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<title>古田史学とMe</title>
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<description>古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす（かもしれない…）</description>
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<title>「安閑紀」と「宣化紀」の屯倉記事の考察</title>
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<![CDATA[ 　『書紀』によれば「屯倉」は「倭の五王」のころと考えられる時期より各地に設置され始めます。<br>　近畿にも「屯倉」の設置が相次ぎます。これは当然、各地の稲などをはじめとした「貢納品」の貯蔵所として機能したと思われ、「倭の五王」に代表される「倭国王権」による地方支配の一環であり、地方収奪の道具としての存在と考えられます。これは「墓制」と同様、強力な服属関係を表すものと思われます。<br>　そして『書紀』では「磐井の乱」の直後西日本に急激に「屯倉」設置記事が多くなり、「五三六年」には、各地の屯倉から「筑紫」の「那の大津」へ「穀」を運ぶよう「詔勅」が出ます。理由は「飢餓対策」ですが、なぜそのために「近畿」や「尾張」の屯倉から「筑紫」へ運ぶのか従来は全く説明できていません。しかもその詔勅の中では「以前からずーっと」そうやってきた、と書かれていますが、そのような詔勅は『書紀』の中には全くなく、それも隠蔽されていたという可能性が大でしょう。しかもこの年次は「筑紫君葛子」の時代ですから、これら集められた「穀」は「葛子」の手に入ったという可能性が高いと思われます。<br>　そもそも「屯倉」に集められた穀などの物資は本来「王権」に直送される性質のものですから、これらの記事は「筑紫」に「王権」があったことを如実に示すものでもあります。<br>　「安閑紀」の屯倉設置記事と「宣化紀」の、各地の屯倉から「筑紫」へ「穀」を運ぶよう詔勅を出したという記事は下記のものです。<br><br>　「安閑紀」の記事（五三五年）<br>　以下は「屯倉」の大量設置記事です。<br><br>「五月丙午朔甲寅置「筑紫穂波屯倉、鎌屯倉」「豊国[月勝-力+天]碕屯倉、桑原屯倉、肝等屯倉取音読、大抜屯倉、我鹿屯倉我鹿此云阿柯」「火国春日部屯倉」「播磨国越部屯倉、牛鹿屯倉」「備後国後城屯倉、多禰屯倉、来履屯倉、葉稚屯倉、河音屯倉」「婀娜国胆殖屯倉、胆年部屯倉」「阿波国春日部屯倉」「紀国経湍屯倉経湍此云俯世、河辺屯倉」「丹波国蘇斯岐屯倉皆取音」「近江国葦浦屯倉」「尾張国間敷屯倉、入鹿屯倉」「上毛野国緑野屯倉」「駿河国稚贄屯倉」 <br><br>　「宣化紀」の記事（五三六年）<br>　以下の記事は前年に設置するとされた各地の屯倉から「筑紫」に「穀」を運ぶよう詔勅を出したという記事です。<br><br>「夏五月辛丑朔条」「詔曰、食者天下之本也。黄金万貫不可療飢、白玉千箱何能救冷。夫筑紫国者遐邇之所朝届去来之所関門。是以海表之国候海水以来賓望天雲而奉貢。自胎中之帝泪于朕身収蔵穀稼蓄積儲糧遥設凶年。厚饗良客安国之方更無過此故「朕遣阿蘇仍君未詳也加運河内国茨田郡屯倉之穀」「蘇我大臣稲目宿禰宜遣尾張連運尾張国屯倉之穀」「物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀」「阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀国屯倉之穀」修造官家那津之口又其筑紫肥豊三国屯倉散在県隔運輸遥阻儻如須要難以備卒亦宜課諸郡分移聚建那津之口以備非常永為民命早下郡県令知朕心」 <br><br>　この詔勅の中では、実際に「穀」を運んでいるのはそこを直接支配している豪族です。「尾張国屯倉」は「尾張連」であり、また「新家屯倉」は「新家連」であり、さらに「伊賀国屯倉」は「伊賀臣」です。すると「朕」が指名した「阿蘇の君」の直接支配領域が指定されていて然るべきですが、そこが「河内国茨田郡屯倉之穀」となっています。支配－被支配関係が成立していません。<br>　「阿蘇の君」は「未詳なり」と書かれていますが、その名称から考えて明らかに「阿蘇の国」を支配している豪族であり、「河内の国」ではないはずです。（そもそも「天皇」に直結するような豪族について「未詳」というのも「不審」ですが）<br>　原資料ではもっと多くの国から筑紫に「穀」を運ばせたと推測します。なぜなら、この時点で「屯倉」は各地に多く設置されたと思われるからです。そして確かに「河内の国」からも「屯倉の穀」を筑紫に運んだのでしょう。そしてそれは「近畿王権」の王（「河内の君」と呼ばれたものかと思われます）が行ったことと思われます。<br>　そして「朕」が運ばせたのが「阿蘇の君」だったのですから、「阿蘇の君」は彼の支配領域である「阿蘇」を含む「肥後」の国から「穀」を「筑紫」に運んだのだと思われます。「肥後」にある屯倉というのは、該当するのは「火国春日部屯倉」だと思われます。<br>　「朕」（倭国王）は彼（阿蘇の君）を使役して「穀」を筑紫に運んでいるのです。なぜ「朕」が「阿蘇の君」を使役するのでしょうか。それは「阿蘇の君」が「朕」に直結する人物（豪族）だったからと考えるのが当然であり、すると「朕」はどこにいたのか、ということが問題になります。当然「阿蘇の君」と関係が密接な場所なのでしょう。<br>　ところでこの段階では筑紫には「葛子」が「筑紫君」として存在しているわけですから、上に述べたように「筑紫」に物資が集められるということはそれらが「葛子」の元に集まることを意味し、さらに「屯倉」からの物資が集積される場所は「王権」の中心地であるはずですから、そう考えると「朕」は「葛子」であるという論理が成立するでしょう。しかもそれは「以前から」の事であるというわけですから、前代の「磐井」以前からのこととみるのが相当です。<br>　「筑紫」については、上の「詔」の中でも「筑紫国者遐邇之所朝届去来之所関門。是以海表之国候海水以来賓望天雲而奉貢」と書かれており、遠くの国も近くの国も、筑紫に「詣でる」とされているようです。この点については「大系」の「頭注」には「遠近の国々が朝貢してくるところ」とあります。この「遠近の国々」というのが「国外」も含むと考えられるのは、同じく「大系」の「補注」が指摘するように「半島」にも「官家」の例が確認でき、それらは「朝貢」と密接に関係した施設とされており、「半島」内の各地から集積された「調」としての「物品」の集配センター的役割があったと見られることでも明らかです。<br>　例えば「加羅国」からの表にもそれは明確に現れています。<br><br>「（継体）廿三年（五三三年）春三月。百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰。夫朝貢使者恒避嶋曲謂海中嶋曲碕岸也。俗云美佐祁。毎苦風波。因茲濕所賚。全壌無色。請以加羅多沙津爲臣朝貢津路。是以。押山臣爲請聞奏。<br>是月。遣物部伊勢連父根。吉士老等。以津賜百濟王。於是。加羅王謂勅使云。此津從置官家以來。爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國。違元所封限地。…」<br><br>　ここでは「加羅」の「津」を「百済」に割譲する決定を不服として「加羅王」が申し立てをしているわけですが、そこでは「官家」が置かれたのは「朝貢」のためであったとされています。その中継地点である「多沙津」を「百済」へ割譲する（賜う）ことに反対の意思表示をしているわけです。このことから典型的に判るように、半島においても「官家」というものが「倭国内」と同様の機能と性格を持っていたことが推察され、「倭国」への貢納品の輸送システムの「半島」における「終点」であったと見られるものです。そして、そこに集められた「朝貢品」は「筑紫」の「官家」へ運ばれるというようなものであったと思料され、この「筑紫」の「官家」が「国内」はもとより「国外」からの貢納品の「最終地点」であったという可能性が高いと思料されます。<br>　またこの「詔」の中で「各地」では「屯倉」といっていますが、また「筑紫」には「官家」があったとされています。しかし本文の「訓」は共に「ミヤケ」となっています。しかし「屯倉」と「官家」に異なる用語を充てているところから判断してその「機能」などは異なるものであったと考えるべきでしょう。これについては「大系」の補注では「半島諸国」に存在するのと同様「軍事基地」なのではないかとしているようです。これは一部当たっているのかも知れません。なぜならここに書かれた「官家」が最も適合するのはいわゆる「邸閣」ではないかと考えられるからです。<br>　「屯倉」はあくまでも各地に展開された「王権」への直送システムの「始点」であるのに対して、「官家」はその「システム」の「終点」ともいえるものであり（半島においては最終集積地でありまた本国への中継地でもある）、規模も大きさも比較にならないほど壮大であったものと推量されます。また各地の「倉」から「穀」つまり「糧米」が供出されていることから考えて、この「官家」が少なくとも『三國志』などに言う「邸閣」に類するものとみられ、それは本来「軍事」に供するものでしたから、この「官家」というものが同様に「軍事システム」の一環であることとなり、「筑紫」には「軍事」基地があったこととなるでしょう。これは「一大率」の後裔とでも言うべきものではないでしょうか。<br>　この「筑紫」の「官家」については、その後「斉明朝」に「蘇我赤兄」から「悪政」の一つと指摘された「大起倉庫積聚民財」、つまり「民から収奪したものを収納する蔵を大々的に建てた」と言うものの前身的施設であったと推察されます。そして、これが後の「蔵司」につながるものであり、「大宰府政庁遺跡」の西側に柱間三間×九間の「礎石建物」の跡が確認されていて、ここが「蔵司」跡と推定されています。<br>　つまり「屯倉」という存在は「官道」と関連させて考えるべき存在と思われ、「官道」が開通し、その周辺に「兵士」が配置され「屯田」ができ、そこから集められた余剰収穫物が「屯倉」に入り、それを「官道」を通じて「都」の「官家」（というより「王権」）へ集める、という「租」や「調」の原型と言うべき集積システムがこの時形成されたと考えられるわけです。
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<link>https://ameblo.jp/james-5530/entry-12964206758.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Apr 2026 12:35:50 +0900</pubDate>
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<title>新日本王権の施策と旧倭国勢力の抵抗</title>
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<![CDATA[ 　「和銅改元」時に諸国に対する「国司」（国守）任命記事があります。（以下のもの）そこでは「筑紫」全体としての「大宰府」を除けば計30国について「国守」が任命されています。<br><br>（七〇八年）和銅元年…三月…丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。從四位上竹田王爲刑部卿。從四位上廣瀬王爲大藏卿。正四位下犬上王爲宮内卿。正五位上大伴宿祢手拍爲造宮卿。正五位下大石王爲彈正尹。從四位下布勢朝臣耳麻呂爲左京大夫。正五位上猪名眞人石前爲右京大夫。從五位上大伴宿祢男人爲衛門督。正五位上百濟王遠寳爲左衛士督。從五位上巨勢朝臣久須比爲右衛士督。從五位上佐伯宿祢垂麻呂爲左兵衛率。從五位下高向朝臣色夫知爲右兵衛率。從三位高向朝臣麻呂爲『攝津』大夫。從五位下佐伯宿祢男爲『大倭』守。正五位下石川朝臣石足爲『河内』守。從五位下坂合部宿祢三田麻呂爲『山背』守。正五位下大宅朝臣金弓爲『伊勢』守。從四位下佐伯宿祢太麻呂爲『尾張』守。從五位下美弩連淨麻呂爲『遠江』守。從五位上上毛野朝臣安麻呂爲『上総』守。從五位下賀茂朝臣吉備麻呂爲『下総』守。從五位下阿倍狛朝臣秋麻呂爲『常陸』守。正五位下多治比眞人水守爲『近江』守。從五位上笠朝臣麻呂爲『美濃』守。從五位下小治田朝臣宅持爲『信濃』守。從五位上田口朝臣益人爲『上野』守。正五位下當麻眞人櫻井爲『武藏』守。從五位下多治比眞人廣成爲『下野』守。從四位下上毛野朝臣小足爲『陸奥』守。從五位下高志連村君爲『越前』守。從五位下阿倍朝臣眞君爲『越後』守。從五位上大神朝臣狛麻呂爲『丹波』守。正五位下忌部宿祢子首爲『出雲』守。正五位上巨勢朝臣邑治爲『播磨』守。從四位下百濟王南典爲『備前』守。從五位上多治比眞人吉備爲『備中』守。正五位上佐伯宿祢麻呂爲『備後』守。從五位上引田朝臣尓閇爲『長門』守。從五位上大伴宿祢道足爲『讃岐』守。從五位上久米朝臣尾張麻呂爲『伊豫』守。從三位粟田朝臣眞人爲大宰帥。從四位上巨勢朝臣多益首爲大貳。<br><br>　さらにそれほど日を置かないで次の国々に国司が任命されます。（交替もある）<br><br>（七〇九年）二年…十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲『山背』守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲『伯耆』守<br><br>（七一〇年）三年…夏四月…癸夘。以從三位長屋王爲式部卿。從四位下多治比眞人大縣守爲宮内卿。從四位下多治比眞人水守爲右京大夫。從五位上采女朝臣比良夫爲『近江』守。從五位上佐太忌寸老爲『丹波』守。從五位下山田史御方爲『周防』守。<br><br>　これらに含まれない国々は「東海道」では「伊賀」「參河」「駿河」「伊豆」「甲斐」「相模」、「東山道」は「飛騨」、「北陸道」は「佐渡」、「山陰道」は「但馬」「因幡」「石見」「隠岐」、「山陽道」は「安芸」「南海道」は「紀伊」「淡路」「阿波」「土佐」と総計17カ国になります。<br>これらの国々への国司任命記事はかなり後になります。では「和銅」改元時点で他の30国のように（ほぼ）同時に任命されなかったのはなぜでしょうか。<br><br>　それについては任命されなかった国々を見るとある程度推測が可能でしょう。例えば「南海道」は「伊豫」と「讃岐」を除く「平城京」から伸びる「紀伊」を始めとする「南海道」の主線行程上の国が入っていません。南海道の「伊豫」「讃岐」は「筑紫」から（というより「豊後」からか）瀬戸内海を通過して行きやすい国であり、「土佐」等の諸国は「筑紫」からのルートとしていわば「遠絶」と考えられていたもののように思われます。確かに「伊豫」から「土佐」へのルートはあったものですが、陸路として山脈越えであり、その後「七一八年」になって「阿波」からのルートへ「付け替え」が行われたものです。これらついては西村氏も『古田史学会報』一三六号で言及されていますが、明らかに王権の中心地点の移動に伴うものですが、この付け替え年次である「七一八年」の二年前が次に述べる（豊後に置かれた）「戍」における交通制限の緩和措置です。<br>「豊後」と「伊豫」を接続することを制限する必要がなくなったことと、「伊豫」を介して四国内を統治する形態が過去のものとなったこととは深く結びついていると思われるものです。<br>　また「東海道」は「遠江」以東の箱根を越えるルート上の国が入っておらず、これについては「東海道」そのものが以前は「遠江」以降は「海路」であったと考えられており、房総半島に上陸するルートが長く使用されてきていたことと関係していると思われます。<br>「古代官道」の箱根越えルートは後からできたものであり、その経路上の諸国はそれほど倭王権と関係が深くはなかったと思われるわけです。<br>　また「山陰道」においても「筑紫」から見て遠方の「因幡」「但馬」などが入っていません。これも似たような事情と思われ、海路「日本海」ルートを行くとき「出雲」から「越」へという主線行程からこれらの国は「スキップ」してしまう結果「外れている」ということとなるのではないかと思われます。<br>　それに対し「関東」の国々はほぼ網羅されていますが。それは『常陸国風土記』が示すように「総領」が任命・配置された段階で「クニ」から編成替えが行われ、「令制国」と同等の広域行政体が作られたとしていますから、これらに「国司」（国宰）がいなかったはずはないこととなるでしょう。<br><br>　すでに七世紀半ばの倭王権の「東国直接統治」政策の際に近畿王権から搾取した「屯倉」等の分布から倭王権の範囲を「吉備」より東側と推定しましたが、上の「国司」が任命された地域との重なりを見てみると『和名抄』で「刑部」（忍壁も）地名が残る地域として数えてみた17地域の内13地域が任命対象地域に確認できます。つまり基本的には元の近畿王権の統治領域を主たる地域に対して最初に「国司」が任命されているというわけです。当然後回しになった地域は「近畿王権」よりも「倭王権」と関係が深かった地域であったとみるのが相当と思われるわけです。もっともその首根っこも言える「筑紫」の「大宰帥」は当初から任命されており、また「従三位」という高位の人物が充てられていて、重要視されているのが判ります。<br>　これらの地域には「国宰」や「国守」が元々「倭王権」から任命されていたものと思われ、新日本王権に王権が移動した後に改めて「国司」を任命する際に旧王権から任命されていた「国守」を新王権側から選定した人物へすげ替える措置を行ったものとみられ、結果的に後回しとなったものと思われるものです。（ただし新王権に忠誠を誓った場合などはそのまま横滑りした者がいなかったとは思いませんが）<br>　<br>　上に述べたように『続日本紀』に「豊後」と「伊豫」の間に『国之境』があり、そこに『戍』が置かれていたことが書かれた記事があります。（以下のもの）<br>　<br>（靈龜）二年（七一六年）…夏四月…<br>壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。<br>五月…辛夘。…大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還不在禁限。又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。道路遥隔。去來不便。或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。並許之。<br><br>　上の霊亀二年記事では豊後と伊豫の間に「國之境」があり、そこには「戍」が置かれていたというわけですが、これが「大宰府」からの報告であることを考慮すると当然「戍」は「大宰府」側に存在していたとみるべきであり、「豊後」に置かれていたとみるべきでしょう。