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<title>えりお</title>
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<description>なんかいろいろ綴っているウェブログ</description>
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<title>友人は妄想</title>
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<![CDATA[ <br><br><br>友人という存在は、不確かで、主観的なものに過ぎない。<br>言葉の端々で、自分の考える「友人」と他人の考える「友人」の理想像に相違があることが如実だと理解できる。<br>もはや私には「友人」はいない。<br>「友人」は消えた。<br><br>損得勘定を含まぬ関係を真の友情と言うのであれば、その損得勘定は一体誰の価値観により決まっているのだろう。<br><br>必死だった感情が、熱を失ったようにさめていく。<br><br>私は必要なかった。<br>誰も私を必要とはしない。<br>私ですら自身を必要としていない。<br>あるべき理由を失った。<br><br>泣く者がある傍らで、笑う者がある。<br>私は後者になれはしないのだと悟った。<br><br>いったい何を私は期待していたのだろう。<br>のばしても、それを受け取ってくれる手は差し伸べられないとわかっていたのに。<br>水のない場で水車が回る。<br>意味もなく。<br><br>死への恐怖が潰えたときに消えてしまいたいと強く願う。<br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11546228460.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Jun 2013 17:45:38 +0900</pubDate>
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<title>名言</title>
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<![CDATA[ 個人的に好きな名言や好きなフレーズを。<br><br><br>陰があるから、光が眩しい。<br>冬があるから、春が暖かい。<br>自由だって、一緒ですよ。<br>――ショートアニメ「むきだしの光子」<br><br><br>高い壁を乗り越えた時、その壁はあなたを守る砦となる<br>――出典不明<br><br><br>どうにもならない今日だけど平坦な道じゃきっとつまらない<br>君と生きてく明日だから這い上がるぐらいでちょうどいい<br>――歌詞「wind climbing～風にあそばれて～」<br><br><br>失くしたものが増えたさみしさを身軽になれたんだと笑えるかい<br>――歌詞「太陽の真ん中へ」<br><br><br>成功が努力よりも先に来るのは辞書だけである<br>――出典不明<br><br><br>ルーシー <br>「SOMETIMES I WONDER HOW YOU CAN STAND BEING JUST A DOG..」 <br>（時々，あなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ…）<br><br>スヌーピー <br>『YOU PLAY WITH THE CARDS YOU'RE DEALT..WHATEVER THAT MEANS』 <br>（配られたカードで勝負するっきゃないのさ…それがどういう意味であれ）<br>――スヌーピー（谷川俊太郎訳）<br><br><br>Impossible（不可能）をI’m possible（可能）に<br>――ダイナブックのCM<br><br><br>No rain,No rainbow（雨なくしては虹はでず）<br>――ハワイのことわざ<br><br><br>あなたが死にたいと願った今日は、昨日死んだ人が生きたいと願った明日<br>――出典不明<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11437404857.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Dec 2012 15:52:21 +0900</pubDate>
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<title>人に科せられた罰</title>
