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<title>２５歳の主張</title>
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<description>２５歳女子の日常の叫び</description>
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<title>怒涛の２年生（２－５）</title>
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<![CDATA[ <p>小学校生活で色濃く残っている思い出。それは学年で言うなら２年生と６年生だ。</p><p>２年生の時の私はただの純粋なだけの子どもだったのか？当時の私を、大人になった今傍目で見てみたいと思う。無理なことではあるが。</p><p>&nbsp;</p><p>早くも、私は２年生になった。そこで環境は大きく変化した。</p><p>&nbsp;</p><p>同級生は４人。そんなこじんまりとしすぎた小さなクラスに、新しい同級生が加わった。</p><p>&nbsp;</p><p>深井寿昌（フカイ　トシマサ）・・・隣の県から小学校の近隣に引っ越してきたようだ。</p><p>そしてもちろん担任の先生も変わる。私たちの担任の先生は、諏訪部風馬（スワベフウマ）という若い男の人になった。諏訪部先生はその年に私たちの学校に転任してきた先生だった。難しい漢字の先生だな、と思った記憶がある。</p><p>先生の年齢ははっきり覚えてないが、２０代前半だった記憶がある。もしかしたら、ピカピカの新米教師だったのかもしれない。だとしたら・・・残酷なことをしたと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>まず、ニューカマーの寿昌と諏訪部先生に待っていたのは残酷な現実だった。</p><p>田舎の学校の子どもは元気で無邪気？当たっている。しかし・・・残酷さもそこに入る。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちがまず彼らにしたことは、覚えているのは、まず寿昌をいじめにいじめぬいた。「ヨソモノ」だったからだ。寿昌は元々性格が攻撃的だった。いつも何かに対して怒っており、怒る時はいつも腕を組んで眉毛をキリッと上げ、猛烈に怒った。ときには暴力行使もあった。</p><p>どうしてそんなに攻撃的だったのか？私たちが彼をいじめたからかもしれない。</p><p>・・・私たちのせいで彼をそうさせたのだとしたら、本当に申し訳ないことをしたと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>私の同級生で、枝岡初実という女の子がいた。私は当時ははっちゃんと読んでいた。はっちゃんが寿昌に対しどんな対応をしていたのかは覚えていないが、ある日私たちがはっちゃんと運動場で遊んでいる時に、寿昌がいきなり乱入し、はっちゃんの腕をがしっと掴んだ。そしていきなり、こう叫んだのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>「初実ちゃんは、僕のもんやで！」</p><p>&nbsp;</p><p>一同、まずは言葉のとおり、「ポカン」であった。</p><p>何を言っているんだ、こいつは。</p><p>そして寿昌がはっちゃんを好きだという噂は一気に学校中に広まった。全校生徒５０人ほどの学校だ。噂が広まるスピードもすごい。</p><p>ちなみに、その年に入学してきた後輩で、奥田國一（オクダクニカズ）という男の子がいた。彼も何を思ったのか、登校中にはっちゃんに大声で告白するという事件（？）が起こった。</p><p>こうしてはっちゃんが学校のモテ女子として学校中で冷やかされ、二次被害を被ることになった。</p><p>&nbsp;</p><p>話を戻すが、寿昌のいじめはなかなか収まらなかった。行動が攻撃的であるに加え、いきなりはっちゃんに告白するという、読めない言動。それが拍車をかけたのかもしれないが、なによりも「ヨソモノ」に対する私たちの意識が一番よくなかったのだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>そして明らかにイジメがあったのに、担任の諏訪部先生は一体何をしていたのか。何かアクションを起こしたのだろうか。残念ながら、私の記憶上で彼が何かをした記憶はない。せいぜい、クラス内の喧嘩を止めることぐらいだった。</p><p>&nbsp;</p><p>おそらく、諏訪部先生は私たちに「おてあげ」状態だったのだろう。私たちは、完全に諏訪部先生を「なめて」いた。諏訪部先生とは呼ばずに「すわっち」と呼び、先生の優しさにつけこんで言うことを全く聞かない。俗に言う、「学級崩壊」が起こっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>聞いたことがある。小学生は子どもだが先生を見ている。特に、先生の持つ権力。先生が私たちに甘くなんでも言うことをきいてくれると思えば子どもは「この先生には何をしてもいい」と思い、言うことを聞かなくなる。諏訪部先生は大人しい人だったのだと思う。怒ることもなく、ただオロオロしているイメージが強い。そこにつけこまれたのではないかと思う。</p><p>・・・なんて、他人事のように書くが、本当に申し訳ないことをしたと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>私も言うことを聞かなかったが、特に同級生の華重の先生への反抗は凄まじかった。先生の言うことなど死んでも聞くものか、と言わんばかりの態度で、先生の言うことなすことに文句をつけていた。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、普段は全く怒らない諏訪部先生も、２度ほど激怒したことがある。静かにしなさい、と言っても聞かない私たちに堪忍袋の緒が切れたのだろう。その時は音楽の授業だった。その時は華重ちゃんだけが先生の言うことを聞かず、鍵盤ハーモニカをひきつづけていた。先生はいつものようにオロオロしていた、と思いきや、いきなり大声を出した。</p><p>&nbsp;</p><p>「静かにせんか！！！！」</p><p>&nbsp;</p><p>急に大声を出した諏訪部先生に、私たちは喋るのをやめ、息を呑んだ。先生が怒った。先生の主な怒りの矛先は華重だった。華重は驚いたのか怖かったのか、その時間はずっと自分の席でシクシク泣いていた。</p><p>やはり大人が怒ると怖いもので、先生が怒るとしばらく子どもは言うことを聞く。その時は私もしばらくは先生の顔色をうかがっていた記憶がある。数日経てばまたもとに戻るのだけれど・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>いじめと、学級崩壊。この教育現場で大きな問題となっている２つを、たった１年間で経験してしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>あの頃の私はどうしてあんなことをしてしまったのかわからないし、今でも謝りたいと思う。</p><p>３年生か４年生になって、他の学校に転勤になった諏訪部先生に私は一度会ったことがある。