このことから「大宰府」では「四国」（伊豫）からの侵入を強く警戒していたことが窺えます。<br>　ところで、この記事の以前と以後の両方で「改元」に伴う恩赦記事があり、そこに「山沢亡命」者に対する出頭命令が出ています。<br>　<br>（七〇八年）和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號止定賜。是以天下尓慶命詔久。冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。『亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。』<br><br>養老元年（七一七年）…十一月…<br>癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天■。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。天下老人年八十已上。授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜■三疋。綿三屯。布四端。粟二石。九十已上者。■二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上者。■一疋。綿一屯。布二端。粟一石。僧尼亦准此例。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡■獨疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯藥。『亡命山澤。挾藏兵器。百日不首。復罪如初。』又美濃國司及當耆郡司等。加位一階。又復當耆郡來年調庸。餘郡庸。賜百官人物各有差。女官亦同。<br><br>　ここで「亡命」しているとされる人々は「富永長三氏」の指摘（「憶良と亡命の民　-嘉摩郡三部作を読む」市民の古代第15集）によれば、新日本王権に反旗を翻していた人たちであり、旧倭国領域に特に王権交代に不満を持つ人々がかなり潜伏していたことが推定されます。<br>　この旧倭国領域（特に「直轄領域」）については以前検討したことがあり、『隋書』の記事と『和名抄』との比較から「九州島」と「四国」及び「中国」地方の半分程度までが該当する可能性を指摘しておきました。その意味で「伊豫」地域に旧倭国王権派の勢力がかなり存在していたこと、彼らはある程度の軍事力を有していたであろうことが推定できるものです。そのことは「伊豫軍印」という存在（これは「旧制軍団」に与えられたものと思われ、倭国王権の元のものと思われます）や、その後の「伊豫総領」（これも「旧倭国王権」により任命されていたものか）という存在からもここにある程度の「軍事力」があったことは明らかであり、その意味で新日本王権からは警戒されていたことも十分考えられます。<br>　確かに、薩摩・多ねが「反乱」を起こした際に、「唱更國司」（これは反乱の地である「薩摩」の国司たち）から「国内要害の地」には「柵」を建て「戍」をして守らせる、という言上がなされ、それが許可されたという記事がありますが（以下のもの）、「要害の地」は特に「薩摩」だけというわけではなく、この時「伊豫」と「豊後」の間も同様に「要害の地」と考えられていたものと思われ、ここには「戍」が置かれたものと推定できるでしょう。<br><br>　（七〇二年）二年…<br>　冬十月乙未朔。…<br>丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。唱更國司等今薩摩國也。『言。於國内要害之地。建柵置戍守之。』許焉。…<br>　<br>　さらに関連していると思われるのが、この「國之境」記事に続いて「薩摩大隅」の「隼人」について、大宰府に連れてこられてから八年経過しているという記事があることです。<br>　つまり彼らは戦いがおよそ集結したと思われる「七〇二年」付近から七年ほど経過した段階で、「貢」つまり「貢物」として（いわば「官奴婢」として）大宰府へ移動させられたこととなります。このような状況は旧倭国領域の制圧と統治が一定の割合で進行していることを示唆するものですが、他方それが完全ではない可能性も当然あるわけであり、それを示すものがこの前後の「投降」の呼びかけであったと思われるわけです。つまりこの「投降」の呼びかけの対象は「九州」の内部だけではなく、その周辺地域に及んでいたと考えるべきでしょう。<br>　このような状況がその後進展・緩和された結果「戍」を通過する人物についての制限が緩和され、また「隼人」の交替期限を短縮するということになったものであり、それはそのまま「投降者」がかなり増加したことを示すものと思われることとなります。<br>　「伊豫」地域に対しても当初から「国守」が任命されており、「新日本王権」としてもこの地域の軍事力に対して警戒をしていたと思われるわけですが、上の「大赦」の「詔」に見るように旧倭国王権支持者たちは「山沢に亡命」して粘り強く抵抗していたものと思われ、「戍」による守衛が有効であった期間が長く続き、武装解除完了まで「16年」を要したものと思われるわけです。「統制」が効き始めたと新日本王権が判断したことから「国境」の警備が簡素化され交通が以前より円滑になったものと思われるわけです。それでも「筑紫諸国」の「庚午」の戸籍はこの段階ではまだ発見されておらず、「伊豫」よりも遙かに強い抵抗を示していたものと思われます。<br><br>　『続日本紀』によれば「僧尼」に対する「公験」の授与が「七二〇年」の正月から始められており、これ以前には「新日本王権」としては行われていなかったことが明白ですが、同じ年の二月に「薩摩隼人」の「反乱」が始まっており、この両者に関係があることが察せられます。<br><br>（養老）四年（七二〇年）春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。<br>二月…壬子。大宰府奏言。隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。<br>三月丙辰。以中納言正四位下大伴宿祢旅人。爲征隼人持節大將軍。授刀助從五位下笠朝臣御室。民部少輔從五位下巨勢朝臣眞人爲副將軍。<br><br>　新日本王権が「公験」授与の権利を得、その権利行使に必要な「官籍」つまり「筑紫諸国」の「庚午年籍」を手に入れようとしたことが反乱の発端ではなかったでしょうか。「新日本王権」は「聖武の詔報」でも明らかなように「僧尼」に対する「公験」の授与に必要な「官籍」を把握しておらず、それがないために対応に苦慮していたものですが、その「官籍」つまり「庚午年籍」が本来あるべき大宰府にないことは当然すでに把握していたはずであり、「探索」されていたものと思われ、それを「（大隅及び薩摩）隼人」が保持しているのを承知していたのかもしれません。それを「大隅国守」が入手しようとして彼等の抵抗にあったということではなかったでしょうか。<br>　この反乱は「七二三年」には収束し、その時点で新日本王権の統治下に入っていた僧尼がかなりいたものと思われますが、彼等の戸籍の入手がこの段階ではまだできていなかったものと思われ、そのまま放置するわけにも行かなかったものであり、翌年に禅譲を控えていたため新天皇即位の後奏上し「詔報」を得ることとしていたものと推測します。このような経緯の後「筑紫諸国」の「庚午年籍」の探索が続けられ七二七年なって「やっと」入手できたということと思われ、この時点以降「公験」授与が「九州地方」の僧尼に対しても「官籍」と「綱帳」（寺院側の記録）の双方を勘案して行うことが可能となったものと思われるのです。<br><br>　この「庚午年籍」については結局「七二七年」になって「筑紫諸国」の「庚午年籍」に官印を押したもののようです。この段階でそのような結果になったというのは、そもそもそれが「聖武」の朝廷になく、また「大宰府」にその「写し」あるいは「原本」がなかったたため、広く捜索した結果発見（入手）されたものと思われます。しかし後の「養老令」（戸令）によれば本来戸籍は「三通」作り、一通は国元に置くものの、残り二通は太政官つまり朝廷に提出するとされています。<br><br>（戸令　造戸籍条）「…凡戸籍六年一造。起十一月上旬。依式勘造。里別為巻。惣写三通。其縫皆注其国其郡其里其年籍。五月卅日内訖。二通申送太政官。一通留国〈其雑戸陵戸籍。則更写一通。各送本司〉。」<br><br>　この規定は「養老令」のものですが、これと同様のものは「庚午年籍」作成段階でもあったとみるのが相当であり、「庚午年籍」においても「国府」だけにあったはずがなく、さらに『続日本紀』の記事では「筑紫諸国」の「庚午年籍」についてのみ言及があるところを見ると、欠落していたのは「筑紫諸国」の分だけであったものと思われます。この欠落が「難波朝廷」の焼亡と関係していると見ることもできるかもしれませんが（「朝廷」に提出されていた分が焼失したという可能性）、「筑紫」の分だけが焼けたとも思われず、別の理由を考える必要があるでしょう。<br><br>　ところで「庚午年籍」ですが、通常、戸籍には国印が押されていますから、この七百七十巻の筑紫諸国の「庚午年籍」にも旧倭国王権時代の各地の国印（筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後）が押されていたとみるべきですが、通常そうは考えられていないようです。なぜなら「国印」が「鋳造・頒布」されたのは八世紀に入ってからであり、この「六七〇年」という時点では未だ「国印」が存在していなかったという見方があるからです。<br>　確かに当時「筑紫諸国」以外（直轄領域以外）では「諸国印」が存在していたかが問題となるでしょう。つまり「大宝」以降「四文字表記」により「国印」が作られるわけですが、「評制」下の諸国の国名は「二字」ではなく「三字」あるいは「四字」のものもあったからです。（「上毛野」「下毛野」「遠水海」「吉備道中」「波伯吉」「无耶志」などです。）<br>　これらについては後に二字に国名が統一（変更）されるまで継続したものとみられ、当時国印が作られていたとするとこの通りの国名で造られたものとみるべきですが、実際には「印」のサイズは規格化されていたと思われ、鋳造する際の「型」が決まっていたとすると、各国名で「字数」が異なるとすると技術的に対応が困難ではなかったかと思われます。そう考えると「庚午年籍」には（「筑紫諸国」を除き）周辺諸国においては「国印」が押されていなかったと考えられるわけです。それを示すように「正倉院文書」によれば、「大宝二年（七〇二）」の西海道戸籍では筑紫諸国については「国印」が押印されていますが、同時期と思われる「美濃戸籍」には「国印」がありません。これについては「常識」では「西海道戸籍」の場合「国印」が押されたのは「国印」が「詔」により造られた後であるとされており、戸籍そのものが造られた時点とは別であるとされているようですが、かなり苦しい解釈と言えるでしょう。なぜなら本来提出された段階で押されるべき刻印がそれもずっと後から押されたとするものですが、そうであれば「美濃国」についても条件は一緒であり、なぜ「西海道諸国戸籍」にだけ「国印」があるのかの説明にはなっていないからです。<br><br>（七〇四年）慶雲元年…<br>夏四月甲子。令鍜冶司鑄諸國印。<br><br>　このように「国印」が造られ諸国に頒布されたのは「慶雲元年」とされており、それ以前の「大宝二年（七〇二）に作成されその「翌年」に提出されたと思われる「戸籍」のさらに「翌年」になってから「国印」が押されたとするわけですが、このように後になってからしかも「西海道戸籍」にだけ押されていたとみるのは無理があると考えるのが相当です。<br>　「西海道戸籍」のように仮に国印頒布後に押されたとするとそれは必ず「作成されている戸籍に国印を押すように」という王権から指示が出されたと見るべきことを示します。そうであるなら「美濃国戸籍」にそれがないのはそのような指示が出されなかった証しと思われ、にも関わらず「西海道戸籍」に「国印」があるのは、鋳造頒布される以前から西海道諸国には「国印」があったからと考えるよりないのではないでしょうか。<br>　国名が二字で統一されるようにという指示が出された背景には「国印」の製造との関連があることが従前指摘されていますが、これはすでに「筑紫諸国」において「二字国名」となっていたこと、「筑紫諸国」だけに「国印」があったと考えることで理解が可能です。新日本王権はすでにあった「筑紫諸国」の印の形式を見本としてそれ以外の諸国について「国印」を鋳造し頒布したものと思われるのです。<br>　ただし「筑紫諸国」つまり「筑紫・豊・肥」についてそれが前後に分割されたのは八世紀に入ってからという考えも指摘されています。<br>　『続日本紀』においては「筑紫諸国」について「前後」に分けたという記事が無く、また『書紀』においても同様であり、一見『書紀』では「筑紫」については前後に分けた記事がなく、どの段階でこれらの国が前後に分かれさせられたのかが不明です。しかし例えば「肥前」と「肥後」の間には「筑後」が割り込んでおり、少なくとも「肥前」「肥後」が分けられた時点と「筑後」と「筑前」という「筑紫」の分割という時点は同時であったものとみられ、このように一種重要で大規模な境界変更事業がどこにも詳細な情報が記載されていないというのは不思議であり、それは「評」の隠蔽や「太宰府」成立事情の隠蔽と軌を一にするものと言えます。<br>　本来は「国」の成立については「論奏」つまり上級官吏の議論を経たのち天皇に奏上されたのち決定するというのが律令による決まりでした。しかし「筑紫諸国」についてはそれらについて一切の記事が『書紀』にも『続日本紀』にもなく、「いつの間にか」「前後」に分けられていたということになっています。それは「筑紫諸国」だけではなく「越」についても同様と言えます。「越後国」という表記が最初に現われるのは『持統紀』であり、それまでは全て「越」だけでした。また「吉備」についても同様に「前・中・後」というように分割されていますが、これもどこにもその分割に関する記事がありません。これらはいずれもその事業主体が「新日本王権」とは異なることを示すものであり、「筑紫日本国」あるいはそれ以前の「筑紫倭国」時代の事業と考えられることとなります。<br><br>　またこれらの国境変更等の事業と重要な関連を持つものは「古代官道」の構築であるといえます。つまり「官道」が「肥」の国を二つに分けたわけであり、そのことが「筑紫」の領域の拡大と「筑前」と「筑後」に分けられる根拠ともなっているのです。つまり元々の「筑紫」地域である「筑前」と「肥」から編入した地域としての「筑後」という区域割りとなっているわけであり、明らかに「肥」の分割と表裏一体といえます。<br>　つまり「官道」ができたことにより特に筑紫諸国で国境変更等が行われ、これらの国が「前後」に分けられたとみれば「官道」の成立時点付近と「国印」の鋳造時期が似かよっている可能性があると言えます。その「官道」の成立が「遣隋使」による「隋」における「道」についての情報を得たことを契機としており、それは「推古期」付近に「池」を作る記事が多いことつながっています。<br>　古代官道の特徴として「直線的」ということが言えますが、このように「直線的に道路を作るとかなりの確率で山や川や池と遭遇する確率が高いと言えます。その際山については切り崩して「切通し」としている例が多く見られますが、「川」や「池」については「せき止める」あるいは流路を変更するなどのことが起きると思われ、新たに「池」ができることとなります。つまり「池」の成立は「稲作」と「潅漑」との関連ももちろんありますが、「古代官道」との関連を考える必要があるといえ、それが「推古期」に顕著であるのは「遣隋使」との関係を想定すべきものと考えられるのです。<br>　この時点付近で「古代官道」の成立があり、また「筑紫諸国」において国が前後に分けられるということがあったとみるなら、その時点付近で「国印」が造られて不自然とは言えないこととなります。<br>　さらに「隋代」の「諸国印」の多くが「四文字」であり、「国名二字＋国印」という形式が一般的です。つまり四文字を均等に割り付ける印章形式は「唐」というより「隋」形式という研究があり（※）、これも同様に「隋」との交流から学んだものということが考えられ、その意味でも「官道」の成立時点と時期が合致している可能性があります。つまり「隋」との交流時点以降「筑紫」を含む「直轄領域」内に「官道」を設置・施工し、それとともに国内の領域に対して各国を二分割し、各「国印」を隋制により鋳造するという流れが想定されるわけです。(これは「聖徳太子」による国内を三十三国に分けたという伝承との関連が考えられる事業です)<br>　新日本王権が改めて（初めて）「諸国印」を鋳造するのであれば「隋制」による必要はないはずです。そのことはすでに「筑紫諸国」の「国印」があり、それが「隋制」に基づいていたことから、それを「標準」として「筑紫」以外の国印の鋳造を行うという流れがあったとみると整合するといえます。<br>　このように「印」が造られるというのは基本的な行政が文書によって行われていたことを示すものであり、その意味で「木簡」という存在とやや齟齬していると言えます。「木簡」による行政は「印」の存在を措定していません。「奈文研」の「木簡データベース」よっても「木簡」が「筑紫」とその周辺地域からほぼ発見されていません。それは「筑紫」とその周辺地域では「木簡」が行政事務として使用されていなかった可能性が高く、それは行政事務が「文書」によって、つまり「紙」によって行われていたことを示すものと考えられるでしょう。そのことと「国印」の存在はリンクしていると考えられるわけです。逆に言うと各地で発見される木簡は本来は「近畿王権」の統治範囲で使用されていたものという可能性が考えられるところです。
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<pubDate>Mon, 23 Feb 2026 20:26:40 +0900</pubDate>
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<title>「貧窮問答歌」についての若干の考察（改）</title>
