<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>シャープ２１のブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/ikuyisotu/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>　さじを投げられたその後　１</title>
<description>
<![CDATA[ <p><br>　　2015年6月19日　A癌研で右肺ガンの再発が確認された。<br></p><p>　　　　6月23日、R病院に受診した。結果、緩和ケアを受け入れられた。そして、「９月１５日にCTを撮って、今までのCTと比較してみましょう。また、その間に、体調不良が現れたときは、いつでも受診してください。」と言われた。</p><p><br>　この時点で、A癌研には受診しないことにした。<br>　前回のブログで記したように、「細胞の活性化と多種類のサプリメント」を服用することにした。そこで、その後の経過と、症状の変化を記録する。<br></p><p>　6月13日から、ネットで注文したサプリの届き次第服用し始めた。<br>　量が多いためか、頭がポーッとする。また、腹が張ってやや苦しい。<br>尾籠の話で申し訳ありませんが、大便はタール便で真っ黒である。</p><br><p>　漢方薬局の止血剤にて、<br>　6月23日には、空ぜきが少なくなり出血も止まったようだ。ただ、たんは黄色で、炎症傾向は継続している訳だ。<br></p><p>　しかし、この漢方薬は高価なので、<br>　６月24日から他のメーカーの止血剤に代えた。すると2～3日で再び軽度ではああるが、出血をし始めた。<br>　両メーカーのとも10日分づつである。</p><br><p>　6月27日、止血剤を元のメーカーに注文をした。送料込み４箱セット40日分のお徳用で、約１万円もする。しかし、出血の刺激がガン細胞の縮小を遅らせるのではないかと考えるので、辛抱することにした。<br>　夕方空ぜきがひどかった。</p><br><p>　6月30日、かなり多量の出血をした。</p><br><p>　７月３日、体重55．8㎏。<br>夕方、最初に注文した漢方薬局より、止血剤が送着した。食間に服用するものなので、７月４日の午前中より服用を再開する。</p><br><p>　７月4日、たんにかなりの血が混じっている。<br>サプリを始めた頃、クエン酸の粉末も水に溶かして飲んでいたが、ある文献でクエン酸は体に悪いという記事をみた。その頃、サプリを飲んだ後、すごく腹が張っていたので、本日より中止した。</p><br><p>　7月６日U病院に、主に糖尿病に関しての受診をした。当病院処方の止血剤は効果がないので中止となる。しかし、残っている限りを飲んでから、中止する予定だ。<br>　本日もせきが多く出る。</p><br><p>　７月７日の朝、片足づつ交互に、両脚のふくらはぎがかなり強くつれた。</p><br><p>　7月10日、体重55．4㎏<br>　U病院処方の止血剤、トランサミンとアドナが終了した。</p><br><p>　7月11日、pm3時半頃、たんにかなり多く出て、そのたび血が混じっていた。</p><br><p>　7月12日、食べ物をのみ込むとき、喉が詰まるような感じがして、のみ込みにくくなった。ガン細胞が成長して食道を圧迫しているのか？　食道は柔軟性があるので、なんとかのみ込むことはできるが・・・。</p><p>　小林製薬のシイタケ菌糸体である、シイタゲンαを注文した。<br>高価なので、現在まで服用しているサプリは、原則として、終了するまでとする。<br>しかし、水溶性アガリクス・プロポリス・フコイダンは継続したい。春うこんと青汁若葉は通常量にする。漢方の止血剤は継続する。<br>　シイタケ菌糸体は、βグルカンを初め、αグルカン・アラビノキシランを有する。<br>シイタゲン-αは、これに、ビタミンDとグルタミンを配合したものである。現在のところガンには最も効くらしい。だが、ガンの中でも肺ガンは治りにくいらしい。</p><br><p>　7月14日、夕方、シイタゲン-αが到着した。<br>夕食後より、毎食後に服用することにする。</p><br><p>　7月15日、シイタゲン-αを4箱（33.273円）を注文した。3万円を超えるとやや割安になるから、4箱で3カ月に1回休むことにする。。<br>　食べ物をのみ込むとき、喉が詰まるような感じは、少し良いようだ。　　</p><br><p>　7月17日、体重55．8㎏<br>　なんだか息苦しい感じがする。</p><br><p>　7月18日、午後3時過ぎ、かなり多量の出血をした。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12051705286.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Jul 2015 03:28:52 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>どうにもならない離婚調停</title>
