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<title>Junya KONNOのブログ</title>
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<description>&quot;滑って転んで半世紀&quot;還暦を迎えた私とスキーのつきあいは半世紀。ちょっとばかり破天荒で風変わりなスキーヤーの、滑ったり転んだり (ずっこけたり)のたわいもない自叙伝的エッセイ(^^)</description>
<language>ja</language>
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<title>&quot;後進育成&quot; スキーを楽しむ姿勢を伝えたい</title>
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<![CDATA[ <p></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230212/09/ideaj2308/55/42/j/o0868123515242025284.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230212/09/ideaj2308/55/42/j/o0868123515242025284.jpg" border="0" width="400" height="569" alt=""></a></div>所属する蘭越町のスキー連盟から依頼があり蘭越町の小学校・中学校のスキー授業を担当しています。<br><br>蘭越町は以前は町営のスキー場もあり、二人のオリンピック選手も輩出したスキー熱の高い地域でしたが、今はスキー場は廃止となりスキー熱は下火傾向であります。<br><br><p>スキー授業を担当して痛感することは、隣接するニセコ町や倶知安町には国内屈指のスキーリゾートがあるにもかかわらず、スキーに親しむ習慣のない子供達が大多数という悲しい現実です。</p><br><br>スキー授業でしかスキーをしない。授業だから仕方なくスキーをやっている。そんな子供達がほとんどです。子供の頃に楽しいと思わなければ大人になってもやらないでしょう。<br><br>我々指導者がスキーの楽しさを伝えていかなければ、この国のスキー文化の継承に黄色信号が点滅しているような危うさを感じる今日この頃です…<p></p>
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<link>https://ameblo.jp/ideaj2308/entry-12788887770.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Feb 2023 09:49:12 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot; 福原吉春　気田義也　雑考〜二人の足跡を追ってみて(その２)〜</title>
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<![CDATA[ <p></p><div><br></div><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230109/11/ideaj2308/ca/aa/j/o1024153215227546906.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230109/11/ideaj2308/ca/aa/j/o1024153215227546906.jpg" border="0" width="400" height="598" alt=""></a></div><p><br></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230109/12/ideaj2308/4f/37/j/o1080139215227564479.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230109/12/ideaj2308/4f/37/j/o1080139215227564479.jpg" border="0" width="400" height="515" alt=""></a></div><p><br></p><p><br></p><p>　2人が活躍した半世紀前には人口1万人を超えていた蘭越町。それでも田舎町であったのは変わりありません。リフト設置のスキー場はなく、数百メートルのスロープをひたすら脚で登っては滑るを繰り返し、高校の通学には1時間を要した二人のスキー環境は果たして恵まれていたのでしょうか？</p><p><br></p><p>　リフトが無く脚で登って滑ることが当たり前であった時代、二人の幼少期には自宅のごく至近にスロープがあったといいます。そして熱心な指導者の存在。高校時代には毎日練習ができる環境と良きライバルがいました。当時の時代背景を考慮し、他の地域の選手と比較してみると、案外恵まれた環境だったのかもしれません。</p><p><br></p><p>　1度ならず2度ものをオリンピック出場を果たした二人。その理由を考えてみました。まず幼少期にジャンプなどを交えたスキー遊びでバランス感覚を養い、そしてショートコースで徹底的な基本練習を繰り返し、他人よりも早く登ることによる豊富な練習量が天性の運動センスに磨きをかけていったと予想できます。</p><p><br></p><p>　そして忘れてはならないのは、当時の二人の周りに充満していたスキー熱の上昇気運。全日本や全道大会で活躍する先輩、仲間が身近にごろごろしていた環境が、頑張れば全日本に手が届くと言う確信を与え、そしてさらにその先にある輝かしいものへと夢を膨らますことを可能にさせたのでしょう。この気運の上昇こそが負けず嫌いな二人の大きな原動力になったと想像できます。</p><p><br></p><p><br></p><p>あとがき</p><br><p>　二人が活躍した時代から半世紀が過ぎた現在。景気後退と少子化によってスキー環境も一変しました。地方の小規模スキー場は姿を消し、スキー競技人口も減少の一途です。</p><p><br></p><p>　アルペン競技を継続するには多額の費用がかかります。道具、合宿、レース出場にかかる経費は膨大です。