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<![CDATA[ 以下はかなり以前に「古田史学の会」に投稿し不採用となっていたものを若干改めたものです。（誤解があった部分の訂正と最新の理解で部分的に書き換えています）<br><br>　「貧窮問答歌」についての若干の考察（改）<br><br>「要旨」<br>　「山上憶良」の「貧窮問答歌」について、疑問とすべきことがあること、「五十戸」という表現からは実際にはかなり遡上した時期に読まれたと思われること、「貧窮」の原因として「六八四年」の大地震と津波が考えられること、山上憶良の昇進スピードから見て「旧倭国」の官僚であったとみられること、プライドを示す言葉して「我をおきて人はあらじ」が出ているが、それは「陸奥出金詔」に出てくる「大伴・佐伯」の家訓と同一と思われること、それらについて考察します。<br><br>Ⅰ．『貧窮問答歌』の内容について<br>　「山上憶良」の作品に『貧窮問答歌』というものがあります。<br><br>「万葉集八九二番歌及び八九三番歌」<br>「貧窮問答歌一首并せて短歌（山上憶良）」（読み下しは「伊藤博『万葉集　釈註』集英社文庫」によります）<br>「風交（まじ）り　雨降る夜の　雨交り　雪降る夜は　すべもなく　寒くしあれば　堅塩（かたしほ）を　とりつづしろひ　糟湯酒　うちすすろひて　しはぶかひ　鼻びしびしに　しかとあらぬ　ひげ掻き撫でて　『我れをおきて　人はあらじと』　誇ろへど　寒くしあれば　麻衾　引き被（かがふ）り　布肩衣　ありのことごと　着襲（き）へども　寒き夜すらを　我れよりも　貧しき人の　父母は　飢ゑ寒（こ）ゆらむ　妻子（めこ）どもは　乞ふ乞ふ泣くらむ　この時は　いかにしつつか　汝が世は渡る　<br>天地は　広しといへど　我がためは　狭（さ）くやなりぬる　日月は　明（あか）しといへど　我がためは　照りやたまはぬ　人皆か　我のみやしかる　わくらばに　人とはあるを　人並に　我れも作るを　綿もなき　布肩衣の　海松（みる）のごと　わわけさがれる　かかふのみ　肩にうち掛け　伏廬（ふせいほ）の　曲廬（まげいほ）の内に　直土（ひたつち）に　藁解き敷きて　父母は　枕の方（かた）に　妻子どもは　足（あと）の方に　囲（かく）み居て　憂へさまよひ　かまどには　火気（ほけ）吹き立てず　甑（こしき）には　蜘蛛の巣かきて　飯（いひ）炊（かし）く　ことも忘れて　ぬえ鳥の　のどよひ居るに　いとのきて　短き物を　端切ると　いへるがごとく　しもと取る　里長が声は　寝屋処（ねやど）まで　来立ち呼ばひぬ　かくばかり　すべなきものか　世間（よのなか）の道」<br>「世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」<br><br>　この歌は「高校」の古典などの時間に必ずお目にかかるものであり、民衆に優しいまなざしを向けたもので、古代律令制の「暗部」を指摘したものという理解が大勢でした。また構成として「貧」と「窮」の会話という見立てが大勢を占めており、共に「農民」というように理解するのが通常のようです。（註一）<br>　しかし、私には、この「貧窮問答歌」においてはいくつか「疑問」と思われるものがあります。それを以下に考察していきたいと思います。<br>　ひとつには「貧」の人物の言葉の中に「父母」と「妻子ども」は「飢ゑ凍ゆらむ」「乞ふ乞ふ泣くらむ」と「推量」で記されていることです。これは目前の事実ではないことを示すものです。これが自分の「父母」「妻子ども」の意であるとすると、彼らとは同居していない（と云うより遠く離れている）ことが知られます。つまり、「貧」の方の人物は「家」や「家族」から離れて、「単身」でどこかにいることが判ります。彼はなぜそのような場所にいるのでしょうか。この点についてはやはり疑問に考える向きもあるようで「窮」の家族のことと解釈する考え方もあるようです。しかし、「窮」自身ではなく、「窮」の「家族」のことを訪ねているというのも奇妙な話しではないでしょうか。<br>　また、この「貧」の人物は「『我れをおきて  人はあらじ』と誇」っていますが、彼は何を「根拠」にそのようなプライドを持っているのでしょうか。これを「貧者の心意気」などという理解が主流であるようですが、彼を一介の農民とする考え方では「単なる強がり」とするしかないわけであり、また彼を「下級役人」とする考え方においてもそれは五十歩百歩であって、「誇り」の根源が不明なままであると思われます。<br>　しかも、「窮」の人物の言葉の中には「里長」というものがありますが、これは原文（万葉仮名）では「五十戸良」と書かれています。<br><br>「…短物乎　端伎流等　云之如　楚取　五十戸良我許恵波　寝屋度麻俤　来立呼比奴…」<br><br>　つまり、「五十戸」で「サト」と読ませているわけですが、「木簡」などから「五十戸制」が「里制」に変えられたのは、遅くても「六八九年」以前のことであることが判明しています。（註二）<br>　しかも「里長」というのは「国家」から「認定」あるいは「任命」された職掌ですから、そこに使用されている「五十戸」という表記についても「国家」の制度の一部が反映していると考えるべきこととなります。そう考えれば、この「歌」の造られた実年代として「六八九年」以前である事が強く推察されますが、「山上憶良」は「筑前国守」となって「筑紫」に滞在していたのが「天平三年」（七三一年）から「天平五年」（七三三年）頃であり、この歌もその頃詠まれたものとされています。ではなぜ「五十戸」という表記がこの歌の中に現れるのでしょうか。<br>　また「貧」と「窮」はなぜこんなに「貧」と「窮」の状態に置かれることとなったのでしょうか。<br>　これが「普遍的」な「律令制下」の状態であったという考え方もあるでしょうし、それはおおよそ同意するものですが、特に「窮」の方の状態は「究極的」なものであり、このような状態が当時「普遍的」であったとは少々考えにくいと思われます。ここで「窮」の実情として書かれていることは、何か「政治的」（戦争などの影響）あるいは「自然災害」（日照り、台風、地震など）などの影響を受けたためと考えるのが正しいと考えるものですが、その様なものとして何が考えられるでしょうか。<br>　また、そのような状態にも関わらず「里長」が「しもと」（「笞」）を持ってやって来て、強制的に何かを取り立てているように見えますが、それについてもなにか「政治的」な政策の不毛が感じられるものであり、当時の「政権」の政治的意思の所在についても疑問を感ぜざるを得ないのです。<br><br>Ⅱ．『貧窮問答歌』の実際に読まれた時期について　<br>　もし、この歌が「五十戸制」が「里制」に変えられる以前の「六八九年以前」に詠まれたものであるとすると、それに近い年次に起きた「事件」「事故」を考えるとき考慮から外せないのは「六八四年」に発生したとされる「西日本大震災」ともいうべき「大地震」と、それに伴う「津波」被害です。<br>　この時の「地震」は（近い将来起こると推定される地震も）今回の「東日本大震災」を上回る規模と被害が推定され、これにより「西日本」の各地に収拾困難な事態が発生したものと考えられ、「二中歴」によれば「兵乱海賊初めて起こる」とされるほど、政情が不安な状態となったものです。当然、それは「下層民」を直撃したものであり、彼らは当座をしのぐのも困難なほど「困窮」したものと考えられます。「倭国中枢」はこの状態に対応して「借金」の「元本」も「利息」も免除するという「徳政令」を発したものですが、この時これに先立ち各地に人員を派遣しています。<br><br>「日本書紀　天武紀」<br>「（天武）十四年（六八五年）九月甲辰朔…<br>戊午。直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者。直廣肆石川朝臣虫名爲東山使者。直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者。直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者。直廣參路眞人迹見爲南海使者。直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者。各判官一人。史一人。巡察國司。郡司及百姓之消息…」<br><br>　この記事は「地震の被害」の確認を行うために派遣されたと見られますが、それは「被害が少なかったと見られる「北陸道」に対するものを含んでいないことからも推定できますが、この時に派遣された「判官」と「史」というのが、「貧窮問答歌」の中の「貧」者の部分の主人公であり、またそれを記録している「山上憶良」ではなかったかと考えることができるのではないでしょうか。そう考えると、「貧」が「単身」で「家族」から遠く離れているという状況も理解できます。　<br>　「山上憶良」は「七〇一年」の遣唐使団に選ばれたとき「四十二歳」であったとされますから、各地への巡察者を派遣した「六八五年」には「二十六歳」であったものであり、「任官」のできる最初の年齢である「初叙」の年次（二十五歳）直後と推察されます。彼の「初めて」の大きな仕事が「諸国」の民衆の状況の視察であったという可能性もあると考えます。<br><br>Ⅲ．「山上憶良」の素性について<br>　「山上憶良」は「山上憶良大夫」という表現がされることがあるように最終冠位が「五位」であったものですが、『続日本紀』では彼について「遣唐使」派遣記事の中で「無位」（无位）であると書かれています。<br><br>『続日本紀（文武紀）』<br>「大寶元年（七〇一年）春正月乙亥朔…<br>丁酉。以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。」<br><br>　「無位」でしかも「四十歳」過ぎたような人物が「少録」として「渡唐」するというのは「異例」と思われ、さらにそのような人物がその後「十年」ほど経過すると「正六位上」から「従五位下」へ昇進して「大夫」つまり「貴族」の仲間入りをしているというわけですから、その昇進自体「異例」過ぎるものです。<br>　彼は、上に見たように「五十戸制」が存在していた時点ですでに「官吏」であった可能性が強いと考えられますが、そうであれば、「彼」が「旧王権」（倭国王権）時代の人間であり、その経歴に謎があるのはそのような「旧王権」との関係が「隠蔽」されているからとも考えられます。<br>　「旧王権」関係者の中には「葛城王」（後の「橘諸兄」）など、「冠位」（爵位）を大きく降下させずにそのまま「新王権」に仕えているような人たちもいますが、中には「無位」に落とされるような経験をしたものもいたのではないでしょうか。（これは本人の「能力」と「忠誠心」の差によるものでしょうか）<br>　そのことは「彼」の作品で「嘉麻三部作」というものの中に現れているようです。（註三）そこでは「山沢に亡命」している人たちに対して「家」へ早く戻るよう、「家族」の元へ戻るように呼びかけています。ここで言う「亡命」は「宗教」に関するものと言うより、現在の「亡命」とほぼ同じ意義であり、「政治」的な立場の違いなどに発するものであると考えられています。しかし、それは「元明」の詔（註四）に有るような「紋切り型」ではありません。彼は明らかにそのような「亡命者」に対して「シンパシー」を感じているものであり、そのような人物だからこそ、「説得」には最適と考えられたのかも知れません。彼が「筑前国司」として赴任したというのもそのような事情が背景にあるとも考えられます。このような「シンパシー」は、元々彼が彼等と同じ「政治集団」の中にいたことを示唆するものであり、そのことと「四十歳」を過ぎて「無位」であったことは関係していると考えられるのです。<br>　そうすると「貧」という人物についても「旧王権」に仕えていた人物という解釈が可能となりますが、彼が「我を起きて人はあらじ」と誇っていることと、それとは対象的に（想定として）「下級役人」として「任地」に単身で派遣されているとすると、彼が「旧王権」の中では「主流」とは言えない立場であったという可能性もあります。<br>　<br>Ⅳ．『貧窮問答歌』の「我をおきて人はあらじ」というプライドについて<br>　ところで、この「貧窮問答歌」については「西晋」の「束皙」に「貧家賦」という漢詩（註五）に「典拠」があるとされ、これが「七世紀初め」に編集されたという「芸文類聚」に採られていて、「山上憶良」はこれを参照したという可能性が高いとされています。（註六）<br>　確かにこの作品からヒントを得て造られている部分はあると思われ、語句についても類似していますが、上に見た「我をおきて人はあらじ」という「物言い」はその中には確認されず、これは「漢詩」など中国古典には「典拠」を持たない可能性が高いと思われ、これは何か別のルーツを持つ言葉であると考えられます。<br>　この言葉は彼（「貧」）にとって、ある種「言い慣れた」ものであることを推量させるものであり、そのことからこれが「彼」というより「彼ら一族」にとってなじみの深いものであるように思われ、そのようなものを探してみると、「大伴家」などに伝わる「家訓」が元となっているという「万葉集」の「陸奥出金詔歌」が浮かびます。<br><br>「万葉集四〇九四番歌」<br>「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌（大伴家持）（読み下しは「伊藤博校注『万葉集』新編国歌大観準拠版角川書店」によります）<br>「… 天地の 神相うづなひ すめろきの 御霊助けて 遠き代（よ）に かかりしことを 我が御代に  顕はしてあれば 食（お）す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人（おいひと）も 女童（をみなわらは）も しが願ふ 心足（だ）らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖（かむおや）の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官（つかさ） 海行かば 水漬（みづ）く屍（かばね） 山行かば 草生（む）す屍（かばね） 大君の 辺（へ）にこそ死なめ かへり見は せじと言立（ことだ）て 大夫（ますらを）の 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖（おや）の子どもぞ 大伴（おほとも）と 佐伯（さへき）の氏（うぢ）は 人の祖（おや）の 立つる言立て 人の子は 祖（おや）の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言（こと）の官（つかさ）ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀（つるぎたち） 腰に取り佩（は）き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 『我れをおきて 人はあらじ』と いや立て 思ひし増さる 大君の 御言（みこと）のさきの (一には「を」といふ） 聞けば貴（たふと）み （一には「貴くしあれば」といふ）<br><br>　この「歌」の中にも「貧窮問答歌」同様「我れをおきて人はあらじ」という文句が出て来ます。この歌は「聖武天皇」が「大仏建立」に際して「黄金」を探していた際に「陸奧國守」に赴任していた「百濟王敬福」により「黄金」が発見され、それを献上した際（七四九年）に「聖武天皇」が東大寺の前仏に対し感謝の言葉を捧げた際の言葉を取り入れて作られたとされています。　つまり「山上憶良」の歌よりも「後」の時代の事となりますが、この「大伴家持」の歌が「聖武天皇」の「詔書」を賀するという形式になっており、その「詔書」では「大伴佐伯両氏」が「天皇の朝」を守るのに「顧みない」事を「常に聞いている」という意味のことを言っていますし、「汝達が祖先から伝えられているように」という言い方で「海ゆかば」以降の文章が書かれており、「聖武」は彼ら「大伴佐伯氏族」の「天皇家」に対する姿勢を普段から熟知していることが判ります。<br><br>『続日本紀（聖武紀）』<br>「（天平感宝元年）（七四九年）夏四月,甲午朔…又大伴、佐伯宿禰波(は),常母(も)云久(く),天皇朝守仕奉,事顧奈伎(なき)人等爾(に)阿禮(あれ)波(は),汝多知乃(たちの)祖止母乃(ともの)云來久(く)　海行波(は)美(み)豆久(づく)屍,山行波(は)草牟須(むす)屍,王乃(の)幣(へ)爾去曾(にこそ)死米(め),能杼(のど)爾波(には)不死　止(と),云來流(る)人等止奈母(となも)聞召須(す)。是以,遠天皇御世始弖(て)今朕御世爾(に)當弖母(ても),內兵止(と)心中古止波奈母(ことはなも)遣須(す)。…」<br><br>　このことから、「大伴」氏や「佐伯氏」に伝わる「言立て(家訓)」が存在していて、それをベースにして「詔書」が書かれたと言うことが見て取れます。そうすると、この「詔書」やそれに対する「家持の歌」などに先立つ時期に「山上憶良」が歌に取り入れたとしても不思議ではないこととなります。<br>　つまり、この「物言い」が「大伴氏」や「佐伯氏」に伝わる「家訓」の一部であったとすると、この「貧」の歌の部分は彼らに属する人物のうちの誰が「主人公」であることとなるでしょう。<br>　つまり「大伴」か「佐伯」の誰かが、「下級役人」として「窮」の立場の誰かに問いかけている光景を推定させます。<br><br>Ⅴ．「巡察使」と『貧窮問答歌』<br>　「六八五年」に諸国に「巡察使」が派遣されたという上の記事の中で、「筑紫」に派遣されたのが「佐伯氏」であることが注意されます。<br><br>「（六八五年）十四年…九月甲辰朔…<br>甲寅。遣宮處王。廣瀬王。難波王。竹田王。彌努王於京及畿内。各令校人夫之兵。<br>戊午。直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者。直廣肆石川朝臣虫名爲東山使者。直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者。直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者。直廣參路眞人迹見爲南海使者。『直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者。各判官一人。史一人。巡察國司。郡司及百姓之消息。』…」<br><br>　これはこの時「陪従」した「判官」ないし「史」も「佐伯氏族」であったという可能性が考えられるものです。「佐伯氏」は上に見た「家持」の「賀陸奥國出金詔書歌」で「大伴」と並び「家訓」が伝わっていたように窺える氏族ですから、「下級役人」（判官）として「筑紫」に派遣された際に、「家訓」を「唱えながら」「糟湯酒」を飲んでいる風景があったとして不思議はないでしょう。<br>　「大伴」や「佐伯」は「倭国王権」に非常に近いところにいたと考えられる氏族であり、「百済を救う役」では「大伴部の博麻」が「筑紫君薩夜麻」と同時に捕囚となっていることからも「大伴部」を率いる「大伴氏」が「倭国王」の親衛隊として存在していたことが知られますし、「陸奥出金詔歌」でも「大君の御門の守り」というような表現がされていることからも粋さできるでしょう。そのような彼等ですからこの派遣時の王権とはそれほど関係が悪かったとは思えません。彼ら「氏族」の一門には「地方」に派遣され、国内の実情の視察というそれなりに重大に使命を負っていたとも言えますが、地方に行く際の手当等が潤沢であったとは思われず、地方で悲哀や孤独を感じていた人物がいたとして不思議ではないでしょう。（八世紀以降の地方に派遣される役人達は規定により食料や宿泊場所（駅家など）が支給されることとなっていましたが、上に想定する「持統朝」で、しかも「大地震と津波」で疲弊している時と場所でそれらが充分に調達できたかはかなり疑問です。）