<description>
<![CDATA[ <p><br>　お袋は、昭和38年(1963年)の12月、突然、おやじから、一方的に家を追い出された。離婚届も出さなかったようだ。後釜には他の女が入っている。<br>　当初は精神的・肉体的に余裕がなかったが、その半年くらい後から、離婚について動き始めた。<br>　離婚をすることは反対ではないが、籍が抜いてないこと。子供の親権に関してと、少しでも慰謝料が欲しかったことが課題だ。<br>　東京から浜松の家裁に行って調停をしなければならない。<br>おやじは出廷しなかったが、籍は抜いてあったようだ。その他に関しては話が何も進まなかった。<br>　その後、2回程、裁判所より呼び出しがあったが、おやじはいずれも出廷しなかったそうだ。<br>　「どうやら、借金をしてあるらしいですよ」、「次の手段は、弁護士を立てて離婚裁判ですね。」と調停員から言われたらしい。<br>借金とはでっち上げだろう。<br>　お袋は、「弁護士の費用はないし、会社を休むと給料が減る。往復の汽車賃も大変だから、もう取りやめることにする。」言った。<br>　その頃、私は無知であり、「そんなものかなぁ・・・。」と思っていた。<br>しかし、今考えれば、こんな状況下なら、離婚問題を専門に扱う代理人に依頼して継続していたなら、その女性からも、おやじからも、数百万円というかなりの額の養育費や慰謝料を取れたと思われる。<br>　弟の親権に関してもお袋になり、良きも悪しきも、私たちの環境はいっぺんしていただろう。</p><p>　調停員も、一言アドバイスをしてくれてもよかったのではないかと、怒り心頭に発する。<br>　結局、お袋の性の変更のみで、その他は、すべて泣き寝入りであった。<br>　お袋は、その後、居場所の判明を懸念して、会社では仮名をお願いして働いていたようだ。　<br>　ものを知らないと言うことは、大損をする。<br>　私に、少しでも知識があったならと、悔やまれる。</p><p>　この7～8年前、おやじが死んだとき、「遺産分割をする」と弟から連絡があった。あまりにも情けがなくて、辞退した。<br>　そんな、おやじの遺産なんかいらない・・・！</p><p><br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12050201501.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Jul 2015 03:07:13 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>症状もいろいろ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　2015年6月19日に、Aガン研病院で、右肺ガンの再発に関して、私自身の体調不良のため、さじを投げられたが、各種サプリメントで挑戦しようとしている。</p><br><p>　ここで、現在の私の病気と体の状態や症状をまとめてみることにする。</p><br><p>　１，骨粗しょう症のため、胸腰椎で計5カ所の圧迫骨折がある。<br>①、そのため身長は、162㎝から154.5㎝と7.5㎝縮んだ。<br>②、背中の痛みはほとんど無くなったが、腰は同じ姿勢を30分位続けると痛み始める。体の後ろで背骨の長さが縮んだため、内臓が前や横に押されて、ウエストが64㎝から90センチ以上になった。<br>③、時々だが、主に寝ているときに、ふくらはぎや土踏まずの筋肉がつれて痛むことがある。<br>④、特に下肢には、けん怠感がある。<br>⑤、お陰様で脚の筋肉にまひはないが、足底がややしびれている。</p><br><p>　２，強度の肺気腫のため、<br>①，呼吸は、体を少し動かすと苦しくなってくる。血液内酸素濃度はおおよそ96～97％（正常値は97～９８％）だが、それ以下の時もある。<br>②、歩行は短距離のみであるが、階段も2階までは昇降が可能である。<br>③、入浴後や、飼いネコのトイレを掃除した後に、息切れがする。</p><br><p>　３，喉頭ガン<br>　平成20年（2008年）11月にR病院で、喉頭ガンと診断された。<br>①、呼吸がし難いため、のど仏のあった所に穴が開けられた。呼吸はこの穴で行い、せきやたんもここから出る。<br>②、手術を目的に各種の検査を行った。<br>③、平成21年1月Aガン研病院で摘出手術が行われた。<br>④、この時、甲状腺と声帯も切除されたため、声は出せない。そのため、電気人工喉頭という機械で話をしている。コンタクトは、９５％程度は可能である。<br>⑤、甲状腺の機能低下を招かないように、その薬を一生飲み続けなければならない。<br>　この手術で、次の後遺症が現れている。<br>①，首の付け根に締め付けられるような苦しさがある。<br>②，首から腕の付け根にかけて、しびれと圧迫するような痛みがある。<br>③，左右すべての指は、特に第２関節が十分曲がらずやや痛く、力が入られない。ペットボトルのふたを開けることが困難である。