世界を目指そうとするのなら、国際スキー連盟(FIS)のポイント獲得が必要不可欠であり、多くのFISレースに出なければなりません。移動、宿泊、大会エントリーにかかる費用だけでも少なくありません。</p><p><br></p><p>　またゲレンデを独占してしまうポール練習は、利益優先のスキー場経営者の理解を得られないケースが多く、以前はゲレンデのあちこちに見られたポール練習風景は減少の一途です。レーサーの端くれだった私の中学・高校時代には、全道各地に選手がいてその数も膨大でした。少子化やスポーツ・遊びの多様化でスキー離れが顕著な今、特定の強豪校に選手が集まる一極集中の傾向は強まるばかりです。</p><p><br></p><p>　さらにアルペンスキーを敬遠する理由のひとつにテクニック習得の難しさがあります。ワールドカップのピステはアイススケートリンクと遜色ない硬さだといいます。そこにエッジをグリップさせターンを繰り返すわけですから、そのテクニック、体力たるや生半可なものでは歯が立ちません。</p><p><br></p><p>　しかしながら、お金がかかるから、難しいからと諦めてしまうのではなく、何とかこの競技の衰退に歯止めをかけたいものです。以前、気田を支えた町ぐるみで応援するような体制の再構築に、そのヒントが隠されているような気がします。</p><br><p>　二人が残した偉大なる足跡。半世紀前の蘭越に、誰よりも熱くスキーに情熱を傾け、偉業を達成した大先輩がいたと言う事実は、この地でスキーをする者をワクワクさせてくれたり、何か誇らしい気分にさせてくれたりします。</p><p><br></p><p>　町で唯一のチセヌプリススキー場は7シーズン前より休止しています。アルペン少年団も部員減少で解散したといいます。外国人で賑わうニセコ、倶知安の隆盛に比べれば凋落が否めない蘭越のスキー状況でありますが、蘭越からスキーの人が消えないように、また二人の偉業を風化させないように末永くスキーを続けていきたいものです。</p><br><p>最後に現役時の福原のエピソードを記してこの追想記の幕を閉じたいと思います。</p><br><p><br></p><p><b>福原の強気</b></p><b><br></b><p><b>福原はアマチュア現役時代に30回の海外遠征を経験したという。福原が初めての海外遠征であったシャモニー世界選手権、ビラールユニバーシアード大会の帰国後に、メダルを逃したことに大変悔しがるコメントを残している。初めての国際大会、しかもアルペンの本場ヨーロッパに乗り込んでの状況で、福原はすでに世界と伍して勝利を意識していたのである。本場ヨーロッパからはるかに離れた極東の島国に生まれ育ち、本場のスキーを見たこともなかった選手が、である。この時、福原はスタートリストに連なる選手の名前は誰1人知らなかったという。まったくのアウェイ、言葉が通じる日本人と言えば一緒に選ばれた日本代表選手とコーチのみ。硬い雪質と圧倒的なスピードの違いに度肝を抜かれたという。並の心臓では意気消沈必至の状況であるのに、この強気の自信はどうだろうか。その理由として私は、数年前まで世界と互角に戦った猪谷千春の存在が大きいのではと想像をする。同じ日本人として勝算なきにしもあらずと強気に臨んだに違いない。</b></p><p></p>
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<pubDate>Mon, 09 Jan 2023 11:33:18 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot; 第6章　雑考〜二人の足跡を追ってみて〜</title>
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<![CDATA[ <div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230106/20/ideaj2308/f4/8b/j/o1024257215226380626.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230106/20/ideaj2308/f4/8b/j/o1024257215226380626.jpg" border="0" width="400" height="1004" alt=""></a></div><p>　</p><p>　木々に覆われた蘭越町湯里の私の自宅から車でほんの5分のところに昆布の集落があります。JR昆布駅の横には町営の温泉施設があって、その利用客の車の出入りを除けばひっそりと静かな佇まいです。<br><br>　残念ながら60年前のこの地に、誰よりも熱くスキーに熱中した福原少年がいたと言う形跡は見られません。大林寺のスロープは閉鎖され草木が茂りその名残すらありません。福原少年に熱くスキーの手ほどきをした諸先輩たちも天寿を全うされ、彼の幼少期を知る人も多くはありません。</p><p><br></p><p>　一方、蘭越中学校の横には気田少年のスキーの基礎を育んだ向山スロープが現存します。そして2人の高校時代の練習場・倶知安旭ヶ丘のスキー場は町営スキー場として今も営業しています。<br><br>　8年前に蘭越町湯里に住み着きました。そもそもは是が非でも蘭越に住みたかったと言うわけではなかったのです。根っからのスキー好きの私は、常々スキーができるより良い環境を探していたのですが、行き着いたところが世界一のパウダースノーと広大なゲレンデを有するニセコでした。</p><p><br></p><p>&nbsp;8年住んでみて蘭越の良さをじわじわ感じています。スキーを生業とする私、自宅から職場のニセコアンヌプリスキー場までは車で10分の距離です。リビングの窓からは左右対象で富士山を彷彿させる羊蹄山が望めます。</p><p><br></p><p>　ニセコの冬は世界一のパウダースノーを目当てに大挙してやってくる外国人スキーヤー、スノーボーダーで大賑わいです。まだまだ蘭越人駆け出しの私が蘭越のことを語るのはおこがましいのですが、蘭越とスキーの関わりの歴史の中に大変興味深い</p><p>『できごと』を発見できた事は幸運でした。<br><br></p><p>　</p><p>　2度のオリンピックに出場した二人。驚きだったのは高校まではひたすら脚で登って滑っていたということ。スキー場にはリフトがあり、スキーはリフトで登って滑ることが当たり前の時代に育った世代にとって、脚で登って滑ることの大変さはなかなか実感できないことです。それでも高校、大学とアルペンレーサーのはしくれだった私は、夏場のトレーニングに雪渓に行き、脚で登っては滑ることのしんどさを何度か体験しました。</p><p><br></p><p>　脚で登っては滑ることが当たり前だった二人の世代。