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<title>プロジェクトAや、その他、いろいろ考察</title>
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<description>プロジェクトAや、その他、いろいろ考察</description>
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<title>コロコロころんについて説明＆紹介</title>
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<![CDATA[ 私の哲学的生活の発展についてはすでに語った。私はいま私の芸術的生活の変遷に関して前と同様に短い思い出を書いてみたい。そのことがこの一篇の統一と調和とを破壊しはしないだろうか、これまでにおいてでさえ、あまりに多かった全体の発展を妨害しそうな挿入が実際それを妨害するまで増されはしないだろうか、という懸念が一度私を躊躇させた。しかしながら体系を求めるために私はこの一篇を始めたのではない。私の仕事の目的は私が何であり何でなくそして何でありたいか、もしくは私が何をもち何をもたずそして何をもちたいかを正直に考えてみることにある、私は連絡のある記述よりも、私のいまなしつつある仕事が私の生活を全く新しくしてくれることを望んでいる、これらの思想が再び私を大胆にした。そればかりでなく私が私の心の奥底で考えたり感じたりしたことのほか一切を書かないという正直をさえ失わないならば、そのことがたとえ外形上の統一を破壊するにしても決して精神上の統一を破壊することはないだろう。<br>　私の芸術的生活は無論私の哲学的生活よりずっと以前に始った。確か高等小学の一年、今の制度にすれば尋常科五年のことだったと覚えている。自分ではひとかどの俳人のつもりでいた私のクラスの担任の先生が、作文の時間に俳句の作法を例をあげたりして説明して後、生徒に句作をさせて出させたことがあった。<br>
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<link>https://ameblo.jp/j3usj3is/entry-11421602136.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Dec 2012 21:05:29 +0900</pubDate>
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<title>けいそう土製耐火物製造について思う</title>
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<![CDATA[ 今内在的批評によって発生する問題は常に既成的問題であり、之に反して超越的批評に於て発生する問題は常に突発的であることを、見よう。元来内在と超越との概念上の区別は、或る一定の領野を思い浮べることを条件とする外はない。というのは、或る一定の領野があって、この領野の範囲を脱しない条件の下に活動することが所謂内在的であることなのであり、之を脱して活動することが所謂超越的の謂だからである。処がこの領野はとりも直さず立場に外ならない。事実人々は内在的批評によって理論の整合――それが立場を意味した――を求めることを意味しているであろう。古典的本文の前後の文章、又は同じ著者乃至同じ原本の異った多くの本文の間の、矛盾の芟除が、所謂内在的批評であるかのように見られているのが事実である。内在的批評は理論の整合――立場――を唯一の媒介とするから、之から発生する問題は既成的でしかないのは、前に述べた処によって必然である。之に対して同様に、超越的批評に於ける問題は常に突発的でなければならないわけである。――さて内在的批評は普通、立場の最も健全な批評であるかのように考えられるかも知れない。立場の不完全は必ず何かの矛盾となって現われるであろうから、それであるから――そう人々は推理する――この矛盾を指摘することが立場の不完全を暴露する最も確実な手続きであるかのように考えられるかも知れない。併し矛盾を含まない整合としての立場が、等しい資格の而も異った他の立場に対して、水掛論を構成し得たことを人々は忘れてはならないのである。それ故この二つの立場に就いて銘々内在的批評を行うている限り、二つの立場の優劣を原理的に決定することは出来ない筈である。かくて事実上、立場の批評なるものは目的を遂げることが出来なくなる。最も成功した内在的批評も要するに自分の頭髪を掴むことによって自分を沼から引き揚げることは出来ないという宿命を有つ。内在的批評が立場［＃「立場」に傍点］――整合――の批評を約束する以上は、そうある外はあり得ない。
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<link>https://ameblo.jp/j3usj3is/entry-11411463538.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Nov 2012 22:28:48 +0900</pubDate>
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<title>ガラス修理について思う</title>
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<![CDATA[ ヘーゲルの初めの一般的な動機は、却って事実を概念によって救おうとするにあったにも拘らず。――なる程事実は一応概念によって救われることも出来る。それも事実に対する一つの解釈である。だが解釈は比較的任意な主観的なものであることが出来る、どの解釈が正しくどの解釈が誤っているかは、ただ実証的――唯物論――実践的な課題の解決に当ってのみ決定されることが出来、またその時決定されても遅くはないのである。ヘーゲルの自然哲学も一つの立派な自然解釈であろう、ただそれが自然科学の実験的な活動の諸結果と撞着するに際して初めて鼎の軽重を問われる運命に立ち至る。少なくともここでは経験的・感性的・事実は先験的・理性的な概念乃至イデーからは説明出来ないことが実証された。ここがヘーゲル哲学全体の傷口である。<br>すでに今云ったように、その自然哲学に於てばかりでなく、ヘーゲル哲学全体に於ける根本的な意図は、無論概念によって事実を強制することにあったのではなくて、却って概念によって事実を救済することにあった。と云うのは諸事実は単にそのままの事実としては組織立てられることが出来ないので、之を解明するに役立つべき概念の資格を、之に与えることによって、夫は初めて体系化されることが出来るからである。
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<link>https://ameblo.jp/j3usj3is/entry-11403982989.html</link>
<pubDate>Wed, 14 Nov 2012 08:21:41 +0900</pubDate>
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<title>ホテルグリーンや、その他、いろいろ考察</title>
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<![CDATA[ 小栗はかくのごとく自から内外の局に当りて時の幕吏中にては割合に外国の事情にも通じたる人なれども、平生の言に西洋の技術はすべて日本に優るといえども医術だけは漢方に及ばず、ただ洋法に取るべきものは熱病の治療法のみなりとて、彼の浅田宗伯を信ずること深かりしという。すなわちその思想は純然たる古流にして、三河武士一片の精神、ただ徳川｜累世の恩義に報ゆるの外｜他志あることなし。<br>　小栗の人物は右のごとしとして、さて当時の外国人は日本国をいかに見たるやというに、そもそも彼の米国の使節ペルリが渡来して開国を促したる最初の目的は、単に薪水食料を求むるの便宜を得んとするに過ぎざりしは、その要求の個条を見るも明白にして、その後タオンセント・ハリスが全権を帯びて来るに及び、始めて通商条約を結び、次で英露仏等の諸国も来りて新条約の仲間入したれども、その目的は他に非ず、日本との交際は恰も当時の流行にして、ただその流行に連れて条約を結びたるのみ。<br>　通商貿易の利益など最初より期するところに非ざりしに、おいおい日本の様子を見れば案外開けたる国にして生糸その他の物産に乏しからず、随て案外にも外国品を需用するの力あるにぞ、外国人も貿易の一点に注意することと為りたれども、彼等の見るところはただこれ一個の貿易国として単にその利益を利せんとしたるに過ぎず。<p><a href="http://dkz17x6d.jugem.jp/">住宅ローン借り換えメリット</a></p>
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<link>https://ameblo.jp/j3usj3is/entry-11402848172.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Nov 2012 19:54:07 +0900</pubDate>
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