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<title>ichimatsu31415の蛙鳴蝉噪ﾌﾞﾛｸﾞ</title>
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<description>とある似非哲学バカの蛙鳴蝉噪なブログ</description>
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<title>～なぜ左に偏るのか～ほか</title>
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<![CDATA[ <font size="2"><br>　3月22日付けのNHKニュース7を出先で見たのですが、なかなかぶったまげました。飯舘村のため池を根本復興大臣が視察したニュースなのですが、ため池や農業用ダムの底の泥から国の基準値を越える値が多くの場所で検出されたと繰り返すばかりで、厚労省は水自体は基準値以下と言っていますとフォローは入りますが、肝心の検出された数字が出てきません。思わずテレビに向かって「数値を教えろよ！」と叫んでしまいました。<br>　4月1日の消費税アップニュースでは、更に「子供が駄菓子の価格が上がって戸惑ってる。年寄りは更に生活費を切り詰めなければならない。庶民が大変だ大変だ！」<br>　これって報道と言えるんですかね…。年金の財源確保や、将来世代への債務を減らす為という文言が出てきた覚えがありません…（もちろんこれも一面的な見方であり正しくはありませんが）<br>　4月21日のは、また香ばしく、政治的中立を訴える立場から自治体が市民活動の一部に対する後援を打ち切っているという内容。後援とは「催し物の主催者に対しチラシに自治体名を記したり、公共施設に置くことを認める」と前置きしていて、出てくる団体が9条の会やらばかりで、どう見ても「自分達の仲間の活動を制約しようとしてる、許せない！後援くらいケチんなよ」と主張しているようです。冷静に見ると特定の政治思想に肩入れしないという自治体の対応は、それなりに納得できるものなのですが、専門家と称する謎の御用学者が出てきて「色んな意見があってしかるべきだぁ！議論を沸騰させよう（自分の好きな方向にもって行きたいの意味）」と綺麗事を並べ立てます（へぇ、暴〇団の主張とかも自治体が後援しろってか…）。そして、そうでない自治体もあるとして、市民団体にホールを貸している例を紹介し（もちろん御多分にもれず9条の会に貸した例）、自治体担当者が「貸してと言われたら（法律上）断れないので」と話す場面。え？！後援とホール貸しで話違うじゃん！と…<br><br>　まぁNHKなんて、そういったやり口の常習犯であり、冷静な数字を折り込まない「危険だ危険だ」と繰り返すばかりの科学的“風”原発報道や、被災者を出汁にした感情論に任せた福島は危険だ報道（冷静な数字や統計データを示してそこまで危険じゃないよと教えるのがNHKの役割じゃないのか？）、市民団体の訳の分からない抗議運動を一生懸命報道したり、専門家の意見と称した謎の団体の代表の話を放送するので、何も驚く必要はないのかもしれませんが…日中友好を促すニュースではお題目のように、「日本政府が尖閣諸島の国有化を進めて以降冷え込んでいる日中関係。」という文言で始まり、「中国側からは友好を呼び掛けている」「関係改善が望まれます」という内容の焼き直しループ。へぇ～、尖閣の国有化は中国の暴走とは何も関係なく勝手に日本政府がやったと。それ以前は日中関係は良好であったと。よくもまぁウソをぬけぬけと…<br>　先日のNHKスペシャルも福島第一原発の事故処理の現状の合間合間に子供が感情論を語る場面を挿入して、何をしたいんだか分からない頭の悪い長めのサブリミナル映像みたいなものを流していました。<br>　一方、二月近く前ですがBBCで「放射能は本当の殺人者なのか」的なニュースを流していました。内容としては、原発事故から3年を迎えた福島からの報告で、（私は語学が苦手な上に、当該動画を見てから少し時間が経っていますから、解釈や内容に間違いがあるかも知れませんが、お許し下さい）初めは小児の健康の調査をしている福島の施設からの取材で「チェルノブイリを見ていると不安で…」と話す母親に対して、ナレーションが福島の事故はチェルノブイリと比べるべくもない程度のレベルであると断じ、その後、お墓参りをする女性や福祉施設での「無理に避難した事で亡くなられたお年寄り」の体験談を挙げ、“放射能は本当の殺人者なのか”と。<br>　別にBBCが何もかも正しいと言う気はありません。特に尖閣の報道に関しては「日中が争っていて、今こういう状況にある」という報道が中心で、日本の立場と断りを付けてから日本の領土であるという説明は付くものの、尖閣は日本のものであると断言はしませんし、中国の主張のおかしさと無謀さにはさほど言及しているようには残念ながら思えません。ただ、日本のメディアの頭のおかしさや軽薄さと比べて、少しはまともだなぁと羨ましく思ってしまうものです。<br><br>　さて毎度ながら、左巻きの人々が福島の人の為と称し「福島は危険だ」と叫べば叫ぶほど、福島の方たちの首を絞めている事に、ただただやり場のない怒りばかりが沸くのです（あたかも自然界には放射能は存在しないかのように装い、感情論で基準値を出来るだけ引き下げさせようとし、出来た基準に対して訳もなく信頼出来ないといい、その低い基準に照らし合わせて、基準より高いからとにかく危険だ！という扇動…）。<br>　もちろん、危険なものは危険であると言わなければならないのは当然です。しかし、放射能や放射線の人体に対する影響に関する科学的な知見は決して少ない訳でなく（十分ともいいませんが）、放射線量や放射線率の違いなど平気で無視し、金と思惑と視野の狭い勝手な思い込みで動く彼らに嫌気ばかりを感じるのです。<br><br>　世論調査も同様に、「原発再稼働に賛成ですか反対ですか」という問いに対して結果は必ず反対が多いわけですが、そりゃ私も無闇に原発を賛成はしたくありませんから反対と言いたい気持ちはあります。しかし、<br>・中東情勢次第でホルムズ海峡が封鎖された場合はどうするか?<br>・途上国の経済発展に伴って激化する化石燃料の争奪戦にはどう備えるか?<br>・地球温暖化の対応策はどうするのか?更に、再生可能エネルギーを始めとする代替エネルギーは果たして現実的なのか?（反原発派のカードとして核のゴミの問題がありますが、火力発電のゴミである二酸化炭素と比べてどの程度の問題なのか問われているのでしょうか？）<br>・貿易赤字への影響と対応策は？<br>・資源を更に他の国々から買うことによって、政治的問題はさらに増えたりしないか？供給が途絶えた時の対応策は？（ロシアからガスを買おうとしても、今のウクライナ情勢とそれにたいするヨーロッパ諸国の対応とかを見て何も思わないの？）<br>・アメリカの工業が最近盛り返してきた一因として自国でシェールガスが安く供給できるようになった事があるわけですが、つまり産業にとってエネルギー価格が競争力に大きな影響を与えるわけで、原発を止める事に対しての経済影響はどうするの？<br>　そういう問題の複雑さと根深さを引っくるめて、原発を選ぶのかが問題な訳です。もちろんこれら全てが原発再稼動により単純に解決する訳ではありませんし、原発には違う問題があるのは事実ですからもちろん単純ではありません。<br>　世論調査でそれを一部でも調査対象に伝えたのでしょうか？<br>　更に、問いを狭い範囲のAかBかに限定してそれしか答えさせない（場合によってAとBは実際には対立しない不可思議な設定だったり…）、あからさまな誘導をする、恣意的に結果を取り纏める…<br>　私が「今回の原発事故の大きな要因に、GEから導入したばかりで日本の環境に適応出来ていない設計の古さに問題がある。故に、今回の教訓を生かした新しい設計の原発に順次入れ替えるのがよいと思う。」と考えていたらどう答えればよいでしょう。<br>そういえば、以前に毎日新聞の電話世論調査を受けたのですが、それは少なからず違和感を覚えるものでした。<br>　まず、<br>「以前に毎日新聞を購読した方にお電話をおかけしました」<br>「年長者の方はご在宅ですか？その方にお答えいただきます」という制約。<br><br>　更に、質問に対して毎日的模範回答をすると電話口の方のトーンが少し上がり、逆の回答をすると機嫌が明らかに悪くなるという不思議さ。<br><br>私を誘導しようとしているのか、それとも既にシナリオが用意されていて、その数に合うようなノルマを電話口の人に課せられているのか。なんなのか<br><br>　その時期単に様々な新聞をとっていたに過ぎず、あれ以来電話がかかってくる事はありませんが、あの時どの質問にも毎日的模範回答をしていたのなら、それ以降頻繁に電話がかかってきたりするのでしょうか？<br>　覚えている限りでは、あからさまな誘導こそなかったものの、そのデータがどう集計され記事にされているかも疑念は消えないですし、何とも後味の悪い電話でした。<br><br><br>　さて、左巻きの人々の狡猾さとして無垢な子供を出汁にして、子供がこんな苦しんでるとか、高校生辺りに一生懸命スピーチさせてる姿が印象的です。実際には自分達の言わせたい事を平気で洗脳させてる訳ですが、そんなのはお構いなしのようでして…<br>　この手法は議題を問わずに行われ、特に防衛関連・原発関連・人権関連で顕著に感じます。<br>作家や教師などが左に偏るのはある意味で当然の事かも知れません。立場上、現実的な社会の問題に正面から対応する必要はさほど高くなく、綺麗事を言っていた方が単純に人間関係が楽な上に、教師については子供に対して「みんな仲良く」といった原則を教える事は確かに重要であるからと言えます。<br>　しかし子供の頃教師が「日本が戦争を起こさなければ、戦争は起きません。日本が全て悪いのです」と言ったその口で「どの国の人もみんな平等で同じような事を考えているものです」といった発言、「いろんな立場の人の話を聞きましょう」と言いながら意見を教師の望む方向にまとめさせて生徒に反対させないような下地を作った上で結局多数決でものを決めたり、私は子供ながらに言いようのない矛盾を感じたものです。<br>　先に言いますが、私は極右は更に好きではありません。左側の人以上に綺麗事に固執しているように感じるからです。<br>　一方で、右側は正しい事を言っているのは事実だとは思いますが、少しあせり過ぎだと考えています<br>　残念ながら今の日本は左巻き的な思想を土台にして成り立っているのですから、ちゃぶ台返しの如く全てを入れ替えなどは不可能であり、無理にやっても大きな問題を生むばかりです。少しずつ一歩一歩、進むより仕方ありません。<br><br>　さて、左の人がよく繰り出す無知で無垢な人とされる人（実際にそんな人は存在しえるのか？）。無知というのは果たして免罪符になるのでしょうか？<br>　人がものを考える時、陥り易い傾向というのはあまた存在すると思いますが、その特質の悪い部分を幾つか挙げると「自分の立場にとって都合よく解釈しがち」であり「複雑な現象の積み重ねである現実を正確に観察する事など不可能で、主観によって見たいものをより分けて見ようとする」、「イメージでものを考え、知らないものは存在しないのと同様であり、それをあたかも知っているかのように振る舞ってしまう」、「理想的条件下における関係性ばかり想像し、複雑な関係性を無視しがちである（物事の本質や問題というのは大抵、境界である際(きわ)で起きたり認識される事が多いものです。）」等々…<br>　その一方で数々の経験に裏打ちされた“勘”というのは素晴らしい洞察を備えている場合も多くある訳ですから、勘という言葉の重みをもう少し考えてほしいものです。<br>　往々にして、左の人々は今までそのテーマについてさほど考え抜いたり、知識を蓄えてきたわけでもないのに、ひとたび関心が集まるようなテーマが現れると、今までさも考えていたかのような態度で綺麗事で固められた薄っぺらな中身を堂々と語る姿が印象的ですが、これはつまり、「後から批判する行為は単純な作業である事に気付かず、その思考の過程を顧みる事はない」という条件によって生まれやすい態度と言えると考えています。これにより自らの万能感と自らが正義であるという錯覚が生まれやすいからです。この環境はマスコミ全般にも言える事で、現在の多くのマスコミの問題点の根源になっているものと考えられます。<br><br>私の以前の記事にも「議論したい」という言葉を軽々しく使った覚えがありますので、反省しなければならないかもしれませんが、<br>「議論したい」と文末に付く時、本当に議論をしたいと素直に思っていない場合、“とにかく自分の思うような方向性へ導きたい”或いは“意見を言い合うのは良いことです”という綺麗事のどちらかを意味する事が多いようです。<br>前者は棄て台詞のように自分の主張を押し通す事しか考えていません<br>後者は人々の意見の多様性について焦点をあてていますが、どう意見を集約していくのかについては不明確です。<br>　とにかく意見を表明する事が大事だという風潮がありますが、知らない事を知らないとはっきり言える事も大切だと私は考えますし、<br>99％の冷静な議論と1％の感情論、99％の現実論と1％の理想論、このあたりが現実社会をスムーズに回していく為の落としどころと言えると考えます。<br>　議論というのは、対立する二者がここにいた時、まず議題の確認、共通認識の確認、言葉の定義の確認、意見の食い違う点の確認、そして妥協点をどこに見いだせるかと進み、議論をまとめていくわけですが、<br>　私は現実の外交が現代においても、軍事力を土台として経済力がその上に、政治力がその上に成り立っていて、それらのパワーのバランスによって世界が動いていると考えていますが、この事に対する認識とあまりに意見の隔たりの大きな人とは私はまともな議論を行う事は多分に困難に思えます。実りある議論をするというのは、それほど難しい行為であるという事を改めて認識しなければなりません<br><br>　最後に私は今の安倍内閣はかなりバランスを見ながらも日本を正しい報告へと導こうとする姿勢は概ね評価できると考えています。<br>ただ、経済財政諮問会議や産業競争力会議において、人を安く使う事にしか能がない、デフレ型の経営に特化した経営者ばかりが重用されているのは甚だ疑問です。<br>ものを生み出すのではなく、物や人を右から左へ仲介する人が中心に集まり、移民容認を中心に労働者を安く買い叩く事で儲けて、数十年に何が起きようと知らぬ存ぜぬ…しかも、それを行った欧米の惨状を無視して。<br>　これを倫理感も矜持もない金の亡者の戯言と断じて何がいけないのかが分かりません。<br></font>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-11844006381.html</link>