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<![CDATA[ 人に科せられた罰と罪について、皆さんは考えたことがありますか。<br>私は常々思うのですが、いつも答えは出ません。<br><br>ただ、ひとつの大きな罰として「老いること」があると思うのです。<br>生きることもそれに準ずると言えます。<br>ではそれは何故か？<br><br>個人的な情緒の問題なので、深くは考えないでお読みいただければ幸いです。<br><br>老いること。<br>それは人間に限らず、極端な話をいえば短命である蝉や蛍も死に向かい老いています。<br>また、さらには広義では、細菌なども老いているということになります。<br><br>ただ、人間にあってそのほかの動物にないもの。<br>それは、人間が情緒をもつ生き物だということです。<br>もしかしたら、私たちが知らないだけで、動物はおろか植物すらも情緒をもっているかもしれませんが、それはまた少し隅のほうに置いておくとします。<br>（ちなみに、季節に哀愁を感じるなどの情緒は、おそらく人間特有の感情ではないかと思っております）<br><br>親なり兄弟など、周囲の愛する人が先立つ苦痛。<br>ときを経て変わり行く風景。<br>見知ったものが次第に消えていく悲しみ。<br><br>人は老死に近づくにつれ、背負う悲しみもいっそうのものとなり得るのではないかと思うのです。<br>（若くしてその命を終えてしまう方では、また違う悲しみや辛さもありましょうが、ここでは触れないでおくこととします）<br>高齢者の無縁死や孤独死が増えているこのご時勢では、より「老い」への恐怖や不安が募ることでしょう。<br><br>この世に生を受け、子を成し、愛するものを見送り、また、見送られる。<br>おおよそ一世紀のあいだを生きていく中で、培われる感情や思い出は計り知れません。<br>老化に伴い、物事を忘れるようになってしまうことは、細胞の衰えでもありますが、情報や思い出がしまいきれずに溢れ出てしまうということでもあると思うのです。<br>それほどに、人間は、多くの様々な思い出の中で生きているのです。<br><br>老いるということは、ある種、可変のものを受け入れ続けていかねばならないということ。<br>様々なものを、たとえ思い出としてしまおうが、「なくしていく」ということ。<br>愛するものを残し、自分を「なくす」ということ。<br><br>それこそが、人間に科せられた罰なのではないかと思うのです。<br>知識や知恵をもつかわりに、その「知恵の実」に苛まれることが。<br><br>私は老いることが最も恐ろしいです。<br>見知ったものや風景が移り変わる現実を、受け入れたくないのが本音です。<br>成長および老いとは、悲しみとも向き合っていかなければならないということだと常々考えさせられます。<br><br>ほんの刹那の幸せを感じるために、数多の苦痛に悩むのなら、私は生きることに価値観を見いだせません。<br>それでも生きることを本能でおこなっているのだから、おかしいですね。<br>生きたい本能と死にたい理性のはざまで、結局は本能にしたがう自分が、滑稽で致し方がありません。<br>少しの幸せを追い求めることができるという可能性にすがっているに過ぎないのかもしれません。<br><br>いつか答えが見つかったとき、私はこの世に別れを告げるでしょう。<br>きっと、すべてを悟ったならば、死に恐怖もなく、生きることの無意味さを嘆くことで。<br>幸せはまやかしだと、ある種の麻薬ですらあると、私は信じて疑いません。<br>幸せのその先にはなにがあるというのでしょう。<br>終には悲しみや恐怖を経た死が待ち受けているというのに。<br><br>何をも知らぬまま、しずかに消えてしまえたら、それが一番の幸せかもしれません。<br>私にとってはそれだけが望みであり、一縷の光なのです。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11420255665.html</link>
<pubDate>Tue, 04 Dec 2012 23:41:58 +0900</pubDate>
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<title>正論を語ろうとする者</title>
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<![CDATA[ 私は様々なことに対して自分の思いを記事にあらわしていますが、そこに絶対の正義を強調することはしておりません。<br>もしもそういった風に受け止められる方がいらっしゃるのであれば、あくまでも一個人のひとつの考えだと捉えていただけたら幸いです。<br><br>皆さんに嫌いなものはありますか？<br>私は正直にいえばあります。<br>ですが、それをここに羅列したところで何かが変わるわけではありません。<br>私が嫌うものを好きな人が、不快な思いをするだけです。<br><br>自分が攻撃もしくは非難を受けたとき、人は防衛機制に入りがちです。<br>自分そのもの、またその価値観を否定されていることと等しいからだと思います。<br>‘言いわけ’をすることは誤りではありません。<br>自己の考えや主張を、説明することで補い、より人に理解してもらおうとする行為だからです。