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<title>1ミリメートル浮いた家～伊原碧</title>
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<description>小説を書いています。</description>
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<title>約束の指環　７</title>
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<![CDATA[ .＊ゆずき＊<br>　五月も半ばを迎え、病室の窓から新緑の訪れを知らせる蒸し暑い陽気が吹き込み、カーテンをさらっている。<br>　あの青年が最後に病院を訪れてから二日が経った。私はまだ病院にいた。念のための検査入院、ということだった。<br>　私にできることはすべてやったつもりだった。もちろんそれが、過ぎ去った時に対する贖罪になるとは思っていない。<br>　彼に、罪悪感を残してはいけない。彼の人生はまだこれからなのだ。病に冒された私とは違う。今はまだ彼に光は見えていないかもしれない。しかし、あの子は何の繋がりも持たない私に癒しを与えてくれた。たとえそれが偽物の孫であっても。それが痴れ言の演技であっても。太一。私が与えた名前だ。彼は悪人にはなりきれない。きっとこれからもそうだろう。<br>　門扉の前にいた彼は、何かに怯えるように私を振り返った。彼が何を考えているのかすぐにわかった。人生何十年も生きていれば、ちょっとした悪意にも敏感になれるものだ。<br>　かまを掛けてみると、すぐに馬脚を露わした。警察に通報しようかとも考えたが、彼の身なりがそれを引き止めた。何日も風呂に入っていないようすだった。髪は脂にまみれ、顔もかさかさに荒れ、服からは汗の乾いた臭いが発散していた。<br>　私の昔の罪が、きっと彼に手をさしのべたのだろう。<br>　太一の嘘に、とっさに嘘を重ねた自分がいた。嚆矢を得た嘘は二人のあいだで徐々に事実へと変化していった。私はそれを心地よく感じていたが、彼に矛盾した思いを抱かせてしまったことには申し訳なさが募るばかりだ。いっそのこと、私から打ち明けようかとも考えた。<br>　しかし、それもできなかった。<br>　彼を失うことが怖かったのだ。本物の孫のように接してくれる太一を、いつのまにか己の生きるよすがにしてしまっていた。<br>　神様はそんな独りよがりな私を決して見逃さなかった。彼を解き放つ準備を、神様は着々と進めていたのだろう。私から視界を奪い、命の限りを報せてきた。<br>　太一が自由になるのなら、私はその罰を喜んで受容する。私を失う哀しみなど、彼には人生の通過点に過ぎないのだ。私などに足を引っ張られていては、彼は彼自身の人生を歩むことはできない。<br>　そろそろ私は、死ぬべきなのだ。<br><br>.＊きのした＊<br>　インターネットで探している時間が、おれを徐々に絶望の淵へと追いやる。残された時間は待ってくれるのだろうか。病室のベッドにぐったりと横になっている姿を、最悪の事態を想像をして、ごくりと唾を飲む。<br>　臓器移植。改正法。読み慣れない文章を目で追いながら、ひとつひとつ可能性が潰されていくのを感じた。なんとかして病室で過去をひきずっているあの老婆を助けたい。<br>　財団法人。ドナーバンク。よくわからない言葉の群れに戸惑いながらもおれは少しずつ、自分のやろうとしていることが、不可能であることを理解しはじめた。一筋の光明が、周りを囲む暗闇にすこしずつ押しつぶされ、か細いものになっていく。悔しさが募るにつれて、腹の奥がさらにずきんと痛みだす。なにもできないまま、終わりを迎えてしまうのだろうか。<br>　彼女の最期の運命を変えてやることができるのは、おれしかいない。あの偶然に気づいているのは、地上におれただひとりだろう。このままなら歯車はなにひとつ噛み合わずにすべてが終わってしまう。<br>　自分に使命を感じていた。あのとき、あのホームレスにそそのかされたのは偶然ではない。おれに、この歯車を噛み合わさせるために、神様が巡り合わせたのではないか。<br>　傍から見れば、おれは不幸な人生に見えるのだろう。その不幸な人生にも神様は大きな目標を与えてくれた。おれは自分のこの人生を不幸だとは思わない。いや、不幸にしないために、いまこうやって情報を集めているのだ。<br>　ディスプレイに表示されたページを次々にプリントアウトする。プリンタから出力された紙を束ねて、個室に戻る。<br>　四角く小さなテーブルに紙の束を重ね置き、うねりくる腹痛に耐えながらじっくりと目を通していく。<br>　失明を逃れるには、移植手術が最適だろう。<br>　印刷したパンフレットを手に取る。表紙に、『あなたの意思で救える命があります』と書いてあった。おれの気持ちを代弁してくれているように思えた。紙片の中央に『臓器移植に関するＱ＆Ａ』。――臓器は誰でも提供できますか？　年齢の上限はありますか？　……費用や移植後の身体についても質問と回答が並んでいる。そこには計画に支障をきたすようなことは書かれていなかったし、費用は箪笥から掴んできた現金で補える額だった。<br>　紙片を繰り、さらに内容を検める。そこに、数分前にパソコンのディスプレイで目にした、どうしても避けられない絶望的な問題が書かれていた。<br><br>　　『公平な分配・斡旋　ドナーの斡旋は、原則としてレシピエントの登録順によって行ないます』<br><br>　先ほどディスプレイで見たときと同じようにおれは顔をしかめた。つまり、おれが柚木に目を提供したいと望んでも、その意思とは無関係に、おれの臓器は順番待ちの列の先頭にいる人物に回されるのだ。列の先頭の人には悪いが、おれはその待ち人に身体の一部を提供するために走り回ったり、資料を集めたり、ネットのなかを駆け回ったり、頭を悩ませているのではない。大きな壁が目の前にそびえたつさまが頭に浮かんだ。頭が真っ白になる。おれの願いはここで終わるのだろうかと、強く目を閉じてしまう。<br>　……いや、確か――。おれは頭のなかでインターネットで見た情報を掘り返し、あたりに散乱した情報の土砂のなかから一片の紙を引き出した。<br><br> 『親族優先二例目』<br><br>　新聞の見出し記事だった。テーブルの上にたたきつけるように置き、入念に読み返す。要約すると、次のようなことが分かった。改正臓器移植法により、平成二十二年一月十七日より、親族に対し臓器を優先的に提供する意思を書面で示せば、親族への臓器優先提供が可能になる。<br>　おれが、病院で待つあいつの親族であれば、おれの臓器をおれの意思通りに移植させることができる、ということだ。<br>　しかし一緒に数ヶ月くらしただけの関係で親族であるはずがない。もともと見ず知らずの人間なのだ。何しろ施設育ちなのだから、そういった言葉にはよけい敏感になる。腹の奥がずきんと痛む。<br>　おれはもう一度インターネットの総合検索サイトにアクセスし、し・ん・ぞ・く・スペース・ゆ・う・せ・ん・て・い・き・ょ・う、とキーボードをたたく。画面に並ぶ検索結果の上から二つ目のリンクをマウスでクリックした。<br><br> 　【親族への優先提供が行なわれる場合】<br>　　　①ご本人が臓器を提供する意思表示に併せて、親族への優先提供の意思表示を書面により表示している。<br>　　　②親族（配偶者※１、子ども※２、父母※２）が移植希望登録をしている。<br>　　　③医学的な条件（適合条件）を満たしている。<br><br>　頭にぱっとひらめいた。<br>　養子縁組だ。<br>　施設にいたころ、まだおれが小学生くらいだったころだろうか。おれより小さい子供らが里親にもらわれていくのをよく目にした。昨日まで一緒に遊んでいた子が、見知らぬ男女に迎えられ、連れられて施設を出ていった。その度に胸に穴が空いたような気持ちになったのを覚えている。<br>　施設から仲間が消える寂しさには慣れていたし、仲間を奪っていく里親に負の感情を持ったわけでもない。きっと、親という存在を知らなかったからだろうと、今になって思う。おれの母親は、おれが産まれると同時に死んだらしい。父親はもともといなかった。つまり、通りすがりの仲に産まれた子だった。母親と父親の愛情など想像することもできなかった。新たな家族を得て施設を出て行く彼らに、おれはどんな感情を抱いていいのかわからなかった。きっと、うまく咀嚼できない感情が、おれの胸に空虚な空間を作り出していたのだろう。<br>　そんなことを思いだしていたら、おれは紙片の端を摘み上げたまま口を半開きにして人形のように固まっていた。過去に浸っている場合ではない、と自分を叱咤する。おれがあのばあさんの子どもになり、柚木に優先提供したい意思を書面にしておけば、あいつの目は助かるのだ。もしかしたら彼女を長年の罪悪感から救うことができるかもしれない。彼女の人生から、後悔という二文字を取り除くことができるかもしれないのだ。<br>　いままで闇に押し包まれていた視界が急に拓けた気がした。急いで用紙に目を戻し、注釈の※２を見る。期待と不安が胸の内で拮抗し、全身が震えるほど鼓動が高鳴る。<br><br>　　　※２　実の親子の他、特別養子縁組による養子及び養父母を含みます。<br><br>　やった！　薄暗い個室のなかで、おれは思わず小さく声を上げていた。<br>　おれが養子になればすべてが解決するのだ。細く暗い道を満身創痍で這い進んでいたおれに、急に力が湧いてきてガソリン満タンの車を与えられた気がした。<br>　ゴールが見えた気がして一息つくと、そういえば、と思いだした。あのバンド名を検索してみる。「Thranduils」。何度も目にしたＣＤジャケットの記憶を頼りにアルファベットを並べ、検索ボタンをクリックする。それらしきサイトがすぐに見つかった。<br>　そのバンドのサイトは、黒を基調としてゴシック風に装飾され、死をイメージさせた。更新情報の欄を眺めているとバンド名の読み方が分かった。「スランドゥイルズ」と読むらしい。画面に浮かぶ彼らは自然体で、ダメージジーンズにラフなシャツといったあっさりしたファッションを呈示しており、殺風景ともいえる印象を受けた。この人たちがあの激しい心を揺さぶるようなメロディーや、心を締めつけて離さないバラードを創り出しているとは思えないほど、身近な存在に思えた。<br>　おれはバンドメンバーのプロフィールのページに移り、目を通した。<br><br>　福原恭介（リードボーカル・ギター）<br>　黒瀬智也（ベース）<br>　道端桂子（ギター）<br>　尾崎修司（ドラム）<br><br>　自然体なファッションに似つかわしく、そこには本名が載っていた。知らないうちにおれは笑みを浮かべていた。施設の子供たちだけでなく、どうやらおれも自分で気づかないうちに、このバンドのファンになっているらしかった。そして、そのメンバーの一人の名前に目を惹かれずにはいられなかった。<br>　福原恭介。頭のなかで、パズルのピースがかちりとはまる音がした。<br>　おれと同じ施設育ちのアーティスト。ボーカルとギターをこなす、ブレイク寸前のバンドのリーダー。おれは全身から湯気が立つような、誇らしい気持ちになった。思わず笑顔が浮かんでいた。<br>　恭介、お前はやっぱりヒーローだよ。<br>　おれはそう呟いていた。<br>
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11930780679.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Sep 2014 00:59:54 +0900</pubDate>
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<title>約束の指環　６</title>
