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<title>医学部物語　</title>
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<description>～青春学園物語～</description>
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<title>第３８章（最終章）</title>
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<![CDATA[ <p><b>ひとの人生の<ruby>分水嶺<rp>(</rp><rt>ぶんすいれい</rt><rp>)</rp></ruby><b>というのは、誰でも一生のうち大小さまざまいくつかあるだろう。</b></b></p><p><b>雛菊のばあいこのときの思いきった行動が、その後を大きく左右したはずである。</b></p><p><b>おそらく女の人生の、もっとも大きな分かれ道だったにちがいない。</b></p><p><b>あとでなにかのおり、ふと記憶がよみがえるたびに、よくあんな大胆なことができたものだと、顔から火が出るような気持ちになる。</b></p><p><b>しかしそのときは、この機をのがせば二度とチャンスはないと必死になっていた。</b></p><p><b>しらふにもどれば警戒されて、もう二人きりになんかさせてもらえないだろう。</b></p><p><b>幸運の女神は、通りすぎてしまえば引き戻すべき後ろ髪をもっていない。</b></p><p><b>なにがなんでもこの場で、するべきことを最後までしてもらわなければならないのだ。</b></p><p><b>雛菊の思いきった行動は功を奏した。</b></p><p><b>下着をとったことで、さすがに男の自制のタガがはずれてしまった。</b></p><p><b>引き離されるかわりに、わかったわかったというように、服を脱がそうとしているらしいので、雛菊はこれさいわいと積極的に協力した。</b></p><p><b>協力というより男の気が変わっては大変と思い、自らもどかしいほどに急いで脱いだ。</b></p><p><b>かんじんなものはすでにとってしまっていたので、いまさら抵抗はなかった。</b></p><p><b>夏だからたいしたものは着ていない。</b></p><p><b>ブラがなくなって、はずむように乳房がとびだすと、開放感があって爽快だった。</b></p><p><b>すっぽんぽんになったとき</b></p><p><b>（これでしてもらえるんだわ）</b></p><p><b>奇妙に安心した。いくらなんでも、こんなかっこうの女を腹の上にのっけて、いまさらやめたという男はいないだろう。</b></p><p><b>たしかにことは雛菊の思いどおりに進行した。</b></p><p><b>しかしそのあとの具体的なことについては、雛菊の記憶にはかなりの空白部分がある。</b></p><p><b>多少酒が入っていたし、そういう行為はいちいち記憶に残らないものらしい。</b></p><p><b>いままで何度も、数えきれないほどイメージしてきたことを、現実に体験しているのだという感覚はあったが、実際にどんなことをされたのか、ほとんど思い出せなかった。</b></p><p><b>あちこち触られたりひっくり返されたりしたようだが、扱いは初心者向きだった。</b></p><p><b>啓多は、雛菊がとうぜん初めてにちがいないと思っていただろう。</b></p><p><b>上手にしてもらったおかげで始終、とくに最後のほうはむちゃくちゃによかった。</b></p><p><b>濃厚なピンク色の雲のなかで、全身をもみぬかれるような快感をなんども味わったあと、雛菊はだらりと体の力をぬいた。</b></p><p><b>しばらくその余韻に浸りたかったので、逃げられないように男の腰の上で脚を組んだ。</b></p><p><b>じっとそうしているだけで、腰骨が溶けてしまいそうにここちよかった。</b></p><p><b>ほかの動作はさっぱり記憶に乏しく、そのときの感触だけあとまでよく覚えていた。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>明け方、カーテンを通して差し込む陽の光で目をさました。</b></p><p><b>（朝だわ）</b></p><p><b>頸の下に男の腕があり、顔の横に肩があった。</b></p><p><b>女にとってはなんとも具合のいい枕である。</b></p><p><b>きのうまでの雛菊にすれば、男の腕枕の上でお目覚めとは、全く夢のような贅沢だ。</b></p><p><b>不沈の大船に乗っているような安心感があった。</b></p><p><b>ひとしきりその感触をあじわったあとで、徐々に一日の始まりの活動力がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。こうなると、いくら居心地よくても、もってうまれた性分が促迫してじっとしていることができなくなる。</b></p><p><b>（何時かしら）</b></p><p><b>外光の感じでは、朝はまだずいぶん早そうである。</b></p><p><b>壁の時計は死角で、見ようと思ったがいきなり動くと啓多を起こしてしまう。</b></p><p><b>しかし朝食もつくりたいし、シャワーをあびて化粧もしたい。</b></p><p><b>それよりなにより、前夜ビールを飲んだせいでつよい尿意を覚えていた。</b></p><p><b>そーっと男の腕から頭をあげ、するりとベッドをぬけ出た。</b></p><p><b>（あら）</b></p><p><b>ひとりで顔をあかくした。まったくなにも身につけていないことに気づいたのだ。</b></p><p><b>おもわずうしろを振り返ると、啓多は腕の負荷がとれたため、自然に体が楽な体勢を要求したのか反対側に寝返りを打っていた。</b></p><p><b>昨夜はへやの明かりの下でそのままはじまっている。</b></p><p><b>何だかへんてこな恰好をとらされたような気もするし、今さら隠してもしかたがない。</b></p><p><b>見られるのは恥ずかしいけれども、見てほしいような、このへんの女の心理はややこしくて、雛菊自身なんだかよくわからない。</b></p><p><b>はだかのまま用をたした。</b></p><p><b>年令的に膀胱の容量があるため、いつおわるのかと思うくらいに時間を要した。</b></p><p><b>食事や睡眠などと同じように、基本的な生理的行為はどれも気もちのよいものだ。</b></p><p><b>くわえて昨夜の行為の感覚がまだ残っているのか、いまだにそのあたりがじーんと甘くしびれているような感じである。</b></p><p><b>きのうから何時間もたっているのに、女の体はずいぶん具合よく作られているものだ。</b></p><p><b>居間のソファーの背もたれが倒されベッドになっていた。</b></p><p><b>そのまわりに啓多と自分の服がちらばっている。</b></p><p><b>啓多が適当にもってきてくれたシーツや薄い掛け布団のおかげで、即席のベッドとしてはじゅうぶんだった。じつは何年か前、ぼんやりとこういう事態になることを期待して、ベッドとしても使えるソファに買いかえておいたのだ。</b></p><p><b>背もたれをかるく前に折って後ろに倒すと、かんたんに平らになる。</b></p><p><b>しかし買ってから一度もその目的で使用したことはなかった。</b></p><p><b>昨夜、夢中になっていて気づかなかったが、啓多がどこかで操作してくれたのだろう。</b></p><p><b>啓多はまえからそれを知っていたのか、それともそのときになって気づいたのか。</b></p><p><b>ともかくソファ兼ベッドは数年の雌伏期間を経て、いちばん肝心なときにその潜在能力の役割をはたしてくれた。</b></p><p><b>いつもより念入りに化粧をするなど、身じたくをすませたあとで朝食の用意をしていると、啓多も起きだしてきてシャワーを浴びはじめた。</b></p><p><b>体調がよく胃袋が健康だと、酒をのんだ翌日の朝というのは、なぜか妙に腹がすく。</b></p><p><b>ほかの人間はどうか知らないが、雛菊自身はそうだったし、啓多もそういう傾向があることを知っていた。はたして啓多はつくった朝食をたべるといってくれた。</b></p><p><b>差しむかいで朝食をとりながら、雛菊はなるべく顔をふせていた。</b></p><p><b>どうにもこうにも、身の置きどころがないほど恥ずかしくてたまらない。</b></p><p><b>同時に、こころの底からふつふつと歓喜がこみ上げてくる。</b></p><p><b>（うふ、とうとう先生としちゃったもんね）</b></p><p><b>ほんとうに現実のことかと、わが身を疑うほどにうれしい。</b></p><p><b>しかし気づかれないようにちらちらと啓多のようすを観察したが、だまって箸をうごかすだけで、表情からはとくべつな感情の変化は読みとれなかった。</b></p><p><b>人生というのは一つ坂をこえると、また次の坂がまっているものである。</b></p><p><b>まてまて、これでぜんぶが思いどおりになるものだろうか、有頂天になるのはまだ早いんじゃないのか、と雛菊は用心深く考えた。</b></p><p><b>せっかくうまいこといったのに、押し売りにまけての一回こっきりではぜんぜん困る。</b></p><p><b>啓多にだってきのうの余韻がまだ残っているはずだから、時間をおいて冷静にならないうちに、言うべきことがあるなら早いほうがいいだろう。</b></p><p><b>しらふの朝で、昨夜のようなのぼせた勢いはない。</b></p><p><b>啓多の顔色をうかがいながらおずおずと、</b></p><p><b>「アノ、けさは、しばらくひなと一緒にいていただけませんでしょうか？」</b></p><p><b>もちろん額面どおり部屋のなかにいるだけという意味ではない。</b></p><p><b>いちど関係した男と女がひとつ部屋のなかにいれば、することは決まっている。</b></p><p><b>きのうのきょうだが、正直何度でもしたい。</b></p><p><b>せめてひざの上にのっけて、チュウくらいはしてほしい。</b></p><p><b>いや行為の内容よりも、そういうことをしたという既成事実の集積が欲しい。</b></p><p><b>啓多はちょっと箸をとめて思案顔になった。</b></p><p><b>そっけなく断られるのだろうかと、どきどきしながら返事をまった。</b></p><p><b>ほかの男と女はどうか知らないが、雛菊にとって啓多は、一回くらいで全面的にあなたの女にしてほしいと言えるような間柄ではない。</b></p><p><b>それに男のほうから動いて、かたちだけでもいいから犯されたような恰好になっているならともかく、酒を飲ませ、色仕掛けでむりやり迫っただけだということは、雛菊もじゅうぶん自覚している。</b></p><p><b>「外来はないけど、病棟をちょっとみてくる。ほかにかたずけたい仕事もあるんだ」</b></p><p><b>やっっぱりだめか、と一瞬思った。</b></p><p><b>「夕方また来るよ」</b></p><p><b>（やったー！）</b></p><p><b>夕方来るということは、今晩も泊まるということである。</b></p><p><b>ひょっとして、陽の明るいうちから女といちゃつくのも気がひけて、わざと仕事をつくったのかもしれない。もちろんそれでじゅうぶん結構だ。</b></p><p><b>夕方くるということは、あしたの朝まで一緒にいられるからもっと結構だ。</b></p><p><b>いままでとはちがって、多少ぞんざいな口調になっているのは、ふたりの関係が、あらたな局面に入ったことを意味する。</b></p><p><b>それは雛菊にとって何年もまち望んできたことだった。</b></p><p><b>雛菊のみるところ、啓多は観念したという感じである。</b></p><p><b>とうとう寄り切られてしまった、とでも思っているのだろう。</b></p><p><b>しかしさばさばとしており、後悔しているという印象はなかった。</b></p><p><b>いちど禁断の木の実を食べてしまえばもうあとへは戻れないし、終わったことをくよくよするタイプではない。</b></p><p><b>「あしたのお着替え、お部屋からとってきます」</b></p><p><b>「ん」</b></p><p><b>啓多は首をみじかくたてに振った。</b></p><p><b>男がじぶんの女にするようなうなづきかたである。まったくそれでいいのだ。</b></p><p><b>「アノ、このお部屋はひながひとりで住むにはもったいないと思うんですけど</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>すっかり手応えを感じてもう一歩ふみこんだ。</b></p><p><b>このさいは多少ずうずうしくじぶんの主張を押しとおしてしまいたい。</b></p><p><b>そもそもふたりの同居生活は、何年もなんら不都合はなかったのである。</b></p><p><b>雛菊が成長して、他人どうしの男と女がおなじ部屋に住めなくなったため、啓多が出ていかざるをえなくなっただけだ。</b></p><p><b>それが解決されれば問題はないはず、今となってはとうぜん同棲してほしい。</b></p><p><b>「私の部屋はひきはらうから、手伝ってよ」</b></p><p><b>啓多のでかたはあっさりしたものだった。</b></p><p><b>「はい！」</b></p><p><b>とんとん拍子とはこのこと、雛菊は天にも昇るような気持ちになった。</b></p><p><b>（あんな殺風景なところはさっさと出てもらわないと）</b></p><p><b>きょう中にでもあらかた部屋の始末をつけて、啓多が帰れなくしてしまおうと思った。</b></p><p><b>手伝うもなにも、機動力のたかい雛菊が本気になれば、引っ越しくらいあっというまの早業でやってしまうことができる。</b></p><p><b>どうせ部屋には、身のまわりの物のほか、生活に必要な最低限の家電などしかない。</b></p><p><b>「なるべくはやく帰ってきてくださるとうれしいです」</b></p><p><b>啓多は湯飲みをかたむけて食後のお茶を飲んでおり、それを理由にするかのように返事をしなかった。</b></p><p><b>急患が入ったり、病棟で患者が急変することもあるだろう。</b></p><p><b>雛菊も確約のとれる返事を期待したわけではない。</b></p><p><b>しかし知らんぷりをして、あんがい希望にそってくれることを経験的に知っていた。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雛菊は啓多を送りだしたあとで、さっそくジーンズにスニーカーなど、働きやすいかっこうで外出準備をはじめた。</b></p><p><b>まっすぐ啓多の部屋へいって、引っ越しの手はずを進めるつもりである。</b></p><p><b>冷蔵庫や洗濯機など、不要なものはリサイクルにもちこむか、粗大ゴミに出す。</b></p><p><b>金まわりは潤沢だから予約がどうとかなど言わせず、札びらを叩いて便利屋など、小回りのきく業者を即刻動員させようと思った。</b></p><p><b>（そうだ、荷物をかたづけたあとで髪をセットしに行こう）</b></p><p><b>頭のなかの計画はめまぐるしくうごいた。</b></p><p><b>啓多の口からじかに聞いたわけではないが、啓多は菊がときどきしていた、ちょっとだけお水風のアップの髪型が好きだったように思われる。</b></p><p><b>タンスのなかに、母親が残したエロ系の下着がいくつかあったことを思いだした。</b></p><p><b>（うふ、うんとセクシーにして、いっぱいかわいがってもらっちゃお）</b></p><p><b>多くの男たちに物欲しそうな目で見られているという自覚がある。</b></p><p><b>啓多だってその衝動を懸念したから別居したのだろう。</b></p><p><b>しかし同時に啓多の心のなかにいる女には、しょせん敵わないとも思っていた。</b></p><p><b>死に別れた女は生きている男にとって、いつまでも年をとらない偶像的存在だろう。</b></p><p><b>自らの年令を重ねるにつれて、さらに美化されるにちがいない。</b></p><p><b>すでに啓多は女が生きた年令をいくつか超えている。</b></p><p><b>それでも雛菊の救いは、その恋がたきがまさにじぶんの母親だということである。</b></p><p><b>このさいはとりあえず啓多に、どうせ菊は帰ってこないし、代わりとして菊の娘でもしかたがない、程度に思ってもらえればじゅうぶんだ。</b></p><p><b>啓多はいつまでも過去を引きずるタイプではない。むしろその正反対だ。</b></p><p><b>どうせ三界に啓多の面倒を見られる人間は、自分をおいてほかにはいない。</b></p><p><b>ちいさなくせも一つひとつぜんぶ知っている。</b></p><p><b>あせらなくても、毎日の生活のなかで少しずつ自分の存在を大きくしていけばよい。　</b></p><p><b>雛菊の人生はまだはじまったばかりで、時間はじゃぶじゃぶとたっぷりある。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雛菊が啓多とすごした日の翌日、朝の出勤時にここもは、病院の職員用出入り口の手前で雛菊とであった。</b></p><p><b>「おはようございます！」</b></p><p><b>雛菊、はつらつと満面の笑みである。</b></p><p><b>「あ、おっはよー」</b></p><p><b>（そっか、今日がひなはんの夏休み最後の日やったな）</b></p><p><b>あしたからしばらくは医学部のほうがいそがしくなるのだろう。</b></p><p><b>（ははん、啓多はんとのことはうまいこといったんやな）</b></p><p><b>ふられた女が朝からこんなに意気揚々としているわけがない。</b></p><p><b>おまけに肩にかかっていた髪型が、うなじをだしたアップにかわっている。</b></p><p><b>あっというまに一皮むけたという感じだ。</b></p><p><b>じつはその日のあさ、雛菊はここもが想像した以上の<ruby>幸便<rp>(</rp><rt>こうびん</rt><rp>)</rp></ruby><b>をつかんでいた。</b></b></p><p><b>啓多といっしょに朝食をとっていたとき、どういう風の吹きまわしか啓多が、</b></p><p><b>「来週末、熱海へいこう」</b></p><p><b>と言いだしたのだ。</b></p><p><b>「土曜の夕方はやめに電車でいって、一泊して日曜の昼までに帰ってくれば、私は午後から仕事にでられる」</b></p><p><b>ほかの人間の感覚ではまったくしょぼくて、せわしない旅行計画かもしれないが、雛菊にとっては望外も望外、じゅうぶんすぎるくらいの仕合わせだ。</b></p><p><b>温泉には菊の生存時に連れて行ってもらったし、中学や高校の修学旅行でもいった。</b></p><p><b>そのときの記憶と想像をつなぎあわせ、蒸し風呂つきの大浴場にはいって、豪華な食事をして、男の腕枕で眠るというたのしい構図が一瞬で頭をよぎった。</b></p><p><b>「適当なホテル予約しておいてよ。畳敷きの和室がいいな」</b></p><p><b>「はい！」</b></p><p><b>そういうわけで雛菊は朝から、鼻歌まじりにスキップをふみそうな上機嫌だったのだ。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>いっぽうここもはリアルタイムよりワンテンポ遅れ、ロッカー室で術衣に着替え中に</b></p><p><b>メールが届いていたことに気づいた。</b></p><p><b>あさ出あった直後に雛菊から打たれたものだ。</b></p><p><b>「来週末温泉旅行に行く予定です。先生のおかげです。ありがとうございました」</b></p><p><b>（若いひとはええなあ）</b></p><p><b>ほんとうはここもだってまだじゅうぶん色つきで、老けこむような年ではない。</b></p><p><b>童顔でぴちぴちした感じだから、地のままでもかるく十歳は若く見えるし、道を歩けばいまでも男たちがふり返ってくれる。</b></p><p><b>しかしここもは、好いた惚れたはもう自分の人生にはないと思っていた。</b></p><p><b>若い者はうらやましいとは思うが、いまの境遇に不満があるわけではない。</b></p><p><b>子どもも三人もいて、なんと長男は雛菊と一つ違いで、来春は医学部受験である。</b></p><p><b>三人もいると、一人くらいミュージシャンになりたいなどと、危なっかしいことを言いだしたり、勉強ぎらいで医学部などおとといおいでというのがいそうなものだ。</b></p><p align="left"><b>しかしここもの息子たちは、三人ともいずれ劣らぬできのよさで、小さいときからまよわず医学部志望である。</b></p><p><b>代々医者の家系だから、自分たちも医者になるのが当然だと思いこんでいるらしい。こういうばあいの思いこみは親にとって不都合ではない。</b></p><p><b>よく高価な装飾品などを自慢げに身につけている人間がいるが、物などいくら高くて</b></p><p><b>もしょせんモノである。人がつくる人の世に、人にまさるものはない。</b></p><p><b>聞かれないかぎりみずから言いふらしたりはしないが、息子たちはなにをおいてもここもの自慢の種だ。これら大切な家族を引き替えにしてまでも、というようなロマンスがやってくるわけがないし望んでもいない。</b></p><p><b>（これで啓多はんも年貢をおさめることになるんやろか）</b></p><p><b>かつては自分をすてた男だが、いまさらわかだまりはもっていない。</b></p><p><b>ここもの心の中だけで、だれにもナイショだが、男としていまでも好きである。</b></p><p><b>ひたすら医療の道だけを突っ走り、自信に満ちているが道に対して真摯で謙虚だ。</b></p><p><b>それは夫の啓矢にも共通の性向だが、ここもの竹を割ったような性格に、そういうわきには目もくれない単純明快な男たちの生きざまがぴったりくる。</b></p><p><b>ながいこと啓多が独りでいることを好もしく思っていた。</b></p><p><b>本当はいつまでもそのままでいて欲しかった。</b></p><p><b>だから雛菊が啓多をつかまえたとすれば、後押しをしたにもかかわらず、嫉妬というほどではないがちょっとだけ複雑な思いがした。　　　　　　　　　　　　　　（了）</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>封印された語、なんだかわかりましたか？</b></p><p><b>&nbsp;</b></p>
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<pubDate>Thu, 13 Jul 2017 17:46:44 +0900</pubDate>
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<title>第３７章</title>
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<![CDATA[ <p><b>「うちでよければひなはんのお悩みとやら、お聞きしまひょ」</b></p><p><b>ここもはこころよく時間をとってくれた。</b></p><p><b>「居酒屋にでもいきますかいな。ひなはんお酒飲めます？」</b></p><p><b>「はい。すこしくらいなら」</b></p><p><b>いくら正直者でも、マジの実力は言えない。</b></p><p><b>ここもはわざと、がやがやまわりがうるさい大衆酒場に雛菊をさそった。</b></p><p><b>みな他人のことは無関心で、自分たちだけでしゃべっている。</b></p><p><b>悩み相談は、<ruby>森閑<rp>(</rp><rt>しんかん</rt><rp>)</rp></ruby><b>とした所ではますます深刻になる。ぶっちゃけた所の方がよい。</b></b></p><p><b>「うちには、男はんとおなごのことはうまくアドバイスでけまへんけどナ」</b></p><p><b>雛菊はまだそっち方面の話とは言っていない。</b></p><p><b>しかし若い女のモンダイといえばそうと相場が決まっている。</b></p><p><b>「院長先生のことですやろか。うまいこといかへんの？」</b></p><p><b>　ここもは初対面のときから、ほかの職員同様、雛菊がむかしのうわさのぬし本人で、とうぜんながら院長の女だと思いこんでいた。</b></p><p><b>伝え聞いた娘の容貌やら、年格好やらもうまちがいない。</b></p><p><b>どうせささいなことで、痴話げんかでもしたのだろうと。</b></p><p><b>ところが、</b></p><p><b>「うまくいくもいかないも、院長先生は初めから私を相手にして下さらないんです」</b></p><p><b>　予想もしなかった意外なこたえ。</b></p><p><b>「えっ、院長先生のええひとは、ひなはんやなかったんでっか。うちらてっきり</b><b>···」</b></p><p><b>ちがうちがうというように雛菊は首を横に振った。</b></p><p><b>「院長先生のことは、ずっとわたしの片思いです」</b></p><p><b>「はあ、なるほど話は聞いてみなけりゃわからんもんでんなー。ほな院長先生が、いっしょに暮らしてはるとかいうおなごはんは、ひなはんとは別のひとですかいな」</b></p><p><b>「それは確かにわたしのことです。</b></p><p><b>だけど、院長先生が部屋を出ていかれたのでいまはべつべつです」</b></p><p><b>「あれ、どうもいまひとつ話が見えまへん。一緒に暮らしてはったのに、ほかされっぱなしというのはどないなことですやろか」</b></p><p><b>ほかすという関西弁は、雛菊は知らなかったが、ほったらかすの関西バージョンだろうと文脈で理解した。</b></p><p><b>「院長先生が好きだったのは、わたしの母です」</b></p><p><b>「あれまあ、<ruby>母娘<rp>(</rp><rt>おやこ</rt><rp>)</rp></ruby><b>で院長先生をとりあっておますのか」</b></b></p><p><b>「母は八年まえになくなりました。それからわたしは院長先生と暮してきました。</b></p><p><b>院長先生はわたしの後見人です」</b></p><p><b>「あ、はあ、そいうことでおましたか。それで話の辻つまがあいました」</b></p><p><b>　要するに雛菊は啓多の元カノの娘、それでそんなに若いのかと、ここもはいままで不思議に思っていたことが腑に落ちた。</b></p><p><b>「後見人、ということは</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>ここもはすこし声を落とした。</b></p><p><b>「ひょっとして、まだえっちもなしやろか」</b></p><p><b>雛菊はほほをあからめてうなずいた。</b></p><p><b>「けど、男はんがひとつ屋根の下で、若いおなごといっしょに暮らして平気でいられるもんでっしゃろか。しかも相手はピカイチや。そこらのおかちめんことちゃいまっせ」</b></p><p><b>ざっくばらんなここもは、思ったとおりの素朴な疑問を口にした。</b></p><p><b>「わたしが子どものときは問題ありませんでしたけど</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>「そやな、けど大きくなって、綺麗になってしもたら、そら厄いわなぁ」</b></p><p><b>　ここもは啓多の女の扱いは人一倍上手であることを知っている。</b></p><p><b>ふたりのあいだに何もないとしたら、男も女ももったいない組み合わせだと思った。</b></p><p><b>「たぶん院長先生は、そんなことが鬱陶しくなって部屋を出られたのだと思います」</b></p><p><b>「そういえば最近、医局の秘書が、院長先生の住所が変わったとか言うとりましたな」</b></p><p><b>「嫌われてはいないと思うんですけど、側においてかわいがっても下さいません」</b></p><p><b>このとき悩んでいる雛菊の姿は、ここもの目には何やら妖しく映った。</b></p><p><b>顔をこちらにねじむけて、つやつやした形のよい唇を吸ってみたい衝動にかられた。</b></p><p><b>ここもは多少そっちの気がある。妄想は一瞬、すぐに現実にもどった。</b></p><p><b>人間あたまのなかではいろいろと妙なことを考えるものである。</b></p><p><b>「何年も片道キップだけ買わされて、そらかわいそうになぁ」</b></p><p><b>実はここもも、二十年もまえに、同じ男に同じような思いをさせられたことがある。</b></p><p><b>そのとき、背後の事情に雛菊の母親が関係していたことは、ここもは知らない。</b></p><p><b>雛菊はまだ生れてもいなかった過去のことだ。</b></p><p><b>ここも、男をとられた女の娘の相談にのるというのは、ある意味おめでたいかも。</b></p><p><b>しかしここもの知らないことだし、これからも知ることはない。</b></p><p><b>「でもひなはんのお話を聞くかぎり、うちは院長先生にはまだ脈がありそうな気がしますけどな。むしろ可能性はバリバリや思いますねん」</b></p><p><b>「えっ、そうでしょうか」</b></p><p><b>「考えてもみなはれ。実の父親と娘なら同居ぐらしでも、おかしなことにはなりまへん。</b></p><p><b>院長先生は、ひなはんが綺麗になって、一緒にいたらどないなるか、自信がなくなったから別れて暮らしてはるんやろ。自信がないということは、その気があるということの裏返しやおまへんか」</b></p><p><b>じつは雛菊もそれはうすうすわかってはいた。</b></p><p><b>成長してからは啓多に、なんどか女を見る目でみられたことことがある。</b></p><p><b>どきっとしたが、いやらしいとは思わなかった。</b></p><p><b>なにかのはずみに啓多が行動をおこしても、こばむ気はなかった。</b></p><p><b>そうして欲しかったのだから、あたりまえだが。</b></p><p><b>「院長先生は、たぶんがまんしてはるのや。ほんまはひなはんのことを憎からず思ても、なくなった恋人の娘はんやから、禁断の間柄みたいになんやうしろめたいものを感じて、前に進めんのやろ」</b></p><p><b>ここもの見立ては、雛菊が日ごろ考えていたことを、そのまま代弁してくれたものと言ってよい。希望的観測ではなかったのだと再認識し、わが意を得たりの思いがした。</b></p><p><b>「先生、わたしは子どものときから院長先生が好きでした。</b></p><p><b>いっしょに暮らすうちにますますその気持はつよくなるばかりです」</b></p><p><b>「あや、ちいさいときからのご執心なんでっか。</b></p><p><b>そらまた院長先生のどこがそんなにお気に召しましてん？」</b></p><p><b>ませた子だとはおもったが、雛菊ならありうることだ。</b></p><p><b>そういえばここも、自分だって少女時代に似たような覚えがないわけではない。</b></p><p><b>「子どものときは漠然とかっこいい人だとしか思っていませんでした。</b></p><p><b>でも院長先生はえらそうにしている人にはキツイけど、病気やよわい立場にある人には急にやさしくなるんです。院長先生はそんな自分に気づいていないと思います」</b></p><p><b>　言われてみると心当たりがある。そうだ、たしかに啓多にはそういう傾向がある。</b></p><p><b>たとえば高い薬で困っている患者などは容易に切り捨てない。</b></p><p><b>製薬会社に掛けあって、治験でなんとかならないかなどとやっている。</b></p><p><b>クールなようであんがい浪花節なのだ。</b></p><p><b>「ふり向いてもらえるような、なにかいいお知恵はありませんでしょうか」</b></p><p><b>「あはは」</b></p><p><b>ここもはからからと笑った。</b></p><p><b>「うちなんかに、そっちのあかぬけた知恵なんかあるわけおまへん。</b></p><p><b>好きな男はんをほいほいものにでけるなら、おなごはだれも苦労しまへんがな」</b></p><p><b>いかにももっともな答えである。どだいここも自身、大失敗の経験がある。</b></p><p><b>おまけにその相手というのが、なにをかいわんや正にいま話題のぬしだ。</b></p><p><b>雛菊がわかりきったことだとため息をつきかけたとき、</b></p><p><b>「けどな、うちがひなはんやったらどないするか言うたら、答えはかんたんや」</b></p><p><b>なにか重要なヒントをもらえそうな気がして、雛菊はこくっとつばをのみくだした。</b></p><p><b>「どうせこのままでは、いつまでたっても平行線のままですやろ。きらわれているならともかくそうやないんやから、うちなら思いきって体当たりでいきますわな」</b></p><p><b>「た、体当たり</b><b>‥</b><b>？」</b></p><p><b>聞きかえしたけれども、理解力のたかい雛菊には文脈から意味が伝わっている。</b></p><p><b>その証拠にほほが染まりかけていた。</b></p><p><b>「ちくと、お耳をかしなはれ」</b></p><p><b>　雛菊はすこし顔をここもに近づけた。</b></p><p><b>「おなごと男はんのことは、あとにも先にも決め手はひとつや。</b></p><p><b>院長先生かて石やカネでできてるわけやおまへん。しょせんは生身の男はんやろ」</b></p><p><b>だれも聞いていないのだが、ここもは声を落として話した。</b></p><p><b>「なんとかうまいこと機会をつくって、おなごを押し売りしてしまいなはれ。</b></p><p><b>ひょっとして、ややでもでけたらもうこっちのもんやで」</b></p><p><b>ひしひそ何か犯罪計画のようなわるい相談でもしているようでドキドキする。</b></p><p><b>「院長先生にお酒でも入っていていたほうが、ベターなんやけどナ。</b></p><p><b>男はんは酔うとエッチになるさかい」</b></p><p><b>ここもは自分がそうだから、男もそうだろうと思いこんでいた。</b></p><p><b>それはまあ、確かにそのとおりなのだが。</b></p><p><b>「そ、そんなことして、院長先生にきらわれませんでしょうか」</b></p><p><b>「どのみちかまってもらえへんのやったらダメモトやおまへんか。</b></p><p><b>おなごは度胸の時代や。ふられたら、朝までわあわあ泣いたらよろしがな」</b></p><p><b>急進的なアドバイスだが説得力があるかも、と雛菊は考えはじめた。</b></p><p><b>しかし男と女のことにはいっさい経験がないので、だいたいの想像はつくのだが、いざとなったらどうすればいいのか今一つ不案内である。</b></p><p><b>渡世のことはブンまわすように得意な雛菊も、唯一その方面はたよりなかった。</b></p><p><b>「アノ、わたし、アレってまだしたことがないんですけど、だいじょうぶでしょうか」</b></p><p><b>雛菊のほほは朱に染まっていた。少女みたいないじらしさ。</b></p><p><b>「あ、そらだいじょぶや。ひなはんは知らへんでも、院長先生は知ってはるさかい」</b></p><p><b>ここもは笑いもせずに答えた。</b></p><p><b>関係のない第三者が聞いていたら、ぷっと吹いてしまったかもしれない。</b></p><p><b>けれどもこの二人の女、タイプはちがっていても基本的にはまじめなほうだから、お互い冗談とは縁が遠い。</b></p><p><b>「うちの見るところ、いまの院長先生にきまったおなごはいてまへん。</b></p><p><b>けどナ、院長先生のようなオイシイ男はんが一人でいれば、いつ虫がつかないともかぎりまへんで。ボサッとしてたら盗られるだけですがな」</b></p><p><b>ここもは雛菊の決心をうながすために、あおりを入れた。</b></p><p><b>「そ、そうですよね」</b></p><p><b>酔いがまわってきたせいもあるが、雛菊は大胆な気持ちになってきた。</b></p><p><b>「うち、なんやひなはんが年のはなれた妹みたいで、かわいく思てますのや。</b></p><p><b>お話きいて院長先生とのこと、うまいこといくとええ思てますねん」</b></p><p><b>実をいうとここも自身、啓多にはなにやら甘酸っぱい感傷をもっている。</b></p><p><b>啓多に女できたとすれば、むかしのいきさつがあるだけに、自分より程度の低い女では釈然としない。しかし雛菊なら納得できるのではないかと思った。</b></p><p><b>「そやそや、もうすぐ院長先生の誕生日や。うちのだんはんと一緒やねん」</b></p><p><b>啓多と啓矢の生年月日が同じというのは雛菊も知っている。</b></p><p><b>「誕生日にからめた納涼会とかいうて、うちのだんはんといっしょに院長先生をひっぱりだしますわ。お酒のまして、そのあとはひなはんが送っていきなはれ。</b></p><p><b>なにかせえへんと事態は進展しまへんで」</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>もうすぐ雛菊の夏休みが終わる。</b></p><p><b>その日は啓多と啓矢の三十七回目の誕生日で、都合よく土曜日だった。</b></p><p><b>ついでにここもも、もう数ヶ月すると彼らとおなじ年になる。</b></p><p><b>ここもの発案で名目的な理由をいろいろくっつけ、誕生祝い、けん納涼会、けん雛菊の研修の慰労会をやろうということになった。</b></p><p><b>要するに身内で、暑気払いに一杯飲もうじゃないかというわけだ。</b></p><p><b>メンバーは啓多、啓矢、ここも、そして雛菊の四人である。</b></p><p><b>みな和食がいいというので、ここもは医局の医者に聞いたりネットで調べたりして、値段のわりにうまいという評判の料亭を予約した。</b></p><p><b>金回りのいい連中だから、勘定は気にしていないのだが、高くてまずければ不愉快だ。</b></p><p><b>筧のある日本庭園を見ながらの夕食はなかなかオツなものである。</b></p><p><b>つぎつぎと豪華な料理が運ばれてきた。</b></p><p><b>なるほど評判どおり、味にシビアな雛菊の舌でもそれなりのものだった。</b></p><p><b>夏は生ビールもうまいし冷酒もうまい。</b></p><p><b>雛菊もほんのちびちび舌をうるおすていどに飲んだ。</b></p><p><b>うっかり飲みすぎて、じぶんまで酔ってしまっては困る事情がある。</b></p><p><b>おなじ仕事場の人間だから、まいにちの診療のことや、医療に関する時事問題など、共通の話題はいくらでもある。</b></p><p><b>いまや雛菊も病院の事情はざっと一渡りわかっているし、医学部にはいってまだ数ヶ月だが、すでに中学時代から医学書もたくさん読んだ。</b></p><p><b>そこそこ医者たちの会話に参加できるようになっている。</b></p><p><b>基礎知識がしっかりしているので、だまって聞いているうちに、</b></p><p><b>（ははあ、あのことだわ）</b></p><p><b>とおおかたの見当がつくこともあった。</b></p><p><b>「うわさの雷蔵君だがね、顕微鏡を使ってるんで何してるかと思ったら、飛ばした指をくっつけてた。鼻歌まじりで、あれでまだ二年目なんだから恐れ入ったよ」</b></p><p><b>「ふふふ、そんなもんわしゃ教えとらんぜ。一人でなんでもやっちまうのさ」</b></p><p><b>　子飼いの雷蔵が活躍することは、啓矢にとっても愉快なことだ。</b></p><p><b>「今日で五日目だけど、色がいいからありゃくっつくな」</b></p><p><b>「わしがやっとったら落としたかもな。追い越されそうでウカウカしとれんよ」</b></p><p><b>ガハハと啓矢はくったくなく笑った。言葉とはうらはらにまだまだ余裕だが。</b></p><p><b>「奥さんのナナコはんてかわいいわね。ひなはんの二つ上なのね」</b></p><p><b>「はい、でももうはや赤ちゃんにめぐまれたんですもの。羨ましいですわ」</b></p><p><b>　ナナコはこの夏、子育て真っ最中で病院には顔を出していない。</b></p><p><b>うらやましいという具体的な意味はここもはもちろん分かっているが、男たちの手前、女の一般的願望として聞き流した。</b></p><p><b>話ははずみ宴はたけなわ、みな好き勝手にぱくぱくたべて、かつ飲んだ。</b></p><p><b>「ところでよ、アンタらただの知り合いみたいなこというけどさ、額面どおりかいのー」</b></p><p><b>「啓矢はん、そんなこと聞いたらあかんよ。ひなはんが困るやないの」</b></p><p><b>「そうはいってもナ、ひなちゃんのここに～」</b></p><p><b>啓矢は、自分のひたいを右手の人さし指でちょんちょんとつついた。</b></p><p><b>「院長先生スキ、と書いてあるじゃないの」</b></p><p><b>雛菊は、ぱあっとほほを染め、顔を隠すようにうつむいた。啓多は苦笑いである。</b></p><p><b>「ほーら見ろ、赤くなったじゃないの～。病院中みなそう思っているわい。</b></p><p><b>ひなちゃんいいかげん白状したらどうじゃ」</b></p><p><b>啓矢は雛菊の顔をのぞきこむふりをしてひやかした。</b></p><p><b>「ちょっと～、ひなはんをいじめたらあかんてー」</b></p><p><b>ここもはかるくにぎったこぶしで、啓矢をぶつまねをした。</b></p><p><b>しかし、客観的には啓矢のいうとおりである。</b></p><p><b>おしぼりを開いて渡したり、小皿に醤油をついだりなどこまめに面倒をみるしぐさをみれば、よほどのボケでないかぎり、雛菊の啓多に対する感情はバレバレである。</b></p><p><b>いっぽう雛菊は、啓矢の様子から、ここもが数日前に自分と会ったということを夫にすらリークしなかったということを知った。やっぱり頼れるひとだと思った。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>四人は、ほどよくできあがって料亭を出た。</b></p><p><b>啓矢とここも、啓多と雛菊の組み合わせで、二台のハイヤーに分乗した。</b></p><p><b>その直前、ここもは男たちに気づかれないように雛菊に耳打ちした。</b></p><p><b>「あんじょうやりなはれ。今日びのおなごはここやで」</b></p><p><b>ここもはかるくにぎったこぶしで、自分の胸をとんとんした。</b></p><p><b>女は度胸という意味である。</b></p><p><b>いざというとき気後れしないようにネジを締め直したのだ。</b></p><p><b>もとよりそのつもり、雛菊はこくんとうなづいた。</b></p><p><b>啓多は女たちのたくらみは夢にも知らない。</b></p><p><b>雛菊を送って、そのまま同じ車で自分の部屋に帰るつもりだった。</b></p><p><b>「運転手さんすみません、ここでけっこうです」</b></p><p><b>雛菊は部屋の近くで車をとめさせた。啓多は車に残ろうとしたが、</b></p><p><b>「きょうは先生のお誕生会ということだったので、よい機会と思いプレゼントを用意しました。お渡ししますからお寄りになってください」</b></p><p><b>雛菊はさっさとカードで精算をすませ、啓多の手を引くようにして車から降ろした。ここもがそこにいたら、かつての自分をフラッシュバックして、その調子その調子と</b></p><p><b>エールを送っただろう。</b></p><p><b>部屋は繁華街を通る幹線道路の路地をすこし入ったところにあり、通りは深夜まで交通量がおおく、次の車を拾うのはむずかしくない。</b></p><p><b>啓多にとって数ヶ月まえまで雛菊といっしょにいたところであるが、いったん出てしまうと、他人のねぐらという感じでいささか抵抗を感じる。</b></p><p><b>しかも夜間に、若い女がひとりで住んでいる部屋だ。</b></p><p><b>成年までにまだ多少の月日はあるが、雛菊はすでに独立した成人女性と変わらない。</b></p><p><b>経済的にも問題ないし、何よりそう遠くない将来、自分自身が大口の生産者となる。</b></p><p><b>今すぐにでも、だれとつきあおうが結婚しようが雛菊の自由で、なんの不都合もない。</b></p><p><b>啓多は身のまわりの荷物をもって出たあと、雛菊のものとなった部屋にはもう入ることはないだろうと思っていた。</b></p><p><b>「せっかくだから、プレゼントだけありがたく頂戴するよ。</b></p><p><b>私はここでまっているから取ってきて」</b></p><p><b>啓多はマンションの前でいったん佇んだ。</b></p><p><b>ふだんの雛菊なら素直に啓多の言葉にしたがっただろう。</b></p><p><b>しかし今日の雛菊には、あっさりと引き下がれないワケがある。</b></p><p><b>「そんな他人行儀のことおっしゃらず、ちょっとだけお寄りくださいましな。</b></p><p><b>少し前まで先生がお住まいになっていたところじゃありませんか」</b></p><p><b>そう言われてみればそのとおりである。</b></p><p><b>一回こっきりのことだし、へんにこだわるのもかえっておかしい。</b></p><p><b>男が女を誘っているならともかく、男はじぶんで、誘っている相手は小娘である。</b></p><p><b>かたちだけ立ちよって、そうそうに品物を受けとって帰ればいいのだ。</b></p><p><b>結局、啓多はあがりかまちで靴をぬぐことになった。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>とっくに日が落ちているのに、ヒートアイランドになっている大都市の部屋の中は、日中のビルやアスファルトの<ruby>輻射熱<rp>(</rp><rt>ふくしゃねつ</rt><rp>)</rp></ruby><b>が溜まって、蒸し風呂に入ったように暑かった。</b></b></p><p><b>もわっとしたこの暑さが、啓多の水分への生理的欲求を喚起した。</b></p><p><b>酒席で飲んだのは、ほとんどアルコール飲料だから席を立つとき利尿され、体液成分としてはかるい脱水をおこしていたともいえる。</b></p><p><b>そこへまるでその気持ちを読んだかのように、</b></p><p><b>「お寄りになったときのために、先生のお好きなＭビールを用意しておきました」</b></p><p><b>さっき飲んだばかりなのに、再び冷たいビールの喉ごしの感触が脳裏をよぎった。</b></p><p><b>まだべろべろに酔ったわけではない。</b></p><p><b>いつも夜中まで活動する啓多にとってはそんなにおそい時間でもなかった。</b></p><p><b>誘われるまま、ビールの一本くらいなら飲みたしてもいいかなと思った。</b></p><p><b>一本といっても、雛菊が用意するのはいつも取りまわしのよい中瓶だ。ちょうど適量。</b></p><p><b>雛菊のことだから、グラスは冷凍庫に入れてキンキンに冷やしておいてるに違いない。啓多は霜のついたグラスの感触が好きだった。</b></p><p><b>雛菊はキッチンの冷蔵庫に向かいながら、空調のリモコンスイッチを入れた。</b></p><p><b>無音のエアコンから、冷たさを感じさせない涼気がふわーっと降りてきて、じきに部屋の中のいごこちは改善された。</b></p><p><b>啓多が期待したとおり雛菊は、たっぷりと霜のついたビールグラス二つと、ほどほどに冷えていそうなビンを持ってきて、ソファの前のテーブルの上においた。</b></p><p><b>ビール自体はあまり冷やしすぎると味がしなくなる。</b></p><p><b>ピクルスなどちょっとしたつまみをつけた。</b></p><p><b>「あらためてお誕生日おめでとうございます」</b></p><p><b>「ひなさんもお手伝いごくろうさんでした」</b></p><p><b>ふたりはテーブルをはさんで、カチリとグラスをあわせた。</b></p><p><b>啓多はグラスを傾け、テレビのコマーシャルのようにごくごくと半分近くまで飲んだ。</b></p><p><b>「ふー、うまい。やっぱり夏はビールだねえ」</b></p><p><b>一見おっさんくさい動作のようだが、雛菊はそうは思わなかった。</b></p><p><b>こんなふうに気持ちよく飲んでもらえると、用意したほうとしてもはりあいがある。</b></p><p><b>三十七歳というと世間では、若いようなそうでないような微妙な年令である。</b></p><p><b>しかし雛菊の目には、啓多がはじめて出あったときの、さっそうとした青年とあまりかわっていないように映った。</b></p><p><b>病院に二人の来客があって、医局で啓多が応対したとき、たまたま雛菊もその場に居合わせたことがある。地元医師会重鎮のなにがしとやらが、全国医師会会長の選挙に出馬するとかで、選挙対策委員たちが立候補のあいさつ回りにきたのだという。</b></p><p><b>理事長不在で、代わりにでた啓多を、かれらはあきらかに見くびっていた。</b></p><p><b>いちおう言葉使いや態度は慇懃だが、かた頬に薄ら笑いをうかべ、研修医に毛の生えたような若造に用はないから、はやく責任者を呼んでこいといった雰囲気が感じられた。</b></p><p><b>「えっ、院長先生様でございますか。こ、これは失礼いたしました」</b></p><p><b>　先生に様をつけるのは二重敬語で返って失礼である。</b></p><p><b>相手の身分がわかってあわてる態度が愉快愉快。</b></p><p><b>雛菊はじぶんがなにか面目をほどこしたような気分になったものである。</b></p><p><b>「病院ではすっかり人気者のようだねえ。麻酔に興味をもったようだけど</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>「はい、せっかくここも先生に教えていただけるので、とりあえず麻酔からと思います」</b></p><p><b>「そりゃいいね。将来何をやるにしろ無駄にならない」</b></p><p><b>　雛菊には、その意味がよくわかっている。</b></p><p><b>「でも、ほかもいろいろ面白そうで、あれもこれもと目移り状態です」</b></p><p><b>「わかるな～その気もち。医療はどれも面白いよね。</b></p><p><b>学生時代、眼科なんかも実習でまわると、半分本気でやりたくなったもんな」</b></p><p><b>「デルマや形成などはマイナーすぎて、病院に貢献しませんでしょうか？」</b></p><p><b>　雛菊、すでに経営者側の発想になっている。</b></p><p><b>デルマというのはダーマトロジーの略で、皮膚科のことである。</b></p><p><b>医者はこう言うが、なぜかナースなどパラメディカルの人間には使われない言葉だ。</b></p><p><b>形成というのは形成外科のことである。</b></p><p><b>「何科だろうとひなさんがやれば病院の看板になって、たちまち収益部門になるさ。</b></p><p><b>実地で二三年やったら、なんでも好きな科を立ち上げてバリバリやってよ」</b></p><p><b>「そんなにはやく、ですか？」</b></p><p><b>「ここもだってそうだったさ。それまで麻酔科なんてなかったもの。</b></p><p><b>ふつうのボンクラ学生は、ライセンスをとるだけで手いっぱいで、そこそこできあがるのに卒後十年もかかるのが相場かもしれんけどね。私はそういう眠たい人たちと話をしているつもりはないんだがねえ」</b></p><p><b>啓多は雛菊がいつから医学を勉強しているかは知らないが、きっとなにかそれなりのことをしているにちがいないと思っていた。</b></p><p><b>雷蔵医師は男だし出来すぎだが、あれほどではないにせよ啓多にとっては、雛菊が卒業時点で即戦力になるということは当たりまえのことであった。</b></p><p><b>いったん部屋に入ってしまえば慣れた空間だし、永年いっしょに暮らした相手である。</b></p><p><b>すぐに違和感はなくなった。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>少しだけのつもりだったが、Ｓ病院での診療のことや雛菊の医学部でのようすなどを話題にしながらもりあがり、啓多は意外に飲んだ。</b></p><p><b>啓多のグラスのつぎ足しをしながら、雛菊もちょこちょこ半口くらいずつ飲んだ。</b></p><p><b>ふだん無口なふたりがこんなに話しこむのもめずらしい。</b></p><p><b>雛菊が成長して、啓多とおなじ世界に住むようになったことが大きな要因である。</b></p><p><b>ふたりとも、インフォメーションのない世間話はしないたちだから、雛菊が医学部に入るまでは接点がなかった。</b></p><p><b>医療の世界は話題も情報も浜辺の砂のごとくにある。尽きないし飽きない。</b></p><p><b>いつのまにかテーブルの上に空きビンが二本ならんだ。</b></p><p><b>中ビン二本で一リットル、納涼会とあわせてけっこうな量である。</b></p><p><b>もちろん飲んだのはほとんど啓多だが、酒の量は気分と体調でずいぶん変わる。</b></p><p><b>多少時間がかかっているし、トイレにも立ったので代謝され、もうちょっとくらいなら飲めるかもという状態だった。</b></p><p><b>「あすは先生もフリーでのお仕事でございましょう。すこしお酔いになられたようだし、今宵はお泊まりになって、あしたはゆるゆるとご出勤なされたらいかがでしょう」</b></p><p><b>言いながら雛菊はビールの調達のために立ち上がった。</b></p><p><b>「うん、まあ帰ることは帰りますがね</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>この場合“あした”はやや古い表現で、現代語の朝、英語のモーニングの意味である。</b></p><p><b>雛菊の個人言語で、啓多以外の人間には通じないことが多い。</b></p><p><b>雛菊が明日と言いたいときは、“あす”ということを啓多は知っていた。</b></p><p><b>三本目のビンをもってきたさいに、雛菊はさりげなく啓多の横にすわりなおしたが、ふわりとした優雅な動作のため、近寄ってこられても不自然という感じがしなかった</b></p><p><b>高級酒場のホステスみたいに、しなやかな手つきでビールをついだ。</b></p><p><b>　この方面の商売でもいい飯が食えそうである。もったいなさすぎるが。　</b></p><p><b>さっきから視界のどこかで、妙に意識を喚起するなま白いものがちらちらしている。</b></p><p><b>横に座られて今はっきり認識した。ミニスカのすそがつれて、太ももが露出している。</b></p><p><b>（あれ、着がえたのかな）</b></p><p><b>一瞬思った。しかしそんな時間はなかったはずである。</b></p><p><b>（ああそうか、ストッキングを脱いだだけか）</b></p><p><b>部屋にはいって、すぐに脱いだのだろうが気づかなかった。</b></p><p><b>みんなと一緒のときは、ダークブラウンのストッキングをはいていたから、バックス</b></p><p><b>キンのミニスカとのコントラストが目立たず、とくに露出が多いという印象はなかった。</b></p><p><b>若い女の、それも雛菊の太ももだから、ことさらヤバイ感じになっているに違いない。</b></p><p><b>酒が入っているし、妙な気持ちになりたくないので、なるべく直視を避けていた。