<pubDate>Wed, 07 May 2014 16:02:17 +0900</pubDate>
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<title>雑念の記</title>
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<![CDATA[ 　<font size="2">　物事とは基本的にトレードオフであり、一つを得ると知らないうちに一つを失っている事もよくあるものです。しかし、文化がそこに善悪の価値基準を与え、イメージという先入観によって、均衡する位置を収束させうる。時代は変化し躍動するが、根本は何も変化していないのではないかと。<br>　人とはどのようにモノを考え捉えるのかを調べ考えると、それは意外なほど、単純化であり理想化の上に成り立っているのかを思い知り、愕然とするものです。そして、個人としての人は、物事を見たいようにしか見る事が出来ず、似た考え方の人間同士で結び付き、世界の認識は矮小化して行きます。<br>　世の中は多次元の複雑怪奇な空間であり、それが互いに相関していると捉えた時、人々はそのうちの１次元、頑張っても２次元程度の相関しか選び出さずに（上記の「トレードオフ」も２次元ですがね）、論ずる。１次元とはつまり、「これがイイ！」「あれが悪い！」または「ＡはＢに比して数値がより高い」という数直線的な空間での議論、２次元とは１次元よりは実態に近いが平板なボードに書かれた、まさに薄っぺらな表面的な相関を取り出し論ずる議論を指す、しかも大抵は２次元であろうと１次関数的な単純な相関関係しか見出だせない。そして、我々には多次元空間を直接見通すような能力はなかなか持ち得る事は難しいのでしょう。<br>　例えばそれは、お金の多寡によって世の中を評価し理論化して行く事などですが、「目の前にあるペン先を研いでもらった３万円の万年筆」、「東京から大阪への旅行代金の３万」、「吉原での３万」、「設計から製作まで自分の手で行った総制作費３万円の謎の物体」を金額という同じ価値基準で語る事が、少なくとも私の足りない頭では、どんなに考えようとも不可能なのですよね。一般に経済の基本的な原則として、いかなるものでも需要と供給のバランスなどに応じて価格が決まるというものがありますが、大筋は無論否定しないものの、その論理が成立する前提条件の範囲は驚くほど狭いのではないか？つまり、少しでも異常な事態になれば、所詮なんの役にも立たぬ理論と成りうる…かなと。<br>　私は、東京には“都会としての東京”と“地方（田舎）としての東京”の側面が存在すると考えており（行政区で分割して都会部分と地方部分に分けるなんて浅はかな話ではなく、表裏二面性という話です）、もちろんその２つは単純に分かつ事が出来る訳ではありませんが、東京の場合マスコミなどで恐ろしいくらい“都会としての東京”ばかりがクローズアップされる現状に恐怖の念を抱くのが現状です。東京生まれ東京育ちの私から言わせれば、「過剰に東京をオシャレに飾り立てて取り上げるのも、東京のやり方を他の地方に無理に押し付けたり、東京でのモノの見方で他を評価するのもいい加減にして欲しい」のです。東京を過剰に正当化したいのは、大抵余所から移り住んできて、元居た街から来た事を無理に正当化し、商業主義的な価値基準でしか世を見ぬ、哀しき人達の戯言だと私は勝手に思ってますよ。私は自分の街に誇りを持ちながら、悪い部分を素直に認める事をよしとしたいのです。<br>　「ステキなあの街」の裏にだってステキじゃない部分が山のようにあり、更にその“ステキ”の定義が人により大きく異なる上に、冷静にその街を観察すると、目立ち易いステキな部分と陰に隠れたステキじゃない部分の両方があってこそ、その街が成り立っている事は容易に想像出来るはずですが…もちろん、私が大阪に住む事を考えた場合、憧れの阪急沿線に住みたいと考えるでしょうし（実は私は阪急大好きでたまらん人間なのですが）、奈良・京都に異常なまでの文化性を求めたりしている自分を思うと、結局「東京の田舎者」から見たらその程度にしか他所を観察出来ぬのだなと落ち込むものです。<br>　「<a href="http://tokyodeep.info/" target="_blank">東京DEEP案内</a>」「<a href="http://osakadeep.info/" target="_blank">大阪DEEP案内</a>」「<a href="http://japandeep.info/" target="_blank">日本DEEP案内</a>」、各所の裏の部分、ドヤ街の実体など、面白いので参考にどうぞ。私の暮らす街もこてんぱんに言われていますが、事実ですから何も思いません（笑）。<br>　私は東京の新下町２地域・新興住宅地域他に暮らした経験があり、それが故にインテリやらプチブルやら、正反対の所謂DQNやらおバカな人々と触れ合う環境に居ましたが、結局新興住宅地域の清潔一辺倒さには息苦しい思いをさせられ、ホームレスのオッサンと交流していたり、逆に下町地域の濃密な係わり合いはそれはそれで息苦しく、ただ人々の欲望を飾らずに受け入れるその姿勢が非常に気に入っています。まぁ私なぞはみ出しものに違いないのですから、別にどーでもいいのですが、こういう経験のない人は結局自分の生き方の中からしか他人の生活は観察できないという事実にも気付きにくいのでしょうね。尾籠な例えですけど、人だって動物ですからウンコくらいしますし、だからこそ生きている。ただ、臭く汚いのも事実。ノーブルを称する人々はウンコを無臭やいいの香りにしたり、いかに清潔なウンコを出すかに精を出し、その努力をしない人間を下品といって蔑む。一般人はウンコが汚く臭い事を受け入れながら後始末に終始する。主義を振りかざすヒステリックな人々は「人がウンコをするという事実」を受け入れず、歪みを生む。どうしようもない人はウンコが汚い臭い事を利用して、他人を巻き込みながら生活をする。一部にはウンコの臭いを好む猛者もいる…世の中、こんな感じかな？<br>　結局相手の生き方なんて理解出来ないし、理解しようともしない、更には馬鹿にする。みんな素直になれないものかなと…ウンコは汚く臭いけど、だからこそ生きているという事実に立ち返りたいなと。<br><br>　さて、「今」という時間は我々にとって確かに特別な存在で、今という時代にあぐらをかく事で自らに自信を与えています。しかし、「今」というのはそれ程“エライ”のでしょうか？逆に今が“エライ”とするならば、いつの時代の「今」もエライのです。その積み重ねである過去は顧みるべき対象であり、我々のアイデンティティーは過去なくしては語れないはずですが、現代の風潮として特に“科学的価値観”とも言うべき不思議なモノが跋扈しています。科学とは価値観を捨て去ったが故に客観性が高く、だからこそ現代社会の中で大きな支持を得てきました。しかし、いつの間にやら“科学的”という価値観が何処かより現れ、なぜかその知見の多さ深さが価値尺度となり、より未来が正しいという概念が定着しました。しかし、そんな保証はどこにもなく、科学は比較的客観的と思われる事実を着々と提供はするが（この客観性の評価はそんな単純なものではないでしょうけど）、それだけなのでしょう。私も理系人間の端くれとして、科学の将来性には非常に期待をしていますし、科学という大いなる眼鏡により論理的に客観的にモノを捉える事に価値を感じますが、それ自体に哲学はないと考えています。だからこそそれを扱う人間には、単なる感情や論理を越えた支配が必要になると思うのです。<br>　結局均衡点や視座の変化により、過去より優位に居ると感じているだけであり、それに気付かず、過去より未来が正しいと単に信じているなら、我々もまた未来人に嘲笑われるだけなのでしょう。<br>　人はなぜか「その考え方は古い」などと、この複雑な多次元空間の世の中から今の時代に合った（少なくともその本人にとって合っている）１次元・２次元空間を取り出し論ずるものです。そして多次元の存在を忘れる、または忘れたふりをするものです。<br>　人々は１次元や２次元空間の中で罵りあい、思考停止し、ついにはある１次元の指標を元に判断を行い、世の中は歪み、また環境変化が襲い均衡点が変化する。そして新たな１次元の指標を求めてさ迷い、新たな価値観を標榜し、「時代は変わった」と高らかに叫ぶ。時間ともにその指標が絶対となり歪み、繰り返す。<br>　時々、「昔の人なのに凄い…！」という言い方を耳にする事がある。馬鹿野郎、昔の人だから凄いのですよ。例えば、雨は多くの現代人にとって単なる“雨”でしかなく、降水量という基準が基本となり、うっとうしい存在と捉える人も多い事を感じます（私はシトシトと雨の降る日はウキウキするのですが、どうやらかなり異端のようです）。しかし、古に於いて雨は季節によって分けられ、そこに情緒を感じ、農作業の時期の参考などにしたらしいわけで。現代人と古代人の眼には同じ雨が全く異なる次元の価値観で語られ、低次元の価値基準からは高次元のモノの見方を推し量る事は不可能である事を思えば、如何に現代人が今にあぐらをかいているのかと…<br><br>　先頃まで、震災と戦災を重ね合わせて論じる動きがありました、それはもちろん戦災により多くを失った日本が奇跡的とも呼べる回復をし、経済大国となった事実をまた再びという気持ちはわかります。しかし、少し立ち止まって考えて欲しいのは、戦後我々が歩んだ道は本当に正しかったのか？それを本来的に問わなければ、震災後のこれからの日本を考える上で正しくないのではないかと思うわけです。<br>　もちろん、労働人口そして人口自体が本格的に減少すると予想される今後の日本において、目の前に立ちはだかる諸問題の多くを現実的に解決に導くのは安定的な経済成長だと考えられ、それ自体は是非とも達成しなければ方策の一つなのだと私も考えています。<br>　しかしながら、戦後日本人は、戦前を全否定したかのように振る舞い（または戦争によって連続的な時間の流れを単純にぶち切る）、生きる事そのものを最善の価値として疑わず、金に捕われ、時間という価値への過度の偏重、計算出来ない失われた価値を無視し…さらに日本という国家に対する卑屈を是とした思想を蔓延らせたのであると考えたならば、なぜ我々の戦後の価値を無批判に礼賛されようかと。<br>　誤解されないように、補足しますが、生きる事とは主張であり、死ぬ事も一つの主張である。しかしながら生きるという行為は意外なほど簡単に絶たれる場合がある。つまり、他人が人の命を奪うのは許されぬが、主張の為には場合によっては自身を死に至らしめる行為は可能であり、またその死の願望のいかんに関わらずとも、死者の思想を我々は総体として真摯に受け止めなければならない、という考えが私にはあるからです。つまり、生きるという事は必ずしも最善の価値ではなく、場合によっては大儀が優先される。勘違いしないで頂きたいのは私は自殺を礼賛するつもりはなく、あくまで「生きていれば何をしても許される」というような生の前提に対しての問いだと言う事です。<br>　もちろん過去を忘れないというのは大きな問題を孕む場合があり（失われたものに対してマイナスの価値評価を行う事でそれを取り替えそうという動きにより）、それが戦争などを生む思想へと転嫁する事があるわけで、逆に言えば戦後日本は建前として戦争を忘れた（もちろん本質的には忘れていない事は安保闘争という形で表現されているかとも言えますが、戦時の熱狂が形を変えただけかもしれませんがね…当時の生々しい感覚が私のような若僧にはわかりません）事で復興と経済成長を成し遂げたという視座も成り立つのも事実だと思いますけど。つまり、前提としての戦争体験があり、その上での平和の主張は当然かもしれませんが（といいつつ、戦争体験と行っても一様ではなく、戦地へ赴いた方と国内にいた方では戦争に対する意見がまるで異なる事もよくあるものなのですが、我々世代の受けた「平和教育なるもの」はこの辺を一緒くたにし、ある利害関係者が望むべく結果へと誘導するような形へと仕向けられていた気はしてますよ。当時の現実的な脅威を知らずに、知ろうとせずに、子供がしたり顔で「戦争はよくありません！」なんて言っているのを見る度に、何なんだろう…と考え込んでしまうのですがね…）、前提を無視した、理想化された形での理解は、嫌悪も美化も正しくないと考えています。気持ちは分からないでもないですが、原発と原爆を一緒くたに語る事は明らかにミスリードだと思いますし、震災後にしか焦点を当てられぬメディアは如何に不思議な存在であり、例えば「命を大切にという言葉の乱用」によって失われた命、避難誘導をし亡くなられた方々の価値感を踏みにじっているようにも見えてしまうのはなんとも…<br><br>　いつの時代も世界は混乱を内包しているものですが、昨今でも各所でのデモや暴動、自然災害、民主化運動、紛争、貧困、金融戦争、国威発揚による軍拡、サイバー攻撃…<br>　現代日本人の多くは何故か「国連」の存在を絶対視し、その権力の中立性に過剰に期待する向きがあるようですが、国連とはつまり「United Nations」、連合国に端を発するが故の歪みが今も内在し、近年の行動に於いても偏向的なイデオロギーを過分に含む事は明らかで、さらに今後も理想とは裏腹に（本来的に理想の在り方自体の齟齬、理想の実現に於ける方法の問題等）、如何に自国に有利なように誘導するか、国同士の威信がぶつかり合うわけです。これがいつの時代も変わりないのは過去を見れば自明であり、将来に於いても引き継がれるのは当然で、今後一層混沌とする可能性も捨てきれません。残念であるけれどこれが現実であり、その中で我が日本はいかに行動すべきか、これを考えるより仕方がありません。また、多く国は善意には善意を持って対応して頂けるのは間違いないと思うのですが、善意を仇で返し相手の資源を全て吸い尽くそうと考えたり、他国を貶めれば自国が相対的に浮揚するという思考を持つ国は少なからず存在し、その対応にも迫らています。<br><br>　さて、今回の震災における数々の問題点の考察において文明論、科学技術指向主義の限界を露呈したと考えるのもよいのですが、文明は科学技術の発展による近代化によってより高度となり、その科学技術の発展の為に推し進めた安易な資本主義のそもそもの問題、さらに資本主義と親和性の高い民主主義に愚はないのか？と考える必要性を感じます。