しかし目が一度合ったもののすぐに目を逸らされ、話しかけることができなかった。</p><p>よほど、私たちとはもう関わりたくないのだろう。子どもながらにそう思い、その時初めて自分のしたことを後悔した記憶がある。</p><p>&nbsp;</p><p>そして寿昌のほうは、実は４年生で他校へ転校してしまったのだ。２年生の終わり頃からほとんど学校に来なくなっていた寿昌だったが、ついに転校してしまったのだ。３年生になってまったく顔を見なくなっていたので、私からすれば「いつのまにかいなくなっていた」という感覚だった。</p><p>けれどいじめを苦にして転校したのなら、これほど申し訳ないことはない。</p><p>高校生になって、寿昌が戻ってきたという情報を聞いた。祖父母が住んでいるため帰省したらしい。会ってみる？と聞かれた時、私は思わず首を振った。どんな顔して会えばいいのかわからなかったのだ。寿昌にしてみれば、思い出したくもない記憶だろう。そして、そんないじめの張本人に会いたいなんて、思うはずがなかった。そして私も、何を話せばいいかわからない――。</p><p>&nbsp;</p><p>でも今となってみれば、会って謝ればよかったと思う。許してもらえるとは思わないが、それでも何もしないよりは・・・きっと、そのほうがよかったと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12258363296.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Mar 2017 13:45:53 +0900</pubDate>
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<title>「ヨソモノ」の運命（２ー４）</title>
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<![CDATA[ <p>負けず嫌いだったという話は前回した。</p><p>今回はその負けず嫌いの最たる例を思い出しながらここに記そうと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>まず、田舎のイメージを都会の人に聞くと、「みんな優しい」「いじめなんてなさそう」という声を聞くことがある。</p><p>美しい自然から人の心も美しくなる、という幻想を抱いているのだろうが、実際はそんなことはない。田舎に住んでいようが都会に住んでいようが、本質的には何も変わりない。もし違うとすれば、田舎の子どもは都会の子どもより少し「ソトモノ」への敵対心が強いのではないかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>都会に住んでいると、多種多様な人を見かける機会も多い。最初は驚きこそすれ、「こんな人もいるんだなぁ」と様々な人を見ていく上で慣れていくのではないか。</p><p>しかし田舎は違う。圧倒的に人口が少ないため、少しでも人と違う点があれば周りはそれを噂し、関わりを出来る限りもたないようにする傾向がある。</p><p>すべての田舎地域がそうとは言わない。けれど私の町はその傾向が強かった気がする。</p><p>&nbsp;</p><p>話を戻すが、私は極度の負けず嫌いだった。たとえ周りから見知らぬ町から来た奴だとか、変な方言を使うだとか言われていじめられても、自分が悪いことをしない限り決して相手に屈しなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>幸いにも同級生にはそのような輩はいなかったが、１～２歳年上から、私は「ヨソモノ」ということで嫌われ、いじめの対象になっていた。男子には暴力を使われたし、女子には言葉で攻撃をされた。</p><p>その記憶が今でも濃く脳内に残っており、そのせいか今でも年上は苦手である。少し怖いのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>ときには泥や砂を投げつけられ、大きな声で悪口を言われ、滑り台からは蹴り落とされた。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし私はそれに我慢ならない。「ヨソモノ」であることが悪いことであると思わなかったからだ。</p><p>ある日、大嫌いな上級生から、泥団子を投げつけられた。頑張ってかわすが、それに腹を立てたのか、その同級生は私をつかみ、泥団子を私のに押し付けようとしてきた。</p><p>&nbsp;</p><p>「食べろよ、うまいぞ」</p><p>&nbsp;</p><p>泥団子を持ってニヤニヤしている。これほど人の顔を醜いと思ったことはない。</p><p>&nbsp;</p><p>そこまで言うなら食ってやるさ、私はお前の予想なんか遥かに超えることができるんだ。</p><p>&nbsp;</p><p>そう心の中で叫び、私は泥団子を思い切りがぶりと頬張った。</p><p>&nbsp;</p><p>「うわぁ、こいつほんまに泥団子食ったぞ」</p><p>&nbsp;</p><p>上級生は叫び、気持ち悪がって逃げていった。私は口に入った泥をその場で吐き出した。</p><p>&nbsp;</p><p>どうしても嫌だった。いじめられっ子で終わりたくなかった。相手の思うつぼになりたくなかったのだ。</p><p>・・・負けず嫌いである。</p><p>&nbsp;</p><p>私は時折母にそんな嫌なことを家に帰って話した。</p><p>当時母は社会福祉協議会で働いていた。給料は少なかったらしいが、残業はほとんどなく、土日休みがあるため、子どもと過ごせる時間を確保できるためそこに働くことに決めたのだそうだ。</p><p>夕飯は基本的には祖母が作ってくれたが、洗濯・掃除は休日に母がやってくれた。そのため私は専業主婦だった時と違い忙しそうな母へ、時々「おかあさん、お仕事おつかれさま」と手紙を書いていた。</p><p>&nbsp;</p><p>学校のいじめについて母がなんと返してくれたかは覚えていないが、当時のことを振り返り母は</p><p>&nbsp;</p><p>「あんたは、『あいこは悪くないもん』って、自分が悪くない限り絶対芯を曲げへんかった。強い子やなって、親ながらに思ったわ」</p><p>&nbsp;</p><p>と語っている。</p><p>&nbsp;</p><p>その芯の強さは、おとなになっても残っているのだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>・・・私には、わからない。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12258139611.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Mar 2017 19:04:44 +0900</pubDate>
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<title>初めての失敗（２ー３）</title>