しかし、大会は普段の練習バーンよりははるかに長く、変化の多いものだったでしょう。脚で登って滑れる距離はたかが知れたものです。福原が幼少期に練習に明け暮れた大林寺スロープが400メートル、気田の向山スロープはそれよりさらに短く、また二人の高校時代の旭ヶ丘も全長300メートルくらいのものです。</p><p><br></p><p>　彼らはその短いバーンに創意工夫で大会バーンを想定し、何度も何度も反復練習を繰り返したのでしょう。倶知安の町はずれにある旭ヶ丘はその名の通り『丘』と呼ぶにふさわしいスロープです。背後に聳えるニセコアンヌプリと比較すると、それはあまりにも小さく、短い。大回転のセットだと10旗門ほどしか立ちません。それは本番の5分の1程度に過ぎない短さです。<br><br></p><p>　ニセコの隣町蘭越で育った二人。さぞニセコアンヌプリの広大なゲレンデを縦横無尽に滑っていたのでは、という予想は見事に外れてしまいました。彼らは遠方もしくは背後に聳えるニセコアンヌプリを仰ぎ見ながら、それとは比較にならないなく小さなスロープを脚で登りひたすら反復練習に打ち込んでいたというのです。このような環境の中からオリンピアンが二人も生まれたと言う事実は、なんとも信じがたいことであります。</p><p><br></p><p>　スキーの名門大学に進んで二人の成績は飛躍的に伸びたといいます。反復練習で培った基本技術が、リフトを使った大学のトレーニングで開花したのでは、とは私の勝手な想像ですが、ワールドカップ86勝の世界最強のアルペンレーサー、スウェーデンのインゲマル・ステンマルクも、少年時代は極々小さなスキー場でひたすら反復練習に励んだといいます。</p><p><br>　ニセコアンヌプリのスキースクールには、福原の甥っ子にあたる政幸氏がいます。福原の兄政直氏の長男で、家業の鉄工所を継ぐ傍らスキー指導を30年続けています。大きな体そのままの豪快さと、それとは相反する繊細さを併せ持つ彼は、その滑りも性格同様ダイナミックにして優雅であり、スキーの天才福原吉春の血筋を感じずにはいられません。</p><p><br></p><p>　また私が所属する蘭越スキー連盟には気田の弟・義三氏がいます。末弟の義夫氏とともにアルペン競技に熱中し、蘭越町のジュニア強化にも尽力されてきました。福原の兄・政直氏、甥っ子の政幸氏、気田の弟・義三氏、そして福原の高校スキー部時代の2年後輩で倶知安在住の坂東氏からは、二人にまつわる貴重なお話を聞かせてもらいました。この場を借りて御礼申し上げます。</p>
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<pubDate>Fri, 06 Jan 2023 20:00:13 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot;  第5章　二人の滑り〜剛の福原、柔の気田</title>
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<![CDATA[ <div>大回転競技での福原(右)と気田(左)<div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221229/11/ideaj2308/22/12/j/o1080252315222508160.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221229/11/ideaj2308/22/12/j/o1080252315222508160.jpg" border="0" width="400" height="934" alt=""></a></div><p><br></p><p>回転競技での福原(右)と気田(左)</p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221229/11/ideaj2308/4f/2e/j/o1080240115222508166.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221229/11/ideaj2308/4f/2e/j/o1080240115222508166.jpg" border="0" width="400" height="889" alt=""></a></div><p><br></p><p>半世紀前の同時期にオリンピック出場を果たした福原と気田</p><p>蘭越町出身の2人のアルペンスキーレーサーの足跡を追う</p><p><br></p><p><br></p><p><b>第5章　二人の滑り　剛の福原、柔の気田</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　二人の滑りを実際に見たわけではないが、スキージャーナルに掲載された数枚の連続写真を見る限り、剛の福原、柔の気田という印象を受ける。グルノーブル五輪決定時の福原は身長158センチメートル、体重63キログラム。一方気田は158センチメートル、53キログラムで身長は同じだが、体重に10キログラムの差がある。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　 写真から見てとれる全身像も筋肉質でがっちりした福原に対し、気田のそれはスリムで繊細なイメージである。実際の福原を知っている甥の政幸は「まるでボディービルダーのような身体」と評した。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　それにしても小兵である。世界と伍して戦うにはあまりにも小さい。銀メダルの猪谷以降、世界の頂点に限りなく近づいた日本人スラローマー岡部哲也、木村公宣、佐々木明はいずれも身長180センチメートルオーバーで世界水準に引けを取らなかった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　福原はいかにもパワフルである。全身の筋肉を総動員させて少しでも早く滑ろうと言う気迫が感じられる。一方気田は技巧派で、無駄な力は使わない巧みさが感じ取れる。同じ環境で育った二人2人であっても、体が小さいハンディを福原は徹底的な筋力アップで、気田は無駄を省いた洗練された滑りでと、全く逆のやり方で克服していったのは興味深い。</b></p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221229/11/ideaj2308/46/78/j/o1024227615222508171.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221229/11/ideaj2308/46/78/j/o1024227615222508171.jpg" border="0" width="400" height="889" alt=""></a></div><p></p>