</b></p><p><b>しかし見るつもりがなくても、グラスに手をのばすなど、自然な動作のなかで視界の端にはいってしまう。雛菊の生脚をこんなに近くで見たことはない。</b></p><p><b>案の定というか予想以上である。ねっとりと脂がのってはちきれそうな太ももは、ふつうの男はとてもじゃないが平静ではいられないだろう。</b></p><p><b>足の爪が白い皮膚を背景に、あざやかなローズレッドに染められていた。</b></p><p><b>蛍光ラメが入っているらしく、照明の下でキラキラと反射する。</b></p><p><b>（ハテ、この娘にこんなケバい趣味があったっけ）</b></p><p><b>手の爪も染められてはいるが、いつものように透明にちかい淡いピンクである。</b></p><p><b>足の爪もおなじ色ならいつもの雛菊でどうということはない。</b></p><p><b>菊と同様、なにか啓多の知らなかった雛菊の一面をみせられたような気がする。</b></p><p><b>酔っているせいでそう思うのだろうか。</b></p><p><b>（しかしどっちにしても、おれには関係のないことさ）</b></p><p><b>いずれ雛菊には男ができるだろうし、すでに別居して後見人とは名ばかりだ。</b></p><p><b>たしかに、生前の母親をほうふつとさせるいい女だが、自分としては雛菊の人生をどうこうするつもりは毛頭ない。つかずはなれずの距離をおいて見まもるだけだ。</b></p><p><b>そうおのれに言い聞かせていた。</b></p><p><b>微妙である。</b></p><p><b>言い聞かせるということは、そうしなければならない事情が皆無ではないということを意味するからだ。が、この時点ではまだ啓多の自制はじゅうぶんに機能していた。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>帰るとは言ったものの空間になじみ、正直腰をあげるのがおっくうになってきた。</b></p><p><b>一晩くらい帰らなくてもいいかなと思いはじめた。</b></p><p><b>部屋は出ていったときのままで、啓多の寝るところももちろんある。</b></p><p><b>なんならソファのうえでごろ寝だってかまわない。</b></p><p><b>朝になったらそのまま出勤し、シャワーを浴びて白衣に着かえればいいだけだ。</b></p><p><b>酌をする女のレベルがひくいと、場末の安バーという感じになるが、いまは部分的にはインドのマハラジャが、宮殿随一の接待姫をはべらせている図である。</b></p><p><b>いちど、あちこちの医療機関でさっぱりはかのいかなかった症例に、目からウロコのような診断をつけて治してやったことがある。</b></p><p><b>患者は市議会議員とやらで、うっとうしいことに、快気祝いをやるから出席してくれと拝みたおされるようにさそわれた。</b></p><p><b>「先生が主賓ですから、来てくださらないと私としてはかっこうがつきません」</b></p><p><b>おまえのかっこうなんか知ったことか、と言いたいところだが、経営者側にいる立場としては、気にくわなくても影響力のつよい人間だから断りきれず、結局二次会に銀座の店につれていかれるはめになった。</b></p><p><b>場所がら、女たちの見てくれはまあそれなりではあるが、ついしょうの笑いと空虚な言葉だけがいきかう所で、また行きたいとは思わなかった。</b></p><p><b>まるで住む世界のちがう女たちと、なんの関係もない話をしてな～にが面白い？</b></p><p><b>酌をする女が雛菊なら<ruby>挙措<rp>(</rp><rt>きょそ</rt><rp>)</rp></ruby><b>洗練にして共通の話題も豊富、酒席の接待としてありうる最高級である。啓多はくったくなく上機嫌で飲んでいた。</b></b></p><p><b>「それでさ、そのばあさん、サポを内服薬とまちがえて飲んじまったんだよ」</b></p><p><b>サポとはサポジトリーの略で、座薬のことだがうっかり言ってしまった。</b></p><p><b>さいわい雛菊には通じている</b></p><p><b>「おやまあ。あんな大きくてへんなかたちのものをよく飲めましたねえ」</b></p><p><b>「若い者でもなし、そのままじゃ飲めないよ。</b></p><p><b>だからさ、包丁とまな板をもちだして二つ三つにバラしてから飲んだんだって」</b></p><p><b>二人にはめずらしいことに、腹をかかえるようにして笑った。</b></p><p><b>なにが可笑しいのか、あとで考えてみると意味不明である。</b></p><p><b>しらふの時にはどうもない話題が、場の雰囲気で、そのときはじゅうぶん面白かった。</b></p><p><b>雛菊が、啓多のまえで脚をくんだりするようなことはしない。</b></p><p><b>はじめはきちんと膝をそろえ、つれたスカートのすそもなるべくもとに戻していた。</b></p><p><b>しかし彫像のように動かないわけではなし、どうかするとさりげない動作のなかで、</b></p><p><b>太ももが露出した。談笑しているうちに、ほとんど脚のつけねまでまくれてしまった。雛菊はそれに気づかなかった。いや気づかないふりをしていた。</b></p><p><b>さらに、いつのまにかシャツのボタンも一個多くはずされていた。</b></p><p><b>きゅうくつそうにぴたりとあわさった胸元の谷間がみえている。</b></p><p><b>雛菊がビールをつぐなど、ちょっとかがむ動作をすると、両側のもっこりにはさまれてその谷間が強調される。</b></p><p><b>ふだんは貞淑清純を絵に描いたような娘なのに、今はからだじゅうからトロ～リと蜜が垂れてくるようにエロい。いやらしくさえある。</b></p><p><b>十年もいっしょにいたが、ここにきてやっと女の本性が見えてきたような気がする。</b></p><p><b>（やっぱり菊さんの娘だな）</b></p><p><b>　もちろんわるい意味ではない。啓多なりの最高の賛辞。</b></p><p><b>しかし事ここに至ってもまだ、雛菊の意図的なお色気攻撃に気づいていなかった。</b></p><p><b>ふつうならそろそろ危ない気配を感知するはずだが、いまは雛菊が身にまとっている、ピンク色の空気に包まれているのが心地よくて、警戒感がわかなかった。</b></p><p><b>女が男を警戒するならわかるが、大の男が小娘あいてにというのもおかしな話である。</b></p><p><b>このばあいはもちろん腕力がどうとかではなくて、いい寄られたら相手を心情的に傷つけず、どうやってかわそうかということだ。</b></p><p><b>二人の特殊な人間関係が、そういう奇妙な逆転現象をつくりだしていた。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>もりあがった話が一段落したとき、</b></p><p><b>「そうそう、忘れないうちにプレゼントをお渡しします」</b></p><p><b>雛菊は立ちあがって、縦に長い箱の品物をもってきた。</b></p><p><b>テーブルの上において手ずから包みをといた。</b></p><p><b>「月並みかもしれませんがネクタイです。お気に召して戴けると嬉しいんですけれど」</b></p><p><b>明るい緑の地に、赤と金の細いストライブが斜にはいり、濃いネイビーブルーのメーカーロゴがアクセントになっている。</b></p><p><b>清新でスポーティだが、ブランドものだけにそれなりの品格がある。</b></p><p><b>雛菊はこういうものを選ぶのがじつにじょうずだ。</b></p><p><b>「ほう、いい感じだね」</b></p><p><b>「ちょっと試着してみてください。ひながしてさしあげましょう」</b></p><p><b>雛菊は啓多が見られるように手鏡も用意していた。</b></p><p><b>ネクタイは小物だから見ればわかる品物である。</b></p><p><b>試着などたいして意味がない。かもしれないが、そのときの啓多は深く考えなかった。</b></p><p><b>雛菊がそうしろというから素直にしたがっただけだ。</b></p><p><b>なんでもこの利口な娘のいうとおりにしていればまちがいない。</b></p><p><b>啓多のネクタイは、リラックスするために緩められていた。</b></p><p><b>ふつうだらしない格好というべきだが、啓多だと雛菊の目にはかえって粋に映る。</b></p><p><b>雛菊は太ももをこすりつけるようにしてにじり寄り、ネクタイに手をかけた。</b></p><p><b>プレゼントにネクタイを選んだのは漠然とではない。</b></p><p><b>こういう事態を想定した意図的なものだったのだ。</b></p><p><b>同居していたとき、啓多のうしろから上着を着せたりするようなことはよくあったが、正面からこんなに接近したことはない。</b></p><p><b>ここまでは啓多は違和感をもたず、かるくあごをあげて雛菊のするにまかせていた。</b></p><p><b>若い女のからだの匂いと化粧とがあいまって、なんともいい香りがする。</b></p><p><b>雛菊が、あらたにプレゼントのネクタイを啓多の首に巻きつけようとして手をまわすと、啓多の首に抱きつくようなかっこうになった。</b></p><p><b>普段の雛菊なら、そうしなければならないとしても、もっと遠慮気味にする筈である。</b></p><p><b>いまは遠慮どころか十分下心をもって、からみつくがごとくねっとりした動作だった。のしっと乳房をおしつけかねない体勢である。</b></p><p><b>雛菊は内心、そのまま啓多が衝動的な行動をおこしてくれることを期待していた。</b></p><p><b>押したおして、そのまま犯したってかまわない。</b></p><p><b>かまわないじゃなくて、だんぜんそうして欲しい。</b></p><p><b>男の個人空間のなかに、これほど侵入したことは初めてである。</b></p><p><b>女ながら雛菊は、これまで経験したことがないほど激しくもよおしていた。</b></p><p><b>しょせん啓多も男である。</b></p><p><b>女と至近距離でこんなことをしていれば、さすがにただではすまない。</b></p><p><b>ようやくあれっと異常感を覚えて目線をおろしたとき、逆に上目づかいをした雛菊と目線が合ってしまった。</b></p><p><b>実際はわずか数秒にすぎなかったが、重苦しく微妙な沈黙がふたりを支配した。</b></p><p><b>ながいまつげがすがりつくように見つめている。</b></p><p><b>ルージュを引いたくちびるが、濡れたように光っていた。</b></p><p><b>男にとってもはや避けがたい流れになった。</b></p><p><b>啓多はわれしらず、磁石に吸いつけられるように女とくちびるを合わせてしまった。</b></p><p><b>雛菊にとっては初めてのことだが、べつに難しいことではない。</b></p><p><b>まして男のほうは啓多だから、されるにまかせておけばいいだけである。　</b></p><p><b>（すてき～）</b></p><p><b>あまりここちよさに、雛菊はじぶんが溶けてしまうような錯覚に陥った。</b></p><p><b>いつまでもそうしていたかった。</b></p><p><b>しかし、啓多からすべての自制がなくなっていたわけではなかった。</b></p><p><b>ほどほど雛菊をたのしませてから唇を離した。</b></p><p><b>つい場のなりゆきでそうしてしまったが、啓多にそれ以上のことをする気はない。</b></p><p><b>いったんからだが離れたらそれで終わりのはずだった。</b></p><p><b>まあ酒の上でのことだから、これくらいならお<ruby>戯<rp>(</rp><rt>たわむ</rt><rp>)</rp></ruby><b>れの許容範囲内である。</b></b></p><p><b>しらふにもどったら、そんなこともあったかと、しらばくれてすませられる程度だ。</b></p><p><b>ところが事態は啓多の思わぬ方向へうごいた。</b></p><p><b>つぎの瞬間、雛菊はすっと立ちあがって後ろ向きになり、つるんとスカートの下のものを脱いでしまったのだ。</b></p><p><b>かがんだとき、一瞬スカートがつれて、尻の一部が露出した。</b></p><p><b>本人はわざと見せるつもりではなかったが、結果的にそうなってしまった。</b></p><p><b>しかしこれがかえって刺激的だった。</b></p><p><b>くわえて、雛菊はふり向きざまこんなものいらないというように、そのちいさな布きれを、肩ごしにポイとうしろへ投げすててしまった。</b></p><p><b>洋もののバイオレンス映画にでてくるスパイ女ならいざしらず、ふだんお姫様然としてそそとした立ち振る舞いの雛菊には、まったく似つかわしくないしぐさだった。</b></p><p><b>唇だけでは納得できません、というつよい意思表示である。</b></p><p><b>女の豹変にさすがの啓多も一瞬気をのまれてしまった。</b></p><p><b>そのスキに、雛菊は啓多を押し倒すように抱きついた。</b></p><p><b>相手は一見柔和なやさ男だが、実際は並みより<ruby>膂力<rp>(</rp><rt>りょりょく</rt><rp>)</rp></ruby><b>のつよい男である。</b></b></p><p><b>突きはなされることを心配して、ありったけの力でしがみついた。　　</b></p><p><b>たとえ拒絶されようとも、ぜったいに離すもんかという勢いである。</b></p>
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<pubDate>Mon, 10 Jul 2017 11:20:45 +0900</pubDate>
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<title>第３６章</title>
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<![CDATA[ <p><b>啓多は、雛菊がＴ女子医大に行くことになったことは本人の口から聞いた。</b></p><p><b>Ｔ大じゃないのかとちらりと思ったが、あとで祖父母から連絡があり、授業料免除を知ってそういうことかと納得した。もっともそれは雛菊の真意とは見当違いの納得だが。</b></p><p><b>雛菊が留年したり、国家試験を落としたりなどということはありえない。</b></p><p><b>啓多にも覚えがあるが、長い道のりのようでも歩きだせばはやいもので、一年また一年と進級しているうちにあっという間に卒業してしまう。</b></p><p><b>十八歳は年令的にもまず一人前、医大生として社会的にも認められる身分だし、人生の一つのくぎりを口実に、今が別居を言いだすチャンスである。</b></p><p><b>医学部の入学式があった数日後の夜、啓多は食事のあと酒を飲みながら、かねて懸案の話を切りだした。</b></p><p><b>「ひなさんも医大生になってもうりっぱな大人だ。　</b></p><p><b>後見人と同居する必要もないでしょ。私はこの部屋を出てほかに借りようと思う」</b></p><p><b>一人暮らしに逆戻りだが、衣食住には頓着しないし、半永久的に病院暮らしである。</b></p><p><b>もちろん部屋に帰ってきたとき、雛菊がいてくれるような快適さは望むべくもないが、</b></p><p><b>雛菊に引導を渡す以上、それは手前勝手な贅沢というものである。</b></p><p><b>わかっていたことだが、雛菊の反応はやはり予想されたものがあった。</b></p><p><b>みるみる表情がこわばり血の気が引いていった。</b></p><p><b>しかし寝耳に水というほどではない。</b></p><p><b>うすうすそんな日が来るかもしれないと、なんとなく気配は感じていただろう。</b></p><p><b>やっぱりそうなのかという表情が顔の片隅にちらりと浮かんだ。</b></p><p><b>「アノ、ひなは先生に捨てられるのでしょうか」</b></p><p><b>　すんなりとは諦めきれず、多少の抵抗を示した。</b></p><p><b>「捨てるだなんて、そんなおおげさな。私はひなさんの後見人だから、なにかあったらいつでも相談にのるさ。けど十八にもなった女と夫でもない男が、一つ屋根の下で暮らすなんて不自然だよ」</b></p><p><b>それじゃ、ちゃんと奥さんにしてください、と雛菊はなんぼか言いたかっただろう。</b></p><p><b>いや妻でなくても、妾けん家政婦のような立場でもよい。</b></p><p><b>普段の雛菊から察する限り、一緒にいられるなら何だって構わないという感じである。しかし啓多はそのスキを与えないようにした。</b></p><p><b>「じつはもう部屋に心当りがあるんで、こんどの日曜にでもそっちへ移るつもりなんだ。手伝ってくれないかな」</b></p><p><b>「はい</b><b>‥</b><b>」</b></p><p><b>しかたなく消極的にうなづいた。</b></p><p><b>「受験も終わったことだし、なにか好きに遊んで、一息ついたら病院に医療の実習にくるのがいいと思うね」</b></p><p><b>別れ話だけだと場の雰囲気が保てないので、具体的な提案をして話の方向をかえた。</b></p><p><b>「医学部でライセンスをとるだけじゃ寒いよ。</b></p><p><b>内科なら私が教えてあげられるし、外科なら私の兄弟、麻酔なら兄弟の奥さんだ。</b></p><p><b>ほかにも病院には師匠になれるいい医者がたくさんいる」</b></p><p><b>若い者にはあたらしい生活の希望や目標をあたえて、やる気をおこさせれば、うしろ向きの気分も緩和されるにちがいない。</b></p><p><b>「病院に来れば、いろんな人にも出あえて世の中が広がると思う。</b></p><p><b>いつまでも狭い世界で、私一人にかかずらっていてはいけないね」</b></p><p><b><ruby>諭<rp>(</rp><rt>さと</rt><rp>)</rp></ruby><b>されて、雛菊は凍りついた表情をすこしやわらげた。</b></b></p><p><b>納得したというより、いったん諦めたのだろう。こくんと首をたてに振った。</b></p><p><b>「あの、ひとつだけお願いをきいてください」</b></p><p><b>「ふむ、なんだい」</b></p><p><b>「先生がお部屋を借りたら、先生のお世話をする<ruby>女<rp>(</rp><rt>ひと</rt><rp>)</rp></ruby><b>があらわれるまで、ときどきお掃除とかお洗濯をさせてください。先生はお帰りが遅いし、お部屋にいないときに行きますから、それならいいでしょう」</b></b></p><p><b>「ああ、それはありがたいね。けど医学部は忙しいから、時間のあいた時でいいからね」</b></p><p><b>今はくすぶっていても、そのうち男でもできれば部屋には来なくなるだろうと思った。</b></p><p><b>とりあえず面倒な別れ話をかたつけ、やれやれとホッとした。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>医学部はまだ始まらず、遊びに行くといっても、友達もいないしどこへの宛てもない。雛菊はさっそく翌日から病院に顔を出した。</b></p><p><b>医局で啓多は、雛菊をむかしの知人の娘で、この春医学部新入だなどと紹介した。</b></p><p><b>秘書が用意した白衣を着ているので、私的な印象はいくぶん緩和されるものの、院長</b></p><p><b>が若い女と暮しているらしいということは、数年前から院内周知の事実である。</b></p><p><b>いま目の前に現れた娘がその当人であることは、誰でも容易に想像がつくことだった。</b></p><p><b>（なるほどこの娘だったのか）</b></p><p><b>多少の年の差はあるが、院長にもフレッシュ感があり、まあそんなに違和感はない。</b></p><p><b>みな、啓多と雛菊を見比べて納得がいったというような表情。</b></p><p><b>じっさいは、余人があれこれカンぐるような間柄ではないのだが、たしかに李下に冠、</b></p><p><b>世間では通用しない話だ。</b></p><p><b>ふつう、院長とそういう関係にあると思われる女が院内をウロウロすれば、人によっては良い印象を与えないこともありうる。</b></p><p><b>とかく衆人のそっち方面の反応というのは屈折しやすく、自己は棚上げで倫理的になったり、意味不明の嫉妬的な感情をおこす者もいる。</b></p><p><b>しかし、さいわい雛菊本人が人前に出て不快感を与えるような娘ではなかった。</b></p><p><b>いろいろうわさもあり、はじめは何がしかの先入観をもっていた者も多かったが、じっさいに無垢な当人に会ってみると、とたんにころりと宗旨替えをしてしまう。</b></p><p><b>（なんだ、いい<ruby>娘<rp>(</rp><rt>こ</rt><rp>)</rp></ruby><b>じゃないか）</b></b></p><p><b>　邪推していた自分が恥ずかしくなる者、かまいたくてあちこち案内したり、自分の持ち場を見せたがったりする者もいた。</b></p><p><b>じきに雛菊は病院ではどこへ行っても歓迎されるようになった。</b></p><p><b>すぐに仲良くなったのは麻酔科のここもである。</b></p><p><b>女どうしだし、医学部の先輩後輩のあいだがら、ここもの受け入れ性格からも当然だ。</b></p><p><b>雛菊は一日中ここもにくっついて、仕事ぶりを見てまわった。</b></p><p><b>もうひとり、ここもに付いて研修していた、二学年上の医学生ナナコとも面識を得たが、ナナコはすでに身重だったためまもなく出産準備に入った。</b></p><p><b>ここもは超多忙。</b></p><p><b>挿管して全身麻酔をかけたあと、となりの手術室で同時並行の脊椎麻酔をかける。</b></p><p><b>集中治療室での呼吸管理をチェックしてまわり、救急車で重傷者が搬送されれば、救急外来に呼ばれて、挿管やルート確保など、分秒単位目の回るようないそがしさだ。</b></p><p><b>院内は走行禁止だが、エレベーターをまっていられないので、片側に足音消しの絨毯を敷いた階段を二段ずつすり足で上下する。</b></p><p><b>雛菊がもっていた麻酔科のイメージは、挿管したあと患者の頭のほうでぼちぼちモニターを見ているという比較的静的なものだった。</b></p><p><b>ここもがやると麻酔科がずいぶんダイナミックな科に見えてくる。　</b></p><p><b>しかし、雛菊もまだ十代後半、体中に力がみなぎっている。</b></p><p><b>ここものようにいそがしい仕事を力いっぱいやってみたいと思った。</b></p><p><b>（先生が世のなかが広がるっておっしゃったのは本当だったわ）</b></p><p><b>しかし雛菊がかいま見たのは、医療のほんの一部だけでしかない。</b></p><p><b>まだまだ奥行きは限りなくあるということは、容易に想像できた。</b></p><p><b>新しい世界の広がりを目にしたときの感動と期待は、若い人間にとって、めくるめくようなものがある。</b></p><p><b>（医療っておもしろい）</b></p><p><b>サ～テどこから手をつけようか。ご馳走がテーブルいっぱいに並んでいるとき、どれから食べようかと、だれでも舌なめずりしたくなる。いまは雛菊もそんな心境だった。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>Ｓ病院のような中小病院は、各科の垣根が低くフットワークが軽いのが特長である。自分のやりたいことは、内科系でも外科系でも、好き勝手にやってかまわない。</b></p><p><b>大きな病院では最初にやらされることは義務化、マニュアル化されている。</b></p><p><b>そも医学生が、医療現場に自由に出入り御免なんてことはありえない。</b></p><p><b>せいぜい見学ぐらいで、それもちょこっと時間制限だからほとんど無意味。</b></p><p><b>さて雛菊のようなまったくの初心者が、何から始めるかだが、まさに今ここもについ</b></p><p><b>て見学中の麻酔などはわるくない。</b></p><p><b>麻酔の技術は呼吸管理や血圧の維持など、医療の基本的要素を多くふくんでいる。</b></p><p><b>将来何科をやるにしても、医者にとって必修科目と言ってかまわない。</b></p><p><b>とりあえず呼吸と血圧を保っていれば、人間は容易に死なないのである。</b></p><p><b>たとえば患者の容態が急変して、じぶん一人では手に負えないような場合でも、応援がかけつけるまで挿管して時間かせぎをしていれば、あらたな展開も期待できる。</b></p><p><b>雛菊が麻酔をやるには、指導者が先輩女医のここもだったので好都合である。</b></p><p><b>男の医者にべったりでは、なにかとあらぬ誤解が生じるかもしれない。</b></p><p><b>また雛菊が患者の前にでると、医療以外の妙な関心をおこさせる可能性がある.</b></p><p><b>麻酔科はおもに意識のない患者をあつかうので、その点でも都合が良い。</b></p><p><b>麻酔科医は、院内ではほとんど常に術衣術帽ですごしている。</b></p><p><b>雛菊はマスクをして術帽を深くかぶり、なるべく派手な印象を与えないようにした。</b></p><p><b>研修をはじめてまもなく、ふつうの症例なら挿管ができるようになった。</b></p><p><b>ここもの監視下ながら、ともかく雛菊が麻酔をかけ、外科医と声をかけあって手術をはじめるというところまでこぎつけた。</b></p><p><b>しかしできることが増えて仕事が面白くなりはじめたころ、医学部がはじまった。</b></p><p><b>病院にくるのは、夏休みを待たなければならない。</b></p><p><b>啓多や啓矢のばあいは、医学部へ通いながら平日の夕方からでも病院に来ていた。</b></p><p><b>そのまま泊まりこんで、救急医療の現場に立ちあう野戦の救護班のような生活。</b></p><p><b>雷蔵も、彼らに負けないくらい日に夜をついで研修にはげんだ。</b></p><p><b>登山用の寝袋を用意して、くたびれたら医局のソファの上とか、空いた患者用ベッドでミノ虫みたいに袋にくるまった。女の雛菊にはさすがにそれはできない。</b></p><p><b>医療実習にかんしては残念ながら中断だが、新しくはじまった医学部も、やはりわく</b></p><p><b>わくするようなことはたくさんあった。</b></p><p><b>入学式や新入生の新歓コンパもあったし、白衣を着て新入生一同ぞろぞろと、医学部の各施設を見学して歩いたりした。</b></p><p><b>同年代の女の子たちといっしょにいることは、うきうきと心が華やぐものだ。</b></p><p><b>医学部では机の上で学ばなければならないことも、とうぜん山のようにある。</b></p><p><b>実地の臨床はもちろんだが、教室での勉強もきらいではない。</b></p><p><b>新しく手にした教科書のページをめくってみるときの感触はなんともいえない。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>啓多が出ていったため、雛菊は部屋では一人になった。</b></p><p><b>ローンを組んだのは菊だが、死亡したあと後見人の啓多に名義が移っている。</b></p><p><b>住宅手当は啓多が借りた部屋に支払われるため、一人暮らしにはもったいないが、そのまま現状維持で、いずれ売りに出すかなどは将来の雛菊にまかせられていた。</b></p><p><b>啓多のいる空間の空気に浸りたくて、雛菊は週に二度ほど啓多の部屋に通った。</b></p><p><b>あるじの在宅時間が少ないため、なかはすこしも汚れていない。</b></p><p><b>洗濯物も下着やシャツなどわずかで、洗濯機ひとまわしである。</b></p><p><b>もの足りないので、シーツや枕カバーなど、洗い物をさがしだすようにして洗った。</b></p><p><b>雛菊は、病院での啓多の食生活を知っている。</b></p><p><b>部屋に帰らなかった朝は病食もしくは医局買い置きのカップラーメン、昼は職員とおなじ食事をとり、夜は当直員用の賄いか近くの寿司屋などから出まえ物をとる。</b></p><p><b>啓多は部屋では食べないので、キッチンに自炊をしたあとはない。</b></p><p><b>ときどき一人で酒を飲んでいる様子はある。</b></p><p><b>キッチンに備えつけの小さな食器棚に、患者からもらったと思われるウイスキーのボトルが二三本おいてあった。</b></p><p><b>冷蔵庫にはビールや冷酒と、チョコレートなどのちょっとしたつまみが入っている。</b></p><p><b>（先生はこんな生活をいつまで続ける気かしら）</b></p><p><b>三十も半ばを過ぎて、一人で酒など飲んでさびしくないのだろうか。</b></p><p><b>（気が変わって部屋にもどってきて下さらないかなぁ）</b></p><p><b>しかし当面、啓多にその気配はない。</b></p><p><b>啓多に女ができるまでは通うつもりだと言ったが、もちろん真意はこのまま啓多が一人でいることを望んでいた。</b></p><p><b>事態が変われば何かの拍子に、再び自分にお鉢が回ってこないともかぎらない。</b></p><p><b>雛菊はしぶとくあきらめてはいなかった。</b></p><p><b>しかし雛菊の見るところ、気のせいか病院中そこここに怪しい女たちであふれている。</b></p><p><b>医局秘書だとかいう、じぶんでは美人だと思っているらしいケバい女も気にくわないし、内科外来の若い副主任看護師も啓多になれなれしい。</b></p><p><b>なんとかいう製薬会社の、女営業部員の啓多を見る目もふつうじゃなかった。</b></p><p><b>ような気がする。</b></p><p><b>（ゆうわく、いっぱいだもんなぁ）</b></p><p><b>啓多が、節操もなくすぐにでも寝ます、というような女たちに取り囲まれているように思えて、雛菊の胸は心細くゆれ動いていた。</b></p><p><b>一人になると悩ましかったが、医学部で同世代の娘たちに囲まれていれば、それなりに気はまぎれて、日中はまあ楽しくすごした。</b></p><p><b>そのうちどういうわけか、雛菊にはすでに男がいるらしいといううわさが流れた。</b></p><p><b>クラスメートに誘われたとき、行く所があると言って、二度ほどことわったのがニュースソースになったのかもしれない。</b></p><p><b>行く所というのは、からっぽの啓多の部屋である。</b></p><p><b>まあ確かにうわさは何分の一かは当たっていると言えなくもない。</b></p><p><b>雛菊はそれを否定も肯定もしなかった。</b></p><p><b>女ばかりの集団のなかでは、どう思われようと関係ないことだ。</b></p><p><b>ふつうの医学部のように、男がたくさんいたらうるさいタマよけのために、むしろうわさを肯定したかもしれない。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>老人のその後のことである。</b></p><p><b>ナナコが医大生になったころから老人はめっきりと老け込んできた。</b></p><p><b>平均寿命はとっくに過ぎている。</b></p><p><b>それでもすぐにはどうということもないのだが、足腰も弱り、寝たり起きたりの状態。</b></p><p><b>ナナコはこまめに老人の面倒を見た。</b></p><p><b>ときには母親を動員して、二人がかりで掃除や洗濯をすることもあった。</b></p><p><b>「すまんのう。こんな老いぼれの世話を焼くなんて、ナナちゃんはホンに優しい子じゃ。</b></p><p><b>　医学生はうんといそがしいと聞いておるがのう」</b></p><p><b>「おじいちゃんのとこへ来るくらいの時間はあるわよ。</b></p><p><b>電車に轢かれてたらいそがしいもなにもないわ」</b></p><p><b>ナナコはどこまでも老人に恩義を感じていた。</b></p><p><b>その後一年ほどの間に老人は何度か体調を崩し、短期間Ｓ病院に入退院を繰り返した。</b></p><p><b>それでもナナコが白い衣装を着たとき、老人はそこに同席することができた。</b></p><p><b>婚礼写真のなかには、礼服をきてナナコと並び、しゃっちょこばった老人の姿もある。</b></p><p><b>まもなく最後のはなむけに、赤んぼうの顔も見た。</b></p><p><b>雷蔵の子らしく元気あふれる男の子。</b></p><p><b>「ナナちゃんの赤ちゃんの顔が見れるとはのう。わしゃもういつ死んでもいいわい」</b></p><p><b>「そんなこと言わないの。ナナがついてるから長生きしてね」</b></p><p><b>しかし老人はさすがに寄る年波で、あちこちにガタがきていた。</b></p><p><b>病名はあれこれたくさんつくが、要するに老化で体全体が弱っている。</b></p><p><b>雷蔵は老人についてはナナコからさんざん聞かされていた。</b></p><p><b>啓矢に相談して自分が主治医になり、格安で老人を病院の個室に入れてもらった。</b></p><p><b>「なるべく大仰なことはなさらんでくだされ。</b></p><p><b>わしはもう思い残すことはなにもありませんでな」</b></p><p><b>ほどなくして、老人はナナコが看取るなか、雷蔵に脈をとられて息を引き取った。</b></p><p><b>老人は残りの命を全うしたけれども、ナナコはこれからである。</b></p><p><b>数奇な運命でつながれた相方を失ったが、こればかりは順番でしかたがない。</b></p><p><b>医学生になり子どもも生まれて、威勢よく人生の海原に乗り出したというところだ。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>夏休みがきて、雛菊はまた病院へ行くことができるようになった。</b></p><p><b>ここもの指導下につぎつぎと挿管し、全身麻酔をかけまくった。</b></p><p><b>脊椎麻酔も硬膜外麻酔もすじが良く、ここもに教わりながら二三度経験すると、一回のアクセスでぴしりと入れられるようになった。</b></p><p><b>頚部の<ruby>星状<rp>(</rp><rt>せいじょう</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>神経<rp>(</rp><rt>しんけい</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>節<rp>(</rp><rt>せつ</rt><rp>)</rp></ruby><b>ブロックなどの局所麻酔や、四肢の伝達麻酔もなんどか経験した。</b></b></b></b></p><p><b>けれどもこれで一人前というほど麻酔はあまくない。</b></p><p><b>高齢者や呼吸器疾患のある患者もいるし、小児麻酔もある。</b></p><p><b>首が太かったり、頸椎が曲がらなくて、口からの挿管のできない患者もいる。</b></p><p><b>そういう症例は<ruby>外<rp>(</rp><rt>がい</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>鼻孔<rp>(</rp><rt>びこう</rt><rp>)</rp></ruby><b>から挿管するしかないが、ワンステップ上の技術である。</b></b></b></p><p><b>胃の中に食べ物がつまったままの緊急手術は、食物の逆流をふせぐため一発で挿管を決めなければならない。</b></p><p><b>失敗すると、食物が食道、気管をへて気管支に入り、食物や胃酸で気管支炎を起こす。</b></p><p><b>素人ゴルフファーは、ふだんは二百ヤードを軽々飛ばしていても、目の前に池があると百ヤードもないショットがあやしくなる。</b></p><p><b>それとと同じで、プレッシャーがかかると手が萎縮しやすい。</b></p><p><b>実地医療では変化球はいくらでも飛んでくる。</b></p><p><b>いくら難しいへんてこな症例でも、ふつうの症例ではないから失敗しましたでは言い分けにならない。訴訟をおこされればもちろん負ける。　</b></p><p><b>挿管しようとしたとき、いつになく<ruby>喉頭<rp>(</rp><rt>こうとう</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>展開<rp>(</rp><rt>てんかい</rt><rp>)</rp></ruby><b>の難しい患者にであった。</b></b></b></p><p><b>Ｌ字型の金属器具をのどの奥まで入れて、声門の位置を確認し、シリコンチューブを挿入するのだが、目が手元に近づき、器具をもつ手首におもわず力が入った。</b></p><p><b>「まってまって！」</b></p><p><b>横合いから、ここもの声がかかった。</b></p><p><b>「歯が折れてまうで」</b></p><p><b>いちばん最初に教わっただいじな注意点だった。</b></p><p><b>ここもが一瞬あっちを向いていたら歯を折ってしまったかもしれない。</b></p><p><b>ハッと手を戻して事なきを得た。</b></p><p><b>医療というのは、いちいちそんなことの連続である。</b></p><p><b>ゲリラ地帯に踏みこんだようなもので、そこかしこに落とし穴やら爆弾やらがさりげなく仕掛けられている。</b></p><p><b>しょせんは人間のすること、患者の状態が想定外ということはいくらでもあることだ。</b></p><p><b>医者自身がカゼをひいて体調不良のときもあれば、家族やつきあっている相手とささいなことでいさかいがあり、むしゃくしゃしている日もある。</b></p><p><b>ダブルチェックのはずが、二人ともあるいは三人とも思いこみで見のがしてしまうことだってありうる。そういうとき悪魔がほくそ笑むのだ。</b></p><p><b>もとより医療は危険な行為だが、なかでも麻酔はとくにあぶない施療がおおいので、一瞬も気が抜けない。</b></p><p><b>麻酔医の使う薬はどれもこれも劇薬ばかりである。</b></p><p><b>薬効の強力な薬物を、気道や血管ルートから直接からだのなかに入れる。</b></p><p><b>モニターで薬の効果を分秒単位で確認できるため、ダイナミックな手応えはあるが、それだけに超がつくほど危険で、麻酔医の施術はいつも患者の生命と直結している。</b></p><p><b>医者はみな訴えられたときのために保険に入っているが、麻酔科医はとくに高額で、ふつう無制限である。Ｓ病院では職員の事故に関しての訴訟は、病院が面倒をみてくれることになっていた。とうぜん専属の弁護士も用意してある。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雛菊は平均的な医者の技量は知らないが、ここもは良い医者だと思った。</b></p><p><b>一つひとつの医療行為を、確実にスピード感をもってこなしていく。</b></p><p><b>そばで見ていてもじつに小気味よい。</b></p><p><b>また、ここものペインクリニックの技術も雛菊をおどろかせた。</b></p><p><b>ここもは中国の<ruby>鍼灸<rp>(</rp><rt>しんきゅう</rt><rp>)</rp></ruby><b>関係の書物をもとに、独学で会得した<ruby>鍼<rp>(</rp><rt>はり</rt><rp>)</rp></ruby><b>麻酔をもちいてぺインクリニックをおこなっていた。</b></b></b></p><p><b>膝腰の変形性関節症や<ruby>帯状疱疹<rp>(</rp><rt>たいじょうほうしん</rt><rp>)</rp></ruby><b>など、あちこち痛い患者は世の中にあふれるほどいる。</b></b></p><p><b>ここもが受け持っているペインクリニック外来はまいかい長蛇の列だった。</b></p><p><b>週二回水曜と土曜の午前、患者はあさの七時すぎにはすでに順番をまちはじめる。</b></p><p><b>診療時間はあさ九時から十二時までということになっているのだが、午後一時をまわっても終わらない日もある。昼食の時間にしわよせがくるがしかたがない。</b></p><p><b><ruby>経絡秘孔<rp>(</rp><rt>けいらくひこう</rt><rp>)</rp></ruby><b>に数本、特注合金の針を打ちこんで痛みをぴたりと止める。</b></b></p><p><b>真皮から皮下脂肪にかけて、消毒した細い針を刺入するだけだから副作用はない。</b></p><p><b>脚を引きずりながら診察室にはいってきた患者が、施術のあとはスキップを踏むようにして帰っていく。実に劇的な効果だった。</b></p><p><b>しかし針の効果は三日くらいしかもたないので、次回外来には必ずのように受診する。</b></p><p><b>これでは患者がたまるのもむりはない。</b></p><p><b>痛みを止めているうちに、治るものは治っていくから無限にふえるというわけではないが、やはり需要のほうが過多気味だからここももたいへんだ。</b></p><p><b>はじめは患者を順番に入れ替えていた。</b></p><p><b>じきに間に合わなくなったので、何人かまとめて入れて患部の衣服をまくらせておき、つぎつぎと流れ作業のように施術していくようにした。</b></p><p><b>ツボをはずしても痛みが止まらないだけで危険なことはない。</b></p><p><b>効果がなければ戻ってきて、もういちど針を打ち直せばよい。鍼治療最大の長所だ。</b></p><p><b>なぜ鍼が効くのか。ここもによれば、痛みを止める原理というのは単純である。</b></p><p><b>ちょっとだけ専門的だが、べつにむずかしくない。</b></p><p><b>エンドルフィンというモルヒネ様物質はふつう哺乳類の脳や<ruby>下垂体<rp>(</rp><rt>かすいたい</rt><rp>)</rp></ruby><b>に存在するが、末梢神経の末端にも少量ながら含まれ、モルヒネとほぼ同等の薬理作用をもっている。</b></b></p><p><b>自然界におけるモルヒネは、アヘン含有の塩基性有機化合物の一種でいわゆる麻薬、少量でも強力な局所麻酔作用を有している。</b></p><p><b>このエンドルフィンを、針を打つという物理的刺激によって末梢神経末端から放出させ、痛みを感じている神経を麻痺させるというわけだ。</b></p><p><b>アヘンだの麻薬だのと怖そうだが、あくまでごく少量だし体内物質だから問題ない。</b></p><p><b>原理はかんたんだが施術はむずかしい。</b></p><p><b>皮膚の上にマークがしてあるわけではないので、施術者が経験とカンで経絡秘孔、いわゆる“ツボ”をさがしあてなければならない。</b></p><p><b>ターゲットは文字どおりピンポイントで、ブスブス針を刺しまくればいつか当たるというものではない。そりゃ当たるかもしれないがやってられない。</b></p><p><b>ほとんど名人芸のような技である。</b></p><p><b>誰にでもできるなら、患者がわざわざ辛抱づよくここもの外来に列を作る必要はない。</b></p><p><b>「あまり聞いたことがありませんが、この治療は一般的なのですか？」</b></p><p><b>ちまたで鍼治療が行われていることは知っているが、麻酔科のペインクリニックでルーチンにというのは聞いたことがない。</b></p><p><b>「にたような治療をする人はいるかもしれませんが、針もチタン合金の特注やし、うちのやり方はうちだけでおます」</b></p><p><b>「先生のオリジナルということですか？」</b></p><p><b>「自分でいうのもなんやけど、それに近いと思います。</b></p><p><b>医療は基礎だけ教わったら、あとはだれでも自分の工夫しだいでおます」</b></p><p><b>言われてみればあたりまえである。</b></p><p><b>医療にかぎらずほかのどんな分野でも、一人ひとりが独自の工夫するから、技というのは、絶え間なく進歩してきたのだ。</b></p><p><b>患者の苦痛をその場で解消してやることは、術者にとっても気持ちのよいことである。</b></p><p><b>これまでは痛みを訴えても、お決まりの鎮痛剤か湿布などを処方されるくらいで、粗略な扱いしかされてこなかった患者も多い。</b></p><p><b>ここもを拝むような目で見ている者も少なくなかった。</b></p><p><b>「ペインクリニック外来を拡充すれば、患者さんはいくらでもあつまるでしょう」</b></p><p><b>「いつも言われますけど、うちは術場の麻酔も好きやし、それ自体の手もたりてまへん。</b></p><p><b>ひなはん卒業したら手伝ってくれますかいな」</b></p><p><b>　それは雛菊も考えてはいた。</b></p><p><b>　あまり患者と口をきかなくてすむ麻酔は、いろいろな意味で雛菊には好都合である。</b></p><p><b>「ナナコはんも麻酔やりたい言うてましたけどナ」</b></p><p><b>「三人も麻酔が必要ですか？」</b></p><p><b>「はいな、何人でもいたらいた分だけ、なんぼでも仕事はありますし増やせます。</b></p><p><b>麻酔のレパートリーは見かけよりずっと広いんや」</b></p><p><b>　ここもは<ruby>集中<rp>(</rp><rt>Ｉ</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>治療室<rp>(</rp><rt>ＣＵ</rt><rp>)</rp></ruby><b>での全身管理も得意である。</b></b></b></p><p><b>何台もある複雑な機械は、ここもにとっては使い慣れた携帯のようなものだ。</b></p><p><b>外科医の手がたりないときには、挿管したあとナースに麻酔の指示をだしながら、手術の助手もつとめる。</b></p><p><b>オペが立て込んだとき、開腹創の閉創縫合などは一人でやることもある。</b></p><p><b>外科医は手をおろし、洗い直してとなりの手術室に移動できる。</b></p><p><b>遅番の外来担当のときは、カゼ引き腹痛はもとより、内視鏡で食道にひっかかった異物をとりのぞいたり、エコーで胆石を診断したりなどということも何気なくする。</b></p><p><b>ここものもっている医療技術は、雛菊にはめまいのするような奥のふかさに映った。</b></p><p><b>とにかくよく働くが、いつも元気いっぱいで、疲れたとはいわない。</b></p><p><b>雛菊はもうれつにここもにあこがれ、当面じぶんの未来像の目標にしようと思った。</b></p><p><b>ただし男たちは、というのは啓多や啓矢のことだが、医療に費やした時間は家庭もちのここもより倍も多いし、当然ここもより倍もうわてということはわかっている。</b></p><p><b>たとえば啓多は内科が本業だが、中堅の外科医ほどの手術の場かずを踏んでいるし、指先のセンスも悪くない。</b></p><p><b>ここもによれば、あしたから外科医として看板替えしても務まるとのこと。</b></p><p><b>女の雛菊にはとうてい追いつけそうにないので、彼らほどにはならなくてもよい。</b></p><p><b>医療の虫みたいな男たちを目標にすると、結婚も出産もできなくなり、女としての人生を捨てなければならなくなってしまう。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>病院には理事長室はあるが、院長室はない。</b></p><p><b>大部屋の医局に、それぞれの医者の机がコの字にならべられていて、院長の机はそのうちのひとつにすぎない。院長の考えていることや、顔が見えないと、スタッフとの良好なチーム医療ができないというのが先代院長啓介の考え方だった。</b></p><p><b>雛菊もあいている机のひとつを貸してもらった。</b></p><p><b>まいあさ医局では、その日の業務のかんたんなカンファレンスがおこなわれる。</b></p><p><b>そのとき啓多の顔をみる以外、いったん仕事がはじまると病院は広いので、なかなか啓多に会うことができなかった。</b></p><p><b>それでもしょせん同じ屋根の下だから、エレベータや廊下など思わぬ所で出くわす。</b></p><p><b>ドキッとするので、会いたくないが、やっぱり会いたいという複雑な心持ちだった。</b></p><p><b>啓多の雛菊に接する態度は、ほかの職員に対するものとかわりはない。</b></p><p><b>とくにあたたかくもないが、冷たくもなかった。実をいうと、これがいちばん困る。</b></p><p><b>いっそ突きはなすならあきらめもつくが、そうでもないから悩ましい。</b></p><p><b>もっとも無視するといっても、それもオカシな話だし。</b></p><p><b>雛菊がその気になって男をさがせば、見つけるのはむずかしくないだろう。</b></p><p><b>医学生どうしの合コンに出席するとか、ちょっとだけ積極的になればどうにでもなる。</b></p><p><b>しかし適当な男を紹介してもらって、つきあってみれば気も変わるだろうか、啓多のことも忘れられるのだろうか、とは考えなかった。</b></p><p><b>なにがなんでも啓多以外の男はイヤだ。封建時代の二君に仕えずという心境である。</b></p><p><b>どうやら雛菊の性格の根っこにあるものは、いちずな保守にあるらしい。</b></p><p><b>Ｓ病院関係者で、雛菊に会えば本人を同定できる人間は二人いるが、すでに結婚や出産などで病院を退職しており、職員たちは正確な情報は得られなかった。</b></p><p><b>しかしだれも雛菊が、院長のただの知人の娘などとは頭から信じていない。</b></p><p><b>雛菊自身も世間では、自分が院長の女だとうわさされていることは知っていた。</b></p><p><b>ふつう痛くもない腹をさぐられるのは、女にとって迷惑なことだが、雛菊のばあいは、うわさはむしろありがたいくらいだ。</b></p><p><b>世間の後押しで、とりあえず架空でもいいからそれらしい既成事実ができあがり、啓多がなしくずしにその気になってくれないかと期待していたからだ。</b></p><p><b>それに自分がそういう立場の女だと思われていれば、啓多をねらっている女たちにたいして、多少の虫除けになるかもしれないという期待もあった。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>母方の祖父母とはたまに電話連絡くらいで、ほとんど行き来がない。</b></p><p><b>父親は顔も知らないし母親も死んだ。</b></p><p><b>ちょっと目には、まわりのだれからもちやほやされて、しあわせそうに見えながら、部屋に帰ると雛菊は孤独だった。</b></p><p><b>啓多には何年も慕いつづけていたのに、結果的には捨てられたかっこうである。</b></p><p><b>かっこうではなく捨てられたのだ。</b></p><p><b>雛菊が望んでいることはそう多くはない。</b></p><p><b>ようするにむかしと同じ暮らしがしたかっただけだ。</b></p><p><b>一緒にいても、あまりかまってもらえないのはわかっている。</b></p><p><b>しかしそれでも平気だった。</b></p><p><b>子どもの時からずっとだから、啓多との暮らしはそういうものだと思っている。</b></p><p><b>いままでどおりの同居生活で御の字だ。</b></p><p><b>ふつう夫婦や同棲している男と女というのは、なんやかやと摩擦をおこすものである。</b></p><p><b>いつも仲のいいカップルというのはむしろ少ないのではないか。</b></p><p><b>しかし啓多と雛菊は、問題をおこしたことがなかった。</b></p><p><b>ましてけんかなどとんでもない。</b></p><p><b>子どものとき、年のはなれた目上の男にであったため、上下関係がはっきりしている。</b></p><p><b>主君と家来のように、仕えるのが当然だと思っていたし、雛菊のばあいもっと積極的に仕えるのが生きがいでもあった。</b></p><p><b>啓多が部屋を出ていってから夏休みまでの数ヶ月、医学部でまいにちの予習復習におわれて、帰ってきてからも余計なことをあまり考えずにくらした。</b></p><p><b>とくに第二外国語のドイツ語の習得に没頭していた。</b></p><p><b>夏休みにはいって、日中は病院でいそがしく働いていたからまあいいのだが、夜は予習復習がないため空き時間ができた。</b></p><p><b>もちろんドイツ語や医学書読みなど、勉強しようと思えばやることはいくらでもある。</b></p><p><b>しかしレポート提出など、いますぐというものは当面ない。</b></p><p><b>ここに心のスキマがうまれた。</b></p><p><b>医学部へ行っているあいだは、啓多の顔を見なくてすんだ。</b></p><p><b>病院では中途半端に顔をあわせる。</b></p><p><b>こころの生殺しにあっているような感じでなんともせつない。</b></p><p><b>別れてからのがまんのツケが、ここにきてどっと押しよせてきた。</b></p><p><b>（さびしいよう。先生もどってきて）</b></p><p><b>雛菊は部屋のなかで、ひとりで泣いた。</b></p><p><b>医学部に入ってから、歓迎会や友だちとの飲み会などで、ビールや酎ハイなど少しはアルコールを飲めるようになっていた。</b></p><p><b>飲んでみるとたしかにうまいし、ほわ～んといい気持ちになる。</b></p><p><b>気をまぎらすために、部屋でためしてみた。</b></p><p><b>なぜか日本酒が飲みやすく、パック酒をコップにあけ、レンジでチンして飲んだ。</b></p><p><b>酔うと気分高揚し一時は楽になるが、醒めるとその反動みたいにつらさが倍加する。</b></p><p><b>まもなく、それを追いやるためにまた飲むという例の悪循環におちいった。</b></p><p><b>分解酵素をもっているのか意外につよかった。</b></p><p><b>かなりの量でも日常生活に影響を及ぼすまでにはいたらない。</b></p><p><b>あさ多少残っていても、シャワーをあびたり電車で移動したりしているうちに、短時間でアルコールの薬理作用が飛んでしまう。</b></p><p><b>日なかは自分も人目にもどうもない。</b></p><p><b>しかし夕方帰ってくる頃になると、そろそろ依存性がでてきた薬物が体に要求する。</b></p><p><b>いちおう習慣的に部屋のことをしてから、なにか勉強をはじめるのだが、いつもの半分もやらないうちから根気がなくなる。</b></p><p><b>面白くもないテレビ番組を惰性で見ながら飲んだ。</b></p><p><b>若い女がひとりでコップ酒をあおるというひどい構図である。</b></p><p><b>アル中のおっさんでもあるまいし。</b></p><p><b>つい酔ったままソファのうえでねむりこけ、夜中に目を覚ますこともあった。</b></p><p><b>知らないあいだに片脚がソファから落ちている。</b></p><p><b>大股を広げ、口角からよだれを垂らしているという、世にも無惨なありさま。</b></p><p><b>ふと目が覚めて、じぶんの惨めさに<ruby>暗澹<rp>(</rp><rt>あんたん</rt><rp>)</rp></ruby><b>たる気持ちになったこともあった。</b></b></p><p><b>これまでの雛菊には考えられないようなすさんだ生活。</b></p><p><b>自分がこんなになさけない人間だとは思わなかった。　</b></p><p><b>（こんなんじゃだめだわ）</b></p><p><b>ふつうの女なら、ずるずるとアル中になるまで飲みつづけたかもしれないが、そこは雛菊だから、なにか出口はないかと必死でもがいていた。</b></p><p><b>夏休みもおわりに近づいたころ、</b></p><p><b>（そうだ、ここも先生に相談してみよう）</b></p><p><b>やっとのことで具体的な行動をおこす決心がついた。</b></p><p><b>見かけだけならここもは、いくつか年上の友達ふうでしかない。</b></p><p><b>じっさいは若い母親ほどにも年の差がある。</b></p><p><b>心の悩みが、ひとに相談することで解決するとは思っていないが、苦しくてたまらないから、とにかく誰か頼れる人間にうちあけ話を聞いてほしかった。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p>