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<![CDATA[ <p>勉強は楽しかった。</p><p>&nbsp;</p><p>兄が勉強しているのを傍らで見ていたことや、もともと自作絵本を描いていたので字も少しは書けたこともあって、他の子よりも勉強はできたほうだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>自分が知らないことを知ることが楽しかった。習った漢字は誰に言われたわけでもなく何度でもノートに書いて練習した。</p><p>私は特に漢字と作文が好きだった。本当に、飽きもせず漢字をノートに書きまくってしまうので、ノートを何冊も使い終わってしまった。ノートがもったいない、と言って母には家で漢字を書く時はノートじゃなくてチラシの裏に書きなさい、と言われたものだ。</p><p>当時の女の子は絵を書くのが好きだったし、私も絵を描くのは好きだったが、漢字の練習をしている方がよほど有意義だった。漢字を綺麗に、しっかりとした字で、書いた。</p><p>&nbsp;</p><p>どうしてそんなに練習していたのだろうか？それはおそらく、教科書の字に感化されたせいだと思う。当時の私は印刷という技術を知らず、教科書のあの綺麗な自体は「字がとても綺麗な誰かが書いたもの」だと思って疑わなかった。私も教科書の字のような綺麗な字を書けるようになりたい。そう思っていたのを覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>また、作文も大好きだ。「せんせい、あのね」という名前のノートがあり、必ず「せんせい、あのね」から書き始めなくてはいけない作文ノートがあった。</p><p>先生から与えられたお題について毎度書いていた記憶があるが、私は他の４人の数倍の量の長さの作文を書いていた。先生に「すごい」とほめられるのが、とても嬉しかった。</p><p>&nbsp;</p><p>字を書くのが、当時の私の楽しみだったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、小学生で勉強で困ったことがほとんどなかった私だが、ひとつ今でも覚えていることがある。</p><p>ひらがなの練習をしていた時、見本通りに書けなかった文字がある。</p><p>それが、「か」の字だ。</p><p>&nbsp;</p><p>当時ひらがな・カタカタ・漢字を新しく習う時は、手本を見ながら１０回ほど書いて、一人ひとり先生に見てもらっていた。私は文字を書くことが得意だったことから、ほとんど何も注意を受けずはなまるをもらっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、「か」だけは、上手く書けなかったのだ。</p><p>手本をじっくり見て、ゆっくり、丁寧に書くように心がけた。けれど上手く書けず、先生に書き直しを求められた。</p><p>書き直しなんて初めてのことで、私は悔しくなっていつもより気をつけて「か」の字を書き、提出した。それでも先生から花マルはもらえなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>３～４度目にして、ようやくOKがもらえた。よかった、と息をついたが、もらえたのは花マルではなくただのマル。</p><p>&nbsp;</p><p>「なんで花マルちゃうん？」</p><p>&nbsp;</p><p>私が聞くと、担任の浜地先生は淡々と答えた。</p><p>&nbsp;</p><p>「今回は書き直しが多かったからなぁ。花マルはあげられへんよ」</p><p>&nbsp;</p><p>花マルはあげられない―――。</p><p>&nbsp;</p><p>花マルをもらえていなかった人は多かった。</p><p>私だけが、毎度一回で先生から合格の判を押されていて、それをとても誇りに思っていたのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>けれどこの時初めて、花マルをもらえなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>それがかなり悔しかったのだろう、その時のことは今でも覚えているし、家に帰ってひたすら、何かにとりつかれているように「か」の字を練習した。</p><p>&nbsp;</p><p>この頃から、私の「負けず嫌い」の性格が顕著に現れている。私は人よりも優秀でいたい、という気持ちが人一倍強かったのだ。この頃から、そして今でも。</p><p>「か」の字に花マルをもらえなかったのは、おそらく人生で初めての小さな「挫折経験」とでも言えよう。</p><p>&nbsp;</p><p>大した失敗ではない、と大人なら笑うだろう。けれどそんな小さな失敗でも、２５歳の今でもその時の悔しさを覚えているのだから、大人の思うより子どもにとって「失敗」のショックは大きかったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12257566170.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Mar 2017 20:07:41 +0900</pubDate>
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<title>初めての学校（２－２）</title>
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<![CDATA[ <p>何度も言うが、私が引っ越してきたところは山の中にあったぽつんと建っていた。</p><p>林やいくつもの坂道を歩き、３０分ほど歩いて着く場所に、私の通っていた小学校がある。</p><p>自転車通学はなし。そして母も「足腰を強くするため」と、車で送ってくれることは体調不良の時以外はなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>母も通っていたK小学校に、１９９７年に私は入学した。</p><p>同級生は４人だった。</p><p>&nbsp;</p><p>４人。</p><p>多くの人は驚くべき数字だろう。少なく過ぎる、廃校寸前じゃないのか。</p><p>どちらもその通りだが、田舎の小さな小学校というものはそういうものだ。兄の学年も１０人に満たなかった記憶がある。</p><p>&nbsp;</p><p>私を含め５人という少人数学級だから、みんな平等で仲良いクラスが築けたのではないか？</p><p>おとなになってからこの話をするとよく聞かれるが、そんなことはない。どちらかといえば、５人の中で生き残りをかけたサバイバルゲームが日々繰り広げられていた。</p><p>・・・といえば少し大げさな表現になってしまうかもしれないが、巷でよく聞く「スクールカースト」というものがこんな小さな田舎の学校にも存在したのである。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなこととは知らずに、私は初めての学校に胸を膨らませていた。早く勉強がしたくてたまらなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>私は何故か昔から物覚えがよかった。兄が家で九九の段の練習をしているのを聞いて、兄よりも先に全部暗記してしまい、母に驚かされたことがある。</p><p>&nbsp;</p><p>私の同級生の４人のうち、女子は３人、男子は１人だけだった。</p><p>&nbsp;</p><p>官森華重（カンモリ　ハナエ）は、とても気の強い女の子だった。勉強は苦手で、年の離れた兄が３人もいる。帰り道も一緒だったこともあり、官森一家にはお世話になった。