<br><br>ただ、反射的に、あわよくば人を傷つけかねないことを言動にしてしまう人があります。<br>それは正しいでしょうか。<br>自分が傷つけられたからといって、自分もまた、だれかを傷つけてよいものでしょうか。<br><br>結局は、いたちごっこになりかねない傷つけ合いを、繰り返す意義はあるのでしょうか。<br><br>自分の正義や価値観を押し付けることほど虚しいことはありません。<br>またそれを公に発してしまうことほど滑稽なことはありません。<br><br>自分が正しいと思っている人があるのならば、それは正しくもあり誤りです。<br>自分にとっての正義に違いはありませんが、他人に押し付けられるものではありません。<br><br>そういった方々は、中途半端に自分を美化している人ほど多い傾向にあると私は思うのです。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11399049652.html</link>
<pubDate>Wed, 07 Nov 2012 22:08:32 +0900</pubDate>
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<title>決められた価値と平等の普遍性</title>
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<![CDATA[ すべての生き物は同等の価値をもち、また、だからこそ、上もなく下もないのが本来のあるべき私たち生き物の姿なのだと思います。<br><br>かの有名な福沢諭吉で知られる学問のすゝめですが、そこには概ね「人は平等ではありませんよ、学こそが差をつけるのですよ」といったことが著されています。<br>そこでいう差は、人間としての差というよりかは、どちらかというと社会における差だと私は解釈しています。<br>ただ、社会的に差があれど、人間としての価値に差が生じるのかといえば、それは誤りなのではないでしょうか。<br><br>よく私は人に見下されますが、そのときに常々思うことがあります。<br>「私とこの人のあいだにどれほどの違いがあるというのだろう」と。<br>秋田に住んでいたときには見たことのなかったホームレスの方々や、家柄や一定の土地に住まいを持っているだけで差別を受ける方々。<br>夏に飛び回る蚊や、忌み嫌われがちなゴキブリ、犯罪者。<br>上に挙げたものと私とのあいだに、どれほどの隔たりがあるというのだろう、と。<br><br>優劣を、大概の人が勘違いしている。<br>自分を基準に、誰が有益であり、だれが無益であるかを考えるほど愚かなことはありません。<br>仕事においてはその限りとはいえませんが、あまりにも、思い違いをしている人が多すぎる。<br><br>平等や平和という言葉は都合が良いですね。<br>つねに基盤は大多数に便乗している自分の固定観念であるということを自覚している人が、いったいどれくらいあるというのでしょう。<br>たとえ自分は平等な精神を持ち合わせていると自負している者でも、果たしてその深層心理はいかほどのものなのでしょう。<br><br>一様に言えるわけではありませんが、得てして、自分の‘立ち位置’を決定づけてしまう人が多いのが現実だと思うのです。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11391827425.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Oct 2012 18:48:33 +0900</pubDate>
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<title>気づく人間気づけない人間</title>
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<![CDATA[ 気づけない人はある意味、かわいそうだと同情してしまう。<br>それは、何か決められたものにではなく、様々なことに対して。<br><br>私は、人に不満を抱いても、それを当人には言いません。<br>言ったところで無意味だと分かっているからです。<br>理解できる人にならば、私の気持ちを言葉で伝えます。<br>しかし、現実はそう甘くありません。<br><br>人は自分の言動を正当化しがちです。<br>それは特定の人たちなのではなく、すべての人に当てはまることなのです。<br>そして他人の言葉を素直に受け止められる人も少ない。<br>だからこそ私は、つねに自分を省みる努力をしています。<br><br>たとえ納得がいかなくとも、いったん、言葉を受け止める。<br>反論はしない。<br>自分にとってそれが正しくとも、誰かにとっては間違い、すなわち不快である可能性が無きにしも非ず。<br>否定をすることは、その人の考えまでをも拒絶していることに等しいと感じるからです。<br>何より、自分自身、それだけは絶対にされたくない。<br><br>たとえば、自分がされて嫌だったことを、人にはしないようにする。