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<pubDate>Thu, 29 Dec 2022 10:30:03 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot;   プロスキーヤーと銀行マン</title>
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<![CDATA[ <div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221226/10/ideaj2308/ed/7f/j/o1024088715221239046.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221226/10/ideaj2308/ed/7f/j/o1024088715221239046.jpg" border="0" width="400" height="346" alt=""></a></div><p>プロレースに出場する福原</p><p><br></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221226/10/ideaj2308/48/13/j/o1080092215221239049.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221226/10/ideaj2308/48/13/j/o1080092215221239049.jpg" border="0" width="400" height="341" alt=""></a></div><p>北海道拓殖銀行スキー部時代の気田</p><p><br></p><p></p><p>半世紀前の同時期にオリンピック出場を果たした福原と気田</p>蘭越町出身の2人のアルペンスキーレーサーの足跡を追う<p></p><p><br></p><p><b><br></b></p><p><b>第4章プロスキーヤーと銀行マン</b></p><p><b><br></b></p><p><b>引退そして新たな道へ</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　さて、インスブルック、グルノーブルと二度のオリンピックに出場した二人。ゴールドウィンに就職しレースを続けていた福原は、グルノーブルの敗北を機に会社を退職し、プロスキーヤーの道を選択する。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　プロスキーヤーといっても彼が目指したのはレッスンプロではなく、賞金稼ぎのプロレースの世界だ。当時のプロレースは、欧米をメインに、かつてアマの世界で活躍していた選手がしのぎを削っていた。国際経験のない選手には勝ち目はなく、それまで日本人は出場したことがなかった。</b><b>福原は、日本人プロレーサーの第一号であった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　この異例の転身にライバル気田は「彼はスキーをやるために生まれてきたような男。アマ、プロにかかわりなく、彼の存在は日本のスキー界にとってプラスになる。いやプラスになるようなことが彼なうらばできる」とコメントしている。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　一方、気田が就職した北海道拓殖銀行のスキー部には道内の強豪選手が在籍し、スキー競技を続けていける環境にあった。しかし気田もまた、グルノーブルの敗北が引き金になったのであろうか、翌年、翌々年の北海道選手権は制したものの、その後メジャーなレースのリザルトに彼の名前が載る事はなかった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　スキー選手を引退した気田は、その後一切スキーを履く事はなかったという。本業である銀行マンとして多忙な生活が待っていた。明日をも知れないプロレースの世界に飛び込んだ福原。一方堅実な銀行マンに転身した気田。全く別々の道を歩み出した二人のオリンピアンであった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　共通して言える事は『彼らに遊びのスキーは存在しなかった』と言うことではないだろうか。</b><b>残念ながら若くして他界されてしまった二人にその真意を問いただす事はかなわない。プロとしてとことんスキー道を極めるか、けじめをつけてきっぱりやめてしまうかの究極の選択をした二人であった。</b></p><p><br></p>
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<pubDate>Mon, 26 Dec 2022 10:17:47 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot; 大学卒業、そして二度目のオリンピックへ</title>
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<![CDATA[ <div><b>大学卒業、そして二度目のオリンピックへ</b></div><div><b><br></b></div><div><b>　大学を卒業した二人は次のグルノーブルオリンピックを目標に、福原がスポーツウェアメーカー・ゴールドウィンへ、気田は北海道拓殖銀行へそれぞれ就職。社会人となっても二人の快進撃は止まるところを知らなかった。</b></div><div><b><br></b></div><div><b>　福原が昭和41年、自身2回目の全日本2冠(滑降・大回転)を達成。その大会のもう1種目回転は気田が制した。そして二人は2度目のオリンピックへの切符をつかむことになる。</b></div><div><b><br></b></div><div><b>　代表決定時の福原についてスキージャーナルは次のようなコメントを寄せている。『「ぜひ6位入賞を果たしたい」眼鏡の奥で目が鋭く光る。