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<title>創造の泉</title>
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<description>思い付いたことをそのまま書き連ねた手記</description>
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<title>共鳴</title>
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<![CDATA[ Resonance<br><br><br>人はみんな、同じ気持ちを分かち合ったり、共感できると素直に嬉しいもの。<br><br>お互いに同じ趣味を持っていたり、好みが同じだったり、同じ価値観を持っていたりすると、共感できる機会は増えると思う。<br><br>ただ、それはごく普通のこと。<br><br>勿論、嬉しいことには違いないが、それはたまたま自分と似通っていたという偶然に過ぎない。<br><br><br>共鳴っていうのは、単なる共感や共有とはちょっと違っている。<br><br>物理的に言えば、ある物体の振動が、全く別の物体を同じ周波数で振動させること。<br><br>つまり、誰かの影響を受けて、自分もそれに反応し、表現することだと捉えている。<br><br>元々同じ物を持っていなくても、響き合うことができる。<br><br>人には、そんな能力が備わっていると思う。 <br><br>先天的・後天的、偶然・必然、そういった難しいことを考える必要もなく。 <br><br><br>また、物体と違うのは、共鳴を待っているだけでなく、自ら掴みにいけることだと思う。<br><br>発信源（発振源）が相手だとしたら、それをどう捉えるかは自分次第。<br><br>興味があれば何かを感じるだろうし、特に興味もなければ全く気にすることもない。<br><br><br>最終的には、相手に興味を持っているのか否かということ。<br><br>例えば、その人に興味を持っていたら、趣味、好み、考え方、あらゆるものに興味を持つ。<br>それが自分のものとは違っていても、新しいものとして取り入れようとするはず。<br><br>だから、好みが違うから等という理由で拒もうとするのは、本質的でないと考えてしまう。<br><br><br>共感できる喜びは、偶然その人が持ち合わせた共通のものだけで感じられるものではなく、共鳴することによって、あらゆるものに対して喜びを得ることができると思っている。<br><br>言葉で説明するのは難しいけれど、目に見えない得体の知れない振動によって伝わる喜びや感動。<br><br><br>偶然だけに頼ることなく、共鳴し合い、響き合いながら、多くの感動に触れていきたい。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10569022215.html</link>
<pubDate>Mon, 21 Jun 2010 01:18:25 +0900</pubDate>
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<title>愚痴</title>
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<![CDATA[ 言っても仕方のないことを歎くこと。<br><br>その言葉の通り、愚痴を言っても仕方がないし、何も生み出さない。だから好きになれない。<br><br>でも、他人に言うことで何故か自分が楽になったり、あるいは共通の話題で共感し合えるというメリットも確かにある。<br><br>俺はこの数年、本気の愚痴はこぼさない、他人を否定しない、常に前向きに、ということをモットーにしてきたけど、そろそろ息抜きが必要かな。<br><br>正直、ちょっと辛い。<br><br>勿論、考え方は常に前向きだけど。<br><br>「辛さ」について言えば、<br>まず体力的には、日頃から自分でストイックな生活を心掛けているから全く問題ない。<br><br>要は気持ちの問題。<br>何故辛いと感じるのか？<br><br>対象は上手くいかない人間関係だったり、他人からの叱責であったり、自分自身への不甲斐なさであったり、挙げればきりがないけれど、その根本を探ってみるとどれも不確定で不安定な自分自身の存在へと繋がっていると思う。<br><br>自分自身の存在価値を見出だせない状態、これが辛い。 <br><br>本来であれば、その価値を決めるのは自分自身だし、その全てが正しいというのが原則。<br><br>でもそれを心から感じられるようになるのはなかなか難しいこと。<br><br>これが頭で考える論理と心で感じる感情とのギャップなのかもしれない。<br><br>だからそれを確かめるためという意味でも、自分以外の他人の存在が必要なんだと思う。<br>自分について周りから助言されたり、誉められたりすると安心するし、素直に嬉しいと感じるもの。<br><br>だから、素直に自分の辛さを表現することも悪いことではないと思う。<br><br>自分の存在を確認させてくれるのは他人だけど、元を正せば自分の存在を悩ませる＝辛さの原因も他人にあるのだから。<br><br><br>だから今回だけは、素直に辛いと感じたい。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10564329412.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Jun 2010 22:51:31 +0900</pubDate>