お兄ちゃんたちもよく遊んでくれたものだ。</p><p>&nbsp;</p><p>坪木瀬夏（ツボキ　セナ）は、体型がふっくらし、性格もとてもおだやかな子だった。両親が学校の先生をしており、家がとても大きく、年に一度は家族旅行に行っていたので、私は瀬夏ちゃんが羨ましくて仕方がなかった。私の家は離婚してから、お金がなかったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>枝岡初実（エダオカ　ハツミ）は、小柄でくるくるの目をもった見た目が愛らしい子だ。瀬夏ちゃんと並ぶと、本当に同い年なのか？と誰もが疑問に思っただろう。運動が得意で、剣道一家であり父が教師であることから、剣道・英会話・塾・スイミングなど、様々な習い事をしていた。初実はこの頃から、今に至るまで異性にかなりモテていた。</p><p>&nbsp;</p><p>唯一の男の子は、山井勘二（ヤマイ　カンジ）だ。柔道を習っていたが特にがっしりとした体型というわけでもなく、中性的な顔・体型をした男の子だった。同級生に男子がいない寂しさから、上級生の男子とよく遊んでいた。華重とは幼馴染の関係にある。</p><p>&nbsp;</p><p>華重と、瀬夏と初実と勘二。この４人と私は１つのクラスに集まった。</p><p>担任は浜地涼子先生。小柄でぽっちゃりとした中年女性だった。基本的には優しいが、厳しくするべきところでは厳しい先生だった。</p><p>&nbsp;</p><p>残念ながら、１年生の頃の記憶は私には多くない。けれどこの４人と私は、１年生のうちは仲が良かった。もちろんこんなに少人数なわけだから、クラス替えもない。</p><p>&nbsp;</p><p>仲に亀裂が入り始めるのは、２年生頃からだ。</p><p>このK小学校に私は６年間通い続けた。小学校の時代は、私から言わせてもらえば「嵐の前兆」の時代だった。</p><p>&nbsp;</p><p>子供らしく、なんでも信じて単純に行動したのは、一体何歳までだっただろう。</p><p>傘で空を飛べると思ったのは？</p><p>大人は魔法が使えると思ったのは？</p><p>サンタがいると信じていたのは？</p><p>&nbsp;</p><p>そんなことを信じていた純粋な時代が私にもあった。でもそれは小学校で終わりを告げた。</p><p>小学校という、成長の扉を私は叩いたのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12257295360.html</link>
<pubDate>Fri, 17 Mar 2017 21:05:44 +0900</pubDate>
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<title>あたらしいおうち（２－１）</title>
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<![CDATA[ <p>父と母の離婚が正式に成立したのは、私が小学校１年生の中頃だったという。その時母からは何も報告がなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>私は小学校低学年までは、何故かその時、またいつか父と一緒に暮らせるものだと思っていた。「りこん」なんて言葉の意味を知らないどころか、そんな言葉さえ聞いたこともなかった。母は私たちに「りこん」のことをいつ話すつもりだったのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>私は父と母の「りこん」について知ることになったのは、友達の一言のせいである。</p><p>&nbsp;</p><p>「愛子ちゃんのおばちゃんって、「りこん」したんやろ」</p><p>&nbsp;</p><p>私の頭の中にまず浮かんだのは、「？」の一文字。考えても見なかったことだ。友達から「りこん」の意味を知り、そうか、お母さんたちは「りこん」したんだ、と知ってしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>私はそのことを母に話さなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>――友達の華重ちゃんから言われたけど、お母さん、お父さんと「りこん」したん？―――</p><p>&nbsp;</p><p>―聞けなかった。子どもながら、遠慮したのだ。子どもの勘は、恐ろしいものだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>実はこの離婚の話は、私小学校２年生の頃のことだ。これから始まる物語は、私が小学１年生の時から始まる。</p><p>&nbsp;</p><p>あたらしい家は、今まで住んでいた街から車で３時間ほど走ったところにある。かなりの田舎で、周りは山しかない。自然に恵まれた、いや、恵まれすぎた土地だった。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちを笑顔で迎えてくれたのは、母の実の父母だった。</p><p>&nbsp;</p><p>母の父、つまり祖父は川口誠二。亭主関白という言葉を体現したような人だ。人付き合いはあまり得意ではないが、家ではよく笑いよく喋る。お酒と野球観戦が大好きな人だ。</p><p>そして母の母、祖母は川口ちえ子。年齢の割に見た目が若く、笑顔がかわいらしい人だ。ばーちゃんは、当時「ばあちゃん」と呼ばれるのを嫌い、言葉を少しかわいくして「あーちゃん」と私たちに呼ばせていた。私は祖母のことを三年生まで「あーちゃん」と呼んでいた。</p><p>&nbsp;</p><p>私たち相模一家４人と、川口夫妻２人。この６人が、私の新しい家族だった。</p><p>&nbsp;</p><p>そして家族ではないが、この家から車で５分ほど走ったところに、母の弟家族が住んでいた。</p><p>&nbsp;</p><p>母の弟、つまり私の叔父の川口彰平（ショウヘイ）はこの小さな町の役場に努めていた。外回りの仕事が多いため、かなり顔が広い。</p><p>いつも豪快で、叔父もまた亭主関白タイプだ。</p><p>&nbsp;</p><p>叔母の春衣（ハルエ）は運動神経抜群でノリのいい人だ。バレーボールを学生時代から続けていて、かなり若々しい。よく私たちの世話を焼いてくれたので、私たち兄弟は叔母のことを親しみをこめて「ハル姉（はるねえ）と呼んだ。そして今もその呼び名は変わらない。</p><p>ちなみにハル姉はもうすぐ５０歳である。</p><p>&nbsp;</p><p>そして川口家には２人の子どもがいた。私たちの従兄弟だ。</p><p>&nbsp;</p><p>長女の笑乃（エミノ）と、次女の夢乃（ユメノ）。名前から察することのできるように、かなり仲のいい姉妹だ。笑乃は泰香と同い年で、中学も一緒であったことから仲が良い。</p><p>２人は大人の言うことをきちんと聞いた。なんでも反抗する私や兄と大違いだった。だから私たちはよく祖父母に「笑乃と夢乃はいい子なのに、あんたらは～」と比較された。それが非常に嫌だったことを覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>しかも比較されたのはそれだけではない。叔父と叔母は勉強も運動もかなりできる方だったそうだが、その血は姉妹２人に受け継がれていた。