版。大正4年｢印象主義の思想と芸術｣を刊行。昭和16(1941)年｢智恵子抄｣刊行。昭和25年｢典型｣を刊行。昭和28年10月十和田湖畔休屋御前浜にて裸婦像の除幕。昭和31年肺結核のため死亡､74歳。
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<pubDate>Sat, 21 Jul 2012 18:54:14 +0900</pubDate>
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