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<title>ina021のブログ</title>
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<title>『やさしいライオン』から読み解く人間の本質～超哲学入門一歩前～</title>
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<![CDATA[ <h3><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250730/14/ina021/6a/a6/j/o1200062615642973628.jpg"><img alt="" height="323" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250730/14/ina021/6a/a6/j/o1200062615642973628.jpg" width="620"></a></h3><h3>はじめに</h3><p>やなせたかし作の絵本『やさしいライオン』を通して人間の本質について考えてみました。あらすじは以下のとおりです。</p><p>&nbsp;</p><p>動物園で母親を亡くした赤ん坊のライオンはその寂しさでミルクを飲めずに飢え死にしそうだった。そこで代わりの母親を探すのです。その母親はムクムクという赤ん坊を亡くしたメス犬だった。</p><p>&nbsp;</p><p>何年か経ち立派なライオンに育ち、毎日楽しく日々を過ごしていたが動物園に転園され、親子は離れ離れになってしまいます。何年か経ち、ライオンのブルブルはサーカスの人気者になっていました。</p><p>&nbsp;</p><p>ある日、お母さんの子守唄を思い出し、檻を破って探し回るのです。町は大騒ぎになり兵隊が出動します。ライオンのブルブルは、すっかり年を取り、死にかけているムクムクを見ています。2人が一緒になった瞬間、銃が一斉に火を噴きます。ライオンのムクムクとブルブルは重なるように亡くなっていました。</p><p>&nbsp;</p><p>やなせさんは、戦争を経験し、何が正義かを深く考えた人でした。いくらライオンでも、親子の愛情は切っても切れないものです。</p><p>&nbsp;</p><p>ライオンは犬に愛情いっぱいに育てられ、母親に会いたくて仕方がなかったのでしょう。しかし町の人にとってはライオンは猛獣です。殺さなければ、住民の命が危ぶまれたのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、どちらも、その側の立場に立てば正義は成り立ちます。やなせさんには戦争という悲惨な現実を体験した人にしかわからない悲しい経験がありました。</p><h3>強さは美徳？</h3><p>人間の本性は、存在を太らせるという存在欲求であるため、人間は強ければ強いほど良いという観念が生まれます。なので、強さや、勇気は最高の美徳と考えられてきたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>したがって、戦争は高貴なものとみなされ、名誉心から容易に起こされえたからです。強さの現れである戦争自体の内に尊厳があるかのように、人々には見えていました。</p><p>最近では、ソ連がウクライナに進行して領土を拡大するのも、自国が強大になることを民衆は喜びとしたのです。それは、自国の領土を侵害されるという驚異から守るという現れだったともいえます。</p><p>&nbsp;</p><p>やなせさんはこのような人間の力による戦争に対して、本当の正義を求めていたに違いないのです。本当の正義は力と力との対決ではないないことを訴えたかったのでしょう。</p><p>もし本当の正義があるとすれば、ムクムクとブルブルの温かいやさしさにあることに気づいたのでしょう。強さではなく弱さの中にこそ本当の正義が隠されていることだといえるのではないでしょうか。</p><h3>絶対的道徳的命令とは</h3><p>絶対的道徳的命令とは、カントの言う「定言命法」のことです。その絶対的道徳的命令とは、他者を道具として使ってはいけないという命令です。</p><p>&nbsp;</p><p>犬のブルブルに育てられたライオンのムクムクは、ブルブルに愛情をもって育てられたにもかかわらず、動物園に戻り、サーカス団に売られえてしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>まさに道具としてライオンのムクムクはサーカス団に売られてしまったのです。ところが、母である犬のブルブルの愛情を思い出し、街の中に飛び出してしまったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>既にライオンという猛獣になったムクムクは、街の住民に恐れられ、兵隊が出動します。やっと犬のブルブルを見つけたのもつかの間、兵隊の銃によって殺されてしまうのです。まさに物として扱われてしまったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>絶対的な道徳命令とは、他者をただの道具として使ってはいけないという命令です。他者は目的自体だということです。</p><h3>目的自体とは</h3><p>目的自体とは、人間は単なる手段ではなく、それ自体が目的として尊重されるべき存在とみなすという倫理的な考え方です。</p><p>&nbsp;</p><p>人間を手段として扱うということは、奴隷状態と同じ考え方です。つまり、人をモノと同じように扱う考えです。戦争はまさに人をモノとして扱い、相手の敵も当然モノとして殺していったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>でもよく考えてください。人間には「自由」があります。自由とは他者から強制や拘束を受けずに、自らの意志や本性に従って行動できる状態をさすのです。これこそがカントの言う「目的自体」ということです。