<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>阪神ﾀｲｶﾞｰｽのキチガイのブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/ishibashiken/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/ishibashiken/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>そのひとは今どこに</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ほんにほんにあの女どこでどうしておるのやら　これは立原道造の詩の一説である。いとしくも懐かしい気持ちとある種の後ろめたさがまじってこの詩の一説をを口にすることがある。その人は横浜市電の「日本大通」という停車場のまん前の三階建てのビルの受付にいた。男子社員の間では美しい人とだ評判で騒いでいた。私のいた会社は輸出部門にスカーフとカーテンのセクションがあり内地部門ではスカーフとハンカチーフのセクションがあった。その外に東京支店と大阪支店があった。一階は受付の脇から裏門に行く通路の左側は受付の前に内地部門その奥に輸出部門の作業場があった。裏門の反対側は後に社員食堂ができる。社員の出勤、退社はこの裏門を使った。裏門を出ると広い道路があってその向こうは横浜公園だった。南側は教会があり我々はチャペルセンターといっていた。車もほとんど通らなく静かなと所であった。右にいくと伊勢崎町にいき左に行くと中華街で我々はチャン街と言っていた。正門の前を左に行くと大桟橋にいきその手前を右に曲がると山下公園だった。会社から10分ほどだった。</p><p>　二階は総務部、輸出と内地の事務所と宣伝広報の推販課があった。一番奥の部屋がデザインを担当する意匠課があった。三階は半分が寮生の部屋で大小四つの会議室があった。入社以来四年半で仕事が面白くなっていた。その人は結核で療養して復帰後一年たっていた。その人のいた受付の前を通ることはほとんどなくその人に会うのは朝出勤の時だけであった。たまに郵便物を届けに私の机にくることがあった。私はスカーフの春物と秋物と企画をデザイナーとねりそれの生産に携わっていた。捺染関係の工場の管理も忙しくデザイナーとの打ち合わせと工場を廻ったり自分の席に座っても来客の応対とで事務処理の時間がなく六時過ぎてからやっと落ちつくというのが毎日であった。八時過ぎに仕事が終わりそれから飲みにいった。野毛の場外馬券売り場の前の奥に我々のたまり場の居酒屋があった。行くと多い時は六.七人はいた。みな独身。三日に一日は飲みに来ていた。そこで女の人が話題になることも多い。なかでもその人のことが話題になることも多くみなきれいだと言っていた。私はその人に始めて会ったとき自分が男の人に関心を持たれる、自分は男にもてると思っている女だと思った。鼻持ちならないと思った。私はその時からその人をちやほやしないしその人を徹底的に無視した。</p><p>　受付の前のスカーフ作業場は染めあがった反物の検品し手巻きやにまわす。プリントミスやキズをチェすることにした。主には百貨店で売られるから不良品を出すわけには行かないのである。シルクのスカーフは周りを糸でまくのである。当時横浜には主婦の内職として手巻きの仕事が多かった 。それから一年たち前々から思っていたことだが事務所と作業場を別にするすることは良くない。スカーフの課員全部で物は作るべきだと。部長に相談し事務所を作業場に移すことにした。これでスカーフの仕事全体を管理できることになるのだ。スカーフの部屋をでるとまん前がその人のいる受付があった。受付の上に二階、三階にいく階段があった。デザイナーとの打ち合わせやスカーフの図案の商品化の決定とか結構二階に行くことがおおかった。月に二回は東京支店にいき得意先を支店の連中と廻る。月に一回は大阪支店に行き得意先周りと支店の連中との打ち合わせにいっていた。大阪にはなかなか行く時間がとれずにいたが大阪の支店の営業の責任者がうまく考えて土曜日か月曜日にきてくれといってきた。