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<pubDate>Sun, 09 Jul 2017 12:02:45 +0900</pubDate>
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<title>第３５章</title>
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<![CDATA[ <p><b>さてこのとき状況をみて教師に連絡してくれたのが、同じクラスの“ロミナ”という女の子だった。新しくきたサブのことが気になっていたらしい。</b></p><p><b>サブが学校の食堂で昼食をとっていると、となりの席にやってきて、</b></p><p><b>「ここいい？」</b></p><p><b>「どうぞ。ボクの土地じゃないもん」</b></p><p><b>「あんたカッコいいね。あたしのタイプよ」</b></p><p><b>「あ、そりゃどうも」</b></p><p><b>てなぐあいで、たちまち仲よくなった。</b></p><p><b>ロミナはキューバ人の留学生で、外国人どうしは逆に近づきやすい。</b></p><p><b>白人優勢のなか、なんとなく疎外感を感じて相哀れむような感情がわくし、互いに母国語でしゃべっていないので、ストレートな表現でも気恥ずかしさがうすれる。</b></p><p><b>　ロミナは家庭ではスペイン語である。</b></p><p><b>　顔だちは基本ラテン系だが、なにか血が混ざっているらしく若干あさ黒かった。</b></p><p><b>　しかし目がぱっちりで、それなりにかわいい子だった。</b></p><p><b>　キューバ人らしく、明るくこだわらない性格のように見うけられた。　</b></p><p><b>「へえ～、うわさの空手ダコってこれのことかー」</b></p><p><b>　ロミナはサブの右手をとり、タコを押したりつまんだりした。</b></p><p><b>　なんだかくすぐったいような、しかし不快ではない。</b></p><p><b>サブはこれまで女の子とつきあったことがなかった。</b></p><p><b>むこうも年齢的に似たようものだろう。二人ともやっと男と女になったばかり。</b></p><p><b>いっしょにいてぺちゃくちゃしゃべっているだけで、なんだかお互いやたら楽しい。</b></p><p><b>恋のはじめのいちばんいいときである。日に日に親密になり、とりあえずチュウした。</b></p><p><b>キューバは野球のさかんな国で、メジャーにもたくさん有名選手を輩出している。</b></p><p><b>ロミナの父親も野球選手、現役のメジャーリガーである。</b></p><p><b>アメリカへ出かせぎで、もういい年なのだが、まだなんとかやっている。</b></p><p><b>ながいこと家族を国においてプレー中だ。二年前に長女のロミナがくっついてきた。</b></p><p><b>春のオープン戦がはじまり、</b></p><p><b>「ね、野球見にいこう」</b></p><p><b>というので、彼女の父親がでている試合につきあった。</b></p><p><b>　シアトルには地元球団のシアトル-</b><b>マリナーズ、およびマリナーズ-</b><b>スタジアムがある。</b></p><p><b>　同球団では、日本人のスーパープレーヤーが鬼のように活躍した。</b></p><p><b>　父親が出場すればとうぜん娘はアツくなる。活躍すればなおさらだ。</b></p><p><b>　試合のだいじなところで、出番のきた彼がクリーンヒットを打ち、ランナーがホームにもどってきたときのロミナの盛りあがりははんぱではなかった。</b></p><p><b>　その続きというか余波というか、ロミナは興奮冷めやらず、サブの下宿に押しかけた。</b></p><p><b>　こういう状態で、若い二人が一つ部屋のなか、そのあとは説明の要がない。</b></p><p><b>　しかしお互いこのさき長くはこの地にいられない異邦人である。</b></p><p><b>　そうばん別れなければならないのだが、この時点では双方そこまで考えていなかった。なにしろ相手の体がめずらしいやらたのしいやら。</b></p><p><b>　ロミナはまいにちサブの部屋にきたあとで、喫茶店などで夕方までいっしょにいた。</b></p><p><b>サブには会話の練習にもなるから、あながちむだな時間ばかりでもない。</b></p><p><b>　さらにロミナは五十のミニバイクをもっており、これが意外に機動力があった。</b></p><p><b>　シアトルが所属するワシントン州では、小排気の自動二輪は年齢制限がない。</b></p><p><b>　二人乗りでいろいろな有楽施設や観光スポットへ行った。</b></p><p><b>　春のセント-</b><b>パトリックデイ-</b><b>パレード、スカジットバレーのチューリップフェスティバルなどにもでかけた。いずれも同地では人気のアトラクションである。　　　</b></p><p><b>あちこち二人でいけば気分高揚ハズレなし、サブの留学前半は大当たりだった。</b></p><p><b>　しかし若い二人のなりゆきというのは、なぜかいいことばかりは続かない。</b></p><p><b>　サブたちも一転して後半はパッとしない。どころかべったりのスミ塗りである。</b></p><p><b>やっぱりアメリカは日本ほど安全な国ではないのだ。</b></p><p><b>　なんとロミナがテロに巻きこまれてしまったのである。</b></p><p><b>　シアトルでは毎年六月のあたまに、市主催のマラソン大会が行われる。</b></p><p><b>　外国人招待選手の参加もあり、テロのターゲットとしてじゅうぶん不足はない。</b></p><p><b>　ここへ仮装ランナーを装ったテロリストが、爆弾を背おって自爆したのだ。</b></p><p><b>　犯行声明によれば、定番イスラム過激派のしわざである。</b></p><p><b>日本でも連日大きく報道された。</b></p><p><b>じつはサブも大会に参加していたが、かなり先を走っていたため難をのがれた。</b></p><p><b>まかりまちがうと、サブ自身とんでもないことになっていたかもしれない。</b></p><p><b>ロミナは不運にも大きな集団のふくらみのなか、犯人のごく近くを走っていた。</b></p><p><b>爆発で右足の</b><b><ruby>中足<rp>(</rp><rt>ちゅうそっ</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>骨<rp>(</rp><rt>こつ</rt><rp>)</rp></ruby><b>なかほどから遠位部をそっくり失い、足の甲が半分になった。</b></b></b></p><p><b>不幸中の幸いをさがすなら、顔などあきらかにめだつところには受傷はない。</b></p><p><b>ほかに二人が死亡、重軽傷が十人ほどである。</b></p><p><b>それでも、犯人がじぶんの命とひきかえた代償としては小規模の被害というべきか。</b></p><p><b>ロミナの意気消沈ぶりは、はじめは見ていられくらいだった。</b></p><p><b>足の先端がなくてはとうぜん</b><b><ruby>跛行<rp>(</rp><rt>はこう</rt><rp>)</rp></ruby><b>歩行となる。女の子だけに整容的にも大問題。</b></b></p><p><b>しかしサブは、足のあるなしくらいではロミナにたいする態度はかわらない。</b></p><p><b>「手がないオリンピックの卓球選手がいたぜ」</b></p><p><b>まいにちロミナを見舞い元気づけたため、徐々にロミナの情緒も安定した。</b></p><p><b>傷さえ癒せば今日びの義足はよくできているので、リハビリをしっかりやれば、健常人とほとんどかわらない歩行ができる。</b></p><p><b>けれどもとうぜん現実は容赦なくやってくる。</b></p><p><b>親密になるぶんだけ別れもせまってきた。どういうわけか初恋は稔らない。</b></p><p><b>会ったときからお互いにひとめ惚れ、順調に発展してゴールイン、その後もハッピー。</b></p><p><b>な～んてカップル、めったにないだろう。</b></p><p><b>サブはなんとも複雑な心境で、あと何日などと帰国の日を数えていた。</b></p><p><b>そのとき、別離はさらに性急にやってきた。</b></p><p><b>ロミナの父親が年も年、球団から戦力外通告をうけてしまったのである。</b></p><p><b>しかし彼としてはあわてるほどのことではない。</b></p><p><b>じつはボチボチくるかなと予想していたため、本国のキューバで中学校の野球部の監督として再就職口をさがしていたが、それにめどがついたばかりだったのである。</b></p><p><b>選手として家族のために働いたので、そこそこたくわえもある。</b></p><p><b>独りだと能天気なキューバ人だけに、ハデに使ってしまったかもしれない。</b></p><p><b>「ロミナ、おれはうちへ帰ろうと思う」</b></p><p><b>本国の実家には妻とロミナの二人の弟がまっている。</b></p><p><b>ロミナとしては、サブとはもう長くいられないことは先刻承知だったので、別れが早まったといってもたいした違いではなかった。</b></p><p><b>学校は通学中だが、本国でさがせばよい。ひとりで残る気になれなかった。</b></p><p><b>「ママに会いたい。あたしも帰る」</b></p><p><b>　ロミナはサブのもとから去っていった。</b></p><p><b>そういえば、昔サブの父親も似たような経験をしている。父親の兄弟もジロにいもだ。</b></p><p><b>こうなったらクヨクヨしていてもしかたがない。</b></p><p><b>サブは残りの日々を本業の勉強にうちこんだ。留学半年分のモトをとって帰らねば。</b></p><p><b>会話はもうずいぶん上達していたので、教科書の知識を詰めこめばよい。</b></p><p><b>それ以後、前半ほどのウキウキ感はなかったけれども、ある意味では充実していた。</b></p><p><b>　帰国までこれといったこともなかったが、一つだけ特筆するとすれば、強盗に遭遇したことである。まったく油断もスキもならないところだ。</b></p><p><b>しかし被害を被ったのではなく、つかまえるのに協力した方なので、まだ救いがある。</b></p><p><b>　ある晩ちかくのファーマシーに、石鹸など消耗品の小物を買いに行った。</b></p><p><b>　個人商店なので閉店がはやい。店主が夕方そうそうにシャッターを半分下ろしかけたので、サブも商品棚のかげから商品をもって出ようとした。</b></p><p><b>その瞬間、シャッターの下をかいくぐり、</b></p><p><b>「すぐ帰る、すぐ帰る、アスピリンくれ」</b></p><p><b>いいながら、マスクをした黒人のまだ若いとおぼしき男が入ってきた。</b></p><p><b>客の出入のタイミングを計っていたのだろう。アスピリンはカゼなどの解熱剤である。</b></p><p><b>店主がうしろの棚においてある薬箱をとりに背中をむけたとたん、賊はふところから拳銃をとりだしてホールドアップを要求した。</b></p><p><b>「ゆっくりこちらをむいてレジをあけろ。非常ベルをおせばあの世行きだ」</b></p><p><b>　店主はしかたなく左手をあげたまま右手でレジをあけた。</b></p><p><b>　その日の売りあげが入っているものの、金額はたかがしれている。</b></p><p><b>　少額だからチョイとかすめ盗るくらい、たいしたことはないと男はあまり深刻に考えていなかったのかもしれない。銀行など目出し帽の大がかりな強盗ではない。</b></p><p><b>　たしかにそれくらい渡してさっさと帰したほうが無難なのだろうが、初老の店主は気丈にも男がレジの札束に左手をのばした瞬間、拳銃をもった右手に殺到した。</b></p><p><b>　意外な抵抗に男は狼狽し、拳銃が手からポロリとおちた。</b></p><p><b>　やばいと思った男はダッと逃走をはかった。ところが商品棚のかげにサブがいた。</b></p><p><b>男は入ってきたときからサブには気づいていなかったようすだ。</b></p><p><b>サブは逃げる男の足元にひょいとつま先を掛けた。</b></p><p><b>空手の技ではないが、いろいろと体術にたけている。</b></p><p><b>蹴り足が地面から浮いた瞬間にすくいあげると、わずかな力でバランスを失う。</b></p><p><b>あっと脚がもつれ、男は前のめりにドデッと倒れこんだ。</b></p><p><b>あわてて起きあがろうとしたとき、ゴリッと拳銃の筒先が男のこめかみにくいこんだ。</b></p><p><b>「起きあがるんじゃねえ。サツにはもう通報した」</b></p><p><b>　店主は抵抗しにくいように男の手足を大の字に開かせ、拳銃は頭頂部から突きつけた。</b></p><p><b>「ナメちゃいけねえな。おれはもと海兵隊だ」</b></p><p><b>　海兵隊は上陸戦などの殴り込みを前提に、きびしい訓練をうけた特殊戦闘部隊である。</b></p><p><b>サブのほうをむいて、</b></p><p><b>「にいちゃん、ありがとうな。いいワザもってる。</b></p><p><b>もうちょい付きあってくれるとサツに説明しやすい」</b></p><p><b>男はまもなくやってきた警官たちに逮捕された。</b></p><p><b>現場検証が終わると店主は、</b></p><p><b>「お礼だ。そこらの好きなもの持っていっていいぜ」</b></p><p><b>　サブは買おうと思っていたものだけもらった。</b></p><p><b>まあそれやこれやで、アメリカでは日本ではありえないこともいろいろと経験した。</b></p><p><b>しかしまた来たいかというとそうは思わない。</b></p><p><b>なぜか武闘家は暴力沙汰に巻きこまれやすいものだ。</b></p><p><b>平和で住みやすい母国があるのに、超大国だかなんだかしらないが、アブナイ異国の地でなにくれ騒動をおこしてもしかたがない。</b></p><p><b>会話だけおぼえたら、わざわざ出張ってくるまでのところでもなさそうだ。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>三兄弟、一巡してふたたび長男啓太郎。</b></p><p><b>時系列は、厳密にはサブのアメリカ留学より多少もとに戻る。</b></p><p><b>蘭姫と別れて少したった秋のなかごろ。</b></p><p><b>啓太郎にこれといって悩みはないが、一つだけ気にかかっていることがある。</b></p><p><b>五月の連休中、フィリピン旅行で啓多に無心した借金のことである。</b></p><p><b>初めてゆえ自分でも気づかなかったが、どうも借財があると落ちつかない性分らしい。</b></p><p><b>なんだか足のうらに飯粒でもくっついているような気がする。</b></p><p><b>なんとかはやく返済してすっきりしたい。</b></p><p><b>啓太郎が神経質で律儀な性格というより、ふつうそうでなくては困る。</b></p><p><b>どういうわけか金を借りると、もらったと勘ちがいしている人間が多い。</b></p><p><b>だからちまたでは年じゅう金銭トラブルが絶えない。</b></p><p><b>金額そのものは、将来的に啓太郎にとってハシタ金である。</b></p><p><b>もちろん啓多にとってもそうだから、かしたとたんに忘れている。</b></p><p><b>しかし高校生の啓太郎にとっては、右から左という金額ではない。</b></p><p><b>　金は使うぶんには易しいが、いざ稼ぐとなると容易でない。</b></p><p><b>　わずかな額で血を見るような事件が頻々とおきる。</b></p><p><b>（なにか妙案はないかな）</b></p><p><b>　アイディアだけで錬金術ができるものだろうか。</b></p><p><b>いかに切れ者でも世渡りの経験がない。さすがの啓太郎も考えあぐねていた。</b></p><p><b>　そんなときの枯れ葉散るある日、啓多の実家で祖母の夕子が三人兄弟を、バーベキューパーティーにさそった。</b></p><p><b>「主人と二人きりじゃつまんないもの。若い人たちに盛大にたべてもらわなくっちゃ」</b></p><p><b>　こちとらいい話である。食うことなら若馬のような三人、異存のあるわけない。</b></p><p><b>　ついでに仕事がオフだったここもも参加した。</b></p><p><b>　わいわいがやがや、はたしてパーティーはもりあがった。</b></p><p><b>　雑談の中で、</b></p><p><b>「へえ、御前様はブログをはじめたんでっか」</b></p><p><b>“御前様”は夕子に話しかけるときの呼称である。</b></p><p><b>身内では“夕御前”とよびあっている。息子たちのだれかがつけた。</b></p><p><b>　年はとってもまだまだ優雅で色っぽい。ので、名前負けしない。</b></p><p><b>「ひとに勧められたんだけどね、それがあんがいおもしろいのよ」</b></p><p><b>「どんなことをお書きなはるので」</b></p><p><b>「な～に日常のたわいもないことよ。年のせいかむかしの夢をみるようになっ</b></p><p><b>たとか。わたしもそうなのよ、なんて返事がかえってきたりしてサ。</b></p><p><b>思ってたよりだれかが見てるもんだね」</b></p><p><b>　そのとき、聞くともなく聞いていたカミソリの頭がキラリと閃いた。</b></p><p><b>（これは商売になるかも）</b></p><p><b>　人心の集まるところ金も動くのではないか。</b></p><p><b>　しかし現在の啓太郎にできることといえば、とりあえず学校の勉強しかない。</b></p><p><b>　となると、具体的には学習塾くらいがせきのやまである。</b></p><p><b>ブログで子どもたちを集めて授業料をもらえないか。</b></p><p><b>　しかしふつうの学習塾ならプロの企業が乱立している。</b></p><p><b>　とてもじゃないが素人の高校生など、割りこむスキは小ゆびの先たりともあるまい。</b></p><p><b>　ここが思案のしどころである。啓太郎は<ruby>脳漿<rp>(</rp><rt>のうしょう</rt><rp>)</rp></ruby><b>を絞って考えた。</b></b></p><p><b>　世のなかの多くのものは正規分布をしている。</b></p><p><b>　人の身長や体重などが代表的な例である。Ｓ、</b><b>Ⅿ</b><b>、ＬサイズはＭがいちばん多い。</b></p><p><b>それを表すグラフを正規分布曲線という。じつは見たことがないという国民はいない。</b></p><p><b>中学校全国模擬テストなどで、答案が戻ってきたとき、じぶんが全体のどの位置にいるかを示す曲線がそうである。ナポレオンハットの形をしたぐにゃっとした曲線。</b></p><p><b>正確に左右対称形をしており、成績がよければ位置は右に移動し、悪ければ左である。</b></p><p><b>つまり、できる生徒とおなじ数だけできない生徒もいるというわけだ。</b></p><p><b>学校教育というのは、ふつう真んなかからすこし上、正規分布曲線でいえば少し右によった生徒たちを主たるターゲットに行われる。</b></p><p><b>経験上それがもっとも効果的だからである。あまり易しくするとダレて前へ進まない。</b></p><p><b>できない子どもたちは補修などでケアしている。</b></p><p><b>日本の教育くらい落ちこぼれをつくらないように努力している国はない。</b></p><p><b>しかしそれでもダメという子もけっこうな数存在し、これは学校のマンパワーではカバーしきれない。教師が一人ひとり個人教授などできるわけがない。</b></p><p><b>学校がだめなら私企業だが、塾業者も商売の対象にならないと切りすてている。</b></p><p><b>ふつう学習塾といえば、いいところへの進学だとか、ふだんの授業の補てんなどを目的に、学校でも成績ふつうか、ややいい子どもたちが通うところである。</b></p><p><b>　極端にできない子は、まわりの迷惑になるし、そも本人が行きたがらない。</b></p><p><b>　親もあきらめているからむりに行かせようとしない。</b></p><p><b>思案の末に、啓太郎はここにライトを当てられないかと考えた。</b></p><p><b>過去、尋常小学校もろくに出ていない総理大臣がでたり、文字の読めない将棋名人がいたりして、学力というのは必ずしも渡世の必要条件ではない。</b></p><p><b>バッターはヒットを打てればいいし、歌手は歌えればよい。</b></p><p><b>しかし、むかしから読み書きそろばんというように、あまりにできないと日常の社会生活が不便である。最低でも九九の計算、新聞くらい読めないとなにくれ困る。</b></p><p><b>鉄は熱いうちに打て、子どものうちなら何とかなるのではないか。</b></p><p><b>親もあきらめつつもそう考えているだろうし、子どもだってほんとうはできるようになりたいと思っているはずである。</b></p><p><b>（需要はかならずある）</b></p><p><b>　塾業者が手を出さないのは、商売の基本は大量受注大量生産だからである。</b></p><p><b>　啓太郎のばあい、目的は商売ではなく借金の返済ゆえ、個別受注個別生産でぼちぼち稼ぎ、目標額に達すれば無責任にならないところでやめていいのである。</b></p><p><b>しかしいろいろ検討した結果、これはどうしても夕御前の助力が不可欠と思った。</b></p><p><b>ブログで子どもたちを集めるには、夕御前と同年代のおばさんたちの孫、つまりその娘の子息たちがターゲットになるから、高校生のじぶんは表にでないほうがよい。</b></p><p><b>未成年では信用もされない。</b></p><p><b>夕御前なら若くもなし年寄りでもなしで、ちょうどよい年恰好である。</b></p><p><b>だれでも知っている国立女子大を出ているので、教えることにかんして問題なしという印象をあたえるはずである。</b></p><p><b>むしろ女子大というのが、子どもケアのイメージ上おばさんたちにウケルのでは。</b></p><p><b>ただしうそはまずいから、彼女自身も教えるが、信用のおける講師も用意すると書き添えてもらう。もちろんじぶんのことである。夕御前には多少授業を分担してもらう。</b></p><p><b>いやだと言われたらしかたがないが、その時点でまた作戦を練りなおすつもりだった。</b></p><p><b>おりしも区内の公立小学校が少子化の影響で閉鎖、他校との統合ということになった。</b></p><p><b>もしやと思って連絡をとってみると、はたして机やイスなどの備品は市民に開放し、はやいもの勝ちでもっていっていいという。</b></p><p><b>学校だから廃品で市民から金はとれないし、始末するには金がかかる。</b></p><p><b>なるべくたくさん持っていってもらいたいだろう。</b></p><p><b>個別教授だからパネルくらいで黒板は必要がないが、机やイスはありがたい。</b></p><p><b>それらのブツを運ぶときは、ここもにバンのレンタカーなどをだしてもらい、人手はじぶんのほかさらに、生きのいい野郎どもが二人も動員できる。</b></p><p><b>つまり、初期投資はほとんど無料で賄えるという都合のよさである。</b></p><p><b>これだけの下準備の心算をもって、啓太郎は夕御前とひざを交えて相談をもちかけた。</b></p><p><b>すると、サイコロは振ってみるもの、</b></p><p><b>「へえ、おもしろい計画じゃないの」</b></p><p><b>　夕御前すっかりのり気なのだ。</b></p><p><b>「全面協力するわよ。できない子を教えるというのが気にいったわ」</b></p><p><b>「はあ、しかし御前様の授業はたまにでいいんですが」</b></p><p><b>「そんなこと言わず、いっぱいやらせて」</b></p><p><b>　なんだか逆に、うますぎるほどの展開である。</b></p><p><b>「できない子はかわいそうだし、なんだかかわいくもあるわ。</b></p><p><b>わたしが立ち直らせてあげる。こう見えても教育学部卒なのよ」</b></p><p><b>「はあ、それはもう願ったりですが」</b></p><p><b>「場所はどうするの？」</b></p><p><b>「もちろんじぶんの自宅です。教室の一部屋くらい、冬や春の休み期間確保できます」</b></p><p><b>「家族がいて手狭よ。わたしのところにしなさいよ」</b></p><p><b>「えっ、それではごめいわくが」</b></p><p><b>「だから～、ちっともめいわくじゃないってバ」</b></p><p><b>　夕御前と啓太郎の実家は、Ｓ病院をコンパスの軸として立地されている。</b></p><p><b>たかだか自転車の距離、講師を用意し場所を確保すれば、あとは生徒を集めればよい。</b></p><p><b>「あのー、これはじぶんのビジネスで、必要な収益をあげたらやめるつもりなんですが」</b></p><p><b>「わかっているわよ。太郎くんがベンチャー社長で、わたしは企画に賭けた社員」</b></p><p><b>「取り分はいかがいたしましょう」</b></p><p><b>「わたしはいらないけどサ、それも社長の顔をつぶすから、太郎君が目標額を達成したら、残りはわたしの総取りってのはどう？ベンチャーだからわからないもの」</b></p><p><b>「あ、なるほど。ぜひそれでお願いします」</b></p><p><b>　さらにもう一つだけ問題がある。</b></p><p><b>「子どもたちを集めると、部屋を汚したり壊したりの可能性がありますよ」</b></p><p><b>「だいじょうぶ。ちょうど使おうと思った部屋は、ほっぽらかしで床やら壁やらくすんじゃったから、手を入れようと胸算してたばっかなの。使ってからリニューアルするわ」</b></p><p><b>　話はとんとん拍子に進んだ。</b></p><p><b>　はじめ啓太郎は冬と春の休みだけ開塾するつもりだったが、夕御前はまてないという。</b></p><p><b>「瀬踏みよ。わたし一人でようす見にやってみる」</b></p><p><b>啓太郎のアイディアで“一から塾”と銘をうち、ブログに書きこみを入れると、近所の子どもたちがボチボチ一人二とやってきた。</b></p><p><b>授業は夕方学校が終わった三時から五時半のあいだに、休憩をはさんで四十分の三単位をもうけ、てきとうに好きなコマだけとってもらい、部屋で一人ひとり個別に教える。　　</b></p><p><b>あるていど予想はしていたが、夕御前はうってつけの良い講師だった。</b></p><p><b>女子大教育学部の面目躍如、教えるということがどういうことかよく分かっている。</b></p><p><b>たとえば、最初にきた子は三分の一という概念がどうしても理解できなかった。</b></p><p><b>「だって一つのものは一つじゃん」</b></p><p><b>「そうでもないわよ」</b></p><p><b>　夕御前はまんじゅうをもってきてナイフを入れ、三つに切ってみせた。</b></p><p><b>「あ、三つだ」</b></p><p><b>　子どもは目からウロコが落ちたような顔をした。</b></p><p><b>いままで、こんなかんたんなパフォーマンスをだれもしてくれなかったのである。</b></p><p><b>妙なひっかかりがとれたとたん、子どもの理解が進むようになった。</b></p><p><b>　また次の女の子のばあい、なんでもじつに丁寧にやる性格だった。</b></p><p><b>　ふつうの子なら文字を五つ書くところ、二つ三つしか書けない。</b></p><p><b>　これでは国語でも算数でも、テストではいつもわるい点しかとれなかっただろう。</b></p><p><b>しかしたっぷり時間をあたえてみたところ、なんのことはない全問正解できた。</b></p><p><b>ばかではなくいわゆるグズ。にたような印象だが、できるとできないでは意味がちがうのである。日常生活では、じぶんの納得のいくまでゆっくりコトを運べばよい。</b></p><p><b>社会にでれば、時間を区切られたりしない仕事をえらべばいいだろう。</b></p><p><b>ワンパターンで自然にからだが反応するような、たとえば受け付け接客業とか。</b></p><p><b>どうしても漢字が覚えられないという中一の男の子がきた。</b></p><p><b>“鼻”という字を書かせると、じつにまずい筆致で“畠”になったり、“卑”になったりする。あるいは存在しない文字も次々あらわれる。</b></p><p><b>画字構成障害という先天性のまれな脳機能異常であり、現在の医学ではよい治療法がない。社会における認知度がなく、知っているのは夕御前のように教育をうけた人だけ。</b></p><p><b>いままでだれも指摘してくれなかったため、本人もまわりも頭がわるいとばかり思いこんでいたが、そうではなかったのだ。</b></p><p><b>「苦しかったでしょうね。でもほかのことではあなたは普通の子なのよ。</b></p><p><b>　誰でも小さなハンディをもってるものよ、がっかりすることなんてぜんぜんないわ」</b></p><p><b>　少年は積年の重荷をかなぐりすてたように、声を放って泣きはじめた。</b></p><p><b>「横文字はふつうにできるはずよ。英語は学校で教えてくれるから、ここではフランス語をやってみんなを見返してやるってのはどう？」</b></p><p><b>　フランス語は夕御前の第二外国語、初心者の手ほどきくらいはできる。</b></p><p><b>　その日から少年は、夕御前とフランス語をはじめ、ばかにされていた怨念をはね返すようにみるみる上達した。アルファベットは簡単だし、読み書きはパソコンをつかえば常人以上である。じきに夕御前で間にあわなくなり、アテネ-</b><b>フランセに通いはじめた。</b></p><p><b>　その生徒はいなくなったが、良い評判を聞いてあらたな生徒がやってきた。</b></p><p><b>もちろんぜんぶの子どもたちがこんな劇的な経過をたどるわけではない。</b></p><p><b>　いわゆるできない、あたまがわるいという子が大半である。</b></p><p><b>　しかし一人ひとり丁寧にじっくり見ていくと、なにか引っかかっているとろがあり、それを解決すると急に理解がすすむことも一切ではない。</b></p><p><b>　夕御前はすっかり塾あそびにはまってしまった。</b></p><p><b>「いやー、おもしろくってサ。老後の楽しみにぴったりだよ」</b></p><p><b>　ネットと口コミで生徒は順調にふえていった。</b></p><p><b>啓太郎のビジネス計画は一人歩きである。</b></p><p>　<b>時間的にうしろのほうだと、社長本人も授業をうけもつことができる。</b></p><p><b>　小学六年のいかにもひねくれがましい男の子が、がんこそうな父親に引きずられるようにしてやってきた。きたときから口の端がヘン、というようにひんまがっている。</b></p><p><b>　勉強なんかするもんかという反抗的なつらがまえだ。</b></p><p><b>「手のつけようがないバカですが、なんとか少しでも、勉強の習慣なりとも身につけさせてやってください」</b></p><p><b>職人ふうの父親は少年のあたまをこずいたり、むりに下げさせたりして帰っていった。</b></p><p><b>（こんなのにいますぐ勉強の習慣なんてそりゃむりだ）</b></p><p><b>そこで啓太郎は少年を庭につれていった。</b></p><p><b>「勉強はまァおいおいやるとしてだ、いまはこんなことをやってみんか」</b></p><p><b>　ヤッ、ビシッと空手のカラ打ちをくりだしてみせた。</b></p><p><b>父親からおそわった脚をあげてくるりとまわる技も。</b></p><p><b>　衝撃的なパフォーマンスに、ひんまがった口もとがぽかんと開いた。</b></p><p><b>「今日は用意してないけどな、カワラ割も教えてやるゾ。練習すればこんなんになるぜ」</b></p><p><b>　例の空手ダコ。またまた少年の目がまるくなる。</b></p><p><b>「やってみるか～」</b></p><p><b>　スネかかってはいたが、そこはしょせん男の子、一も二もなくこっくり。</b></p><p><b>しばらく少年は啓太郎の専属の生徒になった。</b></p><p><b>まいにちのように勉強ではなく、ハッ、ハッと空手のお稽古。</b></p><p><b>ところがある日塾へきてみると、おどろいたことに机にむかっている。</b></p><p><b>「いったいどういう魔法を使ったんですか」</b></p><p><b>「わたしは何もしてないわよ。じぶんからだもの。たぶん太郎くんのような、文武両道のカッコいい男になりたいと思ったんじゃないの」</b></p><p><b>　ほどなく啓太郎の必要な金は満額に達した。夕御前はあきるまでやるという。</b></p><p><b>　啓太郎は講師もやめたが、少年の稽古が半端になるので、通っている道場を紹介した。</b></p><p><b>ときどき道場で顔をあわせる。塾の勉強はつづいており、ふつうの空手少年である。</b></p><p><b>さっそく金を返しにいくと、さすがの啓多もびっくり。</b></p><p><b>「はやばやどう工面したんですかこれ」</b></p><p><b>　じつはこれこれと説明すると、</b></p><p><b>「うーん、商才は上皇なんだが、隔世したかねえ」</b></p><p><b>　上皇というのは、三兄弟のうちうちで呼びあっている祖父啓介のことである。</b></p><p><b>　院長職を現院長に譲位してからだが、それまでは<ruby>大御上<rp>(</rp><rt>おおおかみ</rt><rp>)</rp></ruby><b>と呼ばれていた。</b></b></p><p><b>しかしたとえ商才があっても、医者しかやる気はない。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雛菊は高等部最後の学年に進級した。</b></p><p><b>十七歳。</b></p><p><b>うだうだ安い形容詞を重ねるまえに、年齢だけでありようを想像できるのでは。</b></p><p><b>しかし、じつは啓多、最近雛菊については少々困るようになっている。</b></p><p><b>本人になんら問題はない。啓多自身の心のありようである。</b></p><p><b>雛菊の少女時代からの自分に対する感情はわかってはいたが、そのうち年頃になればほかに好きな男もできるだろうと、あまり深く考えてはいなかった。</b></p><p><b>ところが口に出しては言わないし、露骨な態度もとらないが、雛菊のその気持ちはつよくはなっても、ほかへ方向転換にはなりそうもないということが分かってきた。</b></p><p><b>十七歳の恋といえば、もはやバリバリのホンモノである。</b></p><p><b>もちろん啓多は雛菊には、悪感情のかけらももっていない。</b></p><p><b>しかし父親がわりの立場としては、実子相当の娘に男として見られても困るのだ。</b></p><p><b>なにが困るのかと聞かれるとまた困るが、要するに思い込みである。</b></p><p><b><ruby>継娘<rp>(</rp><rt>むすめ</rt><rp>)</rp></ruby><b>になるはずだった少女と、そういう関係にはなれないと。</b></b></p><p><b>ところが雛菊のほうは、それを望んでいることはあきらかである。</b></p><p><b>いい年の男といっしょに暮して、恥じらいはあっても、警戒なんてことはまるでない。</b></p><p><b>その気になったら、いつでもご随意になされませという感じである。</b></p><p><b>雛菊は意識しているのかはわからないが、部屋着で露出の多いときなど、あちこちぱんぱんで、どうにもやばい。</b></p><p><b>おまけに最近薄化粧をするようになった。</b></p><p><b>部屋のなかでしているのだから、見せる相手は啓多しかいない。</b></p><p><b>これがまた地が地だけに効果抜群、タレントがこれからオンエアですという状態。</b></p><p><b>しらふならともかく、酒がはいったりすると、我知らず妙なことを考えていたりする。</b></p><p><b>部屋の中に爆弾を置いているようなもの。</b></p><p><b>うっかり雷管に触ったりするとどうなるか保証の限りではない。</b></p><p><b>しかし実際問題として、具体的な処置をとるとなるとなかなか厄介である。</b></p><p><b>　自分から部屋を出るのは、せっかく仕事が順調に進むさなか、なんとも面倒くさい。</b></p><p><b>かといって、まだ通学中の女子高生に部屋から出て行けともいえない。</b></p><p><b>白々しい理由などいくらこねたところで、雛菊あいてでは納得させられるわけもなし。</b></p><p><b>まんいち居直って、このままだとヤバイことになりそうだと、ドッキリ告白をしたとしても、その気があるならそうして下さい、なんてことになりかねない娘だ。</b></p><p><b>いやもちろんそんな告白するはずもないが。</b></p><p><b>その問題さえなければ、雛菊との同居生活はじつに快適なのだが。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>ある晩啓多が医局の医者といっしょに外で飲み、そこそこ酔って帰ってきたとき、出むかえた雛菊は湯上がりの直後だった。</b></p><p><b>その日は啓多の帰りがいつもより早く、雛菊の入浴がいつもより遅かった。</b></p><p><b>「おかえりなさいませ」</b></p><p><b>しずしずと雛菊がちかづいて啓多のカバンを受けとったとき、啓多の鼻先にふわりと湯上がりの女のかおりがただよった。</b></p><p><b>ほかの男なら、ムラっとよからぬ衝動をおこすところかもしれない。</b></p><p><b>べつによからぬ、ではない。</b></p><p><b>女が望んでいなければそうだが、雛菊のばあいは不都合でないどころかその逆だ。</b></p><p><b>啓多は行動は起さなかったが、雛菊を女として意識してしまったのは確か。</b></p><p><b>微妙な感情が雛菊にも伝染し、わけもなく頬をあからめた。</b></p><p><b>だからといってどうということもなく、ふだんの二人ならこれで話は終わりである。</b></p><p><b>のはずなのだが、このときはまだ続きがあった。</b></p><p><b>「ふう、すこし飲みすぎたナ」</b></p><p><b>妙な空気をふり払うように言って、よたよたとソファーに手をつこうとしたとき、バランスを失って倒れこむようなかたちになった。</b></p><p><b>余計なことに手助けしようとした雛菊がその方向にいた。</b></p><p><b>男の体重をささえきれず、ソファーの上に重ね餅になってしまった。</b></p><p><b>うそ週刊誌のスクープ写真なら、部分的には少女暴行の現場である。</b></p><p><b>二人ともタレントではないからスクープする価値はない。</b></p><p><b>雛菊が逃げてくれればよかったのだが、むしろ離れたくなかったため、思わずそのまま啓多の首を抱くようなしぐさをした。</b></p><p><b>啓多の反応は酔いに手足をとられてにぶかった。</b></p><p><b>雛菊のからだはサイズも肉質もほとんど菊とかわりがなく、おなじ手応えにふと菊だと思い誤ってしまった。</b></p><p><b>ふつうの男ならもうだめである。現実に気づいても止まらないだろう。</b></p><p><b>女がそうされたがっているのは啓多もわかっている。</b></p><p><b>しかし、やや遅ればせながら啓多は自制をとりもどした。</b></p><p><b>「いや、ごめん」</b></p><p><b>体勢をたてなおして雛菊からはなれた。</b></p><p><b>「すみません」</b></p><p><b>べつに雛菊がわるいことをしたわけではない。</b></p><p><b>なにに対する謝罪のことばなのか意味不明である。</b></p><p><b>しいていえば、一瞬でも啓多の首に手をまわしてしまったことなのか。　</b></p><p><b>それはともかく、雛菊の顔色には羞恥のなかにも、なにか惜しいものをのがしてしまったようなふくみがあった。</b></p><p><b>どうもこの時のことがきっかけではないかと啓多は思うのだが、雛菊から伝わってくる空気が微妙に濃くなったような気がする。</b></p><p><b>なんだか化粧も念入りになったようだし、部屋着の露出も多くなったのでは。</b></p><p><b>偶然がかさなりあったとはいえ、一瞬でもそんな流れになったので、もうちょっとだという期待をもたせてしまったのかもしれない。</b></p><p><b>雛菊は顔だちはともかく、絵に描いたような大和撫子の雰囲気は菊そっくりである。</b></p><p><b>しかしもっとも似ているのは体型だった。</b></p><p><b>似ているというより、３Ｄコピーをしたかのように寸分たがわない。</b></p><p><b>ふと雛菊のうしろ姿をみて、菊ではないかとドキッとすることがある。</b></p><p><b>じつは啓多は知らなかったが、これには雛菊の意図的な努力も加わっていた。</b></p><p><b>顔だちはどうしようもないが、せめて体型だけでも母親に似せようと思っていた。</b></p><p><b>何にかぎらず、啓多が好きだった女と同じようにしておけばまちがいない。</b></p><p><b>雛菊は、菊の身長や体重、スリーサイズなどを正確に記憶していた。</b></p><p><b>身長の伸びがほとんど止まっており、うまいことに菊と一センチと違わない。．</b></p><p><b>体重さえコントロールすれば、みごとに同じ体型になる。</b></p><p><b>雛菊にとって体重のコントロールは、茶碗の飯盛りを加減するのと同じことである。</b></p><p><b>間食の習慣がないし、空腹はかんたんに自制できるので、三食の必要な摂取カロリーを計算して料理をつくり、ぜんぶ食べればよい。</b></p><p><b>とうぜん菊の服は、成長した雛菊にはどれもあつらえたようにぴったりである。</b></p><p><b>流行など気にしないし、むかしのデザインの服は雛菊が着れば返って新鮮でひきたつ。啓多には雛菊のたくらみがうすうすわかっている。</b></p><p><b>（先生が好きだった女と同じでしょう）</b></p><p><b>口にはださないが、暗にそう言っているのである。</b></p><p><b>（こりゃまずい）</b></p><p><b>　延ばしのばしでこんな状態が続くと、いずれ生身の男と女、結局あらぬ仲になってしまわないともかぎらない。そうそうになにか根本的な手を打たなければ。</b></p><p><b>遠からず雛菊の受験がはじまる。</b></p><p><b>（来る時がきたようだな）</b></p><p><b>雛菊が医学部に入るのをメドに、一気に解決しようと心中決意をあらたにした。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>　雛菊はクラスで主席、それも圧倒的にである。</b></p><p><b>　とうぜんクラスメートはみな雛菊がＴ大を狙うものと思っていた。</b></p><p><b>　しかし受けたのは私立Ｔ女子医大だった。</b></p><p><b>この時点では雛菊は知らなかったが、ここもの出身校でもある。</b></p><p><b>担任には、Ｔ大受験を再三説得されたが、特待生ねらいだなどとなんとかかわした。</b></p><p><b>雛菊がＴ大にいくつもりがなかったのは、他人には理解しがたい理由がある。</b></p><p><b>一つは啓多と同等の学歴をもちたくなかった。</b></p><p><b>何につけ、啓多のほうが上という状態にしておきたい。</b></p><p><b>もしもの話だが、じぶんが啓多の妻になれたとしたら、夫がＴ大で、妻が女子医大ならつり合いがとれているだろう、などと妙なことを考えていた。</b></p><p><b>他の人間には理解も同意も得られないオカシな考え方だと、雛菊自身も自覚している。</b></p><p><b>しかし雛菊の人生は雛菊のものである。</b></p><p><b>だれにも迷惑をかけない以上、どういう考え方をしようと自由だ。</b></p><p><b>さらにもう一つ、Ｔ大にいきたくないわけがある。</b></p><p><b>こっちのほうが多少はましだとは思うが、これも人には言いたくない理由である。</b></p><p><b>Ｔ大の医学部は男子学生が圧倒的に多い。</b></p><p><b>雛菊は自分が男にもてることを知っている。</b></p><p><b>ふつうの女にはうれしいことだろうが、雛菊にとってはこれがありがた迷惑である。</b></p><p><b>啓多以外の男とつきあう気がない以上、ほかの男によってこられても面倒の種。</b></p><p><b>はじめから男のいないところに身をおくほうが気が楽である。</b></p><p><b>そういうわけで、雛菊はＴ女子医大一校だけを受けた。</b></p><p><b>主席で合格、初年度は授業料免除である。成績が良ければ以後も継続される。</b></p><p><b>それは電子メールの合格通知と同時に、本人だけに知らされた。</b></p><p><b>大学側はその通知を急ぐのは、特待生であることを知らせて、優秀な学生を逃がさないようにするためである。</b></p><p><b>首席合格するような受験生は、併願すれば二校三校と合格しまくるのがふつうで、</b></p><p><b>併願校がたとえばＴ大など上位校であれば、そちらに流れてしまう。</b></p><p><b>このさいは雛菊にその気がなかったので、あわてる必要はなかったのだが。</b></p><p><b>官僚などには出身校のブランドは、出世のためにたいせつな要件である。</b></p><p><b>最高にくだらない要件である。</b></p><p><b>同族意識でナアナア、かばいあって巨大かつ緻密な天下り機構を構築する。</b></p><p><b>結果的に国家予算をゆるがすほどの税金の無駄遣いに繋がる。困ったものだ。</b></p><p><b>医者にとっては出身校など事実上どうでもよい。</b></p><p><b>仕事ができるかどうかは、ライセンスを得たあとみんなスタートラインで横並び。</b></p><p><b>派閥や年功序列の意識も薄く、いろいろな意味で無差別自由な世界だ。</b></p><p><b>雛菊はそういう医療の世界が好きであり誇らしくもあった。</b></p><p><b>卒後はＳ病院で働く以外の選択肢は考えていなかった。</b></p><p><b>職場として将来的に不安がないし、雛菊が医者になって来てくれることを口をあけて待っていてくれる。</b></p>
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<pubDate>Fri, 07 Jul 2017 17:55:49 +0900</pubDate>
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<title>第３４章</title>