そう考えるとこの「貧窮問答歌」の背景（土地）としては「筑紫」であったという可能性がもっとも考えられるわけですが、この「六八四年」の「西日本大震災」でも「筑紫」にはかなりの被害があったとは考えられるものの、実際にはそれ以前に発生した（六七八年）「筑紫大地震」による被害の影響の方が「筑紫」では大きかったと考えられます。その回復が進まないうちに「西日本大震災」が発生したものであり、そのため「困苦」に悩む人が一層増したという実情が「窮」者のような究極的な弱者が発生する要因となったと言う事を示すとも考えられるものです。<br>　またこの時の「五十戸良」（里長）の「取り立て」の状況は、「租」などの「税金」や「貸稲」の「利息」の取り立てなどを行っている状況を推定させるものであり、彼等は「巡察國司。郡司及百姓之消息」というように各地の生の実情を「巡察」するよう指示が出されていたものですから「貧窮問答歌」の内容はまさにそれを実行したものと言えます。<br>　このような地方の実情について彼らや同時に各諸国に派遣された「巡察使」達からも報告が上がり、（他の地方も大きく異なることはなかったと思われ）それを元にして「倭国中央」において協議の結果、「債務」を「元本」「利息」とも免除するという「徳政令」実施となったという流れが推定されます。<br><br>Ⅵ．『貧窮問答歌』の実際の時期と「大伴君熊凝」について<br>　以上の考察から、この歌は「山上憶良」が「筑前国守」となって「筑紫」に滞在していた時に詠んだものというより、本来はそれよりかなり以前の「諸国巡察」に同行した際にやって来た「筑紫」で見た情景を、その時点で詠んだものであったものと推察され、彼自身が「国守」となって再度やって来た「筑紫」での任官を終えた後に初めて「表」に出したものと思われます。それは「万葉集」においても「天平三年」の作と思われる「熊凝哀悼歌」（万葉八九二番から八九三番）以降には「貧窮問答歌」も含めて「官職名」が書かれておらず、これは通常「退官後」の作品と考えられているわけですが、実は「無位」時代の作品であることを暗に示すものではないかと思われます。（註七）<br>　そして、そのように以前詠んだ作品を「後年」発表したわけは、この「貧窮問答歌」の直前にある「大伴君熊凝」という人物の死に際して彼の置かれた状況が「歌の内容」と似たシチュエーションであったこともあると思われます。<br>　この「大伴君熊凝」は「国司の従人」であり、（多分「無位」）「都」へ向かう途中で亡くなったとされていますが、「父母」を故郷において単身でいることや「しかとあらぬ　ひげ掻き撫でて」という表現から、「貧窮問答歌」の「貧」の方は「髭」も余り濃くないような、かなり若い人物であることが推定されますが、それも「十八歳」という「大伴君熊凝」と重なるものであり、「巡察使」に出た頃の若かった自分に似ていたものでしょうか、何か共鳴するものがあったのではないでしょうか。また「大伴君」とされ「大伴一族」の「末端」に位置すると言うことも「我をおきて～」の台詞が似合いそうな人物とも言えます。<br>　「憶良」は、彼の死に際して彼の「志」を述べた「大典麻田陽春」の歌に「和する」歌を詠んでいますが、さらにこの「貧窮問答歌」を添えて「大伴君熊凝」という若者に対して「深い同情」と「鎮魂」の意を表したものと考えられます。<br>　（この歌の「左注」には「謹上」とあり、この「左注」は「貧窮問答歌」に関するものではないという説（註九）もあり、そうであればこの「貧窮問答歌」も「誰に献上する」と言うことを志向していなかったものと思われ、それは逆に「大伴君熊凝」に対する純粋な思いを感じさせるものです）<br><br><br>（註）<br>一．ちなみに、「ウィキペディア」などには「古語林」からの引用として「役人が貧窮の状態を問い合わせている状態を示す」とされていますが、その「古語林」にもそれについては「根拠」が書かれていません。この「ウィキペディア」の文章は「孫引き」される形でネット内各所で散見されます。このように「根拠」が記されないものが「公的見解」のように広がっているのは警戒すべき現象と思われ、それは「九州王朝説」全体に対する根拠のない批判などと同根・同種のものであるようです。<br>二．「丁亥年（六八七）若狭小丹評木津部五十戸秦人小金二斗」と書かれた「飛鳥池遺跡南地区出土木簡」の例がいちばん遅い時期を示しているのに対して、「癸未年（六八三）十一月三野大野評阿漏里阿漏人白米五斗…」と書かれた「藤原宮跡大極殿院北方」から出土したのがいちばん早い例であり、この間に「切り替え」がおこなわれたことが推定されています。これらのことから、最終的には「庚寅年」（六九〇年）に「正式」に改定されたという理解がなされています。（奈文研木簡データベースによります）<br>三．この場合「家訓」として考えられるのはこの「大伴家持」の「陸奥に金を出す詔書を賀す歌」のなかで「～と」というように「台本」の「ト書き」のように書かれている部分である「大伴の…かへり見は せじ」と…、という部分及び上に見た当該部分である「…梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 『我れをおきて 人はあらじ』」と…という部分を含む形で構成されていると思われます。<br>四．「元明」は自らの即位に関連し、天下に「大赦」を施すとして「詔」を出したものです。その中に「亡命山沢」している人々に対して「百日」という期限付きで「自首」するように呼びかけています。<br>「（慶雲）四年（七〇七年）六月…大赦天下。自慶雲四年七月十七日昧爽以前大辟罪以下。罪無輕重。已發覺未發覺。咸赦除之。其八虐之内已殺訖及強盜竊盜。常赦不免者。並不在赦例。前後流人非反逆縁坐及移郷者。並宜放還。亡命山澤。挾藏軍器。百日不首。復罪如初。…」<br>五．「晉束皙貧家賦曰．余遭家之轗軻．嬰六極之困屯．恆懃身以勞思．丁飢寒之苦辛．無原憲之厚德．有民斯之下貧．有漏狹之草屋．無蔽覆之受塵．唯曲壁之常在．時弛落而壓鎮．食草葉而不飽．常嗛嗛於膳珍．涉孟春之季月．迄仲冬之堅冰．稍煎蹙而窮迫．無衣褐以蔽身．還趨床而無被．手狂攘而妄牽．何夜長之難曉．心咨嗟以怨天．責家至而相敦．乃取東而償西．行乞貸而無處．退顧影以自憐．衒賣葉而難售．遂前至於飢年．煮黃當之草菜．作汪洋之羹饘．釜遲鈍而難沸．薪鬱絀而不然．至日中而不熟．心苦苦而飢懸．丈夫慨於堂上．妻妾嘆於灶閒．悲風噭於左側．小兒啼於右邊．」（「藝文類聚」より「貧家賦」）<br>六．上田武『「貧窮問答歌』における中国文学の影響について」埼玉短期研究紀要第二号　埼玉短期大学電子サービスライブラリー<br>七．この意味では「男子の、名は古日に恋ひたる歌三首（長一首短二首）」という作品も「無位」の時代のものという可能性があるでしょう。この歌にも「肩書き」が書かれていない事があると共に、この歌に出てくる子供は明らかに「小児」の類であり、老年に達した「山上憶良」には「子」というより「孫」「曾孫」の類であるから、ふさわしくないと思われ、これは「七〇一年」の「遣唐使」以前の時代の事であるを推察させるものです。<br>八．富永長三「憶良と亡命の民　嘉摩郡三部作を読む」市民の古代第十五集一九九三年　市民の古代研究会編に旧倭国王権関係者が「亡命」している状況が考察されています。<br>九．池田一彦『「貧窮問答歌」のいわゆる「左注」に関する一考察』成城文芸二〇〇二年二月<br><br>「他参考資料」<br>坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』（文庫版）」岩波書店<br>青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店<br>伊藤博校注「万葉集　釈注」集英社文庫<br>独立行政法人奈良文化財研究所編「木簡データベース」<br>下田忠『山上憶良における「世の中」について』国語教育研究一九七五年　広島大学学術情報リポジトリ<br>今泉春行「憶良と道真」新潟青陵大学短期大学部研究報告第四十号二〇一〇年<br>森 斌『「男子の、名は古日に恋ひたる歌三首」の特質』広島女学院大学リポジトリサービス<br>市瀬雅之『「類緊歌林」覚え書き　－編纂時期の論の検討を中心に－」同朋国文第二十三号一九九一年十月同朋国文国文学会<br>廣川 晶輝「大伴家持の陸奥国出金詔書を賀く歌」北海道大学文学研究科紀要 二〇〇〇年九月　北海道大学ＨＵＳＣＡＰ
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<pubDate>Thu, 05 Feb 2026 23:00:28 +0900</pubDate>
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<title>「俀」と「倭」の差　－「大業起居注」亡失との関連で</title>
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<![CDATA[ 要旨<br>　「隋」の秘府には「大業起居注」がなかったということから『隋書』編纂が困難を極めたらしいこと。「仁寿年間」までしかなかった『王劭版隋書』を大々的にフィーチュアした結果、「大業年間記事」について実際の年次とは異なる年次に配列されたらしいこと。『王劭版隋書』において「天子」標榜事案に応じて「倭」を「俀」に書き換えたらしいこと。（ただし発音は同じ）。『書紀』が『隋書』を脇に置いてみながら編纂されたとされていることから、この両者の事情がいわば「合体」したことにより「大業三年」の宣諭記事と『推古紀』の国書紀事（これは「開皇年間と推測される）が同一年次として記録されるという結果になったこと。この年次の差は『書紀』の偏年に大きな影響を及ぼしており、『敏達紀』全体が『欽明紀』記事の焼き直しという実態の発生原因となっていると思われること。<br><br>1.「大業起居注」の欠如<br>　『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、その皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる「皇帝」に直接関わる記録です。<br>　「隋代」の「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。たとえば『隋書経籍志』（これは『隋書』編纂時点で宮廷の秘府に所蔵されていた史料の一覧です）を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、漏れているようです。<br>　また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」（宮廷内書庫）にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。それは「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』という書の「序」に、「貞観修史が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれている事や、『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されており、「起居注」以外の資料を相互に対照していることなどから「推測」されていることです。（※1）<br><br>「（大業雑記十巻）唐著作郎杜寶撰。紀煬帝一代事。序言貞観修史未尽実録。故為此以書。以彌縫闕漏」（「陳振孫」（北宋）『直斎書録解題』より）<br><br>　また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」（出版）される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。<br><br>「隋書自開皇、仁壽時，王劭為書八十卷，以類相從，定為篇目。至於編年紀傳，並闕其體。…」（「『隋書』宋天聖二年隋書刊本原跋」より）<br><br>　つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」（高祖）の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。（『隋書』の『経籍志』中にも確かに「雑史」の部の最末に「隋書六十卷未成。祕書監王劭撰。」とあり、『隋書』の編纂者はこの「王劭」の書いたものを承知していたらしいことが窺えます。）<br>　「王劭」については以下に見るように「隋」の「高祖」が即位した時点では「著作佐郎」であったものですが、その後「職」を去り私的に「晋史」を撰し、それを咎められ「高祖」にその「晋史」を閲覧され、そのできばえに感心した「高祖」から逆に「員外散騎侍郎」とされ、側近くに仕えることとなったものです。その際に「起居注」に関わることとなったというわけです。<br><br>「…高祖受禪，授著作佐郎。以母憂去職，在家著齊書。時制禁私撰史，為?史侍郎李元操所奏。上怒，遣使收其書，覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎，修起居注。…」（『隋書／列傳第三十四　王劭』より）<br><br>　その後「高祖」が亡くなり、「煬帝」が即位した後「漢王諒」（「高祖」の五男、つまり「煬帝」の弟に当たる）の反乱時（六〇四年）、その「加誅」に積極的でなかった「煬帝」に対し「上書」して左遷され、数年後辞職しています。<br><br>「煬帝嗣位，漢王諒作亂，帝不忍加誅。劭上書曰：「臣聞黃帝滅炎，蓋云母弟，周公誅管，信亦天倫。叔向戮叔魚，仲尼謂之遺直，石碏殺石厚，丘明以為大義。此皆經籍明文，帝王常法。今陛下置此逆賊，度越前聖，含弘寬大，未有以謝天下。謹案賊諒毒被生民者也。是知古者同德則同姓，異德則異姓，故黃帝有二十五子，其得姓者十有四人，唯青陽、夷鼓，與黃帝同為姬姓。諒既自絕，請改其氏。」劭以此求媚，帝依違不從。遷祕書少監，數載，卒官。」（同上）<br><br>　このことから彼が「起居注」の監修が可能であったのは「仁寿末年」（六〇四年）までであり、「大業年間」の起居注を利用して『隋書』を作成していたとはいえなくなると思われます。<br>　実際に下記のように彼の「著作郎」としての期間は「仁寿元年」までの二十年間であったと記されているわけですから、あくまでも「王劭」は「開皇」「仁寿」という高祖治世期間のデータしか持っていなかったこととなります。<br><br>「…劭在著作，將二十年，專典國史，撰隋書八十卷。…」（同上）<br><br>　つまり彼の撰した『隋書』は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったと推定され、やはり「大業」年間の記事はその中に含まれていなかったと考えられることとなります。（「高祖」高祖の「一代記」という性格があった思われます）<br>　その後「唐」の「高祖」（李淵）により「武徳年間」に「顔師古」等に命じて「隋史」をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのはここでも「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。<br>　さらに『旧唐書』（「令狐德棻伝」）によれば「武徳五年」（六二二）に秘書丞となった「令狐德棻」が､「太宗」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。<br><br>「…時承喪亂之餘，經籍亡逸，德?奏請購募遺書，重加錢帛，增置楷書，令繕寫。數年間，羣書略備。…」（『舊唐書／列傳第二十三／令狐德棻』より）<br><br>　ここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。しかし、同様の記述は「魏徴伝」（『旧唐書巻七十一』）にも書かれています。<br><br>「…貞觀二年，遷秘書監，參預朝政。?以喪亂之後，典章紛雜，奏引學者校定四部書。數年之間，秘府圖籍，粲然畢備。…」（『舊唐書／列傳第二十一／魏徴』より）<br><br>　ここでも「典章紛雜」と表されていたものがその後「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、それ以前に収集された史料ではまだ完全ではなかったことを示すものであり、更にこの時点でも全ての史料を集めることができたかはかなり疑問と思われます。結局失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われるわけです。<br>　少なくとも「経籍志」の中に「大業起居注」が漏れていることから、これらの資料収集の結果としても「大業起居注」という根本史料は見いだせなかったこととなります。推測によれば「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるでしょう。<br>　また、これに関しては「太宗」（二代皇帝）が「魏徴」に『隋書』の編纂について質問したことが記録にあるのが注意されます。<br><br>「太宗問侍臣：「隋《大業起居註》，今有在者否」公對曰：「在者極少。」太宗曰：「起居注旣無，何因今得成史？」公對曰：「隋家舊史，遺落甚多。比其撰錄，皆是採訪，或是其子孫自通家傳參校，三人所傳者，從二人爲實。」又問：「隋代誰爲起居舍人」公對曰：「崔祖濬、杜之松、蔡允恭、虞南等。臣每見虞南，說祖濬作舍人時，大欲記錄，但隋主意不在此，每須書、手、紙、筆，所司多不卽供，爲此私將筆抄錄，非唯經亂零落，當時亦不悉具。」　（王方慶撰『魏鄭公諌録』巻四・対隋大業起居注条）<br><br>　つまり太宗が「隋の大業起居注はあるか」と聞くと魏徴は「ほとんど残っていない」と答えており、太宗が「起居注がなくてどのように『隋書』を編纂したのか」と問うと、魏徴は「隋の記録は遺落が激しかったので、『隋書』編纂に際しては、探訪して調査し、また子孫が家伝に通じていれば、三人の記録のうち二人が一致した場合にそれを事実として採用した」と答えているのです。さらに「そもそも大業年間には起居舎人はいたものの彼らによってしっかりした記録がとられなかった」旨のことが指摘されています。記録がないのは混乱のせいだけではないと言うことのようであり、「隋主」つまり「煬帝」がその様な事を気にかけなかったと言うことのようです。<br>　結局、この問答からも『大業起居注』はそもそも不備であったか、あっても逸失のまま取り戻すことはできなかったものであり、せいぜい各家の家伝を参考資料とする事しかできなかったことを示すものです。<br>　結局「秘府」から必要な資料が散逸していたことがその理由と考えられ、『隋書』をまとめるための資料も実際には「開皇年間」（及び仁寿年間）の記事しかなかったものであり、「大業年間」記事はあってもわずかなものであったと考えられるものですが、それならば、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたと考えるべきでしょうか。