土曜日は当時やすむところはなかった。間の日曜日に私が京都の寺を回れるからだ。京都の寺は高校一年の終わった春休みに漱石の「虞美人草」を読んだ。このなかに近代的な娘の「藤尾」と普通の娘の「糸子」とかなり古風な「小夜子さん」が登場する。藤尾の義理の兄の河野さんと糸子の兄の宗近君が比叡山に登った日に泊った旅館の隣のしもたやの家からお琴の音が聞こえてくる。そのお琴の主が小夜子さんだつた。三人の娘の特徴はここでははぶくが小夜子さんが住んでいた家を捜しに二年の夏休みにバイトして貯めたお金で京都にいき旅館街の近くを捜したが見つからなかった。ただこういう家だろうなと思われるところはあった。</p><p>帰りに「三十三間堂］に寄った。千体からの千手観音には驚かされた。田舎で見る仏像はお地蔵さんだったからだ。それから京都通いが始まったのだ。当時同期の同僚とアパートを借りて自炊をしながら二の谷と言うところに住んでいたが彼女が出来て団地が当たって藤沢の善行に引っ越すことになった。その旨を総務課にいいに行くとそこの課員の女の人が行く所は決まっているの聞くのでまだこれからだと言うと家で家を建てていて二部屋部屋を貸すことになっているし自炊も出来るというのでそこに決めた。そこは上大岡の刑務所の奥だった。横浜に行くバスは何本もあり通勤は楽だった。ある朝バスに乗ってると上大岡の駅の前のバス停にその人が立っていた。美しい人だなあと思ったものだった。三四日して弘明寺の横浜国大前のバス停から最近入ってきた意匠課の絵描きの女の人が乗って来た。バスを相生町で降りると向こう側に渡り会社までYMCAの脇を通り一本道だった。その人とバスに乗り合わせたここともあるし前をあるいたこともあるし後ら来たこともある。意匠課の女の人とは一緒に歩いて会社にむかった。その人の前を二人して歩いたこともある。後ろから歩いてきていることが分かると意匠課の女の人を待たせタバコ屋によったこともある。その間その人は先にいって行ってしまうこともあった。今にして思えばその人のことを意識していたのだ。わざと意匠課の女の人と仲がいいように見せようとしていたのかもしれない。しかし会社では私の部屋をでてその人の前を通る時は一切その人をみることはなかったがあるときスメタナのモルダウを口にしながら階段を下りて来るとその人は私を呼んだ。今の曲はなんというのですかと聞くのでスメタナのモルダウというのですというとおおむかえしにスメタナモルダウと口にしていた。これがその人との初めての会話である。相変わらず飲んでいた。ある夜誰かがその人には婚約者がいるらしいと云っていた。そうか婚約者がいるのかますます私からは遠い人になったなあとおもった。</p><p>仕事は順調だった。そういえば入社三ヶ月目に事務所のうらの倉庫をかたずけるようにいわれた。明けてみると反物がまるまる１反とか大小のはぎれとかつまっていた。ノートとセロテープをもってきて生地とはぎれからきりとりノートにはっていった。それを杉田の産業課試験場に持つていきいろいろ教えてもらった。サテンは朱子織、ツイルは綾織とかそれと重さを表す呼び名はテン匁サテンはどういうことか教えてもらった。ついでに染料についても聞いた。染料の種類とかその染料をどの生地に使うか、つまり絹、木綿、化繊の染料は何かということを教えてもらいあとは捺染工場で学んだ。そういえばデザインの選定についても学生の時友人に見せられたルオーの絵をみて驚いたこと(それまでは教科書でみたミレーの落穂ひろいしかみたことがない)と友人の柿崎に連れられてみた「モンパルナスの灯」の映画をみた。モリジアニの映画だった。それ以後すっかり絵をみることが好きになった。銀座の裏通りのなもなき絵描きさんの描いた画廊をみてまわった。ちなみにこの友人の柿崎は上野駅近くの4号線に沿って家があり消防器具をあつかっていた。私も学校の消火器の取替えに春休みにバイトでいっことがある。この柿崎の家族が柿崎を除き全員が強盗に入られ殺されたというすざましい事件が会った。柿崎は今どうしているか。ずうっと気になっている。この絵に対しての関心が会社に入って大いに役に立った。集められたスカーフの図案の選定で役にたった。