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<![CDATA[ .＊きのした＊<br>　その翌日もばあさんは家に戻らなかった。病院に電話すると、「念のため、もう数日、入院させる」のだと聞かされた。<br>　卓袱台に両肘をついて頭をかかえていると、電話が鳴った。長いあいだ呼び出し音が止まなかったため、しょうがなくおれは受話器を取り上げ、耳に当てた。<br>「やっと出た。あんたどこまで耳が遠くなったんだい。死んだのかと思ったよ」<br>　電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。死んだ、という言葉に過敏に心が反応する。<br>「この前はどうしたのかと思ったわ。いきなり孫の話なんかはじめて。もうあんな与太話聞きたくないからね」<br>　あのときの、電話の相手らしかった。たしか、旧友だと言っていた気がする。<br>「あの、その、おれが、その孫なんですが……」<br>「は？　あんたが？」<br>　心底驚いたようすだった。いやまあてっきりゆずきが呆けちまったのかと思ったよ、と受話器から拡声器を使って話しているような大声が飛んでくる。<br>「ほんとに孫がいたのかい。こりゃ驚いた。てっきり空言が口をついて出たんだと思ってたよ。ほら、ずっと昔に息子さん、家を出て行ったって柚木が言ってたもんでさあ。いやいや、あんたのお父さんは今どうしてたんだい？」<br>　やはりそうか、とおれは哀しくなった。<br>「……おれは、何も知りません」<br>　おれは喉の奥を絞るようにして声を出した。<br>「え、どういうことだい？」<br>　おれは真実を聞き出すために、すべてを正直に話した。おれが孫を偽っていること。おれがここにいる理由。この家の主と数ヶ月を共に過ごしていること。柚木が失明しかけていること――。<br>　そして、おれはここに住む老婆の肉親のことを知った。<br>　思っていたとおりだった。<br>　おれにここに長居することを勧めたのも、学校が始まっているはずの五月になっても、おれに一筋の疑いの言葉もかけなかったことにも、納得せざるをえなかった。<br>　本当の息子や孫など、やはりあの老婆には存在しなかったのだ。いや、存在するのかもしれないが、近しい関係ではなくなっていた。<br>　おれは、自分が予想していた以上に冷静に、受話器から聞こえてくる話を聞いていることに驚いた。<br>　やはりあの老婆は最初からすべてを知っていた。おれが本当の孫ではないこと。おれが孫だと偽ったこと。そしてあの家に居座り続けた理由すら――。すべてを見透かされていた。<br>　あいつは、おれを、本当の孫だと思いたかった。いや、もはや本当の孫でなくてもよかったのかもしれない。おれを助けることで、過去の罪を償いたかったのではないか。息子を棄てた罪を。罪の意識に手を引かれて、おれを家にとどめさせたのだろう。いま病院で眠っている老女は、かすかに光る運命を信じたかった。<br>　哀しくて、悔しかった。希望を失った柚木に、なにもしてあげることができない。せっかく買ってきた音楽も――そういえば、買ったＣＤはどこへやったか。そういえば、財布を取り出そうとしたときに箪笥のなかにしまったのだったと思いだす。それが遠い過去のことのように思えた。<br>　ゆっくりと抽斗をあけ、落ち着いてなかを覗く。ＣＤケースは、中心に置かれた直方体の物体に寄りかかるようにして立っていた。自分の影が邪魔になり見えない。ばあさんが倒れた日は、気が急いていて、その存在に気づかなかった。おれはその直方体の物体に手を延ばす。特有のインクの匂いが鼻をついた。<br>　おれはこの数日で、何度驚けばいいのだろう。<br>　一昨日まで無かった札束が、積んであった。<br>　両手に持てるほどの量があった。札束を全部取り上げると、底に預金通帳が見えた。箪笥の上に札束を放り、通帳を開く。一昨日、数百万円の預金が下ろされ、残高の桁が一つ変わっていた。それほどの大金がいま、箪笥の上に乗っかっている。<br>　通帳の残高を表す数値の下に、書き込みがあった。鉛筆で書かれた、筆圧の弱い、蛇のようにうねった字であったため、それが文章であることに気づくのに時間がかかった。それは不安定でアンバランスな、柚木の字だった。<br>『短いあいだだったけれども、太一、あなたと一緒に暮らせた時間が幸せでした。あなたはこれから、好きに生きなさい。先の短い私から離れて、あなたの人生を、幸せに生きることを目指してください。いままでどうもありがとうね』<br>　読み終えた瞬間、鋭い痛みが背中から腹をつらぬいた。<br>　後悔と感謝と申し訳なさとが一気に胸を締めつける。呼吸ができないほどの嗚咽が、咽喉の奥からせりあがってくる。鼻の奥がつんと痛み、その痛みが目頭に伝わり、冷たい哀しみが淀みなく頬を流れた。<br>　柚木は、世界が狭まり、自分の死を予感してなお、おれの心配をしていたのだ。<br>　憎まれるだろうと、恨まれるだろうと恐れていた。しかし、柚木が怒り、泣き崩れるだろうことのほうが、おれに口を噤ませつづけた。死ぬまで彼女を騙しつづけようと心に決めていた。しかし、彼女は何もかもを見透かしていたのだ。哀しみの表情も、憎しみの欠片も見せずに。<br>　もうおれには金など必要なかった。<br>　気づくとおれは何度もありがとう、ありがとう、と泣きじゃくりながら何かのまじないのように唱えていた。<br>　そのとき、カタ、と乾いた音がした。抽斗のなかで何かが倒れたようだった。手の甲で目を拭い、顔を抽斗に戻す。抽象的なグラデーションのＣＤジャケットが抽斗の中に見えた。おれが買ったＣＤだった。<br>　結局、柚木がこれを聞くことはなかった。ジャケットを裏返すと、あのボーカルの、振り上げた右拳がどアップで映っていた。その右拳を悄然と眺めながら、ふと、おれはひとつの偶然に思い至った。これは――？　抽斗にあるものと見比べる。<br><br>　世の中に、偶然とはどれくらい転がっているのだろうか。おれと柚木が出会ったのは偶然と言えるのだろうか。あのホームレスが、おれをここに導いたのは、偶然だったのだろうか。おれは悪人になれない。そう言った彼の言葉には、どこか確信めいたものがあった。それは果たして、単なる思い違いだったのだろうか。目の前のＣＤジャケットがおれにそう語りかけてくる――。<br>　おれはいても立ってもいられなくなった。残り少ない時間をどう使うべきか、脳をフル回転させる。情報が足りなかった。おれは札束をひと掴みして、バッグに投げ込むと、そのバッグをつっかけて玄関を飛び出す。そのまま止まることなく突っ走り、駅前のインターネットカフェに入る。息があがっているようすを店員が訝ったみたいだったが、気にしている暇はない。受付で偽の住所と名前を書き、インターネットの接続されたパソコンのある個室に駆け込む。とっかかりが欲しかった。自分がなにをしたらいいのか知りたかった。無我夢中でキーボードをたたき、情報を掻き集める。<br>　腹の奥で、なにかがずきんと痛んだ。<br>　おれは二度とあの家に戻ることはできないと思った。あの家の主と顔を合わせてはいけない。おれと会ってもその絶望は深くなるだけだ。本当の孫ではないのだと気づいてしまっているのだから。そして、通帳にか細い文字で書かれた短い手紙を、おれが読んでしまったのだから――。<br>　あいつはいま、己の死を確信している。だからおれを、孫を演じる役から解き放つ準備を終わらせていたのだろう。<br>　あいつを助けることができないだろうか。期待を裏切ることになっても、一筋の望みのために、おれはあの家から札束を盗むことしかできなかった。<br>
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11928182044.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Sep 2014 17:30:49 +0900</pubDate>
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<title>約束の指環　５</title>
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<![CDATA[ .＊ゆずき＊<br>　その男を家にあげたのは、罪悪感からだった。あれから数十年が経つが、それでも年頃の青年を見かけると深い罪悪感に胸を刺される。罪と罰が作り上げた、持病のようなものだ。<br>　息子を棄てた罪は一生消えることはないだろう。自分が産み落とした人間を見捨てるという所為は、どういう理由があったとしても肯定されない。人道にあるまじき行為なのだ。当時もそのことは理解していた。理解していたが、仕方なかった。戦後夫の死を報された私は金も身よりもすべてを失い、子どもを育てるどころの事態ではなかった。いや、それが言い訳に過ぎないことは痛いほどに分かっている。私は、児童養護施設の門の前に息子を棄てた。そばにいられない私のせめてもの身代わりにと、はめていた結婚指環を指から抜いて紙に包み、泣きわめく息子とともに置き去りにした。<br>　二十八のときに産んだ命は、生きていれば今頃、五十過ぎになる。もしその息子に孫ができているとしたら、手足の伸びきった青年になっているはずだろう。<br>　息子はきっと私のことを恨んでいるだろう。自分を棄てた親を憎まないですむはずがない。息子に謝りたい。自分の犯した過ちにひとつの結末を与えたい。しかしどこにいるのかも分からない相手にどうやって謝罪の意を伝えられようか。<br>　その報いが、とうとう訪れたのだろう。その男は、太一と名乗った。私がヨネと電話で話した空言を、期待どおり間に受けてくれたようだ。彼がそう名乗った今となっては、その青年の本名を私が知ることはできない。息子の顔も知らない私が、孫の名前を知るはずもない。孫？　いや、そもそも孫が存在することすら知れないのだ。少なくとも、私を慕う孫など、この世にはいない。<br>　先日、太一が病院に連れ添ってくれたときのことを思いだす。太一と担当医が私を置いて二人で話をしていた。盗み聞きするつもりはなかったが、彼らの話がかすかに廊下に漏れ聞こえた。<br>　――まだはっきり…………いや、そういうわけでは……可能性として……。<br>　医師の声を受ける太一の声は、ぼそぼそとしており、うまく聞き取れなかった。しかし、焦るように早口なのがわかった。<br>　覚悟はしていた。歳を重ねるということは、人生の残り時間をすり減らしていくということだ。そのときが近づいているということだろう。私は自分の命が明日消えようと、覚悟はできている。<br>　ただひとつ気がかりなのは、太一のことだ。<br>　私が死んだら、太一は、どうやって生きていくつもりなのだろう。<br>　若者が名前を偽って、年寄りに優しくする理由はひとつしかない。年寄りの財産といえば、知識か金だ。そして彼は私に知識など求めていない。きっと太一は、そろそろ金目のものをこっそり持ち出しそのまま姿を消すだろう。彼に味方するように、私の目もほとんど見えなくなってきた。私はそれを見とがめることすらできまい。<br>　これが、天が私に与えた罰なのだろう。命が尽きる前に不幸な若者をよこし、私が棄てた息子の代わりに彼に将来を支えてやれ、と。わかりやすい結末を用意してくれたものだと神様に感謝するべきだろうか。太一の人生を、私の金が支えることになるとして、それが果たしてよいことなのだろうか。棄てた息子は、それで私の大罪を許してくれるのだろうか。<br>「――ばあちゃん、そろそろ病院に行く時間じゃないか？」<br>　ちゃぶ台の向かいに座る太一が窺うように私の顔を覗き込んでくる。その声はいつにも増して陽気さに満ちていた。余計なことを、と思いながらも私は微笑を浮かべる。年寄りは、若者の親切を素直に受けて感謝するべきなのだ。<br>「そうかい、そろそろ時間かい。考え事をしていたら時間なんかあっという間に過ぎちまうもんだね。――それにしても、おまえなんかあったのかい？　今日はえらく元気がいいじゃないか。仲のいい女でもできたのかい？」<br>　それが空元気だとわかっていて意地悪な質問を返してみる。<br>　そんなんじゃねえよ、と否定する太一。<br>　本当かい？　と舌を見せて応えてみる。<br>「嘘ついてもしかたねえぞ？」<br>「だから、違うって言ってるだろ」<br>　ムキになって否定する太一が可愛かった。そんな、何でもないやりとりが、私にとってはかけがえのないことのように思えた。<br>　外の光を取り込もうと障子少しだけ開けると、庭の木々に清々しいほどの緑が芽吹いていた。隙間から射しこむ強い日差しが畳にくっきりとした細い線を走らせ、私と太一を別けた。<br>　――そう。太一はひとつ、大きな勘違いをしている。<br><br>.＊きのした＊<br>「ばあちゃんは音楽とか聞かねえのか？」<br>　失明が近いことを宣告されたあの日、おれは家へ帰る道すがら、柚木に軽い気持ちで訊ねてみた。目の不自由な人が楽しめるものは、たとえば耳から入るものではないかという単純な考えだった。<br>「昔はレコードを聞いていたけどねえ。美空ひばりはいい声をしていたねえ。透き通るような気持ちのよい声だよ、あれは」 <br>「いまはもう聞かねえのか？」<br>「いまの音楽は、耳にうるさいだけだよ」<br>　柚木は迷惑そうに手を振った。<br>「……ロックバンドとかのことか？」<br> 「そうそう。それだ。叫ぶばっかりで、全然なっちゃいない。音楽というのはねえ……と、やめておこう。年寄りの趣味の話なんざ、太一は聞きたくないだろう？」<br>　柚木が自嘲気味に口を閉じる。<br> 「そんなことねえよ。そういえば、ばあちゃんの趣味、聞いたことなかったな。おれが趣味に合った音楽を買ってきてやるよ。どんなのがいいんだ？」<br>　おれは柚木の言葉から、ひとつのロックバンドのことを思い浮かべていた。ホームレスの話していた、あのバンドだ。シャウトするように歌い上げるさまが、十代の若者に熱狂的な人気を得ていた。施設のリビングにあったテレビから、彼らの曲が流れると、女子たちの目はテレビに釘付けになり、男子らも無意識に体を揺らして扇情的な歌詞を口ずさんでいたのを覚えている。<br>　――おれの声は届いているか！<br>　ボーカルの男性は、間奏の際にそう叫び、右手を振り上げ、手の甲を高くかざす。高く掲げられるマイクを持った大きな拳にカメラが寄っていき、次第に画面に大きく映るとともに、聴衆のうねるような歓声も大きくなっていく。そのやりとりを、施設の子供らテレビの前で真似ていたのを覚えている。拳を振り上げて。うおー、と子供たちが大声でテレビのなかのスターに応える。そしてシスターが、静かに！　と大声をあげるのだった。<br>　施設の子たちが彼らのファンになったのは、きっとボーカルが児童養護施設の出身だということを告白しているのをいつかのテレビで見ていたからだろう。ブレイク前のアーティストを紹介する、五分程度の番組だったと思う。<br>　そのボーカルは、母子家庭で育ったが、まだ彼が五歳のうちに母も病気でこの世を去った。父はすでに離婚し蒸発していたため、施設に預けられたのだとブラウン管の中で彼は告白していた。<br>　夕暮れが薄く陽を沈める頃に家に着いた。おれが先に上がり框に上り、柚木の手を引いているときだった。<br>「太一がいいと思う音楽を聞かせておくれ。なるべく静かなものがいい」<br>　と柚木が言った。柚木は居間へ向かうとおもむろに桐箪笥の右端の抽斗から財布を取り出して千円札を数枚おれに握らせた。<br>　金を渡された次の日、おれは街まで出た。電車賃をけちるために、歩いた。柚木からもらったお金で、とも考えたが、なんとなくためらわれ、やめた。