特に「起居注」によるしかないはずの皇帝の言動が「大業年間」の記事中に散見されるのは大いに不審であるわけです。典型的な例が「倭国」からの国書紀事です。そこでは「皇帝」に対して「鴻臚卿」が「倭国」からの使者が持参した「国書」を読み上げ、それに対して「皇帝」が「無礼」である趣旨の発言をしたとされており、そのようないわばコンフィデンシャルなものがは本来「起居注」にしか記録されるはずのない性格のものであることを考えると、このときの「記事」が何に拠って書かれたかは不審としかいいようがありません。<br>　これに関しての研究（※2）では「『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。」とされています。しかし、上に見たように「王劭」版『隋書』には「仁寿」年間までしかなかったとされているわけですから、「大業年間」記事があったとするならそれなりの証明が必要ですし、「鴻臚寺」他の記録についてもそれが「秘府」に保存されていた限り亡失してしまったと見るのが相当と思われますから、そのような資料があっただろうと言うのはかなり困難であると思われます。<br>　そもそも「起居注」は本来「史官」だけが記録できる性質のものであり、例え「鴻廬卿」といえど内容を「起居注」とは「別に」「記録」として保存するというようなことは「越権行為」であったと思われます。元々「起居注」は皇帝自身さえその内容を見ることが出来なかったとされるものであり、それは「皇帝」の至近で行われる事柄が本来「非公開」のものであり、「コンフィデンシャル」なものであったわけですから、それを本来の職務を逸脱して「鴻臚寺」で記録していたとすると大いに問題であったはずです。それを考えると「起居注」が存在しない場合は「皇帝」に関わる「言動の記録」は存在していなくて当然のはずということになるでしょう。そう考えると『隋書俀国伝』の「倭国」からの使者に対する皇帝の発言や対応はどのような資料を基に欠かれたものなのでしょうか。<br><br>2.『隋書』の年次移動について<br>　「唐代」に『隋書』を編纂するという段階において「王劭」が隋代に「中書舎人」という立場にあった時点で入手できた資料等により「隋」の高祖（高祖）在任中についての記録として書いた『王劭版隋書』はあったものの、「煬帝」即位期間の記録はなかったとされているわけです。しかし、『隋書』を見ると「帝紀」にも「列伝」にも「煬帝」在任期間中の記事が書かれており、その背後にどのようなことがあったのか疑問となるということを前記しました。それについては以下のことを想定してみます。つまり「大業起居注」が欠落した中で「皇帝」の命令という制約の下「史書」を書かざるを得なくなったという事情の中、「開皇起居注」や「仁寿年間」の記録から記事を「移動」して「穴埋め」をしたものではないでしょうか。（さすがに「捏造」とは思われませんが）その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」にみられるという「事象」が発生していると思われるわけです。<br>　この「想定（仮定）」は「大業年間」の「皇帝」の言動が直接関わる記事の多くが、本来もっと「以前」のこととして記録されていたものという考えにつながり、それはこの記事についても「煬帝」ではなく「高祖」（高祖）の治世期間のものであって、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったという可能性を考えるべきということになります。<br>　例えば『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」の言葉に「聞海西菩薩天子重興仏法」というのがあります。<br><br>「大業三年，其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法，故遣朝拜，兼沙門數十人來學佛法。」<br><br>　ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われ、最も該当するのは「隋」の「高祖（高祖）」でしょう。<br>　彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。「二代皇帝」である「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」していますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、未だ「天子」ではない段階のものであり、厳密には「高祖」とは同じレベルでは語れないものです。さらに、「高祖」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。<br>　「北周」の「武帝」は仏教（及び道教も）に対して弾圧を加え、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「高祖」は「北周」から「授禅」の後、すぐに仏教の回復に乗り出します。「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業が矢継ぎ早に行われました。さらにこの時代の各種の資料を見ても「重興仏法」という語は「高祖」にしか使用されていません。<br>　また「倭国王」から「裴世清」への言葉の中に「大國維新之化」というものがあります。<br><br>「…其王與清相見大悅曰 …我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。」（『隋書俀国伝』より）<br><br>　ここで言う「維新」の語も『隋書』では「煬帝」に対して使用された例がなく、「高祖」に対してのものしか確認できません。<br>　これらのことから「王劭」が書いていたという「開皇」「仁寿」年間についての『隋書』がこの「日出処の天子」と書かれた国書持参記事に利用された可能性が考えられるものですが、それを傍証するのが「帝紀」には「倭」とありながら「列伝」の方では「俀」になっているという違いです。<br>　これに関しては「倭」と「俀」が別の国を指すという古田武彦氏を初めとする「多元史観論者」の主張がありますが、『隋書』に記事の転用・移動があるとする「仮定」からは即座には同意しかねます。もしそうなら「帝紀」と「列伝」というそれぞれに「倭」と「俀」の双方について偏って存在することの意味を説明する必要があるでしょう。（ただしそれは（「倭」と「俀」は単純に互換の語であるとする旧来の立場についても同様にいえることですが）<br>　古田氏はこれについてその書『失われた九州王朝』において「列伝」と「帝紀」の記事の時間差に注目し、その二つが接近していることからこれらを同一の国と見る事はできないとされました。つまり「帝紀」によれば「大業四年三月」に倭国からの「朝貢記事」があるのに対して「列伝」（俀国伝）ではその前年に遣隋使が送られており、それに応えて「裴世清」が派遣されたのがその翌年のこととなるとされますから、非常に短期間（数ヶ月か）のうちに別に「使者」を派遣したこととなり、そのような想定は無理があるとされるわけです。<br>　しかしこれは「帝紀」と「列伝」の年次が実際に接近していたという想定の下の判断であり、すでに述べたように「列伝」記事（少なくとも『俀国伝』記事）は実際にはもっと遡上した時期のものであり、「帝紀」の記事とは年次がかなり離れているとみる立場から言うと、それらは「矛盾」ともいえなくなるわけであり、その意味で「倭」と「俀」が同一の国ではないと考える必要もなくなるわけです。<br><br>3.「倭」と「俀」の差について<br>　明らかに「王劭」が書いていた『隋史』が「列伝」の資料として参考にされたものであり、その影響が「倭」と「俀」の書き分けという結果になっていると考えられるわけですが、その場合彼はわざわざ「歴史的」な地域名である「倭」を敢えて「俀」に変えて『隋史』を書いていたこととなります。その意図はどこにあったのでしょうか。それは彼が熱烈な「高祖」の崇拝者であったらしいことが関係していると思われます。<br>　すでに推測したように年次移動があったとすると「王劭」が「高祖」に近侍していたときに派遣された「倭国」からの使者が「天子」を標榜する「国書」を持参したというわけです。そのときに「高祖」が怒って「宣諭使」として「文林郎」という「正式な外務官僚」ではない「裴世清」を差し向けたという事件につながっています。彼は当然「国書」も持参しておらず「口頭」で「宣諭」したものです。<br>　「王劭」は「高祖」に認められ「在野」の立場から「史官」へと採用されたものであり、彼の「文章」を書く能力を買って抜擢したと思われますから、「王劭」が「高祖」に対して「恩義」を感じていたとして不思議ではありません。<br>　彼は「高祖」が即位した後彼をを「聖皇帝」であると賞賛し、各地で見られた現象を全て「高祖」に関わる「瑞祥」であるというように幾度も「上表」したものです。さらに『舍利感應記』を書き、その中では「高祖」を「仏教」を再興した「聖天子」であるとするなど賞賛の言辞で埋め尽くされています。その彼にとって見ると「高祖」に対して「身の程知らず」の言辞を弄し、その結果「宣諭」される結果となった「倭国」を、「漢」や「魏晋」から正統な王朝と認められていた伝統と名誉のある「倭国」と同一の扱いをすることはできないと考えたとしておかしくはなく、「俀国」という一見互換性のある語を使用しつつもそこに「弱い」という意を含んだものをあたかも「レッテル」の如くに貼り付ける行為に及んだものと考えることができるでしょう。（元々「倭」にも「従順」という意があったものであり、また「弱い」という意味もその中に含んでいたものと思われますが、それをことさらに強調するための選字と思われます）。つまり「俀」国表記はこれが「王劭」の『隋書』にあったものを参照したとして、「宣諭事件」が「高祖」の時に起きたと考えたときに初めて整合性をもって説明できる事象であると思われるのです。<br>　これが「煬帝」の治世時点でのことであったとすると「王劭」の関与の余地がないこととなり、彼が編纂した『隋書』に「俀」国表記がなされるはずがないこととなります。その「王劭」の『隋書』を参考にして書かれたとみられる「倭国」関係資料（列伝）が「俀」国表記となっていることは即座に「宣諭事件」そのものが「高祖」の時代のことであったことを如実に示していると思われ、『隋書』の編纂において記事の年次配列に手が加わっていることを示すものです。<br>　「帝紀」特に「煬帝紀」には「王劭」は関与していないという可能性が高く、そのため「帝紀」の編纂者は彼ほど「大義名分」を重視しなかったということが考えられ、「先代」の「高祖」の治世期間において「宣諭事件」がありながらも通例通り「倭」という表記で資料が書かれていたものと推量されます。<br>　そもそも「帝紀」はパブリックな記録を元にしており、それこそ「鴻臚寺」他の諸官庁に資料があったと思われ、特に「王劭」の記録に頼る必要がなかったものと思われます。このような事情により「不統一」な状況が発生したものと考えられる訳です。<br>（ただし「読み」はいずれも同じであったと推測しています。つまり「俀」も「倭」も「わ」と読ませていたと推測します。なぜならどちらも同じ国の名称であり、しかも古来より連綿と続く呼称ですから当然同じ発音をしたと見るべきと思料します。「倭」と「俀」は字形も似ていますし「意味」もよく似ています。さらに当時も「倭」と「俀」は相互に通用していたというわけですからこれを「ワ」と読ませようというのはそれほど無理な話ではないと思われます。というかそれを狙って「俀」という字を採用したとも言えるでしょう。確かに本来違う発音の字であったわけですが、それを「無理に」同じ国として同一発音を無言で強制していると考えられるわけです。）<br>　「王劭」という人物は上にみたように「高祖」（高祖）に対し過度の傾倒をしていたものであり、それにより「無礼」な「倭国」を「俀国」に書き換えたとみたわけですが、さらに彼は「宣諭」される以前に交渉のあった「倭国」としての記録を「抹消」したのではないかとも考えられるでしょう。そう考えるのは、『隋書』を見ると『推古紀』の「国書紀事」と整合する内容の交渉記録がみられません。『隋書』中に「年次移動」がもしあったとしても事実関係そのものもが『隋書』中に見られないのは不審です。それが見られないのはその『隋書』の参照原資料としての『王劭版隋書』の段階ですでに「なかった」からであり、それは意図的に「抹消」されていたからではなかったかと考えられます。<br>　彼が「倭国」を「俀国」と書き換えたとすると、その理由として「宣諭」事件以後の「倭国」を「貶す」ことを目的としたことが考えられるわけですが、それ以前の「夷蛮の国」として「隋」と交渉していた時期の、「訓令」など受けながらもまだしも受け入れられる内容の交渉であった時点の記録までも、これを削除（抹消）することにより記述方針の徹底と統一を図ったのではないかと考えられるからです。　<br>　彼は中書舎人として「起居注」に直接携わっていた人物ですから、「起居注」にあったはずの記録を書き漏らすとは考えにくく、また「国書」のやりとりなどが「起居注」に書かれなかったとも考えられないことから、「倭国関連記事」は（当然「存在」はしていたものの）これを全て「抹消」し、「なかったもの」として『応劭版隋書』が書かれたと考えるしかありません。<br>　これに対し『推古紀』の国書紀事を見ると、逆に「宣諭」されるに至った交渉記事の類が見られません。これは『書紀』編纂者にとっては「隋」から「宣諭」されたということが国家の体面が汚されることとなったという自覚があったことから行われた「抹消」（或いは無視）であり、そのような「不体裁」な記事をそのまま書き残すことはできなかったと『書紀』編纂者が考えたとみることができ、それは「王劭」の『隋書』と同様の方針による改竄であったこととなります。互いに自王朝に不利（不名誉）なことを抹消し逆に残すべき有利な事実と考えたことだけを残したこととなるわけです。そのことは両記事が同一年次として書かれていてもその内実は別の年次の記事であるという事実につながります。<br><br>4.『書紀』への影響について<br>　『敏達紀』と『欽明紀』では「仏教」の受容に関して「蘇我」と「物部」との対立が「親子」二代にわたって書かれていますが、これはほぼ「重出」とみられており、これについては「天然痘」をキーワードとして「四寅剣」と「金光」年号との関連及び善光寺と『請観音経』などのからみからも『欽明紀』が「真」と考えるべきと思われます。<br>　『書紀』を見ると「用明」は「三年」という短い期間の在位の後死去しています。そしてその彼は「瘡」つまり「天然痘」で亡くなったとされます。その前代の「敏達」も二十三年間の在位期間があるものの、その死はやはり「天然痘」によるものであったと推定されています。しかも『敏達紀』と『欽明紀』は「疫病」の発生という事件が起きた点も含めて良く似ています。<br>　「天然痘」による国内のパニック状況が『敏達紀』に書かれているにもかかわらず、『二中歴』に言う「金光元年」が『欽明紀』に相当し、その「金光」という年号について「私見」では『請観音経』という「経典」の中にその原点があると見られることと、その『請観音経』が「天然痘」のような強力な病気に対する救済としての「経典」として尊崇されていたと言うことを考えると、『敏達紀』の内容にますます近似することとなっています。<br>　『請観音経』という経文には「ヴァイシャーリー治病説話」があります。「ヴァイシャーリー治病説話」とは「毘舎離（ヴァイシャーリー）国」を襲った「悪病」に罹った「月蓋長者」の「娘」の病気が「阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」ですが、そこでは「世尊」（釈迦）が「長者」に説いている間に仏光中に無量寿仏及び観音と勢至の二菩薩が西方に見え、「如来」の「神力」により「毘舍離国」に至って「城門」まで来ると、「諸大衆」に「光明」を放ち、その光により「毘舍離国」は全て「金色」に染まったとされています。ここに書かれたことと「金光」という年号には関係があるとみられ、この話と同様「悪病」からの救済の象徴として「金光」という年号に代えたものとみられます。<br>　『欽明紀』の仏像伝来記事と同様のものが『敏達紀』にあり、『欽明紀』では百済の「聖明王」からの伝来とされますが、『敏達紀』では「流れ着いた」とされます。これは明らかに重複を避けた書き方であろうと思われます。また『欽明紀』には書かれませんが、『敏達紀』では「天下熱病」があったと書かれています。さらにいずれも天皇は仏教の受容について群臣に相談しており、多くの反対にあって最初は「蘇我稲目」、次には子供の「蘇我馬子」が仏像を拝受しています。そして『欽明紀』では「物部尾輿」、『敏達紀』ではその子供の『物部守屋』が仏教に反対し、同じように「鋳物師」などを集め「仏像」を熔かそうとしたとしますが失敗します。<br>　このようにストーリーも関係者もほぼ同一であり、これは当然重出と考えるべきでしょう。（既に同様の意見はかなりあるようです）<br>　「二〇一四年」に筑紫の元岡古墳から出土した「銘入り鉄剣」には「寅」の年月日に作ったとされる意味の語句が書かれていて、これは通常「四寅剣」と呼ばれるものであったことが推定されており、その日付からこの「庚寅年」とは「元嘉暦」に基づくものであること、それが「五七〇年」であることが確実視されています。この「年次」が『二中歴』の「金光元年」に一致すると思われているわけであり、そのことから「金光元年」は「五七〇年」であり、またこの「剣」が作られた目的は「天下熱病」（天然痘）に対する「破邪」というものであったと見られることとなります。つまり実際の「天下熱病」は『欽明紀』に起きたものであり『敏達紀』ではないとみられるわけですが『書紀』で『敏達』の段に書かれているというわけです。<br>　さらに『書紀』の「改新の詔」に続く一連の詔に中に「彦人大兄」に関するものがあり、彼は「皇祖」という称号を冠せられて呼称されているわけですが、『古事記』によれば「御陵」があるとされます。<br><br>「古事記敏達天皇の段」<br>「…此天皇之御子等并十七王之中　日子人太子娶庶妹田村王　亦名糠代比賣命　生御子　坐岡本宮治天下之天皇　次中津王　次多良王【三柱】　又娶漢王之妹　大股王生御子　智奴王　次妹桑田王【二柱】　又娶庶妹玄王生御子　山代王　次笠縫王【二柱】　并七王【甲辰年四月六日崩】　御陵在川内科長也」<br><br>　この記事では「敏達」の記事中にわざわざ別に「日子人太子」についてその夫人と子について述べており、さらに「敏達」については書かれていないにもかかわらず「日子人太子」については「崩年」と「御陵」が書かれています。つまり「此天皇之御子等并十七王之中…」以降は全て「日子人太子」についての記録とみられるのです。<br>　最後に書かれている「崩年」と「御陵」が「敏達」のものでないのは『書紀』との圧倒的な食い違いがそれを示しています。そもそも『書紀』では「敏達」について「殯宮」については書かれているものの「陵墓」についての記載がありません。「崩年」についてもその年だけではなく月も日も異なるように書かれていますから、この『古事記』に書かれた「崩年」記事なども「敏達」のものではなく「日子人太子」のものと考えるべきでしょう。<br>　他の皇子達がいる中で当の天皇の崩年等を書く場合は「此の天皇」と言う語を前置するらしいのですが、ここにはそれが見られません。そう考えると、彼については「天皇」同様の記事の書き方であることとなり、彼が「即位」していたということが（明確には書かれていないものの）、ここで強く示唆されているようです。（少なくともこのように「太子」について項を改めて書かれているのはこの「日子人太子」以外には『古事記』中には見あたりません。）<br>　逆に言うと「敏達」についての記録が存在していなかったことを示すものと思われ、「重出」の影響がそこに現われていると思われるのです。つまり「遣隋使」記事との関係で『敏達紀』に相当する期間が「空白」となったためのやむを得ない対応ではなかったかと思われます。<br><br><br>（※1）中村裕一『大業雑記の研究』（汲古書院二〇〇五年）<br>（※2）榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」 （『アリーナ 2008』、2008年3月）