デザイナーは線の使い方がうまいとか構図がいいとか色の使い方がいいとかを云うからそんなことは美術館でやってくれというのだ。スカーフとして売れるか売れないかを決めるのだ。スカーフとして商品化されない図案は単なる紙切れだといって絵描きの連中にきらわれた。そういえば型だしについても学んだ。意匠課のデザイナーの児玉さんという人が型屋を呼んで捺染するための型を作るための図案を渡す。型屋は自分の所にトレーサを置くか外注のトレーサーに頼んでいた。図案の一色ずつをひろいフイルムにかいていくことをトレースするという。児玉さんは図案をトレースする時の注意を例えばここはコンテを使って書きなさいとかここはハケを使えとか指示する。型が出来ると紙に試し刷りをして会社に持ってくる。それを絵刷りといった。この絵刷りをおおきなスクラップブックに番号と柄名を書いてはりつける。秋、冬ものだけで千柄ぐらいになるから時間をくう。しかしこの絵刷りを整理しながら型だしした図案がどのように上がってきたかを自分なりにチェックした。これは勉強になった。その人を意識し始めたころは仕事に自信をもっていた。大阪への出張は日曜日をはさんだスケジュウルにしてくれていたから喜んで大坂に行った。秋冬物の企画は1月からばじまつた。2 月は大坂に図案をもって大坂の営業マンと得意先を回った。月曜日の昼久し振りに社員食堂にいった。私の座った隣の前にその人がいた。食事をしながら前、横の社員と話をしていると大坂出張のことになり昨日は京都に行き例の如く寺の話になった。私は一日四つか五つの寺を見に行くがそのうちの二つは一度訪ねた寺にいく。それが楽しみなんだと話すとその人は「意外な趣味があるのね」といって私のほうをみた。私は当時女子社員からのん兵衛でだらしないと言われていただ。Yシャツは洗濯はするがアイロンをかけないで着ることは平気だった。アイロンを持ってないのだからシャンメエと思っていた。私の事務机の端には文芸春秋か朝日ジャアーナルを置いていた。会社にくるバスの中で読むのだ。文芸春秋は高校をでて東京に出てきた時から毎月10日にかい読んでいたし朝日アーナルは創刊号から読んでいた。高橋和己の邪宗門は毎号楽しみにしていたものだ。朝日ジャアーナルがつまらなくなったのは筑紫哲也が編集長になってからだ。若者に迎合したような記事が多くなりつまらなくなつた。更に下村満子に代わりなおつまらなくなった。それで朝日ジヤアーナルを読むのをやめた。食堂の件があってから自分達の部屋を出てその人を前を通っていくとなんとなく背後に視線を感じていた。それまでなんとなく受付にその人がいる気配は感じたがその人のほうを見ることはなかった。ある日部屋を出てその人をみるとその人は私を見ていた。私も見るとめがあった。じいっと見ていて私がめをはなした。歩きながら全身が熱くなることを感じた。その日からその人のことを強く意識するようになった。しかしいつも彼女にはフィアンセがいるのだからこれ以上には発展はしないとあきらめる以外になかった。それからはその人の前を通る時できるだけ見ないようにしたが見ると眼が合い見つめ合った。好きになってはいけないと自分に言い聞かせながらだ。しかしこうも考えた。見つめ合うことを楽しんでいると。一月の終わりに受付からその人に名前を呼ばれた。近ずくと京都はどこがいいんですかと聞かれた。常寂光寺と二月か三月の雪の日の高山寺、それから念仏寺から釈迦堂の脇に来る道でここには私が好きになった人を連れて行きたいと思っていると言うとその人は好きになる人が出来るといいですねと言った。何云ってるんだしゃあしゃあと、内心わかっているくせにと。すこし自惚れていたのでしょうか。三月の初め修業時間に裏門の所で工場の人と話をしているとその人がきた。同僚のS君が車で出かけようとしていたがその人はS君の側に行きどこに行くの聞き彼が上大岡の先までと言うとぢやあ乗せていってと私に聞こえるようにいい私のほうを見ながらドアを明け乗りこんだ。わざとこれみよがしにしやがったなと思った。その夜何時ものように飲みに行った。飲みながらもその人のことを思っていた。やはりその人のことを好きになってるなと思った</p><p>。しかし会社に来るときバスの中でとか降りたときに意匠課の絵描きの女の人と一緒だった。