<br>　彼らのバンドが作り出す音楽は、激しいものばかりではなかった。美空ひばりのやわらかさ、とまではいかないが、アコースティックギター片手にボーカルが弾き語りをするような、素朴で優雅な曲調のものもあった。施設にいたころから聞きなじみのあるそれを、柚木に聞かせたいと思った。<br>　さいわい、柚木の家にはＣＤプレイヤーがあったため、ＣＤさえ買えば音楽を聞かせることができる。駅前に乱立するテナントビルのひとつに店を構えた大型ＣＤショップ店で、おれは目当てのアーティストを探し歩いた。一階から五階までのフロアは広く、二階に構えられたＪポップのジャンルから彼らのバンドを探すだけで、おれの足は棒になった。<br>　フロアの柱に張り出された「来年ブレイクするアーティストランキング」の上位に彼らのバンド名が書かれていた。アルファベットで構成されたバンド名に、ふりがなはなく、昔見ていたテレビ番組で司会者がバンド名を紹介する場面を何度も見ているはずだが、記憶にない。おれは、そのバンド名をなんて読んだらいいかわからず、そして曲名を見てもそれが自分の求めているものかもちろんわからなかった。<br>　試聴コーナーを見つけ、そこに目当てのＣＤが設置されてないかを視線を振って探すと、すぐに見つかった。バンドメンバーの写真入りポップが、試聴コーナーの柱にでかでかと貼られていた。さすがランキング上位に位置するだけある、と感心した。ヘッドフォンを耳に当て、アルバムの一曲目から順に聴いていく。……違う。次の曲。違う。次。聴いたことがあるがこれも違う。次。……これだ。おれはヘッドフォンを外して叩きつけるように戻すと、試聴用プレイヤーの右に置かれたＣＤジャケットを手にとった。荒々しい曲に似合わず極彩色のグラデーションが縦に流れた抽象的なジャケット写真だった。裏には、あの有名な右拳が堂々と大きく映っていた。売れ筋だからか少々値が張ったが、柚木から渡されたお金に比べれば安いものだった。<br><br>　しかし、その音楽を柚木に聞かせることは叶わなかった。<br>　日が暮れて玄関の引き戸をあけると、柚木が玄関に倒れていた。<br>　上がり框に頭を預け三和土に座り込むようにして意識を失っていた。すぐに駆け寄り柚木の体温を確かめ、脈をとり、呼吸を確認する。脈は弱く、浅い呼吸がおれの頬に当たる。<br>　すぐに救急車を呼び、柚木を担ぎ上げて居間に布団を敷き柚木を横たえた。呼吸は落ち着いてきたが意識は戻らない。<br>　おれは柚木の財布の中身を確認することにした。金をくすねるためではない。診療費用やもしかしたら入院費用が必要になるだろうと思ったからだ。健康保険証も財布に入っているだろうか。布団を回り込み抽斗をあけ、財布を検める。黒の長財布を手に持つと、ずしりと重い。中を開くと、右側にカードが並び、左側にお札を入れるポケットがある。<br>　おれは一万円札が何枚か入っていることと、カードポケットに健康保険証があることを確かめて財布をたたもうとした。<br>　そのとき。<br>　衝撃的な違和感が、全身を走った。<br>　もう一度、健康保険証を取り出す。そこに浮かぶ文字を確かめる。<br>　心臓を殴りつけられたように、激しい鼓動が胸を打つ。<br>　身体中の血液が、今までの記憶とともに逆流しだす。<br>　柚木の言葉。旧友との電話。医者の言動……。<br>　――家の表札、剥がれてるだろ。<br>　――お前にゃ無理だよ。<br>　――柚木太一といいます。<br>　――それはまた珍しい……。<br>　どうして。<br>　まさか。<br>　全身に、次々と疑問がぶつかってきた。その塊は、おれの体に相容れることなく皮膚の表面で跳ね返り、柚木とおれを包み込む空間にふわふわと漂い続ける。なぜ。どうして。まさか。それらの言葉が繰り返し脳内を駆け巡った。<br>　愕然としていると、救急車のサイレンが聞こえてきた。はっと我に返り、おれは財布を急いでたたんだ。いま見たことを忘れようとする。うまくいかず、泣きそうになる。サイレンの音がうるさいほどに近くなり、唐突に消えた。泣いている場合ではない、と腕に力を込めて柚木を担ぎ玄関へと向かった。<br>　玄関のチャイムが鳴る。開いています、と答えると玄関が勢いよく開かれ水色の服を着た救急隊員が入ってきた。昼の陽気が嘘のように完全な闇が外を覆っていた。<br>　救急隊が柚木を担架にのせているあいだに、発見したときのようすを手短に伝える。柚木は意識を取り戻すことなく、そのまま救急車に乗せられた。おれは財布を掴みサンダルをつっかけて、一緒に救急車に乗った。頭の中は混乱し、心臓はばくばくと脈打ったままだった。<br>　通っていた総合病院の救急に柚木は回された。<br>　おれは病院の薄暗い照明に照らされたベンチに座り込んで、ベージュ色をした床に視線を落とし、無事であることを祈った。額に押し付けた手のひらにじっとりと汗が滲み、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。<br>　あまりに動転していたためか、その足音が近くで鳴り止み、視界に人影が差すまで人の接近に気づかなかった。おれの足元に白衣から伸びる二本の脚が見え、ふと顔をあげると見知った顔の医師が立っていた。彼はボサボサの髪にしなびた表情を浮かべていた。<br>　白衣の男はおれの正面に立ち、そしておれの両肩に手を置いた。<br>　白衣が、諭すようにゆっくりと口を動かす。彼の口から発せられる音声が、おれの耳孔を通り、鼓膜を揺らす。その振動は、鼓膜から脳に伝わるまでのあいだに大きく増長し、深い振幅を帯びておれの脳をぐらぐらと揺さぶった。なにもかもが、おれを見放したように思った。残された時間が幾許もないことを報された。<br>　おれは病院を出て、家にとって返した。一人になりたかった。<br>　何もかもが崩れていくようだった。<br>　財布のなかの金は、柚木の寝かされたベッドのサイドテーブルに置いてきた。健康保険証も看護師に頼んでコピーを置いてきた。<br>　おれは居間の畳にへたりこみ、柚木が横たわっていた布団を見る。敷布団は薄く、枕と尻の当たる部分が、長年の重みに凹んだままになっていた。柚木の寝姿が自然と目に浮かんできた。やがて、その寝姿が滲み、おれは目をこすった。<br>　何をすればいいのだろうか。次々と露わになる事実に、おれの頭は嵐に遭ったように掻き回されていた。<br><br>　いつのまにか卓袱台に伏せて意識を失っていた。翌朝、日が高く昇る前に電話が鳴り、おれは目を覚ました。柚木の意識が戻ったということだった。ひとまずおれは安心して受話器を置き、部屋を見渡す。<br>　何も変わっていない現実がそこにあった。考えなければならないことはたくさんある。しかし、それらを解決する手段は何一つ思い浮かばなかった。<br>　病棟の側壁はすべての陽光を受けとめ、白く反射していた。<br>　柚木の病室は、二階の一室だった。四人部屋で、右奥の窓側のベッドに身を横たえていた。広い病室に寝かされた柚木は、家にいるときよりも一段と小さく見えた。おれはベッドに寝たままの、黙り込んだその老婆に、近所の人が倒れているところを見つけて病院に連絡をいれてくれたようだと嘘をついた。名前を訊ねなかったためそれが誰なのかはわからない、とも言い添えた。それに対して何も言及してこなかったのが、逆に怖かった。<br>　おれが説明を終えると、彼女はベッドの背にもたれるようにして体を起こし、小さな声で言った。<br>「どうせ、私はもう長くないんだろう？」<br>　ずきんと腹が痛む。<br>「そんなことねえよ。貧血でちょっと意識を失っただけだったんだろう？　病は気からだぜ。弱気なことこと言うなよ」<br>　眼の奥がじんと熱くなる。目の前の年老いた女性が、身体を萎ませるようにして希望を失っている事実が、耐えがたい哀しみをおれに浴びせた。<br>
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11926984955.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Sep 2014 01:02:42 +0900</pubDate>
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<title>約束の指環　４</title>
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<![CDATA[ .＊Thranduils＊<br>　四月三十日、午後五時。恭介はパイプ椅子を並べた上に横になっていた。<br>「恭介も横になってないで、探せよー。自分だけ楽しやがって」<br>　智也が冗談交じりにののしってくる。恭介は眩暈を覚え、身体を休めているところだった。毎晩行なわれるバンド練習と、日中の肉体労働とで、恭介の身体は限界を迎えていた。目頭を軽く摘み、目をぎゅっと瞑る。こめかみに鈍い痛みが走るが、気のせいだと言い聞かせ、並べた椅子から身を起こす。<br>「お前がいけないんだぞ。途中で倒れたりするから」<br>　智也が投げやりな言葉を投げつけてくる。しかしその言葉は笑みを含んでおり、体調不良のバンドメンバーに対する慰めも含まれているように感じられた。<br>　練習の途中で恭介は貧血を起こしたのだった。曲が、サビに差し掛かったところで勢いに乗り声を張り上げたところで、疲労の塊が脳内で破裂した。視界が狭まり、平衡感覚を失い、その場にしゃがみこむようにして倒れ込んだ。<br>　恭介は、椅子に深く座り、頭を深く垂れている。頭を起こすとふたたび視界が真っ白になり、眩暈が襲ってきそうな予感がした。<br>「すまない」<br>　たった四文字の言葉を吐くのに大きな深呼吸が必要で、嘔吐感をもよおしてしまう自分の身体が憎くなった。<br>　先日やっと、深夜のテレビ番組に出演の依頼が来たのだ。その収録が再来週の月曜日。そして、テレビ放送はさらに二ヶ月後だという。インディーズ・バンドに声をかけてくれた番組プロデューサーに感謝した。今まで小さな箱を借りてやってきた恭介たちにとっては、大きな宣伝の場である。友人をつてにチケットを売りさばいていた彼等が、チケット販売店にその業務を任せられることになるかもしれない大舞台と考えてよい。井のなかの蛙が大海に躍り出られるかどうかの分水嶺、とは言い過ぎか、と恭介はふっと笑う。<br>　電話を受けたときの、番組プロデューサーのぎらついた声を思いだす。<br>　――君たちの音楽は荒削りだが、魂に満ちている。<br>　そう評価を口にされたときは素直に嬉しかった。<br>「音楽は目的ではなく、手段でしかない」これは以前バンドを組んでいたメンバー、祐介の言葉だ。<br>「音楽は目的にはなりえない。音楽が目的だとしたら、そいつは音楽を作っただけで人生が終わる。目的にしてしまった時点で、心を打つメロディなんて描けなくなっちまう。そこでジ・エンドだ。おれは音楽を目標だなんて思ってない。あくまで手段だ。なんの手段かって？　人の心を揺り動かす手段だよ。おれらの音楽で、人が右にも左にも揺れ動くんだ。そいつの人生の、それからを変えちまう力がある。そのための手段でしかないんだ。おれらは音楽で、他人の人生に渦を起こして、地面を揺らし、そして破滅へと導くんだ。面白いと思わないか？」<br>　恭介をそう説き伏せた夜、酒を飲んでバイクに跨り、そのままガードレールに突っ込み、祐介は死んだ。その死をきっかけにバンドは一時解散し、恭介と智也は新たなメンバーを集めて再結成したのだった。<br>　音楽は、恭介にとっても手段のひとつだった。祐介の言ったように人の心を揺さぶる手段であり、人を破滅へと導くためのものではなかったが、恭介にはさらに現実的な目的があった。曲を作り出すことは苦悩と共に、完成時と発表時には快感を伴う。しかし、ギターを弾き、メロディーに声を乗せる行為には、興奮を導く以外の目的があった。<br>　この声を誰かに届けたい。テレビに映ることで、誰かに――その誰かは、恭介にははっきりと輪郭を持って映っていた――気づいてほしい。そんな想いが込められていた。恭介にとって、音楽は手段であると同時に、目的でもあった。<br>　最初は違った。音楽を手段だと思ってやっていた。しかし、いつのまにか恭介には違う目標ができてしまっていた。自分たちが作り上げる音の連なりが、ひとつの手段であることには変わりない。だがそれだけではない。この音を通して、テレビに映ることで、見せたいものを思いついた。それが、恭介が音楽に目的を与えた瞬間だった。<br>「恭介、顔が真っ青じゃないか」<br>　修司が中腰になって、椅子に座っている恭介を下から覗き込んでいた。その目は遠慮なく心配の色を浮かべていた。恭介は少しだけ瞳を左に流して修司の悲愴な面持ちから目を逸らした。<br>「リードボーカルのお前に倒れられたら、テレビ出演どころじゃなくなるんだからな。体調には気をつけてくれよ。バンドの顔なんだから、青褪めた表情で曲歌われたら、ロックなんか言えなくなっちまう」<br>　そう言って、ぽんと恭介の肩をたたく。<br>　もうひとりのバンドメンバーを、回復しだした平衡感覚のなかで彼は探した。わずかに右に首を傾げると、そこに桂子はいた。床に左頬をくっつけるようにしてスピーカーや音響器具、畳まれたパイプ椅子の下に次々と目を凝らしている。<br>「あれ、ないとまずいんだよね、恭ちゃん」<br>　恭介のことをそう呼ぶのは桂子だけだった。恭介はうめき声とも取れるような声調で、ああ、とだけ返事をする。あれだけは失くすわけにはいかない。<br>　しばらく経って、ようやく動けるようになった身体をひきずり、恭介も探しはじめる。スタジオのフローリングは冷たく、顔を近づけると冷気が漂ってくるようだった。恭介は倒れ込むようにして桂子とは反対の側の床に目を凝らしてみた。<br>　そのとき、<br>「あった」<br>　そう声を上げたのは、智也だった。