２人とも成績は優秀だし、運動部に入ればたちまち脚光を浴びた。</p><p>特に妹の夢乃はすごかった。成績の順位はいつも一桁。バレーボール部では部長でエースアタッカー。オマケにイケメンの野球部の彼氏つき。なにもかもに恵まれていた。</p><p>&nbsp;</p><p>それに比べ、私たち兄弟は・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>兄は運動神経は良かった。しかし勉強は苦手。</p><p>私は運動神経はそこそこ、勉強だけは得意。</p><p>妹はどちらも苦手だった。</p><p>&nbsp;</p><p>５段階で数値化するとこんな感じだ。</p><p>&nbsp;</p><p>悠也　勉２　体５</p><p>愛子　勉４　体３</p><p>泰香　勉２　体２</p><p>笑乃　勉４　体５</p><p>夢乃　勉５　体５</p><p>&nbsp;</p><p>祖父母は悪意こそなかったと思うが、ところどころで私たち兄弟と川口姉妹を比べた。そのうち劣等感に悩まされたのは、何故か兄弟３人の中で私だけだ。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし幼いころはそんな安っぽい感情など芽生えなかった。私は従兄弟である笑乃と夢乃を新しい家に来て初めての友達ができたと思い、いつも一緒に遊んでいた。</p><p>&nbsp;</p><p>・・・今も仲がいいのか？</p><p>残念ながら、正月の時以外は一切関わりをもたないようにしている。</p><p>それにもわけがあるのだが、それもおいおい話していくことになるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>こうして、新しく家族となった祖父母と、近所の川口一家をはじめとして、私は少しずつ環境に慣れていき、小学校の入学式を迎えようとしていた。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12257063381.html</link>
<pubDate>Fri, 17 Mar 2017 00:10:12 +0900</pubDate>
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<title>さよなら６年間（１－１１）</title>
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<![CDATA[ <p>父と母の別居。</p><p>我が家にとっては大事件だ。それなのに私は当時のことをほとんど覚えていないのだ。どうでもいいことばかり覚えていて、こんな大事なことを覚えていないのか。</p><p>以下は、母から聞いたもので私は一切覚えていない。その点をご了承いただきたい。</p><p>&nbsp;</p><p>当事者だった母は当時の記憶が濃く残っている。子ども３人には大変つらい思いをさせたと言っている。</p><p>たとえば、別居すると母がお父さん側の両親（母からすれば義父母にあたる）に話した時だった。おばあちゃんのルリ子の悲しみは大層深いもので、いつも私たちをかわいがってくれた祖母は泣きに泣いた。</p><p>同じく嘉信（ヨシノブ）も私たちを可愛がってくれたため、しかも別居の原因が母の過ちにあることから、怒りは凄まじかったという。あまりの怒りに、母に手をあげてしまった。</p><p>しかし拳を振りかざそうとした祖父の前に、あろうことか、私が祖父の前に立ちはだかった。</p><p>&nbsp;</p><p>「お母さんを殴ったらあかん」</p><p>&nbsp;</p><p>穏やかな祖父が怒ることなど、今までなかったこと。その祖父が母に手を出すほどに怒ったことで、私は相当怯えていたらしい。泣きながら、そして体は震えながら、それでも大好きな母を守る一心で、震える体で母を祖父から守ろうとしたのだという。</p><p>母は涙を流し私を抱きしめたという。</p><p>&nbsp;</p><p>・・・なかなかある話ではないと思うが、これは母の記憶にしか存在しない。私は覚えていないし、祖父はもう今は他界してしまっている。</p><p>&nbsp;</p><p>「あんたは、昔から大事なものを守ろうという気持ちが強い。今でもそれが受け継がれてるんやな」</p><p>&nbsp;</p><p>人情に熱すぎるゆえにたちはだかった壁にぶち当たった時、母はよく私にそう言った。</p><p>&nbsp;</p><p>別居といえど、ことは順中満帆にすすんだ、とはいえなかった。</p><p>大きな問題は親権だ。</p><p>父は兄、もしくは私の親権をもつことを望んだ。何故妹は除外されているのか？もちろん妹を嫌っていたわけではなく、妹はまだ当時３歳で、子育て経験の乏しい父が男手１つで育てるには難しい年齢だったのだ。</p><p>一方母は、子ども３人とも父に譲る気は一切なかった。自分が過ちをしておいて・・・と思うかもしれないが、ここは当事者にしかわからないところだ。</p><p>&nbsp;</p><p>本当なのか？と疑う話がある。母は自分の生まれ育った自分の故郷で私たちを連れて生活するつもりだった。しかし別居する前に、親権を父にとられまいと兄だけ実家に送ってしまった。</p><p>そして残った私。私の親権争いは凄まじく、父と母で私と腕を引っ張りあったという。本当なのだろうか？私はもちろん、覚えていない。</p><p>この時、右に左に強く引っ張られ、私は痛くて泣き叫んだという。</p><p>&nbsp;</p><p>おそらく、離婚する前提で別居を決めていたのだろう。養育費に関して、母は父から一切受け取らないことにした。</p><p>幸運なことに母は看護師の資格をもっていた。看護師はいつでもどこでも需要の無くならない稀有な資格だ。これで私たち３人を養おうと考えていた。</p><p>&nbsp;</p><p>ただし、高校以降・・・つまりは大学・専門学校へ進学する時は学費を援助してほしい。</p><p>&nbsp;</p><p>養育費は一切なし。しかし高校以降の学費は一部援助する。</p><p>これが、父と母の間で交わした金銭的約束だった。</p><p>&nbsp;</p><p>どういう流れでそうなったかは分からないが、私たち３人の親権は母に譲られた。</p><p>&nbsp;</p><p>私が覚えているのは、母の実家に帰る日に行われた、近所で深いかかわりがあった人たちとのお別れ会だ。いつも遊んでいた野呂一家や近所のこどもたち、幼稚園の友達。お菓子や美味しい食べ物、大好きな友達と家族に囲まれ、楽しい気持ちになった。</p><p>&nbsp;</p><p>「ばいばい」</p><p>&nbsp;</p><p>車の窓から身を乗り出し、皆の顔が見えなくなるまで手を振り続けた。</p><p>その「ばいばい」に、私は大して深い意味を込めていなかった。「ちょっと旅行行ってくるね」という感覚だ。</p><p>&nbsp;</p><p>まさかもうここに戻ってくることはないと、６歳の私にわかっただろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>彼らに会うことはないと、６歳の私にわかっただろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>まったくこことは違う環境でこれから生きていくと、６歳の私にわかっただろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>答えはNOだ。