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<link>https://ameblo.jp/james-5530/entry-12949340029.html</link>
<pubDate>Sun, 07 Dec 2025 22:10:13 +0900</pubDate>
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<title>「氏姓制度」と「軍郡」</title>
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<![CDATA[ 　『書紀』を見ると「祖」つまり「先祖」という用語が使用される最後が「顕宗天皇」です。つまりこれ以前の記事中には自分たちの「先祖」としての存在が書かれています。<br><br>「（顕宗）三年春二月丁巳朔。阿閇臣事代銜命。出使干任那。於是月神著人謂之曰。我祖高皇産靈有預鎔造天地之功。宜以民地奉我月神。若依請獻我。當福慶。事代由是還京具奏。奉以歌荒樔田。歌荒樔田。在山背國葛野郡。『壹伎縣主先祖押見宿禰』侍祠。」<br><br>　この記事が「最古」の「先祖」記事であり、これ以降当時の現存氏族の「先祖」としての記載が確認できなくなります。これについては先行研究（黛弘道氏）があり、それによればその時点付近で「氏族」が形成されたことを示すとされています。（「盟神探湯」によって確定したという趣旨のようです）<br>　ただそれが正しいとして何故この時点でそのようなことが行われたのか。何故それが可能となったのか。それが明らかなっているとは言いがたいと思われます。それにはある程度「強い権力」が必要なはずですがそれはどこから来たのか。何によってその権威を身につけたのか。つまり氏族が形成されるには彼等の上部構造が必要と思われ、その上部構造は何によって成立しているのか。この点について以下に考察してみました。<br><br>1.「氏族」制度と「軍郡」の関係<br>　この時点付近で「氏族」制度が作られ各地の有力者がこの「制度」によって「倭国王」の配下として取り込まれていったものと思われるわけですが、その時期が「顕宗」「雄略」付近であることには意味があると思われくす。彼等の時代に「呉国」つまり「中国南朝」との関係が強化されたことが重要であると思われ、その中に「中国南朝」から「倭国王」の配下の「職掌」として「軍郡」が任命され、また彼等が「倭国」内外に配置されたという事実があります。<br>　すでに考察したように「軍郡」は後の令制国と同領域に配置された将軍であり、彼が軍事力を背景に地域を支配していたのは明白であり、そのことと「氏族」の創始がほぼ同時期なのは偶然ではないと思われるのです。<br>　倭国中央の意志を間接的に表明する形で「軍郡」という軍事責任者が倭国王の元に連なる「氏族」という制度を作り上げたとみられ、「氏姓制度」がその本質として「倭国王」の配下としての地方権力者の再編成であったことは明確です。その実行部隊としての「軍郡」ではなかったかと思われるわけです。<br>　そして「氏族」制度の形成に一役買ったのが「盟神探湯」という方法であり、これは「神意」によって事の善悪を判断させるものとして利用されていたものです。特に犯罪を犯したものや訴えられたものについて熱湯に手を入れさせて焼けただれなかったなら彼の訴えは真であり、またた嫌疑は晴れるという判定法です。このようなことをもっぱら犯罪の成立不成立の判断に利用して「訴訟」を「裁判」する権利は「廷尉」の専管事項であったはずであり、彼は「軍郡」の配下の人物であったと思われるのです。<br><br>2.「盟神探湯」と「軍郡」<br>　「廷尉」というのは元々「秦」において設置された「司法」を司る官であり、その「属官」として「廷尉監」「廷尉評（平）」「廷尉史」があるとされます。<br>　特に「廷尉評」はその後単に「評」と呼称されたとされ、「半島」における「地名」としての「評」の淵源はこの「廷尉評」にあるのではないかと考えられます。そして「律令」（特に「律」）は「廷尉」がそれを駆使して「審理」・「判断」するものであることから、「尉律」と呼ばれたとされます。<br>　このように「治安維持」という国家統治の基本的部分を担う組織が「半島」に深く浸透していたものと思われるわけです。<br>　実際に「盟神探湯」が『書紀』で確認されるのは「任那」においてでした。<br><br>「（継体）廿四年（五三四年）秋九月。任那使奏云。毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅。淹留二歳。一本云。三歳者。連去來年數也。懶聽政焉。爰以日本人與任那人。頻以兒息難決。元無能判。毛野臣樂置誓湯曰。實者不爛虚者。必爛。是以投湯爛死者衆。」<br><br>　この「継体紀」の例は「任那」におけるものですが、「任那」は「倭の五王」が自称し、また「南朝劉宋」に認めさせた称号の中の「六国諸軍事」という中に含まれていますから、「倭国」は「軍事権」を「任那」において行使していたと見られることとなりますが、当時は「兵刑一致」の時代であり、「軍事」部門が「警察」権力をも握っていたと思われます。そう考えると、「評」について「任那」で「廷尉評」として「司法権」（あるいは「警察権」といっても良いわけですが）を行使していたのは「倭国」であると言う事となりまが、その直接の担当者としての「軍事責任者」が「軍郡」であったと考えられるわけです。つまり「盟神探湯」を行うのも「軍郡」の管轄範囲であったと思われるわけであり、当然彼等は「将軍」であり彼等が実際に動かせる軍事力を持っていたことが重要ですから、それを背景に「盟神探湯」という「神意」を利用する形で倭王権に従順な勢力を涵養していたことなるでしょう。<br><br>3.「氏姓」制度と「軍郡」の配置領域<br>　ただし「氏姓」が制度として確立したとして、その「範囲」はすでに考察したように列島全体に渡っていたわけではないことが「倭王」「武」の上表文から窺えます。つまり「倭国内」においては九州の北半部と中国四国の東側に「軍郡」の配置が限定されていたものと思われ、それ以外では「氏姓」が制度として確立していなかったものと思われます。それを示唆するものが「稲荷山古墳」です。この古墳は埼玉県行田市にあるものですが、築造が五世紀後半と考えられる前方後円墳です。「一九六八年」の発掘で「金錯銘鉄剣（稲荷山鉄剣）」が発見され、「一九七八年」になり銘文が「金象嵌」されていることが判明しました。<br>　以下にその銘文全文を示します。<br><br>（表）「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比跪其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」<br><br>（裏）「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」<br><br>　この「銘文」についてはすでに各方面から種々の検討がされていますが注目すべきはそこに書かれた「年代」と「臣」として書かれている「乎獲居」の存在です。<br>　「辛亥」」という「干支」から推定される年代としてもっとも有力なのは「四七一年」です。これは「軍郡」が配置されたという年次よりかなり後のことですから、すでに「氏姓」が制度として確立した後と考えられますが、この時点では「オワケの臣」には「氏姓」が見えません。彼が王権の近くにいて佐治していたなら王権から「氏姓」を賜っていたはずです。このことは「オワケ」時点では「氏姓制度」が（この地域では）まだできていなかったことを示す可能性があるでしょう。少なくとも彼等を「祖」と仰ぐ子孫がいなかったことは確かです。このことから「氏姓制度」が確立されたのが倭国中央だけであったという可能性が考えられます。<br>　この「辛亥の年」が「四七一年」であったなら「武」の上表文より前であり、その時点での「軍郡」の配置領域に「東国」（関東）は入っていなかったものと思われ、まだ広く列島全体に権力を及ぼしていなかったとすれば「氏姓」制度はいわゆる「直轄統治領域」とその至近の領域だけに施行されたとも考えられるものです。<br>　鉄剣に記された万葉仮名がそれ以降のものと異なる用字があるのもそれを感じさせるものです。<br><br>4.「万葉仮名」と「東国」<br>　「倭国九州年号」の中に「明要」というものがあります。日本語を表記するために漢字の発音である「音」を利用して「表音文字」として利用することとなり「勅」により「発音表」と「漢和辞典」の製作が始まり、それが完成したのを記念して「明要」と改元したものと思われます。<br>　「万葉仮名」にはかなり難しい漢字が使用されており、そのことからこれらを選定した人たちがかなり教養の高い層が想定でき、王権にかなり近い人達が考えられることから、「倭国王」の「勅命」によって「万葉仮名」の編集が行われた可能性が考えられますが、それを示唆するのが「明要」という「倭国年号」です。この「明要」という字義は「大事なことを明らかにする」という意味であり、「辞書」などに使われる形容詞に「明解」とか「要解」とかありますが、同義と思われます。<br>　幕末の元治元年「一八六四年」村上英俊という学者により「佛語明要」というフランス語字典が完成しています。この「明要」と同様な用法と思われ、この「明要」改元時点で「漢語対和訳」辞書が完成したのでしょう。そして、この「発音表」を作るとき編み出されたのが「万葉仮名」だったと思われます。<br>　「万葉仮名」は基本的にはこの時に出来たと考えられますが、民間レベルではそれ以前から生活の便法として使用されていたのではないかと思われ、特に渡来してきた朝鮮半島人や中国人などはそれまで「倭国」で多く使用されていた「結縄刻木」が理解できず、日本人と意思疎通をするために必要に迫られ、すでに自主的に工夫、開発されていたものと思われます。<br>　上に見た「稲荷山鉄剣」の銘文には人の名前と思われるものを漢字で書いており、漢字を「表音文字」として使用していると思われますが、そこでは「て」の表記、「き」の表記、「は」の表記、「け」の表記などで、後の「記紀」「推古朝遺文」などでは使用されていない漢字が使用されています。このことは「勅」つまり「倭国王」の肝いりで造られた「万葉仮名」が「東国に行き渡っていなかった」という可能性を示唆するものであり、それは即座に「倭国王」の直接的権威の届く範囲が「東国」に届いていなかったという可能性を示唆するものであり、また「軍郡」の配置された領域がかなり西日本に偏っていたことを明証するものと考えられるものです。<br><br>（参考）黛弘道「允恭天皇の盟神探湯」『東アジアの古代文化』八十八号　
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<link>https://ameblo.jp/james-5530/entry-12949118862.html</link>
<pubDate>Fri, 05 Dec 2025 21:59:47 +0900</pubDate>
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<title>『宋書倭国伝』に見る「軍郡」の統治領域について</title>
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<![CDATA[ 『宋書倭国伝』を見ると太祖元嘉二年（425年）に13人が「将軍」に、太祖元嘉二十八年（453年）という時点で23人が「軍郡」に除されています。<br>（以下「軍郡」の例）<br><br>「…明年，以康為持節、督青冀二州東徐之東莞琅邪二郡?山戍北徐之東海漣口戍諸軍事、青冀二州刺史，冠軍如故。世祖即位，轉驍騎將軍，復前『軍郡』。」（『南齊書／列傳第十一／桓康　尹略』より）<br><br>「…既中旨以安都為右衞，加給事中，由是大忤義恭及法興等，出興宗?郡太守。固辭郡，執政愈怒，又轉為新安王子鸞撫軍司馬、輔國將軍、南東海太守，行南徐州事。又不拜，苦求益州。義恭於是大怒，上表曰：「臣聞慎節言語，大易有規，銓序九流，無取裁□。若乃結黨連羣，譏訴互起，街談巷議，罔顧聽聞，乃撤實憲制所宜禁經之巨蠹。侍中祕書監臣彧自表父疾，必求侍養，聖旨矜體，特順所陳，改授臣府元僚，兼帶『軍郡』。雖臣駑劣，府任非輕，准之前人，不為屈後。…」（『宋書／列傳第十七／蔡廓／子興宗』より）<br><br>　例を渉猟すると特に「南朝」の各王朝において特徴的な呼称（職掌）のように思われ、「州郡の諸軍事」を「軍郡」と称しているように見えます。また「軍郡」は通常将軍職が充てられているようです。<br>　このことから当初13人であった将軍が、その後征服領域が増加したことを承けて南朝からその征服領域に対する軍事的責任者として認めてもらうために人を派遣して「軍郡」に除されるということととなったものと思われます。<br>　これから25年ほど経過した時点で倭王「武」が上表した中では、その時点（478年時点）の軍事的支配領域としては「55＋66＋95国の計216国」が書かれていますが、それ以前の「済」「珍」の時点での支配領域として「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事」としており、この時点においては「百済」が入っておらず、その意味で「武」の言う「海北」の「九十五国」という数字よりある程度少なかった可能性があるものと思われます。仮にこれより2～30国少なかったと見れば「海北」として「60国」程度がその範囲と思われ、その場合総数として「55＋66＋約60国」の計181国程度となります。<br>　ところで「将軍」や「軍郡」は「諸軍事」とされる領域に対して派遣・任命されていたと見るのが相当であり、そのことからある程度領域が拡大した時点で置かれた「軍郡」の管轄範囲としては平均8国程度と思われることとなります。多分それ以前の「将軍」を任命された時点での管轄範囲も実際には「軍郡」と同程度ではなかったかと思われ、征服領域が20年間の内に2倍近く増加したということが示唆されます。<br>　「讚」から「珍」への交替がいつおこなわれたかは明らかではありませんが『宋書』の中では別に年次が立てられていないことから「珍」の即位は「讚」の遣使から間もない時期である「425年」付近が推定できます。さらに「珍」から「済」への交替時期も不明ですが少なくとも「445年」の遣使が23人の「軍郡」の叙正を望んでいることからその間である「20年」という年月の経過の内に征服領域が大きく拡大したこと窺えます。<br>　西と東の領域を押さえた後で半島に進出したと見れば「衆夷」と「毛人」と称している領域は「済」の段階でもほぼ同じ程度の国数をその征服領域としていた可能性があると思われます。<br><br>「倭國在高驪東南大海中，世修貢職。高祖永初二年（421年），詔曰：「倭讚萬里修貢，遠誠宜甄，可賜除授。」太祖元嘉二年（425年），讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死，弟珍立，遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正，詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號，詔並聽。二十年，倭國王濟遣使奉獻，復以為安東將軍、倭國王。二十八年（453年），加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事，安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死，世子興遣使貢獻。世祖大明六年（462年），詔曰：「倭王世子興，奕世載忠，作藩外海，稟化寧境，恭修貢職。新嗣邊業，宜授爵號，可安東將軍、倭國王。」興死，弟武立，自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。<br>順帝昇明二年（478年），遣使上表曰：「封國偏遠，作藩于外，自昔祖禰，躬?甲冑，跋?山川，不遑寧處。東征毛人五十五國，西服?夷六十六國，渡平海北九十五國，王道融泰，廓土遐畿，累葉朝宗，不愆于歳。…」<br><br>　この将軍と（特に「軍郡」）の数が「適正」なのかを考えてみると参考になるのがいくつかあります。<br>　例えば『常陸国風土記』を見てみると「我姫」の領域として以下のように書かれています。<br><br>「古者　自相模国足柄岳坂以東諸県総称我姫国　是当時　不言常陸　唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国　各遣造別令〓校　其後　至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世　遣高向臣中臣幡織田連等　総領自坂已東之国　于時　我姫之道　分為八国　常陸国　居其一矣所」<br><br>　この記事から、この時点で「我姫」は「道」と称されるようになったと理解でき、その中に8つの領域が形成されているとされます。そのうちの一つの領域をここでは「常陸」と称したというわけですが、これは「国」と称されることとなったものであり、そしてその中に「新治筑波茨城那賀久慈多珂」という6つの「国」があったものですが古老のいう現在時点では「縣」と称しているというわけです。