<br>それは言葉では簡単に言えても、実際に易々とできるものではありません。<br>しかし、しようとする人間、それにすら気づかない人間のあいだには、大きな隔たりがあるように思えるのです。<br><br>自分の言動が正しい、それを無意識に認識し、どうかすると自らの言動は誤りではないにしても、正しいとは言えないのではないか、そうとすら考えが及ばない人たち。<br>人間関係、広い意味での社会において、それは果たして、通ずるものでしょうか。<br><br>妥協や許容の果てに、人間関係は良好に保てるものだと、私は思っています。<br>なかには、妥協など一切せずとも快い関係を築けている方がいるのも現実です。<br>ですが、大半においては、自己主張や、価値観の押し付けばかりでは、成り立たないのではないかと思うのです。<br><br>本当に自分本位ないしは自己中心的な者とは、他者の価値観を見ようとも、理解しようとも、気づこうともしない者なのではないかと思ってやみません。<br><br>私は少なくとも、気づける人間でありたい。<br>人の気持ちすらくめない人間にはならないように。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11389566863.html</link>
<pubDate>Fri, 26 Oct 2012 23:29:02 +0900</pubDate>
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<title>滅びの美学</title>
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<![CDATA[ 終焉があるから美しい。<br>滅びの美学。<br>よく、日本人の独特な心情を煽るとされています。<br><br>フランダースの犬では、日本人と諸外国によって受け止め方が違うことで有名です。<br>負け犬の野垂れ死にとも、美しい死ともいえませんが、例によって大多数の考えを取り上げているだけなので極論には違いありません。<br><br>フランダースの犬については、個人の意見として、単に世間の在り方について考えてしまいます。<br>本人にとって、絶望の淵にたてば、かすかな希望すら見えるわけがなく、ましてや手を差し伸べる人や死後を考える余地はないのではないでしょうか。<br>どうにもしようがない、致し方がなかった。<br>ややもすれば打開できたかもしれませんが、当人にとっては死のみが見えていた状況だったと思えば、やるせない気持ちにはなります。<br><br>話を元に戻します。<br>滅びの美学は日本人特有の感情に則っているかのように言われがちですが、それは誤りだと思います。<br>自らの考えや決定により死を以て意志を貫く、それは欧米でも美しい死として受け入れられています。<br><br>滅んでも、生きたとしても、そこに自分の強い意志があれば、良しではないのだろうかと常々思います。<br><br>滅びの美学を肯定するなら、自殺も一種のそれとみなしても問題は生じないと思うのですが、人間は勝手ですからね。<br>残される遺族のことや、主として生きることを絶対だとする風潮により、自殺は正しいこととしてあまり考えられてはいないようです。<br><br>結論としては、人間は自分の都合のいいように解釈する。<br>それだけです。<br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 21 Oct 2012 17:45:49 +0900</pubDate>
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<title>文章は芸術</title>
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<![CDATA[ 文章は芸術だと思います。<br>ひとつひとつの単語、それをつなぎ合わせてできる言葉、句読点が散りばめられ、ある種の一貫した内容を伴う文章。<br><br>たとえば、「花が咲く」という文章でも、人により表し方が異なります。<br>季節の花が顔を見せる。<br>色とりどりの花が咲きほこる。<br><br>また、だからこそ、人により、文章の好みが出てきます。<br>私は簡潔で、なおかつ美しく、くどくない文章が好きです。<br>あるいは、星新一のように淡々とした文章をつづっているものも好きです。<br>内容がともなっていることが第一なのですが。<br><br>ちなみに、私の好きな作家は以下の方々です。<br>・芥川龍之介<br>・森鴎外<br>・与謝野晶子<br>・東野圭吾<br>・星新一<br>・中島らも<br>（宮部みゆき）<br><br>逆に、苦手な作家は以下の方々です。<br>・村上春樹<br>・綿矢りさ<br><br>基本的に、一部の男性作家と、大体の女性作家は苦手なのだと思います。<br>皆さんも、一度ご自身の傾向を確かめてみてはいかがでしょうか。<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11384973784.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Oct 2012 13:08:17 +0900</pubDate>