絶望的な日本アルペン陣の中にあってこの一言は心強い。テクニックはもちろん、闘志、気魄、根性でこの人の右に出る人はいない。アルペンチームのユニフォームの相談に至るまでチームの軸として、自分の立場を彼はよく知っている』</b></div><div><b><br></b></div><div><b>&nbsp;一方気田については、この人を見てギリシャの彫刻のようだと言った人がいる。鋭い刃物を思わせるデリケートな感覚。試合のカン、根性、勝負に対する執念はすさまじい。運動神経は抜群で、特に鉄棒の大車輪は得意としている。彼が北海道生まれでなかったら体操の選手にしたかったと言う人もいる。昨年の不調から完全に脱皮したとみられ、アルペンチームの主力として活躍が望まれている。</b></div><div><b><br></b></div><div><b>&nbsp;「最後のオリンピックです。まず自分が勝つことが日本を強くする第一歩です。勝つために全力を尽くすつもりです」』とコメントしている。</b></div><div><b><br></b></div><div><b>&nbsp;気田の性格について弟の義三は「温厚にして冷静、レースに勝っても威張る事は一切なかった。礼儀正しく、負けず嫌い」と語った。</b></div><div><b><br></b></div><div><b>&nbsp;意気込んで臨んだグルノーブル。しかし成績は福原が滑降、大回転で50位代、得意の回転では、福原、気田ともに失格と言う結果に終わった。</b></div><div><b><br></b></div><div><b>グルノーブルオリンピアン代表決定時の福原(上)と気田(下)<br></b><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221223/13/ideaj2308/47/c9/j/o1024278815219890679.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221223/13/ideaj2308/47/c9/j/o1024278815219890679.jpg" border="0" width="400" height="1089" alt=""></a></div><p></p>
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<pubDate>Fri, 23 Dec 2022 12:49:42 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot; 福原は明治大学、気田は早稲田大学へ</title>
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<![CDATA[ <div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221221/14/ideaj2308/13/b2/j/o1024094815219098737.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221221/14/ideaj2308/13/b2/j/o1024094815219098737.jpg" border="0" width="400" height="370" alt=""></a></div><p><b>インスブルック五輪でのアルペンスキー日本代表選手の成績</b></p><p><b><br></b></p><p><b>"二人のオリンピアン"  </b></p><p><b>第三章　スキー名門大学へ〜そしてオリンピックへ</b></p><p><b><br></b></p><p><b>福原は明治大学、気田は早稲田大学へ</b><br></p><p><b><br></b></p><p><b>　高校時代に全国のタイトルにもう1歩のところで見放された福原は、それでも数々の大会での成績が評価され、スキーの名門・明治大学へ進学した。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　福原の快進撃は大学に入ってからさらに拍車がかかった。大学2年時にはシャモニー(フランス)世界選手権大会の代表に選考され初めて海外でのレースを経験する。回転の17位という記録は日本人の出場選手5名のうち最高位であった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　続いてヴラール(スイス)で行われた。ユニバーシアード大会では回転で4位に入っている。大学3年時には全日本の滑降・回転の2冠を制し、さらに翌年のインカレ・回転も制し、その年の第9回冬季オリンピック インスブルック(オーストリア)大会への出場を決めたのであった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>&nbsp;一方、早熟の気田は明大、日大と並ぶ大学スキー界の雄・早稲田大学へ進学した。破竹の勢いの気田は、前回のスクォーバレー(アメリカ)五輪代表の見谷昌禧などの先輩の指導により、理論的にも成長し、敏捷なスキー操作をさらに磨いたという。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　大学1年時に国体を制し、福原同様翌年のインスブルック五輪への出場を決めた。かくして同郷のアベックオリンピアンが誕生したのである。福原大学4年時、気田大学2年時のことである。</b></p><p><b><br></b></p><p><b><br></b></p><p><b>インスブルックオリンピックへ</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　インスブルックでの成績は福原が回転、大回転において20位代、気田は30位代と猪谷の偉業には及ばなかったが、福原の回転23位は日本人出場5選手中最高位であった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　福原はインスブルック五輪直前の国際スキー連盟(FIS)公認のゴールデック(オーストリア)の回転レースで優勝している。ワールドカップがまだなかったこの時代に、公認レースで勝利した日本人は猪谷以来のことで、世界への手ごたえを感じていた。もしやメダルもと意気込んで挑んだインスブルックであった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　帰国した気田は翌年、翌々年の全日本で回転2連覇を達成。その年のインカレ回転も制し、回転の気田の名を不動のものとした。</b></p>