つまり元々は「国－国（クニ）」という組織であったものがここで「道－国－縣」という行政制度が「我姫」に適用されることとなったという趣旨と理解できます。同じことは『常陸国風土記』の別の記事からも言えます。<br><br>「古老曰　筑波之縣　古謂紀国　美万貴天皇之世　遣采女臣友属　筑箪命於紀国之国造　時筑箪命云　欲令身名者着国　後代流伝　即改本号…」<br><br>　これをみると「古老」の語る言葉としての「現在時点」として「縣」があるとされているわけであり、それ以前は「国」であったというわけです。当然この「古老」の生きている時代は「縣制」が行われているわけです。またここでいう「国」はいわゆる「クニ」の示す領域に等しく、更にそれは「縣」が示す領域とほぼ変らないと見られることとなります。さらに「クニ」から「縣」に変わった段階というのは、「我姫」が分割され大きく八つに分けられた時点を指すと思われ、「広域行政体」としての「国」が成立した段階でもあると思われます。つまりこの時点で「国―縣」制度となったものと思われるわけです。<br>　この当時の「国」というのがいわゆる「クニ」と表記されるような後の「令制国」のようなある種広大な領域を意味するものではないと思われ、後の「郡」に相当する領域と見ることができると思われ、『和名抄』で見てみると「中国、四国」の「九州」から近い範囲で括ってみると主要部15国で121郡となり平均すると1国8郡程度となって1軍郡の管轄範囲とかなり似た数字となります。<br>　「讃岐11、伊豫14、土佐7、長門5、周防6、安芸8、石見6以上合計57郡」<br>　さらにその直轄領域と言える九州北半部である「筑紫・肥・豊」では計66郡となり、各々「前・後」と考えると6国なので平均は11郡となります。<br>　『常陸国風土記』の記述が示すようにこの「常陸」が6つの「縣」つまり「国（クニ）」から構成されていることと、「軍郡」の管掌範囲として平均8国程度というのがそこそこ近いと感じられます。これは後の「令制国」に対応する地域に対して配置されたことと同義になり、それはそもそも「令制国」という領域が自然国境的な境界により区画されたひとまとまりの地域であることからの帰結であり、それは律令制により決められる以前から自然発生的に一つの統一的な領域としてまとまっていたことを意味すると同時に「軍郡」という軍事的統治者の配置された領域と変わらない広さがあったとみれば、「軍郡」の統治領域として『宋書倭国伝』に書かれた数というものが特に不自然さがみられないと思われるのです。つまり「軍郡」は後の「令制国」と同じ領域に配置されていたとみるのが自然ではないでしょうか。<br>　また「総領」が「我姫」という複数の「国」を包括している領域に配置されたと見れば、「総領」という「官職名」が「中国」の例からいって「～道」に対する軍事的責任者（将軍）に対して付される名称を日本流にアレンジした呼称と思われます。<br>（下記の例など）<br><br>「顯慶五年、命左武衛大將軍蘇定方爲熊津道『大總管』、統水陸十萬。仍令春秋爲嵎夷道『行軍總管』」<br><br>　ここでは『新羅王』である「金春秋」が「嵎夷道行軍総管」に任命されておりこれと同様のことが「我姫」に対して行われたとみられ「我姫」が「8国」で構成されているということに対して「大夫」としての「高向氏」が任命されており、この「大夫」が通常「五位」に当たる官人に対する呼称であり、多くの将軍が「五位」程度の位階を持っていたことと通じるものがあると思われ、「高向大夫」についても「我姫道總管」として派遣された将軍ではなかったかと思われることとなり、それはすなわち「我姫」という領域が倭国の本国から見て「征服領域」であったことを意味するものです。
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<link>https://ameblo.jp/james-5530/entry-12948405487.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Nov 2025 14:44:42 +0900</pubDate>
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<title>「塞曹掾史張政」の来倭と帰国の年次について</title>
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<![CDATA[ <br>「要旨」<br>　『倭人伝』に記された「張政」の「来倭」記事について、「帯方郡」から派遣された「張政」が「倭国」にもたらした「詔書」「黄幢」「檄」などは「魏皇帝」からのものであり、「帯方郡太守」の「弓遵」は「卑弥呼」が「難升米」を通じて訴えた「狗奴国」との紛争について「皇帝」に報告し、裁可を仰いだとみるべきこと。またそれら「詔書」「黄幢」などは「正始六年」に「帯方郡治」に到着していたと思われるものの、「韓国」と「帯方」「楽浪」二郡の争いが激化し「弓遵」が戦死するなどしたため、「倭女王」の元への伝送が遅れたと見られること。その後「帯方太守」として「王頎」が新任され、彼の指示で「張政」等が「倭」へ派遣されたとみられること。さらに「張政」は「新倭王」として「壹與」が即位したことを見届けて「其の年」（正始八年）のうちに「郡治」へ戻りその後「倭」の使者や「帯方太守」と共に「洛陽」の「皇帝」の元へ「復命」したと考えられること。<br>　「西晋」成立後の「泰始（泰初）二年」の貢献記事は上の「張政帰国」時点の貢献とは「別」のことと考えられること。以上について考察したものです。<br><br>Ⅰ．『倭人伝』の「其の八年」条記事について<br>　はじめに『倭人伝』の「其の八年」条記事を以下に示します。<br><br>「…其八年（二四七年）太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」<br><br>　この「其八年」という年次以降に書かれている内容については多元史論者の間では「一連」のものと考えられていないようであり、「張政」の帰国とそれに伴う「壹與」の貢献を「西晋」時代の事として理解するのが一般のようですが、「私見」ではこれらは「一連」のものであり、全て「其八年」の年次の出来事と理解すべきではないかと思料します。<br>　一般に中国史書の書き方として（編年体の場合）「年次」付き記事というのは、基本としてその「年次」の出来事がその後に書かれているものであり、その年次のことではない場合、「初め」であるとか「～の時」あるいは「後」というように「年次」から「切り離す」文言が付加されるのが通例です。<br>　例えば以下の「武帝紀」の例では、「初平十年春正月」という年次の記事の中で別の時点の事を述べるときには『初討譚時』、『後竟捕得』というような表現をしています。<br><br>「初平十年春正月，攻譚，破之，斬譚，誅其妻子，冀州平。下令曰　其與袁氏同惡者，與之更始。令民不得復私讎，禁厚葬，皆一之于法。是月，袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚，熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降，封為列侯。『初討譚時』，民亡椎冰，令不得降。頃之，亡民有詣門首者，公謂曰　聽汝則違令，殺汝則誅首，歸深自藏，無為吏所獲。民垂泣而去 『後竟捕得』。」「三國志／魏書　武帝紀　曹操」　<br><br>　ここでは「初平十年春正月」という年次の記事として確かに「攻譚，破之，斬譚」とありますが、『初討譚時』というのは「初平五年」のことですから（以下の記事）、この「初平十年」とは異なる年次のことです。それを明確にするためにここでは『初討譚時』という言い方をしています。<br><br>「初平五年八月，…紹初聞公之擊瓊，謂長子譚曰　就彼攻瓊等，吾攻拔其營，彼固無所歸矣。乃使張郃、高覽攻曹洪。郃等聞瓊破，遂來降。紹眾大潰，紹及譚棄軍走，渡河。追之不及，盡收其輜重圖書珍寶，虜其眾。公收紹書中，得許下及軍中人書，皆焚之。冀州諸郡多舉城邑降者。」「三國志／魏書　武帝紀　曹操」<br><br>　この時点で始めて「公」即ち「曹操」と「袁紹」とその「長子」である「袁譚」を交えた戦いが行われています。先の記事の『初討譚時』というのはこの時点のことを言っているわけです。<br>　しかし、この「倭人伝」の文章にはそのような「年次」と切り離す「文言」が確認されませんから、「太守王頎」以降「異文雜錦二十匹」までの文章が全てその前の「其八年」という年次にかかっていると理解すべき事となると思われます。<br><br>Ⅱ．来倭時期について<br>　また「張政」は「詔書」を携えており、このことは「帯方郡」単独ではなく「洛陽」つまり「皇帝」からの使者という形で派遣されてきたと考えられることとなります。<br>　この「正始八年」記事の直前に「正始六年」記事があり、そこでは「郡治」に付するという形で「難升米」に「詔書」「黄幢」がもたらされたことが書かれています。この「詔書」「黄幢」がどのようないきさつで「郡治」へ運ばれたかは不明ですが、当然のこととして「倭女王」から何らかの請願があり、それに応じたものであったと考えざるを得ません。それはまたその後に書かれた「狗奴国」との戦闘に関連していることもまた確かであると思われます。つまり「卑弥呼」は「難升米」を「帯方郡治」へ派遣し「狗奴国」との戦闘について「太守」（当時は「弓遵」）に説明、報告させ、援助を要請させたものと考えられるわけです。それに対し当時「太守」であった「弓遵」はこれを「都」へ報告し「皇帝」の裁可を仰がざるを得なかったと推量します。なぜなら「卑弥呼」は「親魏倭王」の金印を授与された存在であり、「魏」から正式に「倭王」として認められた存在であるからです。そのような「封国」が他国（しかも域外諸国）から攻撃を受けた場合には「宗主国」たる「魏」には防衛の義務があったものです。そうであればそれに対する対応については「郡太守」の裁量の範疇を超えていたとみられ、「皇帝」自らが裁可する必要があったものと推量されます。<br>　このような事情により「皇帝」は「郡太守」に命じ「黄幢」「詔書」などを「倭王」の元へもたらすこととなったわけですが、あいにく「韓国内」に争乱が起きてしまい、その混乱の中で「弓遵」本人が「戦死」するなどしたため、代わりの「太守」が派遣されるまで「倭王」の元へ「詔書」等がもたらされることはできなかったものであり、「帯方郡治」に留め置かれていたものかと推測されます。そして、その後「新任」の「帯方太守」である「王頎」は必要な人員を「詔書」と共に派遣させることとなったものであり、「張政」がその派遣団の団長として選ばれたということではなかったでしょうか。<br><br>Ⅲ．「張政等」の滞在期間について<br>　彼（彼ら）が派遣された目的（趣旨）は「倭王」であるところの「卑弥呼」からの「支援要請」に応えることですが、より重要なことは「魏」の大義名分を「狗奴国」を含む「倭」の諸国に認めさせることであり、「檄」を告諭し、それを「狗奴国」が受け入れるか否か択一をせまったものと推量します。それに対し「狗奴国」としても「魏」と全面的な対決姿勢を取ることまでは考えていなかったと見られ、（「魏」が本格的に介入して「韓国」が「楽浪」「帯方」に全面的に分治されたように「倭」も同様のこととなる可能性を危惧したものとも考えられます）「檄」の意味するところを受け入れ、戦闘」はその時点において停止し、「和議」が交わされたものと思料します。<br>　事態がこのように推移したとすれば、その時点において彼（彼ら）は「職責」を果たしたものであり、その時点で速やかに帰国することとなったはずです。その彼（彼ら）の帰国に、「壹與」の貢献のための使者が同行したものですが、従来はこの「壹與貢献」記事部分だけを「西晋の泰始二年」（二六六年）の貢献記事（註）と見て、それまで「張政」が「邪馬壹国」に滞在していたとする説が多いようですが、そもそもこの部分は記事として連続しており、一体のものであると理解せざるを得ません。さらに、そのような長期間の滞在というものは考えられないものと思われます。なぜならそのようなことは「朝命」に反しているといえるからです。彼（張政）には「帯方太守」から与えられた（それはつまり「皇帝」から与えられたものでもあるわけですが）「任務」を速やかに終え帰国して報告する「義務」があったはずです。<br>　「勅使」など「皇帝」の命を受けている場合、「速やかな復命」は絶対であり、可及的速やかに帰朝して報告することは彼に課せられた「義務」でもあったと思われます。しかも「倭女王」の交替という重大事案が起きたわけですから、その結果と過程は逐一報告するべきものであり、しかもその性格上「速やかに」行う必要があったとみられます。そう考えると「壹與」即位を見定めた後それほど長く「倭王」の元に滞在したとは思われず、速やかに帰国したと見るのが当然と考えられることとなります。<br>　「景初」年間の「明帝」が死去後「曹芳」が即位し「正始」と改元されました。この「曹芳」から「張政」は「帯方太守」を通じ「朝命」を下されたと考えられるわけですが、その新皇帝「曹芳」の代は「二五四年」まで続き、その後「曹髦」が即位します。この時点で「張政」（というより帯方太守王頎）に「詔書」を与え、「朝命」を下した「皇帝」は代わってしまっています。もし「張政」が「邪馬壹国」に長期間滞在していたとしても、遅くともこの時点で「帯方郡治」から追加の使者が派遣されることとなったのではないでしょうか。少なくとも「新皇帝」の即位という事態に立ち至れば、彼等はこの時点以降速やかに「帰国」し、「帯方太守」と共に「新皇帝」に拝謁し、「前皇帝」から受けた「朝命」に対する帰朝報告を行い、また新任務を拝命されるのを待つこととなるべきではないかと思われますが、そうであればその帰国が「西晋」成立まで帰国が遅れたとは想定することは全く不可能と思われます。<br>　皇帝の代変わりがあったり、新王朝が始まると「冠位」や「制度」が変更になることがあるのは当然であり（当然彼の「位階」も相当以前に変更になってしまっているはずでしょう）、そのような中で長期間に亘って「夷蛮の地」に滞在し続けたとは考えられないということです。<br><br>Ⅳ．『海賦』との整合性<br>　この事については「古田氏」は『「海賦」と壁画古墳』（『邪馬壹国の論理』所収）において、『海賦』で述べられている以下の部分について「倭国が狗奴国との交戦によって陥った危急を急告、それに対する中国の天子のすばやい反応によって危難が鎮静された事件」があった事を示すとされ、この「正始八年記事」が該当することを述べておられます。<br><br>「若乃偏荒速告，王命急宣。飛駿鼓楫，汎海淩山。於是候勁風，揭百尺。維長綃，挂帆席。望濤遠決，冏然鳥逝。鷸如驚鳧之失侶，倏如六龍之所掣一越三千，不終朝而濟所屆。」（『海賦』より）<br><br>　ここでは「不終朝而濟所屆」と書かれており、この「終朝」という表現については「古田氏」により「朝飯前の意」とされたように、事件の解決に時間がかからなかったことの比喩として書かれていると思われますが、そうであれば「帰国」まで「二十年」というように年月がかかったはずがないこととなります。当然「帰国」は速やかに行われたものと考えるべきでしょう。つまりそのことからも「西晋朝」の成立まで帰還しなかったとは甚だ考えにくいこととなります。<br>　また、この文章が書かれたのが『魏志』の中であることも重要であり、そもそも「晋朝」への「貢献」はここに書くべき事ではないと考えられます。そう考えれば、この部分についても「正始年間」の記事として書かれたと理解するのが正しいと考えられるわけです。<br>　そもそも彼は「単独」で「倭」に来たわけではありません。それは「張政等」という表現にも現れており、彼の他にサポートメンバーとでも言うべき人員が随行したと見られます。後の例から考えても、彼のように「戦地」へ赴いて「告諭」するという「告諭使」の場合彼を含めて十名前後の「告諭使節団」が形成されていたと思われます。たとえば（ずっと後代ですが）「隋」から派遣された「裴世清」は「宣諭使」であったわけですが（これは「告諭使」とほぼ同様の職務があったと思われます）、彼の場合も彼を含め十名ほどが派遣されていたものと見られます。（『書紀』では「大唐使人裴世清　下客十二人」とあり、「裴世清」以外に「十二人」が同行したように書かれています）<br>　「詔書」「黄幢」という最重要物件を運ぶわけですし、さらに平定されたとはいえ一触即発何があるかわからないような「韓国」の内部を一部陸行するわけですから、護衛が厳重であったのはいうまでもないことでしょう。また彼らの「告諭」に「狗奴国」など関係者が応じず、逆に攻撃に晒されるという可能性さえ考えられるわけですから、その意味でも兵士たり得る「軍関係者」をその中に当然含んでいたものと思われます。それらのことを考えると、そのような多人数が一斉に長年月「邪馬壹国」に留まったという想定は現実的ではないと思われます。（後の「宣諭使」や「会盟使」などにも長期滞在した例がありません）<br>　長くいればそれだけ現地の政治に無関係ではいられなくなってしまいますが、それは「告諭使」という限定的権能しか与えられていない使節団には避けるべき事であったと思われます。当然彼等の権限を超えた判断や行動をしなければならなくなる事態も考えられ、「越権行為」を冒す可能性が出てくるからです。本来それを避けるために「監察御史」などに相当する人員をその「団」の中に抱えていたものと思われますが、彼等が存在していたならますます無用の長期間の滞在はこれを「否」とされ、早急の帰国勧告がされたものと思われます。<br>　これら「監察御史」相当の官吏は「使節団」の言動を「律令」等に照らし合わせ最善の措置を講じたかを判定し助言あるいは勧告を行うことを職掌としていたものであり、そうであれば「二十年」の長きに亘って滞在し、その間に派遣した王権が既に交代してしまうなどの状況の変化を彼らが看過したとは考えられないこととなります。<br><br>Ⅳ．「張政等」の帰国と「壹與」貢献の時期<br>　以上のように考えると、「張政等」は「停戦」と「卑弥呼」の死及び新しい「邪馬壹国王」の即位という一連の事象を見届け、「その年の内に」帰国したものであり、「壹與」はその「張政」の帰国に併せ「感謝の意」とさらなる支持を求めて貢献したものとみるべきでしょう。そのように「年中」に「壹與」の即位まで進行したというのは、「卑弥呼」の後継者を巡る記事の中に「歴年」というような複数年にわたる表現がみられないことや「当時」というような「点」としての表現しかみられないことがあります。これらのことは「後継者争い」が長期化しなかったということを示すものであり、「その年」つまり「正始八年」のうちに「後継者」としての「壹與」が即位することとなったことを示すものと思われます。<br>　そして、その後「西晋」朝廷の成立に合わせ（二六六年）に再度「倭女王」である「壹與」は「貢献」を行ったと理解すべきなのではないでしょうか。　皇帝が代わったり、新王朝が成立した時点で貢献の使者を派遣するというのは時宜を得たものであり、この「西晋」成立時点の貢献はそのような意義で行われたと見るべきであって、「張政等」の帰国とは無関係であったと考えるべきではないかと推量します。<br><br>「註」<br>「晉書／帝紀　世祖武帝　炎／泰始二年」「二年十一月己卯，倭人來獻方物。…」及び「神功皇后紀」「六十六年。是年。晋武帝泰初二年晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重貢獻。」