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<![CDATA[ <p><b>啓太郎の夏が空振りにおわったころ、秋にはこんどはジロこと啓次郎がはじまった。</b></p><p><b>十六歳、そういう年頃だからしかたがない。</b></p><p><b>お相手は六つ年上の二十二歳、Ｓ病院の看護師だった。</b></p><p><b>むかしの啓多と小夜の関係とちょっと似ている。しかし日本人ではない。</b></p><p><b>肌はつやつやしているが色あさ黒く、鼻の先がちょっとだけ上をむいたベトナム人。</b></p><p><b>ブス、ではないが、少なくてもオーディションに推薦するほどではない。</b></p><p><b>しかし啓次郎は目鼻立ちより、まだ未知の娘の人間性に漠然とした興味をもった。</b></p><p><b>なんでそんな年上の、外国人の女などにかかずらうことになったのだろう。</b></p><p><b>啓次郎はテストの上位張り出し常連だから、学年じゅうに顔が売れている。</b></p><p><b>あたまのキレを反映してか、とりあえずボサッとしたマズイ面相でもない。</b></p><p><b>クラスメートとかほかのクラスなんかに、相応のかわいい子とかいなかったのか。</b></p><p><b>啓次郎はまい朝、正七時に学校行きのバスに乗る。</b></p><p><b>授業開始は八時半だからかなり早い登校である。</b></p><p><b>まぎわにどたばたはきらいで、授業がはじまるまえに教室でなにくれ準備している。</b></p><p><b>一事が万事、こういう若者が世にでて人に後れをとるなんてことはありえない。</b></p><p><b>逆にいつも五分遅れで、学校や仕事場に顔をだすボケがいる。</b></p><p><b>たった五分だが、積算すると莫大なタイムラグとなり、人の後塵を拝するのである。</b></p><p><b>啓次郎は初秋のある朝から、この娘といつも同じバスに乗りあわせることになった。</b></p><p><b>タイムテーブルは啓次郎が先だから娘は新規である。</b></p><p><b>ラッシュまえのすいた時間帯、お互いに相手のことはすぐに認識した。</b></p><p><b>やがて会釈をするようなしないような。なんとなく目くばせくらいはした。</b></p><p><b>うまく表現できないが、一日の始まりに会うのにぴったりの人間とでもいうべきか、</b></p><p><b>さわやかな感じの娘で、ほれたのはれたのというより、すがすがしい気分になれる。</b></p><p><b>まいあさ彼女の顔をみるのが、ささやかな楽しみの一つになった。</b></p><p><b>しかしある朝啓次郎はめずらしく遅刻、定刻のバスをタッチの差で逃してしまった。</b></p><p><b>と、そこへ息をせき切って走ってきたのがいつものお姉さん。</b></p><p><b>こういうとき、だれでもおもわず声をかけたくなる。</b></p><p><b>「おや、あなたもですか」</b></p><p><b>「あらまあ」</b></p><p><b>いつもパンクチュアルな二人が、偶然おなじ日に乗り遅れとは。</b></p><p><b>じぶんだけならチェッと面白くないが、お仲間がいれば逆になにやら可笑しい。</b></p><p><b>停留所にほかの客はおらず、次のバスがくるまで自然に会話が成立した。</b></p><p><b>「新しい靴のヒモかけにてまどっちまって」</b></p><p><b>「わたしは携帯を忘れてしまいました」</b></p><p><b>　その日からまいあさ十分たらず、バスのなかで話をするのが互いの日課になった。</b></p><p><b>　娘が先にＳ病院前で降り、啓次郎はさらにいくつか先のバス-</b><b>ストップまで。</b></p><p><b>　いつも並んですわれる。</b></p><p><b>「Ｓ病院に勤めてるんですか」</b></p><p><b>「あなたは通学なんですね」</b></p><p><b>娘はこの秋から仕事に就いたのかと思っていたが、じっさいは半年まえからで、病院の都合で寮が変わったのだという。</b></p><p><b>名前は“アン”、シンプルな響きでわるくない。</b></p><p><b>啓次郎は、はじめアンはＳ病院の看護ヘルパーだと思っていた。</b></p><p><b>とくに資格は必要とせず人材ではなく人手である。</b></p><p><b>患者の下世話くらい、なに人だろうとだれでもできる。</b></p><p><b>ただし大陸系は我が強く、キメの細かい職場は扱いにくいので医療には向かない。</b></p><p><b>Ｓ病院でべトナム人の職員というのは、啓次郎ははじめて聞いたが、ぼちぼちとその身の上を聞いてみると、たいへん感心な娘であることがわかってきた。</b></p><p><b>国では家族がホーチミン市のスラム街に住む貧しい一家。</b></p><p><b>スラムがないのは極東の島国くらいのもの。</b></p><p><b>ホーチミン市はベトナム最大の経済都市、ないほうがおかしい。同時に危険地区。</b></p><p><b>アンはごろごろと七人もいる兄弟の長女である。途上国にありそうなパターンだ。</b></p><p><b>もう若くもない両親をたすけて、チビたちの糊口をしのがなければならない。</b></p><p><b>ふつう若い女が手っ取りばやくできるかせぎ口といえば、相場は決まっている。</b></p><p><b>しかしアンはその道を避けてとおり、つらくてもカタギで行こうと思った。</b></p><p><b>義務教育の小中学校終了後、試験をうけて市で唯一無料の国立高校へ通った。</b></p><p><b>とうぜん入学試験はむずかしく、貧民街ではアンただ一人である。</b></p><p><b>スラムの子どもたちは、家計補助の労働力として駆りだされるため、小学校は低学年のみパラパラていど、中学へ行く者はほとんどいない。</b></p><p><b>義務教育とはいうものの、ここではただのお題目。名前すら書けない者もザラだ。</b></p><p><b>アンは雨が降ろうが風が吹こうが、一日たりとも休まなかった。</b></p><p><b>せめてもありがたいことに、学校は貧しいから来てはダメだとは言わない。</b></p><p><b>勉強して具体的にどういうご利益があるのかわからなかったが、とにかく何かに突き動かされるように知識をつめこんだ。</b></p><p><b>（きっとそのうちいいことがあるわ。えらい人たちはみんな勉強してるもの）</b></p><p><b>漠然とそう思っていた。しかしその考えは、糸を引いたように<ruby>正鵠<rp>(</rp><rt>せいこく</rt><rp>)</rp></ruby><b>を得ていた。</b></b></p><p><b>くわえて、おそらくこれが最大のアンの幸運だったろうが、両親の理解があった。</b></p><p><b>親ばかはかまわないが、ばか親は困る。</b></p><p><b>赤貧洗うように生活の苦しいなか、</b></p><p><b>「おまえは頭のいい子だから、好きなだけ勉強おし」</b></p><p><b>　アンはいつでも母親のことばを思いだすと涙がでる。</b></p><p><b>おりしもホーチミンの国立医科大学に、看護大学が併設されるといううわさを聞いた。</b></p><p><b>合格者のうち優秀な学生を日本に留学させ、看護大学の教授者を育てるとも聞いた。</b></p><p><b>国家プロジェクトゆえ、留学者にはそれなりに支給がでるという。</b></p><p><b>看護大学自体は無料ではないが、留学となると無料どころかもらえるのである。</b></p><p><b>この千載一遇のチャンスを指をくわえて見すごすテはない。</b></p><p><b>信用できる筋からうわさが本当らしいことを確かめ、応募しようと決心した。</b></p><p><b>このときアン十六歳。</b></p><p><b>日本のへの留学開始は、半年後の看護大学開校からさらにほぼ一年後の予定である。</b></p><p><b>つまり一年半後で、ちょうどそのころアンは高校を卒業する。</b></p><p><b>大学の受験者は、ふつうめぐまれた家庭の子女だろう。</b></p><p><b>働かずに勉強時間をとり、授業料を払ってもらわなくてはならない。</b></p><p><b>ゆえに貧困者の子どもは、いつまでもそこから抜けだせない貧困サイクルに陥る。</b></p><p><b>アンは学校のあとでごみ溜めをあさったり、路上でタバコを売ったりしながら夜遅くまで生活費をかせぎ、夜中に疲れたからだにむち打って試験のために猛勉強した。</b></p><p><b>教科書はいつも上級生が使い古したボロ。しかし書いてあることは同じだ。</b></p><p><b>科目は英語、数学、理科の三科目。</b></p><p><b>ちゃんと勉強すれば、ちゃんとしたことが途上国の教科書にも書いてある。</b></p><p><b>英語などは原書の小説や論文でかなりむずかしい。</b></p><p><b>むしろ一時期どこかの国ではやった“ゆとりなんちゃら”とやらよりましかも。</b></p><p><b>若い者はゆとりをもって教育すれば、ゆとりをもってアホになる。</b></p><p><b>学力世界ランキングは逆おとしになった。あたりまえすぎる結果。</b></p><p><b>資源のない国では頭の中身だけが商品なのに。</b></p><p><b>アンは髪をふり乱し、つぎはぎのあたった服で大学の試験を受け合格した。</b></p><p><b>さらに日本への留学希望者に試験が課せられ、これもクリアした。</b></p><p><b>というよりこれが本命で、失敗すると大学の授業料など払えたもんじゃない。</b></p><p><b>看護大学に設けられた特別口座で一年間の特訓をうけた。</b></p><p><b>ビシビシ火の出るようなスパルタ教育。</b></p><p><b>留学生は、いうまでもなく日本語の読み書きができなければならないし、さらに医学知識の基礎もあるていど教育されていなければ日本の大学でやっていけない。</b></p><p><b>新設なのでアンたちは初回の実験ケース。送り込むほうも手探り状態だ。</b></p><p><b>受け入れ側の日本でも入試があったが、他国のプロジェクトゆえ多少手加減してくれたのか、はじかれたのは一人だけだった。</b></p><p><b>さて、はれて日本の看護大学の学生になったものの、とうぜんながらこれがたいへん。</b></p><p><b>ことばの壁、習慣の壁、留学生はアンをふくめ総勢十二人いたが、落伍者が続出した。</b></p><p><b>日本側でも卒業者には正看護師の資格を付与するからここは妥協できない。</b></p><p><b>二年つづけて落第すると本国から呼びだしがかかり、もとの大学に編入される。</b></p><p><b>入試合格者だから、切りすてられはしないが、国も本人も時間と労力のムダだ。</b></p><p><b>日本の大学をストレートで卒業したのは、アンをいれて三人だけだった。</b></p><p><b>あとは一年おきに進級したり、帰ってしまったりで交流のとぎれた者もおおい。</b></p><p><b>留年せず最短の四年で卒業した者はごほうびに一年間、日本の病院で実習訓練をうけてもよいということになっており、支給金もそのまま受けとれる。</b></p><p><b>一年だけだがダブルの収入だ。日本の看護師は高いから大いにたすかる。</b></p><p><b>はたらき口は、看護雑誌でＳ病院の募集をみて面接をうけた。</b></p><p><b>外国人ということで差別されるのではないかと心配したが、二つ返事で採用された。</b></p><p><b>じつは日本人はじぶんで思っているより人種差別はキツイ。</b></p><p><b>まともな職場では、あまっていれば外国人、それも途上国はまっさきにはじかれる。</b></p><p><b>しかし病院側ではなにしろ看護師が足りなくて、選んでいる場合ではなかったのだ。</b></p><p><b>アンはさっそくライセンス持ちのつよみを実感した。</b></p><p><b>身についた技術はだれにも盗られないし終生仕事ができる。</b></p><p><b>娼婦や酒場の女は一時期かぎりで、あとはミゼラブルな老後がまっているだろう。</b></p><p><b>じぶんの生活に必要な最低限の金以外はすべて国元へおくった。スラムでは大金。</b></p><p><b>目先の損得にとらわれず娘の好きにさせた両親は、正しい選択で一気に元をとった。</b></p><p><b>「しおくりありがとう。お仏壇にのせてみんなで手をあわせたよ」</b></p><p><b>　家族のよろこぶ顔を思いうかべると、どんな苦労もつらくない。</b></p><p><b>本国では大学の講師の席が約束されており収入も安定する。</b></p><p><b>（わたしは看護師、もうスラムのみじめな娘なんかじゃない）</b></p><p><b>意気まさに天をつく。あと半年あまりで国へ帰れることになっていた。</b></p><p><b>そういう<ruby>溌剌<rp>(</rp><rt>はつらつ</rt><rp>)</rp></ruby><b>とした気持ちで、きびきびと働いていた時に啓次郎と出会ったのである。</b></b></p><p><b>自然まわりにさっそうとした好印象をふりまいていた。</b></p><p><b>しかし本人は、これまで男と親しく口をきくなんて考えてもいなかった。</b></p><p><b>このばあい男いっても十六歳だが。</b></p><p><b>アンいい年をしてあっち方面ま～だ。</b></p><p><b>むかしＳ病院の看護師には似たような娘もいたけれども、彼女のばあいは宗教的</b></p><p><b>な事情もからんでいた。アンはホントにいそがしくて念頭になかっただけ。</b></p><p><b>「こっちではどこか遊びにいきましたかね」　</b></p><p><b>聞かれても、</b></p><p><b>「えっと、あのー」</b></p><p><b>恥ずかしくなるくらい答えられない。</b></p><p><b>啓次郎はアンの事情を敏感に察知して、どこかへ連れて行ってやりたいと思った。</b></p><p><b>ちんぷな行楽施設より、秋だから日本の思い出にのこる紅葉の野山などはどうか。</b></p><p><b>電車でも行けないことはないが、車だと機動力があってベターだ。</b></p><p><b>しかし免許はもっていないし、いきなり二人だけでというのもちょっと。</b></p><p><b>あいだがらにはまだ若干の距離がある。啓次郎には心あたりがあった。</b></p><p><b>雷蔵医師の婚約者ナナコが医大にはいり、夏に免許をとったばかりだった。</b></p><p><b>雷蔵にはいぜん患者としてかかったことがある。</b></p><p><b>空手のけいこ中に左手を挫傷して診てもらった。</b></p><p><b>そのとき病院の雷蔵になにかの用事で来ていたナナコとも面識をもった。</b></p><p><b>「啓次郎さんでしょ。知ってるわよ」</b></p><p><b>　ここもの息子だからなのか、こっちは知らなくてもむこうは知っていたらしい。</b></p><p><b>　ナナコの目線は、兄と同様にふくれあがったこぶしの空手ダコにとまっていた。</b></p><p><b>　女の子の目には印象的だったのかもしれない。</b></p><p><b>「帰り、車でどう？よかったら送っていってあげるわよ」</b></p><p><b>　免許とりたての人間は、だれしも人をのせてみたくてしかたがない。</b></p><p><b>（あのひとだったら喜んでのせてくれそうだナ）</b></p><p><b>　同伴運転手が若い女というのも好都合、アンを誘いだすハードルを下げるに違いない。</b></p><p><b>　ナナコがその計画を雷蔵にいうと、なんと自分も行くといいだした。</b></p><p><b>「二人のダシに使われるんじゃ面白くないだろ」</b></p><p><b>　言われてみればそれもそうだ。雷蔵、ナナコには超あまい。</b></p><p><b>というわけで総勢四人、秩父の山にくりだしたのだった。</b></p><p><b>アンにとっては最高の日本の思いでになった。</b></p><p><b>国には風情のある紅葉の山など薬にしたくてもない。</b></p><p><b>人の旦那だが、なにやら感じのわるくない男もくっついてきた。</b></p><p><b>アンだって、やっぱり男が多いほうがなんとなく浮きたつ。</b></p><p><b>草のうえで弁当をひろげ、ちょっとだけビールを飲み、車に備えつけのバックミュージックにあわせて歌をうたった。請われて子どものころ覚えたダンスも踊った。</b></p><p><b>日本人ならなんてことない娯楽が、アンには夢のようにたのしく感じられた。</b></p><p><b>ドライブから帰ってきてから、とうぜん</b><b>啓次郎</b><b>との距離は一気にちぢまっている。</b></p><p><b>日本人は意地悪ではないが、欧米人に対するほどアジア人に寛容ではない。</b></p><p><b>みずからイエローモンキーのくせに、なんとなく見くだしているようなところもある。</b></p><p><b>「アンはえらいよなあ」</b></p><p><b>啓次郎くらいじぶんの話をまじめに聞いてくれて、共感してくれる人間はいない。</b></p><p><b>　　</b><b>境遇も年齢も肌の色もちがう。しかし人と人、男と女がわかりあえるというのは、それを超越したところにあるのか。</b></p><p><b>　アンははじめて部屋のなかに男をいれ、チュウもした。</b></p><p><b>　が、問題はそこから先である。</b></p><p><b>年も年の看護師、いまさら男と関係するのに大した抵抗があるわけではない。</b></p><p><b>求められたら、アンはこばむ気などまるでなかった。</b></p><p><b>いや正直なところしてほしかった。</b></p><p><b>ふつうの男だったらさっさと前に進んで、日をおかずその流れになっていたはずだ。啓次郎はしかし慎重だった。</b></p><p><b>刹那の感情まかせてみても、先にたのしみのない間がらである。</b></p><p><b>あと数ケ月で別れは確実にやってくる。このまま深みに嵌っていいのかどうか。</b></p><p><b>（別れたほうがお互い無難なんかな）</b></p><p><b>　行きつ戻りつしていた。</b></p><p><b>　いっぽうアンもまた同じようなことを考えていた。</b></p><p><b>　啓次郎と別れたくないのはやまやまだった。</b></p><p><b>しかし日本で看護師を続けるということは、理論上はやってやれないことではないが、現実はそうかんたんではない。というより事実上不可能である。</b></p><p><b>国がらみの境遇は、本国での強力な身分保証と表裏一体に、自由度はかぎられている。もしじぶん勝手にしたければ、多額の留学費用を返せということになる。</b></p><p><b>金銭的な問題もさりながら、期待を背負って留学した以上、国に義理恩義もある。</b></p><p><b>世話になるだけなって、ライセンスをとったらハイチャでは、お国もたまるまい。</b></p><p><b>そういうわけで極めてまだるっこしいのだが、二人はなかなかそれ以上進まなかった。</b></p><p><b>　微妙な関係がつづいていたとき、アンにふたたび転機がおとずれた。</b></p><p><b>「アンは頭もいいしサ、努力家だから看護師はもったいねえな。</b></p><p><b>日本だと医者になれるんだがなあ」</b></p><p><b>「‥‥？」</b></p><p><b>「日本には自衛隊に関係する大学に医学部があって、授業料はタダなんだ。</b></p><p><b>小遣いまでくれるらしい。ベトナムにはそういうシステムはないんかね」</b></p><p><b>アンはそれについての知識がない。</b></p><p><b>そこでまさかと思いつつ、Ｓ病院で職員にもたされている携帯で検索してみた。</b></p><p><b>すると、がび～ん、なんと翌年四月からまさに同じような医学部が、軍に新設されるという情報を得たのである。</b></p><p><b>授業料免除はおろかさらに条件よく、下士官相当の支給がでるという。</b></p><p><b>これにはわけがあって、大陸が国際協定の決議を無視してどんどん侵略してくるため、国は国防を強化しなければならず、その一環として軍医も育てる必要性が生じたのだ。</b></p><p><b>もっとも被害の大きい国はフィリピンとベトナムで、南シナ海がかき回されている。</b></p><p><b>大陸は同海ぜんぶが自国の領海だといつもの横車。乱暴なゴリ押しは得意中の得意だ。</b></p><p><b>ベトナムにもこれまで軍に関係する医者はいたが、軍医養成の専門の学校はなかった。</b></p><p><b>選抜試験にはまだ時間がある。</b></p><p><b>　またまた大チャンス、一気に医者になれるかもしれない。</b></p><p><b>　軍医でも医者は医者、いやむしろお上の息がかかり、権威たかく好待遇にちがいない。</b></p><p><b>　さいわいベトナムは女性差別の少ない国である。軍に女はだめ、なんてことはない。</b></p><p><b>　本国へ帰った留学生なかまの一人と連絡をとったところ、くわしい試験情報とともに、</b></p><p><b>「アンならできると思う。ガンバッて」</b></p><p><b>彼女もアンの能力をもったいないと思っていたのだろう。</b></p><p><b>メラメラとチャレンジの炎が再燃した。仕事をしながら受験勉強再開。</b></p><p><b>（今のわたしに通せない試験はない）</b></p><p><b>　もまれもまれてカン所はわかっている。</b></p><p><b>啓次郎はそいうアンをそっとしておいた。</b></p><p><b>アンの人生はいまあきらかに上昇気運、伸ばせるだけのばしてやりたい。</b></p><p><b>ジングルベルが聞こえ、まもなく年があけると、二人の日にちが経つのははやかった。</b></p><p><b>あっというまに、もうこれであすはお別れという日が来てしまった。</b></p><p><b>アンはつくったべトナム料理を食卓いっぱいにならべ、思ったよりさばさばした感じで食前酒のワイングラスを合わせた。</b></p><p><b>「日本で啓次郎に会えてホントによかったわ」</b></p><p><b>「アンが医者になるころすぐにこっちもさ。なんだかたのしいよね」</b></p><p><b>二人だけのささやかなお別れパーティーがおわり、</b></p><p><b>「お元気で」</b></p><p><b>「アンも」</b></p><p><b>　小さく手をふりあい、外にでた</b><b>啓次郎</b><b>は乗ってきた自転車をこいだ。</b></p><p><b>しばらく行ったあとで、急にハンドルを切り返した。</b></p><p><b>全速で走りアンのアパートの下にガシャンと乗りすてると、階段を駆けあがって部屋のドアをどんどんとはげしく叩いた。</b></p><p><b>だれとも聞かずドアはすぐにあき、泣きはらした頬は涙でべたべただった。</b></p><p><b>わあっとむしゃぶりついてくる。</b></p><p><b>啓次郎</b><b>は明けがたまで部屋にいた。男と女の関係はそれが初めてで最後になった。</b></p><p><b>帰り道の天空にはうす青い三日月が</b><b><ruby>朧<rp>(</rp><rt>おぼろ</rt><rp>)</rp></ruby><b>にうかんでいる。いまにも消えそう。</b></b></p><p><b>なんだかもうすぐ遠い存在になるアンに似ているなと思った。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>サブこと三男啓三郎。</b></p><p><b>彼のばあい、名前の文字数はおなじでも発音は長いので、やっぱりサブがよかろう。</b></p><p><b>みんなにもサブちゃんと呼ばれていた。</b></p><p><b>兄たちと同じように、やはり若い日のいろいろな経験をしている。</b></p><p><b>でだしは中二の夏休みがあけたころの秋口、担任の女教師に呼びだされたことから。</b></p><p><b>なんの話か知らないがネガティブな心あたりはない。</b></p><p><b>教師の担当は英語、小太りのおっとり性格で、サブは彼女に好感をもっていた。</b></p><p><b>サブに気づいた教師は、職員室の一画でこいこいをする。</b></p><p><b>「じつはネ、多少さきの話なんだけど、こんど年末に英語の中高の東京論大会があるの」</b></p><p><b>「はあ、弁論大会、英語の」</b></p><p><b>そういえば最近、そんなポスターが学校のどこかに貼ってあった。</b></p><p><b>サブ、英語は読み書きは不得意ではないが、会話はいまひとつ。</b></p><p><b>「もちまわりで、中学校の部は今回本校でおこなわれるんだけど、どう出てみない」</b></p><p><b>「はあ、でもぼくは会話がニガ手で発音ガタガタです」</b></p><p><b>　クラスに帰国子女がおりネイティブ同然である。そっちの子のほうがいいのでは。</b></p><p><b>「弁論大会は発音じゃなくて内容よ。聞いてる方も日本人だもの、暗記した原稿の内容がちゃんと伝わればいいのよ。サブちゃんならきっと気の利いた発表ができると思う」</b></p><p><b>　しかしとくに言いたいことがあるでなし、積極的にやりたほどのことでもない。</b></p><p><b>なるべく彼女の意に添ってやりたいが、けっこうめんどうそう。ハテどうしたものか。</b></p><p><b>そこで教師はちゃんとエサを用意していた。</b></p><p><b>「うちの学校はシアトルのセント-</b><b>アンドリュース高校と姉妹校の間がらで、そこの中学部とも提携してるの。弁論優秀者はむこうの中三の下半期のあいだ留学できるのよ」</b></p><p><b>　高等部は一年間、中等部はコンパクトに半年だという。</b></p><p><b>　ほほうという情報である。本場に留学すれば会話力アップ、もちろん読み書きも。</b></p><p><b>四六時ちゅう英語づけの環境などそうあるものではない。</b></p><p><b>「そっちこっちで、最終的に履修単位はどうなるんですか」</b></p><p><b>「むこうでの成績をてきとうに内申に織りこむわ。どうせやってること違うもの。</b></p><p><b>半年くらいサブちゃんなら影響ないわよ。教科書おくるからじぶんでやって」</b></p><p><b>教師のほうでもとうぜん人選しているのである。支障のある生徒には勧めない。</b></p><p><b>（じぶんでかー）</b></p><p><b>なんと、このことばで逆にサブはその気になった。自由なのがいい。</b></p><p><b>英会話に上達し、どこまで独学で成績をあげられるものか試したくなった。</b></p><p><b>しかし発表さえすればシアトルに行けるという話ではない。</b></p><p><b>東京全区で、上位三人までの枠しかないからなかなかたいへんだ。</b></p><p><b>というわけで、以下サブの弁論の抜粋である。はたして説得力ありや。</b></p><p><b>「――日本は世界きっての地震国であります。</b></p><p><b>地震の予測ができたなら、どんなに人々の福音となることでしょう。</b></p><p><b>日本はもちろん、世界中の地震学者や地質学者が日夜研究に供しています。</b></p><p><b>しかしその研究の成果はまだ満足のいく段階ではありません。</b></p><p><b>なぜでしょう。それは自然の時空があまりに大きいからです。</b></p><p><b>たとえば首都直下型の地震がいつおきるか、最長でも年単位で知りたいとします。</b></p><p><b>ところが、自然にとっては刹那の時間のズレであっても、人間には長大なタイムラグとなってしまい、数十年数百年単位ではもはや情報としての意味がありません。</b></p><p><b>人々は、天変地異をまのあたりにしますと、自然の巨大さ激しさに恐れおののきます。</b></p><p><b>しかしじつはおそるべきスピードで地表を変化させ、二酸化酸素をためて温暖化をもたらしたのは人類自身なのです。</b></p><p><b>　熱帯雨林の木を切り倒して砂漠化させ、北極の氷をとかしてきたのです。　</b></p><p><b>札幌は明治のはじめに開拓使がおかれたとき、一面草ぼうぼうの荒れ地でした。</b></p><p><b>百年まえのラスベガスは砂漠の荒野でした。たかだか長生きしたひとの一生分です。</b></p><p><b>　この性急さは自然の変化の比ではありません。</b></p><p><b>タイムマシンで時代をさかのぼってみますと、帯の色を染め変えたように、その前後で人々の生活にあきらかな違いがみられる時点があります。</b></p><p><b>　それは地球時間では一瞬でしかない、二百数十年まえの産業革命です。</b></p><p><b>　人類はそれまで連綿と数百万年の長きにわたり、変化の少ない生活を送ってきました</b><b>.このときはじめて化石燃料を地中から掘りおこしたのです。</b></p><p><b>　それは人類を発展させるものであり、やがて首を絞めるものでもありました。</b></p><p><b>それまで近代的な意味での都市は存在しませんでした。</b></p><p><b>ロンドンやパリ、江戸も単に人口の密集地というだけにすぎなかったのです。</b></p><p><b>　ほとんどの人々は村々で地産地消、自分たちでつくって自分たちで消費していました。</b></p><p><b>　労働者が集住して近代都市をつくりあげ、じぶんで使わない商品を大量生産するようになったときから人類はちがう生物種にうまれ変わったのです。</b></p><p><b>ふつう生物種は気候の変化や食物事情など、外界の環境変化に対応できなくなって絶滅していきます。しかし人類はおそらくそうではありません。</b></p><p><b>人類はたちまち地表を変えるほどの知恵と力をもっています。</b></p><p><b>それがまさにもろ刃のつるぎで、ほんとうの英知があれば、みずからをも傷つける</b><b><ruby>刃<rp>(</rp><rt>やいば</rt><rp>)</rp></ruby><b>でもあることに気づき、対策をとってしかるべきなのですが、それはきわめて困難です。</b></b></p><p><b>なぜなら、人々は目さきの損得や便利さに左右されやすいからです。</b></p><p><b>わたしたちはいまさら車を降りて歩くことや、携帯なしで生活することはできません。</b></p><p><b>現在地球上はアジア、アフリカの第三世界を中心に人口爆発の状態にあり、近い将来</b></p><p><b>途上国の国民も現代機器をフル活用する時代がきます。</b></p><p><b>もはや商品を大量生産するという流れはだれにも止められません。</b></p><p><b>機械はエネルギーなしでは動かせず、エネルギーを生産するということは、化石燃</b></p><p><b>料にせよ原子炉にせよ、なんらかのかたちで地球を汚すということです。</b></p><p><b>クリーンエネルギーの開発にはまだ時間を要します。</b></p><p><b>一回一回の何げない携帯の通話やゲーム遊びが地球の汚染につながるのです。</b></p><p><b>さらに国々はいつまでも戦争をやめませんが、破壊行為は地球汚染の最たるものです。</b></p><p><b>エネルギーや資源を大量に浪費し、コスト高につくった弾丸を鉄くずにもどします。</b></p><p><b>若い男子労働力が食物を生産するどころか、無用の銃を持ち無為に消費するだけです。</b></p><p><b>かんたんな理屈なのですが、為政者たちは覇権主義にながれて理解しません。</b></p><p><b>ゆえに人類はみずからの卓越した能力で発展し、そしてみずから滅んでいくのです。</b></p><p><b>悲観的推測はもちろんうれしくはありませんが、蓋然性のたかいけして楽観できない状況でもあります。</b></p><p><b>しかし、それに気づいて憂慮している人々が少しずつふえていることもまた事実です。</b></p><p><b>　わたしたち若い世代は、そういう人たちと手をたずさえ、さらに率先してみんなに危機的状況を訴えなくてはと思います。</b></p><p><b>　一人一人が自覚し、地球の環境を守っていかなければならないと切に考えます――」</b></p><p><b>　なにやら世界終末の予言のような内容だが、歴史や社会など傍証がしっかりしているので、なるほどと耳を傾けたくなる。</b></p><p><b>ホントにサブの主張のとおりになるのかもしれない。</b></p><p><b>　かといって、サブが実際にそれについて今すぐ何か行動をおこすということはないが。</b></p><p><b>　うしろの結語のほうは、建設的にしないと点数を下げてしまうのでつけたした。</b></p><p><b>かいあって首尾よく二位入賞、うまうまとシアトル行きの切符を手にした。</b></p><p><b>ちなみに最優秀賞は黒い肌をした女の子の発表で、いかに日本での差別に苦しんだかというようなものだった。</b></p><p><b>お涙頂戴的だが、教育関係者の審査員好みでまあわからんでもない。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>成田発シアトル直行便は九時間超で、タラップを北米西海岸の滑走路におろした。</b></p><p><b>四肢関節に、バネを仕込んだように動きのかるい男がさっそうと降りてくる。</b></p><p><b>ヨシノ色の頬は春秋あさく、十四歳。</b></p><p><b>三月のあたまでまだ寒い。シアトルにも四季がある。</b></p><p><b>緯度のわりには比較的温暖だが札幌より上にあり、亜寒帯で夏にクーラーは必要ない。</b></p><p><b>サブがフィリピンを訪れたとき、なんともいえない南国の空気の肌あいに圧倒されたが、ここの大気は冷たいだけで、東京とさほど変わりはなかった。</b></p><p><b>空港のたたずまいも成田と似たようなもので、ことさら異国という感じでもない。</b></p><p><b>そも日本人が、欧米型の建物や社会をまねてきたのだから自然に似てくるわけだ。</b></p><p><b>すでに夕方遅くで、留学先の学校へ出向いて手続きをとれる時間ではなかった。</b></p><p><b>サブはタクシーでネット予約のホテルにむかった。</b></p><p><b>部屋ですぐにネット検索し、学校の近くの下宿屋をあたった。</b></p><p><b>めんどうなことは、なるべく早く先にすませてしまいたい。</b></p><p><b>てごろなのが見つかったので、夜もふけたが、あるじがベッドに行く時間でもなさそうだと思い、すぐに連絡してみると女の声で、これから面接してもよいという返事。</b></p><p><b>さっそくタクシーでそこへ駆けつけた。</b></p><p><b>下宿屋といっても、ようするに数部屋のみの民間のちいさなホテルである。</b></p><p><b>部屋が空いているときは一日かぎりの宿泊でもいいが、個人経営なので人手の都合上、長期の滞在を歓迎しているという物件である。ながくいれば安くなる。</b></p><p><b>カウンターに中年のでっぷり太った女主人がでてきて、</b></p><p><b>「あらまあ、声から若いおにいちゃんだとは思ったけど</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>　パスポートをみて、</b></p><p><b>「うーん、ジュニア-</b><b>ハイかあ、ぼうやはちょっとなぁ</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>　言いかけたとき、サブは上着の内ポケットから財布をとりだし、高額紙幣をさっと彼女の手ににぎらせた。フィリピンでタロあにいが使った裏技だが、ここでも商売がらチップは珍しくないはず。日本人にはない発想だが。</b></p><p><b>「ということもないか。べつに法律ないし</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>　ころりとトーンが変わった。すかさず、</b></p><p><b>「ボクだいじょうぶです。これ見てください」</b></p><p><b>　サブはセント-</b><b>アンドリュース高校の留学証明書をとりだして女主人見せた。</b></p><p><b>「ちゃんとしていない生徒には発行されません」</b></p><p><b>　そりゃそうだろう。学校間でおかしな生徒をやりとりするわけない。</b></p><p><b>　これで女主人はすっかり信用したようだった。</b></p><p><b>　サブ、兄たちにまけず交渉力あり。異国の地ではこれくらいできないと寒い。</b></p><p><b>あとは支払いの問題だが、とりあえず一週間分をキャッシュで払い、</b></p><p><b>「のこりの三週間分あした振りこみます。まい月一か月分の先払いでいいですよね」</b></p><p><b>　素行が方正で部屋代を支払えば、あるじとしては問題ない。</b></p><p><b>　契約はぶじ成立した。太った女はいっぱんに性格もまるいかも。</b></p><p>&nbsp;</p><p><b>学校の授業はおしなべて日本のそれよりもすこし程度が低いように思われた。</b></p><p><b>　数学などは日本のほうがむずかしい。ゆとりをなんとか脱却した。まだ少しあまいが。</b></p><p><b>しかしこちらでの方がいいところもある。</b></p><p><b>とくに理科は実験が多く、そのたびにレポートを書く。そのときはめんどうだけれども、あとになってみるとよく理解が深まっていることに気づいた。</b></p><p><b>試験は点数さえ取れればいいので、準備はその場かぎりの短時間になりやすい。</b></p><p><b>レポートはあれこれ調べて長時間無意識に勉強する。結果的に試験より効果的である。</b></p><p><b>なるほど知識にたいするアメリカ流アプローチもわるくない。</b></p><p><b>学校の勉強と並行して、送られてきた日本の教科書もしこしこ読んだ。</b></p><p><b>あっちもこっちもだと、なにを取り捨て選択するかだが、あまり気にしないことにして、目のまえのことに集中した。知識はなんでも巡って有機的につながっていく。</b></p><p><b>勉強にかんしてはとくに問題なかったが、クラスメートとの人間関係は微妙である。</b></p><p><b>例によって人種のるつぼ、白黒黄色褐色なんでもあり。もちろん白がメジャーだが。</b></p><p><b>口にはださないが、なんとなく色つきは軽くみられているような気がする。</b></p><p><b>しかし日本人だって、ハラのなかでは白と黒を同等に見ているかは疑問だし。</b></p><p><b>また、生徒の質が日本のようにそろっておらず、みそもくそいっしょ、玉石混交という感じだった。日本人はことさら均一のコミュニティを好むが、いっぱんにアメリカ人はそういうことにかんしてはアバウトになりやすい。</b></p><p><b>クラスでは番長グループがはばをきかせていた。いまどきという感じだが実在した。</b></p><p><b>“ボブ”というのが番長の名で、ボブは“ロバート”の短縮形である。</b></p><p><b>　グループの構成員はもちろん素行不良、成績低迷のしょーもない連中である。</b></p><p><b>　なんでこんなハンパ連をクラスの構成員にくわえているのか、サブには理解不能だ。</b></p><p><b>クラスに“ジェフ”と呼ばれている男生徒がいた。本名は“ジェフリー”である。</b></p><p><b>　小柄で気の弱そうな顔をしているが、じっさにそうだった。</b></p><p><b>番長を中心に、彼にしたがうグループのあいだでイジメをうけていた。</b></p><p><b>　ボブのパシリにされ、ときどき顔に青あざをつくったりしている。</b></p><p><b>典型的いじめっ子いじめられっ子関係、どこの国でも小僧どもはロクなことをしない。クラスメートたちはもちろん知っていたが、見てみぬふりをしていた。</b></p><p><b>うるさい番長グループと、わざわざコトを構えるほど酔狂でもなければ腕力もない。</b></p><p><b>サブも苦々しくは思っていたが、他人のことにすぐに口出しもできないし、十中八九力ずくになることは目に見えている。</b></p><p><b>じぶんに被害がおよべばこぶしを交えるのにやぶさかではないが、こちらからふっかけるのは格闘家のとるべき態度ではない。</b></p><p><b>しかしある日とうとう見かねて、ここで出ていかなければ男じゃないという場面に出くわしてしまった。へたに腕力におぼえがあるのも痛しかゆしである。</b></p><p><b>放課後サブが帰宅しようとして校門からでたとき、ジェフはグループにかこまれ、全員のカバンを一人でもたされてヨタヨタと歩いていた。</b></p><p><b>みんなにこづかれたり、揶揄されたりしている。サブには看過できない。</b></p><p><b>「オヤオヤ、そういうのはいけないねえ」</b></p><p><b>　サブ、まずはおだやかに声をかけてみた。</b></p><p><b>「あんだあ、このやろう。新入りのジャップじゃねえか」</b></p><p><b>　ボブが悪態をつく。ワルらしく三白眼の目つきの鋭い男。サブより一回り大きい。</b></p><p><b>年配者にでも聞いたのだろうか、古い差別用語を知っていたものだ。</b></p><p><b>「ジャップでもなんでもいいが、いいかげんかんべんしてやれよ。息ついてるぜ」</b></p><p><b>「けっ、くそイェロー。足元あかるいうちにうせやがれ」</b></p><p><b>　こりゃだめだ、ハナシにならない。</b></p><p><b>サブはジェフが持たされたカバンの一つをもぎり取り、ポーンと遠くへほうり投げた。つづいて二つ目に手をかけたとき、</b></p><p><b>「あ、おれのカバンだ。なにしやがるこのやろう」</b></p><p><b>グループの一人が罵声とともにサブに蹴りをいれてきた。</b></p><p><b>その一撃がガシッとサブの右の下腿に入った。</b></p><p><b>横目で彼の動きをみていたので回避はできたが、わざと一発やらせたのである。</b></p><p><b>四肢は角棒で攻撃される訓練をうけているため、筋肉を固くすると痛くない。</b></p><p><b>さきに手を出させれば、そこから先はこっちの自由だ。</b></p><p><b>むかしの西部劇の影響が残っているのか、アメリカ人はそのパターンが好きである。</b></p><p><b>日本も太平洋戦争開戦のとき、真珠湾でこのテをくらった。</b></p><p><b>サブはすばやく相手の背後をとり、裸じめをかけた。父親直伝である。</b></p><p><b>これはひごろかまってくれない彼がとくべつ教えてくれた。</b></p><p><b>意識をうしなった相手にカツをいれて元にもどし、グループのほうへおいやると、彼らは呆然としてそいつをうけとった。</b></p><p><b>サブは残りのカバンをすべてそこらに捨てさせ、</b></p><p><b>「ジェフ、もう帰りな」</b></p><p><b>　ジェフは、う、うんとうなづいたが、すぐに立ち去ろうとはしない。</b></p><p><b>あとでグループの報復を恐れているのかもしれない。</b></p><p><b>サブのあざやかな裸じめにいったんおどろいたが、カバンをバラまかれてだまっている連中ではもちろんない。数をたのみ、東洋人の一人くらい一ひねりと思っている。</b></p><p><b>サブも日本人としては体格にめぐまれたほうだが、なにしろこいつらデカい。</b></p><p><b>「このまま帰れると思うな」</b></p><p><b>「タップリかわいがってやる」</b></p><p><b>にじりよってくる連中をまえにサブは、両手をハの字に構えて戦闘態勢をとった。</b></p><p><b>こぶしをつくらない空手タイプの独特な手指のかたち。</b></p><p><b>ボクシングスタイルが一般的な欧米人には異様に映るが、連中もあとには引けない。</b></p><p><b>まさにはじまらんとしたとき、騒ぎを聞いて体操の教師がかけつけた。</b></p><p><b>みていた女子生徒が知らせたらしい。日本なら生活指導というところか。</b></p><p><b>教師はレスラーみたいな体格をしている。軟弱者では勤まるまい。</b></p><p><b>グループにむかって、</b></p><p><b>「またおまえらか、いいかげんにしろ」</b></p><p><b>ということは、この教師もふだんの彼らの動向はわかっていたらしい。</b></p><p><b>　不良たちのいいわけなどきかず、あたまごなしに彼らが悪いと決めつけている。</b></p><p><b>　じっさいそうだが。女の子の状況報告を聞いたのだろう。</b></p><p><b>サブとジェフにむかっては、</b></p><p><b>「君たちは自由にしてよろしい。こいつらはわたしが言いきかせておく。</b></p><p><b>おいボブ、おまえ日本人の空手ダコみたか。やってたらおまえらケガしてたぞ」</b></p><p><b>マジな口調で、ただの威嚇に聞こえなかった。</b></p><p><b>げんにグループは切って捨てるような裸じめも目の当たりにしている。</b></p><p><b>「やるってんなら止めねえで見ててやるぞ。</b></p><p><b>空手マンに金的でペニス折られたやつ知ってるぜ。気イつけな」</b></p><p><b>「</b><b>······</b><b>」</b></p><p><b>　ボブ以下メンバーは沈黙し、不気味なものでも見るようにサブを見た。</b></p><p><b>　ちょうどサブが、何気なく右手をあごの下にあてていたところだったので、もろにタコが強調されて見えた。きのう今日の修行産物でないことはだれの目にもあきらかだ。　　</b></p><p><b>教師のことばが効いたのだろう、その後ボブは、サブにはもちろんジェフにもいっさい手をださなくなった。</b></p><p><b>サブの滞在中ジェフは兄とばかりにサブを慕い、何くれとなく便宜を図ってくれた。</b></p>
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<link>https://ameblo.jp/igakubumonogatari/entry-12290181586.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Jul 2017 16:16:20 +0900</pubDate>
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<title>第３３章</title>
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<![CDATA[ <p><b>三日目の朝、一向はミンダナオ島ブトアン行きの小さなレシプロ機に乗った。</b></p><p><b>プロペラ動力はちょっとした気流でもおおげさに揺れる。</b></p><p><b>「この飛行機、なんだか心配だな」</b></p><p><b>「でもむかしのレシプロなんてまだまだチャッチイよ」</b></p><p><b>「大丈夫だ。おれといっしょに乗ってれば落ちない。自分は運がいいからな」</b></p><p><b>「どういう理論だよそれ」</b></p><p><b>　なんてことを話しているうちに、国内便はたちまちブトアン空港に着地した。</b></p><p><b>さっそくジロのタクシー交渉が始まる。</b></p><p><b>「また半額だ。まあガス代と距離を見込めばこんなものかな」</b></p><p><b>　二時間ほど悪路にゆられてボイナビスタ村に到着した。</b></p><p><b>　村の入り口にいた子どもに聞くと、アラース家はすぐにわかった。</b></p><p><b>　ミニミニ宮殿風でそれでも村一番の豪邸である。</b></p><p><b>　日本から突然の親族の訪問にアラース家びっくり、かつモロ手を挙げての大歓迎。</b></p><p><b>　ミカエルの父親アラース氏と夫人、その他おおぜいの家族が出迎えた。</b></p><p><b>　アラース氏はいい年だが、まだかくしゃくとして元気だった。</b></p><p><b>　あとで聞いたところによれば、村の村おさで、元は国防軍の要人だったという。</b></p><p><b>　つまり村いちばんの名士である。やはりここもが血を引いているルーツだ。</b></p><p><b>褐色のいかつい顔をくしゃくしゃの笑顔にして、</b></p><p><b>「よう来んしゃった。ささ、中へ中へ」</b></p><p><b>　見るからにピチピチの孫娘とひ孫が三人もあらわれて嬉しくない人間などいない。</b></p><p><b>　ただしアラース氏と妻は、その日一日はひ孫四人と思っていた。</b></p><p><b>　説明したはずだが、ここもが母親には見えなかったのだ。どっちでもいいが。</b></p><p><b>　娯楽の少ない田舎だから、何かと理由をつけては飲み会やパーティが開かれるのだろが、これはもう格好の大騒ぎ材料である。</b></p><p><b>村全体にビビッと電気ショックが走り、にわか祭りの準備に色めきたった。</b></p><p><b>情報は近村にも駆けめぐり、やがて一族郎党がぞくぞくと終結した。</b></p><p><b>アラース家では家族やメイドたちがてんやわんやだが、とりあえず飼っていたブタを一頭つぶして丸焼きが始まり、部屋のホールにお土産のカラオケセットが設置された。</b></p><p><b>食材は束ごと、ビールはケースごと小型トラックで山のように運び込まれてくる。</b></p><p><b>村民の子どもたちや若い連中がひきもきらず、わいわいガヤガヤ、日本からの来客を一目見ようと、入れかわり立ちかわり窓や玄関からのぞいた。</b></p><p><b>「わ、おれたちパンダかよ」</b></p><p><b>「これほどとは思わなかったナー」</b></p><p><b>「いいじゃないの～、自分たちが騒ぎたいのさ。おれたちもパーッと行こうぜ」</b></p><p><b>夕方早い時間に準備がととのい、いよいよ本格的にパーティが始まった。</b></p><p><b>ホールにぎっしり、外にもぎっしりの人だかりの前で、カラオケのマイクを使ってまず当主、直系尊属のアラース氏の挨拶からである。</b></p><p><b>来客にもわかるように英語でしゃべってくれた。</b></p><p><b>彼らはほとんどの人が話せる。日常の会話だけだけれども。</b></p><p><b>ここもは独学でタガログは若干解するが、たいしたことはない。</b></p><p><b>「みなさん、聞いておくんなさい。</b></p><p><b>これまで長いこと生きてきて、いいこともあったし、そうでないこともあった。</b></p><p><b>今日はわしの人生でいちばんいい日なんじゃ。</b></p><p><b>　ずうっと、今の今までせがれはてっきり犬死したものとばかり思うておった。</b></p><p><b>　それがそうでもなかったということが分かったのじゃ。</b></p><p><b>　せがれにこんな立派な孫たちがいたとは、まだ信じられないくらいじゃ。</b></p><p><b>それもはるばる大国日本から、こんな田舎まで尋ねてきてくれてのう。</b></p><p><b>　このまま老いさらばえてあの世行きとばかりと思うておったに、今日ほど生きてきた甲斐があったと思う日はないわい――」</b></p><p><b>　あながち誇張ばかりでもなさそう。なんだかホロリとさせられる。</b></p><p><b>そのあと、ここも以下自己紹介し、アラース夫人の乾杯でドンチャンはじまった。</b></p><p><b>ここもの出し物は、もちろん例のフィリピンソングである。</b></p><p><b>じつはまだ数曲レパートリーがある。どれもやンややンやのバカうけ。</b></p><p><b>「御前がこんな歌えるとは知らなかったな」</b></p><p><b>　人まえで歌ったのはタロたちが生まれる前のことだ。</b></p><p><b>カラオケやらダンスやらディスコやら。夜がふけても際限もなく続いた。</b></p><p><b>「すごいな。いつまでやるんだろ」</b></p><p><b>「なーに朝までさ。おれたちなんてもう関係なくなってる」</b></p><p><b>　アラース夫妻以外の人間たちにとってはそうだろう。</b></p><p><b>　<ruby>喧噪<rp>(</rp><rt>けんそう</rt><rp>)</rp></ruby><b>自体は景気がよくて不快ではないが、じわっとくる暑さは気分的に増幅される。</b></b></p><p><b>　エアコンは作動しているし、扇風機もフル回転だが、宴会中で窓もドアも開け放しだ。</b></p><p><b>「水ブロに入りたいな」　</b></p><p><b>　ジロが言ったとき、まるで聞こえたかのようにアラース夫人がやってきて、</b></p><p><b>「みなさん、お風呂はいかがかの」</b></p><p><b>この風呂というのが日本のとは違っている。</b></p><p><b>バスルームに案内されるかと思ったら、外へ出てポンプのある水場に連れて行かれた。</b></p><p><b>夫人は何人かいるメイドの少女の一人に、“バスの使い方”を教えるように指示した。</b></p><p><b>べつに難しくないが、はじめての者には説明が必要。</b></p><p><b>男はパンツをはいたまま体じゅうに石鹸を塗りたくってしゃがみ、そこらにいる子どもたちに、ポンプの水を備えつけのひしゃくで頭からかけてもらう。</b></p><p><b>なーに野郎なんかちょこっと手で隠して、泡でもつければパンツもいらない。</b></p><p><b>女はどうするか。ここもの目の前でメイドがじっさいに実演して見せた。</b></p><p><b>部屋のなかで、着古した薄手のワンピース一枚に着替え、ポンプまで来る。</b></p><p><b>着たまま上から石鹸を塗ってこすりたてる。</b></p><p><b>泡を水で流してからバスタオルを巻き、着衣を下に落として部屋に戻ればよい。</b></p><p><b>水かけ役の子どもたちは枯渇することはない。</b></p><p><b>ポンプの傍らにある手作りの<ruby>大丸太<rp>(</rp><rt>おおまるた</rt><rp>)</rp></ruby><b>半割の長椅子に、四六時中ごろごろしている。</b></b></p><p><b>彼らはもちろん自分たちで水をかけあい、年中水遊びだ。</b></p><p><b>「いやーこんな気持ちのいい風呂はないよ」</b></p><p><b>　ジロが一番のお気に入りだった。</b></p><p><b>「手足を伸ばしても当たるモノがない。星空の下で風呂なんて贅沢サイコー」</b></p><p><b>加えて子どもたちに水をかけてもらうから、ちょっとした王侯貴族の気分だ。</b></p><p><b>日本人は外で水浴びなど発想外、ワンタッチでお湯の出る風呂を文化的と思っている。</b></p><p><b>「な～に考えてみたらじっさいは貧しいもんだぜ」</b></p><p><b>ちょっと手足を伸ばせばあっちへドスン、こっちへバタン、間接曲げ曲げの窮屈さ。</b></p><p><b>風呂場の設備はコスト高だが、フィリピン風呂に比べたらバカ安である。</b></p><p><b>何が安いかというと人件費。二十四時間水かけ役を雇ったら目玉とび出る。</b></p><p><b>三日目はそんなぐあいで、一行は旅の疲れも重なって気持ちよく熟睡した。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>四日目の朝、みんなに先駆けて飛び起きたのはサブ。</b></p><p><b>中学生は元気があり余っている。</b></p><p><b>アラース邸二階のベランダにでて、空手の型を練習しはじめたところ、子どもたちがそと階段をのぼって一人二人と集まってきた。</b></p><p><b>七八人くらいになったところで、どこか遊びに行くところはないかと聞くと、近くに川の上流があり、水遊びができるとのこと。</b></p><p><b>「よし、そこへ行こうぜ。ほかに行きたい者がいたら連れてきな」</b></p><p><b>　サブの英会話は、まだ兄たちのように達者ではないが、頭のなかで作文しながら子どもの相手くらいなんとかなる。ほどなく、ぞろぞろと総勢十数人集まった。</b></p><p><b>　なかには五歳くらいの子が、数ヶ月の赤ん坊を背中に、手にはミルク瓶を持ってとことこついて来るのもいる。いちばん小さいので三歳くらいか。</b></p><p><b>「おまえこの子をフォローして。おまえはこっちの子だ」</b></p><p><b>年長の子たちに事故防止のガードを固めさせた。</b></p><p><b>まだ早朝で車は走っていないから、それは心配ない。</b></p><p><b>さらに川での張り縄用に、年長に長いロープをもってこさせた。</b></p><p><b>十五分ほどかけてゾロゾロと子どもたちを引率し、川のほとりに到着した。</b></p><p><b>きれいな小川で、そこだけなら水深はたかがしれているが、目を離したスキに下流へ遊びに行かれると危ないので、ロープを張って用心した。</b></p><p><b>「よーし、ロープのこっち側なら好きに遊んでいいぞー」</b></p><p><b>　子どもたちはわっと水に入り、パシャパシャ掛けあったり、小魚を追いかけたりする。</b></p><p><b>サブは小石を集めさせ、みんなで協力してダムを作ったりなどした。</b></p><p><b>一人ではなんてことないことでも、大勢でやればおもしろい。</b></p><p><b>しばらくそうやって遊んでいるうちに、サブは早々と腹が減ってきた。</b></p><p><b>「何か食い物調達できんかね」</b></p><p><b>年長の一人に尋ねると、</b></p><p><b>「近くに魚市場があるだよ」</b></p><p><b>「よし、ラプラプを二十匹ばかり買って来てくれ。サリサリでマッチもだぜ」</b></p><p><b>　ラプラプは十六世紀のフィリピンの英雄だが、その名前がついたずんぐりした魚だ。</b></p><p><b>　サリサリは住民たちがやっている一部屋だけのミニコンビニで、至るところにある。</b></p><p><b>　サブは村へ来る途中、いくつもそれを見た。</b></p><p><b>　ポケットに入っていたペソ紙幣を適当に渡した。</b></p><p><b>物価の見当はだいたいついているし、村民のまいにちの食材が高いわけがない。</b></p><p><b>「おつりはみんなで分けていいぞ」</b></p><p><b>年長を三人派遣している間、チビたちにそこらの枯れ枝をどっさり集めさせた。</b></p><p><b>焼き魚の燃料と焼き串用である。</b></p><p><b>まもなくお使いたちが、新聞紙に包んだラプラプを両手にかかえて戻ってきた。</b></p><p><b>あちこちで煙が立ちはじめる。</b></p><p><b>サブをはじめ年長の子たちが調理係で、小さい連中は焼けるのをじっと待っている。</b></p><p><b>火が通ったか確認のためもあって、年長は一口食べてから年少に渡してやる。</b></p><p><b>味付けは一切ないが、腐敗防止の塩がたっぷりと引いてあるのでとくに必要はない。</b></p><p><b>年少たちはみな大人しくて辛抱強く、順番が遅くても泣いたり取りあったりしない。</b></p><p><b>貧しいので、分けあうという習慣が小さいときから身についているのだ。</b></p><p><b>魚は用意した分だけきれいサッパリ育ち盛りたちの腹に収まった。</b></p><p><b>デカイのが最低でも一匹あたったはずだが、足りない者は家に帰って朝めし追加だ。</b></p><p><b>一匹半でサブの腹も落ち着いた。</b></p><p><b>「よーし、そろそろ帰るぞー。火は靴で水をすくって完全に消せよ」</b></p><p><b>　焼き魚パーティが終了したところで腰を上げた。</b></p><p><b>　子どもをかまうことくらい面白いことはないが、日本でこんな経験はまずできない。</b></p><p><b>サブがアラース邸に戻ったとき、朝食が用意されていた。</b></p><p><b>盛りつけられた皿をみると、たちまち食欲復活、みんなと同じ量をぺろりと平らげた。</b></p><p><b>「もう遊んできたけど、今日は何か計画あるの？」</b></p><p><b>「あるわよ～。さっき村の若い衆が来て、みんなで河のほとりでバーベキューやと」</b></p><p><b>「もうお腹いっぱいだよ」</b></p><p><b>「すぐじゃない。サブの腹ならじきに入るだろ」</b></p><p><b>「じゃそれまで子どもたちと遊ぼう。もう手なずけてあるんだ」</b></p><p><b>　ちょうど日曜日で学校はなかった。サブはタロとジロを誘って、子どもたちを集めた。</b></p><p><b>二十人くらいあっというまにやってくる。</b></p><p><b>まずは“ビー玉”から始まった。</b></p><p><b>玉はむかしの日本の子どもたちが使ったものとほとんど同じである。</b></p><p><b>ルールはたくさんあって、どれも単純だがそれぞれ奥が深い。</b></p><p><b>三人は子どもたちに容易に勝てなかった。</b></p><p><b>“釘刺し”は五寸釘を頭上から投げ下し地面にストッと刺す。道具はそれ一本のみ。</b></p><p><b>　陣地取りゲームの一種で、ピンポイントの正確な釘差し技術が要求される。</b></p><p><b>“ケン-</b><b>パー”は、地面に石墨で白い円を一つもしくは二つ、連ねて鎖状に描く。</b></p><p><b>　ケンは片足ケンケンのケンだから円一つ、パーは両足をつくので二つ。</b></p><p><b>　スキップを踏むようにポンポン円の中を跳びながら遊ぶ。ここもも参加した。</b></p><p><b>つまり彼らは、むかしの日本の子どもたちと同じようなことをして遊んでいるのだ。</b></p><p><b>コンピュータ搭載物は田舎では高嶺の花、シンプルな道具で遊ぶしかない。</b></p><p><b>しかし道具が素朴だからといって、遊びの奥義が浅いということはない。</b></p><p><b>対戦相手が人間だからむしろ玄妙、それに体を動かすから健康的だ。</b></p><p><b>最後は三人が師範役になり、そろって空手の稽古。</b></p><p><b>向かいあって並んだ生徒たちは、ハッ、ハッと師範にあわせて突きや蹴りをくり出す。</b></p><p><b>単純な動作がみんなでやると弾みがついて、子どもたちにはウケた。</b></p><p><b>ここももいっしょに手足を動かした。息子たちの年頃、似たようなことをやっている。</b></p><p><b>午前中はそうやって退屈せずにすごした。</b></p><p><b>昼前にボロい自家用車や小型トラックが何台もやってきて、村の若い衆が主導で子どもたちも荷台にのせ、大挙河のほとりにむかった。</b></p><p><b>遊び場には、村人たちが作ったバーベキューハウスがいくつか並び立っている。</b></p><p><b>ハウスなどといっても、地面に細い丸太をおっ立て、格子上に組んだ細枝の天井に、日差しよけのワラを乗せただけの簡素な作りだ。</b></p><p><b>それでも下に、これも手作りの長椅子やテーブルが設置され、いちおうの役には立つ。</b></p><p><b>若い衆がビールケースや食材をトラックから降ろしたりなど、いろいろ準備をするあいだ、タロたち三人は丸裸になり河へ入った。</b></p><p><b>場所がら、手でまえをちょっと隠すくらいで気にならない。</b></p><p><b>日差しが強いため水がぬるく、抵抗なくすぐに入れる。</b></p><p><b>泳ぎがいちばん上手なのはやはりサブで、土手からドブンと飛び込みぐいぐい泳ぐ。</b></p><p><b>浅瀬のところは、チビたちが入ってもせいぜい膝下までだから大丈夫。</b></p><p><b>　見ているうちに、暑いしここもも水に入りたくなってきた。</b></p><p><b>するとそれを察したのか、若い女が貸してあげると言って水着を差し出したので、その気になった。