</p><p>&nbsp;</p><p>たくさん遊んだ広い芝生。</p><p>&nbsp;</p><p>柿の木の種を植えて、本当に芽が生え木になると信じ水をあげ続けた小さな花壇。</p><p>&nbsp;</p><p>首をつっこんで抜けなくなった、アパートの支柱。</p><p>&nbsp;</p><p>ブタメンを買いに行った駄菓子屋さん。</p><p>&nbsp;</p><p>セミの羽化する瞬間を見た、寝室。</p><p>&nbsp;</p><p>６年間過ごしてきた、アパートの一室。</p><p>&nbsp;</p><p>寡黙ではあったけれど、優しかった父。</p><p>&nbsp;</p><p>――それらは、全て「過去」という箱の中に詰め込まれ、引っ越しに荷物とは別に詰め込まれた。</p><p>&nbsp;</p><p>私はお父さんなんか嫌いといつも言っていた。</p><p>ジョリジョリしたヒゲをいつも私の顔に押し付けてくるのが嫌でたまらなかったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど覚えている。</p><p>父の膝にのって絵本を読んでもらったこと。</p><p>高校のテストの丸つけを手伝ったこと。</p><p>&nbsp;</p><p>母の存在が大きすぎて隠れてしまった父の存在感。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど確かに私は父と暮らしていたのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>「私、本当はお父さんのこと嫌いじゃなかったよ」</p><p>&nbsp;</p><p>実家へ帰る時、何故か私は母へこんなことを口走った。母がそれを聞いてどんな気持ちになったかは想像に難くない。</p><p>&nbsp;</p><p>母が</p><p>&nbsp;</p><p>「知ってるよ」</p><p>&nbsp;</p><p>と私の目を見ず言ったことを、私は何故か印象に残っている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私は、今まで生きてきた６年間と別れを告げた。</p><p>&nbsp;</p><p>私、相模愛子の初めての「別れ」だった。</p><p>&nbsp;</p><p>（小学生編へ続く）</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12256756845.html</link>
<pubDate>Wed, 15 Mar 2017 23:35:04 +0900</pubDate>
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<title>プリンのおじさんと父母の亀裂（１－１０）</title>
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<![CDATA[ <p>プリンのおじさんという、母の友達がいた。</p><p>どうしてプリンのおじさんという呼び方なのかって？いつも会うたびにプリンをくれたからだ。いつもプリンをくれるおじさんに、私たち兄弟はプリンのおじさん、と親しみを込めて呼んだ。</p><p>&nbsp;</p><p>後に聞く話だが、プリンのおじさんは電話会社の人だったらしい。我が家に間違い電話をしてしまい、電話に出た母と何故か電話口で意気投合したのがはじまりだときく。</p><p>&nbsp;</p><p>プリンのおじさんはとても気さくで優しいおじさんだった。私たち兄弟は３人こぞっておじさんになついて、会うのがいつも楽しみだった。プリンもくれるし、いつも遊んでくれる。</p><p>&nbsp;</p><p>当時の私は、幼すぎて、母とプリンのおじさんがどんな関係なのか分からなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>ある日、私たち兄弟をつれて、母とプリンのおじさんとホテルに行ったことがある。そこはサービスのいいことに、当時流行っていたファミコンが置いてあった。しかも、私たちがプレイしたこともないカセットが置かれており、私たちは夢中で楽しんだ。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、夢中になりながらも、背後で母とおじさんがベットの上で裸になっていたことは覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>何をしているんだろう、どうして裸になっているんだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>幼い私は何もわからなかった。けれど幼いながらにその行為が「いけないこと」とわかったのか、その時のことは鮮明に覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>母とプリンのおじさんはいつからそんな関係になっていたのか。何もわからない。母は専業主婦だったし私は幼稚園に行っていたから、母の行動のすべては分からない。いつも母と一緒にいたであろう妹の泰香は当時のことを何も覚えていない。</p><p>&nbsp;</p><p>いつだったか、父が家出をしたことがある。父と母が大喧嘩をし、父が怒りのあまり家を飛び出したのだ。その時の恐ろしさは今でも覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>母は、泣いていた。アパートの狭い一室で、母は泣いた。覚えている限り、あれが私が初めて見た母の涙だった。</p><p>&nbsp;</p><p>なにが起こっているのかわからない、けれど母が泣く姿を見て私も悲しくなり、一緒に泣いていたことを覚えている。私も、兄も、泰香も、ただ母が泣いているからという理由で、４人で泣いていた。</p><p>&nbsp;</p><p>ただただ、泣いていた。それがどれだけ長い時間だったか、覚えていない。泰香は、泣き疲れて眠ってしまっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>夫婦仲が険悪になったのはそれからだろうか。記憶はないが、母が当時にことを思い出して語ってくれた。</p><p>ある日、私が「ご飯を食べに行きたい」と母に駄々をこねたことがあったそうだ。その時父と母の仲が険悪であったこともあり、以前のように仲良く食事をすることはできない。そういう真実を隠し、母は行けないよと私に言った。</p><p>この時私は異常なほどに駄々をこね、お願いだから、お願いだからと泣きながら母に頼んだ。けれど、母は分かっていた。外に食べに行っても、あの時のように家族５人が笑顔で楽しく食事をすることはできないのだと。母は私を抱きしめ、こっそり涙を流したそうだ。</p><p>&nbsp;</p><p>それから、父と母の別居が決まったのは、これよりほどない時のことだった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12256245692.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Mar 2017 11:37:16 +0900</pubDate>