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、ライオンのムクムクは人間ではありませんが、モノではなく「目的自体」としてムクムクに愛情深く育てられてきました。</p><p>&nbsp;</p><p>それが、動物園に戻り、サーカス団に売られ、まさにモノとして扱われていったのです。ところが、母親同然に育った犬のブルブルの愛情を思い出し、死ぬ前に会いたいと思ったに違いありません。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、いざ街中に出れば、猛獣としてしか扱われません。やっと会えたブルブルと再会したとたん、兵士の銃によって射殺されてしまいます。</p><h3>おわりに</h3><p>この物語は、やなせたかしさんが「アンパンマン」を書くきっかけになった作品といわれています。なぜなら、正義とは何かを考える作品になっているからです。</p><p>&nbsp;</p><p>正義は力によって簡単にひっくり返るものだとやなせさんは考えました。そこで、本当の正義は何かをこの作品を通して考えたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ようやく、本当の正義を探し当てたのです。それは、困っている人に仕えるという考え方です。苦しんでいる人、お腹のすいている人に奉げるという考えです。</p><p>&nbsp;</p><p>そこから、「アンパンマン」という作品が生まれます。アンパンマンは、困っている人やお腹のすいている人がいれば、すぐさま飛んで行って、自らの顔をちぎってパンを与えるところです。</p><p>&nbsp;</p><p>この考えは聖書にも次のよな言い伝えがあります。</p><blockquote><p>あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者はすべてものの僕になりなさい。</p><p>マルコ福音書10-43~44</p></blockquote><p>本当の強さとは弱さの中にあるのかもしれません。力による人間の考えは支配でしかありません。それどころか、モノとして人間を扱いかねます。</p><p>&nbsp;</p><p>自由である人間は、「目的自体」としていきています。なので、だれからも、モノとして扱うことはできないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ブルブルもムクムクも人間ではありませんがモノではありません。人間同様「目的自体」として生きています。猛獣として扱われたムクムクは、最後は銃殺されてしまいました。</p><p>ブルブルに愛情深く育ったムクムクは、母親の愛情に支えられていたに違いありません。絶対にモノとして扱ってはならなかったのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ina021/entry-12919722378.html</link>
<pubDate>Wed, 30 Jul 2025 14:27:59 +0900</pubDate>
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<title>グリム童話『パンを踏んだ娘』から見た人間の本質～超哲学入門一歩前～</title>
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<![CDATA[ <h3><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250729/10/ina021/52/12/j/o0749047615642159302.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="394" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250729/10/ina021/52/12/j/o0749047615642159302.jpg" width="620"></a></h3><h3>はじめに</h3><p>グリム童話のなかに『パンを踏んだ娘」という童話があります。高慢な娘だったために小鳥にされてしまうという話です。</p><p>高慢は神が最も嫌う態度で、最も罪深いとされています。聖書にこんな一説があります。</p><blockquote><p>知恵を得るのは金を得るのにまさる、悟りを得るのは銀を得るよりも望ましい。<br>悪を離れることは正しい人の道である、自分の道を守る者はその魂を守る。<br>高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。<br>へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。<br>慎んで、み言葉をおこなう者は栄える、主に寄り頼む者はさいわいである。</p><p>箴言第16章16-22</p><p>&nbsp;</p></blockquote><p>旧約聖書『<ruby>箴言<rt>しんげん</rt></ruby>の書』は『格言の書』ともいわれ、格言やことわざが収められています。旧約聖書が知恵文学といわれる所以です。</p><p>さて、今回のお話は、グリム童話の中でももっとも聖書のたとえ話に近いものです。この『パンを踏んだ娘』はインゲルというわがままな娘がパン屋に養女としてもらわれます。</p><p>その娘を大切に迎え入れたパンや夫婦でしたが、やがて、パン屋の生活に慣れるに従い、文句をいったり八つ当たりするようになります。</p><p>だんだんとインゲルは、横柄になり、店の手伝いすらせず、部屋に閉じこもって、自分を飾ることばかりに夢中になっていきました。</p><p>そんなある日、インゲルは地主さんにパンを届けることになります。外は雨が降っているにもかかわらず、きれいな服を着ていったばかりに、水たまりをよけることができません。パンを泥の中に投げ込んでまで、自分の服が汚れないようにしてしまいます。</p><p>その態度に怒った神は、水溜りの穴深くに落としてしまいます。そのあと神からこう告げられます。