ほかにも二三人、ワンピースのまま水浴びしている女もいる。</b></p><p><b>バスタオルで覆うなど手伝ってもらって着替えたが、これが大変なことになった。</b></p><p><b>もともとフィリピン人は、日本人よりひとまわり小さいうえに、安物の古いビキニがちぢんでしまっていたので、おっぱいや尻があちこちはみ出そうである。</b></p><p><b>エロいショーに出演するダンサーのような格好になってしまった。</b></p><p><b>「あや、なんやこれ、恥ずかし」</b></p><p><b>男たちが目ざとく見つけ、指笛を吹いたり、拍手をしたり喜ぶこと限りなし。</b></p><p><b>水のなかの息子たちにも笑われ、ここも真っ赤。</b></p><p><b>見てくれだけなら劣化というよりむしろ脂が乗っているのだが、さすがにチアガール時代のような大胆さはない。</b></p><p><b>あたふたと水のなかに逃げ込み、上がるときは女の子にバスタオルで隠してもらった。</b></p><p><b>そうこうしているうちに、バーベキューの焼けるいい匂いがあたりに漂いはじめた。</b></p><p><b>味付けは塩と黒胡椒だけだが、野外では奇妙に食欲をそそり、じゅうぶん食べられる。</b></p><p><b>サブはとっくにぺこぺで、ほかの者よりさらに詰め込んだ。</b></p><p><b>食後は若い衆が、ギターやマラカスをバックミュージックに合唱したりしている。</b></p><p><b>子どもたちは飽きもせず水遊びだ。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>五日目は帰る日だが、飛行機は夕方便なので午前中いっぱい時間がある。</b></p><p><b>アラース氏がリムジンとドライバーを調達して、地元めぐりに連れて行ってくれた。</b></p><p><b>夫人も同伴である。行き先は、近くの製紙工場からはじまって、ダム、国防軍の基地、空軍飛行場など。飛行場では、ちょうど訓練中の編隊飛行を見ることができた。</b></p><p><b>軍隊の弱い国だが、放っておくと大陸に侵略されるので国防に大わらわだ。</b></p><p><b>フィリピンでは短い時間だったが、密度濃くみなお腹一杯である。</b></p><p><b>「おかあさん、フィリピンどうでしたかね」</b></p><p><b>　帰りの飛行機のなかで、息子たちを代表してタロが聞いた。</b></p><p><b>「めっちゃ楽しかったわ。どうもおおきに」</b></p><p><b>「年取ったら住みたい？」</b></p><p><b>「それはかんにんや。遊びに来るにはええとこやけど、トロくてうちの性にあわへん」</b></p><p><b>三人は大笑いした。じつは三人とも同じような感想をもっていたのだった。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>フィリピンから帰ってきたあと、三兄弟の長兄タロこと啓太郎。</b></p><p><b>続いてその夏のあいだ、女性がらみでちょっと奇妙な経験をした。</b></p><p><b>初夏の生まれゆえ、十六歳の終わりから十七歳のあたまにかけてである。</b></p><p><b>年齢的にそっち方面、そろそろ何かが起きなくてはおかしいかも。</b></p><p><b>夏休み直前の土曜の夕方、ぶらりと外に遊びに出た。</b></p><p><b>本屋へ行って文庫本や科学雑誌など漁り、何かうまいもんでも食おうかという感じ。</b></p><p><b>ふだん本はネットで買うが、やっぱり実物の感触がいい。</b></p><p><b>一二冊しいれたあとで、電車で心当たりのステーキ屋へ向かった。</b></p><p><b>レスラーもくるという名物ジャンボステーキが売りの店、外へでるたびに寄る。</b></p><p><b>で、移動中の電車の中、ここで往年の父親に一脈通じるような事件が起こった。</b></p><p><b>目的地の一つまえの駅で、杖をついた婆さんがヨタヨタと電車に乗ってきた。</b></p><p><b>いったん席がはけたため、乗客たちは空いた席にわれ先に座ろうとする。</b></p><p><b>見苦しい振るまいで、啓太郎は終生これだけはするまいと思っているが、ちまたには恥を知らない人間が多い。とくに外国人には見せたくないのだが。</b></p><p><b>大陸の人間などもっと汚いが、お互いさまとは考えない。同レベルではぜんぜんだめ。</b></p><p><b>啓太郎はあいた一席の前に立って、かるく手を広げそれを確保した。</b></p><p><b>婆さんを座らせるためである。誰もやってくれないからしかたがない。</b></p><p><b>ところがその手を振り払うようにして、中年の人相のよくない男がドスリと座ってしまった。体重百キロもあろうかという大男である。</b></p><p><b>イガクリ頭のやばい感じで、カタギでないかもしれない。</b></p><p><b>しかし啓太郎はひるまなかった。このテの輩がいちばんきらいだ。</b></p><p><b>「おっとっと、旦那さんそりゃいけねえな」</b></p><p><b>男の腰に手を掛けふわりと立たせてしまった。</b></p><p><b>古武術の技で、熟達するとできるのである。</b></p><p><b>粗大ゴミでもどかすように百キロを後ろに追いやり、</b></p><p><b>「おばちゃん、ここ」</b></p><p><b>　婆さんを座らせてしまった。</b></p><p><b>　とうぜん男はおさまらない。悪いのは自分の方だがいわゆる逆ギレ。</b></p><p><b>「なんだあ、この野郎」</b></p><p><b>　横つらを張るつもりで平手打ちを繰りだしてきた。</b></p><p><b>が、啓太郎は頬をスイとうしろへ引いて空を打たせ、</b></p><p><b>「はいはい、お帰りこちら」</b></p><p><b>　男をくるりと後ろむきにして、ドアの方へ押しやった。</b></p><p><b>　ちょうどドアが閉まるところだったので、いったん挟まったが、ポンと背中を押すと大きな体がはずれてトントンと蹴つまずいた。</b></p><p><b>太い脚をもつれさせ、ホームにグシャッともろに顔面を打ちつけている。</b></p><p><b>地面はコンクリート。常人より体重が乗っているから、鼻骨か頬骨くらい折れたかも。</b></p><p><b>電車が発車したのであとは知らないが、どうせ汚い顔だから潰れてもいっしょだ。</b></p><p><b>一瞬の出来事だったので、まわりの乗客はほとんど気づかず、反応は大きくなかった。</b></p><p><b>ホームでもみな、男がむりに降りようとして転んだくらいに思っただろう。</b></p><p><b>「どうもありがとうございます」</b></p><p><b>　丁重に礼を言ったのは婆さんではなく、若い女である。</b></p><p><b>　付き添いがいたとは知らなかった。</b></p><p><b>目元などになんとなく面影があり、年かっこうから婆さんの孫娘と見うけられた。</b></p><p><b>なんと女優のようにあかぬけた女である。ひと目ふつうの感じではない。</b></p><p><b>「あ、いや、ボクはなにも」</b></p><p><b>　大したことをしたつもりがないので返って照れる。</b></p><p><b>こういうときはさっさと別れたい。さいわい次の駅で降りるつもりだった。</b></p><p><b>するとなんと、電車が止まると女と婆さんも降りてくる。</b></p><p><b>（なんだ、一駅だったのか）</b></p><p><b>そのまま行こうとすると、</b></p><p><b>「あのーもし、わたしたちこれからお食事に行く途中なんですが、ご迷惑でなかったらご一緒していただけませんでしょうか」</b></p><p><b>　若い男に食い物のハナシが迷惑なわけがない。しかも立てば<ruby>芍薬<rp>(</rp><rt>しゃくやく</rt><rp>)</rp></ruby><b>のような女の誘い。</b></b></p><p><b>しかしいくらなんでも唐突すぎる。</b></p><p><b>「いやー、うれしいけどボクたちたった今、出あったばかりですよ。</b></p><p><b>　知らない男、怪しくないですか」</b></p><p><b>　女は笑って首を横に振った。男といってもやっと少年をぬけだしたばかり。</b></p><p><b>「正直に申しあげます。じつは三人分の招待チケットがあるのですが、一人急に来られなくなったのです。いかにももったいないと思い、失礼を承知でお誘いしました」</b></p><p><b>降って沸いたようではあるが、まあ無い話でもないかも。</b></p><p><b>少なくてもウソを言ってるようには聞こえなかった。婆さんともども和やかな雰囲気。</b></p><p><b>結局啓太郎は、思わぬことから豪勢な夕食にありつくことになった。</b></p><p><b>女は始め、はたちを二つ三つ出たかくらいに見うけられたが、態度ふるまい、言葉のはしばしからもっと年上、二十台後半のように思われた。</b></p><p><b>若い女の無用な恥じらいがなく、上品な落ちつきがある。</b></p><p><b>ついでに婆さんも身なりよく、指にはまっているのは重厚なキャッツアイだ。</b></p><p><b>（どこかいいところの婆さんと孫娘なんだな）</b></p><p><b>こちらが相手を観察しているときには相手もこちらを見ている。</b></p><p><b>「お坊ちゃまなのに強いんですのね」</b></p><p><b>「え？」</b></p><p><b>「はじめはただの乱暴者かと思いました。</b></p><p><b>でも普通の人じゃないってすぐに分かりましたわ」</b></p><p><b>そりゃあそうだろう。老人に席を用意したり、男をあしらったり普通なわけがない。</b></p><p><b>「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」</b></p><p><b>　啓太郎が名を告げると、</b></p><p><b>「わたしは蘭姫と申します」</b></p><p><b>（らんひめ</b><b>···</b><b>）</b></p><p><b>「変わった名前でございましょ。お婆さまが――」</b></p><p><b>　啓太郎の思惑を先取りし、婆さんをちょっと横目で見て片ほほに笑いをふくんだ。</b></p><p><b>「そういう名前をおつけになったのです」　</b></p><p><b>会食は思いのほか盛りあがった。</b></p><p><b>婆さんと年上の女と男子高校生、共通話題に乏しいようだが女には教養があったし、啓太郎はどうとでも場面をつくっていける。</b></p><p><b>婆さんもしっかりしており、意外にしゃべった。</b></p><p><b>蘭姫と婆さんが、最近某温泉でサルといっしょに湯に浸かったという話をしたので、啓太郎はさっそくフィリピン版の露天風呂などでお返しをした。</b></p><p><b>　お互いだれが聞いてもおもしろい内容である。あっというまに時間が過ぎてしまった。</b></p><p><b>「今日はたいへん楽しい時を過ごさせていただきました。</b></p><p><b>　これをご縁にお近づきになれますでしょうか」</b></p><p><b>最後にメールのアドレスまで交換しあっている。</b></p><p><b>電話番号はさすがに初対面なので、次回縁があったらということになった。</b></p><p><b>そういうわけで、二人の出あいは多少変わっているといえばそうかもしれない。</b></p><p><b>あとでわかったことだが、この時点で蘭姫はすでに二十九歳になっていた。</b></p><p><b>ふつうは十歳以上も年上の、それも軽薄でない女は高校生など相手にしないだろう。</b></p><p><b>蘭姫にとって啓太郎は、よほどのインパクトがあったものとみえる。</b></p><p><b>最初の出会いから二週間ほどして二人は再会した。</b></p><p><b>じつは啓太郎自身はその場かぎりと思って忘れかけていた。</b></p><p><b>いい女だからちょっと興味はわいたが、年も違うしふつうの印象でないだけに、まともに相手にされる気がしなかった。あの女に男がいないわけがない。</b></p><p><b>ところが、意外にも蘭姫のほうからメールがあったのだ。</b></p><p><b>土曜の昼下がり、蘭姫指定の喫茶店で待ちあわせた。</b></p><p><b>「先日はどうもごちそうさまでした」</b></p><p><b>「こちらこそお世話になりました」</b></p><p><b>というお返しはもちろん婆さんの席のこと。</b></p><p><b>　蘭姫は上等な服を着て化粧も念入り、人と会うたて構えである。</b></p><p><b>しかし、その日啓太郎とは二時間たらず話しただけだった。</b></p><p><b>蘭姫はまだほかの人間にあう用事があるという。</b></p><p><b>もの足りなさそうな様子で、　</b></p><p><b>「今日はせわしなくて申し訳ありません。次回もっとゆっくりできると思います」</b></p><p><b>　本気でそう思っているようだった。</b></p><p><b>それだけ啓太郎の印象がよく、話術が巧みだったといえる。</b></p><p><b>たとえばその日蘭姫は、北欧のアイスランドに行ってきたというような話をした。</b></p><p><b>マイナーな旅行先だから、だれかに聞いてもらいたかったのかもしれない。</b></p><p><b>相手が口をひらいたときは、あいづちを打ちながら熱心に聞くのがこの人間と一緒にいると楽しいと思わせるコツである。</b></p><p><b>みずから楽しいと思うときは、大体じぶんがしゃべっている。</b></p><p><b>蘭姫に好きなだけしゃべらせてから、啓太郎は発展させて、バイキングや北極探検の話などをした。いろいろエピソードを挿みながら面白おかしく。</b></p><p><b>科学雑誌を読んでいるから、このテの話なら一時間でもしゃべれるがそこは適当に。</b></p><p><b>気がつけばたちまち時間がたってしまっていた。</b></p><p><b>三度目に会ったときは、お茶を飲み時間をかけて食事をした。</b></p><p><b>しかし会計はいつも蘭姫がした。男としてはあまり面白くないがしかたがない。</b></p><p><b>金は用意できないこともないが、ツッぱるのも年齢的にかえって不自然だ。</b></p><p><b>　<ruby>逢瀬<rp>(</rp><rt>おうせ</rt><rp>)</rp></ruby><b>がかさなり、そうこうしているうちに――、ホテルにしけこみデキてしまった。</b></b></p><p><b>　しょせん若い男と女、まあある意味自然ななり行きである。</b></p><p><b>　若いといっても蘭姫はそれなりの年、話ばかりもしていられなかったのだろう。</b></p><p><b>じつは啓太郎にとっては蘭姫は初めての女だった。</b></p><p><b>この年頃の男にとって年上の女は魅力的である。さすがの啓太郎もメロメロ。</b></p><p><b>啓太郎の夏休みが始まったところで、</b></p><p><b>「ねえ、海へ行きましょうよ」</b></p><p><b>　蘭姫の運転で千葉の<ruby>館山<rp>(</rp><rt>たてやま</rt><rp>)</rp></ruby><b>へ。</b></b></p><p><b>　かつて誰かと誰かが若い日にたどった道順まんまである。</b></p><p><b>今回は真夏なので次の日は海にはいれた。</b></p><p><b>蘭姫の水着姿に二三の男たちが下品なヤジを飛ばす。奇妙に腹が立った。</b></p><p><b>「ボクの連れに何か御用でしょうか」</b></p><p><b>　いつもの啓太郎ならこんなに殺気立ったりしない。やはりちょっと普通じゃないのか。</b></p><p><b>険悪なムードになったが、啓太郎がバキバキと指の関節を鳴らすと相手は引いた。</b></p><p><b>こぶしのふくれ上がった空手ダコが眼にはいったのだ。</b></p><p><b>「やっぱりケンカ早いのね」</b></p><p><b>　べつに非難する口調ではなかった。</b></p><p><b>引きつれたＳＰの頼もしさに、あらためて満足したという感じだ。</b></p><p><b>しかし啓太郎自身は、</b></p><p><b>（しまった）</b></p><p><b>　そんなに無分別ではないつもりだった。どうも蘭姫と一緒にいると何かが違う。</b></p><p><b>（重症化してるのかな）</b></p><p><b>ひと夏会って食事をして、あちこち遊びに行った。それはそれで楽しかった。</b></p><p><b>もちろんあっちの具合もわるくない、どころか女が女だけにサイコーである。</b></p><p><b>しかしどういうわけか夏の恋は秋風が吹くころ、文字通り涼しくなってくる。</b></p><p><b>だんだん冷静になってみると、どうも蘭姫に腑に落ちない面がちらほら見えてきた。</b></p><p><b>以前どこぞに勤めていたが、辞めて現在求職中ということだった。</b></p><p><b>いっこうに就職活動をしているふうには見えない。</b></p><p><b>海へ行ったように、いつでも外に出られるらしく、昼間からごろごろしている。</b></p><p><b>さらに二十九にもなって自称独身、婚活もせず年下の啓太郎をかまっている。</b></p><p><b>いや婚活は啓太郎には不都合なのであえてとはいわないが、人生設計はどうするのか。</b></p><p><b>じぶんとつきあったって、とうぶん埒はあかないことは明白だ。</b></p><p><b>外語大学で韓国語を専攻したとかで、ぺらぺら、素養があり育ちのよさを感じさせる。</b></p><p><b>そんな語学がなんの役に立つのかわからないが、金持ちだしそれはまあよい。</b></p><p><b>しかし就活も婚活もせずブラブラ、そもそも本質的にどういう女なのか、モヤモヤとわけがわからなくなってきた。</b></p><p><b>ふつうの高校生はそんなことは考えないかもしれないが、啓太郎は気になる。</b></p><p><b>社会的に意味不明の人間は、かならずウラになにか健全でないものをもっている。</b></p><p><b>（このまま関係をつづけていいもんかな）</b></p><p><b>自問自答をしているうちに、ひょんなことから蘭姫の正体がバレた。</b></p><p><b>正体などとは大げさなようだが、啓太郎からすればそう表現してもおかしくはない。　</b></p><p><b>レストランで食事をしたとき、蘭姫は化粧室へ行くといって席を立った。</b></p><p><b>そのときの弾みで、首に掛けていたロケットの留め金がはずれて落ちた。</b></p><p><b>小物なので蘭姫は気づかず、そのまま手洗いへ。</b></p><p><b>古物であちこち甘くなっているのか、落ちたショックで蓋がパカッと開いている。</b></p><p><b>そういう物の中身は、たとえ近しい間柄でもあえて見ないのがエチケットだ。</b></p><p><b>しかし何気なく拾った瞬間、目にはいってしまった。</b></p><p><b>ほかの男の写真でも貼ってあったか。いやそっちの方がまだましかもしれない。</b></p><p><b>中身は想像もできないギョッとするものだった。</b></p><p><b>なんと、おとなり半島北のおデブちゃん親子の肖像画である。</b></p><p><b>（総連がらみの女だったのか）</b></p><p><b>　朝鮮総連は半島北の日本大使館代替機関で、かつては強勢を誇り日本社会に多大な影響力があった。今日び北の正式な国名を知っている日本人は激減したが、かつては知らない者がいなかった。</b></p><p><b>総連の圧力によってテレビなどで、逐一正式な国名をいわせられていたからである。</b></p><p><b>“朝鮮民主主義人民共和国”</b></p><p><b>民主主義で、人民に主権があり、共和国という意味である。何かのパロディなのか。</b></p><p><b>　啓太郎は蘭姫のウラの顔を知って、スーッと体中から血の気が引いていく思いがした。</b></p><p><b>　名状しがたいじつにイヤーな気分である。</b></p><p><b>そういえばへんてこな名前も合点がいく。</b></p><p><b>啓太郎は拾ったロケットの蓋をしめ、そのままそこに置いた。</b></p><p><b>ついで携帯のネットで“蘭姫”を調べてみた。</b></p><p><b>ハングルで“ナンヒ”と発音するらしい。</b></p><p><b>しばし動揺してしまったが、蘭姫が戻ってきたとき、啓太郎はもとの啓太郎だった。</b></p><p><b>わざとあらぬ虚空に目を浮かべ、ゆったりと茶を飲んでいる。</b></p><p><b>ロケットに気づいた蘭姫はしかし、だまってすわり拾おうとはしない。</b></p><p><b>詮索されるのを避けるためなのだろう。</b></p><p><b>（出るときにこっちの目を盗み、何気なく回収するつもりなんだな）</b></p><p><b>　ふつうの女の反応ではない。</b></p><p><b>（まさか工作員じゃあるめーな）</b></p><p><b>　スパイごっこ大好きの、漫画のような国ゆえなにくれ漫画じみてくる。</b></p><p><b>　どだい国名自体が漫画でないとしたらなんなんだ。</b></p><p><b>　蘭姫、家は資産家の娘だが、まともな結婚をする気はなさそうだから、おそらくは総連幹部の娘、そしてまたちがう上級幹部の妾といったところだろうか。</b></p><p><b>あるいは“よろこび組”の日本バージョンかもしれない。 </b></p><p><b>国家によって招集された高級娼婦団で、国家要人の“贈答品”として利用される。</b></p><p><b>非人道的な面をことさら強調した表現ではない。たんなる事実である。</b></p><p><b>あたりまえだが、選びぬかれているから極上の女ばかり。“贈答品”なんだから。</b></p><p><b>妾にしても娼婦にしても、啓太郎とのことはもちろんただの遊びである。</b></p><p><b>いずれロクでもないことはまちがいない。</b></p><p><b>あとで思いかえせば、道ばたで蘭姫になにやらハングルで話しかけてきた若い男がいて、いかにもいやな目つきで啓太郎をじろりとにらんだことなどもあった。</b></p><p><b>総連の使い走りのような小者なのかもしれない。</b></p><p><b>蘭姫は組織のとくべつな女だし、三下のくせに岡惚れしているかもしれず、啓太郎のような男の存在がおもしろいわけがなかろう。</b></p><p><b>けんかを売るなら買ってもいいが、仲間とつるんできたり、そんなどーでもいい雑魚とかかずらうこと自体がばかばかしい。君子は危うきにというではないか。</b></p><p><b>北の実態は啓太郎、先刻承知ずみ。</b></p><p><b>テレビの映像をみて、フーンそういう国なのか、などとわかった気になっている日本人は多い。そんなものはきびしい検閲と編集がほどこされ、ことごとくウソである。</b></p><p><b>北は見せたい物か、見せてもかまわない物しかだしてこない。</b></p><p><b>たとえば首領様の誕生日だなどといって、民族衣装を着たピョンヤン市民がおおぜいで踊る映像がニュースで流されたりする。</b></p><p><b>「首領様は国民に支持されているんだなあ」</b></p><p><b>などと思ってみているとしたらおめでたいの極致。</b></p><p><b>　きわめてきびしい統制のもとに強制されなければ、そんな一糸乱れぬ団体行動が自然発生するわけがない。</b></p><p><b>と、すぐに気づくはずなのに、それがそうでもない連中もいるのである。</b></p><p><b>かつて大手ＡＳ新聞が、裏もとらずに北のプロパガンダにころりとだまされ、帰国事業に加担したため、多くの日本人妻がひどいめにあった。</b></p><p><b>同新聞はその後反省も学習もなく、現在でも似たようなウソ情報をたれ流している。</b></p><p><b>近年では、“チマチョボリ切り裂き事件”というのを報じたことがある。</b></p><p><b>満員電車内で朝鮮高校の女子生徒が、民族衣装の制服を切り裂かれたというものだが、その後犯人がつかまり、起訴されたという報道はない。</b></p><p><b>あたりまえで、総連のでっちあげをそのまま記事にしただけだったからである。</b></p><p><b>常識で考えてみれば、車内でカッターなど刃物をふりまわすのは大変なことである。</b></p><p><b>光物をちらりとだしただけでも、車内はパニックに陥るのに、さらに布をカッターなどで切るためには、布の一端をひっぱらなければならない。垂れただけの布は切れない。</b></p><p><b>とうぜん女子高生はキャーッと悲鳴をあげて大騒ぎするだろう。</b></p><p><b>くわえて犯人は、満員電車から刃物をもってどうやって逃走するというのか。</b></p><p><b>それもこれもふくめて、そういう所業は現実にはとうてい不可能である。</b></p><p><b>そんなかんたんなことも検証せず、ねつ造を鵜呑みにして記事にするのである。</b></p><p><b>新聞だけでなく、総連を擁護したり協力したりした政党もある。</b></p><p><b>例の日本ＫＳ党などである。消滅したが日本ＳＫ党なんてのもあった。</b></p><p><b>その総連、最近は衰えてヨレヨレだが、なかなか完全には息の根が止まらない。</b></p><p><b>これまで表の活動だけでなく、裏でもチョロチョロろくでもないことばかりしてきた。</b></p><p><b>いちいちあげればキリがないが、たとえばスパイ活動や拉致事件の隠ぺいなどである。</b></p><p><b>百パーセント日本の国益に反する組織であるが、本国の北が不良だから当然。</b></p><p><b>朝鮮放送のおばさんのあのしゃべり方。</b></p><p><b>ま～ったく恥を知らない人間ほどつよいものはない。</b></p><p><b>北については、不良性の客観的事実を示すことは難しくない。</b></p><p><b>かつて北のニュースで、なにか建設的なものが一つでもあったろうか。</b></p><p><b>拉致問題、核開発、弾道ミサイル、武器輸出、偽ドル発行、麻薬取引、強制収容所。</b></p><p><b>しかし北の国内の異常さについては、具体的に知らない日本人は多い。</b></p><p><b>たとえばピョンヤンのアパートには各部屋にトイレがなく、別棟になっている。</b></p><p><b>それってどういうことだろう。朝などには長い行列ができる。</b></p><p><b>つまり外部からの侵入者が一目でわかるようにし、お互いに監視しあうようにしむけているのだ。年じゅうそんなことばかりやっている。</b></p><p><b>現在、北より完璧な独裁国家は存在しないが、これには地理的な条件が関与している。</b></p><p><b>半島の地理を再確認すればわかるが、北の東側は日本海、西側は黄海、南側は三十八度線である。つまり北側だけ封鎖すれば、国民は身動き取れない籠の鳥というわけだ。</b></p><p><b>北側は国内最高峰の<ruby>白頭山<rp>(</rp><rt>ペクトゥサン</rt><rp>)</rp></ruby><b>から流れでる<ruby>鴨<rp>(</rp><rt>おう</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>緑<rp>(</rp><rt>りょっ</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>江<rp>(</rp><rt>こう</rt><rp>)</rp></ruby><b>と<ruby>豆<rp>(</rp><rt>と</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>満江<rp>(</rp><rt>まんこう</rt><rp>)</rp></ruby><b>が大陸との自然国境である。</b></b></b></b></b></b></b></p><p><b>山河自体が天然の足止めになっており、そこへ国境警備隊を配すれば閉鎖が完了する。</b></p><p><b>かつてルーマニアは、共産党一党支配の独裁国家だったが崩壊した。</b></p><p><b>独裁者チャウシェスクは、決起した国民によって処刑されている。</b></p><p><b>地理的に四方が陸続きだったために、人，物、情報の流れを食いとめることができなかったためである。とくに情報がだいじで、北はこれをラジオ、テレビなどのメディアの周波数を固定することによって、国民の目と耳をふさいでいる。</b></p><p><b>ネットはそも国民がまずしくて普及していないうえに、対策も完全にとられている。</b></p><p><b>全国民総奴隷。ずいぶんと有難い国があったものだ。</b></p><p><b>歴史にも悲惨なものがあり、なかでも二十世紀半ばの朝鮮戦争はハンパではない。</b></p><p><b>太平洋戦争の被害の甚大さは日本人ならだれでも知っている。</b></p><p><b>戦没者三百万人超。兵隊軍人は約二百万人、残りが民間人である。</b></p><p><b>二発の原爆を落とされ、日本人は自分たちよりひどくやられた国はないと思っている。もちろん敵にである。開戦時人口約七千六百万、犠牲者は四パーセント超の大打撃。</b></p><p><b>ところが朝鮮戦争では国内の南北で殺しあい、四百数十万人が犠牲になった。</b></p><p><b>総人口三千万にみたなかったから、人口の二十パーセント、五人に一人である。</b></p><p><b>敵国にというよりおもに同胞どうしで、である。</b></p><p><b>韓流ドラマのなんとか様ならおばさんたちがくわしいが、ほとんどの日本人はこの驚愕の事実を知らない。どういうわけか教科書にも書いていない。</b></p><p><b>知らないながら、北も南もなんとなく異常感があり、半島人にたいして名状できない不快を感じている。表の直接原因は歴史教科書の三分の一を占める反日教育だが、彼らが“<ruby>煩<rp>(</rp><rt>はん</rt><rp>)</rp></ruby><b>”という独特の屈折した民族感情をもっているゆえも異常感の底流にある。</b></b></p><p><b>半島人のこの感情はことばにしにくいが、しいて説明するなら、きわめてゆがんだ歴史をもっていることへの後悔、恨み、いら立ちとでもいうべきものであろう。</b></p><p><b>そのゆがんだ歴史から生まれたのが、ことさらゆがみにゆがんだ北という国である。</b></p><p><b>ふつうは国の政治形態と個人とは直接の関係はないが、北だけはちがう。</b></p><p><b>ここでは蘭姫という女、異国の地で客観的に判断できるはずなのに、独裁者の肖像画を後生大事にロケットに仕込むようでは、くわばらくわばら完全にイカレている。</b></p><p><b>修行して医者になろうとしている大事なとき、妙な女に関わっている場合じゃない。</b></p><p><b>（そうそうに別れちまおう。さわらぬ神に祟りなしだ）</b></p><p><b>会おうと言ってきても生返事をしているうちに、かんたんに疎遠になった。</b></p><p><b>むこうもまじめに考えていたわけではなかった証拠である。</b></p><p><b>（真夏の夜の夢か）</b></p><p><b>　ちょっとだけ本気になりかかったが、結局は芝居とおなじ喜劇だった。</b></p><p><b>まあ恋の悲劇にはならなかったので、その点はよかったというべきか。</b></p><p><b>　啓太郎だからこういうブレーキが利く。</b></p><p><b>　ふつうの高校生は、北や総連にたいする知識もなく、年上の女の体におぼれてずるずるのめり込むところかもしれない。</b></p><p><b>もっともその前に、心配しなくてもただの小僧では蘭姫のほうで相手にしないから、話そのものが始まらないが。</b></p><p><b>ここで半島について記載したついでに、大陸にについても蛇足をくわえる。</b></p><p><b>稿の論調は大陸にたいして批判的である。</b></p><p><b>感情的な部分もなしとはしないが、一般日本人の受けとり方と大差はないであろう。</b></p><p><b>一度言いだすと後へ引かない、謝らない、声が大きい、徒党を組む、衛生観念に欠ける、列を作らない、立小便や唾棄などマナーがわるい、などなど日本人ならだれでも彼らの性向をそう見ているはずである。</b></p><p><b>少なくても控えめで奥ゆかしい人々だと思ってはいない。</b></p><p><b>欧米などではどこへ行っても鼻つまみ者である。</b></p><p><b>史記や三国志などを読めば、古来からもともとそういう国民性なのだとわかってくるが、近年は以前にもましてひどい。</b></p><p><b>民意民度が下落する客観的事実が存在するからである。</b></p><p><b>これも教科書に記載がなく、多くの日本人はしらない。</b></p><p><b>中国政府は人口の増加に歯止めをかけるために、“一人っ子政策”という珍妙な政策を千九百七十九年より施行した。</b></p><p><b>結果、数億人の戸籍に載らない裏人口の数がふえたのである。</b></p><p><b>貧しい農家の二人目の子どもは罰金を取られるから登録しない。</b></p><p><b>彼らを<ruby>黒孩子<rp>(</rp><rt>へいはいず</rt><rp>)</rp></ruby><b>と称する。字面だけでも怪しい。孩子とは子どものことである。</b></b></p><p><b>就職、結婚、医療等々社会のあらゆるところで差別を受ける。</b></p><p><b>日本の被差別部落民をイメージすればだいたい当たっているが、連中のことだから面と向かってさらに容赦なく露骨、苛烈である。子どもだからといって斟酌して貰えない。</b></p><p><b>数ははっきりしないが、わからないからである。</b></p><p><b>数億人いると概算されており、日本の人口の何倍かいるらしい。おそるべき数である。</b></p><p><b>そういう国民は、民度を下げても上げるなんてことは物理的にありえない。</b></p><p><b>とうぜん世をすねた半端者が大半であり、犯罪の大温床である。</b></p><p><b>大陸が日本から見ていかにもオカシな国なのは、なるべくしてなっている明確な理由が存在したのであり、単なる感情論ではない。</b></p><p><b>隣国の国家的恥部を、意識的に報道しない日本のメディアは節操があり、優しいというべきだが、向こうの報道の汚さは周知のごとくである。</b></p>
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<pubDate>Sun, 02 Jul 2017 16:33:40 +0900</pubDate>
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<title>第３２章</title>
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<![CDATA[ <p><b>さっそくその日、陽の落ちた夕刻、Ｓ病院のカンファランスルームである。</b></p><p><b>「で、私に相談ごととは？」</b></p><p><b>「えへへ、じつはおタロを少々御用立てて頂きたいので」</b></p><p><b>　タロとは自分の名前でなく、お金のことである。</b></p><p><b>　なにかのおりに、啓多と啓矢が隠語として使っていたのを覚えていたのだ。</b></p><p><b>「ほほう、私にご無心とはねえ。太郎くんも成長したもんだナ」</b></p><p><b>　タロたちは、小さいときから、啓多には会うたびに何かとよくしてもらっていた。</b></p><p><b>　みんなでお祭りに連れて行ってもらうとか。</b></p><p><b>　なんてことないが、タロは啓多の肩車で高い高いが、いちばんお気に入りだった。</b></p><p><b>「いいでしょう。で、如何ほどご入用かな？」</b></p><p><b>タロは金額を言った。</b></p><p><b>「多少まとまった額ですね。使い道に仔細がありそうだな。</b></p><p><b>　そうね、じゃ倍額もって行きなさい」</b></p><p><b>「え、倍額」</b></p><p><b>「何に限らず、きちきちの計画は苦労しますよ。</b></p><p><b>とくにお金は倍用意してちょうど、余る分には困りません」</b></p><p><b>　啓多はズボンのポケットから携帯を取りだし、宛先を聞いてネットで振り込んだ。</b></p><p><b>「ある時払いの催促なしでけっこうです。太郎君への融通が焦げつくとは思いません。</b></p><p><b>　医学生になれば、病院で何かインカムを用意してあげますよ」</b></p><p><b>「わ、ありがとうございます。さすがオジキさんだなあ、相談してよかった～。</b></p><p><b>　じつはもう一つ<ruby>便達<rp>(</rp><rt>びんたっ</rt><rp>)</rp></ruby><b>して頂きたい事があります」</b></b></p><p><b>「ふむ、私にできることなら何でも」</b></p><p><b>「連休のアタマ四日間、母に休みを頂きたいので」</b></p><p><b>「なんだそんなことか。かんたんだ。私でなく外科病棟主任のほうだな」</b></p><p><b>　啓多はその場で主任に連絡を取った。なんでも早い。</b></p><p><b>「オーケーだそうですよ。あーそうか、母の日に何か考えてますね。</b></p><p><b>　いや詮索はしませんが」</b></p><p><b>　数日後、啓多はタロたちの計画の具体的な内容を知った。</b></p><p><b>　ここもがめったに利用しない有給を取ったので、まわりに理由を聞かれてかくす必要もなし、息子たちのプレゼントの中身をバラしたのだ。</b></p><p><b>　ほんとうは内心、彼らの孝行ぶりを自慢したくて、しゃべりたかったのかもしれない。</b></p><p><b>巡ってかんたんに啓多の耳にも入った。</b></p><p><b>（親からは引き出せない金というわけか。いい子たちじゃないか）</b></p><p><b>　啓多のばあい、母親は何かしてあげられる前に亡くなっている。</b></p><p><b>　自分もいい子にしていたから、後悔するほどではないが。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>　サブがまたまた面白い提案をした。</b></p><p><b>フィリピンでは漫然と観光旅行をするのではなく、</b></p><p><b>「<ruby>大御前<rp>(</rp><rt>おおごぜん</rt><rp>)</rp></ruby><b>のゆかりだった人の家を尋ねるってのはどう？</b></b></p><p><b>孫のミーたちも歓迎してもらえるんじゃないかな」</b></p><p><b>大御前とはここもの母親、彼らの母方の祖母のことである。</b></p><p><b>「でも、グランパはとっくに死んだと聞いてるぜ」</b></p><p><b>「いや、じいさんはいなくても、その家族はいるはずだ。なるほどおもしろい」</b></p><p><b>「御前はフィリピンのことは何も知らんらしいぜ。雲をつかむような話だわ」</b></p><p><b>「大御前ならなにか手がかりをもっているかも知れん。聞いてみよう」</b></p><p><b>　タロはさっそく彼女に連絡をとった。</b></p><p><b>　近況など世間話も交えて三十分ちかくもしゃべった。</b></p><p><b>　にもかかわらず、おばちゃんトークは、てれんくれんで要点がまとまらない。</b></p><p><b>　いちおう事業主なのだが、こんなんで商売できるんだろうか。</b></p><p><b>得られたまともな情報はたった一つ、ここもの父親が死んだときに、それをここもの</b></p><p><b>母親に伝えた学生運動家は、首都Ｍ大学の医学生だったということだけだ。</b></p><p><b>　運動は同大医学部から起こったゆえ、タロたちの祖父の同志は医学生だったのである。</b></p><p><b>　大御前はそれを彼からの手紙の文脈のなかで知った。</b></p><p><b>　祖父はＭ大学でも医学部でもなく、大御前はどこの学校学部かも覚えていない。</b></p><p><b>　覚えていないというより、聞いていない。</b></p><p><b>　日本の留学先すらはじめから知らないというアバウトさ。</b></p><p><b>　ジャンク情報なら、彼の好きな食べ物だとか、二人で行った行楽地などやたら詳しい。</b></p><p><b>　右耳の後ろにホクロがあったなどと、もーかんべんしてくれ。&nbsp;&nbsp; </b></p><p><b>　個人の性格にもよるだろうが、当時十代後半の女の子だった大御前には、男の社会的本質よりも、こまごました周辺の情緒的事象だけが大切だったのだ。</b></p><p><b>　名前も覚えているのはファーストネームだけだったが、ここもにスナップ写真を出してもらうと、裏に祖父が自身で書いたフルネームのサインがあった。</b></p><p><b>多少かすれているものの、判読はできる。</b></p><p><b>「これだけか、手がかり乏しいのう」</b></p><p><b>「たとえ手ぶらで帰ってきても、目的意識があるほうがおもしろいじゃん」</b></p><p><b>「うん、まそりゃそうだけどナ」</b></p><p><b>「いや、なかなか有力な情報が手に入ったと思う。</b></p><p><b>医者の認知度は社会で最も高いから、なんとかなりそうな気がするんだがな」</b></p><p><b>しかしただ今はその情報と、残された一葉の写真だけが頼りである。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>いよいよ渡比フライトの日、</b></p><p><b>「こっちのゲートだよ」</b></p><p><b>「荷物わたして」</b></p><p><b>「はい、チケット」</b></p><p><b>至れり尽くせりに世話を焼きながら、ここもを<ruby>神輿<rp>(</rp><rt>みこし</rt><rp>)</rp></ruby><b>として祭り上げた息子たち、成田発マニラ行き直行便の翼に乗りこんだ。&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </b></b></p><p><b>弱冠十代半ばの少年従士団ながら、機略縦横にして行動機敏、頼れること限りなし。</b></p><p><b>おまけに要人警護としての護衛能力、戦闘力も十分そなわっている。</b></p><p><b>というのは、三人とも啓矢に仕向けられて、子どものときから空手をやっていた。</b></p><p><b>ここも、怪しげな途上国は、父親の生国ながらこれまで訪問する気にはなれなかった。</b></p><p><b>こうしてお膳立てしてもらえれば、それじゃあ行こうと全てお任せ、内心ワクワクだ。</b></p><p><b>「女の子はかわいいけど嫁にやったら終いや。</b></p><p><b>ここもちゃんは徳があるさかい、男の子三人も授かるんやで」</b></p><p><b>　アナクロ的大御前の言だが、みななんとなく心の底ではそう思っているのだろうか。</b></p><p><b>まあたしかに男は行動半径が大きく、女が行きにくいところでもばりばり踏み込める。今回のフィリピン訪問にしても、息子たちだからこそ実現したわけで。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>列島ほぼ直下、一時間の早繰り時差で、約四時間の空旅である。</b></p><p><b>　機内食のあと一眠り、大小無数をちりばめた島国が、<ruby>窓下<rp>(</rp><rt>そうか</rt><rp>)</rp></ruby><b>マリンブルーの中に現れた。</b></b></p><p><b>首都マニラは、フィリピン最大の島ルソン島南部のマニラ湾に接岸してたたずみ、地勢的には東京湾に<ruby>臨<rp>(</rp><rt>のぞ</rt><rp>)</rp></ruby><b>む東京に似ている。</b></b></p><p><b>市街は神戸よりやや大きく、首都圏全体では東京と同じくらいの人口を抱えている。</b></p><p><b>　機体はマニラ近郊のアキノ国際空港にギアを滑らせた。</b></p><p><b>　タラップを降りると、一行には未経験の、モワ～ンとした熱気が呼吸器を刺激する。</b></p><p><b>　大気構成からして違っており、なるほど異郷へ来たなという感じだ。</b></p><p><b>　ゲートを出てタクシー乗り場に来ると、ジロは一台の運転手と運賃の交渉を始めた。</b></p><p><b>　ぼろいメターはいちおう動くだろうが、はんぶん飾りで、あまり使わないらしい。</b></p><p><b>　客が乗るまえに行き先を聞いて、そこならいくらと口で言うのだ。</b></p><p><b>もちろんドンブリ勘定で、現地人か外国人か、<ruby>懐<rp>(</rp><rt>ふところ</rt><rp>)</rp></ruby><b>具合はどうかなど相手次第である。</b></b></p><p><b>　多少の押し引きの末に話がまとまり、みなでタクシーに乗りこむ。</b></p><p><b>「言い値の半額で手を打った」</b></p><p><b>「すげーえじゃん」</b></p><p><b>「なーに、パーキロ当たり、まだ高いくらいだ。日本人だと思ってナメてやがる。</b></p><p><b>な～にが社長だ。来る前ネットで連中のやり口学習しといたんだ」</b></p><p><b>「よく乗せたな」</b></p><p><b>「だって現地人ならもっと安いんだぜ。えり好みしてたら商売にならんだろ」</b></p><p><b>　タクシーは列を成して客を拾おうと必死だ。</b></p><p><b>「これからさき、いつもこんな調子かよ」</b></p><p><b>「いやタクシーは長距離だけさ。ふだんは乗り合いのジプニーてのがあるんだ」</b></p><p><b>「ああ、あれのことか」</b></p><p><b>　つい目の前、幌つきの荷台に十人ほど乗せた車の後ろで、利用客が昇降していた。</b></p><p><b>　値切りタクシーでマニラの繁華街マビニ通りに着き、適当なホテルにチェックイン。</b></p><p><b>次いでジロは、通りの各所にあるブラックマーケットの一店で円をペソに換金した。</b></p><p><b>　空港での換金はレートが悪くアホくさい。</b></p><p><b>お目出度い日本人は、あらゆるところで騙されて帰ってくるが、こういうことはジロ</b></p><p><b>にやらせるとうまく行く。医者志望だが商売人タイプかも。</b></p><p><b>　ホテルの部屋で一息ついたところで、</b></p><p><b>「サーテ、さっそく調査を開始しよう」</b></p><p><b>　タロはサブをここものボディガードとして部屋に残し、ジロを連れて外に出た。</b></p><p><b>この三人の中でいちばん強いのが、じつは末弟の中学生サブだった。</b></p><p><b>すでに上の二人と体格も遜色なし、ちょっとした暴漢くらい<ruby>鎧袖一触<rp>(</rp><rt>がいしゅういっしょく</rt><rp>)</rp></ruby><b>の啓矢二世だ。</b></b></p><p><b>残されて不満かというと、そうでもない。</b></p><p><b>大きくなっても、ここもにくっついていたがるマザコン傾向あり。</b></p><p><b>通りへ出たタロは、</b></p><p><b>「タクシーは交渉がめんどうだ。ジプニーで行こう」</b></p><p><b>「どこ行くんなら」</b></p><p><b>「Ｍ大学の医学部さ。医学生の運動家なんてバレバレだ」</b></p><p><b>「ああそっか」</b></p><p><b>「行き先のやつ拾ってくれ」</b></p><p><b>ジプニーは、おもに日本から輸入した中古の小型トラックなどを、大時代の乗合馬車風に改造した乗り物で、マニラ市民の安くて便利な足となっている。</b></p><p><b>運賃は客どうしが運転士にリレーで手渡しだから、日本人が乗ってもごまかしなしだ。</b></p><p><b>ただし乗り方にコツがあって、目的地まで直行してくれるわけではないので、上手に</b></p><p><b>乗り換える必要がある。残念ながら、土地感のない日本人観光客はまず利用できない。ジロは地理を予習してあるし、分かりにくいときは客か運転手に聞けばよい。</b></p><p><b>人も車もつねにセカセカ動いているので、もたもたしない会話力が必要だ。</b></p><p><b>二三度乗り換えてＭ大学に着き、二人は医学部受付に行った。</b></p><p><b>「ハロー、なにか御用でしょうか」</b></p><p><b>受付のお姉さんが対応する。仏頂面ではないがここは私企業ではない。</b></p><p><b>「こんいちわ。ぼくたちは日本から来ました。じつは人探しをしておりまして――」</b></p><p><b>　これらはもちろん英語。</b></p><p><b>タロは医学部のスタッフのなかで、五十台半ばすぎの教授がいないかを聞いた。</b></p><p><b>年恰好からいって当時学生だった者は、大学で冷や飯でなければ、ふつう教授だろう。</b></p><p><b>外国人がやってきて唐突な質問だから、お姉さん少々困り顔。</b></p><p><b>そこでタロはさりげなくチップていどの紙幣をお姉さんに握らせ、</b></p><p><b>「尋ね人は亡くなった祖父の家族です。</b></p><p><b>祖父の友達が医学生だったので、その人を知っている先生がいないかと」</b></p><p><b>タロはわざとらしく一枚の高額紙幣をサイフから取り出し、握ったままでいた。</b></p><p><b>逐一説明するとお姉さんにも事情がわかってきた。</b></p><p><b>目の前のエサも欲しいから、協力的になっている。</b></p><p><b>職員名簿を持ち出してきて、しばらく思案していたが、</b></p><p><b>「ランドール先生なんかどうかしら」</b></p><p><b>人選をして連絡をとり、面会の許可を得てくれた。</b></p><p><b>かんたんだが、あるていど用向きも説明してくれたので助かる。</b></p><p><b>「教授室にいるわよ。最上階の廊下の右の突き当たり」</b></p><p><b>タロがスッと紙幣をにぎらせると、お姉さんにっこり。</b></p><p><b>わいろが横行するが、逆にゼニ金次第で、ある意味便利である。</b></p><p><b>個人情報がどうたら面倒なことを言うどこかの国とは大違い。いいとは言わないが。</b></p><p><b>教授にわいろは出せないが、さいわいランドール教授はいかにもきさくな人だった。</b></p><p><b>祖父の写真を受け取り、ファーストネームの“<ruby>Michael<rp>(</rp><rt>ミカエル</rt><rp>)</rp></ruby><b>” </b></b><b>にふっと遠い目をした。</b></p><p><b>「たしかにミカエルだと思います。もうずいぶん昔のことですが忘れもしません。</b></p><p><b>デモ中にケガをした学生はたくさんいましたが、亡くなったのは彼一人だけですから、</b></p><p><b>彼の友人の医学生というのは、たぶんアーレンのことじゃないかな」</b></p><p><b>じつは教授も当時改革運動にかぶれ、多少は関わったことがあるという。</b></p><p><b>アーレンは運動のリーダー的存在で、教授の一つ上のクラスだった。</b></p><p><b>教授自身は運動が起きてまもなく結核を患い、半年ほど療養生活をおくった。</b></p><p><b><ruby>塞翁<rp>(</rp><rt>さいおう</rt><rp>)</rp></ruby><b>が馬で、当局のブラックリストに載らず、結果的に大学のスタッフになれた。</b></b></p><p><b>因循な体制の改革を望んだだけで、医学の道を捨てるつもりはなかったのだ。</b></p><p><b>「騒動が沈静化したあと、当局にも反省や一定の修正はありましたが、運動に熱心だった人たちは、結局ほとんど大学を追われましてね」</b></p><p><b>　ではそのアーレンは今どうしているかというと、</b></p><p><b>「マニラ市街にある大きなスーパーのオーナーをしてますよ。いやもうばりばりで」</b></p><p><b>なるほど医学生など、エネルギーの高い人間は何をやってもそうなるのか。</b></p><p><b>教授などよりよほど儲かるだろう。</b></p><p><b>「マルコス通り二番街にある派手なたて構えの店です。行けばすぐにわかりますよ」</b></p><p><b>ふたたびジプニーを乗りつないでスーパーに到着した。</b></p><p><b>店は夕飯の食材などを求める客でごった返しており、店員は急がしそうである。</b></p><p><b>タロは一人の少年店員の目の前でチップをとりだし、ハローと握手しながら握らせた。</b></p><p><b>小僧だから低額紙幣でじゅうぶんだ。</b></p><p><b>「オーナーに会いたいんだがな」</b></p><p><b>チップ効果で店員はころがるように奥へ駆け込んでいったが、</b></p><p><b>「いま店にいないよ。たぶん向かいのパブじゃないかな」</b></p><p><b>「ちょっと見てきてくれ」</b></p><p><b>　タロはもう一枚紙幣をとりだしながら、行けというようにあごをしゃくった。</b></p><p><b>小僧は駆け出し、じきに戻ってきた。</b></p><p><b>「いたよ。カウンターでビール飲んでる太った人だよ」</b></p><p><b>言いながらもう手が出ている。タロはをチップを渡した。</b></p><p><b>アーレンもきさくだった。この国ではみなそうらしい。</b></p><p><b>タロは<ruby>慇懃<rp>(</rp><rt>いんぎん</rt><rp>)</rp></ruby><b>に挨拶をして、ランドール教授に会ったことなどを順を追って話した。</b></b></p><p><b>アーレンは、うるさそうでもなく、ビールをあおりながらうんうんと聞いている。</b></p><p><b>「こりゃミカエルだよ」</b></p><p><b>やはり彼も写真の人物のことは覚えていた。　　</b></p><p><b>いちげんの外国人に隠すでもなく、あっさりしゃべる。</b></p><p><b>直感的にどうってことない話だと思ったのだろう。</b></p><p><b>こいういうとき、日本人は必要以上の警戒感、理解を得るのに時間がかかる。</b></p><p><b>「ショッキングな出来事だったな。でも私は彼の友人じゃないんだ」</b></p><p><b>祖父の友人で、その死亡を祖母に伝えたのはまた別人であるという。</b></p><p><b>医学部のクラスメートではなく、むかしのことで、名前も忘れてしまった。</b></p><p><b>とうぜん今どこで何をしているかも知らない。</b></p><p><b>「ミカエル本人について何か知ってることはありませんか」</b></p><p><b>「いやー何も、彼は熱心な運動家だったが他学からの参加で、集会では何度か意見を戦わせたけど、個人的な付き合いはなかったんでね」</b></p><p><b>　手がかりは潰えたように思われたが、アーレンはふと、</b></p><p><b>「そういえば、アジの時ミカエルにはつよいビザヤ訛りがあったな。</b></p><p><b>きっとミンダナオとかそっちの方面の出じゃないかなあ」</b></p><p><b>　フィリピンに方言は多いが、公用語のタガログの次はビザヤで、大阪弁にあたる。</b></p><p><b>　ミンダナオはフィリピン南端にある同国第二の大きな島だ。</b></p><p><b>「ちなみに、フィリピンにアラース姓は多いほうですか？」</b></p><p><b>　アラースは、写真の裏に書いてあったミカエルのファミリーネームである。</b></p><p><b>「うんと稀というほどではないけど、マニラでしょっちゅう聞くこともないなあ。