いや、例え民主主義自体が高尚なシステムであるとしても（参照；<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E5%AE%9A%E7%90%86" target="_blank">アローの不可能性定理</a>）、民主主義も腐敗するという事実（国民・マスコミ・政治家…の堕落）を受け止めなければなにも始まらないと思うのですよ。また歴史を見れば民主主義とはあくまでベターな選択に過ぎず、「民主主義さえ実現すれば世の中が良くなる」という思想が如何に危険かという事にも目を向けて欲しい。逆に今の日本は世論調査が頻繁に行われ、庶民の思いを繁栄せよという動きと、政治家をまるで信用せず当の政治家は衆愚の音頭取りに終始する現実は、“行きすぎた民主主義の弊害”に他ならないという視点は世の中になぜか少ないのが実態です。何かある度に「民主主義の危機」などと煽る皆様、あなたは民衆の一握りに過ぎず皆が同じ事を考えている訳ではない事に気付いて下さい、そしてあなたの市民感覚なるものが正しいとは限らぬことを。まじめに、「行きすぎた市民団体の行動を抑制する市民団体」でも立ち上げようか？なんて思うくらいです。世論を正当化するひとつの根拠として、「やってみてダメなら元に戻せばいいじゃないか」という主張がありますが、世の中一度失われると二度と復活出来ない存在なんてごまんとある事を本当に知らないのか？と問いたくなるものです。その責任感が政治家・国民共に本当にあるのかな・・・？<br>　物を作り、機能させる時、世の中を支配する物理法則に逆らう設計を行っても上手く行く事はないでしょう。そこで、その物理法則をよくよく理解し、経験を重ねて、無理なく設計製造し、常にメンテナンスを欠かさずに行わなければなりません。<br>　主義主張の中身には「目的」と「手段」、そしてフィードバックという関係性により「目的と手段」の両方を持ち得る存在があると私は考えています。しかも人々は思考停止と共に次第に目的と手段がごっちゃになり、また言葉の上では同一でも中身が次第に変質していくものです。<br>　「グローバル化・開国＝善」「平等＝善」「民主主義＝善」「規制緩和＝善」「マーケットの判断＝善」、…冷静に考えれば、これらはそれなりの条件の下で初めて成り立つ、或いは善という一言では語れぬものであり、いずれも手段が目的として扱われ思考怠惰の現象そのものにも関わらず、至上のものとして扱われるのははっきり言って胸糞が悪く、私には唾棄したい欲求に駆られるものです。<br>　例えば、平等という概念は確かに素晴らしい。しかし、どんな世の中になろうと本来的に平等になる事はないし、無理に実現しようとすると悪平等になり、また平等というかなり曖昧な定義の差異を利用し、それを食い物にする人間が現れる。平等の概念はいつの間にやら、シンプルな価値基準のものに変質し、多数にとって理不尽な状態となる。<br>　上記したように、人は自分のテリトリーからしか世の中を見る事は基本的には出来ないが故に、大抵弱者やマイノリティーは放置されやすい。しかしその弱者やマイノリティーが世間に認知されるようになり、平等が叫ばれるようになると既得権が発生し始める。あくまで少数派だったはずの人間の意見が大きな力を持ち、元々の多数派が不利益を被ったり、その既得権を利用する人間が現れる。<br>　私は、あくまでも多数派は少数派の苦悩を知り寄り添う必要性があると思うし、多数である事が正当性を主張する根拠にはならず、少数派つまり細部にこそ真実があると考えています。しかしながら、少数派が世間に認知された時、少数派が少数派である事を忘れ平等の名の下に、大きな力を握る事に対する危険性についても目を背けてはならないと改めて思うのです。つまり、皆素直になれと…。更に言えば、その認められた少数派が他の少数派の偏見に拍車をかける場合があると言う事を。ある反原発集会で「たかが電気の為に子供達を危険な目に遭わすな」と主張した人がいたらしいですが、豊かな電気によってどれだけの命が救われ、危険が回避されてきたのか全く理解出来ない所が、他の種類の少数派に配慮出来ない、多数派気取りの少数派らしい主張だなと感じました。<br>　また、グローバル化が叫ばれる昨今ですが、冷静に考えればわかるように、机上で考えるのとは異なって世界は均質な空間や人々がいる訳もなく、ゼロサムゲームとなるのは明らかで（「グローバル化は世界の人々を豊かにするという説」の元々の論文は人や資本は移動せずモノだけが移動するという前提だという話を聞いた事があるのですが、それが誰の何の話なのか、知っている方教えて下さいまし。）、市場原理が完璧な形で実現する事もなく、資本のやり取りの制約はほとんどないのに金融政策は各国に任されるのですから、結局国家間のパワーがぶつかり合い帝国主義的な様相を帯び始めるのは火を見るより明らかだと思うのですが（つまり例えば国防にも力を入れなければならない）。巨大な世界経済の中の各企業の経営者なんてちっぽけですから単純には批判なんてできませんが、既に国内においても国際競争力の維持やアウトソーシングの名目の下、派遣労働などの奴隷労働の内政化は顕著である事を考えると、日本の現実的なパワー（軍事力も含む）に裏付けされた交渉力の低さに余計に唖然と・・・グローバル化なんて言うのなら、国防やサイバー戦争への対応を始め、したたかで狡さを兼ね備えた戦術を如何に用いるかについて語る必要性を思うのですが、なんといいますか「グローバル化はみんなが幸せになれそうでいいね！！」レベルの報道ばかりは寒気が・・・無知をこれ以上さらすのも嫌なので、詳しい方お教えねがいます。<br><br>　最後に。最近テレビ取材なるものに２件出くわしたのですが、映像を素材と表現する理由がよ～くわかりましたよ。恣意的な質問と編集、どんなに被取材者がよい材料を提供しようとも（自分で言うか？（笑））、その素材の良し悪しに関わらず彼らが料理するという事をね。カレーに合う人参だって言ってんのに、生で食ってマズイって言ってるようなもんだよ…</font>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-11329881663.html</link>
<pubDate>Thu, 16 Aug 2012 15:30:54 +0900</pubDate>
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<title>東日本大震災と原発事故から考える</title>
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<![CDATA[ <font size="2">　改めてとなりますが、この度の東日本大震災により亡くなられた方々にお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げ、一日も早い復興をなされます事を願っております。<br>　また、自分の意見を表明する私の行為は普段にも増して言葉を大切にしなければ、被災者の心を傷つけかねないわけですが、言論という行為そのもの、更にマクロな動態を批判しようとすればするほどその危険性を孕むわけですから、以下の文章はあくまで個人的な一考察であり、東京周辺に住むある無知な人間が一般論として書いた事であって、被災された方の心証を害する意図はないという事を改めて認識された上でお読み頂きたく存じます。<br><br><br>　５月下旬、被災地の親族に会って参りました。<br>　物見遊山にならない程度に、その親族に周囲を案内してもらいましたが、目の前に広がる光景と異臭に恐れおののくと同時に、テレビ画面を通して見た光景がこれほど近くで起きていた事と被災地域においても被害の状況が様々である事を再認識した一方で、私自身に馴染みのない地域を通過した際には「ここで起きた事実」という頭の認識と「瓦礫の山、または瓦礫の片付けられた地域においても、震災前を知らぬが故のゴミの散乱する地域にしか見えぬ」という実感のなさの乖離にも襲われました。<br><br>　さて、復興に関して様々なプランが議論されていますが、個人的にはこれらの計画は基本的に地元の人間が計画し、国や自治体は意見の集約と財源の確保にのみ奔走するのが、今後の発展を考えれば得策だと思うのですが（押し付けられたプランはなかなか根付かないと思うので）、ただ今回の震災は大規模かつ広範囲、津波による壊滅的な被害が甚大なだけに、再びの被害の防止を考えるならば、ある程度国が主導せねばならい為、被災地から離れた場所でばかり議論し遅滞しているのは何か歯痒いばかりです。かなり穿った見方かも知れませんが、東北という地のイメージは一般的になぜか「どこか暗く、前近代的であり、辺境の地」として語られる事が多く、今回の政治やメディアの対応もどこかそのような蔑視が見られるように感じるのですよね…いや、民主党の設計主義に凝り固まった思想故の「震災でいくらでも改造できる土地が余ってるのだから、歴史とか人間性とか関係なしに、俺達のやりたい復興プランぶち上げちゃえ」的なものを抜いて見たとしても…<br>　私は赤坂憲雄氏の東北学に関する知見を指示する人間ですあり、東北というのは奈良・京都・江戸（東京）などの大和民族側・仏教的な思想・稲作文化から見ると辺境に見えてしまうのは仕方ないのかもしれませんし、幕末に幕府側についた影響により明治以後新政府による開発が滞ったという話もあるわけで、そこに豊かな文化・思想があろうと勝てば官軍故の勝者の眼鏡を通したイメージが未だに根付いている事を思うと、なかなか難しいものです。<br>　いや、誤解して欲しくないのは、私は北東北に由来を持つ人間であり現在東京周辺に暮らしている故、東北について特別思い入れは有るものの必ずしも詳しい訳でもなく、しかしながら当然嫡々の東京っ子ではない訳ですが、しかし東北は当然小さい頃から親しんで来ましたし、また江戸から連綿と続く東京の下町文化圏にそれなりに愛着を持っています。（東京の文化が「都市としての東京」と「地方としての東京」に大別されるにもかかわらず（もちろん解りやすくこの二つを分断出来るわけではない）、大抵の場合、特に他地域から見た場合に「都市としての東京」ばかりがクローズアップされ「地方としての東京」は無視されがちです（個人的には「地方としての東京」は興味深く観察したいと思うのですが、「都市としての東京」の存在は国家としてのマクロな動態把握・経済戦略を描く為には欠かせないものの、文化としてはあまり興味が湧きません（もちろん私も都市としての便益を享受しています）。つまり、巷の短期的な薄っぺらい流行は個人的にはどーでもいいです（まぁこういう流行が蓄積して、やがて文化に昇華するのでしょうけどね）。）<br>　歴史があり、人がいる、そして交流がある、そこに文化がある。その文化の独自性はその土地の人間が受け継ぎ次第に変化する。そこに誇りを持つ。自身の所属する文化からの偏見は必ずしも正しくはない。<br>　東北が復興し再び豊かな文化を作り上げる為に、皆が被災の現場に素直な気持ちで目を向け、地元の人・文化を生かした街作りを行う事を基本に考えて欲しいと私は思っております。そして、再び強く歩みを進めて欲しい。<br>　もちろん、高齢化や地域経済の衰退を始めとした震災前からの課題を含めた数多くの問題は、一筋縄には解決できず、今回の震災によりさらに多くの歪みを生むのかも知れません。<br>　きっと私の言葉は空虚なのだと思いますが、しがない私が言えるのは、「みんなで支え合おうよ」くらいしか言えません。すみません。<br>　「私の好きな表情豊かなあの東北にまた出会いたい」。一人の東北由来の人間として、そんな事を考え、その日が来る事を祈るばかりです。<br><br><br>　さて話は代わりまして…<br>　福島第一原発事故を受け、エネルギー政策に関する議論が活発化しております。しかしながら、その議論には冷静さ・短期的または長期的な時間設定・エネルギー安全保障の問題・電力は経済の大いなる活力である事などの視点が欠如している場合が多々あり、ひどい時にはレストランでメニューを選ぶような感覚で語られる場合さえあり、さらに、擬似科学と思われる永久機関的な発明を歓喜して報道するメディアや、エネルギー源とエネルギー貯蔵媒体をごちゃまぜにするものさえあり（一応私も理系人間の端くれなので、多少科学リテラシーを持ち合わせているつもりでして…擬似科学を手放しで喜んでいるのを見るとさすがにクラクラとめまいが…）、暗算でもわかりそうな無理な自然エネルギー代替論まで飛び出し、唖然とするばかりだったりします。<br>　まず「脱原発」と“単純に”連呼する方々に言いたいのは、潤沢で安定な電力を享受し、原子力の危険から目を背け、ひとたびトラブルが起きると騙されただの何だの騒ぎ立てて自らの責任を放棄するのは、逆に今回の福島の被害者達に対しても不誠実な態度のように私には映るのですけれど…つまり、自分の身に同じような事がただ起きて欲しくないという利己的な主張にしか見えないのは悲しいかな、主張自体は間違ってはいないのですがね…<br>　例えば、飛行機事故が起きた場合、「航空業界自体を廃し、飛行機を二度と飛ばすな」という人間がはたしているでしょうか？もちろん「二度と利用したくない」という人間はいるでしょうが、原子力発電所という営業運転に供せるある程度完成領域にある技術（という私の中での認識）であるにも関わらず、その大仰さの割に“電力しか”生み出せないという特質が便益への意識が低くさせ、更にドイツ・イタリアが脱原発の意思を示したのも先の大戦の敗戦国としての意識が垣間見えるのは決して間違ってはいないと考えています。<br><br>　さて、論点を整理します。<br>　今回の事故原因と被害の拡大は原子力というシステムに依存するものなのか、原子力村を始めとする組織の閉鎖的な体質に依存するのか、予測不能な大災害ゆえなのか。これを如何に考えるかによって主張が大きく異なる訳ですが、冷静に考えてみれば、多分どれも正しいのだと思います。<br>　つまり、残念ながら「脱原発」や「原発推進」で語れる程、物事が単純ではないという事実です。<br><br>　さて、フランスやアメリカの原発推進にせよドイツやイタリアの脱原発にせよ、ある程度議論を積み重ねた結果、国策としてのそれなりの覚悟と、電力を融通し合えるシステムなどそれなりの裏付けの上になりたっているのは間違いありません。EU域内であっても電力政策が別である理由はエネルギー安全保障の問題が一つにはあるわけで、何故日本がFBRの開発に力を入れ、J-powerの株買い増し騒動でヤキモキしたのか、そして1941年に我々はどのような行動を取ったのかを今一度真剣に考えて欲しい訳です。<br>　つまり、極端な言い方をするならば、日本の高度なロケット技術・原発技術は諸外国からみれば明らかに「準核保有国」とも言うべき位置付けである訳で、安全保障の一翼を担ってきた（担っている）のは間違いない事を意識すべきですし、それらのインフラが大きな外交カードの意味合いを持つのは間違いありません（色々規制はありますが）。