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<title>ちょっと考えるヒント</title>
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<title>普段よく考えているのだろうか？</title>
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<![CDATA[ <p>　ぼんやり道を歩いていてもいつの間にか家に帰りつくことができるように、日常の動作の多くは特段考える必要がない。歳をとるにつれそういう部分がさらに広がるようにも思う。<br><br>　本を読んでいても、作者の話の筋をたどり、それが自分の考えと大差ないときはそのまますいすい読み進む。つまり何も考えていない。そして自分と意見が異なる場合は、「考えさせられる」。そしてしばしばいらいらする。そのときのことを反省してみると、考えることには大変な労力が伴い、それが苦しくていらいらするのではないだろうか。<br><br>　人と話すときも同様に、定型の会話のパターンにのっとっているときや、同じ考えを共有して盛り上がるときというのはたいして考える必要はない。意見が対立するときだけは考えざるを得ないが、それでも必ずしもよく考えているとは限らない。<br><br>　つまり一定の論点に対する賛成・反対のパターンが私達の中にはたくさん積み重なっており、それを時と場合に応じて引き出すだけである程度の会話は成り立つ。それ以外の新たな意見を出すというのはかなりの創造力が必要となるのではないだろうか。<br><br>　たとえば酒場談義での政治批判。政治家が悪い、官僚がなっていないと、大雑把に言うとそれだけで会話は成り立つ。しかしさらに一歩踏み込んで自分ならこうするという提案、そしてさらにそれが本当に実現可能なことなのかあらゆる角度からよくよく考えてみる、ということにはなかなかならない。<br><br>　子供から大人になる課程で、その社会における習慣、学校に入ればそこでのルール、会社に入ればそこでの仕事のやり方に伴う一定の常識、こうした諸々のことを学んでいくことで、自分で考えるという労をさかなくとも、省エネでさまざまなことに対処できるようになる。<br><br>　そのため海外旅行したり、違う分野で活躍する人と接すると、普段の自分の考え方との落差に驚かされる経験をする。<br><br>　もちろんこうした諸々のことを身につけるのは必要なことではあるが、そればかりでは自分で考える力が歳とともに衰えてしまうのは必然であろう。<br><br>　今やインターネットの発達で生活の周辺には情報があふれかえっている。そして偽情報の脅威も日日大きくなっている。極端な例として、いわゆる陰謀論を信じる人たちと話すと、なぜ新聞などの一般的な報道は信じられなくて、陰謀論なら信じられるのか。さらにある特定の陰謀なら信じられて、他の陰謀は信じられないのか、いまひとつ説得的な回答をえられることがない。自分なりの考えを深めた結果、そういうものを信じているなら別にそれはそれでかまわないのだが、どうも思考の筋道のどこかに（しばしば本人も自覚していない）飛躍があるように感じる。<br><br>　こうしたことに限らずもっと身近な情報についても、よく考えて取捨選択しなければならない世の中となってきているが、そもそも考えるという力が衰えていてはなかなか難しいことである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ikkokan/entry-12837171223.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Jan 2024 11:30:22 +0900</pubDate>
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<title>「美」とは？</title>
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<![CDATA[ <p>　美とは何だろうか？<br><br>　話がとぶようだが、仏教でいうところのいわゆる「悟り」という、何か我々には想像もつかない理想的な状態のようなものがあるとすれば、そのときに感じる何か全体が一つになったような表現しようのない感覚がきっとあるように思う。キリスト教でいえば「エデンの園」にいたときの幸福な感覚とでもいうべきもの。<br>　その言い表すことができない感覚を、とりあえず「美」と名付け、その究極の形と定義した場合、何が言えるだろうか。<br><br>　我々は日常生活の中でいろんなものに「美」を感じている。それはもしかするとこの原初の状態をちらっと垣間見ているだけなのかもしれない。<br>　このちょっとした感じを「入り口」として、この感覚を深めていくことができれば、この理想的な世界に少しでも近づくことができるのではないだろうか。<br>　<br>　たとえばかつての画家達が自然の中に見いだそうとしていたもの、それはふっとした瞬間に感じたこの感覚を、この壊れやすいものをなんとかとりだそうとした努力の軌跡なのではないか。<br>　<br>　重い病気を抱えた人でも、病室に飾られた花に美を感じているうちは生命力がまだあるという話をきいたことがある。もしそうだとすれば、この美の世界と、生命の根源とも深い関係、というか同じひとつのものなのかもしれない。<br><br>　これに関連して誰もが強く経験をするのが、「恋愛」の感覚ではないだろうか。<br>　相手に強く惹きつけられる、とてつもなく強烈な力がある。でもあえて通俗的な冷めた立場をとれば、相手に自分の理想像を投影しているだけで、ある日それが剥がれてしまうだろう、というような皮肉な見方もあるかもしれない。確かに部分的にはそうした面もあるけれども、しかしそれがすべてではないと思う。根本にあるのはやはりこの「美」。その人その人なりの「美」の感覚。