</b></p><p><b>　たぶんビザヤ系なんだと思うけどね」</b></p><p><b>　アーレンから得られた情報はそれだけだった。</b></p><p><b>　しかしじゅうぶん親切でまともな対応である。フィリピン人を好きになりそうだ。</b></p><p><b>　タロは丁寧にお礼を言い、帰りがけの戸口でボーイにチップを渡した。</b></p><p><b>「カウンターで飲んでる人にお代わりあげてくれ。残りは君だ」</b></p><p><b>　二人はパブを出た。</b></p><p><b>「とんとん拍子と思ったんだけどなあ」</b></p><p><b>「そんなに簡単には行かんよ。同志だった医学生を捜すのは組織立ってないと無理だ。</b></p><p><b>　今日はここまでだな」</b></p><p><b>　昼下がりから移動にも時間がかかっており、あたりはすでに薄暗くなりかかっていた。</b></p><p><b>二人がホテルに戻ったとき、ここもとサブもちょうど帰ってきたところだった。</b></p><p><b>　マビニ通りの店を冷やかしたり、マニラパークなどを散歩してきたという。</b></p><p><b>「いや、面白いことがあってさー」</b></p><p><b>　通りの真ん中を、若い男が真っ裸で歩いていた。</b></p><p><b>体の中心部をぶらぶらさせながら、あっちへ行ったりこっちへ来たり。</b></p><p><b>ここではお巡りさん、そんなことくらいでは来ない。来ても放っておく。</b></p><p><b>スーパーや銀行の前では、実弾を込めたライフルを持って用心棒が立っている国だ。</b></p><p><b>「もう可笑しいのなんの」　</b></p><p><b>　通りの人々も、頭の横に人さし指をつんつん当てながら、ゲラゲラ笑っている。</b></p><p><b>　サブは腹を抱えて笑いころげ、ここもも吹きだしそうだったが、顔だけ苦笑い。</b></p><p><b>「ああ、思い出すとまだ可笑しい」</b></p><p><b>「楽しんできたようだな。じゃ飯食いにいこう。ジロ、なんか気の利いた店ないか」</b></p><p><b>　ジロは携帯のネットや持ってきた旅行案内の本などをあたって、マニラ名物という外国人向けの高級レストランをピックアップした。</b></p><p><b>　フィリピン-</b><b>エアラインの機内食はイマイチだったが、晩餐は豪華に行われた。</b></p><p><b>　フォークやスプーンは使わず素手で食べる。</b></p><p><b>　日本人向けに箸も用意されているが、日本と同じじゃ面白くない。</b></p><p><b>　時間をかけてじっくり味わい、みな満腹になったので、腹ごなしをかねてマニラ湾のほとりを一渡り散歩した。</b></p><p><b>陸風が巻いて海のかおりを拾い、不快ではないが名状しがたい奇妙なにおいがする。</b></p><p><b>この地の人間が他国へ行けば、この空気が懐かしい故郷の感触になるのかも。</b></p><p><b>　</b></p><p><b>母子四人、異国のホテルの一室で雁首そろえたはいいが、さてどうやって過ごそうか。</b></p><p><b>　備え付けのテレビをつけては見たものの、愚にもつかないオーディション番組ばかり。</b></p><p><b>ふだんこんなふうに集結することは、あんがい少ないから貴重な時間だ。</b></p><p><b>思いつきをだすのは大体サブである。</b></p><p><b>「おかあさん、いままでの仕事の中で、なにかこれはというようなヘンテコなのない？　医者はみんな、驚くようなオカシなのを一つや二つ経験してると聞いてるけど」</b></p><p><b>　なるほどこれは面白そう。</b></p><p><b>「そやねえ」</b></p><p><b>ここもは首をかしげながら小考して、</b></p><p><b>「三十台半ばのとび職の人なんやけどね――」</b></p><p><b>　男は仕事がら、とうぜん高い所でひょいひょい動きまわっていた。</b></p><p><b>　まだ若いし自信満々、おれが落ちるもんかと思っている。</b></p><p><b>　が、これが危ない。たしかにふつうの条件では容易に落ちないが、そのとき局所的に突風というか、小竜巻のようなものが発生した。</b></p><p><b>現場にいた同僚の目撃者の言によれば、男は四階ほどの高さで、ふわっと足をすくわれるようにパイプ組の足場を失った。</b></p><p><b>空中できれいに一回転し、頭が上、足を下にしてそのまま垂直に落ちたという。</b></p><p><b>　着地点にはなんと壁の補強材となるべき鉄棒が、土台のブロックから突き出ていた。</b></p><p><b>　この鉄棒にサックリ、焼き鳥みたいに突き刺さってしまったのである。</b></p><p><b>　鉄棒は<ruby>会<rp>(</rp><rt>え</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>陰部<rp>(</rp><rt>いんぶ</rt><rp>)</rp></ruby><b>から刺入し、<ruby>剣状<rp>(</rp><rt>けんじょう</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>突起<rp>(</rp><rt>とっき</rt><rp>)</rp></ruby><b>直下にかけて腹部を突き抜け、鼻先で止まった。</b></b></b></b></b></p><p><b>剣状突起は胸骨下端の尖ったところ、その下だからいわゆるみぞおちである。</b></p><p><b>「いてえよー、いてえよー」</b></p><p><b>　男は鉄棒にしがみついて、木に止まったセミのように泣き声をあげている。</b></p><p><b>「わ、わ、こりゃ大変だ」</b></p><p><b>　現場にいた同僚たちは、信じられないようなハプニングに動転した。</b></p><p><b>　あとになってみれば、なんだか滑稽な気もするが、その時はそれどころではない。</b></p><p><b>　しかしどうやって救助すればいいのか。</b></p><p><b>　騒ぎを聞いて現場監督が押っ取り刀で駆けつけた。</b></p><p><b>「はやくバーナー持って来い！」</b></p><p><b>　さすが監督、言われてみればああそうかである。</b></p><p><b>　みなで鉄棒をささえつつ、尻から下二十センチほどで焼き切って戸板に乗せた。</b></p><p><b>　場所がら人力だけは豊富にある。へたに動かすと痛がるし、とりあえず安定しているからということで、戸板に乗せたまま駆けつけた救急車でＳ病院に搬送された。</b></p><p><b>（なんだこりゃ）</b></p><p><b>口には出さないが、さすがの啓矢もびっくりである。</b></p><p><b>男と鉄棒の組み合わせは、まるでこれから豚の丸焼きでも作るようなあんばい。</b></p><p><b>　しかし見かけは派手だが、基礎疾患はないのだから、要するに腹を開けて鉄棒を取りのぞき、損傷臓器を修復すればよいという、比較的単純な外科操作だ。</b></p><p><b>　単純写のあとＣＴを撮りたいが金属なので<ruby>反射<rp>(</rp><rt>ハレーション</rt><rp>)</rp></ruby><b>をおこす。</b></b></p><p><b>目視で異物の位置がはっきりわかるので、エコーで臓器損傷を確認したら、さっさと手術に持ち込むのが得策だろう。</b></p><p><b>　が、その前に問題が一つある。</b></p><p><b>「何が問題なのさ」</b></p><p><b>　それはサブたちには想像もできないことだった。</b></p><p><b>「挿管しようとしたんやけど、鉄棒がじゃまになって入れられへんのや」</b></p><p><b>　ここもは手を口の前にもっていって、じゃまさかげんを実演した。</b></p><p><b>　麻酔がかからないとオペができない。なるほどこれは困った。</b></p><p><b>「うちもまだ青くてナ」</b></p><p><b>　麻酔科の面子にかけても挿管しなくてはと躍起になり、患者の意識を落としながら二時間近くもかかってついに外鼻口から気管チューブをねじこんだ。</b></p><p><b>「汗かいたわー」</b></p><p><b>　実話だけに臨場感があり、なんだか聞いてるほうまで汗をかきそう。</b></p><p><b>　麻酔さえかかってしまえば、あとはどうとでもなる。しかも損傷は意外に軽かった。</b></p><p><b>腸管の弾力性と見かけ以上の強靭性が幸いし、鉄棒はその間をヌルヌルとすり抜けた。解剖学的に肝臓や膵臓など、串刺しされた重要臓器もなかったのである。</b></p><p><b>　鉄棒を抜き取り、見落としの損傷がないかを慎重に確認して開腹創は閉じられた。</b></p><p><b>　男は十日で退院、二週間で現場復帰している。</b></p><p><b>　刺さり所がわるければ死んでいたかもしれないのに、高いところが怖くもならないし、ぜんぜん懲りていないという、よく言えば豪胆キャラ、でなければニブい男。</b></p><p><b>　とにかく結果的に、奇跡的な不幸中の幸いだったともいえる。</b></p><p><b>　むしろ鉄棒に刺さったから軽症で済んだが、直接地面に落ちたらどうなったことか。</b></p><p><b>「ふ～ん、スゴイ話だなあ」</b></p><p><b>　そんなエピソードを他にも一つ二つ聞いているうちに夜も更け、みな眠くなってきた。</b></p><p><b>　フィリピン初日は母子水入らず、ピースピースに暮れた。</b></p><p><b>　しかし尋ね人探しは、まだ海のものとも山のものともつかない。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>二日目、早朝からタロはふたたび大御前に連絡をとった。</b></p><p><b>元カレについて、なんとかもう少しマシなことを思い出してもらわないと。</b></p><p><b>ところがどういうわけか電波事情がわるく、通話がスムーズにできない。</b></p><p><b>妨害電波でも出ているのか、途上国はなにかと不備が多い。メールならなんとか届く。</b></p><p><b>そこでまだるっこしいが、時間をかけてメールでやりとりした。</b></p><p><b>しかしある意味一問一答、余計な表現が削られ、あながち不利なことばかりではない。</b></p><p><b>大御前の話は、すぐ関係のない方向へ飛ぶからくたびれる。</b></p><p><b>それでもついに、これはと思うような手応えを一つ得ることができた。</b></p><p><b>「ミカエルの村には近くに大きな製紙工場があったらしいわよ」</b></p><p><b>　タロの巧みな誘導尋問によって、やっとこの大事な情報を引き出した。</b></p><p><b>当時東京にいたミカエルには、ときどき車の排ガスなどで咳をするくせがあり、大御前が喘息の気がないかを尋ねると、まさしくそうであった。</b></p><p><b>小児期に症状がつよく、自然軽快したあと、成人になっても多少残っていたのだろう。</b></p><p><b>タロは彼が小児期の周りの環境について、何か言わなかったかツッコミを入れてみた。</b></p><p><b>するとはたして村の近くに工場があり、ミカエル本人は、高い煙突から出る煙のせいではないかと思っていたらしいことを、大御前に想起させた。</b></p><p><b>　女の情緒は工場が重要と思わず、記憶は男の咳の方だけだからタロが苦労するわけだ。</b></p><p><b>しかしとにかく、これはまちがいなく一級情報である。</b></p><p><b>「よし、なんとかなる」</b></p><p><b>　タロはがぜん意気があがった。</b></p><p><b>人探しは一日かかるだろうから、ジロと二人だけで出かけた方が動きやすい。</b></p><p><b>またもや御前とサブだけ放っておくのもどうかと一瞬まよったが、サブなら御前を飽</b></p><p><b>きさせない過ごし方をひねりだすに違いないと思い直した。</b></p><p><b>「めんどう見ててくれるか」</b></p><p><b>　ガタイはいっちょまえだが、中身は十三歳の中子ども。</b></p><p><b>　ふつうの家庭では被保護者にすぎないが、この子たちだと立場が逆転する。</b></p><p><b>「いいよ、御前はミーにまかしといて」</b></p><p><b>　ひょうひょうとして自信たっぷり。いかにも頼もしい。</b></p><p><b>タロはフットワークの軽いジロに先導させて出発した。</b></p><p><b>「ジプニーたのむぜ。自分には乗り方ハッパとわからん」</b></p><p><b>「合点だ。今日はどこへ？」</b></p><p><b>「マニラ市立図書館」</b></p><p><b>「図書館ね。何か調べるんだな」</b></p><p><b>「ジプニーに乗ってから説明する」</b></p><p><b>　タロは図書館でミンダナオ島のコピーを取り、製紙工場をピックアップした。</b></p><p><b>　ぜんぶで五ヶ所あったが、一目でわかるようにそれらを赤丸で囲んだ。</b></p><p><b>「なるほど、たいした数じゃないんだな。この周辺を重点的に当たるってワケね」</b></p><p><b>「これが日本だと全国八十ほどもあってたいへんだがな。サーテお次は市役所だ」</b></p><p><b>「ホイきた」</b></p><p><b>　マニラ市役所の受付はまたもや若いお姉さんだった。</b></p><p><b>この国は人口の半分が二十五才以下である。</b></p><p><b>タロは例の実弾攻撃の手口。大事なところだから高額紙幣のほうだ。</b></p><p><b>しっかり働いてもらわなくてはならない。</b></p><p><b>　ポケットから祖父の写真を取り出して、裏返した。</b></p><p><b>&nbsp;</b><b>“Michael R. Alas</b><b>”とフルネームサインがある。</b></p><p><b>「この人の家族をさがしています。ビザヤ系ミンダナオの人らしいんですが」</b></p><p><b>ミンダナオと聞いて女の子はたちまち喜色をあらわにした。</b></p><p><b>同地出身で、やはりビザヤであるという。</b></p><p><b>彼らは出身地にはこだわらない。わて<ruby>大阪<rp>(</rp><rt>とんぼり</rt><rp>)</rp></ruby><b>から来たんや、というのと同じだ。</b></b></p><p><b>「村の近くには製紙工場があります」</b></p><p><b>　タロは、Ａ４版に印刷したミンダナオ島の地図を取りだして示した。</b></p><p><b>「オーケー、ブトアン市役所に友達が勤めているから、その子にも聞いてあげる」</b></p><p><b>　これはなんという好都合。彼女は友人とやらに、オフィス電話をかけた。</b></p><p><b>たぶんビザヤ方言で、ぺちゃくちゃ関係ないこともしゃべっているらしいが、女の子だからしかたがない。公務中だがお構いなし、途上国はおおらかなものだ。</b></p><p><b>「調べるからまってて。あのネ、その子、新しいスカート欲しいっていってた」</b></p><p><b>　タロはもう一枚紙幣を渡した。本人ではないからハーフ紙幣。</b></p><p><b>　お姉さんは友達に地図のコピーをファックスし、自らもあちこち電話をかけ始めた。</b></p><p><b>昼ちかくまで待たされたが、やっと彼女に途中経過を伝える連絡が入った。</b></p><p><b>「いいセンよ。友達の友達にも聞いてもらってる」</b></p><p><b>「ああそうですか。そりゃどうも」</b></p><p><b>　手分けして探せばスピードアップに繋がるだろう。</b></p><p><b>彼らは友人知人のネットワークが広～い。</b></p><p><b>貧しいぶんだけ助けあわないとやっていけないのだ。</b></p><p><b>「あのネ、その子は靴が欲しいんだって」</b></p><p><b>どこまで本当かわからないが、ケチらずもう一枚ハーフをわたす。</b></p><p><b>別に一枚高額を取りだし、お姉さんの目の前でこれ見よがしに胸ポッケへ収めた。</b></p><p><b>彼女の横目の端がピクリと動いたような気がする。</b></p><p><b>やがて役所は昼休み時間に入り、女の子も席を外した。弁当を食べに行ったのだろう。</b></p><p><b>「こりゃ長期戦だな」</b></p><p><b>「当然さ。この国の公務員にしちゃよくやってるほうだ。ここが我慢のしどころだわ」</b></p><p><b>二人も昼食をとりに外へ出た。</b></p><p><b>近くの適当な店に入り、適当なものをオーダーしたが、どーもパッとしない。</b></p><p><b>「きのうと違ってここはマズイな」</b></p><p><b>「フィリピンの大衆レストランなんてこんなもんだろ。</b></p><p><b>　日本人は世界一うまいものばかり食いつけてるからな。</b></p><p><b>イタリアへ行ったやつが、どこへ入ってもパスタ攻めで、三日で音を上げたと」</b></p><p><b>「役所に戻っても待たされるだけだな。どっかで時間つぶしする？」</b></p><p><b>「そのテもあるが、やっぱり戻って待っていよう。側にいてプレッシャーかけないと」</b></p><p><b>「お友達とやら、まじめに調べてんだろうか」</b></p><p><b>「そこそこやるだろ。成功報酬もらえること分かりきってるからな」</b></p><p><b>　区役所に戻り、長椅子に腰かけてひたすら待った。</b></p><p><b>「待つってーのもつらいもんだな」</b></p><p><b>「いや、考えようだが、こっちはドタバタしなくて済むんだからある意味ラクだ。</b></p><p><b>　お姉さん見ろよ。時々隣の空き電話かけてるだろ。あれは進捗状況を打診してるんだ」</b></p><p><b>「あ、なるほど～。ダチさんたちがサボらないようにハッパをかけてるのか」</b></p><p><b>「信長だって待つべき時は待っている。こんなことだろうと思ってこれ持ってきた」</b></p><p><b>タロは手さげカバンのなかから、コンパクトなゲーム盤をとりだした。</b></p><p><b>「将棋指そうぜ」</b></p><p><b>「うへっ、あにいは強いからなー」</b></p><p><b>「こんなときの時間つぶしに勝ち負けあるかよ。好きなだけ駒引いてやる」</b></p><p><b>　将棋を指しながら午後いっぱい待ちに待った。</b></p><p><b>　甲斐あって役所がはねるまぎわ、ついに有力な情報が入った。</b></p><p><b>「ブトアンから車で二時間くらい行ったところに、ボイナビスタという村があって、</b></p><p><b>近くに製紙工場があるそうよ。</b></p><p><b>そこにロブレス-</b><b>アラース姓の一家が二十人くらい住んでるみたい」</b></p><p><b>「それだな、まずまちがいない」</b></p><p><b>　製紙工場があって、ミドルネームの頭文字とファミリーネームが一致している家族なんてそうそうあるもんじゃない。エサのご<ruby>利益<rp>(</rp><rt>りやく</rt><rp>)</rp></ruby><b>抜群、ふだんアバウトな途上国の事務員たち、よくぞ調べあげたものだ。</b></b></p><p><b>「センキュー、センキュー」</b></p><p><b>　タロは握手を求めながら、これで最後だからと成功報酬、ポケットの紙幣を渡した。</b></p><p><b>　計二枚の高額紙幣は、彼女の小遣いとしてはこれまでの最高額かも。</b></p><p><b>　しかし結果的に十分それだけの働きをしてくれた。</b></p><p><b>お姉さんの方も今日はなんといういい日、幸せいっぱいの笑顔でタロの手を握り返す。</b></p><p><b>「サテ、お次だ」</b></p><p><b>「え、まだ何かあるんか」</b></p><p><b>「どこか気の利いたショッピングへ行ってくれ」</b></p><p><b>「ああ、お土産か。なるほど手ぶらじゃな～」</b></p><p><b>　ジロは適当な通行人をつかまえて、市内のショッピングモールの場所を聞いた。</b></p><p><b>　行ってみると、もちろん日本のような規模ではないが、まあそれなりである。</b></p><p><b>「いちおうマニラでいちばんの買い物スポットだそうな」</b></p><p><b>　タロは家電コーナーで、日本製のカラオケセットを購入した。</b></p><p><b>　こういうときは少々値がはっても、彼らにとってブランドものでなければ有りがた味がない。啓多の言ったとおり、軍資金はタップリ用意しておくものだ。</b></p><p><b>「上手いもの買ったねえ。きっとみんな喜ぶぞ」</b></p><p><b>　多少の荷物だが、コンパクトなのを選んだので二人で分け持った。</b></p><p><b>「も一つ行くぞ」</b></p><p><b>「こんどはわかった。ブトアン行きのキップだな」</b></p><p><b>「とろい国だから今日中がいい。民間の旅行会社はまだやってると思うが急げ」</b></p><p><b>フィリピン-</b><b>エアラインはマビニ通りにあるので、部屋に戻る方向でよい。</b></p><p><b>しかしごちゃごちゃした街で、タロも方角に関してはサッパリ。</b></p><p><b>いっぽうジロはすっかりジプニー乗りのプロだ。</b></p><p><b>てきぱき最短距離で乗りつなぐ。これはこれで一つの才能か。</b></p><p><b>タロは、翌朝ミンダナオ島ブトアン行き一番機のキップを四枚手に入れた。</b></p><p><b>ブトアンはミンダナオ北東部の主要都市で、九州福岡のイメージである。</b></p><p><b>北部の港湾都市カガヤンディオロは、長崎に相当。　</b></p><p><b>ミンダナオにはさらに南にもう一つ大きな都市、ダバオがある。</b></p><p><b>旧日本陸軍の基地があったところで、現在は政府にとって維新当時の鹿児島だ。</b></p><p><b>イスラム過激派の根拠地になっており、日本人は近づかない方がよい。</b></p><p><b>おなじミンダナオでも、ミカエルがブトアン系だったのは幸運だった。</b></p><p><b>さらにマニラの市役所のお姉さんもブトアン系である。</b></p><p><b>ほかの職員だったら、空手形をつかまされたかもしれない。</b></p><p><b>マニラ市役所だからとうぜんルソン島出身、それもマニラ周辺が多いに決まっている。</b></p><p><b>「ヒヒうまいこといったな、こりゃ晩飯うまいわ」</b></p><p><b>「御前たちが待ってるだろ、早く帰ろう」</b></p><p><b>ジプニーの距離ではないので、タロはジロにトライシクルを拾わせた。</b></p><p><b>トライシクルは日本製中古バイクの後輪を取り外し、代わりに力車をくっつけたもの。</b></p><p><b>宿はすぐ近くだが、いざ歩くとなると荷物がじゃまだ。</b></p><p><b>　部屋に戻って、ここもとサブのグループは何をしていたかというと、</b></p><p><b>「競馬行ってた」</b></p><p><b>「え、なんだそりゃ」</b></p><p><b>「はじめてやけど、おもしろかったわよ。負けたけどね」</b></p><p><b>「フーン、フィリピンに来て競馬ねえ」</b></p><p><b>　サブ、どういう思考回路をもっているのか。</b></p><p><b>　とにかくこの三人、それぞれふつうの頭の持ち主ではない。</b></p><p><b>晩餐はまたべつの高級レストランで、例のごとく豪華に行われた。</b></p><p><b>「よくさがしあてたわね。てっきりダメやと思てたわ」</b></p><p><b>「まるでシャーロック-</b><b>ホームズだよ。ほかのやつなら手も足も出んわな」</b></p><p><b>「うん、まあそれほどでもあるよ」</b></p><p><b>　タロ喜色満面、自分でもうまくやったと思っている。</b></p><p><b>「サブもサクサク機動力高くてたすかったぜ。よく方向感覚わかるな」</b></p><p><b>「ガハハ、それほどでもあるよ」</b></p><p><b>　お互いに空気を入れあっていれば、お目出度くも平和だ。</b></p><p><b>　食事のあとは、めずらしくここも主導で、みんなでディスコにくりだした。</b></p><p><b>　二十年もむかしのことだが、こういうのはここもの得意分野。</b></p><p><b>　もってきたホットパンツに、頭にはサングラスの姉御風。まだまだイケル。</b></p><p><b>「おれ行ったことないよ」</b></p><p><b>　ふつうの中二はそうだろう。じつは上の高校生たちも不案内。</b></p><p><b>「こんなもんマニュアルあらへん。てきとーにあちゃこちゃ動かすだけや」</b></p><p><b>　マビニ通りには至る所ディスコだらけである。</b></p><p><b>　ほかにはカジノ、カラオケ、ビリヤードなどがあるが、ディスコがメジャーだ。</b></p><p><b>日ゼニで稼いだぶんだけ飲んで踊るという、途上国の安易なその日暮し。</b></p><p><b>しかしそこもかしこも笑顔がいっぱいで、どこかの国のあくせく住民より幸福そうなのはなぜ？ムリにはしゃいでいるようにも見えないし。</b></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/igakubumonogatari/entry-12288267203.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Jun 2017 10:12:33 +0900</pubDate>
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<title>第３１章</title>
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<![CDATA[ <p><b>夕方幸恵の店に、Ｋ工務店の社長がのれんを上げると同時に入ってきた。</b></p><p><b>「きょうはお早いんですのね」</b></p><p><b>「キモの仕事はやったよ。ここんとこ浮かれてんのさ。</b></p><p><b>ママ、どうやらナナのやつ、おたくの若センセイにぞっこんらしいぜ」</b></p><p><b>「雷蔵はなにかナナちゃんに不調法でもしてませんでしょうね」</b></p><p><b>社長はいそいで手のひらを横にふった。</b></p><p><b>「逆、逆。そらもう神様みたいに言ってる」</b></p><p><b>「はあ、そりゃどうも。でも受かったのはナナちゃんが一生懸命やったからでしょ」</b></p><p><b>　幸恵は燗のついたとっくりを湯釜からとりだし、なれた手つきで雫を布巾でぬぐった。</b></p><p><b>「その動機がさ、もうセンセイにホメられたい一心でさ。</b></p><p><b>あのままじゃぜったい受かりっこなかったよ。女はいちずだねえ」</b></p><p><b>　社長は幸恵がついだおチョコの熱燗をうまそうに飲んだ。じっさいうまいだろう。</b></p><p><b>「おやじのおれが言うのも何だけどサ、すこし子どもっぽいけどブスではないと思うぜ。センセイにかわいがってもらえんかのう」</b></p><p><b>「あらら、娘のお父さんがそんなこと言いますかねえ」</b></p><p><b>「そら男にもよるわな。センセイならおやじでも買いだよ。</b></p><p><b>女の子の家庭教師は疑われるから困るってーくらいお堅いらしいじゃないの。</b></p><p><b>今どき金のワラジだよ」</b></p><p><b>　幸恵が笑い話にナナコに言ったことを、社長はナナコからまた伝えで聞いたのだろう。</b></p><p><b>　雷蔵はある意味、社長の娘の将来を切り拓いた恩人である。</b></p><p><b>出会いがなければ、今回たぶんナナコは落っこちただろう。</b></p><p><b>女の子が何年も浪人するわけにもいかず、ほかの道に進んだ可能性は高い。</b></p><p><b>雷蔵は多少やんちゃな時代もあったが、もうすぐ医者になる今となってはどーでもいいことだ。それにもともと社長はそんなことは詳しく知らない。</b></p><p><b>二人がくっつけば、実家もお互い近いし、娘を手元に置くのと大差はない。</b></p><p><b>孫の顔もまいにちのように見られるかも。</b></p><p><b>親父として、社長はいい話だと思っているのだ。</b></p><p><b>「でもね、そういうことは、いくらまわりがあおってもダメですよ。</b></p><p><b>本人どうし、なるようにしかなりませんもの」</b></p><p><b>とはいうものの、幸恵も内心じつは社長とおなじ気もちだった。</b></p><p><b>「そうだけどさ。とにかくおれはだんぜんソノ気だからな。ママもその線でいてくれよ」</b></p><p><b>「はいはい、わかりました。ナナちゃんなら私も大賛成ですよ」</b></p><p><b>　子供のときから知っている性格のかわいい娘で医大生。</b></p><p><b>むかしの雷蔵を考えたらこっちがお願いしたいくらいだ。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雷蔵は、学部四年の夏休みがはじまったときも、さっそく朝から病院にきた。</b></p><p><b>医学部最後の休みだが雷蔵にとって、どこか遊びに行くより、病院の方がおもしろい。</b></p><p><b>国家試験の準備は帰ってきてから夜やればじゅうぶん間にあう。</b></p><p><b>今回いつもの雷蔵とちがっていたのは、一人ではなく女の子を連れてきたことである。</b></p><p><b>「こんどＲ医大に入ったナナコです。いっしょに教えていただいてもいいですか」</b></p><p><b>「ほほー、君のカノジョが医大生とはのー」</b></p><p><b>　雷蔵もいつのまにか“こんな”から“君”に昇格である。</b></p><p><b>モモコは、十年ほども前にＳ病院とはいささか、とくに啓多とは係わりあいがあったのだが、啓矢は老人を手術しただけだったので、この時点では互いに面識がなかった。</b></p><p><b>「いえ、カノジョというか、それがそのー」</b></p><p><b>　などと頭を掻くなどはっきりしないが、女の子の方は顔は赤くしても否定はしない。</b></p><p><b>啓矢の目からは、見え見えである。</b></p><p><b>おっさん風に、上から下までジロジロ見るのはイヤらしいから、顔だけちらりと見た。</b></p><p><b>いかにも少女少女した医大生だが、ひと目そこらの十把一絡げとは毛並みが違う。</b></p><p><b>以前の雷蔵ならこんなマトモな娘をつかまえるなど、とうてい不可能だったろう。</b></p><p><b>こっちのレベルが上がると相手も上がる、まったく正直なものだ。</b></p><p><b>「せっかくの夏休みなのに、臨床実習とはえらいじゃないですか。</b></p><p><b>当方はもちろん大歓迎ですよ」</b></p><p><b>啓矢は女子学生のために、みずから先に立って院内を案内した。</b></p><p><b>娘は雷蔵のあとから、リボンをつけた子犬のようにトコトコついてくる。</b></p><p><b>こりゃ惚れこんだのは女のほうだなと啓矢は見当をつけた。</b></p><p><b>雷蔵とペアで将来の人材確保につながるかもしれないと、心中ほくそ笑んでいる。</b></p><p><b>「もうちょい、三四年くらい先かな、当院も増築増床して総合病院になる予定です」</b></p><p><b>あちこち見せ歩きながら、いかに病院に将来性があるかという説明にもリキが入った。</b></p><p><b>「開設者から二代目に引き継がれて、ウチはいま中興の伸び盛りです。</b></p><p><b>ナナコさんが卒業するころは、目の前に蜜だれの新大陸が広がってようなもんです。</b></p><p><b>切り取り勝手で、やりたいことをなんでもできますよ」</b></p><p><b>今日びナースの供給もたいへんだが、とうぜんドクターはもっと容易でない。</b></p><p><b>医学部に就活などという言葉はなく、常に売り手市場である。</b></p><p><b>高齢化が進み、医療の質も量も需要がふえているのに、医者の絶対数は不足気味。</b></p><p><b>たしかに人口は減っているが、減っているのは若年人口である。</b></p><p><b>若い者は病気に罹りにくいし、罹ってもすぐ治るから病人の数に大きく影響しない。</b></p><p><b>老人はいったん発症するとそのまま持病になる。</b></p><p><b>たとえば、腰だの膝だのが痛いという骨関節疾患などは、ほとんどが老化現象だから、長生きしたぶんだけ通院人口がふえることになる。ほかの病気も似たようなものだ。</b></p><p><b>それじゃ医者をふやせばいいじゃないかと、口で言うのはかんたんだが、医学部にはすぐにそうもいかない事情がある。</b></p><p><b>文学部なら机とイスを用意して、教授を一人呼んでくれば頭かずなどどうにでもなる。しかし医学部は教養では、生物、化学、物理、生化学、生理学、等々理系の科目はす</b></p><p><b>べて実験が必要である。薬剤などの消耗品もさることながら、一つのテーブルに一人の助手、半分くらいは学部卒、すなわち医者をつけるというコスト高。</b></p><p><b>解剖学では数人に一体の遺体を用意しなければならない。</b></p><p><b>遺体というのは無呼吸でホルマリン臭のする特殊な人々で、国内では<ruby>荼毘<rp>(</rp><rt>だび</rt><rp>)</rp></ruby><b>に付されて存在せず、海外のあやしげな国から遠路はるばる来て頂く。</b></b></p><p><b>授業の監督はまたもやグループごとに、理学部卒の助手か医者のライセンスもち。</b></p><p><b>たった一回の講義をするにしても、かように手間も暇も金もかかっている。</b></p><p><b>医学生を増やせば、とうぜん付随するあらゆるものを増やさなければならない。</b></p><p><b>雷蔵が女子学生を連れてきたといっても、それはたまたまで、われもわれもと扱いに困るほど集まってくるわけではない。困るくらい来てほしいが。</b></p><p><b>雷蔵が連れてきた娘は、今は見た目は頼りなさそうだが、将来的な潜在能力が違う。</b></p><p><b>どうなることやらと思うような女子学生が、いつのまにか一人前の医者になっていくのを啓矢はなんども見てきた。</b></p><p><b>「いいコじゃないか。だいじにしろよ」</b></p><p><b>　啓矢は娘に聞こえないように雷蔵に耳打ちした。</b></p><p><b>真意としてはもちろん、いずれいっしょに病院に連れてこいである。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>ほどなくして雷蔵はナナコと婚約した。</b></p><p><b>Ｋ工務店の社長は二人と幸恵のために、居酒屋の二階をあんばいに増改築してくれた。</b></p><p><b>「な～に、持参金がわりですよ。あとはセンセイにナナのめんどうみてもらわくちゃ」</b></p><p><b>　卒業まであと数ヶ月の雷蔵、国家試験など気にもせず、悠々とＳ病院で研修中。</b></p><p><b>　とある夕刻、病院は日常診療のあと遅番診療を終え、夜間の救急診療体制に入った。</b></p><p><b>　最初の患者が受診し、大学から来た当直医が対応に出た。</b></p><p><b>　雷蔵は患者を車椅子で運ぶなど、手助けしながら臨床実習である。</b></p><p><b>　Ｓ病院ではまいにち見られるありふれた光景だ。</b></p><p><b>　患者は中年の男で、車で来たが彼自身ではなく妻が運転した。</b></p><p><b>　主訴は局所的には右大腿部の<ruby>発疹<rp>(</rp><rt>ほっしん</rt><rp>)</rp></ruby><b>と疼痛、全身的には発熱とそれに伴う倦怠感である。</b></b></p><p><b>　妻の説明によれば、夫の皮膚の症状は二日前に生じたが、初め本人は大したことはないと思い、ふつうに仕事をしていた。生業は酒屋を営む自営業である。</b></p><p><b>昨日になり、若干の歩行時痛が気になったががまんして仕事をした。</b></p><p><b>　今朝になり熱があがり、局所の疼痛、圧通もましてきたため、朝の仕事を妻にまかせ、かかりつけの近医内科にかかった。</b></p><p><b>皮膚感染症ということで抗生剤や消炎鎮痛剤を処方されたが、改善傾向がみられないので夕方妻にせかされ、Ｓ病院なら時間外でも診てもらえると思って来院した。</b></p><p><b>店の留守番は高校生の娘にたくした。</b></p><p><b>医療側には関係ないことだが、本人には大事なことゆえ聞きもしないことをいう。</b></p><p><b>　雷蔵が医者の後ろから患部を<ruby>覗<rp>(</rp><rt>のぞ</rt><rp>)</rp></ruby><b>くと、右大腿外側に手掌大の淡紅色の発赤が見えた。</b></b></p><p><b>当直医がかるく触れてもつよい痛みを訴えるが、しかし外見上は大したことはない。</b></p><p><b>　体温は三十八度を少し超えるそこそこの発熱あり。</b></p><p><b>　医者はナースに採血の指示をだした。</b></p><p><b>　感染症が進むと、病原菌に対抗して血中の白血球がふえる。</b></p><p><b>「大丈夫でしょうか」</b></p><p><b>　妻は当直医に心配そうにきいた。</b></p><p><b>「感染症には違いないと思うのですが、患部の見かけより少し全身症状が強いですね。</b></p><p><b>入院していただいて、抗生剤の点滴などで治療しよう思いますが」</b></p><p><b>　常識的な判断で、雷蔵も彼と同じような印象をもった。</b></p><p><b>しかし局所症状と全身症状に乖離があり、いろいろ検査を追加しないと、すぐには病</b></p><p><b>態の正確な全貌を把握しがたい印象もある。</b></p><p><b>　ところが、入院と聞いて患者は色をなした。</b></p><p><b>「入院なんてこのいそがしいときに冗談じゃない」</b></p><p><b>「でもあんた、病気を悪くしたら元も子も</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>「おまえは黙ってろ」</b></p><p><b>　妻をさえぎり、</b></p><p><b>「先生、強力な点滴をして、なんとか帰らせて下さい。帳簿がたまってるんです」</b></p><p><b>「う～ん様子を見るため、大事を取って一晩でもいたほうがいいと思うのですが」</b></p><p><b>「それなら点滴をしたあと、家にいたって同じことじゃありませんか。</b></p><p><b>　治療の継続が必要ならあしたの朝も来ますから」</b></p><p><b>　患者はなかなかがんこだった。</b></p><p><b>　押し問答が始まりそうになったとき、当直医の携帯が鳴った。</b></p><p><b>「すみません。ちょっと失礼」</b></p><p><b>　横を向いて電話にでた。</b></p><p><b>「なに、うんうんそうか。わかった今すぐいく。<ruby>挿管<rp>(</rp><rt>そうかん</rt><rp>)</rp></ruby><b>準備をしてくれ」</b></b></p><p><b>　患者に向き直り、</b></p><p><b>「まことに申し訳ありませんが、病棟で患者さんが急変しました。</b></p><p><b>　すぐに待機医を呼びますので、ちょっとお待ち願えませんか」</b></p><p><b>　医者の顔色から、生死にかかわるという緊迫感は患者にも伝わっている。</b></p><p><b>雷蔵に向かって、</b></p><p><b>「待機医を呼びだしてくれませんか」</b></p><p><b>「この人は医者じゃないんですか」</b></p><p><b>「すみません。時間がありません。説明は彼から聞いてください」</b></p><p><b>　当直医はあたふたとその場を離れた。</b></p><p><b>　こういうウルサ型の患者は時間をあけないほうがよい。</b></p><p><b>「わたしは研修中の医学生です。すぐに代わりの医者を呼びます」</b></p><p><b>　雷蔵が携帯をとり出そうとポケットに手を入れたとき、検査技師がやってきて、</b></p><p><b>「採血結果でました」</b></p><p><b>　検査データを雷蔵に手渡したので、先に目が行ってしまった。</b></p><p><b>　白血球や炎症性の急性期反応タンパクが異常に高くなっている。</b></p><p><b>「ははあ、やっぱり感染による炎症がかなり進んでますね。入院されたほうが</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>「あンた、なに言ってるんだ。医者でもないくせに」</b></p><p><b>　心中ムッときたが、もうすぐ本物になるからここは我慢。</b></p><p><b>「ですが、これくらいのデータは何を意味するかわかります。</b></p><p><b>いまちゃんとした医者を呼びますのでくわしい説明を聞いてください」</b></p><p><b>その日の待機医は都合よく啓矢だった。しかし患者は、</b></p><p><b>「代わりの医者はいいから、さっきの先生に点滴指示だけもらってちょうだいよ。</b></p><p><b>　また引き留められちゃかなわん」</b></p><p><b>　雷蔵は必要な説明ならするが、ねちねちと説得は苦手だ。</b></p><p><b>正直このがんこ者のお相手は願い下げにしたかった。</b></p><p><b>「わかりました。いま直接病棟に行って指示をもらってきます」</b></p><p><b>　階段を駆けあがって、処置中の当直医のところへいくと、まさに挿管を終えたばかりで、まだてんてこまいだった。</b></p><p><b>「先生そのまま聞いてください。患者は点滴だけして帰るつもりのようです。</b></p><p><b>　薬剤の指示をお願いします」</b></p><p><b>「しょうがねえな。じゃあ</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>医者は処置をしながら抗生剤の選択をした。</b></p><p><b>いそがしいので、ある意味厄介払いの気持ちもあったかもしれない。</b></p><p><b>雷蔵がつきそって三十分ばかりで点滴がすむと、患者は再び妻の運転で帰路についた。</b></p><p><b>病棟はいったん落ち着き、当直医と雷蔵は医局でつかのまの休息を得た。</b></p><p><b>その後夜半まで、救急外来にはちょこちょこ小物が来院し、やがてぱたりととぎれた。</b></p><p><b>落ち着いてみると、さっきの患者のその後の経過がどうも気になる。</b></p><p><b>ドラマの医者ならヒューマニティの観点からだろうが、雷蔵のばあいはこれまで<ruby>培<rp>(</rp><rt>つちか</rt><rp>)</rp></ruby><b>った医療技術の観点からで、あのままで済むわけがないというカンである。</b></b></p><p><b>自分の判断が正しいかどうか知りたい。</b></p><p><b>局所の見かけは案外おとなしいが、あれはウラにかならず何かある。</b></p><p><b>「先生、わたしはどうもさっき外来でみた<ruby>蜂窩<rp>(</rp><rt>ほうか</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>織炎<rp>(</rp><rt>しきえん</rt><rp>)</rp></ruby><b>様の患者が気になります。</b></b></b></p><p><b>　まだ十二時ちょっと前です。出なければよし、連絡をとってみてもいいでしょうか」</b></p><p><b>蜂窩織炎というのは、脂肪や筋肉などの、皮下組織の感染性炎症のことである。</b></p><p><b>「うん、そりゃかまわんが、深入りはせんほうがいいぜ。</b></p><p><b>　患者なんか良かれと思っても大方トラブルのもとだからな。結果だけ聞けばいい」</b></p><p><b>　雷蔵もまったくそのとおりだと思っている。</b></p><p><b>ドラマの医者は、現実には危険極まりないことをしている。</b></p><p><b>患者が望む以上のサービスはしないことだ。</b></p><p><b>「はい。そうします」</b></p><p><b>　雷蔵は外来に降りて、受付にカルテを出してもらった。</b></p><p><b>　連絡を取ろうとしたとき、受付がまさにその患者の妻から電話が入ったことをつげた。</b></p><p><b>　すがりつくような声で妻は、</b></p><p><b>「あ先生、夜半申し訳ありません。主人の様子がおかしいんです。</b></p><p><b>　これからもう一度診ていただきたいんですが」</b></p><p><b>　ホーラ見ろ、だから言わんこっちゃない。もっとも妻ではなく、患者本人のせいだが。</b></p><p><b>「どんな具合ですか？」</b></p><p><b>「寝ているというより、受け答えがぼんやりして意味がわからないんです」</b></p><p><b>　これはまずい。意識障害を起こしかけている。</b></p><p><b>「すぐに救急車を呼んでください。早急に対処します」</b></p><p><b>　研修生の権限をこえた発言だが、この際それくらいのほうが手あつい印象を与える。</b></p><p><b>　それに患者側が診療を希望しているのだから、いずれ手を下さなくてはならない。</b></p><p><b>　当直医の携帯をならすと、代わりのナースがでて、再びさっきの病棟の患者で手が離せないので、待機医を呼べという指示である。</b></p><p><b>　雷蔵は啓矢の携帯をならした。ほかの医者でないから相談しやすい。</b></p><p><b>くわえて当直医は内科の医者だが、病気の本態は外科系とにらんでいた。</b></p><p><b>啓矢はなにか食べていたらしく、電話の声がモグモグしている。</b></p><p><b>「なんだ～ね」</b></p><p><b>のんきな声。しかし雷蔵がじつはこれこれと患者の容態を手短に話すと、</b></p><p><b>「<ruby>壊死性筋<rp>(</rp><rt>えしせいきん</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>膜炎<rp>(</rp><rt>まくえん</rt><rp>)</rp></ruby><b>かガス<ruby>壊疽<rp>(</rp><rt>えそ</rt><rp>)</rp></ruby><b>だ。すぐ行くからザルを開けといてくれ」</b></b></b></b></p><p><b>にわかに緊張した語調になった。ザルはザール、手術室のことだ。</b></p><p><b>なぜ診てもいないのに分かるのだろうと不思議に思ったが、啓矢は先回りに答えた。</b></p><p><b>「キミがおかしいと思ったんだろ。ならいちばんヤクイやつが正解よ」</b></p><p><b>雷蔵の直観力を本人以上に信用しているのだ。</b></p><p><b>「患部のプレーンとＣＴを撮ってくれ。時間ないぞ」</b></p><p><b>プレーンは普通のＸ線写真、ＣＴはコンピュータ断層撮影のこと。</b></p><p><b>　Ｘ線写真の意味は雷蔵にもすぐにわかった。</b></p><p><b>ガス壊疽なら細菌が生産したガスによる黒く抜けたエア像が出る。</b></p><p><b>救急車で到着したとき、患者は意識がなかった。</b></p><p><b>（<ruby>敗血症<rp>(</rp><rt>はいけつしょう</rt><rp>)</rp></ruby><b>ショックだ）</b></b></p><p><b>　細菌が生産する毒素によって、血圧が下がる病態で、放置すれば時を移さず死亡する。</b></p><p><b>　重症感はあったが、これほどとは思わなかった。</b></p><p><b>　啓矢は聞いたとたんにこの状態を想定した指示を出していたのだ。</b></p><p><b>ただちにルートを確保して体液量の増加をもくろみ、昇圧剤を投与したかったが越権行為なので、ナースに病棟まで走ってもらい、当直医の許可と同時に処置をした。</b></p><p><b>撮った単純写では黒い空気像はなかった。</b></p><p><b>（壊死性筋膜炎のほうか）</b></p><p><b>雷蔵は経験したことがなく、教科書的知識以上のことは知らない。</b></p><p><b>しかし皮下に<ruby>膿瘍<rp>(</rp><rt>のうよう</rt><rp>)</rp></ruby><b>を形成し、緊急を要するウルサイ病気だということを思いだした。</b></b></p><p><b>膿瘍とは感染症による膿の溜りのこと。地下のマグマ溜りがイメージである。</b></p><p><b>呼吸が止まるほどではなかったので、急いでＣＴを追加した。</b></p><p><b>その画像ができあがるころ啓矢が到着した。</b></p><p><b>当直医は病棟でまだ手が離せない。死亡確認なんてことになるのかも。</b></p><p><b>「ふうむ、<ruby>浅層筋<rp>(</rp><rt>せんそうきん</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>膜<rp>(</rp><rt>まく</rt><rp>)</rp></ruby><b>のうえに広範な膿瘍をつくっているな。</b></b></b></p><p><b>まあ大体こんなことになるんだけれども」</b></p><p><b>ＣＴ画像は雷蔵もかなり読める。病変部は理学所見の想像を超えて広がっていた。</b></p><p><b>「水面下は見かけよりずいぶん派手ですね。糖尿か何か基礎疾患があるのでしょうか」</b></p><p><b>「うん、たぶんな。あとで詳しく調べるが、とにかくオペだ。遅れるとオシャカだぜ。</b></p><p><b>　キミやってみろよ。ものはデカイがただのデブリードマンだ」</b></p><p><b>　デブリードマンとは切開排膿して、壊死組織を除去することである。</b></p><p><b>　今の雷蔵にとっては、むしろもっとも簡単な手術手技である。</b></p><p><b>　啓矢は待合室で不安げな顔をしている妻に現状と、今後の治療方針を説明した。</b></p><p><b>　手術と聞いてとうぜん妻はおどろいた。</b></p><p><b>「そんなに大変な病気だったのですか」</b></p><p><b>「この病気は非常に経過が速いのが特徴で、ほんとうに時間単位なんです。</b></p><p><b>そのときの経過しだいですから、初診の時点ではなんとも言えませんでした」</b></p><p><b>　だから医療側は引き止めたのだというニュアンスである。</b></p><p><b>「外科の病気なんですが、内科の医師は感覚的に異変に気づいていたようです」</b></p><p><b>　これはまあウソではない。素人にもそれくらい分かってもらえるだろう。</b></p><p><b>「しかし感染の拡大がたいしたことがないこともあるし、ご主人がいったん帰る気にな</b></p><p><b>ったのも分からないではありません」</b></p><p><b>　医療側にミスはないし、多少は患者にも配慮したという印象の説明だ。</b></p><p><b>（なるほどこんな風にもっていくのか）</b></p><p><b>　医療技術はずいぶん上達したが、このへんの話術にかんしては雷蔵もまだまだである。</b></p><p><b>手術室で雷蔵が麻酔をかけ、さらに雷蔵執刀、啓矢の前太刀で手術がはじまった</b></p><p><b>　サクリと第一刀を入れたとたん、ダラーっと大量の膿が流れでてくる。</b></p><p><b>　組織を用手剥離していくと、壊死は右大腿外側全長、さらに右ソケイ部、<ruby>腸<rp>(</rp><rt>ちょう</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>骨<rp>(</rp><rt>こつ</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>棘<rp>(</rp><rt>きょく</rt><rp>)</rp></ruby><b>の</b></b></b></b></p><p><b>上にまで及び、壊死組織は取っても取っても尽きなかった。</b></p><p><b>「こういうのって、遠慮してもしょうがないですよね」</b></p><p><b>「もちろんだ。とり損ねるとあとで返ってめんどうのタネになる」</b></p><p><b>片手一つ半くらいの皮膚の欠損ができた。</b></p><p><b>「こんなもんでしょうか」</b></p><p><b>「だな」</b></p><p><b>「オープンでドレナージします」</b></p><p><b>　オープンとは創を閉じないこと、ドレナージは膿を導き出す管を設置することだ。</b></p><p><b>　膿を出やすく、また洗浄などの処置をしやすくする。</b></p><p><b>「よし、これでこの患者は助かったな。こいつは手遅れにしちまうタコ医者もいるんだ。</b></p><p><b>　やばいというのはいい感覚だったぞ」</b></p><p><b>　啓矢にそういわれると自信につながる。</b></p><p><b>レパートリーの病気をガッチリ一個ふやしたので、次回から自信をもって対処できる。</b></p><p><b>「ついでだ、術後管理と傷の後始末やっといてくれ」</b></p><p><b>　傷の始末とは欠損皮膚の修復、つまり縫合や植皮のことで、二三週間後、感染がお</b></p><p><b>さまるのをまってから行う。今の雷蔵にとっては朝飯前の手技だ。</b></p><p><b>　基礎疾患に、放置されていた重度の糖尿病が発見されたが、それは外来管理である。</b></p><p><b>患者はその後一ヶ月あまりで退院した。初診時の正確な診断以外は、初期手術、術後</b></p><p><b>全身管理、欠損皮膚の再建まで、ほとんど雷蔵一人の処置で間にあわせた。</b></p><p><b>しかしもちろん雷蔵自身はいっさい表にはでていない。</b></p><p><b>再建手術は全身麻酔だし、点滴指示などはカルテ記載でナースがおこなう。</b></p><p><b>ゴーストライターならぬゴーストドクター。</b></p><p><b>卒業が迫っており、そんな境遇もあとわずかだ。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>病院で啓多と啓矢は、院長、副院長として活躍している。</b></p><p><b>経営者の感覚である。ついでにここもも運命共同体で、とうぜん経営者側である。</b></p><p><b>それぞれ卒後数年で内科、外科、麻酔科の部長になった。</b></p><p><b>若くても身内のお手盛り人事などと、陰口をたたかせないだけの確かな技量がある。</b></p><p><b>啓多は内科部長だが、一口に内科といってもレパートリーは広い。</b></p><p><b>消化器、循環器、呼吸器、神経内科、心療内科、さらには<ruby>内分泌<rp>(</rp><rt>ないぶんぴつ</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>代謝<rp>(</rp><rt>たいしゃ</rt><rp>)</rp></ruby><b>、アレルギー<ruby>膠<rp>(</rp><rt>こう</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>原病<rp>(</rp><rt>げんびょう</rt><rp>)</rp></ruby><b>、等々キリがない。啓多はどれもそこそこ診ることができる。</b></b></b></b></b></p><p><b>消化器、循環器、呼吸器などはそれぞれ専門の医者と同等以上の技量がある。