<br>④、みそ汁を飲むときなどに、手指が震える。</p><br><p>　４，可成り以前より、食道と胃の境目に胃からのヘルニアがある。<br>胃酸が逆流したり、食べた物が逆流することがある。</p><p>　</p><p>５，右肺ガン<br>　201４年6月に、血たんが出たので、Aガン研病院に受診の結果、右肺ガンと診断された。<br>　３，の喉頭ガンもこの肺ガンも、ガンの種類は扁平（へんぺい）上皮ガンだそうだ。<br>　私は強度肺気腫があり、体力が劣っているため、手術や化学療法は不可能であり、リニアックという放射線照射療法が選択された。15日間通院し、2014年8月4日に終了した。それによって、ガン細胞は縮小した。<br>　この機械的刺激により、肺炎を起こしやすいという。かぜを引かないように注意している。　<br>　ホッとしたのもつかの間、、今回(2015年6月）再発が発見された。もう打つ手はないらしい。<br>　つらい症状は少なく、強いて言えば、<br>①、喉がいがらっぽくて、空ぜきが出る。<br>②、たんに血液が混じっている。ことである。</p><p>　</p><p>６，糖尿病<br>　ヘモグロビンA1cという数値の正常範囲は、4．6～6．2のところ、7．0程度と高く、薬の投与を受け、インスリンの自己注射を行っている。<br>　これもつらいい症状はなく、傷ができると治りにくいという。盛んとかみつかれたり、引っかいたりする子ネコを飼っている。そんな時は、即座にアルコール消毒をするようにしている。</p><br><p>　７，睡眠は、導入剤のおかげもあって良好、目覚めも良い。ただ、夜中のトイレは2回行く。</p><p>　</p><p>　こんな体調である。<br>　このような、症状のいくつかが、前回に記したサプリメントを飲用することにより、少しでも改善すること、何よりも右肺ガンの縮小化、できれば消滅を願う次第である。<br>　プロレスラーのアニマル浜口選手ではないが、「気合いだ！気合いだ！！」である。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12049426183.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Jul 2015 05:15:46 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>細胞の活性化と多種類のサプリメント　２</title>
<description>
<![CDATA[ <br><p>　前回、「細胞の活性化と多種類のサプリメント　１」を記したがその続きである。</p><br><p>　８，アセロラ（ＶＣ）<br>　９，アセロラ（ＶＣ、Ｆｅ）<br>　アセロラは、西インドチェリーとも呼ばれ、南国のフルーツである。<br>サクランボと似ているが、サクランボは、バラ科の植物で、アセロラは、キントラノオ科（金虎の尾科）の植物なので、全く別物の果実だ。果物はほとんど売っていない。<br>　レモンの２８倍のビタミンCを含んでいる。<br>　アセロラ自体には味がほとんどない。</p><br><p>　10、クロレラロイヤルＤＸ<br>　クロレラには、タンパク質、ビタミンB1･2･6･12、ナイアシン、鉄、葉緑素などを含む藻類（そうるい）である。</p><br><p>　11、春うこん　通常9～15粒のところ、朝・昼・夕・寝る前の１日４回、各20粒を飲む。<br>　余談になるが、春うこんは30数年程前に、お袋が、60数歳の頃「不正出血をしているので病院へ行く」と言ったとき飲ませた。ガンに効くと聞いていたからである。<br>それは、間もなく治ったらしく、その後も20年ほど飲み続けていた。<br>　私もその頃から飲用していたが、肺ガンになってから上記のように通常の約5倍を飲んでいる。私のガンは治らなかったが、続けているのには、後二つの理由がある。<br>　まず、盛んにかみついたり、ひっかいたりする猫を飼っている。私は、糖尿病があるため、傷を悪化させたくないからだ。<br>　今一つの理由は、昨年の8月に終了したリニアック照射の後、肺炎になりやすいからだ。春うこんは、かぜも引きにくくなるのである。</p><br><p>　12、漢方の止血剤</p><p>U病院で処方されている、止血剤の効き目がないためだ。</p><br><p>　13、葛根湯</p><p>特に眠ろうとするとき、のどがいがらっぽい、これを服用すると眠りが深くなる。</p><br><p>　そして、２種類の粉末を水に溶かして、上記の錠剤やカプセルを飲むことにした。それは、</p><br><p>　14、ビタミンC粉末と、<br>　15、青汁若葉である。（これは、以前より通常の2倍飲用していた。）<br>当初、クエン酸粉末も候補に挙げた。しかし、最近、クエン酸は体にわるいという人もいるようなので取り下げた。</p><br><p>　16、イソジン　</p><p>寝る前にうがいをする。</p><br><p>　これらの各サプリは、各社で製造方法が異なるであろうが、どれが良いか判断ができない。従って安価のものを選択した。