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<title>挑戦</title>
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<![CDATA[ いくつになっても、どんなことでも、挑戦するのは素晴らしいことだと思います。<br><br>今までにない新しいことに挑戦した結果、成功したとしても例え失敗したとしても、得るものはとても大きいし、貴重なもの。<br><br>そういった経験が、よくある言い方をすれば人を成長させるのだけれど、俺は単純に人生に広がりをもたらすものだと思っている。<br><br>これまで創り上げてきた自分の「生命」に新しい色の絵の具を追加して、より一層鮮やかな色彩と奥行きを持たせるために。<br><br>歳を重ねる毎に色々なことに慣れてしまうから、時間が短くなるように感じるけれど、挑戦を続ける人はいつも新鮮な気持ちでいられるから、人生をいつまでも長く楽しめる、という説もありますね。<br><br><br>だから挑戦に悪い要素は一切ないと断言できるけれども、それは一種の非日常であり、新しい一歩を踏み出すためにはそれなりに勇気が必要です。<br><br>取るに足らない小さなことに対してでも。<br><br>今、自分が欲しいと願い続けているものは、取りも直さず、正にその勇気。 <br><br><br>それを挑戦と捉えるか否かは自分次第で、自分は特に挑戦と思われる場面に頻繁に遭遇すると思っているから、恵まれている反面、どうしてもその勇気の必要性を感じてしまう。 <br><br><br>失うものは何も無く、むしろ得るものの方が多い。<br>失敗への恐れからなのか？<br>頭で論理を組み立てても、なかなか実行できない、そんな葛藤がしばしば存在しています。<br><br><br>勇気を出すのは、なかなかエネルギーが要ること。<br>そのエネルギーを消耗するのは決して悪いことではなく、使うことに意義があるのだけれど、それが心労となり、疲弊してしまう人も、あるいはいるのかもしれない。<br><br><br>それは難しいこと？疲れること？面倒臭いこと？<br><br>いいえ、非常に魅力的で刺激的で素敵なことだと断言します。<br><br>自分自身のために<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10562398211.html</link>
<pubDate>Sun, 13 Jun 2010 21:52:37 +0900</pubDate>
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<title>無欲</title>
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<![CDATA[ 色々な物に恵まれ過ぎていて、それに慣れてしまったから今更ありがたさを感じるのは難しいように思う。<br><br>それどころか、現状で満たされていない人がほとんどで、際限なく多くの物を求めようとする。<br><br>思うに、この欲望が生まれるのも物事を相対的にしか見れない結果であって、周りの水準が上がるにつれて、自分もどんどん引き上げられて行ってしまっているような気がする。<br><br>美味しい物が食べたい、高い洋服を着たい、旅行へ行きたい、社会から認められたい、人に好かれたい…<br><br>全て己の欲望だけど、それって周りに流され過ぎているように思いませんか。<br><br>他人の影響は必ず受けるものだから、無くすことはできないけれど、そうやって自分を見つめ直すことで抑制することは可能だと思う。<br><br>本来は無欲。<br>今持っている欲望（強欲）は後からもたらされたもの。<br><br>だとすれば、自分の本質的な欲望って一体…<br><br><br>少し考え方を変えてみて、仮に全く無欲の人が存在したとすると、その人は明らかに周りと掛け離れていて、異質な存在になってしまうと思う。<br><br>本人はそれで満足だから何も問題はないけれど、一生「孤独」でいることになってしまう。 <br><br><br>だからもし彼が他人と交流を持ちたい、大切な人を幸せにしたいと望んだならば、自分もごく自然に欲望を持たざるを得ない。<br><br>つまり、自分自身の欲望の中には、少なからず他人を想う気持ちが込められていると想像している。<br><br><br>ゴールは勿論、自分の幸福。<br><br>自分の幸福＝他人の幸福  <br>他人を幸福にするための己の欲望。<br><br><br>そういった方程式をたてると、結局は欲望が自分のためであることには変わりないのか… <br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10561192620.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Jun 2010 17:43:27 +0900</pubDate>