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<title>悪意なき子ども（１ー９）</title>
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<![CDATA[ <p>幼稚園で私は女子のなかでもかなりわんぱくな子どもだった。</p><p>室内でお絵かきしたりおままごとをしている女の子がいたが、私はそれよりも外でかけまわって遊んだり、ドッチボールをして男の子と遊んでいるほうが楽しかった。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなある日、一人の外国からきた男の子が転園してきた。その男の子の名はロベルト。日本語はあまり話せなかったが、体力はあり、ドッジボールや外の遊びをすると彼に勝てる人はいなかった。</p><p>当時は皆ロベルトを羨ましがった。私もその中のひとりだ。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、いつのまにかロベルトは園からいなくなっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>転園したのか、それとも不登校になったのか、わからないが・・・本当に、気づけばいなかったのだ。</p><p>私が最後に見たロベルトは、思いつく限りだと、泣いている顔だ。</p><p>ロベルトは最初こそ注目の的だったが、性格は少し攻撃的だった。日本語がうまく使えないから仕方ないのだが、相手に自分の意思が伝わらないと怒り、つい拳で語ってしまう有様だった。そのため次第にロベルトは周囲から疎まれ、いじめにあうようになっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>ある日ケンカをして、先生たちに泣きながら取り押さえられていたのが、私が彼を見た最後の記憶だ。ロベルトは体格も幼稚園児離れしており、他の男の子よりもひとまわり大きかった。そのため先生たちも取り押さえることに苦労しただろう。</p><p>&nbsp;</p><p>おそらくそれが、私が生まれて初めて目にした「いじめ」である。こんな幼い頃からいじめというのは存在するのだ。</p><p>そして子どもであるから、悪意なないだけ余計に質が悪い。</p><p>&nbsp;</p><p>いじめといえば、私はこの頃いじめの被害者になったことはない。しかし、嫌われてしまったことはある。</p><p>当時よく男の子と遊んでいたため、私はたくさんの男の子を好きになっていた。じゃんけんが強いから、だとかよくわからない理由で好きになっていのだ。</p><p>もちろん今となっては、あんなのが恋愛でないことは分かっている。しかし幼いながら、恋愛というものがデリケートな話題であることはよくわかっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>私が特に印象に残っている男の子は２人いる。</p><p>一人は、枝村昌善（エダムラ　マサヨシ）君だ。私は彼のことを「まっちゃん」と呼んでいた。</p><p>彼とは多分幼稚園の中で一番仲が良かった。うちの幼稚園では背の順で並ぶことが多かったが、私は女子の中で一番背が高く、まっちゃんは男の子の中で一番大きかった。</p><p>そんな単純な接点だったが、私とまっちゃんはとても仲良くなった。</p><p>&nbsp;</p><p>まっちゃんとの当時の思い出は多くない。しかし、私が高校生になってから彼の存在感がグンと大きくなることは、当時の誰もが知る由もない。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、松阪敏一（マツサカ　トシカズ）君。彼は、私をとことん嫌っていた。</p><p>最初はただの友達だった。けれどなんとなく意味もなく好きになり、仲の良い女の子に「実は敏一君のことが好きなんや」と言っていた。もちろん、「誰にも言わないで」という言葉も忘れずに。</p><p>しかし、その子はその言葉を忘れてしまったようだ。その友達は私が敏一君のことを好きなことを、他の誰でもない敏一くん本人にばらしてしまったのだ。</p><p>幼いながら、私はその友達に怒りを覚えたことを覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>確かに幼い頃は言って良いこと、いけないことの区別がつかない。一人の女の子が、あるクラスメイトに「○○ちゃんって○○君のこと好きなんだってー！」と大声でばらされて泣いていたことを私は覚えている。</p><p>彼女ほどひどい状況ではなかったが、彼女と同様に私の好きな人の情報は本人にしっかり伝わった。</p><p>&nbsp;</p><p>ある時、私が机の下にもぐってお絵かきをしていた時、急に敏一君に肩を叩かれた。ふと顔をあげて敏一君を見ていると、</p><p>&nbsp;</p><p>「僕のことを好きにならないでください」</p><p>&nbsp;</p><p>と一言だけ言って、去っていった。</p><p>&nbsp;</p><p>それっきり、敏一君は一切私と口を聞いてくれなくなった。</p><p>&nbsp;</p><p>告白もしていないのに面と向かってふられた経験。多くの人はそんな経験はそんな経験はないかもしれない。</p><p>けれど幼いながら私は経験してしまった。そして幼いながら、ショックだった。</p><p>こうして２５歳になっても忘れられないほどには、ショックだった。</p><p>&nbsp;</p><p>いじめること、秘密を言いふらすこと。</p><p>子どもの悪意なき行為だ。</p><p>その悪意なき行為を身をもって体験し、そして傍観しながら、私は育った。</p><p>&nbsp;</p><p>６歳まで幼稚園でそうして通っていたが、この頃から我が家では少しずつ変化が起きていた。</p><p>それは最初はほんの些細な変化ではあったが、少しずつ、私だけでなく、母や父、兄、泰香まで、どんどん侵食していったのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12256019581.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Mar 2017 16:57:08 +0900</pubDate>
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<title>愛する母（１－８）</title>