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<pubDate>Wed, 21 Dec 2022 14:19:55 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot; 高校スキー部時代</title>
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<![CDATA[ <div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221215/12/ideaj2308/0c/9f/j/o1024074015216547624.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221215/12/ideaj2308/0c/9f/j/o1024074015216547624.jpg" border="0" width="400" height="289" alt=""></a></div><p>高校時代、二人が練習した現在の倶知安旭ヶ丘スキー場</p><p><br></p><p>半世紀の同時期にオリンピック出場を果たした福原と気田<br>蘭越町出身の2人のアルペンスキーレーサーの足跡を追う</p><p><br></p><p><b>第二章　高校スキー部時代</b></p><p><b><br></b></p><p><b>福原の高校時代</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　地元の桂中学校を卒業した福原は、倶知安町の倶知安農業高校へ進学した。1にも2にもなくスキー部へ入部。練習環境は大林寺スロープから倶知安旭ヶ丘スキー場に移った。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　当時、旭ヶ丘スキー場にはロープトゥがあったが、スキー部の練習に使われる事はなかった。ここでも上りはもっぱら脚による登攀であった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　福原が初めて全道大会のリザルトの上位に登場したのが昭和34年(1959年)、高校2年時の全道高校選手権大会で、回転3位、大回転6位の成績を残している。この年全国高校選手権大会にも駒を進めた福原は、大回転で5位入賞し全国デビューを果たした。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　初めて出る全国大会でも好成績を残し、彼のパフォーマンスが既に全国で通用するレベルにあることを証明した。翌年3年時に小樽天狗山で開催された全国高校では、回転で2位、大回転3位とタイトル奪取にもう1歩のところまで迫った。</b><br></p><p><b><br></b></p><p><b><br></b></p><p><b>気田の高校時代</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　一方、気田は同じ倶知安町の倶知安高校へ進んだ。蘭越から倶知安へ通学する汽車に、次の駅の昆布から2年上の福原が乗り込んできた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　当時、倶知安高校スキー部と倶知安農業高校スキー部は、旭ヶ丘スキー場で合同練習をしていた。授業が終わってから日没までの数時間が練習時間に充てられた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　倶知安高校スキー部12〜13名、農高スキー部7〜8名、総員約20名の高校スキー部員が旭ヶ丘のスロープに、バールと呼ばれる鉄の棒で雪面に穴を開け、竹のポールを挿してセットしたコースをひたすら脚で登り、回転、時には大回転の練習が繰り返された。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　今でこそスキー強豪校には名コーチがいて、ポールセットから技術の指導までをフォローし、選手は滑ることのみに集中できる環境が当たり前になっているが、当時の倶知安高校および倶知安農高スキー部にはコーチは不在で、全て選手の自主性に任されていた。</b><b>いきおい上級生が下級生を指導すると言う関係が常態化し選手間の結束も強化されていった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　当時の両校のスキー部には全国大会や全道大会で活躍した沢村昭博(全国高校・大回転優勝)、斉藤修(全道選手権・大回転優勝)、坂東弘(国体・大回転5位)、中谷紀治(全道高校・回転優勝)、木下義信(全道選手権・滑降優勝)等の錚々たるメンバーがいたが、中でも福原、気田の実力は突出していた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　気田はアルペンに転向して3シーズン目の高校1年時に、札幌円山で行われた全道高校の回転、大回転の両種目で6位入賞を果たし、大器の片鱗をうかがわせた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　さらに気田が大ブレイクしたのは、翌年2年時のこと。2月に秋田県花輪で行われた全国高校の回転でタイトル奪取すると、気を良くして臨んだ3月の全日本・大回転(長野県志賀高原)で、なんと失敗を恐れないこの若武者は並いる成年組の強豪を抑えてトップに躍り出たのだ…</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　さらに驚きはこの時の気田のスタート順は70番。通常、選手が滑ることにコースが荒れるアルペンレースでは、ゼッケン70番の勝利はありえないと言っても過言ではない。ほとんどの有力選手が滑り終わり、順位が決まりかけていたところだけに、この快挙は周囲を驚かせるとともに、気田の名前を一気に全国区へと押し上げた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　当時の状況について気田は「あの時は前日の回転で目標の10位になれたんで、大回転はいいやーと気楽だったんです。それに寒くてアイスバーンの状態がレース開始時とあまり変わらず、思い切ってとばせた。2、 3日して実感が湧いてきて…うれしかったです」と語った。</b><b>気田が志賀高原の寒冷な気候と雪質を全日本タイトル奪取の味方にしたのは言うまでもない。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　さらに波に乗る気田は翌年3年時には、北海道のタイトルを総なめにし、全国高校の回転では2連覇を達成、国体少年組も制し、その勢いは止まるところを知らなかった。</b></p><p><br></p>