</b></p><p><b>内科はむかしから“本道”すなわち“ほんどう”といって医療の基本である。</b></p><p><b>外科は“外道”すなわち“げどう”という。</b></p><p><b>このばあいの外道の“外”は道を“はずれた”という消極的な意味ではない。</b></p><p><b>本道で治せないから“ほかの”道で治すという意味である。</b></p><p><b>たとえば悪性腫瘍は、可能なら外科的手術で根こそぎ切除してしまったほうがよい。</b></p><p><b>化学療法、つまり本道の薬では一般に根治できず、この場合は手術の補助療法となる。</b></p><p><b>テレビのドラマなどでは外科は舞台の花形だが、実際の医療では、患者にとって外科の治療は不愉快千万である。世の中に手術をされたい人間などいるはずがない。</b></p><p><b>できるなら薬を飲むくらいで病気を治してしまいたいところだ。</b></p><p><b>派手なことをしないで治してしまう内科は、だから本道であり、シャレではないがほんとうはいちばんカッコいいのである。</b></p><p><b>もっともそれは啓多の感覚でそう思っているだけだが。</b></p><p><b>内科全般をカバーしてしまいたいが、いかに啓多といえどもそれは不可能である。</b></p><p><b>できるところまではやって、専門医の助けが必要なときは躊躇せず紹介状を書いた。</b></p><p><b>大学の医局から来ている助っ人の内科専門医でも間にあうこともある。</b></p><p><b>いずれにせよ結果的に病気が治ればよいのであって、つっぱる気持ちは毛頭ない。</b></p><p><b>目先にとらわれない良心的な診療は、巡って病院の評判にもつながり収益もあがる。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>啓矢は外科担当で、いちおう消化器が専門ということにしてある。</b></p><p><b>実際はむちゃくちゃなレパートリーであり、むちゃくちゃな症例数である。</b></p><p><b>医学部在学中の六年間におこなった手術は、卒後十年の外科医より多かっただろう。</b></p><p><b>土日祝祭日は一日に何件もやるし、ウィークデーでも夕方からとか、夜間緊急のオペもあるから、週に多くても二三件などとという外科医をかんたんに<ruby>凌駕<rp>(</rp><rt>りょうが</rt><rp>)</rp></ruby><b>してしまう。</b></b></p><p><b>センスがあるうえに、胸部でも腹部でも、それぞれの科の専門医よりさらに症例数そのものが多いという状態だから、こわいものなしである。</b></p><p><b>頭のてっぺんから足のつま先まで、メスを入れた経験のないところはない。</b></p><p><b>人体の外科的解剖学を知りつくして、開頭手術や整形手術など、専門性の高い手術もどんどんやる。唯一眼球に手をつけたことはないが、眼周囲の皮膚の形成術は得意だ。</b></p><p><b>同族経営の病院だからこういうことができるのだが、大学病院や総合病院などの大きな組織の中ではシステム上、啓矢のような医者を作ること自体が物理的に不可能である。</b></p><p><b>医療はセンスはもちろん必要だが、芸能人やスポーツ選手のような特別な才能がなくても、だれでもやればできるという技術の方がはるかに多い。</b></p><p><b>体制上の工夫をすれば、啓矢ほどではないにせよ雛型をつくることは十分可能である。</b></p><p><b>しかし組織というものは硬直性が高く、いったんそういうものだという固定観念にとらわれると、それを打破するのは金鉄の形を変えるほどにも容易でない。</b></p><p><b>なぜなら組織の上層部であぐらをかいている人間たちにとって、そういうシステムが都合がいいから上にいるわけだし、したがって変えられると彼らに不都合である。</b></p><p><b>ゆえに連綿と同じ体制が続くというわけだ。典型的な例が官僚組織。</b></p><p><b>啓矢はＳ病院に設備のない手術はできないが、病院でその機器を導入するか、一時的にほかの施設から借りだせばできる。</b></p><p><b>人工心肺を回して心臓移植など大仕掛けものは、総合病院の建て構えになってからだ。</b></p><p><b>科による特殊性はあるが、外科の基本手技は同じだから、啓矢のように上達すると、ネットや雑誌で調べれば初めての手術でも問題ない。</b></p><p><b>これはすぐれた外科医ならだれでもそうやって自己教育し、名人上手の域に達する。</b></p><p><b>どんな分野でもそうだが、技術のすべてを教えることも教わることもできない。</b></p><p><b>基本を教わったら、あとは自分で工夫して技を磨いて行くほかはないのである。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>ここもは肩書きは部長だが、部下がいるわけではなく、ひとりだけの麻酔科医である。</b></p><p><b>何科をやってもよかったのだが、病院の要請を受けて麻酔科担当になった。</b></p><p><b>ここもが専属になるまでは、大学の医局から、非常勤で麻酔科医を借り出していたのだが、使い勝手がわるかった。</b></p><p><b>一つには、全例麻酔科医が必要な手術ばかりとは限らない。</b></p><p><b><ruby>腰椎<rp>(</rp><rt>ようつい</rt><rp>)</rp></ruby><b>麻酔や<ruby>硬<rp>(</rp><rt>こう</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>膜外<rp>(</rp><rt>まくがい</rt><rp>)</rp></ruby><b>麻酔なら外科医だけでもできる。</b></b></b></b></p><p><b>体表面の小オペの局所麻酔は外科医が術野を決めるから、術者自身でやるしかない。</b></p><p><b>時間のあいたときは、外来で風邪ひきや、傷の消毒など雑多な小物を診てもらうのだが、そんな仕事が大学の麻酔科医にとってうれしいわけがない。</b></p><p><b>いちばん問題となるのは、緊急の手術で夜中まで長引いたときなどである。</b></p><p><b>身内の常勤ならかばいあって時間のやりくりはどうとでもなるが、非常勤は翌日、大学で自分の仕事があるから徹夜させるわけにはいかない。</b></p><p><b>麻酔は、患者の生命に直結するもっとも危ない医療の一つである。</b></p><p><b>ふつうの麻酔なら外科医はだれでもかけられるが、患者の状態がわるいハイリスクのケースになるといっぺんに難しくなり、餅は餅屋の出番となる。</b></p><p><b>外科系の病院は最低でも一人、専門に麻酔を受けもつ医者がほしい。</b></p><p><b>さらにその医者が専門医の資格をもっていると、対外的にも格好がよい。</b></p><p><b>医療関係者のあいだではもちろん常識だが、素人でも麻酔科専門医がいるといないでは、病院の厚みが違うことを知る者は知っている。</b></p><p><b>しかし大きな病院ならともかく、ここもが新卒で麻酔科担当になるころまでのＳ病院の規模では、常勤の専門医を用意することは、経営上の問題があった。</b></p><p><b>資格ものは権威主義で、市井の病院で専門医はなかなか大変なのだが、ここもは診療をしながら論文を書き、試験を受けてその難しい条件をクリアした。</b></p><p><b>医者はみな個別の理由で自分の科を選ぶが、ここものような場合もありうるだろう。</b></p><p><b><ruby>請<rp>(</rp><rt>こ</rt><rp>)</rp></ruby><b>われてそれに応えるということは、かえって充実感があるかもしれない。</b></b></p><p><b>派手な役回りではないが、病院では使い出のある遊撃手として実に貴重な存在だった。</b></p><p><b>ちなみに、医療機関で最高のカードは病理専門医で、自前で病理解剖ができることは大きな総合病院のステイタスシンボルである。Ｓ病院はまだそこまではいかない。</b></p><p><b>　</b></p><p><b>光陰矢のごとし。</b></p><p><b>啓矢との運命的な出会いからちょうど七年が経過した。</b></p><p><b>雷蔵は医大を卒業し、めでたく国家試験に合格した。</b></p><p><b>今や押しも押されもしないライセンス持ちである。</b></p><p><b>　Ｓ病院で経理部会議が開かれ、議題の一つが雷蔵の今後の扱いや待遇についてだった。</b></p><p><b>　といっても話しあうというほどのことでもない。</b></p><p><b>啓矢の提案がスラスラとそのまま通っただけである。</b></p><p><b>「学費の返済については、もうその必要はないと思われます」</b></p><p><b>　ある程度の期待はしていたが、雷蔵の研修中の収益効果は、さすがの啓矢も予測し得ないほどのものだった。</b></p><p><b>「ここ数年間、学業の合間をぬっての術場や救急室における働き、土日祭日の休日活動、わたし名義で事実上単独のオペが数百件等、病院にもたらした収益に換算しますと学費はその何分の一か微々たるものです。さらに今後の活躍にも大いに期待がもてます」</b></p><p><b>　だれもがその通りだというようにうなづいた。</b></p><p><b>「十年の就業の契約期間は据え置きでよろしいかと思います。何より彼自身が当院での就業をつよく希望しておりますし、したがって縛りというような負担も感じておらないようです。おそらくはそれを超える就業期間となることが予想されます」</b></p><p><b>「よろしいでしょう。雷蔵先生については啓矢先生の一存で結構です。</b></p><p><b>たいへん有能な人材を発見育成してくれました。ご苦労様でした」</b></p><p><b>　理事長の啓介のしめで議題は次に移った。ものの五分とかからなかった。</b></p><p><b>　</b></p><p><b>経理部会議があった日の夕方、啓矢はさっそく会議の報告と、今後のことについての相談もかねて、雷蔵をむかし彼が働いたことのある和風割烹に誘った。</b></p><p><b>啓矢がひとりで行くことは何度かあったが、二人がそろっていくのは久しぶりだった。</b></p><p><b>「ナナちゃんも呼びだせよ。休み中だろ」</b></p><p><b>　タクシーで二人と相前後して到着した。</b></p><p><b>割烹は人も入れかわり、外回りで雷蔵を知っている者はだれもいない。</b></p><p><b>厨房にふるい人間がいたとしても、短期間だしおそらく覚えていないだろう。</b></p><p><b>「今日は雷蔵先生の就職祝いだ。ナナちゃんは進級祝いだね。大いにやってくれ」</b></p><p><b>　大いにといってもナナコは挙児希望だから、アルコールは飲めないが。</b></p><p><b>　雷蔵はライセンスを得て一段と貫録を増した感じである。</b></p><p><b>明日からは人前で何をやってもかまわない。単独で術者にもなれる。</b></p><p><b>ただし新卒がバレて患者が不安になると困るから、いましばらくは啓矢が名目上アタマと尻尾だけ取り繕うけれども。</b></p><p><b>　ナナコは昨年の夏と比べるとすっかり女子大生らしくなった。</b></p><p><b>落ちついた感じのスーツを着てほどほど化粧もしている。</b></p><p><b>髪のリボンがなくなり、耳に小さなパールのピアスがついていた。</b></p><p><b>啓矢の前に出るということで、多少は大人っぽく演出したのかもしれない。</b></p><p><b>「いよいよ先生にゃ病院をブン回してもらわにゃならんなー。</b></p><p><b>わしが第一外科をやるから先生には第二外科を立ち上げてもらおう」</b></p><p><b>　医学部を卒業したばかりである。ほかの新卒は採血ひとつおぼつかないだろう。</b></p><p><b>今の時点でこんな話題は、ふつうは酒の席での景気話である。</b></p><p><b>この二人の場合はそうではない。</b></p><p><b>啓矢は雷蔵を一人前の医者だと認めていたし、事実そうなので雷蔵も自覚があった。</b></p><p><b>手術は文献や記録映像を見れば独力でばりばりできる。</b></p><p><b>新しい技術や検査法などは、ちょっとトレーニングすればすぐ身につく。</b></p><p><b>基本ができて伸び盛りのときはそんなものだ。</b></p><p><b>どんな分野の手技でも共通の流れをくむノウハウがあり、パターンは無限ではない。</b></p><p><b>いかに速く的確にそのノウハウの真髄をつかむかだが、それがいわゆるセンスである。</b></p><p><b>雷蔵にはそれがあったのだ。診療に関してもああもしたい、これもやりたいなどの腹案が浮かんでは消える。任されればなんでもどんと来いだ。</b></p><p><b>序列的には啓矢を筆頭に、ほかの先輩医者もすべて雷蔵の上の人間たちだが、仕事上で雷蔵にああしろこうしろと掣肘を加える者はいない。上下意識の薄い市中病院で先輩風を吹かしても意味がないし、ものによってはむしろ雷蔵のほうがたけている。</b></p><p><b>とくに他科の医者、たとえば内科医などは、外科手技などどうにもならない。</b></p><p><b>医大を卒業するまぎわは、将来の有望株として各科から熱心な勧誘をうけた。</b></p><p><b>Ｓ病院との契約があるからそれはハナからない話である。</b></p><p><b>もともと雷蔵自身、たとえ許されても大学で教授などになる気はなかった。</b></p><p><b>研究者ではなく臨床家タイプである。論文を書くより患者を診ているほうが性にあう。</b></p><p><b>近い将来総合病院になるＳ病院を素地にして、みずから主導の外科系臨床部門の新天地を切り拓いたほうがやりがいがある。</b></p><p><b>いずれほかのあちこちの医療機関から、ここじゃできないからあそこへいってくれといわれるような施設をつくり上げて見せるつもりだ。</b></p><p><b>十年の契約はいまの雷蔵には縛りではなく、最低十年は追い出されなくてすむという雇用保証期間のように思えた。</b></p><p><b>（よーし、やってやる）</b></p><p><b>自分でも信じられないような奇運で雲を得た。</b></p><p><b>男血気の二十五歳、腕が鳴る実に腕がなる。</b></p><p><b>それを静かな闘志で押し包み、焼酎ロックをこくりと一口。</b></p><p><b>横にいるナナコ、雷蔵の胸中くわしくは知らない。</b></p><p><b>しかし啓矢との会話の内容や口調から雰囲気は伝わっている。</b></p><p><b>雷蔵の引き締まった片頬を横目で見ながら、このたのもしい男にくっついていられる</b></p><p><b>自分までもが誇らしく思えた。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>若い男たちが部屋の中で三人、なにやらボソボソと相談している。</b></p><p><b>ちまたでは、こういう野郎どもが企むことといえば、大方ロクでもないことが多い。</b></p><p><b>しかしこの場合は逆で、なかなか感心なことだった。</b></p><p><b>「ぞろっとした妙案はないかな」</b></p><p><b>首をかしげながら長男タロ、次男ジロと三男サブもフムムと考えこんでいる。</b></p><p><b>三人はここもの息子たち、啓太郎、啓次郎、啓三郎である。</b></p><p><b>あの医学部で、ここもの背中でバブバブしていた赤んぼうたちが大きくなったのだ。</b></p><p><b>フルネームは長いので、タロ、ジロ、サブと呼びあっていた。</b></p><p><b>じつはこの三人、来たるべき五月の母の日に、ここもに何かプレゼントしようという殊勝な計画を練っていたのである。</b></p><p><b>苦労した甲斐あって、いやここも自身はちっともそう思っていないが、なんという孝行息子たちに育ったことか。</b></p><p><b>うっうっ、ここもに代わり感涙の一つもありうべきかも。</b></p><p><b>しかしそれもこれも若いときにしっかり修養し、あそびにも行かずにチビたちをせっせと育てたおかげである。因果応報、いいこともわるいこともすべてわが身に返る。</b></p><p><b>　父親の啓矢といえば、家の中のことには興味がなく、息子たちをかまったりしない。</b></p><p><b>　ほとんど部屋にいないが、いるときはノターっとソファに長くなり、子どもたちが小さいときからキャッチボール一つしてくれなかった。</b></p><p><b>いやべつに、オヤジなんてどこの家庭でもかまって欲しい人間ではないが。</b></p><p><b>ウルサイことはいっさい言わないから、その点はまあよい。</b></p><p><b>ちなみに彼は息子たち<ruby>内々<rp>(</rp><rt>うちうち</rt><rp>)</rp></ruby><b>で“<ruby>御上<rp>(</rp><rt>おかみ</rt><rp>)</rp></ruby><b>”と呼ばれていた。古来御上とは天皇の別称。</b></b></b></p><p><b>いちおう<ruby>崇<rp>(</rp><rt>あが</rt><rp>)</rp></ruby><b>めているようだが、なにやらけむたいニュアンスもなきにしもあらず。</b></b></p><p><b>男親がとおいぶんこの家では、五人家族の中で女はここもだけだし、持ちまえのほっこり性格で息子たちに慕われていた。</b></p><p><b>知らない人間には、いつも姉とまちがわれる若い母親。</b></p><p><b>タロに至っては知人に、クラスの子かと聞かれたこともある。</b></p><p><b>以下三男サブの一年生のときの作文。</b></p><p><b>「ぼくのおかあさん。</b></p><p><b>　ぼくのおかあさんはますいかいです。おかあさんがますいをかけないとしゅじゅつができないそうです。おかあさんはむかしちありーだーだったそうです。</b></p><p><b>　おかあさんがいちばんきれいなのでぼくははなが高いです。おわり」</b></p><p><b>　いちばんきれいというのは、ほかの子の母親と比較してという意味だろう。</b></p><p><b>　覚えたての“高”という漢字が書けている。</b></p><p><b>「あった、あった。いい知恵わいたゾ」</b></p><p><b>　そのサブがひらめいたというように声を発した。</b></p><p><b>まだ中学二年だが、余人の発想外の思考回路があり、どうして相談事の知恵袋だ。</b></p><p><b>　この時点でタロは高二、ジロは高一。</b></p><p><b>「モノじゃなくて、御前をフィリピンに連れて行くってのはどーだい？」</b></p><p><b>　御前とはここものこと。</b></p><p><b>“ごぜん”と読み、貴婦人に対する尊称である。源義経の妾“<ruby>静<rp>(</rp><rt>しずか</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>御前<rp>(</rp><rt>ごぜん</rt><rp>)</rp></ruby><b>”とか。</b></b></b></p><p><b>「なるほどー、うん、悪くないかも。一度も行ったことがないって言ってたな」</b></p><p><b>　ジロはいったん賛成したが、</b></p><p><b>「しかし旅行てのはカネがかかるな。四人分となると結構ハンパじゃないぜ」</b></p><p><b>　当座パスポートとビザを用意しなければならない。</b></p><p><b>プレゼントを考えていたので、それくらいは手持ちで賄えるだろうけれども。</b></p><p><b>「いやいい考えだ。路銀は自分がなんとかしよう。調達にいささか心当たりがある」</b></p><p><b>「ほう、あにいがゼンコにも明るいとはな。頼もしいじゃねーか」</b></p><p><b>　ジロの上はタロだけなので、単にあにいと呼ぶ。</b></p><p><b>サブは二人いるからタロにい、サブにいだ。</b></p><p><b>「あ、考えてみたら休みの真っ只中だよ。これからキップとれるかな」</b></p><p><b>連休まであまり日数がなかった。パスポートやビザはまだなんとか間にあうくらい。</b></p><p><b>「ふうむ。確かにまとめて四人分はキツイな。裏ワザ使わないと」</b></p><p><b>その裏ワザってのはなんなんだと、ジロとサブはタロの言をまった。</b></p><p><b>「皆さんやることは一緒。そこで行きは忍法<ruby>空蝉<rp>(</rp><rt>うつせみ</rt><rp>)</rp></ruby><b>の術、帰りは<ruby>燕返<rp>(</rp><rt>つばめがえ</rt><rp>)</rp></ruby><b>しの術を使うのよ。</b></b></b></p><p><b>連休を一日だけ前倒しで出かけるのさ。そんでもって、連休のアタマに帰ってくる」</b></p><p><b>　術はイメージ的造語で、空蝉は異所に身を置くこと、燕返しはとんぼ返りを意味する。</b></p><p><b>　この場にいたジロとサブでないと理解できない。</b></p><p><b>「なーる、固定観念にちょいとフェイントかけりゃ行きも帰りもスカか。ヒヒ」</b></p><p><b>　啓太郎のクラスでのあだ名は“カミソリ太郎”である。地獄のように頭が切れる。</b></p><p><b>「学校は仮病でズルやすみだな。でも御前は仕事があるんじゃないの？　</b></p><p><b>連休は毎年、飛び石ローテーションだったと思うけど」</b></p><p><b>みな成績が良く、自分たちはかまわないが、勤めのあるここもはどうするか。</b></p><p><b>「だから予定組んでもらえばいいだろ。おまけにふだんの仕事ぶり見ろよ。</b></p><p><b>出番どころか有給が山ほどあるに決まってら」</b></p><p><b>「フム。ま、いちおうオジキに通しておくわ」</b></p><p><b>　オジキとは病院長の啓多のこと。どの道タロは啓多に会う用事があった。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Thu, 29 Jun 2017 09:10:48 +0900</pubDate>
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<title>第３０章</title>
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<![CDATA[ <p><b>啓多のうわさが下火になってまもなく、こんどはなんと啓矢にうわさが立った。</b></p><p><b>ターゲットが派手なだけに、病院中で“副院長浮気事件”としてもてはやされた。</b></p><p><b>看護師のなかに“ヒトミ”という名の、はたちを一つ二つ出たかの若いナースがいた。</b></p><p><b>ある夜の夜勤帯の時間に、病棟の一画にある小部屋からまずヒトミがでてきて、一呼吸おいて啓矢がおなじところからでてきたのが目撃されている。</b></p><p><b>そこは休憩室とか仮眠室などとよばれている部屋で、ほんらい当直医以外の助っ人ドクターが、休憩あるいは泊まりがけになったときに使用するところである。</b></p><p><b>当直医には医局のとなりに専用の当直室が用意されている。</b></p><p><b>ふつう女は出入りしないところからヒトミが出てきたのを見て、アレッと不審に思ったナースが張っていたところ、はたして続いて出てきたのがなんと副院長。</b></p><p><b>こりゃだんぜん怪しいということになった。</b></p><p><b>うわさが院内を飛びかいはじめたころ、こんどは清掃係のおばちゃんから、屋上に二人でいたなどという情報がはいった。</b></p><p><b>「洗濯物のかげでさ、副院長は泣いているヒトミちゃんをなぐさめていたみたいよ」</b></p><p><b>　またあるときは、二人いっしょに職員用裏出口から帰路につくのも目撃されている。</b></p><p><b>　かつての啓矢にそんなことがあったためしがない。</b></p><p><b>もうまちがいないと衆人間ではそのうわさでもちきりになった。</b></p><p><b>「まさか副院長がねえ」</b></p><p><b>「副院長だって男のひとよ」</b></p><p><b>しかしじつは啓矢は潔白である。</b></p><p><b>過日ナースステーションで、いかにもふさぎこんでいる様子のヒトミをみかけ、</b></p><p><b>「なんな、テンション低いじゃねえか」</b></p><p><b>なにげなく声をかけたのがコトのはじまりだった。</b></p><p><b>「相談ごとならのるぜ」</b></p><p><b>ふつうなんでもありません、などというところだが、気のおけない啓矢ならとヒトミは思ったのだろう、だまってうなづいた。</b></p><p><b>「ひとまえでは話しづらそうだナ。休憩室でも行こう」</b></p><p><b>これがいささか配慮に欠け、マチガイのもとになった。</b></p><p><b>部屋でヒトミがとつとつ語ったところは、以前ちょっとだけつきあっていた男がストーカーに変身し、追跡をうけて困っているというものだった。よくある話。</b></p><p><b>男ははたちも半ばすぎ、ヒトミと出あったころはどこぞの大学生とか言っていたが、その後中退し、仕事もせずに親からのしおくりでその日暮らしをしていた。</b></p><p><b>子が子なら親も親、あまやかすにもほどがある。</b></p><p><b>つきあいはじめたころはまあそれなりに優しかった。</b></p><p><b>しかしそのうちやたら嫉妬深くなり、ちょっとでもほかの男と口をきこうものなら、誰だとかどういう関係だとかうるさくてやってられない。</b></p><p><b>あきれてもう終わりにしたいと言ったときから男はモンスターになった。</b></p><p><b>小人閑居しての典型で、ヒトミのアパートの周辺を朝夕うろちょろ、買い物のあとをつけてきたり、郵便受けにごっそりと誹謗中傷の書きつけをいれたりと例のパターンだ。</b></p><p><b>ほんらい気の小さい男で、それだけにネチネチと信じられないくらい執念深いという。</b></p><p><b>こういう表六玉は強制的に軍隊にでもぶち込んで、まいにち口もきけないくらいギリギリしぼりあげるのがいいだろうが、現在そういうシステムは日本にはない。</b></p><p><b>いちど警察に相談してみたものの、夜はであるかないようにだとか、電話にでないようになどと、あっち向いてホイのアドバイスだ。公務員を頼るほうがどうかしている。</b></p><p><b>「よし、わしにまかせろ。おっぱらってやる」</b></p><p><b>男気をだして相談にのり、二人で具体的な作戦をねっていたのを周囲になにくれ見られてしまったというわけである。</b></p><p><b>しかしいざ根本的解決となると、頭のイカレたやつが相手だけに存外むずかしい。</b></p><p><b>啓矢が男の横っ面を二三発はりとばすくらいわけないが、医者が暴力沙汰はいかにもまずいし、それくらいで目的が達せらるかもあやしい。</b></p><p><b>「わしの知ってるスナックバーがある」</b></p><p><b>病院のちかくなので、啓矢は遅くなったときなど、ときどき飲み食いに利用していた。</b></p><p><b>「マスターと懇意にしてるんだが、そこへきゃつをよびだせ。考えがある」</b></p><p><b>　店主はもと暴走族の特攻隊長だった男で、いまどきはやらないリーゼント頭。</b></p><p><b>啓矢よりひとまわり年上だが<ruby>気風<rp>(</rp><rt>きっぷ</rt><rp>)</rp></ruby><b>のいい男どうし、お互い気があう。</b></b></p><p><b>　数日後の遅い時間、ヒトミは男をそのバーによびだすことに成功した。</b></p><p><b>マスターは男が店に入ってくるなり、ドアの外に貸し切り札をぶらさげた。</b></p><p><b>　一人だけの手伝いの女の子とも話ができており、めくばせすると帰っていった。</b></p><p><b>ボックスの奥では啓矢が控えている。</b></p><p><b>男はヒトミがヨリを戻してくれるのかもしれないとホクホクしていた。</b></p><p><b>植物系のみるからにたよりなさそうな印象だが、色白で鼻筋はとおっている。</b></p><p><b>そのあたりにヒトミは一時期だまされたのかもしれない。</b></p><p><b>「おう、ヒトミにまとわりついちょるスカタンちゅうのはおどれのことかい」</b></p><p><b>啓矢が立ちあがって声をかけると、男はぎょっとした目をむけた。</b></p><p><b>「だ、だれだ、あんた」</b></p><p><b>「わしか～、わしはヒトミのイロだよ。女にちょっかいは困るんだがな」</b></p><p><b>「ぼ、ぼくだってヒトミを死ぬほど</b><b>···</b><b>」</b></p><p><b>　言いかけたとき、啓矢がバンとカウンターを平手うちしたので、男はビクッとなった。</b></p><p><b>「好いたの惚れたのいうんじゃな。ほいじゃどっちがより本気か、女の前でド根性みせたろやないかい」</b></p><p><b>「ど、どうするというんだ」</b></p><p><b>「マスター、ピックかしてくれんかの」</b></p><p><b>　あらかじめ相談ができているので、すぐにマスターはてもとにあったアイスピックを啓矢に手渡した。ヒトミも含まされているのでパニくらない。</b></p><p><b>　おどろいたのは男だけである。</b></p><p><b>「ぼ、ぼくを刺そうというのか？」</b></p><p><b>「あわてるな、根性だすだけじゃ」</b></p><p><b>啓矢は逆手にもったピックの先端を手の甲のうえにもっていき、</b></p><p><b>「こうやって手をブスブス刺すわけだ。かわりばんこにやって、一回でも多いほうが勝ちちゅうことにする。わしがまず見本をみせたるから目ン玉ひんむいてよ～くみとれ」</b></p><p><b>　啓矢はちかくにあったカウンターのうえの週刊誌を下敷きにして、そのうえにおしぼりをひろげた。左手をのせ、さらに右手でピックの先端を固定した。</b></p><p><b>「じゃ、マスターたのむぜ」</b></p><p><b>　こころえたとばかりマスターは、躊躇もせずピックの頭を押さえ、ムンと体重をのせて一気に手の甲を突き通した。おしぼりがみるみる朱に染まる。</b></p><p><b>　わっと男はのけぞった。蒼白になり、唇はワナワナと震えた。</b></p><p><b>啓矢はニタリと不気味に笑い、突き立ったピックをじぶんで引き抜いた。</b></p><p><b>先端の血をぺろ～りと舐め、</b></p><p><b>「ほら、こんどはおどれの番だぞ」</b></p><p><b>　男のまえに差しだした。</b></p><p><b>「わ、わ」</b></p><p><b>　あとずさりして、フロアのうえで腰を抜かしてしまった。</b></p><p><b>「なんじゃあ、死ぬほど惚れとるんじゃなかったのかい」</b></p><p><b>ほら、ほらと、ピックを近づけるたびに男はうしろへずりさがって行く。</b></p><p><b>ついにドアの外に跳びだすと、わーっとわけのわからぬ叫び声をあげながら、あともみずに逃げてしまった。</b></p><p><b>「蚤のキンタマみたいにチンケなやつじゃのー。</b></p><p><b>まあ、あの様子じゃもうまとわりつく元気はあるまいの」</b></p><p><b>マスターは同感というようにうなずいた。</b></p><p><b>「けっこう出てますね」</b></p><p><b>　血がポタポタとおしぼりの上にたれてくる。</b></p><p><b>　マスターは用意しておいた救急箱をカウンターにおいた。</b></p><p><b>「静脈に当たったかな。なに指間部のみずかきだけなんだが」</b></p><p><b>　都合よくナースがいる。</b></p><p><b>「処置してくれ」</b></p><p><b>　ヒトミは消毒し包帯をまきはじめた。じゅうぶん手はずは説明ずみ、というのはピックを刺すまえに、局所麻酔をしてあることになっている。</b></p><p><b>　多少のキズはしかたないが、ほとんど痛くはないはずだ。</b></p><p><b>　それでも皮膚を貫通させたのだから、なかなかたいへんなことだが。</b></p><p><b>　ところが、ヒトミは処置の最中、啓矢の眉がかすかにひそめられたのに気づいた。</b></p><p><b>「あれ先生、痛むんですか？」</b></p><p><b>　そんなはずは、という口ぶりだが、啓矢はガハハと笑い、</b></p><p><b>「いんやー、それがの、出かけるまえに麻酔と注射器をポッケにいれるのをころーっと忘れてしもたんじゃ」</b></p><p><b>「えーっ」</b></p><p><b>「それじゃ生身ってことじゃないですか」</b></p><p><b>「そういうことになるかのー。しかしいまさらあとに引けんかったしの」</b></p><p><b>「わたしはてっきり痛くないとばかり思ってましたんで、手加減しませんでしたよ」</b></p><p><b>「そんなことできんよ。むしろ一気にやってもらわんとかえって痛いわい。ガハハ」</b></p><p><b>　なんという豪胆な男。マスターとヒトミは、しばらくあいた口がふさがらなかった。</b></p><p><b>　しかしその場で決断しなかったなら、問題は解決しなかっただろう。</b></p><p><b>　迫真の演技にみえたが本物だったのだ。</b></p><p><b>おかげでその後、男の妙な動きはぴたりと止まった。</b></p><p><b>よほど啓矢が恐ろしかったものとみえる。</b></p><p><b>じつはここまでのいきさつは、浮気事件にもっとも利害関係のあるここもも、くわしく知ることになった。</b></p><p><b>ピック騒動のあった数日後、おそくまで長びいたオペがあり、慰労の意味もあって啓矢は術場スタッフを数人、ここももふくめてそのスナック店にさそった。</b></p><p><b>啓矢がボックスで食事をとりながら職員たちと歓談しているとき、</b></p><p><b>「奥さん、ちょっと」</b></p><p><b>　マスターはここもに声をかけ、女の子に命じてここもの皿をカウンターに移動させた。</b></p><p><b>ここもは啓矢といっしょに二三度店にきたことがあり、彼女にはマスターも自然な好意をもっている。ストーカー騒動のいきさつを、あらいざらいバラしてしまった。</b></p><p><b>マスターの判断では、啓矢は困っている女の子のためにひと肌ぬいだわけだし、ここもが知ったとしてもなんら不都合な事実ではない。その逆だろう。</b></p><p><b>むかし特攻隊長などやっていた男だけに、啓矢の男気に感じ入り、ひとごとながら自慢したくてしかたがなかった。</b></p><p><b>「へえ～、そやったんですか」</b></p><p><b>　浮気事件のうわさがチラホラここもの耳にも入りかけていたときの情報だから、ここもも不愉快ではない、というよりあらためて亭主を見なおしたというところ。</b></p><p><b>と、ここまでは啓矢にやましい事実はないし、まわりにも真相が伝わってそうだったのかということになった。うわさはいったん下火になった。</b></p><p><b>ところがどうも予期していなかったオマケがついてしまった。</b></p><p><b>こんどはヒトミが啓矢にイカレてしまったのである。</b></p><p><b>妻子もちに横恋慕、ミイラとりがミイラとはこのことか。</b></p><p><b>べたべたと啓矢に色目をつかっているのはまわりが見ているし、関係をせまったまではいかにも事実らしい。</b></p><p><b>ヒトミ本人の言では、例の</b></p><p><b>「だれにも言わないでね」</b></p><p><b>女子中学生でもあるまいし、口どめにならない口どめをして、同僚のナースに語ったところによれば、啓矢とそとで何回かねんごろにしたという。</b></p><p><b>たしかに帰りがけ、二人で病院からタクシーに乗ったことなども目撃されている。</b></p><p><b>ヒトミが追っかけでもしたのだろう。けっこうしつこかったらしい。</b></p><p><b>うわさは再度、例によって尾ひれをつけて病院中にひろまった。</b></p><p><b>ここもはおろか、啓多の耳にさえ入っている。</b></p><p><b>啓多は看護師の姓はだいたい記憶しているが、ヒトミなんて名前までは知らない。</b></p><p><b>べつに興味もないが、病棟で仕事をしているとき、看護師たちのうわさ話を小耳にはさみ、ついでなにかのおり本人を同定した。</b></p><p><b>若いというだけの、これといった取り柄もなさそうな女で、どう考えても啓矢がまともに相手にしそうにない。</b></p><p><b>もっとも顕著なその証左は、女のいかにも軽そうなべたべた傾向である。</b></p><p><b>つきあえばまいにち会いたがり、メール連発の口だろう。そうだと顔に書いてある。</b></p><p><b>（こりゃガセだな）</b></p><p><b>　だれよりも早く見切りをつけていた。</b></p><p><b>問題はここもだが、こちらもデーンと泰山のごとく微動だにしなかった。</b></p><p><b>亭主はなにしろ忙しいのだ。誇張でも冗談でもなく、手術をとったら何も残らない男。</b></p><p><b>なーに多少なにかあったとしても、そんなものゲテモノ屋でためし食いしたようなもので、主食になるはずがないと居直っている。</b></p><p><b>ほかの女房だと一騒ぎおこるところだろうが、カエルの面にしょんべん。</b></p><p><b>ほんとうにそういう事実があったのかどうか、ついに最後までだれもわからなかった。</b></p><p><b>ヒトミの一方的な言い立てばかりで、啓矢がみずから言うわけないし、副院長にそんなことを聞ける者がいない。</b></p><p><b>結局相手にされなかったヒトミは、やがて病院のそとで新たな男をみつけた。</b></p><p><b>年中そんなことばかりやっている。</b></p><p><b>どうせ安物だろうが、こんどはストーカーだけはつかまないといいのだが。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>高等部へ進んだころ雛菊は合気道二段に昇段し、道場では師範代格となった。</b></p><p><b>教えられるほうから教えるほうになった。</b></p><p><b>師範代の席主の娘と、師範代格だったクラスメートがそろって大学を卒業して就職したため、彼女たちは日曜休日くらいしか道場にこられず、教授者が不足したためもある。</b></p><p><b>雛菊も学校帰りだから、昼下がりはすぐには道場に行けない。</b></p><p><b>それでも、まいにち夕方には顔を出した。</b></p><p><b>新規の入門者は、雛菊は教えるほうだと紹介されると、こんな若いのにとふしぎそうな顔をするが、練習がはじまると、やがてなるほどと納得する。</b></p><p><b>何年やっても頭打ちで、雛菊にさっさと追いぬかれた者も多い。</b></p><p><b>競争しているわけでもなし、そこは雛菊だから、これまで先輩だと思っていたのになどとひねくれる者はいなかった。むしろ照れ笑いしながら、</b></p><p><b>「ひなちゃん、教えて。」</b></p><p><b>とすりよってくるおばさん連中のほうが多かった。　</b></p><p><b>高等部一二年時代の雛菊はおおむね中学の延長で、これといって特筆すべきエピソードもなく、啓多にとっても平凡な日常のくり返しだった。じつはそれがもっとも啓多の望むところで、まいにちの診療に気持ちよく携わっていればそれで満足だった。</b></p><p><b>雛菊とはいつか別れて暮らさなければならないが、すぐにではないと思っていたし、その時期を決めなければならないような事情もなかった。</b></p><p><b>雛菊との暮らしは心地よく、啓多としてもできるならしばらくこの生活を現状維持で続けたいと願っていた時期である。</b></p><p><b>しかし今日の続きであしたがあるようでも、変化はやはり除々におきていた。</b></p><p><b>少女が大人の女に成長することは、基本的には喜ばしいことのはずなのだが――。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雷蔵はとどこおりなく医者への階段をあがっていった。</b></p><p><b>かつてのあの落ちこぼれが、いまや他の追従を許さない圧倒的な首席優等生である。</b></p><p><b>諸行無常、万物流転のなかでもっとも変化が大きいのはまさしく人。</b></p><p><b>早く一人前の医者になろうという気合が入っているうえ、他の学生のような机上の空論ではなく、実践の裏付けがあって教科書を読んでいるから、理解の度合いが段違いだ。</b></p><p><b>学部三年に進級しての秋、医者になるまであとわずか一年半を残すまでになった。</b></p><p><b>ひんやりとした風が吹いてきて、そろそろジャケットの下に薄手のセーターでも用意しようかというころである。母親の幸恵が雷蔵に声をかけた。</b></p><p><b>「おまえＫ工務店の社長さん知ってるよね」</b></p><p><b>「Ｋ工務店？ああ常連のＫのおっさんだろ」</b></p><p><b>　社長といっても、幸恵の店に来るくらいだから大した組織ではない。</b></p><p><b>近くで、部屋の内装業を主とする工務店を構えていた。</b></p><p><b>仕事が良心的だという評判があり、若い者も数人雇ってまあ繁盛しているらしい。</b></p><p><b>請け負う仕事の都合で日によるが、週に一度は仕事のあとで飲みに来る。</b></p><p><b>幸恵とは長いつきあいだが、女将と客というだけで変な意味ではない。</b></p><p><b>「Ｋのおっさんがどうしたのさ」</b></p><p><b>「社長の娘さんが、らいはる受験なんだけどさ、今一つなんだって。</b></p><p><b>おまえはデキがいいから勉強見てくれないかって言ってた」</b></p><p><b>「うぷ、だ～れがデキがいいんだあ？」</b></p><p><b>　まだ思い上がっていない謙虚な態度、ここまではよろしいのだが。</b></p><p><b>「わたしが言ったんじゃないよ。とにかくちょっと見てあげなさいよ」</b></p><p><b>「えっ、やだよ。そんな時間あったら、わしはＳ病院に行くわい」</b></p><p><b>　プライベートで“わし”というのは啓矢のまねである。</b></p><p><b>「そんなこと言わないで、ちょっとだけでいいんだから。</b></p><p><b>社長さんには店を開業するときの内装やら、いろいろ手直しなんかも安くこまめにやってもらっているし」</b></p><p><b>「教えるなんてウツワじゃないよ。てめーのことだけで手いっぱいなのにさ」</b></p><p><b>「おまえね、そうやって自分のことばかり考えてちゃだめじゃないの。</b></p><p><b>先生だってあんなに忙しいのにめんどう見てくださったのよ」</b></p><p><b>　もちろん啓矢のことである。雷蔵のいちばんの弱点。</b></p><p><b>啓矢をもちだされると断り切れなくなった。</b></p><p><b>「しょーがねーなァ、わかったよ。だけど、女の子なんて面倒だなー。</b></p><p><b>部屋の中なんかに入れて、へんな誤解されたくないよ」</b></p><p><b>　おやおや、雷蔵もずいぶん品行方正になったものだ。</b></p><p><b>　大きな声では言えないが、つっぱり時代の雷蔵は手当たり次第だった。</b></p><p><b>　それが医学部に入ったとたん、聖人君子のような清廉潔白さ。</b></p><p><b>病院では雷蔵の過去など啓矢以外だれも知らない。</b></p><p><b>看護師など、女たちにはモテまくりである。</b></p><p><b>そりゃそうだろう、スマートなルックスに加えて将来の有望株、女たちは目ざとい。</b></p><p><b>職員たちと飲み会の二次会に行って、たまたま帰り道が途中まで一緒だっただけなのに、だれそれとホテルに行ったなどとカンぐられる始末。</b></p><p><b>あることないことうわさされて<ruby>辟易<rp>(</rp><rt>へきえき</rt><rp>)</rp></ruby><b>していた。</b></b></p><p><b>ほかの職種はどうだか知らないが、この業界はやたらスキ者が多いような気がする。</b></p><p><b>医者もそうだが、看護師も負けてはいない。</b></p><p><b>毎日人間相手に生々しいことばかりしていると、好きでないほうがおかしいのかも。</b></p><p><b>聞いたところでは、夜勤の仮眠交代の時に、医者の当直室に忍びこんでくるナースもいるというからあきれてしまう。</b></p><p><b>まあその最中に携帯が鳴って、医者ともども仕事に復帰するならペアですぐに間にあうし、長めのトイレに入っていたのと大差ないかもしれない。　</b></p><p><b>しかし雷蔵のばあい、病院のおかげで医学部に通っているのに、変な問題を起こして啓矢に迷惑をかけるわけにはいかない。もちろん病院の外なら、そっち方面でなにをしようと勝手だが、このころの雷蔵はなぜか硬派になりたかった。</b></p><p><b>そのほうが男らしくてカッコよく思えたし、わきめもふらず一人前の医者になり、啓矢と病院に義理を果たすというのが至上命題だと自分に課していたせいもある。</b></p><p><b>アレはどうも習慣性があるらしく、しばらくしないでいるとあまり欲求がわかない。</b></p><p><b>「土曜の午後にでもお店を開けるまで、カウンターを机がわりにしたらどう？</b></p><p><b>私は中で仕込みだから疑われないよ。終わってから病院に行けばいいじゃないの」</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>週末の夕方ちかく、雷蔵が医学部から帰るとさっそく娘が店に来ていた。</b></p><p><b>幸恵とカウンターごしに何やらぺちゃくちゃしゃべっている。</b></p><p><b>知らなかったが、ふだんから幸恵とは交流があったらしい。</b></p><p><b>「雷蔵、ナナちゃんだよ。社長さんの娘さん」</b></p><p><b>　そういえばこの娘、数年前にたぶん見かけているはずである。</b></p><p><b>　たしか店のちょっとした改装のときに、社長にくっついて来たんじゃなかったっけ。</b></p><p><b>顔は覚えていないが、そのときは子どもだという印象しかなかった。</b></p><p><b>いつの間にか大きくなっていたらしい。</b></p><p><b>「あ、ああ、雷蔵です。こんにちは」</b></p><p><b>「ナナコです。こんいちわ」</b></p><p><b>　娘はほほを真っ赤にして、ぴょこりと頭を下げた。</b></p><p><b>（ホントに受験生かい）</b></p><p><b>両肩にお下げをたらし、中学生みたいなおさな顔である。</b></p><p><b>　カバンや携帯にキャラものの幼稚な下がりがたくさんついていた。</b></p><p><b>　じつはこれらはナナコのオリジナルデザインおよび製作のなのなだが、武骨な雷蔵にそんなものの区別がつくわけもない。</b></p><p><b>（アタマ軽そうだナ。どうせ今回かぎりさ）</b></p><p><b>　すでにはたちをいくつかすぎた雷蔵は、むかしの自分を棚に上げ、完全にオトナ側の思考法になっていた。まあこの際はそんなにわるいことでもない。</b></p><p><b>いやそうなってもらわければ日本国のために困る。</b></p><p><b>「ナナコさん、でしたね。どこ受けるの？」</b></p><p><b>　こえだめ短大とか、たんつぼ女子大など、人畜無害の受験先だろうと思った。</b></p><p><b>「入れてもらえばどこでもいいんですけど、医学部です」</b></p><p><b>　内心あっと思った。ひとは見かけによらないものである。</b></p><p><b>ナナコの父親が雷蔵に家庭教師を依頼したのは、それなりのわけがあったのだ。</b></p><p><b>ばかにした言い方をしなくてよかった。</b></p><p><b>　それにＫ工務店の意外な財力にもかるくおどろいた。</b></p><p><b>医学部攻略のために、そこそこ軍資金を用意したにちがいない。</b></p><p><b>　あらためて娘の顔を見なおすと、ただのミーちゃんでもないような気がしてきた。</b></p><p><b>なぜなら今日びの女子高生にしては、ほとんど化粧気がない。</b></p><p><b>いまの娘の関心がそっち方面ではなく、受験に向いているからだと雷蔵は解釈した。</b></p><p><b>幼く見えたのは、素ッピンも手伝ってことかもしれない。</b></p><p><b>「どのくらい進んでいるのかな。なにか成績わかるものある？」</b></p><p><b>　ナナコは受けたばかりだという予備校の模擬試験を持ってきていた。</b></p><p><b>合格圏内にはほど遠い。</b></p><p><b>まだ現役だから、三年生で教わる一部が抜けているせいもあるだろう。</b></p><p><b>自分のばあいを思い返してみたが、この時期には模擬試験はまだ受けていなかった。</b></p><p><b>なにしろ雷蔵のばあいすべてが変則だから、現役高校生との比較が容易でない。</b></p><p><b>いざ自分がその立場になってみると、他人の実力を測る難しさを実感した。</b></p><p><b>（やっぱ先生はさすがの慧眼だったんだなァ）</b></p><p><b>　そのときふと、かつて啓矢が自分に試したあのＡ国とＢ国の領土問題を思いだした。　</b></p><p><b>「関係ないけどこの問題どうかな」</b></p><p><b>　なにこれ、とも言わずナナコはまじめに考えた。素直な性格らしい。</b></p><p><b>間もなく、</b></p><p><b>「三島ともＡ国のものです」</b></p><p><b>「なぜ？」</b></p><p><b>　ナナコはかつての雷蔵とほとんど同じ答えをした。</b></p><p><b>（アタマはオレと同レベルだ）</b></p><p><b>それなら自分の経験からいって、知識をふやせばなんとかなるのではないか。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>その日の勉強が終わってから、ナナコは老人のアパートを訪ねた。</b></p><p><b>受験でいそがしいなかでも、ちょこちょこ時間をとって立ち寄り、部屋をかたずけたり、食事をつくってあげたりしている。</b></p><p><b>外目にはなんてことない、祖父と孫娘とも見える組み合わせだが、互いに命をつなぎあった仲、そんじょそこらの絆ではない。</b></p><p><b>老人にとって、ナナコがときどき来てくれることが、何よりの楽しみだった。</b></p><p><b>「おじいちゃん、今日はナナいいことがあったのよ」</b></p><p><b>「ほうほう、そりゃ良かったネ。なにがあったのかな」</b></p><p><b>「とってもステキな男の人に出あっちゃった」</b></p><p><b>　家族に話せないようなことでも、なぜか老人には気がるに打ちあけられる。</b></p><p><b>「ほうほう、そりゃ祝着じゃ。そういやナナちゃんもそろそろお年頃だなぁ。</b></p><p><b>　ちょっと前まで、子どもだと思ってたのにね」</b></p><p><b>　どうもナナコには幼いイメージがつきまとう。　</b></p><p><b>「やだわおじいちゃん、ナナもう十八よ」</b></p><p><b>「じゃお嫁にもいけるね。ナナちゃんのお嫁さんかわいいだろうなあ」</b></p><p><b>老人はあらためてナナコの顔を見て、すこしまぶしそうな表情をつくった。</b></p><p><b>「まあそれも気が早いわ。きょう会ったばかりの人なのよ」</b></p><p><b>「いやいや、こういうことは縁のものじゃから、進むときは話が早いんじゃ。</b></p><p><b>　わしだって、死んだ婆さんと<ruby>縁談<rp>(</rp><rt>はなし</rt><rp>)</rp></ruby><b>がまとまるまで二三回しか会っとらんわい」</b></b></p><p><b>　そんな半世紀もむかしの風習をもちだされても。</b></p><p><b>　もちろん一足飛びにそこまでは考えていなかったが、ちょっとだけ想像してみるのは楽しいことだった。</b></p><p><b>（お嫁さんかあ、いいだろうなあ）</b></p><p><b>　自分の白無垢姿が脳裏をよぎった。</b></p><p><b>しかしただいま受験生、男は今日であったばかりでまったく一時の夢想。</b></p><p><b>のようだが、なんとなく希望というか、予感のようなものがないでもなかった。</b></p><p><b>というのは、家庭教師が終わったあと、帰りがけに幸恵はナナコに、</b></p><p><b>「どう、勉強になったの？」</b></p><p><b>「ええ、とっても」</b></p><p><b>「また教えてくれそうかい」</b></p><p><b>「はい、そう言ってましたけど」</b></p><p><b>「ナナちゃんを気に入ったのかねえ」</b></p><p><b>「えっ」</b></p><p><b>「はじめはいやがってたのよ。女の子はへんに誤解されると困るからって」</b></p><p><b>「あら、先生は女の子はお嫌いなの？」</b></p><p><b>「そんなことはないと思うけどさ、つき合ってないことは確かよ」</b></p><p><b>（へー、まじめなんだ。カッコいいのになあ）</b></p><p><b>　そんなのあり？という感じだが、幸恵がそんなウソを言うわけがない。</b></p><p><b>　まだ誰もツバをつけていないんなら、ひょっとしてひょっとするかもと思った。</b></p><p><b>　ここしばらく受験に没頭していたため、そっち方面はすっかり忘れていたが、急にふつうの女の子に引き戻された感じである。</b></p><p><b>　しかし勉強はちゃんとしなくちゃと思った。</b></p><p><b>　手をぬいて落っこちたら嫌われてしまうかもしれない。</b></p><p><b>　こうなったら、何がなんでも合格しなくては。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雷蔵が家庭教師を引き受けて一ヶ月ほどたった。</b></p><p><b>ナナコは高校でも授業があるから、その分だけはとにかく進んでいる。</b></p><p><b>雷蔵に言われるまま、よくやっているほうである。</b></p><p><b>しかし全体の印象だが、どうもまだあまいような気がした。</b></p><p><b>このままの流れでは、時間切れになりそうで危ない。</b></p><p><b>アタマ自体はたしかに悪くない。</b></p><p><b>べたべたおなじ間違いをくりかえさないし、説明するとよく理解する。</b></p><p><b>のび悩んでいるのは、要するに勉強時間が足りないのではないだろうか。</b></p><p><b>ばか正直に学校の授業だけを復習し、あちこちまだ手をつけていないアナが多すぎる。</b></p><p><b>着実なタイプで、焦ってあれもこれもとパニックに陥らないのはいいのだが。</b></p><p><b>私立といえども、医学部の受験範囲は絶対量が多いから、ぜんぶをカバーするために</b></p><p><b>どうしてもそれなりの時間を確保しなくてはならない。</b></p><p><b>数学を含め、理系の一つひとつの科目は、化学ⅠだけとかⅡだけのように部分範囲で</b></p><p><b>はなく高校履修のすべてである。</b></p><p><b>教科書は、数学はⅠからⅢまで三冊、理科は二科目で、たとえば化学Ⅰ、Ⅱと物理Ⅰ、</b></p><p><b>Ⅱなどのように四冊あり、ぜんぶでしっかり七冊あることになる。</b></p><p><b>どれか一つでもいざ攻略するとなったら容易でない。</b></p><p><b>さらに英語もまた手ごわい、というより当然いちばんうるさい。</b></p><p><b>私立文系などでは、一流どころでも、ふつう英語、国語、日本史くらいで受けられる。日本史のかわりに世界史でもよい。地理などほかの社会科目でもよいところもある。</b></p><p><b>　ただし国語は現代文と古文があるのがふつうだ。</b></p><p><b>現代文はあまり時間がかからず、受験勉強というより、ちょっとしたテクニックを理</b></p><p><b>解したら、あとはふだんのセンスでやるしかない。</b></p><p><b>　いい年をした総理大臣が漢字を読めないなんてことがありうる。頭もわるいが。</b></p><p><b>　私立文系でほんとうに準備が必要なのは英語、日本史、古文の三科目。</b></p><p><b>　古文攻略の時間は日本史や世界史の半分くらいか。たぶん化学Ⅰよりかからない？</b></p><p><b>そうやって具体的に分析すると、医学部の負担の大きさがわかる。</b></p><p><b>「まいにち、どれくらい勉強してるの」</b></p><p><b>「そうですね四時間、くらいでしょうか」</b></p><p><b>学校から帰るのは夕方だから、夕食をとったり風呂に入ったりすれば、女の子なら寝</b></p><p><b>るまでまあそんなものだろう。</b></p><p><b>それでも学校と合わせて一日の大半を勉強に費やしている。</b></p><p><b>突いても叩いても死なない雷蔵だから、不眠不休で乱暴なやりかたもできるが、ナナコにそれを押しつけるのは酷である。むりに睡眠時間を削ってもせいぜい二日三日で、かえって体をこわしたり、ロクなことはなさそうだ。</b></p><p><b>「もう少し時間を増やせないだろうか。</b></p><p><b>睡眠時間を減らすんじゃなくて、一日のうち何かムダな時間はないか探してごらん」</b></p><p><b>　これが言った本人が期待した以上の、絶妙なアドバイスだった。</b></p><p><b>　その後の一ヶ月あまりで、成績がじりじりと伸びだしたのである。</b></p><p><b>それは雷蔵が感覚的につかんでもいたし、実際の模擬試験にも反映されていた。</b></p><p><b>（勉強時間をふやしたんだな）</b></p><p><b>　しかしどうやって増やしたのか、この時点では雷蔵はしらなかった。</b></p><p><b>ともかく結果が良ければそれでよい。</b></p><p><b>ナナコの冬休み中は雷蔵も医学部が休みである。</b></p><p><b>乗りかかった船で、受験生を落とすわけにはいかない。</b></p><p><b>あさ早く、病院に研修に行く前に、まいにちのように特訓した。</b></p><p><b>さっそく効果があらわれ、年明けの大手予備校の模擬テストで、最低ランクの私立医大なら、なんとかまわしに手が掛ったというところまで漕ぎつけた。</b></p><p><b>女の子だからまわしは下品だが。</b></p><p><b>「だいじょうぶだ。必ず受かる」</b></p><p><b>　だれかの受け売りである。</b></p><p><b>この一言でどんなに験生が安心するか、雷蔵は身をもって経験している。</b></p><p><b>じっさい、成績の伸び率から見て、雷蔵の目からナナコが落ちるとは思えなかった。当事者だった者の微妙な感覚である。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>　ナナコはめでたく医学部に合格した。</b></p><p><b>三校受けて二校に受かったが、そのうち上位のＲ医大を選んだ。</b></p><p><b>多少都心をはずれるものの、自宅からさほど無理なく通学できる。</b></p><p><b>落ちたのは雷蔵のＺ医大で、かなり上位だからしかたがない。</b></p><p><b>それでも女の子が現役で医大合格とはりっぱなものである。</b></p><p><b>「先生のおかげです。ありがとうございました」</b></p><p><b>　あっちでもこっちでも先生だ。</b></p><p><b>いささか面はゆいが、そう遠くない将来本物の先生だからまあいいか。</b></p><p><b>「今だから聞くけど、急に成績が伸びた秘訣はなんだい？」</b></p><p><b>「先生がむだな時間をはぶけとおっしゃったので工夫しました」</b></p><p><b>「で、その工夫って？」</b></p><p><b>「お風呂をシャワーだけにしたり、テレビを後ろ向きにしたりとか、いろいろありましたけど、いちばん効果的だったのは、携帯のスイッチを切ったことです」</b></p><p><b>それまでナナコは、女子高生のご多分にもれず、携帯の使用頻度が高かった。</b></p><p><b>あちこちから入るメールは義理がたくいちいち返信していた。</b></p><p><b>また、直接電話がかかってくると、ぺちゃくちゃあっという間に三十分くらい消費してしまうことも多かった。そんなことをしながらいちおう机の前にいたため、なんだかやっていたような気になっていたのだからお目出たい。</b></p><p><b>雷蔵にいわれたあと、時間をとられる元凶はこれだと気づいたので、携帯のスイッチを切って、机の引き出しのなかにしまい込んでしまったのである。</b></p><p><b>友達からは、メールの返信がないとなじられたが、うまい言いわけがあった。</b></p><p><b>「ゴメン。勉強しないので、入試までお父さんに取り上げられちゃった」</b></p><p><b>　それにしても女子高生が携帯を封印するなど、ずいぶん思い切ったことをしたものだ。</b></p><p><b>それやこれやで睡眠時間を減らさずに実質倍ちかく時間を確保したという。</b></p><p><b>受験競争はつまり競争だから、抜けだすには工夫が必要だ。</b></p><p><b>「どうしても受かりたかったので」</b></p><p><b>　ナナコの目はキラキラ輝いていた。</b></p><p>（あ···）</p><p><b>　うすうす感じてはいたが、今はっきり認識したような気がする。</b></p>