そう言って床に這いつくばるようにしてベースドラムと床の細い隙間に右腕を突っ込み、顔をしかめながらしばらくがさごそとやって、腕を引き抜くと、人差し指と親指のあいだに恭介の探していたものがつままれていた。<br>　恭介は胸をなで下ろし、糸が切れたように頭を垂れてその場に座り込んだ。<br><br>.＊きのした＊<br>　雅一の息子で、柚木の孫の名前は、労することなく判明した。<br>　柚木の夫の遺影に手を合わせたあと、トイレを借り、用を足して戸を開けようとしたとき、電話が鳴ったのだ。居間のテレビの脇に、今となっては珍しい黒電話があったのを思いだした。襖の奥からくぐもった、けたたましい音が鳴っている。柚木がどたどたと足音を立てて、仏間からトイレの前を経由して居間へと入っていった。その数秒後呼び出し音が止んで応答する柚木の声が壁を通して聞こえてくる。<br>　おれはなにとはなしに襖の裏に立った。盗み聞きをするつもりはなかったが、他人が電話をしている場所に入ることがためらわれ、おれは襖の影に身を隠すようにして、柚木の電話が終わるまで突っ立っていた。<br>　柚木の電話はそう長くはなかったが、おれに重要な情報を与えてくれた。<br>「いまね、孫が来とるんよ。え、いや、本当なんだよ」<br>　嬉しそうな声だった。話しの相手は、ようすからして、旧友のようだ。<br>「そう、太一って言うんよ。太いに、数字の一って書いて太一。なに、初めて聞いた？　言っとらんかったかね。……ぬははは、そうやねえ。……そうそう――」<br>　それを耳にした瞬間、おれの名前は決まった。柚木太一だ。これがおれの、柚木家での名前だ。忘れないように復唱する。ゆずきたいち、ゆずきたいち、ゆずきたいち……。手のひらにも何度も名前を書き試す。<br>「それじゃあ、またね。あたしより先に死んじゃあだめよ」<br>　受話器が置かれたのを確認して、おれは襖を引き、ちゃぶ台の脇に腰を下ろした。さきほどは気にならなかったい草の匂いが、鼻に心地よい。緊張がほぐれてきたのを実感する。<br>「電話、誰だったの？」<br>　柚木が向かいに座る。<br>「昔の友達だよ。ヨネちゃん。ほとんどはあっちに行っちゃってるから、最近は電話もとんと減ってねえ」<br>　と言って、柚木は天井を指さす。あっち、というのが一瞬どこ指すのか分からなかったが、柚木の物憂げな微笑も手伝ってぴんときた。そうか、と少し心が痛む。<br>　知人がだんだんと少なくなっていく心境とはどういうものだろうか。<br>　孫が訪ねてきたら、嬉しいだろうな、とも思った。本当の孫ではないと分かったら柚木はどのくらい悲しむだろうか。その偽物の孫が、金品を奪って蒸発したら、どれだけの衝撃を受けるだろうか。<br>　――人間が生きるのに必要なのは、希望だ。<br>　ホームレスが言っていた言葉を思いだす。<br>　柚木には、希望があるのだろうか。もしかしたら、おれがここにいることが希望なのかもしれない。減りゆく友人を偲び、いつ自分の番が来るか分からない環境のなか、若い肉親が訪ねてきてあれこれと相手をしてなんでもない話をすることが、目の前の老女にとっては何よりの喜びなのかもしれない。柚木の顔を見ていると、自分の行なうことが、はたして小さな迷惑で済むのだろうかと疑問に思えてきた。咽喉の奥がつんと痛くなり、気を許すと心が泣きそうになるのがわかった。<br>「なあ、おれがここに来るのって、どれくらいぶりになるかな」<br>　素知らぬふりをして訊いてみた。<br>　柚木の目が宙を泳ぎ、思案顔になる。目をつむり、考えだす。うーん、と唸り声が聞こえてくる。それだけでとりあえず長いあいだ会っていないことはわかった。<br>「歳を取ると、物忘れもひどくてねえ。困ったもんだ。あんたがいつ以来ここに来たのか覚えてないんだよ」<br>　眉を八の字にしながらも、柚木は目顔で笑った。困ったもんだよ、本当に。お迎えが来る前兆かねえ。そう言いながら、柚木が目の端を指で撫でる。。<br>「何言ってんだよ、ばあちゃん。まだまだ人生長いんだから、しっかりしてくれよ」<br>　おれは無邪気な笑みを浮かべてみせる。もし傍目から誰かが見ていたら、おばあさんとその孫が微笑ましい会話をしているようにしか見えないだろう。おれ自身、そうやって柚木と会話をしているときには、柚木を本当の祖母だと勘違いしているかのような錯覚を覚えることがあった。まだ長生きしてほしい。世間一般の孫が祖母に対して抱くだろう感情を、少なからずそのときは本当に心に浮かべてしまっていた。そして、ほんとにねえ、と柚木が満面の笑みを浮かべてこちらを見たとき、おれはなぜかほっとした。少し誇らしくもなるのだった。<br>　が、その度におれはその光景がすべて舞台の上での出来事なのだということに立ちかえる。途端に笑顔が引き攣る。不随意に戸惑ってしまい、思わず顔を伏せてしまう。暢気に声を上げて笑っている柚木に、堪らなく申し訳ない気持ちが皮膚の内側にへばりついた。<br>　――迷惑をかけずに生きるにはどうしたらいいんですか。<br>　――金が有り余っているところから、少しだけ拝借すればいいのさ。<br>　本当にそれでいいのだろうか。<br>　同じ問いを頭で繰り返す。一度はむりやり納得した結論に、柚木の笑顔が疑問を呈する。無防備な年寄りから、少々の金を巻き上げることが、生きるためにとはいえ、やるべきことなんだろうか。ホームレスのあの男は本気でそう思って言ったのだろうか。<br>　しかし、目の前に転がっている大きなチャンスを逃すことももったいないことだと頭の片隅で誰かが囁く。銀行通帳と印鑑があれば預金の解約が可能ではないだろうか。大金ならば、銀行員に疑われるかもしれない。動けない祖母の代理でやってきたと説明すれば、なんとか通じるかもしれない。目前に、比較的安全に大金を手に入れる手段が転がっている。これを利用しないで、お前はどうやって食いつないでいくつもりなんだ？　闇色の心が自分を脅迫する。腹の内に、どす黒い血液が溜まっていくような気持ちの悪さを覚える。<br>　まあ、いいじゃないか、と中立的な声がした。当分おばあさんの孫を演じて、ここに住まわせてもらえばいいじゃないか。実行はいつでも可能なんだ。今やらなくてもお前が損するわけじゃない――。<br>　おれは最後の声に賛成し、当分のあいだ柚木太一を演じることにした。その間に、新しいアイデアを思いつくかもしれない。<br>　それでいい。そう思っていた。<br>　柚木は縁側で庭の木々を鑑賞しながら、茶を飲むのが好きだった。おれにとっては退屈だったが、住まわせてもらってる駄賃代わりと思い、縁側に差し込む陽光に目を細めながら、柚木の話につきあった。木々のひとつひとつの説明を受けていると、隣りに腰を下ろして茶をすすっている老婆が少しずつ身近な存在に思えてくる。<br>　クヌギの木には、夏にはカブトムシやクワガタが集まってくるのだとか、茶褐色の幹のケヤキがもうそろそろ花を咲かせるのだとか、嬉しそうに話した。<br>　楽しそうな顔を目にするたびに、おれは柚木に心を許しそうになった。なるべく情が移らないように、いずれは目の前の老婆を裏切りここを出ていくのだと自分に繰り返し言い聞かせた。<br>　散歩に出かけては、その道中でおれに説教じみたことをよく話してきた。友達は大切にしなさいだとか、親と金はいつまでもあるわけではないのだから親孝行と仕事だけはきちんとやりなさいだとか、そして仕事はなんでもいいから続けることが大事だだとか。うるさいなあ、とおれは邪魔くさく対応しつつも、孫のたしかな成長を守ろうとする柚木を騙している自分に、ずきずきと腹が痛んだ。<br>　柚木は、夫ついてもよく話をした。柚木は自分の夫を、おじいさんと呼んだ。遺影で精悍な顔を見ていたおれは、その響きに慣れるのに時間がかかった。きっと柚木は、今でも夫と一緒に過ごしているつもりなのだろう。遺影に映った若者も今となってはおじいさんなのだ。柚木は顔の皺を深くしながら彼のことを、決して二枚目ではなかったが正直でまじめで、戦後復興期の日本を支えていたのだと、まるで自分の手柄のように語った。がむしゃらに働いていた夫は身体の不調に気づかず、腎不全で倒れたときには手の施しようがなかったらしい。<br>　柚木は思いついたような顔をして卓袱台に手をついて立ち上がり、箪笥の抽斗を開けた。細い腕で中を探ると、指環を取り出してみせた。<br>「これがおじいさんの唯一の形見だよ」<br>　おれが通帳などとともに抽斗で見つけたあの指環だった。春の強い日差しのもとで見る平打ちのそれは細かい瑕が目立ったが、少し黒みがかった凛々しい指環だった。孫としての役割がそう思わせたのだろうか、おれはその指環をどこかで見たことがあるような懐かしささえ覚えた。しかしその懐かしさは、頭の片隅で明確な輪郭を持っているように思える。どこで見たのだったろうか。つかみ所のない岩場の頂上を目指しているような、そんな感覚が脳裏に過ぎった。<br>　柚木は、定期的に病院へ行った。どこか悪いのかと訊ねると、眼が見えなくなるんだよ、と返ってきた。驚いてくわしく聞いてみると、柚木は角膜変性症という疾病におかされており、いずれ失明するらしい。最寄の総合病院で診てもらっているが、経過を観察するしかできず、既に角膜ドナーの順番待ちに並んでいるのだという。詳しい症状や失明するまでの期間は明確にはわからないが、徐々に柚木の目は暗闇に蝕まれていくということだった。<br>　喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、あるいは哀れむべきなのか、もやもやとした気持ちが胸の内側を煙らせた。目が見えなくなれば、いつ金目のものを盗み出し逃げ出すのかに頭を悩ませる必要はなくなる。しかしそのときおれは暗闇の世界に閉じ込められた独りの老婆を残していくという、卑劣な行為に身を落とすことになる。真っ白な未来に墨を塗りたくられたような気分だった。<br><br>　初夏まで時が流れると、柚木の目は明らかな異常を示した。<br>　ちゃぶ台の上に自分で置いた湯のみを見失ったり、鉛筆で手紙をしたためるのに、顔を左右に傾けたりした。視野の中心部に濁りが生じてしまい、目の前のものがはっきりと見えなくなっているのだろう。不安定な心細さが浮き出すかのように、手紙の字面はアンバランスに左右に歪んでいた。<br>　卓袱台で便せんにペンを走らせていたが、背後におれの気配を感じたのか、ふとこちらを振り返り、額に汗を浮かべた真っ青な顔をおれに見せた。そして柚木はこちらを向いたまま片手で手紙をくしゃくしゃに握り潰した。<br>「字もまともに書けなくなってきたよ、歳はとりたくないんもんだねえ」<br>　眼鏡を外しながら目を伏せて息をつく柚木の言葉に、いつもの強がりはなかった。<br>　柚木の通院に、おれが付き添うことが必要となった。ひとりで路地を歩かせるのが危険なほど、柚木の目はその機能を失っていた。少しずつ暗闇の世界に支配されていく柚木を考えると、胸が押し潰されそうだった。<br>　柚木はなにも知らないのだ。おれが本当の孫ではなく、卑怯な犯罪者であることも知らず、偽りの安心と偽物の会話のなかでゆっくりと闇に侵食されていく。それが柚木の人生の最後を飾る事件になるのだと思うと、自分を罵り唾を吐きかけたくなった。おれが柚木の希望であり続けられるなら、おれは柚木の孫であることを押し通そうかという考えが頭をもたげていた。<br>「――なにを考えているんだい？」<br>　病院を斜向かいに構えた交差点に差し掛かったところで、柚木が唐突に言った。こちらを窺ったようすはなかった。おれがあまりに無言でいたことを不自然に思ったのだろうか。答えに窮してしまう。<br>「……ええと、ばあちゃんの目は、どうやったら治るんだろうな」<br>　決して意図して発した言葉じゃなかったが、気づいたときにはもう遅かった。訊いてはいけない質問だと後悔した。失態を犯した自分を心の内で殴りつける。柚木にとっては絶望的な回答しか残されていないじゃないか。<br>「そうだねえ。もうきっと、治らないんだろうねえ」<br>　胡瓜の詰まった箱を抱えて台所へどしどしと足を運んでいた柚木の面影はもう跡形もなかった。腰を丸め、もともと低い身長をさらに低くして歩く彼女は、枯れ果てた樹木のように生気を失っていた。<br>「あ、あのさ、家の表札、剥がれてるだろ。あれ、おれが作ってやろうか？」<br>　門柱に埋め込まれていた表札が取れていたことを思いだした。話題を変えたかった。<br>「おまえにゃ無理だよ。おまえには、ね」<br>　柚木はこちらを振り返りもせず、笑って声を返してきた。<br>　施設に居た頃、木彫り細工をよくやった。机に座って鉛筆を動かすことは苦手だったが、小刀や彫刻刀で木片を削ることだけは上手くやれた。木彫りは上手くできるんだ、と伝えようとしたが、柚木がなにごとかをつぶやいて遮った。その声は小さく淀んでいて、結局聞き取れなかった。<br>　信号が青になる。柚木の右手を握りしめ、無力なおれは押し黙って横断歩道を渡った。<br><br>「……角膜の中心に濁りが生じています。中心視野が欠けてしまい、通常の生活に支障をきたす段階まできています」<br>　診察室で担当医は穏やかに、丁寧に説明を続け、それでも誠心誠意で柚木に生じるショックを和らげようとしているのがわかった。柚木に目を移すと、医者の努力も虚しくそれまで信じたくなかったであろう絶望が姿をあらわし柚木の表面をすべて覆ったかのように見えた。白く四角い無機質な診察室に感情を吸い取られたかのように柚木は口を閉じ、黙った。親戚のかたに連絡をとりましょうか、と医師がすすめる。たしかにこれ以上症状が深刻さを増せば、一人暮らしを続けるのは困難だろう。息子がいるのなら一緒に生活するべきだとはわかる。しかしそれは、つまりおれが柚木のそばにはいられなくなるという事態につながる。<br>　遅かれ早かれこのような事態になることは想像していた。しかし現実に離別が迫ってくるとおれの心は動揺していた。おれの心はいつのまにか、柚木と離れたくないと願っていた。