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<title>記憶</title>
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<![CDATA[ 最近、物覚えが悪くなったなぁと思う。<br><br>色々な情報が溢れ過ぎていて、全部に目を通しているつもりではいるけれど、それを記憶して後で呼び起こすのはなかなか難しい。<br><br>他人から言われて、ああそんな事もあったっけ、と思う程度。<br><br>良い事も悪い事も大きな事も小さな事も、結局は忘れ去られてしまう寂しさを時々感じている。<br><br><br>でも、忘れなければならないことも世の中には沢山存在している。<br><br><br>時間が解決してくれる<br><br>という言い回しが昔からあるけれど、これは物理的には何も変化はしていないけれど、時間の経過に伴い心情が変化する、則ち忘れることに起因するものと個人的に解釈している。<br><br>辛いこと、悲しいこと、悔やまれること、そんな忘れ去りたいことを、誰もが抱えていると思う。<br><br>でも時間が経てば必ず忘れる。<br><br>勿論、いつ何が起こったかは覚えているだろうけれど、当時の情景や自分の感情を細かく100％覚えていることはないと思う。<br><br>仮に全てを記憶していて、後に蘇らせることができるとすれば、大きな喜びを何度も味わうことができる反面、大きな悲しみに苛まれ続け、もはや生きていくことはできないのではないだろうか？<br>と想像している。 <br><br>過去の足枷が外れることで、ようやく未来に進めるのだと思う。<br><br><br>今はまだ多くの知識や教養を記憶し、身に付けることが最優先。<br><br>でも、忘れることも大切な能力。 <br><br>記憶しては忘れ、日々その繰り返し。<br><br><br>そしていつかは、喜びも悲しみも楽しさも不安も恐怖もその全てが、はっきりとした形で存在する「記憶」ではなく、ぼんやりしているけど美しい「思い出」となって蘇ってくるのだと思う。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10557896561.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Jun 2010 23:40:04 +0900</pubDate>
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<title>信仰</title>
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<![CDATA[ <p>あまり宗教に興味はないけれど、自分が尊敬するある人の影響で</p><p>「神は己にあり」という考え方には非常に興味を持っている。</p><br><p>困った時の神頼み</p><p>人は誰も不安や恐怖から逃げ出したくて、ある絶対的な存在を崇め、そして助けを乞う。</p><p>だから宗教というのは必要で、実際に道が開けた人も多いのではないだろうかと思う。</p><p>そして、宗教というのは色々なかたちで各国各地に無数に存在している。</p><p>でも、その「絶対的な存在」が複数存在しているということには、少なからず矛盾を感じてしまう。</p><br><p>同じ神を崇拝できるうちは、仲間と共感することができて、より想いも強くなると思う。</p><p>しかし、もしそれを脅かすような別の神が存在していて、それを崇拝する多くの人がいるとしたら…</p><p>その２つがどこかで交わってしまった場合、争いは避けられないような気がする。</p><br><p>だから、あえて仲間を作らず、共感せず、自分ひとりのための神の存在を信じる。</p><p>言い換えれば、絶対的なものは自分だけだし、信じられるものは自分だけということ。</p><p>但し、自分の好き勝手に自由に物事を考えていいという訳ではなく、そこには自分を取り巻く</p><p>多くの人達が存在していて、当然それぞれに絶対的な神が存在している。</p><p>自分を絶対的な存在と認めながらも、他の存在を認識しなければならない。</p><br><p>自分は生きたいように生きる権利がある。もちろん、自分以外の他人も同じ権利を持っている。</p><br><p>人間は十人十色であり、それぞれ違う考え方を持っている。</p><p>結局は分かり合うことはできないという、悲しい前提に基づく考えになってしまうけれども、</p><p>その前提があるからこそ、争いは避けることができるのではないかと思う。