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<title>価値</title>
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<![CDATA[ 人間としての価値がお前にはない、そう言われました。<br>生きているだけで害にしかならないと。<br>私には恋愛も、娯楽を楽しむことですら許されないことだと。<br><br>夜に家を出ました。<br>しばらく散歩をしていました。<br>だれも、私を心配することはありません。<br><br>きっと、私がこの世界から消えても、世界は変わらないし、周りも、次第に忘れていく。<br>そう思えば、私の‘価値’は無きに等しいのだと感じました。<br><br>自分自身が、自分を愛せるなら、それだけで救われるのに。<br><br>人を好きになってはいけない人間だといわれ、怒りより先に、「ああ、そうだなあ」としか思えなかった。<br>確かに、私は生きていてはいけない存在なのだろう、そうとしか思えませんでした。<br><br>ある人に言われました。<br>「いい人だけど、つまらない人間」<br><br>人と接することが怖い。<br>嫌われたくない。<br>でも、自尊心をずたずたに傷つけられて、へらへら笑っていられるほど強くもない。<br>私はわがままで、傲慢で、自分主義な人間なのだと悟りました。<br><br>だれかが私を殺すのではなく、消してくれたら。<br>ただそれだけを望みます。<br>もしくは、誰しもが、私を拒絶し嫌ってくれたら。<br><br>私は自分自身が疎ましい。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11382681890.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Oct 2012 18:05:07 +0900</pubDate>
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<title>人を裁く秤</title>
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<![CDATA[ 人に自分を理解してもらおうとしても、それは無駄だと母は言います。<br>皆がそれを望めば、ただの自己主張の押し付け合いにしかならないと。<br><br>結果がたとえどんなものであれ自分の考えが正しいのだと思うのなら、それを主張し続ければ良いと。<br>しかし最悪の結果を避けたいのなら、自分がどうにかするしかないと。<br><br>正しいものはこの世にただ一つとしてありません。<br>それは、皆が皆、自分の世界こそが正義として生きているからです。<br><br>食べるために動物を殺している現実を、弱肉強食といって理由づけ、正当化します。<br>食べられる動物に、そんな理由が通じますか？<br><br>結局、受ける側にかかわらず、人は、自分が行うことに対して正当化するための理由をつけます。<br>謝罪しかり、どんなことであれ、自分本位の考えに至ります。<br>それがある種の摂理です。<br><br>どんな善を施そうと、どんな悪行をはたらこうと、根本にあるのは、自分の思想や考えに則ったそれです。<br>たとえば、人を殺しても罪にならない世界なら、それが秩序となり、世界の均衡は保たれたままになるでしょう。<br>一緒なのです。<br>罪も、善も、悪も、悲しみも、喜びも。<br><br>正義の定義が法則的ともいえるこの世界。<br>結局は倫理という名のもとに、それが大多数の意見だとして押し付けているだけに相違ないのです。<br><br>人間として生を受けた以上、その罪の禍根からは逃れる術がありません。<br><br>くじらを擁護する団体も、牛肉や豚肉は口にするでしょう？<br>動物愛護をうたう団体も、家畜の肉は食らうでしょう？<br>ペットを飼っている人たちも、豚肉や鶏肉、牛肉を食べるでしょう？<br><br>結局、自分に都合のいいことを言って満足しているのが人間なのです。<br>私は、そんな人間に生まれたことに、きっと死するそのいまわの際にまで、悩み悔やみつづけるでしょう。<br>でもそれが、人間に科せられた生を受けてから死ぬまでの、長い罰なのだと思うのです。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/imori9e/entry-11381456150.html</link>
<pubDate>Tue, 16 Oct 2012 23:24:22 +0900</pubDate>
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