<br>「お孫さんですか？」<br>　白衣を着た目の前の男が訊いてくる。<br>「はい……」<br>　突然の問いかけに声が震える。<br>「柚木太一といいます」<br>「へえ、それはまた珍しい……」<br>　孫が病院に付き添うのは確かに珍しいことなのかもしれない。おれは慎重にうなずいた。嘘をつくとき、人は多弁になる。以前の失敗を省みて、おれは名前を言っただけで黙ることにした。嘘がばれるはずはない。そうわかっていても、体がこわばる。柚木の肩に置いた手に自然と力が入る。その手に、柚木が大きく息を吐くのが伝わってきた。<br>　どういう表情をするのが正しいのかわからなかった。視界を奪われ失意に沈む老婆。偽物の孫。作りものの家族。<br>　医者が視線を上げておれの顔を眺め、それから柚木の肩に置いたおれの手に視線を落とした。彼は几帳面な顔の上に怪訝さを彫り込んで、少々のあいだ目をつむり、なにごとか考えているようだった。おれのなかに言いしれぬ不安が過ぎる。ばれるはずはない。じっとりとした空気が唾を飲み込むことさえ禁じてくる。鼓動が少しずつ速度をあげる。<br>　と、白衣の男が目をあけて言った。<br>「ちょっと、二人だけで話をできますか」<br>　柚木と医者が、二人で話をするのだと思ったら、違った。医者が指名したのは、おれのほうだった。ずきずきとした緊張が背中を走る。ばれるはずがない。それは分かっていてもその不安はぬぐい去れなかった。柚木をゆっくりと診察室の外に連れ出し、苔色をした樹脂カバーのベンチに座らせ、大丈夫だよ、と根拠のない声をかけてから診察室に戻る。<br>　ほんのちょっと前まで柚木が座っていた椅子に腰を下ろし、膝に手をついて眼前の医者に視線を向ける。彼はおれの目をじっくりと見つめ返す。まさかおれの嘘を見破ったのではないかと、少しだけ目を逸らしたくなる。しかし、ここで視線を外すのも不自然に思え、なんの遠慮もなく突き刺さってくる視線を冷静に受け止めることにする。<br>　彼の瞳孔は緊張を含んだ色を浮かべていた。彼は視線を斜め下に落とし、何かを逡巡しているようだった。医者は散々おれを待たせてから顔を上げると、いくつかおれに質問をした。そして腹を決めたように、こう言った。<br>　――一緒にお住まいなのであれば、お伝えしておくべきですね。<br>　そして、おれは知らされた。<br>　柚木とおれとのあいだに残された時間は、残り少ないということを。<br><br>　おれはその日、その事実を柚木に知らせることができなかった。失明の危機があるうえに、そんな事実を伝えれば、彼女が落胆することは目に見えている。<br>　柚木を家に連れ戻し、おれはふたたび外に出た。柚木をひとりにすることは不安だったが、それ以上に考えなければならないことがあった。<br>　眼科医の診断が必ずしも正しいとは限らない。他の病気である可能性も残っている。溢れそうになる涙をこらえて、暮色に染まった路地を、ひとり歩き続けた。<br>　昼の陽気は影をひそめ黒い雲が空を覆い出している。民家の塀から突き出すようにして枝を伸ばすコナラは傾いた太陽の日差しと薄い月明かりを同時に受けて、濡れたように青々と茂っている。その木の間をそよ風が吹き抜け、おれの皮膚の表面を容赦なく冷やしていった。<br>
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11925420580.html</link>
<pubDate>Mon, 15 Sep 2014 21:47:55 +0900</pubDate>
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<title>約束の指環　３</title>
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<![CDATA[ .＊きのした＊<br>　広い玄関には傘立てや自転車や庭の畑仕事に使うのだろうか鋤やスコップなどの耕作具も置かれていた。湿気った土にまみれており、現在進行形で使われていることが見てとれる。この老婆が庭を耕しているのだろうか。電灯には紙漉の四角い笠が誂えられており、広い玄関を控えめに照らしつけており、玄関からまっすぐに伸びた廊下の表面は、年代を感じさせる木板が仄暗い照明を反射し艶やかに黒光りを返している。外観に裕福さの面影を出さないぶん、家内の趣の深さはより深く感じられた。<br>「そういえば」<br>　ばあさんが不意に振り返り、おれは身を硬直させる。<br>「あんた、名前なんていったっけ」<br>　急激に心拍数が上がる。心臓が送り出す血液の量が増加し、胸、脇の下、膝、指先までもが鼓動にあわせてびくびくと震え出す。<br>「もう何年も会ってないだろ。歳を重ねると親戚の名前も忘れちまう。悲しいもんだねえ」<br>　廊下をよたよたと進みながら、ばあさんは背中を見せて飄々と訊ねてくる。<br>「お、おれの名前、忘れちゃったの？」<br>　冒頭の文句が少しだけ震えてしまう。どう答えればいいのかわからない。<br>「昨日の晩、何食ったかも覚えてないんだよ。すまないね」<br>　ばあさんは申し訳なさを微塵も見せず平板な調子で言った。おれは顔も知らない雅一の息子の名前を真剣に考える。なにかヒントになるものがないか、細長い廊下に目を泳がせる。廊下に掛けられた額縁。柿を描いた水彩画。鉛筆で殴り書きのような書き込みがある白地のカレンダーがその脇にピン留めされている。足下に視線を落とすと、板目に直径二センチほどの穴が空いていた。木目にある丸い年輪のような部分が経年劣化し、腐って抜け落ちたのだろうか。孫の名前を思いつかないおれは、その穴の暗闇に吸い込まれてしまいたい気持ちになる。<br>「ああ、ところで今日は、何でまたこんな田舎までやってきたんだい？」<br>　ばあさんがふたたび話題を変える。名前の詮索はとりあえず中断されたようで、ほっと胸をなで下ろす。そこに座ってな、とおれは畳敷きの居間に通された。<br>　台所から出てきたばあさんが、居間に湯飲みを二つ運んできた。おれは黙ってちゃぶ台の脇に腰を下ろす。ばあさんはおれの左手の側に座った。<br>　もうここに何をしにきたのか自分でも分からなくなるほど頭の中は忙しく思考を繰り返していた。どうやってこの場を凌いだらいい？<br>　沈黙が苦痛になる前に、お茶をすする。熱い茶が食道から胃に染みわたり、身体の芯が温まる心地がした。冷や汗が引っ込み、暑さによる正常な汗が滲み出てくるのを感じた。<br>　ばあさんが正面に見える庭に眼をやり、おれと同じように茶を口にする。<br>　そのあいだにおれは、何を話すべきかどう切り出すべきか頭の中のいろんな抽斗をひっくり返していた。お金が欲しい。騙しとる。もう一度湯飲みを手に取り、熱い茶に口を火傷したふりをして時間を稼ぎながら、どんな話を持ち出したらよいのか考えた。<br>「実は、ちょっと困ったことになって……」<br>　世の先人達は、このための理由に様々なことを思いついた。交通事故を起こして示談金を求められている。会社の営業で大失敗をしでかし会社から損害賠償を訴えられている。借金の保証人になったら友人が蒸発した。金を横領していたら今日監査が入ることになった、このままでは横領がばれてしまう。不倫相手の子を妊娠してしまった。奥さんから慰謝料を請求されている――。<br>　ほかにも理由は腐るほどあるが、その目的は、善良な老人が溜め込んでいる銀行預金や箪笥預金を、悪意の満ちた銀行口座に振り込ませることにある。金額は数万円から数百万円。現実的で、支払いが可能な額を請求する。おれは、そんな悪逆非道な手段をとっさに口にしてしまっていた。<br>「……おれの友人が学費を払えなくて、親に内緒で、いわゆるヤミ金ってやつ？　そこからお金を借りてたんだけど、そいつが身体壊してバイトできなくなって、そんで、おれが保証人になってたんだけど、おれもそんなに余裕があるわけでもないし。で、おばあちゃんにちょっとのあいだだけ肩代わりしてもらえないかと思って……」<br>　まくし立てるように口が回った。嘘をつくときに人は多弁で早口になるというが、おれはそれをまさに体現していた。あらためて冷や汗が額に浮き出てくる。脂と濁った水分が混ざり合った液体が目尻を伝い、頬へと垂れ、後ろめたさの粒が全身から噴き出してくる。<br>　伏せていた目をゆっくり上げてみると、目の前のしわくちゃの顔が、目と口をまんまるに開けていた。<br>「そりゃまあ、あんた、大変なことになったもんだね。やっちまったことは仕方ないけどな、おまえ、簡単に保証人の判子、押したらいけんよ。金の切れ目が縁の切れ目って言うてね。どんなに困ったことになったってねえ、いくら友達だからってねえ、お金の相談には乗ったらいけん。あんたの友達のためにも言っとるんよ。自分で持て余してしまうようなお金に手を出したらいけんのよ。不相応な事をするから、困ることになる。あらまあしかし、そりゃ困ったことになったねえ」<br>　ばあさんは身振り手振りを交えて、驚きと困惑に声を上擦らせながら、これまた一気にまくし立てるようにしゃべった。<br>　台の上の湯飲みを両手で囲むようにして、おれは緑色濁った液体をに目を落とした。こんな話が本当に通用しているのだろうか、ばあさんは話しに乗ったふりをして、おれがぼろを出すのを実は待っているのかもしれない、とは思わなかった。きっと、ばあさんはおれの話しを信頼している。それが逆に心を締め付けた。咽喉の奥を絞られたような居心地の悪さがした。<br>「いくらだい？」<br>　ばあさんが、湯飲みを置いて訊ねてくる。音もなく湯飲みが置かれたのを見て、おれは罪悪感を少しだけそぎ落とすことに成功した。湯飲みの底に手を添えて静かに置くさまが、いかにも上品だったからだ。少々金を奪われても大して困らない、上流の人間に見えた。<br>　いや、そう見たかっただけかもしれない。少しくらい金をせしめても正当化されるというねじ曲がった論理が、おれの背中を押す。しかし――<br>「……まだ、いくらかは、分からないんだ」<br>　押された背中を何かが引き戻した。この一線を越えたら何かを失ってしまうような気がした。言いしれぬ不安におれは具体的な金額を示すことを口にすることを邪魔され、一方で自分の口から出た言葉に安堵したのも確かだった。<br>　煮え切らない返事にばあさんが苦い口調でなにか言ったが、小さい声だったため聞き取れなかった。<br><br>　翌朝、ばあさんの家の床の間で目を覚ました。なぜおれがばあさん、否、柚木家にまだ居座っているのかを説明するには、夕べのことを話さなければならない。<br>　昨日、結局おれの振込め詐欺擬きは未遂に終わった。あのあとも、ばあさんはちょぼちょぼと話しかけてきたが、頭のなかはこれまでの自分の行為を振り返ることに逡巡していて、何と答えたか覚えていない。<br>　ちゃぶ台の脇に腰をおろして、テレビに興じるばあさんの隣で所在なげに嘆息しているときだった。呼び鈴がなった。ビービー、と警告音にも似た音だった。老人は高い音が聞こえないというから、ばあさんにはちょうど良い音響なのかもしれない。<br>「ゆずきさんよー、いるかーい？」<br>　玄関から大声が響いてくる。呼び鈴を押す意味はあったのだろうか。しかしそれを聞いて、この小さな老婆の姓が柚木なのだと知った。漢字は当て推量だが当分問題ないだろう。おれはその来客に心の中で小さく感謝した。<br>　柚木はいそいそと立ち上がり、襖をあけて玄関に出ていった。<br>　テレビの正面に座りなおし、おれは両手を後ろについて柚木があけた襖のほうに目をやった。襖の向こうにガラスの格子戸が見える。向かいが台所なのだろう。居間は畳の六畳間で、真んなかにちゃぶ台が置いてあり、襖と対面する側には下段に磨りガラスがはめられた障子戸が張られ、その向こうにモザイクがかけられたうようにぼやけた縁側が見えた。いつか映画で見た、昭和時代の映画に出てくる日本家屋そのものだと思った。庭があり、雨戸があり、縁側があり、襖に囲まれた居間で家族が団欒を楽しむ――。ここにひとりで住むのは寂しくないのだろうか。<br>　玄関のほうから叫びに近い音量の声が聞こえてくる。年寄りどうし、耳が遠いのだろう。まるで街頭で募金を呼びかける学生のように、声を張り上げている。<br>「畑で胡瓜が取れたから、お裾分け」<br>　おすそわけ、の部分は、ひとつひとつ言葉を区切るように、より一層、声に力が込められた。<br>　ありがとね、と柚木も負けじとがなる。<br>　――最近は腰があがらなくなってね。<br>　――畑仕事のやりすぎじゃないかね。<br>　――柚木さんは腰、やっとらんかね。<br>　――あたしゃあまだまだ大丈夫だよ。<br>　――元気だからって油断すっでねぞ。<br>　――無理しとるあんたに言われたかねえよ。<br>　犬を追い払うように手を振って、笑う柚木の姿が目に浮かんだ。対面では強がりな姿勢を崩さない性質を持っているようだった。おれと柚木はまだ二日しかともにしていないのに、それでもしわくちゃのその老婆が腰をたたいて息をついている姿は何度も眼にした。<br>　柚木が玄関に行っている間に、居間で孫の名前を探した。襖戸の向かって右側、おれの正面には腰高くらいの、年代物の桐箪笥が置かれてあり、その上に淡い紫色の布が敷かれ、写真立てがいくつか飾ってあった。柚木とその夫と思われる人物の白黒写真が、木枠の写真立てのなかで笑っていたり、男性の顔が大きく映った、背景が薄い水色で染められたものもあった。昔テレビか何かで同じ雰囲気の写真を見たことがある。写真立ての表面の硝子には埃ひとつ浮いていなかった。<br>　息子や孫と思われる者の写真は見当たらなかった。夫との写真を飾るくらいなので、孫の幼い頃の写真が一枚くらいあってもよさそうなのに、とおれは舌打ちをした。が、そのような写真はないほうがよいのだと気づき、逆に胸をなでおろした。