<br>　また、再生可能エネルギーは自給率100％であると主張されますが、材料資源や生産技術と生産設備の国内保有がある程度保障されなければ、全世界が自然エネルギーへと傾倒した場合、エネルギーの直接的生産ではなく間接的な設備生産により安全保障が語られる可能性も考えられるなど、出来うる限り抜け目なく考える必要があると思うのです。<br>　さらに、再生可能エネルギーを拡充するならば、蓄電や送電網強化のコストを折り込む必要性が議論なされないのは不自然であり、「太陽光パネルの拡充でOK、コストなんてそのうち安くなる」なんて理論は、「FBRが大成功して超安全な原発作りゃ問題なし」と言ってるのと同じくらい無責任なんだと思うんですが…　代替可能かどうかを熟慮せず、脱原発を主張するのは責任の放棄と同じであり、原発の反省（この場合事故の反省ではなく原発導入時の反省のなさ）を生かしていないのであり、また再び再生可能エネルギーなどをきっかけとする大きなトラブルを起こす可能性があるという事を肝に命じる必要があると考えています。<br><br>　ここまで、あえて脱原発に反論する言説を並べてきましたが、もちろん、科学は使うこそあれ、使われてはならないし、技術は道具に過ぎない存在であると私は考えています。つまり無理に原発技術に固執するのも間違いでしょうし、放射性廃棄物の問題や原発コスト試算の問題などを隠すべきではないでしょう。そして、今回の事故による原発事故の異常さは強く認識せねばなりません。実際、原発被害の凄さは目に余りその影響力の甚大さはむごいばかりです。二度とこのような事故は起こしてはならない。<br>　そのためには今回の事故を多角化的に検証し、素直に反省をする事が如何にも重要であり、検討違いの反省や批判で歪みを生じさせる事が一番虚しいと思います。<br>　六本木ヒルズの回転ドア事故の際に、回転ドアの設計思想を知らずに回転ドアを設計したり、その安全管理をできなかった事が大きな問題なのに「回転ドア自体が悪い」というイメージで、全国の回転ドアが無くなっていったのは何処か間抜けに映るのですけど…いや、再度の事故の危険や訴訟リスク、回転ドア設置による利便の小ささを考えれば当たり前でしょうし、一般的に利用者は回転ドアじゃなくても特にそれほど困らないので別に良いのでしょうけど…。<br><br>　という事で、個人的には天然ガスや液化した石炭により、より効率よく燃焼し、二酸化炭素を回収する火力発電なんか有望だと思うんですけどね…出来ればメタンハイドレートやら国内産出資源で賄えれば最高ですが、さすがにコスト掛かりすぎかなそりゃ。<br>まぁ、次世代火力ってあんまりメディアで注目されませんね、なんでしょう…？原発か再生可能エネルギーの二者択一とか頭おかしいんじゃないかな…と。とりあえず20～30年程度はそのような高機能な火力の強化でいいんじゃないかと個人的には考えています。つまり、その間に安全性の劣る古い原発は廃しつつ電力会社などの体質を改め、より採算に載りやすい再生可能エネルギー開発と共にそれらを着実に普及させる事や、さらなる節エネ型社会の構築、次世代のかなり安全な原発や核燃料サイクルやら小型炉・高温ガス炉とかを開発したらいいと勝手に思ってますけど…そういうのじゃダメですかね？<br>まぁ石炭火力も、石炭の掘削で大きな犠牲を払ってきた事を忘れてはいけませんし、火力は全般的に資源価格に振り回されがちですから、そう単純ではないのもわかっておりますが…<br><br>最後に<br>　正直、私自身、これらの二つの主張の中で大いなる矛盾・不整合がふくまれているのは承知しております。私の中でも未だ思案中、いや永遠と答えは見つからずにさ迷うのかも知れません。公共の福祉と個人の権利との線引きは常に我々に問いを迫ります。しかも、大抵の場合に弱者にしわ寄せがきてしまうのは皮肉なものです。<br>　震災前・震災後で語られるほどの大きな変化は我々の生活スタイルを本質的に変えてしまいます。マズローの欲求段階説のように、その変化は一時的なもので終わってしまうのかもしれませんが、本質はなかなか変化する事なく人々の中に生き続けることでしょう。今回の震災を通して人々が感じ学びとったことに改めて素直に向き合えるように、そして心身に傷を負った方がその事実と向き合いながら、新たな一歩を踏み出せるように、亡くなられた方の思いを忘れずに皆で考えて行きたいものです。</font>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10959388386.html</link>
<pubDate>Wed, 20 Jul 2011 18:51:57 +0900</pubDate>
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<title>東日本大震災によせて</title>
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<![CDATA[ <p><font size="2">　この度の東日本大震災により亡くなられた方々にお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げ、一日も早い復興をなされます事を願っております。　私自身、東北地方に多くの親族がおり、一部の親戚が地震や津波の直接的被害に合い、少し遠い親戚ではありますが亡くなったの者もおりますが、私自身は特に大きな被害はなかったゆえ、余計に複雑な心境ではあります。<br>　正直、このブログをほったらかしていたのは何も書く気が起きず、無理に書いても後悔するだけだと思ったからです（その間も意外に多くの方に訪れて頂いていたようで正直驚きです。いや、私の思い付きを書いているだけのブログですから別に「出来るだけ多くの人に見て欲しい」なんという気持ちは毛頭なく、どちらかと言えば「分かる人が見て、まぁ『世の中にはこんな事考えてる馬鹿な奴もいるんだな』程度に思ってもらえればいいや」と考えているものですから、訪問人数など半分どうでもいいのですが…何と言いますか、ありがとうございます）。<br><br>　このような時ですから、こういった言論の場というのは（私自身は曲がりなりにもそういう心積もりで書いてはいます。最も誰しもインターネット上に書き込む時点で、その公共性故の責任感は持つべきとは思いますが）、普段に増して言葉を大切にしなければ、被災者の心を傷つけかねないわけですが、言論という行為そのもの、更にマクロな動態を批判しようとすればするほどその危険性を孕むわけですから、以下の文章はあくまで個人的な一考察であり、東京周辺に住むある無知な人間が一般論として書いた事であって、被災された方の心証を害する意図はないという事を改めて認識された上でお読み頂きたく存じます。<br><br><br>　「危機の時にこそ物事の本質が見えてくる」というのは確かにその通りなようで、今回の震災により、様々な点において“本質”が意識出来た機会だと思っています。それは良い点・悪い点、各様にありますが、それが意識出来た事、更にそれを検証する事で今後に生かされればと思っています。<br><br>　今回の震災の後、「絆」という言葉が盛んに叫ばれています。もちろん、日本が団結しこの国難を乗り切る為に必要な観念であり大切にしたい言葉ですが、少し振り返ってみると何か皮肉な感情がします。<br>　震災報道の中に埋没していたようでしたが、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告に対して下された地裁判決は死刑。はっきり言って彼の犯した行為に対して一切同情する気にはなれないですし、死刑判決も当然だと思っています。ただ、彼の置かれていた状況、つまり「インターネットの世界にしか頼れない人間関係の希薄さ」「派遣労働を始めとした非正規労働者の生活の不安定さと、将来を見通せぬ状況」などを考え、彼がインターネットに書き込んでいた言葉を追っていくと、やはり同情を禁じえません。検察側は「人間性のかけらもない悪魔」と断じていたようですが、本質的には人間性のない社会環境に人間性のある人間がいたからこその問題があり、そして結果として人間性のない行動を起こした事件の一様を捉えて、それを人間性のない悪魔と単純に断じるその人間性のなさと稚拙さに呆れるばかりなのですが…<br>　この他にも震災前の報道では、孤独死を始めとした無縁社会の問題、「市場原理は偉大だ」との信念の下に無慈悲なまでに拡大する格差とその認識の欠如、そのアンチテーゼともとれるタイガーマスク運動…等々。<br>　そんな世の中に今回の震災は国家と共同体の重要性を改めて突き付けたように思います。<br><br>　以前にも触れましたが、公正で自由な空間には、それを担保する存在が不可欠であり、しかもそれが文化の入り乱れる変化の時代であらば、それを名文化しシステム化しなければならなりません。しかし、システムには必ず穴があり、文章やマニュアルを読み実行するプロセスの中では文章の捉え方という問題があり（つまり、規制の文言が一字一句違わずとも、解釈という形で実態は変容します）、下手をすれば法令・規制やマニュアルの無視、或いは杓子定規な形へと落ち着いてしまい、組織は空虚になり崩壊してしまいます。<br>　それゆえ、魂や理念・倫理観といった、非常に捉えにくいけれども、ある意味で確実な存在で変化に対応し、不断の努力により保ち伝え続ける事が必要となるわけです。<br><br>　今回の震災の余波で起きた風評被害や買い占めなどの行動、これは市場経済というものがごく安定的な状態の、需給曲線でいえば交点のごく周辺でしか成り立ちにくいという事を表したように思います（私が震災の３日後に東京のスーパーに訪れた所、保存食ばかりがなく、いや、入荷量と販売量のデータがないから確定的な事は何とも言えませんが、安易な買い占めが私の周りでも起きていたようで、街の人の何気ない会話を聞き、卑しいなと思ったのも事実です。もちろん、東京でもそれなりに恐怖を感じる揺れでしたし、普段と比べて様々な面において不便を強いられ不安定な要素も有りましたから、買い溜めしたい気持ちもわかります。ただ、自分達の被災が大した事ない事に気付いた時、足るを知るという言葉を知っているならば、我慢もしようし、少しばかり頭を使えば、既製品の保存食でなくても、有り合わせのものでいくらでも保存食なんて作る事が出来るのになぁとも…芋でも蒸して天日に干せば立派な保存食ですよと。）。もちろん、だからといって計画経済を無批判に賛美する気もなく何事もバランスであり、さらにそのバランスは様々な要因によってバランスする位置が決まるのであって、つまりそれは一つの文化として還元されうるかと。<br><br>　お金とは、その流動性にこそ責任の根源があると、私は考えています（いや、だからといってお金のやり取りがないから、そこに責任が存在しないという意味ではありません。つまり、責任とは必要条件だという事です）。つまり、お金を行使する際にも受け取る際にも一定の責任が付き纏うのであり、より多くやり取りする為にはその責任がより大きくなるのは当然であり、そうなるべきであり、それを意識しなければならないのだと考えております。<br>　私なぞは行使できるお金を大して持ち合わせておりませんが（笑）、それでも「よい物は高くて当たり前であり、それを評価する意味でも、より高く買いたい。」「もの価値を金額ではなく、その本当の価値を知る人間は給与が高いのは当然であり、周りの人間が（特にものの価値を解らぬ人間が）とやかく言うべきではなく、よりお金を行使できる人間になる為にはものの本来的な価値を知り、徳を身につけねばならない。その為にも時折は安い粗悪な物を大量を買うことばかりを考えずに、よい物を我慢してでも買って味わってみる。」「『将来は何になりたい…？』と聞かれて『お金持ちになりたい』と答える子供に対して、お金とは何だという事をとくとくと説教する（笑）」などという事を考えたり実行しているわけで（いや、最後のはあまりやらないかな（笑））、そういう社会を実現する為には、適切な規制と魂と理念・倫理観の存在が欠かせないと思っています。<br>　そして、今回の震災後の人々の行動について、冷静かつ秩序を重んじる姿勢が多いに評価された事は、その市場原理では評価しにくい魂や理念・倫理観を持ち合わせていたという事であり、そういった日本人を日本人自身が高く評価しなければならないという事を日本人自身が気付き、日本という国は“人間”に恵まれている事に改めて気付きたいものです。<br>と言いますか、はっきり言って「被災者を助ける・支える」という考えは傲慢であり、実際には我々支援者側が日本人の気高さを再認識させられているのではないかと感じたほどです。<br><br>　ただ昨今、擬人化ではなく“擬機械化”とも思われる労働も散見されてきた中で、日本ブランドを支えているのはその日本人のその魂や理念・倫理観と思われ、それは評価されなければいづれ瓦解してしまう運命でしょう。無論、守りに徹すれば内部から崩壊してしまうかもしれませんが、開放とは適度の保護があって成り立つもの。<br>　企業とは与えられた条件の中で最大のパフォーマンスを目指す存在ですし、多くの企業が倫理観をもった集団であると信じていますから、単純には企業を批判する気などはないのですが、「過度な市場原理主義へ</font><font size="2">と狂いつつある世界を過度に信用し、日本で得た利潤を必要以上に海外に持ち出し、ついには、海外の人材により、海外から材料を買い製品を海外へ売り、海外と競争し、海外へと資本を持ち出しているのに、我々は日本の企業だと嘯く集団」であっても政治がニヤつくのは何だろうと…<br>　企業はそれでよいとしても、国民は自国民の事を考えねばならぬわけで、「絆」という言葉が取って付けたように報道されていますが、「絆」とは「ある一定の集団内において、断つ事が憚られるような人間同士の感情」と捉えられ、つまりある意味で排他的な意味合いもある言葉だと思います。<br>　個人・共同体・地域社会・国・世界、この枠組みの中でどう助け合い、場合によっては対立しなければならない時もあるわけですが、利己主義へと進み始めていた日本の人々に大きな課題を突き付けたように感じます。<br>　震災から２ヶ月が過ぎようとし、被災地はこれからも継続的な支援を必要とする中、「がんばろう日本」「つなげよう日本」…という言葉が空虚にならぬように、国や共同体という枠組みとは何かという事を改めて問い、「被災者」「支援者」共に奢らず主従関係などならずに、「被災者」という一括りの集団の中には事情の違う人々が多く集まっているという事を改めて認識しながら、団結する必要性、それは一筋縄にはいかないかもしれませんが、行わなければならないのでしょう。共感だけでなく理解へ、ただ、本当の理解というのは難しい。