「お前は傲慢でわがままだ。親切なパン屋の気持ちを踏みにじり、大事なパンを泥除けとして踏んだ。その罪は重い」と。</p><p>とうとう雀になってこの世に戻ってきて、自分が踏んだパンの重さになるまで、パンくずを他の鳥たちに食べさせるという課題が課されます。最後はパン屋のかみさんのほうきにあたり昇天します。</p><h3>心が転回する（メタノイア）</h3><p>自我しか知らなかったインゲルは、私のことしか考えていませんでした。しかし、神の言葉を聞いて回心します。つまり、インゲル自身の中に自己が現れ、我執から解放されるのです。</p><p>メタノイア（metanoia)とは、悔い改めることですが、あくまでも神の業であり、人間の能動性に働きかけます。したがって、徹底して受動性なだけでなく、絶えず続く状態であり、不完全な人間が完成（最高善）を目指した働きにすぎません。</p><p>インゲル自身もパンや夫婦のやさしさに甘え、わがままは一層助長されました。夫婦はしきりに自分達の力の及ばなかったと反省するばかりでした。</p><p>しかし、さすがの神もあまりにも自惚れと傲慢に我慢ならず、雷が落ちます。インゲルはひどい雨の中、パンを地主さんに届ける途中、水溜りにはまって穴に落ちてしまいます。</p><p>鳥となって、パンくずを鳥たちに食べさせるという罰が与えられるのです。最後はおかみさんのほうきにあたって昇天していまうのです。</p><p>その間、インゲルはパン夫婦がとても親切にしてくれたことを思い出し、店の手伝いもせず、自分の洋服のことばかりに夢中になったことを反省するのです。</p><h3>無知の自覚</h3><p>たとえば、大災害があり、多くの方が命を落とすということがあります。身近なことでいえば、能登の大地震や水害などが実際に起こるのです。ただ、その意味は人間にはわかりません。悲劇的偶然としか人間にはわからないのです。</p><p>しかし、神の目から見ると何らかの意味があるのかもしれません。「神の<ruby>経綸<rt>けいりん</rt></ruby>」とはオイコノミア（oíkonomía)とよばれ、人間を含めた大自然の秩序は神の定めによるものといわれています。なので、雨によって青草が生え、稲妻が光るなども神自身が創造し支配しておられるということです。</p><p>おそらく、人間の分際でわかることではないのです。つまり、罪人であろうと善人であろうと、等しく日は昇り、雨を降らせてくださるのです。</p><p>そういう意味では、神の働きを等しく受ける者でもある人間は、神の子でもあるのでしょう。だからこそ、最も日の当たらない弱者や虐げられている者にこそ、日を当てていくことが必要なのです。</p><p>人間の愛はあくまでも人間の愛ですが、同時に神の働きでもあるのです。</p><h3>インゲルの苦しみ</h3><p>インゲルの苦しみこそ、ヨブの苦しみと同じです。人間は不幸に襲われることによって、他者の苦しみに目覚める可能性があります。</p><p>なので、インゲルが泥沼から抜け出せなくなり、すずめになってようやく、パン屋の夫婦のやさしさがわかったのです。そうならなければきっとわからなかったでしょう。</p><p>ただ、神は簡単には人間に戻してくれませんでした。すずめにしたことで、小さなパンくずを、捨てたパンの大きさになるまで罰を課したのです。</p><p>なぜなら、本当に悪いことをして、もう二度と同じ過ちを繰り返してほしくないためです。なので、本当に元に戻りたければ、他のすずめのために餌を繰り返し与えなければならないのです。</p><p>しかしすずめは、おかみさんの周りをしつこく飛び回るものですから、ほうきではたかれてしまいます。おかみさんが拾い上げてようとしましたが、すずめはさっと起き上がり、そのまま店の高みを目指して飛んで行ってしまいました。</p><p>結局インゲルは元のかみさんのところへ、元の人間の姿になって戻ることはできなかったのです。</p><h3>まとめ</h3><p>インゲルの罪は、決して許されるものではなかったのです。老夫婦にとってはひどい仕打ちだったのです。</p><p>それでも老夫婦は、インゲルがいなくなってからずっと探し回る毎日が続きました。しかし、また寂しい2人暮らしに戻ってしまいました。</p><p>それでも、パン屋にとっては自慢の娘だったのです。地主さんのところで毎週日曜日に行儀作法を習うことになった時でも、おかみさんは失礼のないように、娘の切る者や持ち物にたいそうなお金を使って用意したのです。</p><p>それもこれも可愛い娘のために至れり尽くせりのことをしてあげたのです。ところが、インゲルは地主さんのうちに行くや否や野暮ったい服にイライラし、夫婦に文句をいったり、八つ当たりするようになっていたのです。</p><p>それでもパンや夫婦は、自分達の力が及ばないことをため息交じりに、インゲルのいわれるままになってしまったのです。</p><p>それを見た神は、どうにか立ち直り機会をうかがっていたのでしょう。それでもインゲルのわがままは止まりません。とうとう水溜りにパンを落とした、それを踏み台にしようとしたのです。</p><p>神はそれを見て、もう二度と人間社会に戻れないように、暗い沼に閉じ込めてしまったのです。</p><p>最後まで、罰を償うことができず、昇天してしまったのです。</p><p>犯した罪は決して許されません。しかし、罪を犯した魂は償いによって救われるのです。しかしその償いは、生涯の罪を背負っていることを決して忘れてはならないでしょう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ina021/entry-12919414865.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Jul 2025 10:08:11 +0900</pubDate>
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<title>正義とは何か～トロッコ問題から考える～超哲学入門一歩前</title>