本物の孫の写真と自分を見比べられたら、いくら歳を取っているとしても、あまりの面影のなさに疑いを持つかもしれなかったからだ。<br>　木枠の写真立ての脇に、小さな蹴鞠のような置物も転がっている。さらにその隣に、柚木が作ったのだろうか、紙で折られた鶴や兜が無造作に並んでいた。柚木と訪問客の大声が聞こえているうちに、霧箪笥の抽斗を下から順に中身をひとつひとつ検めた。が、そこには着物の入った木箱や洋服や靴下や、何に使うのかわからない麻の生地などがあるだけで、やはり孫の名前に辿りつくとっかかりは見つからなかった。<br>　玄関の会話はまだ終わるようすはない。<br>　箪笥のいちばん上の段はちょうどおれの腰の高さで三つの抽斗に分かれていた。おれは右端から取っ手を掴み、引いてみる。<br>　目の前にあるものを見て心臓が跳ねた。<br>　銀行通帳らしき冊子とキャッシュカード、印鑑、それに結婚指環だろうか、手前の隅に金属製の輪っかが転がっている。他にもなにやら仰々しい書体で契約書などと表された書類が置かれていた。<br>　呼吸が苦しいことに思い至る。無意識に息を止めていたことに気づく。はあっ、と息を吐き出し、玄関のほうに聴覚を集中する。柚木らはまだ玄関で話している。おれはゆっくりと、銀行通帳に手を伸ばした。<br>　――客がきてるのかい？<br>　瞬間、息が詰まる。きっと三和土に転がった薄汚いスニーカーにでも気づいたのだろう。おれは通帳に伸ばした手をぴたりと止める。<br>　――いや、客でねえよ。孫だ。孫が遊びに来とる。<br>　あらあらそれは邪魔をしたね、と言う声が聞こえ、それじゃ、と続き、さらに客の足音が遠のいていった。柚木が玄関を閉める音が聞こえると、俺は急いで抽斗から手を引いて足音を立てないように気をつけながら、もといた場所に腰を下ろす。おれがしゃがむと同時に、柚木が段ボールを抱えて居間に戻ってきた。段ボールの上からこちらを覗くしわくちゃの顔に、びくっと震えてしまった。どうかしたかい、とばあさんが言う。おれはぶるぶると首を横に振って答えた。ふん、それならいいが――と、柚木は抱えた箱を傾けて中身を見せてきた。<br>「ほれ、いい色しとるじゃろ」<br>　おれの心臓の鼓動はまだおさまっておらず、咽喉や脇が鼓動に合わせて微動している感覚があった。冷静さをよそおい、顎を上げて段ボールの中を覗き込むと、胡瓜が無造作に並んでいた。表面に傷があったり、見慣れない太さや短いものも多く、スーパーの傷物セールで売られている野菜たちを段ボールごと買い取ってきたものではないかと思えた。<br>「隣のチエコさんだよ。いつもこうやって庭で獲れた野菜を持ってきてくれるんだよ」<br>　ああそうなんだ、とだけ生返事を返す。ばあさんの平静なようすに、やっと冷や汗が引いていく。<br>　糠に漬けとこうかね。そう言って柚木は回れ右をして、向かいのガラス格子戸を足でつまんでがらがらとスライドさせ、身体を揺すりながらどしどしと台所へと踏み入っていった。<br>　大丈夫だ。<br>　柚木はおれが箪笥のなかを検めたことに当然気づいていない。深呼吸して心臓のあるあたりの胸をの右手で撫でる。<br>　ガラス戸がふたたびあいて、柚木が戻ってきた、と思ったら廊下で立ち止まる。ああ、そういえば、と呟くように言うと、柚子がおれを見下ろした。<br>「そういえば、まだ線香をあげてなかったね。着いておいで」<br>　そう言って柚木は家の奥へと向かった。おれは立ち上がり、柚木の後を追う。台所と居間に挟まれた廊下を奥に進むと、左手が水場になっており、おれは右手の部屋に請じ入れられた。床の間、兼仏間のようだ。四畳半くらいの狭い部屋で、庭に面する腰窓は、空気の入れかえをしていたのだろうか、あけっ放しになっていた。柚木に見つかっていなかったら、きっとここから進入することになっていただろう。<br>　入って左に床の間があり、その奥に仏壇が配置してある。床の間には、日に焼けた水墨画の掛け軸が掛けられており、床に敷かれた藍色の敷物の上には薄紅色をした花瓶のような円柱の陶磁器が飾られていた。お金に余裕のある家なのだとおれは確信した。後ろめたい安堵感が胸をもたげる。<br>　柚木が観音開きの戸をあけると、金色の仏壇が顔を出した。焼香皿の奥、中段の左右に、彼女が採ってきたのだろうか、パステル色の花弁の花が数本ずつ活けられており、その脇に位牌が鎮座している。左右には灯籠のようなものが置かれていた。<br>　柚木が座布団に正座して下段の棚からマッチ箱を取り出し、赤い蝋燭に仄かな火を与えると内側に貼られた金箔が一斉に輝き出した。<br>「ほら、あんたもやりな」<br>　とおれを誘いながら蝋燭の火で線香の先を焚きつけている。あたりに白檀の古典的な香りが拡がり、細い煙が筋雲のようにたなびく。<br>　おれは誰とも知らない仏に向かって線香を立てた。二度鈴が弾かれ、りーんという独特の音色の余韻のなか、柚木は数珠を手に取り、頭を垂れて手のひらを擦り合わせるようにして拝んだ。しばらくの静寂の後、あんたもじいさんに手を合わせてやっとくれ、と数珠を渡された。数珠は意外に重く、おれは慌てて左手を添えた。先ほどまで柚木がしていたように座布団に座り、数珠を掛けた手を合わせ、目を閉じる。<br>　自分は何をしているんだろうか。見知らぬ人の家に上がり込み、誰のためとも知らずに目をつむり手を合わせ祈っている。しかし、両手が互いに温もりを確かめ合うように合掌して視界を閉ざしていると、何もかもがどうでもよいようにも思えて、気が安らいでいった。仏壇、白檀の香り、鈴の余韻。何か超自然的なやわらかい力に包まれているような、穏やかな気分に襲われていた。<br>　心に、慣れない新たな感覚が生じているのを感じた。暖かく濃密なスープに身を浮かべているような満ち足りた気分だった。自分に親がいたら、親が死んだら、こんな気持ちで合掌するのだろうか。<br>　目の前の故人のこと、自分の境遇、おれの本当の両親や祖父母、そして自分が今行なっている愚行。様々な思いが瞼の裏を染める。<br>　ふと、庭に面した窓から一筋のそよ風が吹き込み、おれの睫を撫でた。それを合図に、おれは瞼を上げ、我に返った。<br>　違う。違う。違う。<br>　おれは目の前に映るおじいさんの孫でもなければ、その彼に義を尽くしにこの屋敷を訪ねたわけでもない。自分が生きのびるために姑息な手段をとろうとしている下劣な人間なのだ。先ほどの暖かな空気は霧と消え、胃に鉛の塊を投げ込まれた気分になる。目の前に扉を開いている仏壇に途端に申し訳なさを感じた。<br>　見ていると涙が出そうで、おれは反射的に目を逸らした。逸らした視線の先で柚木は開いた腰窓を背に腕を組み、しんみりとしたようすで立っていた。泣き顔と微笑みをむりやり重ね合わせたような、そんな表情をしていた。何も言わず、おれと柚木はそのままじっとしていた。吹き込む風だけが、時の流れがあることをおれに教えてくる。<br>　先に動いたのは柚木だった。深くため息をついて、するすると窓を閉め、外の音が遠のいた。背中を見せたままの姿勢で柚木が言った。<br>「こんな時期にここに来るってことは、どうせやることもなく暇なんだろう？　せっかくだから長居していきな」<br>　やることにくわえて家もなかったおれは、そんな柚木の誘いに乗ることにしたのだった。そのときの柚木の思いに気づくことができたのは、彼女との別れが決定的になってからだった。
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11925374036.html</link>
<pubDate>Mon, 15 Sep 2014 20:23:50 +0900</pubDate>
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<title>約束の指輪　２</title>
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<![CDATA[ .＊きのした＊<br>　翌朝、おれは公園のベンチの上で目覚めた。早い時間帯ではまだ春風が冷たい。かさかさに乾いた頬をこすりながら、公園の水飲み場へと向かう。蛇口から流れ出る水に口をつけて咽喉を潤し、顔を洗った。タオルで顔を拭っていると、緑色の金網フェンスの向こうをスーツ姿のサラリーマンや小学生らが歩いているのが見えた。今から、おれは彼らと違う道を歩むつもりのだと思うと、不安な反面楽しみに似た興奮を覚えた。<br>　太陽が高くなる前にリュックを手に取り、公園を出た。おれは人気の少ない路地を探し歩いた。公園は県道沿いにあるが、県道から一つ角を曲がれば、細い路地が住宅地を縫うように張り巡っている。たとえば高いブロック塀に囲まれた民家、そして一人暮らしの老人が最適だろう。留守中を狙えば人体に危害を加える必要もない。<br>　なるべく裕福そうな家屋を狙う。少しくらいお金を拝借しても、その後の人生に多大な影響を与えることがないように。少しだけおれが生き延びることになっても、何の迷惑も被らないような、別次元に住んでいる人を対象にするために。<br>　本気なのか、と何度も自分に問いかけた。<br>　他人の家に土足で踏み込み、どこかに大事にしまってある金品を家人に知られぬように勝手に持ち出して消費してしまうのだ。すぐに首を思い切り振り回し、現実的な問題を頭から飛ばす。考えてはいけない。そう、生きるためには考えてはいけないんだ。自家撞着に陥っている自分に、もうどうにでもなれと捨て鉢になる。さらに興奮がそれを後押しする。<br>　左右に視線を巡らせて目的に合う物件がないかを探す。<br>　福嶋に、少ない情報をもらっていた。県道をひとつ奥に入った道沿いに、駐車場として使用されている砂利敷きの空き地があり、その隣に煉瓦塀の古ぼけた民家がある。老婆がひとりでそこに住んでいるのだという。どこでそのような情報を仕入れたのだろうかと疑問に思ったが、きっとホームレスとして生きるための情報網のひとつがそう作用したのだろうと考えた。彼にとって、生きるための道具をひとつだけおれに与えてくれたのだと、その老婆に後ろめたさを感じつつも福嶋に感謝した。<br>　はたしてその民家は発見された。あのホームレスの言葉どおり、駐車場の角を右に曲がり車一台がぎりぎり通れるような隘路を進むと、ところどころ苔が生している赤茶けた煉瓦塀が見えてきた。古参の者の邸宅の上から篩を使って綿埃を振り掛けたような、古ぼけてはいるが由緒ある趣を備えた家だった。<br>　石柱の門扉には表札が剥がれた跡が長方形に窪みを浮かべており、手で触れると、細かい砂がざらざらと地面に零れ落ちた。鉄格子のような扉は、押すと、キイキイと寂しい声を上げて鳴き、その格子の向こうには、玄関まで飛び石が敷かれている。庭にはクヌギやケヤキが悠々と葉を茂らせており、門柱には松が枝葉を伸ばしていた。ぼろい家屋とは対照的に庭の木々には手入れが行き届いているようだった。玄関の右手には窓を隔てて縁側が連なっているのが見え、以前は家庭菜園でもあったのだろうか、細いビニルロープで仕切られて背の低い雑草で支配された空間が望める形になっていた。<br>　剥がれた表札の隣に、横に長い長方形の空洞が空いており、郵便受けになっているようだった。おれは左右に目を泳がせ、道端に誰もいないことを確認して、そっと郵便受けを覗いた。暗く小さな空間に、いくつかの茶封筒とうるさい配色をしたチラシが静かに置かれていたが、暗くて宛名は見えない。<br>　郵便物がそれほど溜まっていないということは、今もこの家に誰かが存在し、日常的に郵便受けを確認しているということだ。ひとりの老婆が玄関からこちらに歩いてきて、この郵便受けの裏の取っ手を引き、中を確認しているようすを想像する。気の弱そうな白髪の老女が、手を伸ばして郵便物を取り出している。指に高価そうな指環をはめているといい。安直な古着ではなく、糊の利いた着物姿であればいい。おれとはなるべく違う世界に住んでいてほしい。<br>「あのう」<br>　突然身体の右側に人の声が響き、思わずおれは両肩をびくつかせた。おそるおそる右に振り返ると、間近に老女がひとり立っていた。<br>「私の家に、なにか、ご用ですか」<br>　声は高く、文節をしっかりと区切るようにして訊ねる口調は、丸い顔に浮かべられた薄色の笑顔とあいまって落ち着きに満ちているように感じられた。まるまっこい手を重ねて、首を傾げ、白髪は丸く結わえられており、偶然にもおれが先ほど想像したとおりの面立ちをしていた。<br>「あ、いや、用事、というほどのものでもないんだけど……」<br>　そのときふと頭に浮かんだシナリオは、小さな詐欺の物語だった。<br>「お、おれだよ、おれ。分かる……？」<br>　とっさにおれは作戦を切り替えることになった。これが正しい選択なのか、いや、窃盗を企てているのだから、正しい選択では決してあり得ないのだが、間抜けなおれの脳細胞はこの場をしのぐ手段として、おれおれ詐欺しか思い当たらなかった。面前で行なうのだから間抜けを通り越して自分が痛々しくさえ思えた。電話を通して成立するはずの犯行を目前で演技する愚行。目の前のばあさんは、春風を避けるようにカーディガンにスカーフを重ね、おれの言葉に少しだけ戸惑ったようすだった。<br>　無理もないことだ。拍子抜けしたかのように、あるいは意味が分からないとでも言うように、口を開けてぽかんとしている。突風が吹き、あたりの落ち葉を拾い上げる音がした。秋の凩のように冷たい風は、まるでおれの演技を非難するかのようでもある。走って逃げようかと思ったそのとき、<br>「ああ、あんたもしかして、雅一の息子かい？」<br>　は？　と思った。今度はこちらがきょとんとする番だった。雅一が誰で、その息子が誰なのかまったく知らないが、おれの吐いた言葉に、ばあさんは盛大な勘違いをしてくれたらしい。この機を逃してはいけないと脳がおれに指令を下す。<br>「そ、そう。おれだよ。雅一の息子の……」<br>　と口にしたところで、言い淀む。その息子の名前を知らないことに気づく。<br>「あらまあ。学校は春休みかい？　それとももう卒業したのかね。来るのなら先に電話でもくれたら、お菓子でも用意して待っとったのにねえ。あんたは昔っから気が早いんだからぁ」<br>　おばあさんは堰を切ったように話しはじめた。<br>　いきなりごめん、とおれが呟くように弁解するふりをする。<br>「いきなりでも孫の顔が見られれば、あたしゃ嬉しいよ。そんな寒いところで突っ立ってないで、早く家へお入んなさい」<br>　言葉とは裏腹に、おれの顔にはまったく興味がないかのごとく、いそいそと門扉を抜けて玄関に向かっていく。あわてておれもあとに続いた。喜ぶべきなのか戸惑うべきなのか、家に迎え入れてもらえる展開となった。確かに盗むべき目標物には物理的に近づけるが、目的とのあいだに家屋の居住者という乗り越えがたい壁ができてしまった。やはり一旦退却しようかと家へ上がるのを断ろうとすると、おばあさんが声をかぶせてくる。おれはとうとう逃げるタイミングを失してしまった。<br>　一人で話し続けるばあさんの言葉から、雅一というのはどうやらばあさんの息子で、ばあさんはおれのことをその息子、つまり孫だと思い込んでいるということがわかった。<br>「何年ぶりだろうね。元気にしとったかい。雅一はどうしてる」<br>　玄関にたどりつくまでに、いくつもの質問を浴びせかけられた。おれはお世辞にも上手いとは言えない嘘や生返事で思いつくままに答えていた。赤の他人を騙していえる後ろめたさに気分は重くなるいっぽうだった。庭の木陰に蓑虫がぶら下がっているのが見えて、お前は気楽でいいな、と心のなかで苦笑した。