<br>　原発に関しても東電を袋だたきにするような風潮がありますが、確かに東電の体質的な問題などもあるのでしょうし、今後の事故原因の解明が待たれますが、冷静に判断できる素地を整えておかなけれならないでしょう。つまり、福島第一原発の一刻も早い収束と同時に、全国の原発に置いて士気の低下を伴わないようにする事、これも一つの絆なのだと私は考えています。その上で今後のエネルギー政策を考える必要があるかと思います。歴史はエネルギー政策が国家の命運を大きく左右する事を物語っているわけで、拙速な判断は禁物だと思います。<br>　脱原発・原発推進どちらにせよ、いつだって外野は無責任なものです（私も外野からガヤガヤと騒いでるだけです）。プロ棋士達が短時間で最善手を打てるのは日頃からパターンを記憶し真剣で素直に盤面に向かっているからこそであり、同様にして、冷静な判断は大いなる研究の上に成り立つ事を胸に行いたいものです。<br><br>　さて、今回の震災でのインターネットの存在について、様々な観測や報道があり、やはり結局は、「人間同士である」という事に帰結してしまうような感覚を受けてしまいます。媒介するものは何であれ、そこに存在するのは個々の人間であり、メディアの特性に合わせて仮面を被っているのに過ぎないでしょう。つまり、上記した魂・理念・倫理観等に左右された結果を報道してるに過ぎないなぁと…<br><br>最後に、<br>日本が停滞から衰退に向かっていると認識される時代に、これだけの大きな災害が現実に起き、人々が翻弄されています。しかもそこには地域によって温度差があるでしょう。<br>　今後、無情感に伴う過度な文明批判や、逆に対局的な過度な科学信仰が起こったりして、妙な論理が展開されたり、それぞれどこに軸足を置くかを巡って（つまり、例えば原発推進派なら経済成長や電力コストや発電量の現実性などに軸足が置かれているでしょうし、逆に原発反対派なら事故の教訓を生かす事や原発の悪影響の大きさなどに軸足を置いているでしょう）、大きな対立が生まれてしまうのかもしれません。しかし、日本が日本として団結し、世界の中で再び興隆し、自信を取り戻す為に、今回の震災の教訓を素直に冷静に捉え、大いに議論し、時には妥協しながらも、進むべき道を考えましょう。<br><br>少し無責任な言い方にはなりますが、敢えて書きます。</font></p><p><font size="3">がんばろうよ、日本！！<br></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10884595690.html</link>
<pubDate>Sat, 07 May 2011 21:35:51 +0900</pubDate>
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<title>言葉の意味・イメージの固定化の一考察</title>
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<![CDATA[ <font size="2">　言葉は思考形態を形成する重要なファクターであり、言葉自身が操作対象となる事でその概念自体の変容を起こします。しかしながら、現代の記録社会においてその自由度は小さくなり、情報伝達の為の道具としての機能が優先され、言葉の意味自体を単純化する現状がかいま見えると考えられます。<br>　つまり、情報が速達化し氾濫し始めた現代、さらにグローバル化が進みつつある社会でのコミュニケーションの円滑化の要請に伴う小グループの合意形成が唾棄され、思考形成の為の言葉ではなく「記号としての言葉の存在」が重要になり、元来言葉に内包されて来た複数の意味合い（隠されいる意味合いも含めて）の切り捨てと単一化などの単純化が進み、思考自体も二分法的な単純化を受け、イメージが直接的に思考を形成し始めたのではないのかと。<br><br>　さて、外国語を習って行くと分かる事ではありますが、かなり基礎的なレベルにおいても言語によって思考の枠組みが異なり（生活における重要度による分化の深度というようなものではなく、Ａ言語のａという単語とＢ言語のｂという単語は辞書レベルでは対応関係にあるが、実社会のコミュニケーションにおいては認識の範囲がかなり異なるというような事。Ａ言語の概念をＢ言語で表すのは不可能であり、Ａ言語の概念はＡ言語でしか、さらに言えばＡ言語のネイティブ同士でしか相互理解できないのではないかという結構悲しい事態にぶつかった時…あ～あ、やっぱり俺って日本人であって日本語しか結局わかってないんだな、いや日本語も怪しいなって時に気付く事（笑））、どちらの言語の概念にも対応しようとすると、黒と白が混ざり合って灰色になるかと思ったらモザイク状・キメラ状にしかならないように、どちらかの言語の枠組みを通してしか他の言語を捉える事は不可能であるという事が分かって来たそうです（いくつかの言語を取得している方でも、確かによくよく話を聞いてみると、一つの言語の枠組みに対して他の言語の概念の枠組みを増設している事が多いみたいです。時々、西洋かぶれを自称するおばちゃんが「うちの主食は米ではなくパンなのよ」と強がっていますが、欧米人にとって肉が主食であるという事を知らずに、日本人の感覚である「炭水化物が主食だ」という枠組みを通して彼らはパン食だと言ってしまうようなものでしょうか（笑）ちがうか…）。<br>　さて上記した事は何も言語という枠組みだけでなく、地方毎の方言やギャル語などのコミュニティー間の言葉、さらに極端に言えば同一コミュニティーにおいても、思考の基礎的な要素としての言葉の存在を考えると個人間でも当てはまるのだと、程度の差こそあれ考えられるわけで、現代の事情を鑑みれば、言葉を辞書的な記録媒体を用い定義し固定化する事で、異なる言語間やコミュニティー間のコミュニケーションの円滑化という名目で統一基準とし、「正」と「誤」と決め付けているのだと考えられるのです。（ですから、「若い者の言葉遣いはなってない」という感覚は日本語の統一基準との乖離を「日本語」という枠組みから捉えるからそのはみ出した行為が目に余るのであって、外国語や他方言と同様の枠組みとして捉え、コミュニティーを横断したやり取りをする際はそれらに気をつけて話せばそんな問題は大した事ではないと思うのですが…つまり、おっちゃんが街中で居合わせたギャル軍団のやり取りを「あの日本語はなってない」と言うのは間違いであり（公共の場でのマナーやモラルを遵守に対する怒りならまた違う話です）、おっちゃんがギャルと話をする際におっちゃん側かギャル側がどちらかのコミュニティー語に合わせられない場面での、他のコミュニティーに自分のコミュニティーの言葉を持ち込んだ際に間違った言葉遣いと言えるのだと思うのですがね。）<br><br>　話を元に戻しまして、上記した言葉の意味の固定化・単純化による言葉の記号化に伴い、イメージの固定化も進み言葉自体がプラスのイメージかマイナスのイメージで分けられつつある現状について見ていきます。<br><br>●喜怒哀楽<br>　人間の感情が様々にある事を表す言葉でもあり、それらが大きく４つに分けられる事を表す言葉ですが、最近の傾向として「喜」と「楽」はプラスのイメージで、「怒」と「哀」がマイナスイメージとして、特に「怒」はかなりのマイナスとして評価される事が多いように感じます。当然の事ながら周囲から見て理不尽と思われるような理由で怒りをぶちまける行為は顰蹙を買うわけですが、明らかに相手に責任がありそれを指摘すべき時にも怒りを抑え込む事が賞賛されやすく、人間関係を円滑に保つ事を言い訳にされている傾向があるように思うわけです。つまり、効率化などの名目による短時間の場の積層としての時間の存在が重要視された結果や、価値観の多用化による共通思想の減耗などにより、KY嗜好思想の氾濫にもみられる刹那的な平静を理想とし、マクロな視点における時間の存在を見にくくしている結果として「怒」というシチュエーションに対してマイナスイメージが植え付けられているのかと考えられます。　意味のある「怒」・「哀」は長いスパンにおいて「喜」・「楽」繋がるわけで、空気ばかり読んで神経を擦り減らし、感情のぶつかり合いを表面上減らした事によって、結果的に互いの理解がない社会へと進むのは悲しいと思うのですが…<br>　叱られた経験や意見の衝突は頭を冷やした時に身になりますしねぇ。最近叱り慣れてない・叱られ慣れてない人を見る気はしますよ。<br><br>●ＰＰＫ<br>　ピンピンコロリの略だそうで、お年寄りの方々が病気に苦しむことなく元気に長生きし、病まずにコロリと死のうという意味だそうですが、医療費・保険料・介護に伴う負担などの面や本人の苦しみを考えれば確かに良い事のように感じますが、若干利己的な思想に映ります。<br>　と言いますのも、生きる事とは「死」を常に内包するからこその存在なわけで、死を意識出来るからこそ生が美しく、いきなり生と死がスイッチの如く切り替わるならば、死への意識が余りに希薄な存在になりやしないかと…例えば、本当にＰＰＫの通りに亡くなった方がいるならば、その方は多分にしてより長く生きたいと願ったであろうし、周囲の人間も死の事実を受け入れる事への大きな抵抗感があるのではないかと思うのです。もちろん、「お前は介護や死の現場をわかってやしない」という批判もある事は承知です。しかしながら、生と死は意外なほど連続的な存在であり、死へのプロセスには残念ながら痛み苦しみを伴うもので、それがあるからこそ本人や周囲が死の受容を行うわけです。だからこそ生きる事が美しく素晴らしい、かと。<br>　苦しい時には死を望む事ももちろんあるわけですが、同時に生きたいと願う事もある（私自身死を覚悟した事がございました）。それで良いのではないかと…<br>　医療技術の発達により、生と死の狭間において、外部の人間にとって無意味とも思える状態が長く続く事もあるようですが、それらの現実を勘案した上でのＰＰＫという言葉の存在を意識したいものです。書いているうちにＰＰＫという言葉に対して悲哀さえ感じてきてしまいました…<br><br>●強制起訴<br>　この言葉の威圧感によって「小沢氏は辞任すべし」と唱える人、単純すぎやしませんか…？（政治家が主張している場合はパワーゲームとも関わってきますが、マスコミや一般市民の場合は…）先に言っておきますが、別に彼の肩を持つ気はさらさらありませんが、今回の強制起訴は単に、司法についておよそ詳しいとも思えぬ大衆が「あいつ、なんか怪しいから起訴した方がいいんじゃね？」と言っている段階に過ぎません。３人の秘書が逮捕された事実をもってクロと考える方もいますが、この秘書の逮捕もかなり誘導的な取り調べがあったらしいわけですから、なんの根拠になるのかわかりません。イメージで「強制起訴されたんだから辞めるべきだ」と言うのは「この国は法治国家じゃない」って言っているのと同じ気がしやすよ。正義のヒーローを自称する人々が悪党を退治するというイメージの下に誘導される…このレベルの低さ…<br>　とりあえず、今後の展開を見守りたいって感じですかね…<br><br>●改革・規制緩和、開国<br>　いつの頃からか政治家が口を開けばお題目のように「改革だぁ」と叫ぶ世。大抵の場合、単なる怪しげなる破壊者。<br>　危機意識は確かに大事だと思います。世は政治に合わせ変化するし、政治は世に合わせ変化しなければならないでしょう。しかし、目的を見失い手段が目的化する事になんの意味があるのだろうか。<br>　大抵の場合、“立派な”理論の前提を無視し、短絡的な結論ばかりが一人歩きしているようです。<br>　良いイメージの言葉に流される。人間なんて大してものを考えられない存在なのかもしれないなと。<br><br>●若い・新しい<br>　技術は進歩する、いや、少なくとも多くの人にはそう見える。だから、新しいものはよいものだ。ほんと…？<br>　確かにそういうものは沢山ある、しかし新しいという事は欠点が見えていないという事でもある。<br>　「若い」という言葉が「老い」というマイナスイメージの言葉の対義語として持て囃されている。長く生きた燻し銀の魅力、なぜもっとスポットが当たらぬのだろうか。「若い」≒可能性、柔軟性…etc、確かにそうだ。しかし、豊かに歳を重ねるならば「老い」は大きな魅力となるはずで、その魅力は「若い」の可能性という輝きさえ引き立たせるのはずだろうと。そういう意味でこれらの言葉のイメージは不可分な存在かなと思うんですよ。<br><br>●引きこもり<br>　以前のエントリーでかなり書いたので簡単に書きますが、彼らは世間のイメージと大きく異なり、意外なほど能力が高いものの世俗を超越しているが故に、社会適応しずらい状態に押し込められているに過ぎない場合が多いようです。<br>　今の世の中、ろくに教育する気がない上に逸材が欲しいだのと喚き、「政治が駄目だから経済が駄目だ」と他人のせいにばかりして、圧力団体に成り下がった事を露呈している組織などがありますが、さらに横並びな採用ばかりをしてるくせに「つまらない人間ばかりだ」と歎いているならば、頭悪いんじゃないの？と問いたくもなりますよ。<br>　料理にはスパイスや調味料があって初めて、まとまりがあっておいしいと感じられるように、スパイスや調味料だけ舐めて「しょっぺぇ」だの「まず<font size="2"></font>い」だの言ってちゃ、しょうがないでしょ。<br>　イメージで決め付けて一側面ばかり見て、単純に排除して、何か足りないと悩む。悲しいすよ？<br><br>●勝ち組・負け組・玉の輿<br>　不安定であり格差が叫ばれる時代ですから、結婚を一つの岐路と考え、そこに力を注ぐ行為自体は責められないでしょうし、資本主義社会の定めとして拝金思想が蔓延るのは当然かもしれません。しかしだからといって、こんな単純に人間を断割する事になんの意味があるのかさっぱりわからないのですが…<br>　玉の輿という言葉も変な感じのする言葉でして、周囲には感じられないものの、たゆまぬ努力をし続ける事によりスキルアップした方が、それ相応の方と結ばれたのにも関わらず、それを周囲の人間が嫉妬していたり逆にもり立てる為、或いは本人が卑下する為に、シンデレラストーリーを描き出しているように見えるのですがね。変な話ですが、「勝ち組」を探して右往左往するより、近くの人間を「勝ち組」に育て上げる方がよっぽど面白いと思うんですが…そんな悠長な…ですか、はい。<br>　とりあえず、「勝ち組」「負け組」という言葉、私にとって一番嫌いな言葉です。<br><br><br>他にも色々ありますが最後に。<br>　もちろん言葉というのは、この世の中を利己的な価値観に基づいて切り分ける道具としての存在もあるわけですから、「よいイメージ」「悪いイメージ」で切り分けられるのは仕方のないのかもしれませんし、イメージの固定化は相互理解の前提としての存在や、イメージを利用した戦略によって大きな意味での安定をもたらす効果もあるでしょうから、単純には否定すべきではないかもしれません。