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<![CDATA[ <p>母は、私の中で絶対の存在だった。父があまり家にいないことや母が専業主婦であったこともあり、私たちはとにかく母親にべったりだった。</p><p>&nbsp;</p><p>特に真ん中の私の母親っ子ぶりは兄弟の中でも一番だった、と母は言う。兄弟の真ん中だからなんだろうか、と思うこともあるが、本当のところはどうなのかわからない。</p><p>ある日家族でどこかへ出かける時、父と母は各自一台ずつ車をもっているが、どういうわけか私は父の車に乗せられた。おママと一緒がいい、と私は散々駄々をこねたが、この時は受け入れられなかった。妹の泰香だけが母の車にのり、私は父の車の後部座席から、後ろをついてくる母の車を泣きながらじっと見ていたことをよく覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>このまま、母はどこかへ行ってしまうんじゃないか・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>根拠のない考えが頭から何故か離れなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>母は過激なしつけをする一方、こどもをからかって遊ぶことも好きだった。私が一番よく覚えているのは、母の「死んだふりごっこ」である。</p><p>急に母が布団の上で倒れ、動かなくなり、喋らなくなる。数え切れないぐらいこの遊びをしても、何度でも私たち兄弟はこのからかいにひっかかった。</p><p>&nbsp;</p><p>「何やってんだこいつは」と興ざめたように新聞を読む父を横目に、私たち３人は「起きてよ」「死なないで」と泣きながら母を起こそうと必死だった。叩いたり、体をゆすったりしても、動かない。もちろんしばらくすれば母は起きてくるのだが、今思えば子どもの純粋さを利用した悪い遊びなんじゃないかと思う。</p><p>私も何度もひっかかっていたためか、最終的には「また嘘なんやろ」と冷静さをもつように律した。しかし泰香は咽び泣くため、だんだん本当に死んだんじゃないかと様子を見に来て、今度は本当に死んでた、と結局泰香と泣くという有様だった。単純である。</p><p>&nbsp;</p><p>近い身内が本当に死んでしまったという経験をしたのは、これよりずっと後の１９歳の頃のことだ。</p><p>私はその時のことを鮮明に覚えているし、今思い出しても涙が出てくる。</p><p>人の死が本格的にトラウマになってしまうのは、これより以後の話である。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12254737177.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Mar 2017 13:17:28 +0900</pubDate>
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<title>母のしつけ（１－７）</title>
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<![CDATA[ <p>私は、甘ったれた典型的なゆとり世代の申し子だと思う。</p><p>叱られることが大嫌いだし、常識もない。団塊の世代からは疎ましがられるタイプである。</p><p>&nbsp;</p><p>こんな人だから、さぞ親は甘やかして育ててきたのだろう・・・他人からはそう見られてもおかしくない。</p><p>しかし実際、私の親、とりわけ母親の光は、ほかのどの母親よりも厳しかったと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>もし今、当時と同じことをしたら児相に通報されるんじゃないか・・・そう思うほど、母のしつけは過激だった。</p><p>何故あんなことをしたのか、今母にきくと、「口で何度言ってもきかないから、叩いてわからせるしかなかった」らしい。確かに、自分や兄の素行の悪さを聞けば、そう思ってしまうのも頷ける。</p><p>&nbsp;</p><p>ゲンコツやビンタされた数は未知数だが、今でも痛烈に覚えている出来事が２つある。</p><p>１つは、火遊びの件である。私は２度火遊びをしてしまったことがあった。喫煙者であった父のライターで遊んでいたのだ。絶対してはいけないときつく言われたのに、私は２度もしてしまったのだ。</p><p>母は当時を振り返り、あの時はただひたすら無心だったと言う。火遊びは生命にも関わるものであるから、母は徹底して「しつけ」をした。</p><p>その時私が覚えているのは、母の幾度かわからないビンタと、壁に投げ飛ばされ、「ごめんなさい」と謝っても蹴られ殴られ、もう散々だった記憶である。</p><p>あれだけは、恐ろしくて恐ろしくて、今でも鮮明に覚えている。そのため私は小学校３年生まで、ライターやマッチを恐ろしくて使えなかった。</p><p>ちなみに兄は私よりも強者で、この少々厳しすぎる罰を二度母から受けている。</p><p>・・・強者である。</p><p>&nbsp;</p><p>もう１つは、外へ放り出されたことである。</p><p>私たち兄弟、とりわけ私と兄は、片付けが苦手に加え母の言うことなど全く聞かなかった。いくら「出したら片付けなさい」と言われてもどこ吹く風で、部屋いっぱいにおもちゃを放置して、自由に遊んでいた。</p><p>そんな私たちに、母は時々堪忍袋の緒が切れる。「片付けの出来ない子はうちの子じゃありません」と、私たちを家の外に放り出した。その対象はいつも私と兄である。</p><p>放り出されて、「ごめんなさい」「あけて」とドンドンと泣きながらドアを叩いた思い出は強く残っている。そしてそれは、季節を問わないため真冬は大変だった。</p><p>外へ放置された時間は永遠にも感じられた。実際は数分だったかもしれないが、絶望に叩き落とすには十分な時間だった。</p><p>・・・にもかかわらず、私と兄は幾度となく外へ放り出されたのだが。</p><p>しばらくすると兄は放り出されることに慣れ、鍵をかけていなかった車の中へ避難して母の怒りのほとぼりを冷めるまで待っていたという事があった。その時母は別の意味で怒っていた。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、外に放り出すという躾は、お隣の野呂一家のお得意のしつけ方法でもあった。</p><p>&nbsp;</p><p>こうして書くと、母を知らない人は「なんてひどい母親なんだ」「虐待だ」と思うだろう。そのため弁明させてもらうが、私は母を虐待した親などと思ったことはない。母を恨んだこともない。</p><p>この頃より１０年以上後のことになるが、私は心から「この人を母親にもってよかった」と心から思ったことがあるし、兄や妹も同じように思っているだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>これだけ厳しいしつけをされても、母親はこの世でただ一人しかいない。この世でただ一人の、私が世界で一番愛する人が、母だ。</p><p>兄弟三人、全員母への依存心は強い。母がもし急死してしまえば３人とも後を追うんじゃないか・・・そう思うほどに。</p><p>&nbsp;</p><p>そうなったのも、小さい頃からへの母親への過剰な愛ゆえであろうか。私は小さい頃、他の人が呆れるほどのお母さんっ子だった。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく</p>
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<link>https://ameblo.jp/imopasta/entry-12254624217.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Mar 2017 00:30:55 +0900</pubDate>
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