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11922103418.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Sep 2014 23:41:18 +0900</pubDate>
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<title>約束の指環　１</title>
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<![CDATA[ .＊きのした＊<br>　二日前の四月一日、十八歳になったおれは追い出されるようにして児童養護施設をでた。口より先に手が出てしまうおれは、施設のなかで問題児として扱われていた。シスターですらおれを避けて歩いた。<br>　何の施しも受けずに、金だけ渡されて施設を出た。まるで刑務所から出所するような気分だった。<br>　施設の門を出て右手に路地を少し歩くと、片側二車線の県道にぶつかる。中央分離帯に常緑の低木が四月の春の陽気に照らされ、濡れたような葉を茂らせる。<br>　県道に沿って駅前に足を向けてみる。<br>　街の不動産屋を訪ねてみるが、保証人も職もないおれに貸してもらえる家はなかった。<br>　それから数日はネットカフェや漫画喫茶を転々と泊まり歩きながら、貯金を切り崩していく生活だった。高校を卒業しただけの、保護者も保証人もいない男に提供される職も家も社会には存在しない。しまいには駅前の地下街や店の軒下で寝泊まりすることになった。居場所を求めてさまよっている自分は、周りから見れば立派なホームレスだったろう。<br>　施設を出て一週間ほど経った昼、公園のベンチで目を覚ました。両手を空に伸ばして大きく背伸びをすると、空高い位置にピンで留められたように静止する太陽が眼にまぶしい。通学していたときには日常の外部だった芝生やベンチが新鮮な風景に見えた。脇に荷物を置いて、ベンチに座りなおす。<br>　さて、これからどうしたらいいものか。習慣でシャツの胸ポケットを探ったが、煙草は昨日で吸いきっていた。舌打ちをしてベンチの背に両腕を載せて地面を見つめた。<br>　ふと、視界に人影が射した。見上げると、ボロ布のような服を着たおじさんが右手のひらをひょいと上げて、笑顔を向けていた。<br>　その男は縮れた顎髭にもみあげがつながって、さらにそれに埃がまみれていた。それに鼻が曲がりそうなくらいに腐臭を漂わせており、思わず鼻を手で覆った。ベテランのホームレスのようだが、新規の仲間を見つけたと思ったのだろうか。その容姿の汚さが、脂の乗った四十代にも初老を迎えたおじいさんのようにも見せた。<br>　斜めにずれた眼鏡を右手の人差し指でくいっと直すと、そいつは背後を指さした。指さす先にテントが見える。どうやらそこから来たと言いたいらしい。おれはテントを一瞥し、すぐにぼろ雑巾のようなその男に向き直る。男は、にやっと笑顔を作ってみせた。<br>「兄ちゃん、どっから来たんだい？　名前は？」<br>　何日も声をかけられていなかったため、自分に向けて発せられたしゃがれた声が耳孔に痛い。<br>　少し訝りながらも、木下良一です、とおれは答えた。何日も人と話していなかったためか、声が詰まる。ホームレスの馴れ馴れしい口調が、なぜか嬉しかった。遠巻きに除け者にしない、遠慮のないその声調に安堵した。どういうわけか、初めて見た汚らしい中年男性が、自分から遠い存在のようにも身近な人間のようにも思えた。<br>　おれは児童養護施設から出てきたばかりであると話した。<br>　これからどう生きていいのかわからなかった。<br>　ホームレスの薄汚れた年齢不明の男ですら、生きるすべを知っている。黒く変色した皮膚の男は、おれの話にゆっくりとあいづちを打つ。貯金が尽きそうな状態であることを話した。ホームレスは、お金もないのにどうやって生きているのだろう。<br>「世の中は、どうやって回っていると思う？」<br>　疑問を先取りするかのようにホームレスは言った。上着のポケットから探り、フィルターの色が変色した煙草の吸いさしを取り出す。紙片が破れるような音とともに燐寸に灯が点り、それを煙草の先に持っていく。<br>　分からない、と正直に答えた。ちったあ考えろと諌められたがその顔におれを責める色は微塵も見えなかった。紫煙をくゆらせるその唇の端には笑みが浮かんでおり、焦点を遠くに定めた眼は、懐かしい出来事を思い出しているふうにも見えた。<br>「人間が生きるために必要なことは、兄ちゃん、何だと思う？」<br>　また質問だった。おれに質問を投げかけてくる人は、学校の先生以外いなかった。目の前に立つホームレスがちょっとだけ聖職者のような、高尚な人間に思えてくるが、それと同じ理由でなんだか怪しげな宗教のようにも聞こえる。<br>　つと、ホームレスの男は中腰になり、おれの目を覗き込んだ。おれは思わず身を反らせ顎を引く。<br>　おれは微動だにすることができず、固まった。ホームレスの男の目に、何かを吸収されてしまうかのような畏怖が、背筋を走る。およそ人と目を合わせていられるのは三秒程度が限界だ。しかし、その人生の落伍者であるその男の目は、その何倍もの時間、おれの目を見続けた。そしておれも彼から視線から逃げることができなかった。<br>　しばらくして男は何かを確信したように目を細めて、先の言葉の答えを継いだ。視線はもうおれを捕えてはいなかった。<br> 「人間が生きるのに必要なのは、希望だ。希望ってわかるか？　明日が今日よりも良いものになるんだっていう確信だよ。それがねえと、この世の中、生きていけねえ。生きてるようで、死んでんだ」<br>　煙草をふかして、彼はこっちに向き直る。<br>「いまの兄ちゃんのようにな」<br>　口調はやわらかいが、それとは対照的に眼の奥には強い光が宿っているように見えた。それは生気の失せたおれの内面を打ち抜くのに十分な鋭さだった。太陽を遮るようにおれと対峙する背の曲がった中年男性が、ひと回り大きく見えた。<br>　福嶋と呼べ、と彼は短く自己紹介した。おれは、福嶋さん、と呟くように復唱してみる。本名かどうか知らないが、ホームレスには似合わない響きだな、と考えていることに気づき、自分が意外に冷静なことに驚いた。<br>　公園に住むホームレスに希望はあるんですか、と顔を見上げながら聞いてみる。ぶしつけで馬鹿にしたような物言いになったが、そのときのおれにはそんなことを気にしている余裕もなかった。彼の双眸もまったく揺るがなかった。その質問はいかにも当然だと言うように。<br>　紫煙をゆるゆると吐き出しながら彼は言った。<br>「平坦な道には転がってねえ。危険な道を通るときにこそ見つけられるもんだ。世のサラリーマンを見てみろ。一目みたらきれいな道歩んでて幸せそうだろ。だがな、会社にこき使われ、家じゃ家内の尻に敷かれてるかもしれねえ。金を稼いでも子供の養育費に吸い取られ、週末は家族サービスで手一杯だ。平坦な道に希望が見えねえ恰好の人生だよ。それに比べりゃおれには家がねえが、そのかわりにしがらみも少ねえ。誰も通りたくねえ道を選ぶこともできるってもんだ」<br>　太陽が薄い雲に遮られ、日向と陰の境界が滲むように薄れていく。<br>「しがらみが少ないってことがどういうことかわかるか？　……何でもやれるってことだ」<br>　彼の声は一段と低くなった。<br>「いま、お前が頭に思いついたようなことだって、やっていいんだ」<br>　なにかしら、言葉に形容しがたい不安がおれの胸をかすめた。おれはぎこちなく首を傾げ、視線を下げた。不穏な感情を抱いた頭に、おれは唾を飲んだ。<br>「ただ、ひとつだけルールがある」<br>　その声がまたおれの顔をageさせる。<br>　彼は顔の皺を一段と深くして笑みを作ると、これ以上ないくらい柔らかな声で言った。<br>「人様に大きな迷惑をかけてはいけない、ってことだよ。大きな迷惑をかけちまうと、そのうち手にお縄がかかってしょっ引かれる。まあしょっ引かれた先で飯にありつけるんだから、どっちに転んでも悪くはねえが、それでも迷惑をかけちまう」<br>　大きな迷惑？　おれはその答えに不可解な戸惑いを覚えたが、とりあえず小さく頷いてみせる。<br>「それ、つまり、大きな迷惑をかけないって、どうしたらいいんですか」<br>　突っ立ったままの福嶋は、ゆくりと口の端を持ち上げて口角に皺を寄せると、右手の甲で空中を二回払うジェスチャーをした。<br>　あ、と声をあげて、おれは右に席を空けた。横に福嶋が腰を下ろす。彼は足を組んでたばこを挟んだ右手を背もたれに乗せた。<br>「簡単なこった。金が有り余っているところから、少しだけ拝借すればいいのさ」<br>　悪巧みを思いついた少年のような口ぶりで、彼は流暢に答えた。<br>「金ってのは使うためにあるんだろ？　使わずにめいっぱい溜め込んでるなんて、おかしな話じゃないか。金持ちが使うべきものを使わない。筋の通らねえことをしてっから、おれらみたいなもんが世にあぶれるんだぜ。少しくらいせびったって、問題あるめえよ」<br>　あまりにも自然な口調だったため、それが犯罪であることに気づくまでに少々の時間がかかった。<br>　世の中の金の流れなど考えたこともなかった。福嶋の言うことが一般常識なのかもしれないと誤解しそうになる。いや、そう考えなければ生きていけないと恐怖心が背中を押していたのかもしれない。<br>　やってみるか、と福嶋が訊ねてくる。<br>　そんなこと、と答えたが頭の中では正反対のことを考えていた。口から吐かれる言葉が自分の内側から溢れる邪な主張を押しとどめようとするが、内面の衝動は少しずつその勢いを増していく。腹の中をひっかかれたような、奇妙なわだかまりを抱えさせられた気分だった。<br>　それが犯罪であることはわかっていた。それでも、なにか答えが欲しかった。おれの醜い頭が出した答えはこうだった。つまり、将来の生活を手に入れるために、常人が避ける方法を、誰にも見とがめられることなく実行する勇気と行動力を持つということだ。<br>「命より大切なもんがあんのか。大きな迷惑だけかけなければいい」<br>　職場の新人に教え諭すように、ぽんぽんとおれの肩をたたいた。<br>　そうだよな、とおれはむりやり得心する。<br>　その考えがおれの今後を大きく左右するとは、そのときは思いもしなかった。<br>　小さな法律を犯すことに対して、罪の意識は小さかった。そんなことは施設にいるうちに慣れてしまっていた。スリルある犯行の成功に喜んだこともあるし、被害に遭って悔しい気持ちを味わったこともある。万引きは何度も経験があるし、逆にカツアゲに遭ったこともある。大きな書店で一冊の本を盗むことや、一本のボールペンをくすねることが、店を潰すことに繋がるとは思わなかったし、金を巻き上げられたときは、自分が弱いことを反省した。<br>　少々の罪は、恵まれない自分のために許されるべきで、それが世の中の大きな歯車を狂わせることはなく、つまりは罰される対象であるべきではない。おれはホームレスの男の言葉に免罪符を得た気がした。<br>　おれは右に座るその男に訊いてみた。<br>「福嶋さんに、希望はあるんですか？　その、言いにくいですが、こんなところに住んでて……」<br>　すると彼は、はっ、と勢いよく息を吐き、背もたれに寄りかかって空を見上げた。おれもつられて空中に視線を泳がせる。雀のつがいが木々の間をすり抜けるように飛び回り、小枝にそっと着地して、身繕いをしはじめた。<br>「こんなおれにもな、息子がいるんだ。そいつがどこかできっと生きている。それがおれの希望だよ。それにここは芝生も水もあって、けっこう住みやすいんだぜ」<br>　どうして息子と一緒に住んでいないのか、と訊こうかと思ったが、自分が棄てられた理由にたどりつくような気がして、怖くて訊けなかった。<br>「……おれも母ちゃんに棄てられたんだよ。でもな、全然恨んでなんかいねえ。きっと、何か、どうしようもない理由があったんだろ。おれもそうだった。母ちゃんが生きているだけでもよしとしないとな」<br>　自分に言い聞かせるように言って、彼は腰を曲げて地面に吸いさしの先をこすりつけ、手を払った。<br>「ああそういえば、兄ちゃん、ロックは好きか？」<br>「音楽の、ですか？」<br>「他になにがあんだよ」<br>　すいません、とあやまる。<br>「あのバンド知ってるか？　ロックバンドだ。『おれの声は届いてるか！』って右拳を振り上げるあいつら――名前は忘れちまったけど、最近よくテレビに出てるだろ」<br>　ああ、とおれはすぐに思い至った。横文字のバンド名で、それをなんて読んだらいいか分からなかったことが逆に印象を残していた。ボーカルの男性が行なう、右拳を振り上げて聴衆を煽るパフォーマンスは施設でも流行っていた。<br>「知ってますよ。好きなんですか？」<br>　施設にいたころ、下級生らが熱狂的に応援していたことを思いだす。おれが施設を出る直前くらいから売れ出したロックバンドだった。激しい音楽と緩やかなバラードを上手く歌い分けて、おれも嫌いじゃなかった。<br> 「おれ、あいつらを応援してんだよ。兄ちゃんも、よかったら聞いてやってくれよ」<br>　このホームレスには音楽を楽しむ余裕があるんだな、と不思議な安堵が押し寄せて、はあ、と息を抜くようにおれは返事した。そのままホームレスは二言三言、おれに励ましとも労いともとれる言葉を投げかけてテントへと戻っていった。<br>　途中、一度だけこちらを振り返ると、こう言った。<br>「大丈夫だ、お前ならきっと上手くやれる。お前は絶対、悪い人間にはなれない」<br>　ホームレスの顔は逆光に黒く染まり、表情は見えない。その声が微妙に真剣みを帯びていたことがひっかかった。そのときのおれがその意味に気づくことはもちろんできなかったが、ただその矛盾する台詞をおれは頭の中で何度も反芻していた。薄黒い背中はそのまま、青いテントへと戻っていった。<br>　そのホームレスの哲学じみた話に少々気が高揚していたこともあったのだろう。生きるためにはなりふりかまっていられない人種もいるのだ。そしておれは、それに含まれる側の人間なのだ。そう思った。<br>