<br>　<br>　その上に、現在までU病院で処方されていた、医薬品の、</p><br><p>　17、ジャヌビア錠</p><p>糖尿病の薬である。</p><br><p>　18、チラーヂィンと、ワンアルファー</p><p>喉頭ガン摘出時に甲状腺も摘出されたので、甲状腺機能低下を防ぐ薬である。</p><br><p>　19、ムコダイン</p><p>たんの切れを良くする薬。</p><br><p>　20、クラリス</p><p>抗生剤である。</p><br><p>　21、トランサミン錠と、アドナ錠</p><p>出血を止める薬。</p><br><p>　22、ムコスタ錠　<br>胃を保護する薬。</p><br><p>　23、リスパダールOD錠・ベンザリン錠・ロラゼパム錠</p><p>寝る前に、睡眠導入剤としての薬である。</p><p>寝る前には、これとともに、胃酸の逆流を防止する薬、ネキシウムカプセルを服用する。</p><br><p>　24、ボナロン</p><p>B病院で処方されている骨粗しょう症の薬、これは、週１回服用する。</p><br><p>　25、ロキソニンテープ</p>痛め止めの湿布薬で、大きさが2種類ある。<br><br><p>　26、ツロブテロールテープ</p>呼吸がやや困難なので、気管肢拡張剤で、縦・横各２㎝程のテープである。<br><br><p>　27、ノボラビット30ﾐｯｸｽ</p><p>糖尿病に対して自己注射を行う薬剤。</p><br><p>　28、SPトローチ</p><p>喉がいがらっぽいときに、アサヒフードの、ミンティア・コールド・スマッシュ（清涼菓子）とともになめると、すっきりする。</p><p><br>　以上、肺ガンが再発していることに対して、このようなサプリメントや薬品を併用し、ガンに対抗することとした。</p><p><br>　ガンに対抗するには、高価なサプリや、免疫療法を行っている病院での、治療方法はあるが、まずはこれでやることにする。</p><br><p>　次回は、現在、私を悩ませている、多くの病気と出現している症状について記すことにする。<br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12047959826.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Jul 2015 10:09:06 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>細胞の活性化と多種類のサプリメント　１</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　2015年6月5日、Aガン研病院で、右肺ガンの再発を告げられた。<br>　その時、私はしばし悩んだが、自身の体調を考慮して、Aガン研病院での今後の治療を断念した。<br>　そして、以下の健康補助食品やサプリメントの組み合わせで、免疫力を高め、ガンに挑戦することにした。免疫力とは、病原菌（細菌やウイルス）およびガン細胞などを攻撃する力のことである。免疫力を高めることによって、ナチュラルキラー（NK）細胞の活性化を計るのだ。</p><p>　6月19日　家族(妻）とガイドヘルパーが二人の計４人で再診に行った。<br>　そこで、私は、Aガン研病院での治療をはっきりと断った。</p><br><p>　そして、5日の時点で分っていたので、6月12日よりサプリをネットで取り寄せはじめ、入手次第飲用を開始した。<br>　9月15日、R病院で、CTを撮り・診察する予約がある。この時に、以前に撮ったCTと、右肺ガンの大きさを比較する。その結果で、あらためて以後の方針を決めることにしよう。</p><br><p>　つぎに、多種類のサプリや医療機関で処方されているものを記してみる。</p><br><p>　１，水溶性アガリスク　<br>　アガリクスはブラジル原産のキノコで、1980年代頃から機能性食品成分として利用されている。ガン患者を対象とした臨床研究は複数ある。<br>　主な薬効は、ベーターグルカンである。これを体内に吸収しやすくするために水溶性にしたものである。<br>　ベーターグルカンはキノコなどに含まれる多糖体と呼ばれる成分で、日本ではシイタケ子実体から精製される。ベーターグルカンのレンチナンが抗ガン剤として使用されたことから、ガンに対する免疫力を高める成分として知られるようになった。<br> 健康食品としてはキノコベーターグルカンのほか、パン酵母ベーターグルカンなども利用されるようになって来ている。<br> 最近の研究では、ガンに有用な多糖体はベーターグルカンに限られず、アルファーグルカン、アラビノキシランや多糖体タンパク結合成分などに特徴的な免疫活性化作用があると言われている。。</p><br><p>　２，プロポリス<br>　プロポリスは、ミツバチが、植物の樹脂成分と自身の分泌物を混ぜ、巣に塗ったもの。巣を清潔に保つ抗菌効果があるとして、主に海外で研究が始められた。同じミツバチから得られる蜂蜜やローヤルゼリーと違い、ミツバチ自身は、プロポリスを食べることはない。フラボノイド類などを多く含み、抗菌・抗酸化作用などがある。