いろいろ話しながら会社まで歩いていった。たまにその人がバスに乗って来たこともあるし我々の前を歩いていたこともあった。しかしその人と口をきくことはなかった。そして三月の中旬意匠課の女の人は会社をやめて結婚するという。彼女が言うには貴方とのことが会社で噂になってるし韓国の女は日本人とは結婚しないと。だが当時の私はその人のことが頭からはなれずにいたからああそうですかと冷静に彼女の話を聞いていた。4月になると会社のマスターラインと言う車を磯子のプールの自動車の練習場で運転の練習をした。試験場の車と同じ大きさだからだ。それより前本屋から運転免許の取り方というのをかってきて練習をした。杉田の自動車が学校にいくとエンジンのかけ方から教官の言うとおりに運転した。終わると教官は貴方は登校卒業認のコースを全部こなした。二俣川の試験場に行きなさいと言われた。それで試験場に行き一発で免許を取得した。それから会社の連中が試験をうけにいったが全員取れなかった。私は云ったのだ。私の運転は「運転免許のとりかた」という本を丹念に読んでいるから正確で我流ではない。本を読みその通りに運転するから受かったのだ。5月5日に免許証をもらった。いつか助手席に人を乗せることがあるが最初に乗る人をは誰かと思いそして決めた。その人のところにいき私の運転する助手席に乗ってくれませんかといった。県庁の脇の郵便局に会社の郵便物を出しにいくから乗せてと言った。私の最初の運転にその人は乗った。6月になってもその人とは眼と眼と会い見詰め合うことは続いていた。その会社は裏門の所に二間の部屋があり夜は当直者が二人づつ交代で泊った。雨が降っていたがテレビで歌番組では島和彦という人が「雨の夜貴方は帰る」と言う曲を歌っていた。(貴方は夜帰る　それを信じてまってるは　泣いて甘えたあの夜を思えばまた泣けてくる　それがせつないしのび雨　)これをききながらその人のことを思った。だってそれがせつないしのび雨とはいいですよ。工場から帰って裏門に歩いていたらその人が裏門をでてくるのにあった。私は一瞬立ち止まるとその人も立ち止り私の方を見た。私もじいっとその人を見た。みつめあった眼をそらし事務室に入いり机に座ってやはりその人を好きになっていると思った。梅雨に入ったとき事務所をでるとその人が私を声をかけた。その人の前に行くとその人はこう云った。「なぜ私に冷たいのですか」と私はとっさに「貴方を好きになっはいけないと僕は思っているから］と言った。その人は下を向いていた。私も歩きながらとんでもないことをくちにした と思いつつだが好きになっていることは事実だがその人にはフィアンセがいる。これ以上発展のしようがない。仕事は相変わらず忙しく業績は上向いていた。つつきに一回の本、支店間の会議では我がスカーフ部門は利益の会社の半分以上をかせいでいることが発表されたこともある。課員の男連中に胸をはって歩くな、ねたみが多いからな、なんと言われるか分からんからだ。けっこうあついときだった。工場の帰りアパート近くに朝鮮料理店ができ夜も九時になろうとしていた。そこによりカルピーを肴にビールをのんでいいるとテレビで歌番組をやつていた。そのうちに好きだなあという歌を加山雄三が歌っていた。死ぬまで君をはなさないぞだってさ。その人にこの言葉を云って見たいと思ったものだ。そして大坂にも行っていた。相変わらす京都にも寄った。八月後半大坂の帰りビュッフェで一人飲んでいるとふと思った。その人にはフィアンセがいないのではないかというおもいが強くなった。そして家に帰るとそれは確信に変わった。そして今日廻ってきた京都を思い出しいつかその人を連れて京都に行こうと思った。夢かも知れないが</p><br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ishibashiken/entry-11368662041.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Oct 2012 17:21:19 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