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<pubDate>Thu, 15 Dec 2022 12:48:58 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot;  二人のおいたち　気田の幼少期</title>
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<![CDATA[ <p></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221211/06/ideaj2308/dd/75/j/o1024094815214700034.jpg"><b><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221211/06/ideaj2308/dd/75/j/o1024094815214700034.jpg" border="0" width="400" height="370" alt=""></b></a></div><p><b>気田の幼少期の練習場、向山スロープ</b></p><p><b><br></b></p><p><b>半世紀の同時期にオリンピック出場を果たした福原と気田</b></p><b><br>蘭越町出身の2人のアルペンスキーレーサーの足跡を追う<br><br><br></b><p><b>二人のおいたち</b></p><b><br></b><p><b>気田の幼少期</b></p><b><br></b><p><b>　福原の1歳下で学年ではふたつ下の気田義也は昭和18年(1943年) 9月29日、機関車のボイラー等の製造を営む気田家7人兄弟の長男として東京都亀戸に生まれた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　戦禍で家業の継続が困難になり、小学生の頃に両親の故郷である青森県五戸へ引っ越し、さらに縁あって北海道蘭越へ移住した。</b></p><b><br></b><p><b>　通い始めた蘭越中学校には隣接して向山スロープがあり、教員の中にスキー指導に熱心な逢見幸一がいた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　気田は最初ジャンプに興じたが、逢見は気田の才能をいち早く見出し2年時にアルペン競技への転向を勧めた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　当時の様子を5歳下の弟・義三は「先生は冬になると日曜日には朝から晩までつきっきりで指導してくれました。兄にはそれに応える強い気持ちと創意工夫の才があったのでしょうね。両親も一生懸命応援しましたし、町全体がスキーな打ち込む子供たちを支えていました。たとえ小さな町でもスキーによって全国や世界につながることができる。それをみんなが感じていたと思います」と語っている。</b></p><p><b><br></b></p><p><b><br></b></p><p><b>　ご多分にもれずこの向山スロープにもリフトは無く、ひたすら脚で登っては滑る練習環境は昆布の福原と同様であった。この向山スロープでは国体や道内の大会で活躍した木下兄弟などと練習に明け暮れたが、時には練習環境の変化を求めて、近隣の山に練習に適当なスロープを見つけてはポールをセットし、スラロームの練習を繰り返したという。</b></p><p><b><br></b></p><p><b><br></b></p><p><b>　身体な恵まれなかった気田は、しかし類稀な運動センスの持ち主であった。冷静沈着な性格も手伝い、小さい体をカバーする技術を確実に身に付けていた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　福原と共通して言えることは無類の練習の虫であったということ。生まれながらの運動センスの良さは豊富な練習量によってさらに磨き上げられていった。</b></p><b><br></b><p><b>　</b></p><p><b>　2人の幼少期において特筆すべきは、スキーの練習は全て脚で登って行われていたということ。リフトで短時間にしかも労力をかけずにスタート地点に立て、滑ることだけに集中できる現代のスキー環境と比べると、それは恐ろしく非合理的で非効率的なスキーであったといえる。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　なぜなら登攀は一見筋力を鍛える上で合理的な練習のようでもあるが、瞬発力を駆使するスキーに対し持久力を鍛える登攀は、運動の質が異なり鍛えられる筋肉もまた異なる。ゆえに登攀がスキーのタイム短縮のために役立ったとは言い難い。</b></p><p><b>　</b></p><p><b>　さらにリフトの数倍時間を要し、疲労が伴う登攀の練習効率の悪さはいうまでもない。いかんせんリフトの無いこの時代、脚で登るより仕様がなく登りの広報に選択肢は存在しなかった。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　単純に誰よりも早く登れるものは誰よりも数多く滑れるわけであり、練習の虫であった二人は他人よりもはるかに速いスピードで登攀を繰り返した。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　この地域に初めてリフトが登場したのは昭和36年のことで、福原はすでに高校卒業の時期を迎えていた。</b></p><b><br><br></b><br><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/ideaj2308/entry-12778763109.html</link>
<pubDate>Sun, 11 Dec 2022 06:40:35 +0900</pubDate>
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<title>&quot;二人のオリンピアン&quot;  第一章　二人のおいたち　福原の幼少期</title>