<br>しかしながら、言葉は生きていて、だからこそ面白い。束縛された言葉やイメージには本質など存在しない、と思うのですがどうでしょうか…？<br><br>補遺；差別語について。<br>　どんな言葉であろうと、差別語にはなりえるわけで、それは言葉の意味やイメージが変容するからであり、つまりそれを無理になくそうとしても残念ながらいたちごっこになるわけです。しかし、逆に言えば使い手次第で言葉の意味やイメージが全く変わるという事であり、そこが一つのキーポイントだと思うわけです。<br>　「障“害”者」という表記であったり「〇〇の“不自由”な方」という言い方であったり、確かに大きな問題だとは思いますし、大多数が占める特性をプロトタイプとして捉えてそこから少しでも逸脱していると単純に捉えた段階で、「欠けている」という発想になりがちなのは由々しき問題です（実際、私の知り合いにも障害を持つ方がいますが、その方の世界観はおよそ「欠けている」などという状況とは程遠く、健常者の思いもよらぬ広い世界観に息を呑むものです。それを知らずに差別をするのならば、感性がないというか、「〇〇が出来る」という事実に対して安住しているだけという事かなと）。しかし、存在を広く知らしめる必要性がある為にどうしても言葉によって切り分ける必要性が出てくるわけで、そこに差別が生まれる余地があるのでしょう。<br>　結局、世間の理解をよい形で得る為には差別語を無くしてという消極的な形ではなく、特性を深く知ってもらうしかないのでしょうね。<br>　現在、差別語とされている言葉も、時代によっては愛おしさを感じさせる表現だったものも当然あるわけで（改めて注意するまでもありませんが、それらの語を改めて使うとかそういう意味ではありません）、それらの言葉の意味を単純化させて捉えた事や時代の流れによって差別を助長させてしまったその姿勢に反省を求める必要があるのかもしれません。</font>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10810586698.html</link>
<pubDate>Wed, 23 Feb 2011 14:35:31 +0900</pubDate>
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<title>なぜ不安なのか？に関する一考察</title>
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<![CDATA[ <p><font size="2">　現代の日本、しいては世界を取り巻く「漠然とした不安感」については昨今様々な方面で取り上げられていて、この得体の知れない不安感に対してあらゆる考察が行われているわけですが、今回はこの不安感について私なりにも考えてみたいと思います。ただ、不安といっても何に対してどう不安なのかは非常に多岐に渡り、あまりに取り留めのないものになるのもいかがかと思いますので、概観だけしていきたいと考えています。と言いつつ、かなり取り留めない感じになってしまったかな…？ちょっと反省してます（笑）（なお、以前のエントリーも参照して頂けると幸いです。）<br><br>　ではまず、不安について考える為に、安心とはどういう状態か？と問われれば、それは対象に対する信頼が一定レベルに達し、自らは思考停止出来、自身をその環境に委ねる欲求を生み出す状態と私自身は考えています。それはつまりリスク評価が出来る状況を認識出来る事であり、逆に言えば予測出来うるパターンが最悪である場合の将来に対する不安感と、その予測さえままならずパターン化されない事による予測不可能な不安感に分類されるかと思います。<br><br>　ご承知の通り、現代はグローバル経済や科学技術の進展により、不確定性が増大している上に、様々な分野において多様化・細分化が進み、そのパターンを予測する事は専門家であろうとも難しく、科学技術や政治経済を始めとしたあらゆる学問を網羅し認識を構築する事は大多数の個人にとって不可能であり（多分極一部の天才でもさすがに不可能だろうねぇ）、個人レベルでは自身以外の他者に認識を依存せざるをえない状況があります。また、その情報の信頼性についてさえ自身で判断せねばならない状況があり、情報が数多く溢れる現代で「信頼の基準」に足ると自身が判断する情報へ傾注し、かなり中途半端な形で思考停止しているような人々を見受けるように思います。なお、科学技術はそれらのリスクに対してある程度有効な対応策を常に新たな提示を行っていますが、それ以上に新たな技術によるリスク要因をも提供する存在にもなっています（科学とは絶対確実な情報を提供するわけではなく、一般的には反証可能性のある説を提示する存在である事も見逃せません）。<br><br>　さて、安心という言葉は頻繁に「安全と安心」という固まりで登場するわけですが、安全という言葉がデータの蓄積と解析などにより比較的客観的に評価できる対象なのに対して、安心とは主観的・相対的な思考である為かなり捉えにくい存在でしょう。ある研究では1時間あたりの確率で、10の-8乗（1億分の1）以下の確率ならば安全について特に気にかけない安全領域、10の-7乗（1千万分の1）～10の-6乗（100万分の1）くらいの確率であれば安全を確保する為に注意を払う注意領域、10の-5乗つまり10万分の1以上の確率であれば行為を行わない忌避領域になるのだそうですが、確かによくよくその確率を調べてみて実感と照らし合わせるとなるほどと納得するデータではあるのですが、これを安全と安心を繋ぐ為の認識に全て当て嵌めるのは無理があるように感じます。と言いますのも、リスクとは一般的にハザードの重大さとハザードとの遭遇確率を乗算したもので評価されるわけですが、人間の感覚としてのリスクはハザードの重大性とハザードに対する心情に大きく左右されると考えられるからです。つまり、確率を無視しやすい為にさいころの確率が6分の1であろうとも、さいころで1の目が出たという結果さえ出ればそちらを優先して「１が出た！」という事実のみを認識しがちな特質があると考えられます。<br><br>　さらに、人間は生命の危機に対する危機情報を優先し認識しがちであり、情報化社会の中で情報量の飛躍的な増加に対応仕切れておらず（→逆に潜在的な情報処理能力の限界による情報量の限定による弊害）、共有化が日本人の美徳の一部という認識（主体性の欠如）も含め、結果的に不安側に傾倒しやすい上に、その性質を利用（悪用）してマスコミなどが金儲けに利用して民衆を不必要に煽っているのです。<br><br>　つまり、安全と安心とは一定の相関関係は認められるものの、それが単純に関係しあうわけではなく、「安全なのにも関わらず安心でない」「安全でないのにも関わらず安心である」という状況が考えられるわけです。<br><br>　さて、安全について触れましたが、「安全」という概念は一般的には「安全か安全でないか」という二分法的に語られる事が多く、少しでも危険な要素が存在しただけで安全でないという評価を下しがちなようです。しなしながら、実際の安全評価とは度合いの認識であり、未知の危機の存在を含めて、絶対的な安全を確保する事は不可能であり、安全の確保とは技術的・コスト的に現時点で対応可能な対策を施す事に注力する事で、リスクを減らすという観点で考えるのが当然です。つまり、そこに齟齬が生じているのです。最も、絶対的な安全の欲求はある意味で当然で非常に理想的であり、理解できないものではありませんが、世の中には相反する性質を持ち合わせた存在は無数にあり、その中での便益のバランスが高い物や状態を利用しているのに過ぎないという事を改めて認識する必要があるのでしょう。それは例えば、薬の効用と毒性においてED50（Effective Dose；半数薬効量）・TD50（Toxic Dose；半数中毒量）・LD50（Lethal Dose；半数致死量）が設けられている事からもわかります。水も飲み過ぎれば水中毒になったり、食塩も取りすぎれば死に至るわけで、どのような物質にも危険性があり、しかしながらその量に達し得ない範囲内での効用により便益を享受している事は言うまでもないはずなのですが、食品添加物を巡る報道などを見ていてもADI（Acceptable Daily Intake；一日摂取許容量）や無毒性量（NOAEL: No Observed Adverse Effect Level）がどのように設定され運用されているかも知らずに、また人間が他の生物に比べてもかなり化学物質に強いという事も知らずに（化学物質過敏症などの方もいらっしゃいますが）、フードファディズム的な傾向になりがちです。まぁ危機情報は耳目を集め易く、危機情報を煽る事で自社のローリスク商品の販売に繋げたいなどの意図は色々あるようですが、買う方も買う方で「消費者＝受益者」という受け身の認識を捨てて、少し調べて多少考えればいくらでも情報が出て来る時代なんですから、いい加減危機情報の受け売りで不安になるのはやめましょーよ、ホント…それに、食品添加物の使用が少なかった時代に、腐敗した食べ物や自然にある毒によってどれ程被害が出ていたのか知らないんですかねぇ…自然のものが全て良くて人工のものが全て悪いなんて妄想もやめましょうよね…どれ程人工のもので我々が守られているのか、もう一度考えて下さいな…<br><br>　という事で、安全の閾値の話に戻ります。<br><br>　さて、絶対安全は不可能だが、絶対安全への欲求は高く、その折り合いの議論はなかなか難しい訳ですが、それはつまり「絶対安全でなければ被害を許容（是認）する」という観点になってしまうからでしょう。（科学技術は元来、自然に立ち向かう為の存在だったはずですが、最近の環境問題からも提起されるように、この地球上には都市または人為的な自然に溢れ、純然たる意味での自然は激減したと考えるが故に、その科学技術の影響力への期待と、手を加えてしまったが故の中途半端な責任感が見え隠れするように思うのですが…そうすると、「運命だった」というような諦めはつかなくなるわけで）しかしながら、安心の定義の個人間の相違は確実に存在し、便益の再認識とバランスについて考えたならば、つまり日本の交通事故は年々減少しているものの毎年かなりの件数起きている事を知りながらも、車を排斥する事には繋がらないのは、その便益が勝る事を認識しているからであり、その便益の認識が一つのキーワードになるのかと思います。<br><br>　結局、便益の認識とは「それが存在しない状況を容易に想像出来、その便益の差を実感出来る」という事であり、それが容易に手に入るなどでその存在が実感出来なくなった場合に、的確なリスク評価が出来なくなるという事だと考えられます。つまり、経緯を知り過去との繋がりを実感する事でその便益を知る事が、不安から脱する一つの手段だと考えられるでしょう。また、相互コミュニケーションも欠かせません。<br><br>　予断ですが、一部の最近の少年犯罪を見て「キレる若者」があーだこーだ論じて「最近の若者は危ない」と言っている人間がいますが、ちゃんと調べてみれば「未成年の殺人犯検挙件数の少年人口10万人あたりの比率」は1950年から65年あたりが2.5なのに対して2000年代は0.6程度であり、その犯罪内容も戦前やその頃のものにかけて今以上に卑劣なものも多く感じられ（これは私の実感ですがね。ただ、調べて頂ければ納得してもらえると思います。）、キレる＝即殺人行為ではないし医療技術の進歩により救命率の向上や検挙件数が全ての犯罪件数ではない事を加味したところでも、「最近の若者は…」にはあたらないとデータを見る限り思うのですがねぇ…つまり「人間の実感」なんてその程度のものであり、過去なんて美化されがちですし、情報操作によりいくらも感化されてしまうものなのかなぁと…。情報化社会へと向かうなかで一部の凶悪犯罪が繰り返しクローズアップされたり、交通の高速化や低廉化や頻発化により人々の行動範囲が広がった事も認識の差を生むのかもしれません（最も、非常にモラルのない若者が目に余るのも同世代の人間としても理解出来ないわけでもありませんがね…）。<br><br>　なお、私自身の考えでは自助共助公助は情報にも当てはまると思います。つまり、自身から情報を求める姿勢、自身が構成しているあらゆる集団に関して情報を頼り頼られている関係（規模の差こそあれ、口コミからマスコミまでの幅広いレベル）への意識、国などからの情報に接する意識だと考えられ、これをそれぞれ考えて行く事で洗練された情報社会になるんじゃないかなと。<br><br>　上記したように、不安とは予測不可能だと感じるな面からも生じるわけですが、そういう意味では現代は新自由主義の台頭による反動で秩序に対する欲求が一時的に高まっていると、捉える事も可能だと思います。しかしながら、秩序というのは行き過ぎれば抑圧に繋がるもので、あまりに秩序だった世界には活力がないのも道理です。経済には不安定さが活力になる一面もあり、主義同士が中立した平衡状態こそ安心に繋がると思うのですよ。まぁなんの主義であろうと、過ぎたるは猶及ばざるが如しなんだと思います。（以前のエントリーでも触れましたが、現代の新自由主義や規制緩和論者達は「私人の選択の自由を尊重する」「必要以上に結果を特定する状況はあるべきでない」という方便を使い、強者へのさらなる利益誘導に躍起になり“平等”や“公正”を履き違えた主張ばかりで辟易しやすよ。まぁ世界的に資本や人が移動しているのに、経済政策が基本的に国別な時点で、世界自体が大きな歪みを内包しており、今後一つの破綻状態へ向かって行くのは見えてると思うのですがね。）<br><br>　さて、現代日本は、豊かさの価値基準を物質的や金銭的な存在ではなく、自己実現と考える人が若い人を中心に増えているように見受けます。つまり汎用化された豊かさの尺度は通用しなくなったという事であり、最近のテレビや歌の内容などを見ればその傾向は明らかでしょう。しかしながら、自己実現とはそれぞれ達成目標の度合いが適度に分散されていれば、適度な競争が起きる程度で問題はありませんが、その成功モデルが限られていると現実との乖離が鬱積する事にも繋がるわけで、統一的な成功モデルやそれを実現させる為の統一的な投資などは不要になりつつあるわけですから、変化の時代をどう受容すべきかもう少し考えたいものです（別に「変化＝良い事」なんて考えてはいませんが、「変わらない事」を実現する為には「変わらなきゃいけない事」もあるという事です。という事で何を変えないかを見極める事です）。<br><br>　最後に、自由を履き違えたミイズムが蔓延る時代ですが、日常生活において死を特段意識しなくて済む事自体恵まれているなと感じる日々です。いや、死と向き合う事で豊かな思想も生まれる事も事実ではありますが、人間辛い事は避けたいものですから。</font><font size="2"><br><br></font></p><br><p><font size="2">　もう少し色々考えてみたいと思います。<br><br></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10763128049.html</link>