</p><br><p>他に興味を持ったならば、交流を持って影響し合うこともいいと思う。</p><p>自分と合わないのであれば、それはそういうものとして認めなければならない。</p><p>例え嫌いで邪魔であったとしても、排除したり、いい様に支配することは決してできない。</p><p>人それぞれが全て絶対的な存在なのだから。</p><br><p>そういう時は、己の神に断りを入れて、ちょっと他人の神を覗いてみる。</p><p>すると、今までに良くも悪くも見たことない世界が見えてきて、結構面白いかも。</p><p>もしかしたら、自分がそちらへ引きずり込まれてしまうかもしれない。</p><p>流れに身を任せるのか? それとも拒絶するのか? 一つの選択を迫られる。</p><p>生きている限り、様々な状況に遭遇する。</p><p>そして、無数の選択肢の中から一つを選び、決めなければならない。</p><br><p>正解は一体、何なのだろうか?</p><p>その答えは、自分の神しか知らない。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10555158902.html</link>
<pubDate>Sat, 05 Jun 2010 23:29:44 +0900</pubDate>
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<title>他人</title>
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<![CDATA[ 当然、自分が一番興味を持っているのは自分自身だし、最終目標が自分の幸せであることに変わりはない。<br>けれど、そんな自分自身というものは、他人から作られるものだと思う。<br>単純に他人の影響を受けるとか、学ぶということ以外にも。<br><br><br>善悪には特に意味はないけれど、俺は「性善説」に近い考えを持っていて、例えば人は他人の喜びを自分の喜びとして考えることができる能力が備わっている。<br><br>キレイ事ではなくて、自分が自分自身だけで得られる喜びや幸福は、たかが知れたものだということ。想定の範囲内でしかない。<br><br>自分以外の他人とは違う存在だし、絶対に理解し合うことはできない。<br>だから興味を持つようになるし、理解しようと努力するし、逆に興味を惹こうともする。<br><br>交流を重ねるうちに、相手が喜んでくれたらそれは自分の喜びにもなるし、その喜びは自分だけでは決して作り出せないもの。<br><br>時には自分を犠牲にしてまで相手の幸せを考えるという場合もある。人生論から言えば本末転倒な気もするけど、その気持ちは見たこともない力を発揮することができるし、もはやその想いそのものが美しい。<br><br>でも、それはあくまで「自分のため」だからこその話。<br><br><br>理屈をこねると少し味気ないけれど、本来は心で感じる感情的なものであり、理解はしていなくとも誰もが感じられるものだと思う。<br><br><br>最近は日々の仕事や現実的な金銭の問題に脅かされて、本当に大切なものを忘れかけていたような気がする。<br><br><br>例えば、あなたが友達に自分の宝物をあげました。すると、友達は喜んでくれたけど、宝物を失ったあなたは結果的に損をすることになりました。<br><br>でも、最終的に豊かになったのは、果たしてどちらでしょうか… <br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10550509314.html</link>
<pubDate>Mon, 31 May 2010 23:41:28 +0900</pubDate>
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<title>想像</title>
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<![CDATA[ 最近、本当に色々なことを想像してしると思う。<br>実現し得ないこと、未来のこと、自分の理想像などなど。<br>妄想とも言いますね。<br><br>ちなみに、プロフィール欄の趣味は「妄想」 <br><br>そんな事ばかり考えている人は、もっと現実を見なさいと、指摘をよく受けていることでしょう。<br><br>しかし、例によって俺は悪いことだとは決して思わない。<br><br>いいイメージを持っていると、それが自分の理想となり目標となるので、それに近付こうと努力をする。 <br><br>少し先のことに目を向けて想像してみると、今、自分が何をすべきなのか？という課題が見えてくる。 <br><br><br>ただ、俺が本当に言いたいことは、そんなよくある優等生的な考えではなくて、もっと意味のないこと。<br><br>たった今すれ違った、全く知らない人とのこれからのストーリーを想い描いたり、誰も知らない未知の世界を想像したり、全てが消えていく瞬間を想像してみたり…<br><br>意味はないけれど、そんなあらゆる場面の空想が、こんなちっぽけな人間の小さな頭の中から生まれることは本当に凄いことだと思う。 <br><br>本気になれば、無限の大宇宙すらもこの頭の中に造り上げてしまうことができる。<br><br>人は皆、素晴らしい能力を持っている。<br><br>現実の世界での損得を抜きにして、本気で色んなことを想像してみると、結構面白いと思いませんか？ <br><br>そういった自由な発想が、逆に、現実の世界を豊かにする発明のきっかけとなるかもしれない。<br><br>これもまた、無意味な妄想の一つでした。 <br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10547635516.html</link>
<pubDate>Fri, 28 May 2010 21:56:12 +0900</pubDate>
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<title>肯定</title>
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<![CDATA[ 重たいテーマについて考え始めると、つい世の中を否定したり、ネガティブな方向に傾きがちだけど、自分はあくまで肯定的でポジティブなものを貫きたいと思います。<br><br>きっかけは、常に愚痴をこぼしたり、ネガティブな発言ばかりをする人が周りにいたから。<br><br>最初はそれが嫌で我慢してたから、自分も全てを否定的に考えるようになってしまっていたけど、見る角度を変えてみてからは、少しずつそれを受け入れられるようになってきた気がします。<br><br>我慢することと受け入れることは少し違うと思っていて、例えば<br>鼻をつまんで嫌いな物を無理矢理飲み込むのではなく、嫌いな物でもしっかりかみ砕いて飲み込むような感じ。もはや味がなくなるくらいまで。<br><br>人は誰にでも嫌いな人がいたり、辛いことがあったり、楽しく生きていく上で邪魔なものが確実に存在しています。<br><br>そんな自分の中で「異物」と感じるものの存在を認めて理解し、全てを受け入れられるようになりたい。<br><br>嫌いな物があるから好きな物があるし、辛いことがあるからより一層楽しめる<br>という考え方も勿論あるけれど、全てを受け入れて、全てを楽しむということはもはや究極だと思う。<br><br><br>理想的な事ばかりを想像しているように思われるかもしれないけれど、それはちょっとした考え方で可能になるという確信を持っています。<br>まだまだ途中だけれども…
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10546813813.html</link>
<pubDate>Thu, 27 May 2010 23:12:43 +0900</pubDate>
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<title>生死</title>
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<![CDATA[ いつも自分のモチベーションを高め、ポジティブを保つためにしていることは、<br><br>最悪の事態を考えること。<br><br>今の段階では、それは自分が死んでしまうことだと思っている。<br><br>ありがちだけれど、死ぬよりマシという考え方。<br>だから、そう考えると生きているだけで幸せと思えるし、小さなことでネガティブな考えになることもない。<br><br>でも、今まで死についてあまり考えたことはなかった。<br><br><br>生を知るためには死を知る必要があるし、死を知るには生を知る必要があると思う。<br><br>だから、こればっかりは簡単に理解することはできない。<br><br>だから、普通はそんなこと考えても無意味と思うことだろう。<br>でも、そんな知らない世界に興味を持って想像したり、想いを馳せることは決して悪いことではないと思う。<br><br>例えば、身近の人の死に直面したとすると、多くの人が悲しみ、そして少し死について考える時間ができる。<br>すると、自分や周りの人たちが今を生きていることに、少なからず有り難さを感じるようになると思う。<br><br>でも、そういった想いを持つのは自分次第だから、直接遭遇した時だけでなく、いつでも、常に持っていても良いはず。<br><br>今、自分たちが生きていることが有り難いということに変わりはないのだから。<br><br><br>生きることへの、絶対的な強い意思を持ちたい。 <br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imao0713/entry-10545977918.html</link>
<pubDate>Thu, 27 May 2010 01:41:30 +0900</pubDate>
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