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11922087229.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Sep 2014 23:12:36 +0900</pubDate>
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<title>やる気の問題</title>
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<![CDATA[ やる気がでない、といって物事に取り組めない人は、やる気が全くない状態でも大抵のことはやれることに気づくだろうか。やろうやろうと思うと、さらにやる気が失せるので、なにも考えないことだ。<br>やる気を出すスイッチと、やりきったという達成感は、脳の近い部分にあるらしい。したがって、やる気が出ると、近々達成感を得てしまうから、持続しないことになる。やる気は持続しないということが、科学的に説明可能である。ウインドウショッピングも似たような現象なのだろう。買いたい物を目の前にして、手に入れた気分に浸ることで、満足感を得る。<br>やるべき事があるのなら、四の五の考えずに、とりあえず、やればよい。そうしたら、できることはやるだろうし、できないことはできないと分かる。<br>頭の中で、余計なことを考えないでいると、集中できる。人間の思考は、心理学的には、アナログな象限と、バーバル（言語的・シンボリック）な象限と、視空間の象限でできているという仮説がある。事物を大小でイメージしたり、言語に置き換えたり、頭のなかで映像化したりして、考えているという説だ。たとえば、映画を見ているときは、頭のなかで、わあすごい、などと声を出している人は少ないだろう。映像が視覚的に飛び込んでくるから、視空間的な思考もいらない。映像から受け取る感情や衝撃を、アナログ的に捉えている。アナログ的、とは感情的、と置き換えられるものかもしれない。バーバルな思考は、文字どおり、言葉で考えること。考えを活字に変換する作業である執筆活動はまさにバーバルな思考であるといえる。小説を読みながら、映像に展開している人は、頭の中に空間を作り出している。各象限は、人間のワーキングメモリを共有しているらしく、それらを複数使う作業を行なわせると、それぞれの性能が落ちることが分かっている。もちろん、個体差はあるだろう。<br>やる気を出すという行為は、感情的な回路を使用している。「やるぞ！」と声にだせば、それは言語的な回路も使っていることになる。そして、基本的に、人間がやる気を出して行なわなければならない作業は、極めて論理的なことが多く、それはバーバルな回路と視空間の回路を使うことが多い。そこに、やる気スイッチを同時に発動させれば、効率は当然落ちる。そして、そのあとに襲ってくる達成感が追い打ちするのである。<br>やる気は出さないほうがいい。<br>ただし、好奇心は別。
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11918930828.html</link>
<pubDate>Tue, 02 Sep 2014 16:02:46 +0900</pubDate>
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<title>「迷い猫」までのこと</title>
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<![CDATA[ この小説は、数年前に、僕が好きな小説家に近づこうとして、登場人物の設定や口調、性格を真似て書いた作品です。短編小説を書き始めて、「３作目」のものです。<br>大きなトリックもなく、淡々と物語を進めました。話としては単純で、種明かしもまったくインパクトがないのですが、僕はとても好きな小説です。安心して読める小説。結果的にはそれが主題になったように思います。<br><br>一作目の作品は、現実とファンタジーが融合した物語だったのですが、今にも増して未熟だった私の筆力と物語力で、幼稚な作品になってしまいました。改稿してから、このサイトでも発表しようと思います。<br><br>二作目は、少し長めの短編小説で、これはなるべく現実味を出して書きました。この作品も、大好きです。といっても、やはり今見直せば、稚拙さに溢れた文章で、到底読者の目に耐えられる代物ではありません。これもだいぶ書き直してから、ここで発表したいと思います。<br><br>そして、「迷い猫」は、「ちょっとつまづいた日常」を書いたものです。<br><br>この「迷い猫」も、近いうちに公開したことを後悔する日が訪れるのでしょう。そうなったら、こっそり更改して狡獪に再公開しよう。<br><br><br><br>　執筆のご依頼は、こちらまで<u>iharaao@gmail.com</u>
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11917418986.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Aug 2014 16:02:02 +0900</pubDate>
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<title>迷い猫　５（終章）</title>
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<![CDATA[ .　　　５<br><br>　香奈の猫が見つかってから三日。<br>「あ、里親が見つかったらしいですよ！」<br>　桜の声に、真山がリビングに出てきた。<br>「ほら、香奈ちゃんからメール」<br>「ほんとだ、見つかっちゃったのかー」<br>　幾分残念な響きを含んでいるのは、真山がいちばん猫といる時間が長かったからだろう。<br>　真山はあの迷い猫事件のあと、雪山に行くことをやめて、当分のあいだ猫のめんどうを見てくれることになったのだ。<br>　いや、うちの事務所に居候することになったと言ったほうが正しかったのかもしれない。何しろ、炊事洗濯家事掃除、それらの役割分担は彼がここに住まうようになってからも一切変わらず、桜の役目だったのだから。作家というものは、本当にこんなに時間の融通がきくものなのだろうか。それとも、真山が単純に仕事がないだけなのだろうか。<br><br>　あの日、二人目の客人を応接室に通したとき、三人は驚いていた。三人とはもちろん、嘉神を抜いた桜と真山と、そして香奈のことだ。<br>　――お母さん！――<br>　香奈の第一声に、桜は耳を疑った。<br>　――どうして、ここに？――<br>　――香奈も、どうして……――<br>　とまどう二人を、まあまあ、と嘉神は取りなして香奈の隣に座らせた。<br>　――実は、香奈ちゃんのお母さんからも、一つ依頼を受けたんだよ――<br>　まったく話が見えないという色を浮かべて、母娘は顔を見合わせた。<br>　――香奈ちゃんのお母さんから受けた依頼というのは……――<br>　こちらへ、と言って嘉神は香奈たちを書斎へ呼び入れた。<br>　彼はパソコンの前に座り、マウスをかちかち鳴らせて自分の事務所のホームページを開いてみせた。画面の上三分の一くらいに『嘉神研一総合解決事務所』とある。そして、その下――。<br>　――これが、お母さんから受けた依頼だよ――<br>　あのときの香奈の目を、桜は忘れられない。<br>　彼のホームページのど真ん中に、『里親募集』という記事が貼られていた。<br>　――僕のホームページに来てくれるひとはけっこう多いからね。ここでこうして募集をかければ、里親もきっと早く見つかるんじゃないかと思ってね――<br>　つまり、母親からは、猫のもらい手を探すことを依頼されたというのだった。<br>　――でも、いつお母さんと？――<br>　――あの日だよ。僕が、猫を探してきた、あの日――<br>　あの日、嘉神はじっと本殿の裏にいた。猫のねぐらから十メートルほど離れた、本殿の角のあたりで、じっと猫が帰ってくるのを待っていた。すると、そこに一人の女性がやってきた。面立ちがなんとなく香奈に似ていると思った嘉神が訊ねてみると、やはり香奈の母親だった。<br>　母親は、猫を捨ててくるように香奈に言った日、仔猫を抱いた香奈のあとをこっそり尾けたらしい。香奈に捨ててくるように言ったものの、いても立ってもいられなくなったのだそうだ。捨てられた猫がどうなるか、母親は以前に香奈に話したことがあった。香奈にその残酷な選択をさせなければならないことが、母親からしてみれば歯がゆくてしかたなかった。それを聞いた嘉神が提案したのだ。里親を探してみてはどうか、と。<br>　母親は次の日から近所の人たちに、猫を飼えないかと聞いて回った。そして嘉神はホームページで呼びかけることを約束したのだった。<br>「あ、里親さんの家、軽井沢にあるんだって。明日お母さんといっしょに、そのかたのところに連れて行くそうよ」<br>「せっかくここに慣れてきたところだったのにねー、仔猫ちゅわん」<br>　真山はそう言いながら仔猫に頬ずりしている。真山は誰の目もに余るほどの世話焼きで、かえって仔猫も迷惑がっているようだったからちょうどいい頃合いなのかもしれない、と桜は苦笑いした。<br>「これで、この猫ちゃんともお別れなのか、寂しくなるなあ」<br>　それだけは、桜も真山に共感した。<br>　真山は頬ずりをやめて今度は仔猫を抱き上げた。<br>「それにしても、嘉神、お前よく一日で猫を発見できたね。何かコツでもあるの？」<br>　嘉神は書斎で書類に目を通していた。<br>「別に？　ずっとあそこで待ってただけだよ」<br>「それだけ？」<br>　身体をこちらに向けて、嘉神が言った。<br>「まあ、一日で見つかったのは、運がよかったのもあるんだがな。猫の習性を利用したんだよ」<br>「というと？」<br>　真山は腕から逃げ出そうとする猫を抱き直しながら訊いた。<br>「猫には縄張り意識があるのを知ってるかい？　猫は、動き回る範囲を縄張り内に限定しているんだ。たとえば室内で飼われている猫は、家の中を自分の縄張りとして、決してその外側には出なくなる。今回の件ではそれを逆手にとって、突然知らない環境に置かれた仔猫の行動を推測してみた。仔猫はまだ縄張り意識が小さいから、置かれた環境を中心に自分の縄張りを作る可能性が高いだろう。そもそも猫は臆病で怖がりだから、もといた場所の周辺をうろうろして縄張りを作る。つまり、」<br>　ここで嘉神は人差し指をぴんと立てた。<br>「あの場所に戻ってくる可能性がもっとも高かったってことさ」<br>「でも、香奈ちゃんがご飯を届けに行ったときは三日連続でいなかったんだよ？」<br>「それは猫が夜行性だからさ。きっと、ねぐらから離れて狩りの練習でもしてたんじゃないのかい」<br>　真山の質問を軽々とくぐり抜けて、嘉神は書斎の机に向き直った。<br>　へえー、と真山が感心するようにうなり、なにかを思いついたような顔をした。もしかしたら本気でこの事件を小説のネタにすることにしたのかもしれない。<br>　真山の腕から逃れた猫が、桜を見上げてにゃーおと鳴いた。<br>
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<link>https://ameblo.jp/iharaao/entry-11917405523.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Aug 2014 15:59:49 +0900</pubDate>
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