</p><br><p>　３，フコイダン<br>　昆布・メカブやモズクなどの海草類には表面に「ぬめり」があるが、この、ぬめり成分に多く含まれる硫酸多糖の一種を総称してフコイダンと呼んでいる。ガンに対して、コンブなどに含まれるヌルヌル成分の、フコースと呼ばれる糖類の化合物や糖たんぱくなどは、疲労回復作用もある。</p><br><p>　４，サメ軟骨<br>　サメの軟骨や肝油には、ガンの増殖を食い止める効果がある、増殖を食い止めるだけではなく、消滅させる事が肝腎だ。ガンと戦える戦力補強がいかにできるかだ。自己治癒（免疫）能力を高めることが肝腎だ。</p><br><p>　５，免疫ミルク　<br>　免疫ミルク錠は、牛の初乳からできている。 <br>　初乳は成分が濃くて凝固しやすいため、牛乳としては出荷することはできず、小牛に飲ませるか、酪農家の自家用とするらしい。<br>　しかも、原材料と成分は乳牛の産後48時間以内の初乳だと言う。しかし、子牛を生む母牛がそんなに多くないであろう。そのため、もしかして、その原材料と成分のほとんどが、ただの牛乳である可能性がある。 <br>  まして、人間に牛の免疫物質が、効き目があるか？　また、消化管で分解されてしまう可能性もある。<br>  ただ、免疫という名称が気になって、購入することにした。</p><br><p>　６，新ビオフェルミンS<br>　新ビオフェルミンSは乳酸菌で、腸内環境を整えることができる。そして、毎日飲み続けても大丈夫だ。</p><br><p>　７，熟成香酢<br>　香酢（こうず）とは、伝統的な製法により古くから中国で作られており、その名の通り、香りが高く、褐色の色あいだ。<br>　アミノ酸を豊富に含んでいる。特にクエン酸が体にいいとされて、日本では健康食品の一つとしてブームを呼んでいる。<br>　アミノ酸は、人体にとって、必要かつ不可欠な存在である。内臓や筋肉、骨や血液まで、体を構成しているもの一つ一つは、アミノ酸によって成り立っている。健康のためには、アミノ酸をしっかりと摂取することが、大切である。<br>　一般的な黒酢は玄米から作られる。香酢の原料はもち米である。<br>　発酵方法は固体発酵といい、一般的な液体発酵と比べ、長い時間をかけ、十分に熟成させて生産される。この熟成期間が長ければ長いほど、多くのアミノ酸を含むのである。</p><br><p>　このへんで、細胞の活性化と多種類のサプリメント　１，を終える。<br>  この続きは、次回に、細胞の活性化と多種類のサプリメント　２，として書く。<br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12047940540.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Jul 2015 08:59:04 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>楽な仕事はない</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　お袋は一生懸命働いた。やがて、少し蓄えができたのか、住み込みで肩身が狭かったのか、店の近くに四畳半・台所付きのアパートを借りた。<br> 　お袋は、常に、新聞の求人広告を見ていた。しばくしてから、ビル掃除会社に転職した。<br> 　私は、通称、寮と呼ばれている寄宿舎にいたが、お袋と一緒に住むことにした。しかし、間もなく、住み込みでアルバイトをした。夜12時頃寝て、翌朝8時半までに登校しなければならない。可成りきつかった。<br> 　そんなある日、右胸の激痛に襲われた。A中央病院に受診した結果、右肺気胸と診断された。学校で、はりの実技がある。その時は、クラスメートが互いに、はりを刺したり刺されたりする。私が刺された時、はりが肺に刺さったのであろう。その時点で、肺に極々微少な穴が開いていたと仮想される。その上、放課後にグランドソフトボールの練習を行った。それは、ハンドボール用の玉を使用する。その打球や送球を胸で受け取るのだ。その衝撃で肺から空気が漏れ、胸空にたまったのではないかという。呼吸をするにも、歩くのにも痛むくらいだ。<br> 　この時は、帰郷して、田舎で掛かり付けの医院で診てもらった。<br> 　回復してお袋のアパートに帰り、バイトは一時中止して、通学のみしていた。<br> 　後日、「母親と住んでいるなら仕送りはしない」と、おやじがどこで聞きつけたのか学校に手紙が来た。公立校で学費は安かったが、お袋が出費することは困難であろうと思い、再びバイトを始めた。<br> 　おやじと会ったのはこれが最後で、その後は、どのようにしていたか分からない。<br> 　私はアルバイトをしていたが、学校ではクラス対抗のフロアーバレーボールのキャプテンになっていた。試合前日の夜中、バイト先で寝ようとした時、腰に激痛が走った。T大学病院に受診の結果、尿路結石の疑いであった。痛め止めの注射をされ、翌朝まで待たされた。朝、外来が始まり、レントゲン撮影をするため造影剤を注射された。しばらくすると、その痛みは、うそのように無くなったのである。