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<title>山崎巌のブログ</title>
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<title>２０１５年は・・</title>
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<![CDATA[ １月１日からスタートいたします。<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20141227/11/iwao-yamazaki/4a/0a/p/o0424028313171166339.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141227/11/iwao-yamazaki/4a/0a/p/t02200147_0424028313171166339.png" alt="" width="220" height="147" border="0"></a><br><br>よろしくお願いします。<br>
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<pubDate>Sat, 27 Dec 2014 11:10:15 +0900</pubDate>
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<title>古稀の話</title>
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<![CDATA[ 信じられないだろうが、私は危険物取扱主任の免許と調理師の免状を持っている。<br>何故そうなったのか、説明すると小説のように長くなるので割愛するが、その時期の半年ほど狸小路６丁目の市場「大善」の二階で寝起きしていた。<br>祖母方の親戚にあたることから家賃は無料で、半年間ほど寿司・割烹の配達を手伝っていた。<br>魚の名前、捌き方、イカの皮むき、三枚おろしなど覚えたのはその時代だった。<br>四十年以上昔の話です。<br>そんな過去があったからと言う訳ではありませんが、すし屋に行くと何故か緊張し、照れくさくなる。<br>いまだに符牒を使わないのもそのせいだ。<br>知ったかぶりのウンチクを言わないのもそのせいだ。<br>すし屋で一時間以上飲み食いしないのもそのせいだ。<br>　　　　　　　☆<br>ここまで書いて思い出した。<br>私は小説家を目指し、旭川でも三年ほど暮らしたことがある。<br>作家になるという理由も簡単で、高校生のころからいくつかの作品で脚光をあびていたから末は小説家と信じていた。<br>そして写真関連の仕事をしながら、「郷土誌・あさひかわ」の取材で記事も書いていた。<br>そんなある日、食をテーマにした座談会の録音と写真撮影を担当した。<br>みなさん旭川では名の知れた人たちだった。<br>その中に変わったおばさんがいた。発言者の言葉をメモする主婦がいた。<br>いずれ活字になり、雑誌になるのに丁寧にメモしていた。<br>その半年後、私は「白の印象」という短編で旭川市民文芸の一席になり、メモ魔のおばさんのことは忘れていた。<br>二度目に応募したＮＨＫ「ふるさと文芸」の作品は佳作だったが、その知らせの中に、「今回は三浦綾子さんが入賞しました」とあった。<br>その数日後、昭和３９年７月１０日、朝日新聞が1千万円懸賞小説「氷点」の発表をした。三浦綾子さんがあの座談会で見たおばさんだということを知った。<br>　　　　　　☆<br>ここからの生き方がおかしい。<br>何故か旭川を離れたくなり、「あさひかわ」の渡辺三子さん、画廊の平間文子さんの紹介状を手に、画家・渡辺伊八郎宅に住み込み、コネを使い、簡単なテストと面接で「北海タイムス」にもぐりこんだ。<br>その後「観光百景」を手伝いながら小説も書き続けていた。<br>最後は、北海道新聞が募集していた１００万円の懸賞小説だったが、佳作にも残らなかった。<br>ここからの生き方が、またおかしい。<br>作家がダメなら自分で出版社を起こせばいいと考え、昭和52年「札幌104」という雑誌を創刊した。３６号まで続いたが、事務所のある「みなみビル」の火災で再起不能になった。火事がなくてもいずれ潰れるような内容だった。<br>　　　　　　☆<br>その後は紆余曲折があり「時計台の鐘」「すすきの新聞」を発行のかたわら、スポーツ紙、週刊誌、クイズ番組の問題作りで凌(しの)いでいた。<br>「すすきのＴＯＷＮ情報」54年から発行し、現在の「Otone」へとつながっている。<br>その間も小説を諦めたわけではないが、まるで書けなくなっていた。<br>日記風のメモをさかのぼれば、すでに三十余年が過ぎ、今年はなんと70になって、骨もコキコキいっている。<br>この程度の文章しか残せないのだから小説家になれるはずがない。<br>古希、稀(まれ)な話にもならない。<br><br>（やまざき・いわお）<br>前号のデーターを入れてください！<br><br>
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<pubDate>Sat, 13 Dec 2014 15:03:10 +0900</pubDate>
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<title>感動秘話</title>
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<![CDATA[ 　長い間、心に秘めた感動的な話がある。<br>　昔の電電公社が南極越冬隊の留守家族に対し、何文字書いても無料にしますというサービスを実施したときのことです。<br>　多くの家族が長い文章を送ったのですが、ただ一人の若い越冬隊隊員に届いた電文は一番短く、みんなが回し読みするたびに涙ぐんでしまったそうです。<br>　その話は昭和47年1月17日の朝日新聞夕刊の囲み記事に紹介され、多くの反響を呼びました。<br>　その電文はたったの三文字で、「アナタ」と印字されていたそうです。<br>　多くを書き連ねたかったのでしょうが、考えあぐねて「あなた」だけになったのかもしれません。読んだ隊員のすべてが無口になり涙を流したそうです。<br>　この記事を読んだ私も感動して泣きました。<br>　ところが後日談がありました。<br>　それを聞いたのは、なんと40年後の夏でした。　<br>　南極料理人として知られている西村淳さんに私が感激したという話をしたら、「そのご主人が返信した電文をご存じですか？」と問いかけてきた。<br>　返信の打電もまた三文字で「アキタ」だったそうです。南極生活には「飽きた」という意味らしいのですが、長年心に抱いていた感動は半減してしまいました。<br>　さらに追い打ちをかけるように、これがＴＶのクイズ番組の問題にまでなってしまい、感動秘話の「感動」が消えてしまった夏の出来事でした。<br>　★<br>　似たような悲しい話もあります。<br>　昭和49年、マリア・カラスを札幌で聴いたと居酒屋で自慢していた友人に対して、悪友が「カラスのコンサートも高いが美空ひばりだって高かったぞ」と対抗心を抱いていった。すると二人の会話を聞いていた居酒屋の女将が言い放った。<br>「アンタがた、カラスが高いヒバリが高いって言うけど、一番高くつくのはツバメよ燕」と切り返した。<br>　その素敵？な女将もツバメに騙されて店をたたむはめになってしまった。秘話の陰には「悲話」もあるということか。<br>★<br>　留めはエグザイル。<br>クラブの女の子に「券、二枚買って」と言われた男。あらゆるツテを駆使してＥＸＩＬのチケットを手に入れ、鼻の下を伸ばして店に行ったはいいが、なんと、自分たちはライブに行けなくなったので二枚買い取ってほしいという顛末だった。<br>とどのつまり、男は4枚を裁くため自分もコンサートに行ったらしいのだが、「なんもカンドーしなかった」と嘆いていた。<br>これもお粗末な感動悲話だ。<br>おあとがよろしいようで・・・。<br>(やまざき・いわお９<br>株式会社あるた出版・顧問<br>社団法人すすきの観光協会・相談役<br>スナック「山崎巌」マスター<br>
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<link>https://ameblo.jp/iwao-yamazaki/entry-11964090305.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Dec 2014 15:01:38 +0900</pubDate>
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