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<![CDATA[ <h3><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250727/14/ina021/d7/f1/j/o1440081015641072756.jpg"><img alt="" height="349" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250727/14/ina021/d7/f1/j/o1440081015641072756.jpg" width="620"></a></h3><h3>はじめに</h3><p>正義とは何か。果たして人間に「正義」を言う資格があるのかを「トロッコ問題」から考えてみたい。</p><p>ではなぜ、人間には「正義」をいう資格がないのだろうか。結論から言えば、完全ではないからだ。</p><p>人類２千年の歴史の中で今だに戦争を繰り返している現実を見ただけでも明確なのだ。</p><p>ところで、トロッコ問題は以下の内容だ。</p><blockquote><p><img alt="" decoding="async" height="1024" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" src="https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/12924ceb15a5bd2926fcb9c260017f09.jpg" srcset="https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/12924ceb15a5bd2926fcb9c260017f09.jpg 1024w, https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/12924ceb15a5bd2926fcb9c260017f09-300x300.jpg 300w, https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/12924ceb15a5bd2926fcb9c260017f09-150x150.jpg 150w, https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/12924ceb15a5bd2926fcb9c260017f09-768x768.jpg 768w" width="1024"></p><p>暴走したトロッコの先に5人がいて、そのままトロッコが突っ込むと5人は死んでしまう。でも、あなたが路線を切り替えるレバーを引けば、5人の命を助けることができる。逆に切り替えた場合には1人が死ぬという仕組みだ。</p></blockquote><p>この問題は、きわめて倫理的問題であり哲学的領域なのだ。どちらに転んでも人は死ぬ。でも、5人死ぬより1人死んだ方が5人は助かるということもある。</p><p>瞬間に判断を迫られた場合、人間はどう判断するのだろうか。あるいは神ならどうなのか。</p><p>「正義」はいったいどこにあるのだろうか。人間は多くの場合瞬間的にレバーを引くだろう。どちらに転んでも非常に後味が悪い。</p><h3>カントの正義感</h3><p><img alt="" decoding="async" height="630" sizes="(max-width: 1200px) 100vw, 1200px" src="https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/008f440edd8a311bc88f6ab390aaef28.jpg" srcset="https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/008f440edd8a311bc88f6ab390aaef28.jpg 1200w, https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/008f440edd8a311bc88f6ab390aaef28-300x158.jpg 300w, https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/008f440edd8a311bc88f6ab390aaef28-1024x538.jpg 1024w, https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/008f440edd8a311bc88f6ab390aaef28-768x403.jpg 768w" width="1200"></p><p>ところで、カントは正義をどう考えたのか。一言でいえば、人間の自由を保障する以上は、道徳的法則（法律）に従わなければならないということである。</p><p>なぜなら、人は放っておけば人を殺しかねないからだ。なので、カントは、「人は絶対に他人を殺してはならない」という法律（定言命法）が必要だと説いたのである。</p><p>もう少し、哲学的にカントを考えると、人間には、感性、悟性、理性という認識によってモノを判断しているというのだ。</p><p>簡単に言えば、モノを見た瞬間の判断が感性的認識なのだ。例えば、リンゴは様々な情報がインプットされているためにリンゴと判断しているのである。</p><p>要は、以前に食べて味わっているからこそ、これがリンゴだと瞬間的に見て判断できているにすぎないのだ。</p><p>ところが、まったく情報がなければ、何かの赤い物体にしか見えない。</p><p>つまり、感性的（感覚的）判断がいかにあいまいなものなのかということである。</p><p>したがって、ものの認識には、まず感性的認識があって、次に悟性（知性）的認識によって、納得するまで高めていく。さらに、理性によってその理由を明確化できる段階に達するのである。