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<![CDATA[ <div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221209/13/ideaj2308/21/0b/j/o1024138815213979144.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221209/13/ideaj2308/21/0b/j/o1024138815213979144.jpg" border="0" width="400" height="542" alt=""></a></div><p>中学生の頃と思われる福原(左)</p><p><br></p><p>半世紀前の同時期にオリンピック出場を果たした福原吉春と気田義也<br>蘭越町出身の2人のアルペンスキーレーサーの足跡を追う<br><br><br><b>第一章　二人のおいたち</b></p><p><b><br></b></p><p><b>福原の幼少期</b></p><p><br></p><p><b>　福原吉春は昭和17年(1942年) 2月10日、蘭越町字昆布で鉄工所を営む福原家7人兄弟の6番目として生まれる。小学校入学前からスキーを始め、昆布小学校3年時にはすでにアルペンレースに出場していたという。出るレース出るレースで常に1位という天才スキー少年ぶりを発揮した。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　生家のすぐ近くに大林寺と言うお寺があり、その横にスキー用のスロープがあった。幼少の頃の福原の冬の遊びといえば、もっぱら大林寺スロープでのスキーであった。全長400メートルの沢沿いのスロープは最大斜度40度の急斜面で、下部にはジャンプ台があった。時にはポールを立ててスラロームに興じ、時にはジャンプ台で颯爽と飛躍に興じるうちに、天性なスキーセンスに益々磨きがかかった。スキー用スロープとはいってもリフトがあったわけではなく、ひたすら脚で登るスキーは足腰を強靭に鍛えた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　福原にとってラッキーだったのは、この昆布という地域がことさらスキー競技熱の高い土地柄であったと言うことだ。現在人口500人に満たない集落の昆布は、当時の人口でも今の倍の約1000人に過ぎなかったのであるが、昭和7年にはすでに昆布スキークラブなるものが結成されており、数々のスキー大会の実施やスキー選手の育成を熱心に行ってきた。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　福原の生家の隣には昭和20年代後半に全日本や道内の大会で活躍し、後に北海道スキー連盟やニセコスキー連盟の重職を歴任し、北海道のアルペンスキー界発展に</b><b>大いに尽力した増原亀市がいた。増原は福原の幼少期について次のように回想</b><b>している。「私がオリンピック候補に選ばれた昭和27年頃、福原君は小学生で体格は小さかったが足腰の強靭さは抜群でした。とにかくイチかバチか度胸のある迫力に満ちたスキーをやることを教えるために、スパルタ式の猛練習をやりました。スラロームの練習で私と5秒以内に縮まると羊羹1本の賞品つきで、街に電灯が灯っても勝つまでは絶対に自分から辞めるとは言わなかったですね。不撓</b><b>不屈の精神というか少年ながらアッパレでした。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　また同様に全日本で活躍したスキー距離競技の大柳政雄、スキー複合競技の藤田三郎、武四郎兄弟が大林寺スロープで幼少期の福原にスキーの『滑る、走る、飛ぶ』を手ほどきした。大柳の回想「とにかく事スキーに関しては、彼はディスタンス、ジャンプ、回転、滑降と小学時代から何でもやりましたね。中学時代は滑降と回転で伸びた。年齢に達しない頃から少年組に出場させて、選手生活の心構えを会得させるようにしました。吹雪の中でも夕暮れまで練習、歩く時も試合の気持ちで心身を鍛えることを強調しました」</b></p><p><b><br></b></p><p><b>&nbsp;この頃の様子について福原は「良い指導者に恵まれて幸運でした。小さい時から『うまいぞ！うまいぞ！』と褒められて、よしやってやろうと思いました。全日本で優勝するような選手と滑りたい一心でついていきました。今考えてもあの頃の練習量が1番すごかったですね。練習が終わった後で食べさせてくれたソバが実に美味かった」と回想している。</b></p><p><b><br></b></p><p><b>　さらに生家の同じ並びには3歳年下で蘭越高校から日本大学へと進み、全日本選手権やキロメーターランセで活躍した楠村喜一がおり、お互い切磋琢磨でスキーの技を磨きあった。このような人口希薄な地域で、しかもリフト施設もない貧弱なスキー環境でもあるにもかかわらず、全日本クラスの選手が周りにごろごろいたのには驚かされる。</b></p><p><b><br></b></p><p><br></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221209/13/ideaj2308/38/9e/j/o1080141815213979147.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221209/13/ideaj2308/38/9e/j/o1080141815213979147.jpg" border="0" width="400" height="525" alt=""></a></div><p>幼少期の福原が練習に明け暮れた大林寺スロープ跡。現在は閉鎖されその名残りはない。</p><p></p><p><b><br></b></p><p><br></p><p><b><br></b></p><p><br></p><p><b><br></b></p><p><br></p><p><b><br></b></p><p><b><br></b></p>
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<link>https://ameblo.jp/ideaj2308/entry-12778499368.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Dec 2022 12:06:47 +0900</pubDate>
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