<pubDate>Sun, 09 Jan 2011 17:42:54 +0900</pubDate>
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<title>現代日本の一考察。その１</title>
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<![CDATA[ <p><font size="2">　最近のウィキリークス騒ぎ、私にとって取りあえずは「あくどいとはいえ、アメリカのやりそうな事ばっかり出て来たなぁ」という印象なので今後が注目ですが…また、北朝鮮に手を焼く各国と、日本に対して領土の強制奪取を仕掛ける中露を見比べ、改めて核の抑止力の大きさと、そのコストパフォーマンスに何か皮肉な想いがする感じです…<br>　さらに、ノルウェーがノーベル平和賞の受賞式に台湾を招待しない一方で、中国が独自の（勝手な）平和賞を創設するという行為、賞の権威さえパワーゲームが重要であるという（つまり中身がどうであろうと、支持国の多い方が現在最も権威ある存在であり、歴史的にどうかはともかく、ノーベル賞でさえどっかの国の誰かが勝手に作って表彰してる賞という認識…）、ポスト冷戦時代の新たなパワーゲーム時代を予感させる何とも言えない流れを感じますね…<br>　さて、それはそうと前回のエントリーで、北京を訪れた事に触れましたが、やはり海外の文化に触れると改めて日本の文化について考えさせられるものです。<br>　以下は私のテキトーなメモみたいなものなので、異論反論・重複する点・補足修正するべき箇所は多数あるかと思われますが、取りあえず書き留めておくまでです。因みにその２に続くかどうかは定かではありません（笑）<br><br>　１，この国は比較的南北に長く、いくつかの民族やそれに関する様々な歴史がありながらも、何となく一つであると認識している人間が多い。（地域差はある。）<br><br>　２，比較的温暖で四季があり、水資源・森林資源などに恵まれる一方で石油などの資源にはあまり恵まれず、労働が何よりの徳である事を定義した。また、山がちで平野が比較的少なく、その環境が文化圏や生活圏の分断を生み、島国であるという特性と相まって狭いコミュニティーの思考を生んだのか？<br><br>　３，比較的住みよい環境でありながらも（気象が直接的に人間の生命の危機に直結するほどではない。今年の夏は熱中症の被害がかなりありましたが…）、地震・水害・噴火などのリスクが高く、周期的に襲われる。その影響からか「今を楽しむ」という思想よりも「未来に備える」思想が重要で、その為に団結を深める事が正しいとされてきた（四季の周期性も加味すべきか？冬期の飢餓に対する対策など）。またそのような背景から、常に未来を案じ、団結する為に他人からの評価を気にしやすい思考が生まれたのかも。<br><br>　４，欧米列強に習った近代化を行い、いくつかの戦争に競り勝ったものの、太平洋戦争を経てアメリカの占領下となる。その後名目上は独立し、高度経済成長・バブル経済で大きく伸びたものの自らを見失い、失われた20年を経験し人口減少時代・借金大国となり縮こまっている。<br><br>　５，なぜか諸外国に対し劣等感を抱いているが、自国を見直すまたは自己弁護する動きもある。<br><br>　６，上記した自然環境やそれに伴う人間同士の関わり合いから奥深い文化が生まれた。ただ、降雨量が多く（川の水量も多く）湿潤で腐敗が比較的進み易いなどの理由からなのか、清潔に対する欲求が高く、水に流す、つまり何事にも「汚れた存在」を早急に隔離したがる性質があるようで、哲学的にも「死」などの不都合な存在に対して長時間向き合う事は良しとされず、高次な議論はあまり好まれない。結局、世間に存在する多くの矛盾は無視され、二元的思考が日本人の根底にあるような気がしてならない（例えば、汚さを内包するからこそ美しさが際立つ存在がそこにあるのに、美しさにばかり焦点を当て本質を見失っていたり）。<br><br>　７，高度経済成長以後、伝統的な価値観の否定や欧米化なども起こったが、捨てられぬ根強い伝統的価値観の存在も多々ある。一方で、失われた２０年を境に過去を回顧し伝統的価値観を肯定的に捉える流れもある。ただ、擬古主義的な軽い考えのものもある。<br><br>　８，和を重んじる姿勢が評価される為に主体性は育まれにくい土壌であり、主体性は負の感情を持って捉えられやすい環境がある。それゆえ、全体として空気感に支配されやすい部分がある。<br><br>　９，いつの時代もどこの国にもジェネレーションギャップはあるものの、この国は戦前世代・戦後世代・バブル後世代などでかなりの感覚の差があるように思う。<br>　補足；（「パーソナリティ」という本質を見えにくくする「世代」という考え方の問題点はあるものの、環境は人に大きな影響を与え、ある意味で環境応答とも言える世代毎の特徴を考える事は興味深い事だと考えています。逆によく「若い奴はなっとらん」という言い方をする人間がいますが、ある意味でこれは当然であり、つまりスキルの高さと可能性の高さは相反する場合もある訳で、自己保身の前提を思えば長く生きればこそ言える言葉ですね。若い世代にとってこの言葉は自身の勉強不足に対する戒めと自省を促すの言葉であると同時に褒め言葉であり、発言した当該世代にとれば<a href="http://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10580544115.html">コントロール欲</a> のガス抜きです。ただ、本気でこれを思っているなら、当該世代の間抜けさを表していますよね。なぜなら適応の本質を見逃してる上に自らの思考体系にあぐらをかき、若い世代の環境を作りあげた自らの思考の破綻に気付いていないのですし、長い期間生きた人間が大して生きてない人間を育てようとせず批判するのだけならば悲しいもんです。しかもそういう方に限って、自らより若い世代に対する理解だけでなく、諸先輩方の文化や思想に対する理解も欠けていたりするもので…また、時々社会問題やある一部の犯罪の原因をゲームや漫画などのカルチャーへと落とし込もうとする流れは必ずあるものですが、本質的に、比較する母集団と取り上げられる少数事例の大きな数の差に気付かずに因果関係を論じる意味を考えていないで、新しい文化に対する無知や反感を庇護する為の短絡的な思考が蔓延っていたり、取り沙汰される残酷さなどは時代を経る毎に規制され緩和されたりマスクされる傾向にあり（つまり残酷なゲームよりも社会正義の名の下に行われる時代劇の残忍なシーンの方がリアリスティックではないか…？一方でゲームは自身の操作によって動作する為に感情移入しやすいなどの影響はあるかと思うが。）、どちらかと言えばその規制によってガス抜きができない状態やその世界観を隔離する事の方が、社会に歪みを生むのではないかというバランスの議論が必要じゃないの？とは思います。さらに「ゆとり世代」だからと「どーのー」論じる“自称大人”がいらっしゃいますが、若者が「無知の自信家」なのはいつの時代も同じ事であり、「詰め込み教育が落第者を生み出した」というマスコミの安直な報道に動かされた世論の功罪と「ゆとりによって生まれる型通りでない新しい思考モデル」を理解しないで（実際そういったものが出来るのか、教師が学校で指導出来るものなのか、それをどう評価すべきかはよくわからないが…）、教育のマスタープランを考えずに揺れ動き、「ゆとり世代」というレッテルを無抵抗な若者に（一方で、勉強してる奴は目茶苦茶してる）張り付けて社会参加を阻むのならば、狂気の沙汰ですよ本当に…まぁ先日のテレビでゆとり世代という言葉を言い訳に使ってる若者を見ましたがね。）<br><br>　（私は昭和最末期の生まれですので、どうしてもこの世代からの批評となるのをご了承願いますが）戦前は帝国主義、良くも悪くも“利己的な正義”がぶつかり合う時代であり、ナショナリズムの発揚が是とされ、その実現には死をも厭わない過激な思考が生まれた。しかし、戦後になり、その環境の中を生き抜いた人々の中で「生」の肯定・「生」を大前提とする価値観へと変容し、“与えられた”民衆政治によりアメリカ型の自由を手に入れた人々は、経済の発展を優先し物質的幸福度を上げる道へと舵を切った。最近ではこの高度経済成長の時代を懐古趣味的に取り上げる向きはありますが、無論、この裏では公害問題や交通事故の大幅な増加などの歪みが存在していたはずなわけで…<br><br>　しかしそれでもなお、統一的な唯物的価値観により幸福度と生活水準は確実に向上し、伝統的な日本の価値観の否定によって生まれた新たな経済的価値観の裏付けによって自らの自信を深める一方で、安直な拡大戦略と打算的な思考が根付き始めた。しかし、ある程度の教育レベルが確保されると思想の面において歪みが生まれ、戦争の傷痕を刺激する出来事に対しての反発も生まれた。<br><br>　経済が一定水準まで発展すれば、以前のエントリーでも触れた<a href="http://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10685632077.html">「外部化」</a> の現象も起こり、この頃から価値観の多様化の方向へと向かい始めたのでしょう。<br><br>　そしてバブル経済へ（バブル後世代の人間から言わせれば「猿猴捉月」という言葉が頭をよぎってしまうのですが…）人間の予想とは過去の延長線上を想像してしまうものなのか、その当時はバブルという言葉もそういう意識もほとんどなかったのかもしれませんが、誰にも止められなかった、金が金を雪だるま式に増やす幻想を抱いたバブル。極端に打算的で刹那的な価値観を生み出し、深い思考を求められぬ故に直感的な判断が一つの市民権を握り、一方で「どうにかなるさ」的な妙に明るい雰囲気が社会を包み込んだのでしょうか…<br><br>　そしてバブル崩壊後の長く続く低成長時代。バブルから比べれば暗く悲しい時代に人々の目に映り、右肩上がりの幻想を抱く人々から見ると何故もがかなければならないのか悲観せざるをえないのでしょうが、一方でこれを受け入れた人々は「成長戦略」ではなく「成熟戦略」を描き、また物事が抱える正負両面のバランスを見据えた深い思考を持つ人々も生まれはじめた。そして価値観の多様化が無限大に発散する時代の入口を予感させている。<br><br>　こんな感じでしょうか？（改めて申しますが、異論反論・補足修正するべき箇所は多数あるかと思われますが、取りあえず書き留めておくまでです）このそれぞれの時代を生き抜いている人々がいるのですから、予想不可能で不安感が広がるのはごく当然だと思いますが、逆に言えばこれだけ多様で類い稀なる独自の文化を包容する日本、少なからず懸案事項はありますが、そんな悲観する事もないんじゃないかと思うのですが…<br>　そしてこの不安感を拭い、明るい将来の構築の為に、既存の型通りの価値概念ではなく、大局的に物事を捉える思想が必要だと感じています。</font></p><font size="2"><br></font>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10734783171.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Dec 2010 19:20:39 +0900</pubDate>
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<title>ちょっと書いておきたかった事</title>
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<![CDATA[ <font size="2">　本来ならこういった事は一番初めのエントリーに書くべき事だったのかもしれませんが、その時はこのブログをどう運営すべきか、また結果的にどう運営されるのか自分自身でもよくわかっていなかった為、書くのを躊躇していました。しかしまぁ、ここいらで書いておこうという感じです。<br><br>　さて、ものを書くという事は大層調子に乗った偉そうな行為だと、私自身つくづく感じています。まぁ若干の自意識過剰な状態でなければ何事の表現も出来ない訳で、自分の無知さ加減を後で知る事になるのをわかっているのに、むやみやたらに自分を主張してしまう。そして、後になって恥じる。しかも、そこから脱却する為にものを知れば知るほど自分の無知にぶち当たる。しかし、その事に気付き自省してしまうと手も足も出せずに何も書けなくなってしまうわけでして…<br>　このブログ自体、「たわごと」「備忘録」というジャンル分けに設定しているのは、私という一人格における刹那的な一認識が、他人のインプットへ影響させる可能性についての責任を、出来うる限り小さくしたいという私の逃げ腰な姿勢の表れです。特にインターネットの世界では、その情報の真偽の度合いや、その団体や個人の信頼性に依らず、どのページも基本的に平等な扱いを受け、受け手からすればどうしても情報を鵜呑みにしがちな土台がシステム的に存在します（最も、「正しい」とは何かという根本的な課題もありますが…）。また、検索サイトの順位付けシステムも非常に不明瞭で実感と少なからず反するアルゴリズムであり、信頼性と相関しない事は明らかです（そういう経験を皆様もされているかと思います）。つまり、結局のところ、情報発信者がその事に留意しなければならないわけですが、現在のインターネット世界は言いたければ言いっ放しな部分が多く、逆にその責任を感じない人間ほど軽い発言で他人を巻き込み、百家争鳴な状況に拍車をかけているように思います（某サイトのように軽い情報が集積している事が共通に認識されているならば、別かもしれませんが…）。<br>　最も、自信というのは、文字通り自らを信じる事であり、他人からの評価に準拠しない事を表すのであって、己の主張は己が信じれば成立すると考える事も可能です。<br><br>　結局、人生とは知識の変遷の歴史であり、様々に影響され感化されながらも、無知を隠しながらも主張し、己が信じるどこかに存在する漸近線に引き寄せられながら、自分の無知に何度も顔面強打し、恥こそ冥土の旅の一里塚なんですかね…<br>　とりあえず、私としては「徳狐ならず必ず隣あり」という言葉を信じつつ、自らが徳を持てる人間となる事に専心し恥を重ねるしかないかなというスタンスです。<br><br><br>ＰＳ；先日、中国・北京に行ってきました。色んな点で勉強になりますね、やっぱり。<br>という事で、衝突ビデオ流出事件を帰国後知ったのですが、一連の流れで思う事は、なぜ日本には情報戦略がないのか？という事です。<br>　日本が自衛以外の戦力を持たないという考え方がある以上、情報戦略は非常に重要な武器の一つのはずなのですが…（メディアもメディアで国益を考えぬ報道に満ち溢れている以上、彼らの批判にも説得力はありません）<br>　中国政府が本当にネット世論に手を焼いているのであれば、実際やるかどうかは別にして、日本政府も「日本に有利な情報操作で中国ネット社会を経由して中国世論を動かす」くらいの考えは出てこないもんなんですかね…？「内政干渉だ！」って言われたら言われたで、中国側の様々なちょっかいにも「内政干渉だ！」で言い返せばいいんですよ、多分…</font>