造影剤が尿管を浮き上がらせた結果、石が流れて、治ったのではないかと言われた。<br> 　そのまま学校に行きフロアーベースボールの試合に参加でき、おまけに優勝したのである。<br> 　高校３年の2月、あん摩・マッサージ・指圧師の試験があり、合格した。<br> 　専攻科２年の２月には、はり師免許、きゅう師免許を取得することができた。<br> 　専攻科を卒業して、直ちにN整形外科に就職した。<br> 　その１カ月後、独自で三畳・台所付きのアパートを借りた。<br> 　そして、１年後には、公立病院に転職した<br>　</p><p>　<br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12046702290.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Jul 2015 01:00:02 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>兄弟げんかでもしてみたかった</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　私は昭和21年(1946年)1月生まれである。兄弟は4人であるらしい。<br>　私が3歳の春に弟が生まれた。この頃、私の頭の中では、これで兄弟は2人だった。<br>　しかし、私の上に姉2人がいた。<br>　　私の兄弟は皆、第二次世界大戦(1939年～1945年)や真珠湾奇襲攻撃(1941年12月8日)の頃、戦中戦後に生まれたのである。おやじは体調が芳しくなく、兵役を免れたらしい。</p><p>　一番上の姉Kさんは、悲惨にも里子に出されたと言う。<br>  Kさんの生まれは、昭和15年(1940年)と思われる。<br>　里親の家は、県内の比較的近くで、理髪店を営んでいたそうだ。<br>　彼女も理髪師になり結婚して、子供を１人もうけたそうだ。<br>　Kさんは、里親に対して、やはり精神的な苦労があったようだ。<br>　お袋とすぐ上の姉Hちゃんが東京に出て来て、しばらくして、Kさんの里親が亡くなった、昭和43年(1968年)の秋、誰の計らいかは忘れたが、一度だけ東京駅のレストランで彼女の旦那さんとともに会って、みんなで食事をしたことがある。会えるのは、これが、最初で、最後であろう。<br>　その後も、お袋の生前中は、盆・正月の付け届けのやりとりがあった。<br>　しかし、現在は、音信不通である。<br>　現在Kさんは、透析をしていると漏れ伺った。</p><p>　</p><p>　すぐ上の姉Hちゃんは、昭和17年(1942年)2月生まれだが、<br>私が小学3年の夏休みまで会ったことがなかった。<br>その後も彼女は中学3年生の頃まで家に居なかった。<br>戦中・戦後のの混乱期、経済難などで、口減らしのためか、どこかに預けられていたようだ。<br>中学3年生の1年間くらいは一緒に暮らしていたが、<br>彼女は本来通学すべき中学校とは方向が違うと思われる中学に自転車通学をしていて、帰りは遅かった。<br>それから察すると、そちら方面に預けられていたのではなかろうか？<br>　そして、彼女は中学卒業後、直ちに豊橋の紡績工場に就職した。<br>この年、私も家を出て、小学5年から浜松盲学校に転入し、寮生活になったので、一緒に過ごした日々は少なかったのである。<br>　姉のHちゃんは、7年間勤めた後、おやじが始めたねん糸工場で働かされていた。<br>　その環境がいやだったのか？<br>　お袋が東京に来て3年目に、どのようにして分かったのか、彼女も出て来てお袋のアパートに住み着いた。<br>　そして、事務職で働いていたが、間もなく結婚をし、一男一女をもうけた。<br>　現在長男M君は、行方不明である。<br>　長女Jちゃんは、母親がつわりの緩和のために服用したサリドマイドにより、右指が欠損する障がいを発した被害者であった。<br>　それを克服して、大手会社に就職したが、間もなく結婚して、子供をもうけている。<br>　お袋は2人の孫を、かわいがった。</p><p>　昭和54年(1979年)4月、私が結婚して、新居にお袋と3人暮らしをしていた。<br>　姉Hちゃん夫妻は、毎年年始に来てくれた。<br>　平成11年(1999年)に、年始に来てくれたとき、私は右肺結核を患い入院していた。<br>電話をかけてくれたので、新年のあいさつをすることができた。<br>　その後、家では、次のような話があったようだ。<br>　その話とは、お袋の財産を分けてくれと言われたらしい。<br>　少し認知症ぎみになっていたことや、冗談半分で、お袋は、俺に全部取られたから、一銭もないと言ったらしい。<br>　実は、その1年ほど前に、娘Mが「家が狭いからマンションを借りたい」といった。その時の娘の収入では無理で、おはちがこちらに回ってくると察した。これで、借りたとすると、息子Kも同じように言うだろう。それでは、とてもやっていけない。<br>我が家は、3DKなので、5人で住むには確かに狭い。<br>　その時ちょうど、棟続きに売り家が出た。同じ3DKである。