</p><h3>善と悪の正義感</h3><p><img alt="" decoding="async" height="680" loading="lazy" sizes="(max-width: 1200px) 100vw, 1200px" src="https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/d3f28204faa6d01d4682cc86163e8208.jpg" srcset="https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/d3f28204faa6d01d4682cc86163e8208.jpg 1200w, 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width="1200"></p><p>哲学は人間の善と悪について主に扱ってきている。正義とは善であり、不正義とは悪であるということでもある。</p><p>善の追求こそ人間としての生き方であるとソクラテスは考えた。依頼、プラトンもアリストテレスも善の追求をしてきたのである。</p><p>その考えはキリスト教と合体し、アウグスティヌスやトマス・アクィナスによって、さらに磨きをかけるに至ったのである。</p><p>したがって、欧米社会の考え方のベースになっているのは、善としての生き方であり、人間としての善の追究なのである。</p><p>なので、人間は放っておけば、悪に傾くため、生涯にわたって、知恵を学ばなければならないというのだ。それが善の追求であり、人間の義務なのである。</p><p>では、なぜ放っておけば悪に傾くのか。アウグスティヌスは人間は無（死）に傾く存在だからだといっている。</p><p>なので「俺は何をしてもかまわない、自由だから」という発想になる。この点をカントは自由だからこそ自制が必要だと説いている。</p><p>「人を絶対に殺してはならない」という究極の命令は、「人は人を傷つけてはならない」というきまり（定言命法）の上に自由があることを忘れてはならないといっているのだ。</p><h3>ソクラテスの弁明</h3><p><img alt="" decoding="async" height="1775" loading="lazy" sizes="(max-width: 2560px) 100vw, 2560px" src="https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/b7f3b4060642cde1e3b6d2bf60dc11c0-scaled.jpg" srcset="https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/b7f3b4060642cde1e3b6d2bf60dc11c0-scaled.jpg 2560w, https://inamo.blog/wp-content/uploads/2024/10/b7f3b4060642cde1e3b6d2bf60dc11c0-300x208.jpg 300w, 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width="2560"></p><p>ソクラテスはまさに哲学の祖だ。有名な言葉に、自分の心に嘘偽りがあってはならない」といっている。</p><p>最終的に裁判の中で死刑を言い渡されるのであるが、最後の弁明が「うそ偽りをもって命乞いなどできない」といって毒を飲んだのである。</p><blockquote><p>世にもすぐれた人よ、君はアテナイ人であり、知と強さにおいてもっとも偉大な、最も名の聞こえた国の一員でありながら、金銭をできるだけ多く得ようとか、評判や名誉のことばかり汲々としていて、恥ずかしくないのか、知と真実のことは、そして魂をできるだけすぐれたものにすることは無関心で、心を向けようとしないのか。</p><p>プラトン＝田中、藤沢2010:18</p></blockquote><p>人間であるとは善く生きることである。決して<ruby><ruby>媚<rt>こ</rt></ruby></ruby>び<ruby>諂<rt>へつら</rt></ruby>うことなく、周りに同調しないことこそ自己の自由を守ることであるとソクラテスは考えたのである。</p><p>自己の自由を守るとは、人間であることの条件なのだ。もし仮にこの自由が奪われたとしたら、自らモノになり下がる存在になることである。</p><p>死してなお自分の信念を曲げない生き方を貫いた人だったのである。</p><p>正義を貫いて、自分の心にうそ偽りのない信念を持っていた人だったといえる。</p><h3>まとめ</h3><p>さて、「正義」について、トロッコ問題を足掛かりとして考えてきた。結論はどちらを選んでも正解であり、不正解であるということだ。つまり正解はない。</p><p>なぜなら、「正義」という観点から考えると、人間の判断は極めてあいまいであり、法の力を借りなければ正義はなり立たないことがわかるからだ。</p><p>かといって、戦争などはどちらも「正義」という大義名分を掲げて戦っているのだ。</p><p>したがって、歴史を通して人間が培ってきた法と自由の関係の熟成が現代に貢献しているのである。</p><p>現代の法律のベースになっているのは、聖書が大いに貢献していることは確かである。</p><p>既に2千年以上の歴史の中で、傷つけられたものの立場に立って人間の傲慢を裁いてきたからに他ならない。</p><p>人間はもともと完全ではないので、完成を求めて生涯をかけて知恵を学ばなければならないとトマスは言っている。</p><p>自由が人間であるための条件である以上、それを自制する法が必要なのである。</p><p>ソクラテスは「善く生きる」ことが「人間になる」ための条件であるといっている。</p><p>※さらに詳しく知りたい方は私の著書を紹介生ます。</p>
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<pubDate>Sun, 27 Jul 2025 14:15:38 +0900</pubDate>
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