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<pubDate>Tue, 16 Nov 2010 17:33:52 +0900</pubDate>
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<title>束縛からの解放と外部化の時代の一考察</title>
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<![CDATA[ <font size="2">　高度経済成長や失われた20年を経て、我々の生活や価値観がどう変わったのかを考える時、私が外す事の出来ないキーワードだと考えているのが、「束縛からの解放」という欲求に伴う「外部化」という現象です。<br>　「束縛からの解放」とはつまり、コミュニティーを始めとする多くの束縛から解放される事により、個人が自身の時間により多く割く事が出来る事で（余暇や仕事などへの割り当て）、それにより新たな市場が誕生してきました。その結果、物質的な豊かさや精神的な自由を獲得した一方で、家庭環境を中心に「外部化」も行われました。<br>　それは例えば、コミュニティーによりソフトで対応していた防犯を警備会社などのハードへと移管する事、生や死の場所を家ではなく病院などで迎える事、家で調理を行わず外食や中食をする事など…<br>　これらを始めとする行動により、過去の価値概念に依存しない「個人個人の思い描く自由」を手に入れたように見えたのだと思います。しかし、いわゆる失われた20年を経て我々は今、その負の側面に直面しているのではないかと私は考えています。<br>　つまり、外部化により家庭やコミュニティーなどの空洞化を招き、「個人個人の思い描く自由」が価値観の多様化に拍車をかけ、責任をも外部化する思想を生み個々人の主体性や責任感を失った一方、価値観の多様化を受け入れられずに安易に責任を特定の個人へのみ押し付けて納得する。更に価値観をも外部化し他人の価値基準・一般的とされる判断を是とし、個人の思想意識は希薄になり、流行やトレンドが主体に見え、大きくうねり雪崩打つ世論。価値観の外部化は「自信」を失う事へと直結し、その一方で空虚な自信家が跋扈する世界。極端に外部化された人間には内と外の境界は無くなり（同一化し）、恥や大衆の面前という概念は消失する…<br><br>　「自由とは何か」という議論は昔からなされてきたわけですが、結局の所、自由とは前提条件としての束縛や自由の行使に伴う責任が存在する訳で、勝手という言葉とは大きく異なるのは周知の通りでしょう。また、自由という空間には互いにそれを実現する為の、教育や道徳を含めた基本的で共通なインフラや、事故やトラブルの予防・再発防止などの様々なシステムが必要であり、それを構築する為には「自由」ではない存在が前提にあるわけです。近年の過度な規制緩和や過度な個人主義、拝金主義は、表面的な自由の果実のみをもぎ取り、土台となるそれらのインフラやシステムを使い減らした事例として挙げられるのだと思います。だからこそ豊かさが長続きしない思想だと思うのですが…<br><br>　諸外国では宗教によりある程度の規範が定められ、多様化する価値観の中においてもある程度の規律が守られているのかもしれませんが、日本人は一般的に無宗教と言われています。いや正確には日本にも神道・仏教・儒教・武士道…などがあったはずですが、いつの間にやら忘れ去られてしまったようで、そのような存在は現在多くの日本人の意識にはなく、宗教論争が無い代わりに価値観の際限のない多様化が起きているとも考えられるかと思います（最近、論語に注目が集まり、一部の学校では授業で教えているようですが、どうなんですかね…まぁ思想なんてどれも良し悪しがあるわけで、論語を教えるなら、論語の長短を指摘している「学問のススメ」も一緒に教えたらどうかな？とは思いますけどね）。<br>　結局、諸外国の宗教の役割で大事なのは思想の方向性と生活の規範を定めると同時に、集団への帰属意識を高めて自らがコミュニティーの一員である事を知らしめる事にあるのだと私は思うのですが、つまり日本人も個々人が自分がコミュニティーの中で様々な人間に支えられている事を改めて理解し、他人の思想に対する寛容さと理解を深め、義務と権利のバランス・自由の意味と外部化の功罪部分を考えるならば、日本人のレベルアップも出来ると思うんすけどねぇ…無理ですか？</font>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10685632077.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Oct 2010 22:10:56 +0900</pubDate>
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<title>尖閣沖衝突事件を巡る一連の騒動に一言</title>
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<![CDATA[ <p><font size="2">　<a href="http://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10619405684.html">以前のエントリー</a>で、「日本の国防についてタブーを作らずに、改めて根本的な議論をすべし」という事を書いた訳ですが、それを真剣に考えざるを得ない出来事がやはり起こりましたね。</font></p><p><font size="2"> 　政府は「中国は冷静に対応を」などと発言していましたが、尖閣諸島付近に地下資源があると分かって以来、冷静沈着に戦略的に既成事実を重ねながら領土を侵犯しようとしている国に対して、「冷静に」という言葉で宥める事がどれほど馬鹿馬鹿しいか分かってないのでしょうかね。</font></p><p><font size="2"> 　しかも、検察の判断へと責任を転嫁し、責任放棄の政治家諸兄はなんだと。</font></p><p><font size="2">　中国「おいアメリカさんよ、船長解放しろって日本に言ってくれよ」→アメリカ「って、中国言ってるけど、日本、どうにかなんねぇのか。はやく収束してくれよ」→日本政府「あ…はい…、おい検察、どうにかなんないのか？」→検察「どうにかするってのは解放するって事だな」→船長解放。みたいなシナリオが頭に浮かんだのは私だけではないでしょう。また、明らかに政治介入はあっただろうし（無ければ無いで問題）、それを否定したという事は自らの判断に責任を持つ気がないという事。国の最大の役割とは言わずもがな「国民の生命財産を守り領土保全に努め、さらには国益をもたらす事」でしょう、しかしそれが何故か出来ない。<br>　「日本の領土であるから国内法に従い粛々と行った今回の判断は正しく、政府が口出しする必要はない」と主張する方もいらっしゃるかと思いますが、相手が侵犯しているのですから、またあくまで「日本の法律上は領土問題が存在しない」という位置付けである事を改めて考えれば、国が防衛すべきなのは火を見るより明らかだと思います。 </font></p><font size="2"><p><br>　「日米安保があるから大丈夫だぜ」的な報道をするマスコミもありますが、それは余りに平和ボケだと私は思っています。戦後の日本国民は、特に国防について考えずとも平和を享受し、無比な発展を遂げたわけですが、それは運が良かったにすぎないと考えています。つまり、冷戦下においてアメリカが共産主義圏と対峙するにあたり、日本を防衛する事には重要な意味があったでしょう。しかし、その構図は既に過去のものであり、弱体化するアメリカと猛烈に勢いを増す中国。アメリカは中国との今後のパワーバランスと、自らの発言を如何に高めるかに試行錯誤し、既に日本はある意味で眼中にはない。そして傭兵化し日本に駐留する米軍。アメリカの「おもいやり予算増額要求」はそれを如実に表しているだろうし、アメリカはこれらの日中関係を今後とも傍観者として高みの見物を決め込むのは間違いないと考えています。<br>　そのような変化の中でも、日本人の多くは国防の議論をタブー視していますが、それはやはり甚だおかしい。今後も跼天蹐地として行動せねばならないのかと思うと、切歯扼腕ですよ、ほんと。</p><p><br>　中国世論がど～だこ～だと語るマスコミもありますが、情報統制を行う中国には世論や民という感覚など基本的には存在しないわけで、あったとしてもガス抜き以外は握り潰すのが今の中国のやり方でしょうし、官が民を装ったり、民が官の手先になる事で実質的に官の支配により活動する事は不思議ではないでしょう。また、ルールはパワーにより歪曲させ、圧屈させる事を是とする思想が現中国の政治思想なのですから、正義に訴える事はほぼ無意味であり、逆に周囲からの「大国の責任を履行せよ」の声を中華思想的に解釈し「大国が小国共を従える事が使命だ」と思ってるかもしれないですしね。<br>　いやまぁそれは言い過ぎかもしれませんが、中国共産党政権は肥大化する自らの複雑な舵取に頭を抱えているのは事実でしょうし、「和階」・「維穏」などと盛んに叫んでいる実情からも推測されるされます。そうでしょう、日本の１０倍以上の人間が住む上に多民族であり、その巨大さ故に図らずも自らの行動が様々な形で世界に影響力を与えてしまうならば当然でしょう。しかも胡錦濤氏は国内の政治基盤が弱いという話も聞きますから、人民解放軍やその退役軍人と中国共産党のバランスなどを考えれば、ナショナリズムの発揚を行うのはある意味で当然であり、ある程度軍側の意向も汲まなければならないでしょう。別に今の中国の態度に対して肩を持つ気はありませんが、それらの事情を鑑みれば、今回の行動は不思議ではないでしょうね。つまり、今の中国は「急速な経済発展を遂げる自らに対する自信と、それに伴い生まれる様々な問題に対する不安感」や「先進諸国に対する畏敬と畏怖と劣等感」が入り混じっているのが実態なのでしょう。<br>　つまり、中国自身も自らの置かれた状況は認識しているだろうし、事を荒立てる事が結果的に自らの不利益になるかは分かっているのだとは思います。<br><br>　結局の所、なかなか最善策を見つけるのは難しいわけで…<br>　ただ言える事は、上記したような理由から日本の防衛について本格的な議論をすべきという事、さらに経済≠政治である事を改めて認識しなければならないでしょう。極端に経済化された政治というのは、相手に見透かされるのがオチでしょうし、変わり身の早い経済なら対応出来ようとも政治は変わり身が過ぎるのは危険です。対外的な経済関係とは外交政治から見ればあくまで１つのカードに過ぎないわけで、そういった視点が今の国政には足りないと思うのですがね…内弁慶な事ばっかりやっても仕方ないですからね、ただ日本国民自身も「外交は根回しが大事であり、原則論に捕われずに対応し、時には汚れ仕事も引き受けなければならない事。グローバル経済とは結果的に国の役割が巨大化し様々な調整を行わざるを得ない為に、世界各国は今後大きな政府へと舵取りする可能性がある事」も認識しておくべきかもしれません。また、グローバル化すればするほど政府の取れる政策には限りがある事が予想され、それゆえに混沌とした世の中へと繋がる為に、原則論にこだわらぬバランス感覚ある判断が重要になるかもしれませんね（ただ、グローバル化って皆、声高に叫んでい<br>ますけど、必ず近いうちにいつか限界が来るのだと私は思いますがね）。<br><br>　そんな中、北方領土に露メドベージェフ大統領が訪問する予定やら、北朝鮮の後継者が決まり、今後そのお膳立てとして正当な後継者である事を国内に示す為の結果作りの為に、周辺国にちょっかいを出し始める可能性が指摘されたりしています。そんな時代に日本政府は日本国民は何を考えるべきか。私は核武装や徴兵制導入まで主張する気はありませんが、自衛について考えたいものです。<br><br>　様々な共同開発を主張する人もいますが、投資や利益の分配はどうするんですか？発展したらしたで大抵またこじれるだけです、はい。<br>　あと、今回の報道の中で、「中国人観光客が減って〇億円の損だ」とか「アイドルグループの公演が中止になった」とか、そういう低俗な報道やめましょうって。マクロ的に見れば観光客は互いに減ってるだけでしょうしね。食いかけの団子を盗まれてるのに気を取られ、その間にポケットから財布を盗まれようとしてる感じですよ、目先の利益しか見えてないなんて悲しいっすね…<br><br>最後に。<br>　結局彼らだって本格的な交戦を望んではいないでしょうし、強気な態度なんて大抵弱い奴が取るもんです。慌てず、よきライバルとして互恵関係を保ち、日本の利益を考え守る為にも、タブーのない自衛の議論と、機動力を失わない程度の一貫性と、原則論に固執し過ぎない程度の若干の正義感、相手を不快にさせない程度の打算的な戦略を持ち合わせて行きたいものです。<br></p></font>
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<link>https://ameblo.jp/ichimatsu31415/entry-10672710178.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Oct 2010 14:25:08 +0900</pubDate>
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