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<link>https://ameblo.jp/igakubumonogatari/entry-12287700207.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Jun 2017 12:35:03 +0900</pubDate>
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<title>第２９章</title>
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<![CDATA[ <p><b>雛菊十三歳、中学二年の夏である。</b></p><p><b>もうすぐやってくる夏休みを前に、この期間をどうすごそうか考えていた。</b></p><p><b>啓多と同居しはじめたころからするとずいぶん成長している。</b></p><p><b>生活ぜんたいの処理能力が底上げされて余裕がでてきた。</b></p><p><b>休みを利用して、何かふだんとは違うまとまったことができないか。</b></p><p><b>どうせならその場かぎりではなく、あとあとにも有意義なことをしたい。</b></p><p><b>（なにかぱっとした案はないかしら）</b></p><p><b>考えながらある日の夕方、いつものように啓多の部屋の掃除をしていた。</b></p><p><b>なぜかその日にかぎって、毎日見慣れた本棚に並らんでいる医学書に目が止った。</b></p><p><b>本棚は小さく、本もそんなに多くはないので、医学の進歩で使えなくなったものは次々に捨ててしまったのだろう。</b></p><p><b>啓多は思い出やなつかしさなどとはあまり縁のない男だ。</b></p><p><b>それでも、本は啓多が学生時代にでも使ったものらしく、どれも新しいものではない。</b></p><p><b>掃除の手を止め、本棚のなかのぶあつい一冊をひきぬいてみた。</b></p><p><b>ボロくて相当な年代物という感じがしたので、何が書いてあるのか気になった。　</b></p><p><b>まずいつの時代なのかと思ってうしろのページを見た。</b></p><p><b>傷んだハードカバーの裏側に、むかしの万年筆書きで“啓太郎”というサインがある。</b></p><p><b>啓多の父親の名前は“啓介”だということを知っている。</b></p><p><b>祖父の名前は知らなかったが、医者であることは知っていた。</b></p><p><b>たしか郷里の田舎でまだ診療していると聞いている。</b></p><p><b>（きっと先生のおじいさんの本だったんだわ）</b></p><p><b>発行年代も、祖父の時代にふさわしい時代になっている。</b></p><p><b>医者の家系に代々伝わってきた由緒ある本というわけらしい。</b></p><p><b>開いてみると、体のなかの構造を描いたおどろおどろしい絵が目に入った。</b></p><p><b>（わあ、すごい）</b></p><p><b>学校の理科の教科書などとは迫力がちがう。</b></p><p><b>パラパラめくると、リアルな男性器や股をひらいた女性器の絵などもでてきて驚いた。</b></p><p><b>しかし雛菊はみかけより神経が太く、このくらいで医学がいやになることはない。</b></p><p><b>血を見るのもぞんがい平気。</b></p><p><b>本は英文で書かれた解剖学書だった。</b></p><p><b>人体各部の名称などは、医学が進歩しても変わらないので、この本はまだ現役なのだ。</b></p><p><b>雛菊はふつうの英文なら、教養のある一般英米人と同等に読める。</b></p><p><b>しかし医学書は専門用語の羅列で、文の構造はわかっても意味がつながらない。</b></p><p><b>その本には明らかに<ruby>肩胛骨<rp>(</rp><rt>けんこうこつ</rt><rp>)</rp></ruby><b>とおぼしき骨はscapula、鎖骨らしき骨はclavicleとある。雛菊は肩胛骨はshoulder blade、鎖骨はcollarboneと覚えていた。</b></b></p><p><b>専門用語はべつな単語がつかわれているらしい。</b></p><p><b>ついでにscapla</b><b>の下にはイタリック体で<i>scapla</i></b><b><i>、</i></b><b>鎖骨の下には<i>clavicle</i></b><b>とある。</b></p><p><b>おなじスペルだがわざわざ書くには意味があるのだろう。</b></p><p><b>（きっとラテン語だわ）</b></p><p><b>それは万国共通の学術語であると学校で教わった。</b></p><p><b>ほかの単語にも目をうつすと、英語とラテン語の語幹はほぼ一致していたが、語尾は微妙にちがうところもあった。</b></p><p><b>（英語とラテン語では複数形がちがうのね）</b></p><p><b>そうやってあちこちながめていくと、専門書もおもしろいものだ。</b></p><p><b>そのときひらめいた。</b></p><p><b>（休み中に医学書を読んでみようかしら）</b></p><p><b>医者になるつもりだから、将来的にむだなことではない。</b></p><p><b>ふつう中二の女の子が読むものといえば少女マンガだ。目がやたら大きい。</b></p><p><b>教養のある大人でも、何かの必要がなければ、医家むけの専門書などに手を出さない。</b></p><p><b>日本中にわれ一人というところが気に入り、いい考えがわいたと思った。</b></p><p><b>しかし、医学書を読むといっても、まったく基礎知識のない中学生である。</b></p><p><b>高い山を目の前にして、ピッケル一つもたずに漠然と見上げているようなもので、</b></p><p><b>なにをどこから手をつければいいのか検討もつかない。</b></p><p><b>余人なら思いついてもすぐにボツになるところだが、雛菊はあきらめなかった。</b></p><p><b>掃除をてばやくすませ、じぶんの部屋にもどって、とにかくまず医学というのはどういう学問なのかを電子辞書で調べてみた。</b></p><p><b>「生体の構造、機能および疾病を研究し、疾病の診断、治療、予防の方法を開発する学問。臨床医学、基礎医学、社会医学、応用医学などに分けられる」</b></p><p><b>さらに臨床医学、基礎医学などをそれぞれ引いてみた。</b></p><p><b>それによると要するに医学というのは、いままで雛菊がもっていたぼんやりした概念とそう違いがないことを再認識した。</b></p><p><b>つまりおおざっぱに言えば、臨床医が実際に病気を治すための知識を集める学問と、研究者が試験管の底をのぞいているような学問とで構成されているということである。　　　</b></p><p><b>そのほか社会医学には、国民の健康を考える公衆衛生などがあり、政府が国民の厚生にかんする政策を決めるときなどに役立つらしい。</b></p><p><b>応用医学には、死体を解剖して死因を追求する法医学などがある。</b></p><p><b>テレビの刑事もので、事件がおきたときに法医学者がでてきて、首のロープの痕などから自殺だ他殺だなどとやっている。</b></p><p><b>社会医学や応用医学などはマニアックすぎて、こういうのは即ボツである。</b></p><p><b>基礎医学は生物、化学、物理など自然科学の知識を駆使して臨床の基礎を考究していく学問だが、常識的に考えて、中学生の乏しい科学の知識では歯がたつわけがない。</b></p><p><b>ただし基礎医学のなかで唯一、解剖学だけはなんとかなりそうである。</b></p><p><b>とりあえずは人体各部の名称を覚えていくだけならそう難しくはない。</b></p><p><b>（解剖からはじめようかしら）</b></p><p><b>ちょっとだけ考えをめぐらした。</b></p><p><b>しかしこれは英語の勉強でいえば、単語の暗記からはじめるようなもので、得策ではないとすぐに気がついた。個々の単語は文脈のなかで、立体的な背景をもって把握しなければ、ところてんのように記憶の網をすりぬけてしまう。</b></p><p><b>というわけで、医学書を読むなら臨床医学からのぞいてみるしかないと思った。</b></p><p><b>ふたたび啓多の部屋に入ってみた。啓多の机には臨床雑誌も二三冊おいてあったので、一応ぱらぱらめくってみたがもちろんちんぷんかんぷんである。</b></p><p><b>そういう雑誌は医療の最先端だから、その科の専門医にしか御用がない。</b></p><p><b>もっと基礎的な、とっつきのよい本はないか。</b></p><p><b>本棚の本はぜんぶ見てもたかがしれた数である。一冊一冊あたってみた。</b></p><p><b>なかに扱いのよいソフトカバーで“循環器病学”という本があった。</b></p><p><b>啓多の学生時代の教科書らしく、うしろのページに名前が書いてある。</b></p><p><b>教室にわすれたときなどのための予防であろう。</b></p><p><b>“循環器”という単語は知っていたが、やや漠然とした概念だった。</b></p><p><b>本には心臓や血管の絵がたくさんでてくる。</b></p><p><b>字面とあわせて心臓とその付属器官のことだと再認識した。</b></p><p><b>なぜこの本が捨てられなかったのだろう。</b></p><p><b>あちこち書き込みやアンダーラインが引いてあり、勉強したあとが到るところにある。</b></p><p><b>つい先日、テレビでたまたま“心臓の構造と働き”という教育番組を見た。</b></p><p><b>そのときの解剖実験では、カエルの心臓をとりだすと単独で動いていたので驚いた。</b></p><p><b>カリウムを滴下すると動きが止まり、生理食塩水で洗うとふたたび動きだす。</b></p><p><b>心臓という臓器の巧妙なつくりに、神秘的な感触さえもった。</b></p><p><b>しかし短い放送時間のなか、なぜそういう事象が起きるのか、その根本的な科学的背景までは解説していない。知りたかったが、調べるほどのモチベーションもなかった。</b></p><p><b>（この本にはそのことも書かれているのかしら）</b></p><p><b>そう思うと大いに興味がわいた。さらには、用のないものはさっさと捨ててしまう啓多が、わざわざとっておいた本だからという情緒的な理由もくわわった。</b></p><p><b>この本にはなにか御利益がありそうな気がする。</b></p><p><b>専門書は文学的な表現は使われず、構文そのものはやさしい。</b></p><p><b>しかし術語のオンパレードだから辞書が必要である。</b></p><p><b>そこでネットで医学辞典の電子辞書版を注文した。</b></p><p><b>また基礎知識として解剖が必要と感じたので、英文の解剖学書から数ページ、心臓や付属器官の図をパソコンにとりこんだ。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>必要な準備をととのえ、やってきた待望の夏休み、いつものように朝早くおきて部屋のことや、学校の勉強をすませたあとで、“循環器病学”を本格的に読みはじめた。</b></p><p><b>雛菊の読むというのは、なんとなく字面を追っていくことをいうのではない。</b></p><p><b>可能な限り内容を理解して、かつそれを頭のなかに入れてしまうつもりである。</b></p><p><b>本の構成は前三分の一が心臓の生理学を中心にした総論、うしろ三分の二が個々の心臓病について記載した各論である。ほんとうは総論から理解すべきなのだろうが、いかにもてごわそうなので、各論から読みはじめた。</b></p><p><b>たとえば、“<ruby>心房中隔<rp>(</rp><rt>しんぼうちゅうかく</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>欠損<rp>(</rp><rt>けっそん</rt><rp>)</rp></ruby><b>”という先天性の病気がある。</b></b></b></p><p><b>図を見ると、中隔すなわち心房と心房の間のしきりに穴があいている。</b></p><p><b>“臨床所見”という項目には、</b></p><p><b>「女子に多くみられる。小児期から気道感染をくり返したり、呼吸困難、<ruby>心悸<rp>(</rp><rt>しんき</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>亢進<rp>(</rp><rt>こうしん</rt><rp>)</rp></ruby><b>、<ruby>易<rp>(</rp><rt>い</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>疲労性<rp>(</rp><rt>ひろうせい</rt><rp>)</rp></ruby><b>、<ruby>心<rp>(</rp><rt>しん</rt><rp>)</rp></ruby><b><ruby>不全<rp>(</rp><rt>ふぜん</rt><rp>)</rp></ruby><b>がしばしば認められる。</b></b></b></b></b></b></b></p><p><b>非手術例の平均寿命は四十歳前後といわれる。左前胸部の膨隆がしばしばみられる。」</b></p><p><b>これなら“心悸亢進”だけ調べれば、あとはなんということもない記述である。</b></p><p><b>“易疲労性”は知らない術語だが、読んで字のごとく疲れやすいという意味だろう。</b></p><p><b>“心不全”はよく聞くが、あらためて“<ruby>心<rp>(</rp><rt>しん</rt><rp>)</rp></ruby><b>、<ruby>全<rp>(</rp><rt>まった</rt><rp>)</rp></ruby><b>きせず”、つまり心臓が正常に働いていないという意味だと字面をみればわかる。</b></b></b></p><p><b>“不”はその下にくる語を否定する語だということを知っている。</b></p><p><b>こういうところは表意文字を国字としている国民のありがたさである。</b></p><p><b>学校で日本語は表意文字だけでなく、欧文のような表音文字ももっており、東西のことばのいいとこ取りをしたようなすぐれた言語なのだとおそわった。</b></p><p><b>ここで出てきたような術語は頻出だったので、すぐに頭にはいり、つぎからはすらすら読むことができた。辞書をひいた術語はひきっぱなしにしないで、パソコンに打ちこみ、次の日の勉強の前にざっと復習するようにした。</b></p><p><b>記憶のあやしいものは次回の復習のために残したが、覚えたものはむやみに数をふやさないようにどんどん消去していった。</b></p><p><b>忘れてしまったら、もういちど引き直せばいいだけである。</b></p><p><b>英単語の勉強で経験的にわかったことだが、単語帳をつくってもあまり役立たない。</b></p><p><b>一度やってみたことがあるが、すぐにだめな方法だと気づき、早々と捨ててしまった。</b></p><p><b>ただし、その日に出あった知らない単語をひろいあげておき、つぎの日あたらしいところを読むまえに復習することは有効だと思っている。</b></p><p><b>一日たつと、どういうわけか前の日わからなかったところが理解できたり、頭のなかで知識が整理されやすい。</b></p><p><b>一語一語綿密に調べまくると前に進まないので、繰りかえしのときにまた密度濃く検討することにして、字面からだいたいこんなものだろうという理解ができた単語は、意味がつながったら次へ読み進んでいった。</b></p><p><b>分からないことだらけだが、ぜんぜんだめということもない。</b></p><p><b>すこしずつ、おぼろげながら心臓病というものの輪郭がみえてきた。</b></p><p><b>まいにち朝の早い時間は部屋のことや学校の勉強にあて、朝食をとってからの時間は一日じゅう本の読解に没頭した。</b></p><p><b>ほかの子のゲーム遊びなどとおなじ感覚だから、つらいとか飽きたなんてことはない。</b></p><p><b>道場の稽古にはしっかり時間をとった。前かがみの背すじがのびてちょうどよい。</b></p><p><b>啓多が帰ってこない日は、興がのって明け方まで読み続けたことも何度となくあった。</b></p><p><b>一夏かかって五百ページちかくのその本をついに読破した。</b></p><p><b>押したり引いたり、ならして二三度読んだだろうが、もちろん基礎知識がたりなくてどうしようもないところも多々あった。</b></p><p><b>たとえば総論の項目で、</b><b><ruby>∬<rp>(</rp><rt>インテグラル</rt><rp>)</rp></ruby><b>だとか<ruby>Σ<rp>(</rp><rt>シグマ</rt><rp>)</rp></ruby><b>などの</b></b></b><b>記号をつかった数式などがでてきたところなどは、そっくりとばすしかなかった。</b></p><p><b>心臓の機能を数理的に解説した記述で、理解できればそれにこしたことはないが、おそらく現場の臨床医でも、そんな数式を考えながら診療にあたることはないだろう。</b></p><p><b>大勢に影響はなさそうだから、いずれ知識がふえたときに読み返してもよい。</b></p><p><b>記号はこけおどかしで、実際はたいしたことはないと感覚的にわかっている。</b></p><p><b>（あ、そうか。先生はこの部分を忘れたときのために、この本をとっておいたんだわ）</b></p><p><b>ただの推測でしかないがきっとそうにちがいないと、自分の考えに満足した。</b></p><p><b>いまや日本中でいちばん心臓病にくわしい素人だという自覚がある。</b></p><p><b>医学生でもあるまいし、まいにち朝から晩まで一ヶ月以上にもわたって、無味乾燥な医学書を読んだ粋狂な人間がいるわけがない。</b></p><p><b>本は医学部の学生用の教科書として書かれている。</b></p><p><b>同程度の教科書を全教科にわたって読み、そのなかの必要な何割かを理解記憶して、国家試験で六割以上の得点をすれば医者になれるいうことである。</b></p><p><b>まだたくさん時間があるから、興味のわいたところから虫食い状に読んでいけばよい。</b></p><p><b>こうしてその夏、医学書は独学で読めるという大発見をした。</b></p><p><b>これはおもしろくてやめられない。</b></p><p><b>学校がはじまっても、医学書を読む時間はしっかり確保されることになった。</b></p><p><b>学校の勉強との時間が逆転することもおおかったから、どちらが合間にかわからなくなることもあった。中学生の女の子が、</b></p><p><b>「趣味は医学書読みです」</b></p><p><b>と言ったらみなびっくりするにちがいない。そんなこと言うわけないが。</b></p><p><b>専門書が読めるというひそかな自負があるいっぽう、じぶんが女の子としてふつうじゃないという自覚もある。</b></p><p><b>いちばん知られたくない人間はまさしく啓多である。</b></p><p><b>どうしてと聞かれても困るけれども、理由もなくはずかしかった。</b></p><p><b>啓多が雛菊の部屋に入ることはまずありえないので、秘密の保持は難しくはない。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雛菊が中等部の三年生になったころ、啓多は啓介にかわり病院の院長になった。</b></p><p><b>三十二歳である。</b></p><p><b>世の中にこの年でできない仕事はふつうはない。</b></p><p><b>啓介は臨床の第一線からはしりぞいて、病院経営のほうに重点を移すことになった。</b></p><p><b>医者としてまだやれるので、週二日ほどは診療する。</b></p><p><b>院長にかわる啓介の肩書きは理事長である。</b></p><p><b>病院は啓介の創建当時からすると、医療の進歩にともない新しい機器導入や、診療科</b></p><p><b>もふえて年々拡大傾向にある。</b></p><p><b>さらに病棟や関連施設も増設されて、年商数十倍の規模となっている。</b></p><p><b>拡大企業は、とかく贅肉づいて放漫経営に陥りやすく、手綱の引き締めが必要である。</b></p><p><b>啓介としては、診療のほうはふたりの息子にまかせて問題がなかった。</b></p><p><b>身内のここもも彼らを助けてよく働いてくれる。</b></p><p><b>トップの補佐に、三人もしっかりした後継者がいればおかしくなる企業はない。</b></p><p><b>啓多の院長就任についてのいきさつは以下である。</b></p><p><b>　ある日突然呼びだされて院長職の話しを切りだされた。</b></p><p><b>しかしまったく予想もしていなかったというわけではない。</b></p><p><b>いずれ遠くない将来そういう日がくることは、うすうす織り込み済みだった。</b></p><p><b>「啓矢はなんと言ってましたか？」</b></p><p><b>　なんとなく、先に話をもちかけられたのは啓矢のほうだったような気がした。</b></p><p><b>　啓介ならそうするだろうという先読みであって、啓矢のほうが自分より重視されているという意味ではない。そうでもかまわないが。</b></p><p><b>啓矢に対する競争心は自分の中だけのもので、外からの評価は気にしてない。</b></p><p><b>「院長か副院長をやってほしいと言ったら、手術に専念したいからどちらもいやだと。あはは、いやそれは許されない、どちらか選べとせまったら、じゃ軽いほうの副院長</b></p><p><b>にすると、あはは」</b></p><p><b>　啓矢らしいと啓多も思わず笑ってしまった。肩書などまったくどーでもいい男だ。</b></p><p><b>啓介はおそらくその展開を予測していたのだろう。二人の息子の性格は熟知している。</b></p><p><b>「というわけで、キミには院長をやっていただきます。よろしいですね」</b></p><p><b>　口調はおだやかだが、事実上うむを言わせぬ命令である。啓多としては従うしかない。</b></p><p><b>　しかし将来的に総合医療センター、さらには医科大学の夢さえ描いている身である。</b></p><p><b>市井病院の院長職くらいでビビッているわけにはいかない。</b></p><p><b>さいわい書いた論文の中からこれはと思うようなのをピックアップして、大学に提出したところ反応があって、学位が取れそうな雰囲気になってきた。</b></p><p><b>病院長なら博士を持っていたほうが何かと都合がよい。ただのハッタリだが。</b></p><p><b>ついでにゴーストライターとして、啓矢の分も用意してある。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>雛菊はからだの曲線がずいぶん女らしくなった。</b></p><p><b>十四歳、一般にはいわゆるむずかしい年頃である。</b></p><p><b>くだらない男とつきあって妊娠したり、飲酒喫煙、万引きなど、ぐれはじめるとすればこのころだ。そこまでいかなくても、ニキビ面をパンダのように塗り上げ、親や教師に生意気な口をきくような娘はそこらじゅうにいる。</b></p><p><b>男たちが性的な欲求を下心にあまやかすものだから、ますますツケあがる。</b></p><p><b>啓多はステレオタイプとは知りつつ、軽薄、無知、不作法といったネガティブなイメージが先に立ち、どうも若い娘にたいしてあまりいい印象をもっていない。</b></p><p><b>基本的に女には優しいが、それはつき合うときの姿勢で、それとこれとはまた別問題。</b></p><p><b>ある日の夕方、医局の医者たちと小料理屋で一杯飲んで、店の外で彼らと別れたとき、路地裏からするりと出てきた若い女に呼びとめられた。</b></p><p><b>「おにいさまー、あたし、おこづかい欲しいんだけど～」</b></p><p><b>つんつるてんのミニスカにケバい化粧、しかし見れば雛菊とおなじ年頃である。</b></p><p><b>なんとなく素人くさくて、ほんものの娼婦というほどスレた感じではない。</b></p><p><b>年令的にいっても、ついこのあいだこんなことを始めたばかりだろう。</b></p><p><b>生活のためというより、遊ぶための小遣い稼ぎという印象である。</b></p><p><b>こんな子どもを買う馬鹿がいるのだろうか。</b></p><p><b>いるからアジをしめてこんなことをしているのだろうけれども。　</b></p><p><b>だまって通りすぎようとすると、立ちふさがるようにして、</b></p><p><b>「おにいさまタイプだから、おこづかいくれたらう～んとサービスしちゃう」</b></p><p><b>ひとさし指を口のなかにぬるりと入れて出した。これが男をひっかけるこつなのか。</b></p><p><b><ruby>金輪際<rp>(</rp><rt>こんりんざい</rt><rp>)</rp></ruby><b>こんな輩を相手にしたくなかった。</b></b></p><p><b>左に行くと見せかけて、ふわりとからだを右にふり、少女をやりすごした。</b></p><p><b>いちおう病院の筋トレ室で体は動かしているが、とっさに反応できたところをみると、少年時代につちかった体術は、まだ捨てたものではないようだ。</b></p><p><b>立ち去る背後でチッと舌打ちする音がした。</b></p><p><b>小娘のくせに、ひねているところだけはいっぱしである。</b></p><p><b>いったいどういう教育をうけているのか、社会の質を落とす不良因子だ。</b></p><p><b>しかしまだじゅうぶん若いから、今のうちなら更正できないこともないかもしれない。このままだと本物のクズになるのは時間の問題である。</b></p><p><b>こういう娘を更正するシステムは、現在の日本にはないのだろうか。</b></p><p><b>あったとしても、ひん曲がった性ねを叩き直すのは容易ではなさそうだが。</b></p><p><b>どっちにしても教育者でもあるまいし、啓多の職種の守備範囲ではない。</b></p><p><b>これほどひどいのは例外だろうが、雛菊のようにデキの良い娘もまた例外である。</b></p><p><b>雛菊は父親の顔を知らずに育ち、十歳で母親と死に別れた。</b></p><p><b>その時点で血のつながった家族との家庭生活は終了である。</b></p><p><b>その後は父親代わりの後見人とくらしてきたが、めんどうを見られたというより、見てきたといったほうが正確である。</b></p><p><b>ふつうの子どもは高卒の十八くらいまでは、両親のもとで暮らすのが一般的だろう。</b></p><p><b>雛菊のばあい、人並みの家庭的な環境という意味では十分なものだったとは言い難い。</b></p><p><b>屈折し、妙な人生観にとり<ruby>憑<rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby><b>かれてもおかしくないところだ。</b></b></p><p><b>けれども、なぜか雛菊はまっすぐに成長した。</b></p><p><b>啓多は雛菊が不機嫌な顔をしたり、何かのことで不平不満を口にしたりということを、記憶の中に思い起こすことができない。</b></p><p><b>小学生のとき、インフルエンザで寝込んでしまったときの我慢づよさには恐れいった。</b></p><p><b>まるで自分をあまやかすということを知らないかのようである。</b></p><p><b>雛菊をみていると、つくづく人間の生まれもった質というものを感じてしまう。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>啓多の私生活は、病院の者はだれも知らなかった。</b></p><p><b>身内の啓矢やここもでさえ知らない。</b></p><p><b>みな啓多は、どうせカビのはえそうな男の一人暮らしと思っていた。</b></p><p><b>そんな気味のわるそうな部屋に行かなければならない用事などない。</b></p><p><b>そもそも啓多に私生活があるのか想像すらしにくい。</b></p><p><b>頻繁に病院に泊まるし、帰宅するにしても深夜、翌朝には早々と出てくる。</b></p><p><b>日曜祝祭日も盆暮れも啓多には関係がない。</b></p><p><b>しかし、病院の同僚たちと外に出た帰り、二人のナースを部屋につれてきたことがきっかけで、啓多の私生活の一端が職員たちに知られてしまうことになった。</b></p><p><b>べつに悪事を働いているわけでなし、だからどうというわけでもない。</b></p><p><b>うわさの種になって多少うっとうしかっただけだ。</b></p><p><b>その日は新入の医局員や看護師の歓迎会をかねた、医局と看護師合同の飲み会だった。</b></p><p><b>医局秘書が貸し切りで予約した都内の割烹は、たまたま啓多の部屋に近かった。</b></p><p><b>タクシーのワンメーターでもなく歩ける距離である。会がはねたあと、</b></p><p><b>「院長先生、もうお帰りですか？」</b></p><p><b>「わたしたちと、二次会行きません？」</b></p><p><b>などと言いながらナースが二人、啓多の両脇から逮捕でもするように腕をとった。</b></p><p><b>「いやいや、わたしはもうこれで失敬するよ」</b></p><p><b>「院長先生、お住まいどちら？」</b></p><p><b>「もよりの駅は？」</b></p><p><b>「いやー、偶然というか、じつは私の部屋はこの近くなので、歩いて帰るところなんだ」</b></p><p><b>つい正直に答えてしまったのがマチガイのもとだった。</b></p><p><b>「えっ、そーなんだー」</b></p><p><b>「わあ、院長先生のおへや見た～い」</b></p><p><b>「みたい、みたい。ちらかっていたら片づけてあげる」</b></p><p><b>ふだんなら追っぱらうところだが、その日はこれもたまたま雛菊が、祖父母のところに泊まりがけで訪問すると言っていたのを思いだした。</b></p><p><b>雛菊が部屋をあけることは珍しいことである。</b></p><p><b>以前から、祖父母に成長した姿を見せるように言われていたことと、雛菊自身も、</b></p><p><b>「お母さんのお墓参りがしたいんです」</b></p><p><b>ということであった。</b></p><p><b>雛菊が部屋にいないなら二人を連れていってもいいかな、とつい考えてしまった。</b></p><p><b>じつは二次会にいくのはめんどうだが、部屋でもう少し飲みたすつもりだった。</b></p><p><b>立場上、一次会で酔ってしまうほど飲みちらかすわけにもいかず、挨拶をしながらコップに二三杯のビールをチビチビ飲んだだけである。</b></p><p><b>数日前に患者からもらった豪華な箱のバーボンを思いだしていた。</b></p><p><b>（あれ、うまそうだナ）</b></p><p><b>一人酒でもいいがこの際の行掛りで、その酒を女たちにも振るまってやろうと思った。</b></p><p><b>自分だけいい思いをしようというほどせこい性格ではない。</b></p><p><b>考えてみればまったくのアホだった。たとえ雛菊がいなくても、部屋のなかは女と同居していることはバレバレ、それどころか、なんと部屋に当の本人がいたのである。</b></p><p><b>あとで聞けばまさに当日、祖父が生ものの食あたりをおこして急きょ入院し、祖母がつきそっていたため、訪問どころではなかったという。</b></p><p><b>妙なタイミングが重なったものだ。だからバレたのだが。</b></p><p><b>「おかえりなさいませ」</b></p><p><b>雛菊がしずしずと出迎えた。啓多、しまったと思ったがもうおそい。</b></p><p><b>雛菊は後ろの客に気づいて、内心は少しおどろいたようだが、狼狽した様子をみせず、</b></p><p><b>「いらっしゃいませ」</b></p><p><b>膝をおり、三つ指ををついての丁重な対応である。</b></p><p><b>高級料亭でもないかぎり、いまどきこんな接待にであうことはない。</b></p><p><b>どこへ来てしまったのかと、女たちのほうがおどろいた。</b></p><p><b>しかしやっぱりただのマンションの一室である。</b></p><p><b>「わぁ先生、ちゃんと女のひといるじゃな～い」</b></p><p><b>「ね～、ひとりだなんて言っちゃってさー」</b></p><p><b>　独りというのは、啓多自身が言ったわけではない。</b></p><p><b>ふだんの生活態度から、まわりが勝手にそういうイメージを作り上げただけである。</b></p><p><b>　それはともかく、その“女のひと”は若すぎた。</b></p><p><b>雛菊がいくら大人びたきちんとした態度でむかえても、顔立ちの幼さは隠しきれない。</b></p><p><b>からだつきも、いちおう女らしい曲線にはなっているものの、いまひとつ生硬である。まだやっと十代なかばの娘だということはだれの目にもあきらかだ。</b></p><p><b>「あんまり若いコは罪作りよ、先生」</b></p><p><b>二人とも普段から啓多に気があり、ひょっとしてという下心があったのかもしれない。</b></p><p><b>なりゆき次第でそのまま関係してしまっても平気、二人いっぺんでもかまわないというイケイケの連中だ。だとすれば、お気の毒だがさっそくあてがはずれただろう。</b></p><p><b>部屋のなかには、かすかだがほわ～んとあまい香りがたちこめている。</b></p><p><b>意識にのぼっただけで、来客者たちはそれを話題にすることはなかったが、なんとなく空間のここちよさを感じていた。</b></p><p><b>香りの正体はお香で、雛菊が朝夕かかさずほんの少しだけ焚いているからである。</b></p><p><b>「ひなさん、水割りを用意して頂だい。ほら、この前患者さんに貰ったあの金ラベル」</b></p><p><b>「承知いたしました」</b></p><p><b>雛菊は首かけのエプロンをして、かいがいしく水割りとつまみの用意をしはじめた。</b></p><p><b>「へー、ひなさん、だってさー」</b></p><p><b>「白くてお人形さんみたいね」</b></p><p><b>二人は、とうぜんながら雛菊に興味をしめしはじめた。</b></p><p><b>啓多は、つい深い考えもなく部屋に入れてしまったが、こんなゴシップ好きの連中など、つれてくるんじゃなかったと後悔した。</b></p><p><b>しかしそれが顔に出るような腹芸のうすい人間ではない。</b></p><p><b>そしらぬ顔で女たちにソファをすすめた。</b></p><p><b>「ひなさん、いくつ？」</b></p><p><b>「十六でございます」</b></p><p><b>雛菊はしゃあしゃあと、婚姻可能年令までさばよんだ。</b></p><p><b>一人まえの女であることをアピールするつもりなのだと啓多は思った。</b></p><p><b>「ございます、だなんてー」</b></p><p><b>「高校生なのにもう男の人と同棲か～」</b></p><p><b>実際は中学生、申しわけないが。いやべつに申しわけないほどのことでもない。</b></p><p><b>殺風景な男の一人住まいを想像していたのに、塵一つなく手入れの行き届いた部屋の中は、カーテンにしてもソファカバーにしても、完全に女手が仕切っている佇まいだ。</b></p><p><b>女たちが娘と啓多の関係をふしぎに思うのもむりはない。</b></p><p><b>ふしぎといっても、娘にはふだんからこの部屋のなかで生活しているという自然な存在感があり、啓多と同棲して妻の役割をはたしていることにまちがいなかった。</b></p><p><b>“金ラベル”の一言で、部屋のぬしと話が通じているのである。</b></p><p><b>しかし娘は、あまりに可憐で清潔感にあふれていた。</b></p><p><b>水割りのグラスをさしだす指先は、白魚のように透きとおっている。</b></p><p><b>あどけない顔をして、男の夜のお相手まで努めているのだろうか。</b></p><p><b>いや、女たちの常識では、そういう関係にない男と女が、一つ屋根の下で暮らすことは考えられなかった。だとしても、娘のいかにもおだやかで満ちたりた様子からは、望まないことをしいられるような生活を送っているという印象はつたわってこない。</b></p><p><b>そういう関係にあるとすれば、それはきっと娘みずからが望んでいることにちがいなく、嬉々として男に仕えているという感じである。</b></p><p><b>「院長先生とどこで知りあったのよー」</b></p><p><b>「親は同棲してること知ってるの？」</b></p><p><b>ほうっておけば、ぶしつけにあらいざらい聞き倒すにちがいない。</b></p><p><b>「おやおや、そんな個人情報はかんべんして下さいな」</b></p><p><b>啓多は苦笑いをしながら手のひらを横にふった。</b></p><p><b>雛菊は啓多の顔色を読んで、さりげなくキッチンのほうへひっこんだ。</b></p><p><b>女たちは、相手がいなくては話ができなくなった。</b></p><p><b>まさか院長本人から、そんな下世話なことを聞き出すわけにもいかない。</b></p><p><b>「ところで、こんど研修で医局に入った外科のＹ先生は、もとばりばりのプロボクサーだったってこと知ってる？」</b></p><p><b>少々強引に話題をかえた。</b></p><p><b>若い医者のうわさばなしだから、きっと乗って来るにちがいない。</b></p><p><b>Ｙ医師はさっきまでみんなといっしょにいたばかりだ。</b></p><p><b>「えっ、ほんとー」</b></p><p><b>「フェザーの東洋チャンプまでいったんだよ」</b></p><p><b>「へ～そうなんだー」</b></p><p><b>Ｙ医師は女好きのしそうなしぶい男である。</b></p><p><b>はたして話は飛んで、ふたりの関心はいったん雛菊からはなれた。</b></p><p><b>「あの先生、なんかちがうと思ってた。まぶたにキズなんかあってさー」</b></p><p><b>「そうそう、ちょっとやくざっぽいよねー」</b></p><p><b>女たちはいちいち語尾を伸ばしながら、それからなんやかやと二時間ちかくもぺちゃくちゃしゃべった。</b></p><p><b>「へえー」</b></p><p><b>「そうなの」</b></p><p><b>啓多はてきとーに相づちを打って、聞きたくもない話を聞いていた。</b></p><p><b>いや聞いていなかった。何の話だったか、まったく覚えていない。　</b></p><p><b>それでもべつに機嫌はわるくなかった。その酒が上等でうまかったのと、もう一つには、二週間ほど前ほかの主訴で来た患者を診ていくうちに、なにかありそうだというカンがはたらき、その日ついにごく初期の膵臓ガンを発見したからだ。</b></p><p><b>（ふつうの医者ならまず見のがすだろう）</b></p><p><b>四十代半ばの患者は、事業立ちげの直後で、多忙を理由に採血一つ渋る始末だったが、</b></p><p><b>二人の子どもを抱えて一家の大黒柱、そのへんを縷々説得しながら検査を進めた。</b></p><p><b>自画自賛、一つひとつの小さな自己満足が面白くて医療をやっているようなものだ。</b></p><p><b>女たちがしゃべっている最中、雛菊はちょこちょこめんどうを見た。</b></p><p><b>つまみの皿をとりかえたり、あたらしい氷を用意したりなどしたが、すぐにいなくなって、彼女たちに自分への関心が向かないようにした。</b></p><p><b>そうこうしているうちに、キッチンの方からのいい匂いがただよってきた。</b></p><p><b>「あ、カレー。そういえばあたし、少しおなかがすいてきちゃった」</b></p><p><b>「わたしもー」</b></p><p><b>　飲んで数時間たつと、なぜか胃袋はそういう状態になる。</b></p><p><b>　まいにち飲み歩いたあと部屋に戻って、さらにカップなど食べていれば太るわけだ。</b></p><p><b>　エプロン姿で盆をはこんでくる雛菊は、まったく若奥様スタイルが板についている。</b></p><p><b>ふだんからそうだからあたりまえだが。</b></p><p><b>「わあこれ、めっちゃおいし～」</b></p><p><b>「ホント、こんなの食べたことないよ。これただのレトルトじゃないよねぇ」</b></p><p><b>　雛菊オリジナルの野菜カレーは当然うけた。</b></p><p><b>これをきっかけに、また雛菊に注意がいくと困ると思ったとき女たちの一人が、</b></p><p><b>「あ、いけない、もうこんな時間。あたしあした早番なんだ。</b></p><p><b>そろそろかえらないと寝る時間なくなっちゃう」</b></p><p><b>啓多をつかまえそこなって、それなら普段の生活に戻ろうと思ったのかもしれない。</b></p><p><b>「じゃ、わたしも帰る」</b></p><p><b>「カレーごちそうさまー」</b></p><p><b>女たちはばたばたと帰っていった。うるさい連中がいなくなって啓多はほっとした。</b></p><p><b>雛菊とだけ一緒にいられるここちよさを無意識に感じていた。</b></p><p><b>「勉強中、よけいな接待をさせてわるかったねぇ」</b></p><p><b>雛菊がさぞかし煩わしい思いをしただろうと、気の毒に思っていた。</b></p><p><b>ウイスキーグラスやカレーの皿をかたづけるのも、結局はすべて雛菊の手間である。</b></p><p><b>しかし、雛菊は手の甲をくちもとにあててほほえんだ。</b></p><p><b>「いえ、先生にお客様などめずらしいことですから楽しかったですわ」</b></p><p><b>無理にそういっているようにも見えなかった。</b></p><p><b>「ひなさんは人間ができているねぇ」</b></p><p><b>たしかに雛菊がひとに不興な顔をみせることはめったにない。</b></p><p><b>しかしこのときは雛菊の言ったことはうそではなかった。</b></p><p><b>はじめ雛菊は、すわ啓多に女ができたのかと心配したが、二人いたことと、話の内容から、ただの病院の職員であることがわかって胸をなでおろした。</b></p><p><b>ただし女たちが、啓多に気があることも敏感に感じとっていた。</b></p><p><b>二人ともひと目、啓多が手をつけるような上等な女たちではなかったので、逆に妻役であることを見せつけて優越感にひたっていた。</b></p><p><b>カレーを出したのも、親切におもてなしをしているふりをして、じつは、あなたたちにはこんなカレーは作れないでしょうというデモである。</b></p><p><b>雛菊はべつに意地のわるい性格ではなかったが、そういうところはやっぱり女だった。</b></p><p><b>（あのひとたち、わたしのことをうわさするわ）</b></p><p><b>ちっともいやではない。</b></p><p><b>啓多の女だと思われたいのだから、むしろ言いふらして欲しいくらいである。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>院長が女と同棲しているといううわさは、たちまち病院中に野火のように広まった。</b></p><p><b>女気がないと思われていた啓多に、にわかに<ruby>艶<rp>(</rp><rt>つや</rt><rp>)</rp></ruby><b>っぽい話がもちあがり、しかもまだ十代半ばの少女だということで、なんとも興味をそそることこの上ない。</b></b></p><p><b>もし啓多が、女たちにとってどーでもいい男ならそれこそどーでもいいのだが、けっ</b></p><p><b>こうそうでもない女たちもいたし、それやこれやでうわさに付加価値がついた。</b></p><p><b>あっちでもこっちでも、</b></p><p><b>「へー、そんな若い子と」</b></p><p><b>「いいところのお嬢様らしいわよ」</b></p><p><b>「院長先生も、すみにおけないわよねぇ」</b></p><p><b>よるとさわるとその話題。</b></p><p><b>　目撃した二人、ふだん口のわるい連中だが、娘にかんしては口をきわめてほめちぎる。</b></p><p><b>おめでたくも、娘にてあつい接待をうけたと思っていた。</b></p><p><b>じっさい、肚なかの思惑はともかく、三つ指をついて出迎えた雛菊のもてなしは、来客を満足させるには十分なものだったことは確かである。</b></p><p><b>二人ともときどき、ピリッと辛みの効いた深みのあるカレーの味を思いだし、あれをもう一度食べてみたいと思った。</b></p><p><b>「一瞬はっとするくらいよ。ひと目うまれそだちが違うって感じなの」</b></p><p><b>などと一人は言い、もう一人は顔だちを聞かれて、</b></p><p><b>「めっちゃぬけるように色白。そうねえ、イメージでいえば<ruby>藤娘<rp>(</rp><rt>ふじむすめ</rt><rp>)</rp></ruby><b>のお人形、かなー」</b></b></p><p><b>日本的で古風な感じと言いたいのだろう。</b></p><p><b>だれしも話を大きくしたいのは人情だから、話半分に聞いたほうがいいのかもしれないが、細かいアヤを四捨五入すればふたりの証言はほぼ一致していた。</b></p><p><b>彼女たちの話を聞いた者はみな、どこかで見た日本人形の顔をてんでに脳裏にうかべながら想像をかきたて、その娘の実物を見てみたいと思った。</b></p><p><b>それにつけても、ふだんの生活態度から、院長のほうから率先して娘をどうこうしたとは思えずみな首をひねった。いったい、いつどこでその娘と知りあったのだろう。</b></p><p><b>派手な女の出入りはないが人はみかけによらぬもの、院長の人間性を評価してというより、物理的に余裕のない時間をどうやりくりしたのかがわからない。</b></p><p><b>日中は病院にべったりで外にも出ないし、帰るとすれば夜中だが、そんな時間に少女がのこのこ外へ出てくるものだろうか。</b></p><p><b>芥川龍之介によれば、イロゴトの最大の障害は多忙だそうである。</b></p><p><b>目撃者のふたりの女たちは、</b></p><p><b>「あのコ、院長にメロメロだね」</b></p><p><b>「そうそう、まちがいない。目つきでわかる」</b></p><p><b>そっち方面のことは妙に発達しており、意外に慧眼である。</b></p><p><b>やがてうわさはここもの耳にも、啓矢の耳にも入った。</b></p><p><b>そのころには、話は尾ひれがついて脚色されている。</b></p><p><b>娘はさる高貴なお屋敷のお嬢様だとか、継父に性的虐待をうけそうになったため逃げたなどと、まるでテレビドラマのようなストーリー展開になっていた。</b></p><p><b>その真偽はともかく、娘の容姿についての基本情報はほとんど変形せずに伝わった。</b></p><p><b>十代半ばと和人形というたった二つの描写ながら、意外に強固な限定的イメージを喚起させ、それを出る女性像はそう幅広く想像できなかったからである。</b></p><p><b>これはたとえば、二十代後半の派手な顔立ちの女、とでも表現されたとすれば、人によりどれだけイメージに幅があるかを想像してみればわかりやすいだろう。</b></p><p><b>（ハテ、ちと<ruby>面妖<rp>(</rp><rt>めんよう</rt><rp>)</rp></ruby><b>な）</b></b></p><p><b>小首をかしげたのは啓矢だけである。</b></p><p><b>どうもしっくりしないのは、うわさのぬしの年かっこうがおかしいからである。</b></p><p><b>啓多にそんなロリ趣味があったのだろうか。</b></p><p><b>じつは啓矢、数年前に一度だけ、啓多にひっそり寄り添っていた女の影を見ている。</b></p><p><b>まさにうわさのぬしと似たような印象の女だったが、彼女は年端もいかない少女では</b></p><p><b>なかった。しかし記憶のよい啓矢が、それがどういう機会だったか正確に思い出せない。</b></p><p><b>会うつもりで会ったことはないので、たぶん彼女が啓多の横にいたのを、その場かぎりで目にしただけだったような気がする。</b></p><p><b>（四五年も前のことだったかナ。ありゃ確かに人形ケースから出てきたような女だった。あの女はどうしたんだろう）</b></p><p><b>啓多はしゃべらないし、啓矢も聞かないから、菊についての啓矢の知識はとぼしい。</b></p><p><b>ましてや少女が、啓多のもと恋人の娘とは、さすがの啓矢も想像がつかなかった。</b></p><p><b>しかし啓矢は啓多の私生活に興味がないので、その話題からすぐに離れた。</b></p><p><b>いっぽうここもは、昔のいきさつがあるだけに、啓多の女性関係は多少気になった。</b></p><p><b>その娘に会ってみたいと思ったが、それをいいだす機会がなかった。</b></p><p><b>まさかあんたの彼女の顔をみせろともいえないし、啓多が少女をつれて、ここもと会わなければならないような用事もなかった。</b></p><p><b>人のうわさもなんとやらで、やがて時間とともに立ち消えになった。</b></p><p><b>&nbsp;</b></p>
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<pubDate>Tue, 27 Jun 2017 09:44:10 +0900</pubDate>
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