<br>娘と息子を住ませよう。と、飛びつくように購入した。<br>　この時、頭金の一部60万円を出してもらったのは事実である。<br>　その後の年始には、一度も来なく、この16年間全く会っていない。<br>　お袋の資産が目的だったのとは、あきれてものが言えない。<br>　兄弟げんかはしてみたかったが、こんな陰気なのはいやだ。</p><p>　</p><p>　両親が離婚したのは、弟Kが、まだ中学3年の時だった。<br>「あまりにも急な出来事なので話すチャンスがなかった」ようである。<br>だから、事あるごとに弟のことを心配していた。<br>　お袋が90歳を過ぎて、認知症になり特養に入所した。ここに、私の息子が見舞いに行ったときは、弟の名前を呼んだそうだ。<br>  なお、私の娘Mが見舞いに行くと、姉Hちゃんの名前を呼ぶそうである。</p><p>　私も学生時代の夏休みなどに帰郷して弟Kと遊びたかったが、実現は困難であった。<br>　私が就職して三年目に、職場の旅行で舘山寺に行った。その時、浜松駅で弟Kと、わずかな時間出会うことができた。<br>　その後、お袋の弟(叔父)が亡くなったときに会った。直接会ったのは20数年前のこれが最後である。<br>　現在は浜松に住んでいる。<br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12046564375.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jul 2015 18:59:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>さじを投げられた</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　2014年6月に、A癌研で、右肺ガンが発見された。<br>　心電図や呼吸機能など、各種の検査の結果、強度の肺気腫のため治療は限られてしまった。<br>　その治療とは放射線療法である。最先端のリニアックという機械を使用したものだ。8月4日に、15回、１クールの照射が終了した。<br>　結果は、ガン細胞は縮小して良好であった。<br>　その後、3カ月おき程度に診察を受けていたが、ガンの大きさには変化がなかった。<br>　<br>　ところが、2015年6月１日に、採血と全身のガンの存在を検査する、PET CTを行った。<br>　そして、6月５日診察の結果、「右肺ガンの陰がやや大きくなっている。<br>「あなたは、強度の肺気腫と糖尿病があり、体力がない。<br>手術や化学療法は困難である。<br>2度目の放射線療法を行うことは可能だが、なおいっそうの出血を招いたり、また、呼吸困難を起こすことも考えられる。<br>だから、6月19日に家族と共に再来するように」とのことであった。<br>　いわゆるさじを投げられたのである。</p><br><p>　実は、2014年12月４日夕方に喀血様出血があり、救急でR病院へ息子に連れて行ってもらった。CT撮影をしたり、点滴をしてその場は一時収まり、帰宅した。<br>　その時には既に再発していたのではなかろうか。<br>　その後も、たんに少量の血が混じる日々が続いていた。</p><br><p>　私は、指をくわえて死を待っていることはできない。早速いろいろ検討した。思案した結果、免疫細胞を活性化し、自然治癒能力の向上を計ることにした。</p><p>　6月12日よりサプリをネットで取り寄せはじめ、入手次第飲用を開始した。</p><p>　6月19日　家族(妻）と、二人のガイドヘルパーの４人で再診に行った。<br>　その時には、思っていた通り、次のように告げられた。<br>　「呼吸困難が強度のため、手術や化学療法は出来ないが、もう一度リニアックを行うことは出来る。しかし、気管からの出血は現在より多くなる可能性が大きい。呼吸もより以上、困難になると思われる」と言われた。<br>　私は腹を決めていたので、「治療はもう受けません」と言った。<br>　すると、「R病院へ行き、緩和医療などに関して、院内で調整できているか再確認してきて下さい。不可能の場合にはここにもう一度受診するようにしましょう。そして、他の病院を探しましょう。」と言われて、CTなどをコピーしたCD-ROMと報告書を渡された。<br>　６月２３日R病院受診。<br>　回答は、OKであった。<br>　特に寝るときに喉がいがらっぽいので、葛根湯の処方を受けた。<br>　これで、癌研受診は終了である。</p><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12045338817.html</link>