「エデンの園」のような究極の世界からの呼びかけ。それがない限り恋愛はありえない。<br><br>　まるで科学の実験のように、人や物を冷めた目で即物的にみるのではなく、むしろ反対側から、つまり「美」という本来の姿が目の前に、すべての人や物の上にあるのに、通常はその肝心な部分を見失っているだけであり、普段の唯物論的なものの見方の方がいわば不正常なのだと思うべきではないだろうか。<br><br>　いかに仲の良い恋人や夫婦でも時にけんかしてしまう。しかし、それは普通だと思い込んでいる普段の意識の状態と理想の状態との間に横たわる「自我」、唯識論でいうマナ識が「怒り」といったエゴに基づく感情によって真実の目を曇らせてしまっているのではないか。そのことに気づいて、もういちど「美」をみつめることをちょっと心がけるだけでも、気持ちがおさまり、世の中は平和になるかもしれない。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ikkokan/entry-12811748660.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Jul 2023 10:35:50 +0900</pubDate>
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<title>感受性</title>
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<![CDATA[ <p>　ある日自然の風景に感動した、と想像してみてほしい。考えてみれば、その風景そのもの中に「感動」があるわけではない。風景をみた人の心の側に感動が生まれている。つまり「感動」とは心の中にある何らかの働きである。<br>　だから同じ風景をみても、感じ方は人それぞれ。大いに感動する人もいれば、何も感じない人もいるだろう。またその時の気分にもよるかもしれない。<br>　例えば「風景画」は画家が感じたその画家自身の心の働きを、身に着けた技巧をこらして絵の形にしたものだろう。いや「風景画」のみならず、名作とよばれるようなあらゆる種類の絵はそうしたものではないだろうか。もっとも装飾的な目的で描かれたもの等、例外もあるかもしれないが、まあこう言ってもそう的外れではあるまい。<br><br>　では「写真」はどうなのだろうか?これは自然の風景そのものではないのか?といわれるかもしれないが、それはいわゆる構図、つまり空間の切り取り方、光の具合などをはじめとする時間の切り取り方に特化したある種の技術が介入しており、そこにその写真家の心の動きを表現する術があるのだうろ。<br>　<br>　絵の話に戻ると、私たちは美術館を訪問した際には、こうした心の働きを感じ取ることが大切だと思う。しかし、だれしも経験することだが、専門家が絶賛するような絵をみても、見慣れたものでなければ何も感じないということもある。さらに、今は名作といわれているものが、当時の「専門家」たちが酷評したといわれるものもある。<br>　<br>　こうした心の働きを読み取る力=感受性を高めるにはある種の訓練が必要なのだろう。何か説明をきいて頭で理解して身につくようなものではなく、例えば数限りない実物の名作をみて自然につけるといった種類のもの。しかもそれはどこかで完成するというような能力ではなく、常に錬磨していくべきものなのではないだろうか。そのため、時代を先取りするような新たな絵が生まれた際には、それ相応の新たな、より深い感受性が必要とされるのだと思う。<br><br>　これは絵に限ったものではもちろんない。彫刻のような他の美術はもちろんのこと、音楽や演劇といったあらゆるジャンルの芸術、さらに料理やワインといった生活全般にまで当てはまることだろう。<br>　<br>　ちょっと脱線するが、歩容認証というものがある。人の歩く姿を動画で撮影して、AIで解析すると、データの中からその個人を特定できるという技術である。歩き方といっても非常に複雑な要素から構成されており、どうやって個人を認識するのか、言葉で説明するのは難しいだろう。でもビッグデータを使い、ある種の統計のような処理をコンピューターで行えばできる。これも論理だけでは説明できない感受性の一例といえるかもしれない。<br><br>　話を元に戻すと、こうした各分野に対する感受性は一様ではない。ジャンルによって重なりあう部分もあれば、異なる部分もある。それらを総合的に不断に磨き続けると人生が深まっていくように思う。<br><br>　私がもっとも大事だと思うのは、人と人との基本的なコミュニケーションの場面である。向かい合って会話するというもっとも単純な場面を想定しても、人はそのときに非常に多くのことを相手から感じ取るのだと思う。本屋に行けば、仕種や話し方などから相手の気持ちを読み解くノウハウ本があふれているが、それはそれでいいのだが、それだけでは説明しきれない、もっと微妙でもっと深く広い何かをお互いに感じ取っていると思う。その感受性にももちろん個人差はあるだろうが、これも素質と経験によって培われることは変わらない。<br><br>　そしてこうした相手の心を感じ取るための感受性を高める努力を払うことも重要だが、逆に自分の心を振り返ってみて、その心の中に秘めているはずのものが、否が応でも相手には多かれ少なかれ何らかの形で伝わってしまうのだという事実に注目しておきたい。<br>　<br>　そのため人に感じ取られても恥じることのないように、古来より自分の心を磨く道が、洋の東西を問わず説かれてきたのであり、その重要性が失われることはこれからもないだろう。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ikkokan/entry-12695167978.html</link>
<pubDate>Mon, 30 Aug 2021 23:05:41 +0900</pubDate>
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