<pubDate>Wed, 01 Jul 2015 16:01:28 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>スマホも携帯もない時代に</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　昭和38年(1963年)、私が高校2年の12月、突然、お袋から手紙が来た。<br>　その内容は、おやじが一方的に家を追い出した。後釜には他の女が入っている。<br>今は京都のおばさんの家にいる。お金は持ち出す時間もなかったので、ほとんど持っていない。という文言だと覚えている。<br>　大変なことが起こったと察した。途方に暮れた。長男である私が何とかしなければ、はっきり言って「自殺でもしたら」ととっさに思った。</p><p>　このような事態になっても良いかのように俺は東京の高校に来た運命だったのか・・・。<br>　すぐ上の姉は、中学を卒業した年から、豊橋の紡績工場に就職して7年目だったが、おやじが始めたねん糸工場に呼び戻され、働かされていた。<br>　弟はまだ中学3年だった。お袋は、あまりにも急な出来事だったので弟と話すチャンスがなかったようである。</p><p>　だから、事あるごとに弟のことを心配していた。<br>　思案したが、ありのままを友人の Ｔ・Ｎさんに相談したところ「叔母がスナックをやっている。皿洗いでも良ければ」と話がまとまった。</p><p>　50歳近くの女性が働く所は少ない。しかも、住処もない。こんな時、住み込みで働かせてくれるとのこと。この上もなく喜ばしかった。お袋が了解すればの事であるが・・・・。<br>　早速、手紙を書き東京に呼び寄せ、その店があるA町へ連れて行き、叔母さんに丁重にお願いをした。<br>　今、思うに、スマホも携帯電話もないその当時、東京駅で京都から来たお袋と私が出会い、A町で働き先の叔母さんと会うということは、高校２年生の私にとって、至難の業であったと思う。</p><p>　しかし、無我夢中だったためか、その時の経過は全く覚えていない。</p><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12044032749.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Jun 2015 09:06:40 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>レベルが違った</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　教員になることを夢見て、昭和39年（1962年）、静岡県立浜松盲学校から、憧れの東盲に入学した。天下の東盲である。東とは東大ではなく、現在の筑波大学が東京教育大学と呼ばれていた、その附属盲学校（視覚特殊支援学校）のことである。盲学校で国立は全国唯一だ。<br>　私は寄宿舎に入寮した。寮には中学生から特設教員養成施設の人達がいた。<br>　寮は８畳の4人部屋で各学年の先輩と同居である。<br>　盲学校の高校教育コースは、商船高校に例えられる、<br>　高校3年間で一般教養科目と基礎医学を学ぶ。一般教養科目は、国語、数学、理科（化学・物理・生物）、社会（日本史・世界史・政治・経済等）、英語、家庭科、保健体育である。<br>　基礎医学には、解剖学、生理学、病理学、症候概論、日本医学史等がある。それに漢方学の基礎理論と、あん摩・マッサージ・指圧、鍼、灸の実技である。<br>　高校3年の上に、後２年間専攻科がある。<br>　専攻科を卒業して、教員になるための特設教員養成施設に受験する訳だが。これには全国から最優秀の受験生が集まる。そして、これに合格すれば、なお後2年間、教員になるための教養課程が待っているのである。<br>　しかし、驚いたことに、この学校は浜松時代に比較して、すべての教科に於いて程度が高かった。</p><p>中学で使用していた教科書のレベル事態が違うのである。　<br>　しかも、憧れの教員とは盲学校の教員のみで、一般学校の教員にはなれないのだ。</p><p>考えが甘かったのである。<br>　私には、全国から最優秀の人材が受験する特設教員課程には、受験すら出来そうもない。私がそんなのに受かるわけがないのである。<br>　増して、授業を受けていると、教官は毎年同じ講義をしているにも関わらず、教え方が下手だ。<br>　がっかりした。そんなまるで、変化も進歩もない仕事はしたくなくなった。<br>　挫折すると同時に、早くもやる気がなくなった。意気消沈である。<br>　そんな中、高校3年の2月、あんま師・マッサージ師・指圧師試験に合格した。<br>　そして、専攻科2年の2月には、はり師免許、きゅう師免許を取得することが出来た。<br>　専攻科卒業後は、特設教員養成施設には受験せず、N整形外科にマッサージ師として就職した。<br>　当時のリハビリは、主にマッサージ師が行っていたのである。現在のリハビリテーションは内容も質も高く格段の差があるが・・・。<br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ikuyisotu/entry-12043783774.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Jun 2015 16:34:16 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