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<link>https://ameblo.jp/james-5530/entry-12947904769.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Nov 2025 20:24:53 +0900</pubDate>
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<title>「謡曲」「岩船」と「如意宝珠」</title>
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<![CDATA[ 「謡曲」とは本来「能」そのものであり、その「能」のうち「シテ・ワキ・地謡(じうたい)」などの部分である、詞章全体を一人で謡うものとされます。「能」については「室町時代」に「観阿弥」「世阿弥」父子によってそれまでの「猿楽」が集大成され「申楽」となりますが、「世阿弥」の「風姿花伝」によれぱ「聖徳太子」の時代に「秦河勝」に命じて造らせたものが「申楽」というものの発祥であるとされています。<br>　また、現存する「謡曲」はおおかた「室町時代」付近に造られたものと考えられているものの、古来からの形を残したものも多いと推測され、そのようなものを「合理的」に理解する事により、古代史解明の一助となるものと考えられます。<br>　たとえば「謡曲」に『岩船』というものがあります。この舞台背景となっているのは「摂津国住吉の浦」であり、「天の探女」が「如意宝珠」を「帝」に捧げる為にやってくるとされます。<br>　以下『岩船』の抜粋です。<br><br>「…げに治まれる四方の国。／＼。関の戸さゝで通はん。そも／＼これは当今に仕へ奉る臣下なり。さても我が君賢王にましますにより。吹く風枝を鳴らさず民戸ざしをさゝず。誠にめでたき御代にて候。さる間摂州住吉の浦に。始めて浜の市を立て。高麗唐土の宝を買ひとるべしとの宣旨に任せ。唯今津の国住吉の浦に下向仕り候。何事も。心に叶ふ此時の。／＼。ためしもありや日の本の。国豊なる秋津洲の波も音なき四つの海。高麗唐土も残なき。御調の道の末ここに。津守の浦に着きにけり／＼。」<br>（中略）<br>「不思議やなこれなる市人を見れば。姿は唐人なるが。声は大和詞なり。又銀盤に玉をすゑて持ちたり。そも御身はいかなる人ぞ。さん候かゝる御代ぞと仰ぎ参りたり。又是なる玉は私に持ちたる宝なれども。余りにめでたき御代なれば。龍女が宝珠とも思し召され候へ。これは君に捧物にて候。ありがたし／＼。それ治まれる御代の験には。賢人も山より出で。聖人も君に仕ふと云へり。然れば御身は誰なれば。かゝる宝を捧ぐるやらん。委しく奏聞申すべし。あらむつかしと問ひ給ふや。唐土合浦の玉とても。宝珠の外に其名は無し。これも津守の浦の玉。心の如しと思しめせ。心の如しと聞ゆるは。さては名におふ如意宝珠を。我が君にさゝげ奉るか。運ぶ宝や高麗百済。唐船も西の海。檍が原の波間より。現れ出でし住吉の。神も守りの。道すぐに。こゝに御幸を住吉の。神と君とは行合の。目のあたりあらたなる。君の光ぞめでたき。」<br>（中略）<br>「又岩船のより来り候。そも岩船のより来るとは。御身は如何なる人やらん。げに旅人はよも知らじ。天も納受喜見城の。宝を君に捧げ申さんと。天の岩船雲の波に。高麗唐土の宝の御船を。唯今こゝに寄すべきなり。今は何をか包むべき。其岩舟を漕ぎよせし。天の探女は我ぞかし。飛びかける天の岩船尋ねてぞ。秋津島根は宮柱住吉の松の緑の空の。嵐とともに失せにけり／＼。」<br>（中略）<br>「久方の。天の探女が岩船を。とめし神代の。幾久し。我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや／＼えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の／＼潮の満ちくる浪に乗つて。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける。」<br><br>　ここに出てくる「如意宝珠」は「律」（小乗）の教典にも出てくるものですが、宇佐八幡宮に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』の中にも書かれています。<br><br>「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意宝珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」<br><br>　これによれば「如意宝珠」は「宇佐」にあったとされています。『岩船』ではこれを「摂津」にいる「君」に捧げるために「摂津」の「住吉」にやって来るというわけですが、それは九州「宇佐」から「女官（巫女）」がやってくる、という状況がその背景になっているのではないかと考えられるわけです。（ちなみにここに出てくる「探女」は実際には「てへん」ではなく「おうへん」ではなかったと思われ、それであれば「寶」を意味する言葉ですから、「如意寶珠」を捧げてくるという役割にマッチしているといえます。しかもその表記は「寶王」と同義ともいえ、「皇極」「斉明」の本名である「寶王」の本来の意味と役割が推定される事となるでしょう）<br>　ところで、ここでは「衆生に利するため」とされており、「大乗」の精神が表されています。このことは『法華経』の伝来と関連していることを示していると思われます。『法華経』は「大乗」の最もポピュラーな経典ですが「如意寶珠」が含まれる経典は「提婆達多品」が補綴された「法華経」であり、その登場は少し遅れます。ただしそれ以前には多くの「小乗」の経典に含まれていました。<br>　『隋書俀国伝』中にも「如意宝珠」は登場しますが、特に「倭国王」との関係が語られるわけではありません。「俗」つまり、一般庶民の風習という形で「如意宝珠」についての信仰が存在していたものであり、それは「阿蘇山」の噴火に対する「畏怖」が底流にあったようです。<br> 『隋書俀国伝』には倭国の名勝として「阿蘇山あり」と書かれ、その噴火の様が「火起こり、天に接する」と書かれています。また、「祷祭を行う」と書かれており、宗教的な儀式がそこで行われていたようです。そして、この「祷祭」に使用されているものとして「如意宝珠」があるのです。<br>　仏教の経典によれば「如意宝珠」とは「大魚（「摩竭（まかつ）魚」）の脳中」にあるものであり、「遣隋使」が実見したところ「魚の眼精であった」という『隋書』の記事と符合しています。。<br><br>「…有如意寶珠、其色青大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。…」<br><br>　『隋書俀国伝』にもあるように、当時倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡（ふげき＝男女の巫者）を信じている」と書かれています。<br><br>「…知卜筮尤信巫覡。…」<br><br>　この文章は「祷祭」とは別の場所に書かれていますが、上に見た「如意宝珠」があったという「宇佐」の神官がここに書かれた「巫覡」であるという可能性もあります。それであれば、宇佐にあったという「如意宝珠」を「俗」として信仰している事と整合するのではないでしょうか。<br>　ところで「法華経」の「提婆達多品」という経文には以下のようにあります。<br><br>「文殊師利言。我於海中。唯常宣説。妙法華経。（中略）娑竭羅龍王女。年始八歳。智慧利根。善知衆生。諸根行業。得陀羅尼。諸佛所説。甚深秘蔵。悉能受持。深入禅定。了達諸法。於刹那頃。発菩提心。得不退轉。辯才無礙。慈念衆生。猶如赤子。功徳具足。心念口演。微妙廣大。慈悲仁譲。志意和雅。能至菩提」<br><br>　以上のように「竜神」の「童女」の成仏説話が語られていますが、この「竜女」に関連しては『平家物語』中に「厳島神社」の創建と関連して語られています。そこでは、この創建の主役となった人物について「竜女には妹、神功皇后にも妹、淀姫には姉」という関係が語られています。<br>　「愚管抄」にも「コノイツクシマト云フハ龍王ノムスメナリト申ツタヘタリ」とあり、また、『平家物語』の別の部分でも（「卒都婆流」）「宮人こたへけるは、是はよな、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎蔵界の垂迹なり」としています。 また、「厳島神社」の祭神は（「伊予三島神社」なども）「宗像三女神」が祭神となっており、ここで「竜神」と「宗像氏」が同一視されているのがわかります。<br> そして、「岩船」の中では「摂津住吉」の浦に「金銀宝玉」を満載した「岩船」が到着する、というわけですが、この船は「龍神」が守護しており、このことは「龍神」つまり、「宗像」の「海人族」が守護して「瀬戸内」を航行してきたことを示しているようです。<br>　「如意宝珠」は「魚の脳中にある」とされているわけですから、これを「海中」に入って持って還って来ることができるのは「海人族」だけであり、この信仰が彼らに強く結びついている事も当然と言えるでしょう。<br>　「岩船」という名称も「高天原」から下りてくるときに乗ってきた、という船「天磐樟船」と同義と思われ、「天孫降臨の地」が「筑紫の日向の襲のクシフル岳」と書かれているように「筑紫」であることは言うまでもないことですが、「天」つまり「筑紫」からやってくる「聖なる船」すなわち「筑紫王朝の船」を「岩船」と呼称するものと思われ、その船が金銀宝玉を満載して、「龍神」と共に現れる、という話の進行となるわけですから、それが表すものは「直接」「唐」や「百済」の船が「難波」に来たわけではなく、すでにその前に「筑紫」の港で交易が成立しており、それを「運搬」してきた、という事と考えられます。その途中を「宗像」の海人族が護衛してきたという事でしょう。（これは『倭人伝』で「一大率」の職掌として書かれた内容と見事に重なるものではないでしょうか。そのことは「一大率」の後裔と「宗像氏」とが深く関係しているという可能性も示唆するものです。）<br>　これは「唐」などと「交易」が「筑紫」で行なわれていたことを示し、それにより「買い付けられた」「名品」「珍品」などが「国内」に流入してきたことを示すものと思われ、それらの購入に必要となったために用いられたのが後に触れるように「銀銭」（無文銀銭）であったと思われます。（これは「新羅」等から「銀」地金として貢上されたものと思われます）<br>　「住吉」という地名自体も元々「筑紫」に連結しているものです。「岩船」の中でも、「運ぶ宝や高麗百済　唐船も西の海　檍が原の波間より　現れ出でし住吉の神も～」と詠われているように、「檍が原」という地名と「住吉の神」が一体で考えられていますが、（別の謡曲「香椎」でもほぼ同様に歌われています）「イザナキイザナミ神話」でもみそぎをした場所を「筑紫の日向の橘の小戸の檍が原」と書かれているように「檍が原」という地名が「筑紫」のものであるのは間違いないところです。<br>　つまり、元々「住吉」は「筑紫」の地名であったものを「倭国王」が「摂津難波」に仮宮を作る際に（その「難波」という地名も含め）「住吉の神」を祀る社をこの地に作ったものでしょう。（分社したわけです）それが可能となったのは途中にある瀬戸内海にすでにそれ以前に「宗像」氏が勢力を伸ばしていたからと考えられます。<br>　「厳島神社」などの「宗像三女神」を祭神とする「社」の創建年次は『推古紀』、つまり「阿毎多利思北孤」の時代とされています。（五九二年か）このことは、かなり早い時期に「瀬戸内」に勢力を広げていた「宗像」などの「筑紫」の海人族がいたものであり、彼らが「隋」からもたらされた「竜女伝説」を含む「法華経」を受容した結果、その当時の倭国の民衆が信仰していた「土着的」な神と融合し受け入れられていったものと考えられます。そして、これ以降瀬戸内海の「制海権」を「宗像」氏が握ったものでしょう。このことが前提となって、筑紫からの船を「竜神」つまり、宗像氏の海人族が護衛できることとなるのです。
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<link>https://ameblo.jp/james-5530/entry-12946616187.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Nov 2025 22:36:32 +0900</pubDate>
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<title>「勝鬘院」と「出雲」　ー　薬師信仰との関連で</title>
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<![CDATA[ Ⅰ．光明皇后と鬼前大后及び干食王后<br>　「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」（「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」）を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば『元亨釈書』によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方については、その傷口の「膿」を口で吸い取ったという逸話まであります。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるような「前例」となる事例があったのではないかと思われるのです。<br>　ところで、現在「四天王寺」の別院として知られているものに「勝鬘院」があります。この「寺院」は元々「四天王寺」の「施薬院」として開かれたという伝承があり、またここで「勝鬘経」が講説されたという伝承もあって、そのことから「勝鬘院」と呼ばれるようになったとされています。<br>　この「四天王寺」は「聖徳太子」の手になる創建が伝えられていますが、この「別院」である「施薬院」についても同様に「聖徳太子」に関わるものとされ、ここでは、「薬草」の栽培から、「調剤」そして「投与」という段階まで行なっていたとされるなど、「貧窮」し、「病」に倒れた民衆の救済にあたっていたとされています。（『四天王寺縁起』による）<br>　このようなことが事実かどうかと言う点ではやや疑問とする向きもあるようですが、「光明皇后」の事例から判断すると実際にあった見る事もできると思われます。<br>　ところで、「四箇院」のような「病気治療」などに関連するものとして、「法隆寺」の釈迦三尊像の「両脇侍」の存在があると思われます。<br>　この「両脇侍」は『聖徳太子傳私記』では、「薬王菩薩」と「薬上菩薩」であると指摘されています。<br><br>「…次法隆學問寺<br>先金堂。…。内陳南正面戸三本。余三面各戸一本。石壇長口〈傍一字消タリ〉。四面連子也。其内中ノ間。太子御印。與願施无畏。等身金堂釋迦像。〈光銘。太子御入滅事見タリ〉脇士二體。〈薬王。薬上。〉共手持玉。…」（『聖徳太子傳私記』より）<br><br>　この「脇侍」は、本体は簡略な造形であるとされる一方、「蓮華坐」が技巧を凝らして造られているとされ、それは『法華経薬王本事品』の「女人の往生者は蓮華の中の宝座の上に生まれる」とされていることと関係しているとされます。<br>　<br>「…若有女人、聞是薬王菩薩本事品、能授持者、盡是女身、後不復受。若如来滅後、後五百歳中、若有女人、聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、圍繞住所、生蓮華中、寶座之上。…」（『法華経　薬王菩薩本事品』より）<br><br>　この「両脇侍」については、「釈迦像」が「尺寸王身」とされ「上宮法皇」（阿毎多利思北孤）をかたどったものとされていることの類推から、彼の「母」と「夫人」を模したものであり、「法隆寺釈迦三尊」の光背に書かれた「鬼前太后」と「干食王后」を示すのではないかとされています。<br>　この事と「四天王寺」に「施薬院」が別院として造られたこと、そこで『勝鬘経』が講説されたことには「関係」があるのではないでしょうか。つまり、この「釈迦如来」の「両脇侍」に彼女たちが配されているということは、彼女たちの「功績」を示唆するものだと思われるのです。<br>　この「釈迦像」はその「光背」に書かれた文章によれば、「上宮法皇」（阿毎多利思北孤）の病に際して「造像」され始められたものであり、その時点では、急ぎ「釈迦像」完成を目指していたものと考えられますから、「両脇侍」については後回しになったものと思われます。<br>　「釈迦三尊像」の「光背」銘文は以下の通りです。<br>（奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります）<br><br>「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼／前太后崩明年正月廿二日上宮法／皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並／著於床時王后王子等及與諸臣深／懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋／像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安／住世間若是定業以背世者往登浄／土早昇妙果二月廿一日癸酉王后／即世翌日法皇登遐癸未年三月中／如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳／具竟乗斯微福信道知識現在安穏／出生入死随奉三主紹隆三寶遂共／彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁／同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造」<br><br>　この「銘文」から、「釈迦三尊像」は「鬼前太后」が亡くなられ、「上宮法皇」が病に倒れた時点以降造り始められた事が判明しますが、結局その完成を待たず「上宮法皇」は他界したものです。当然「釈迦像」の完成は死後のこととなりましたが、この「両脇侍」はその時点において、ほぼ同時に亡くなられた「鬼前太后」と「干食王后」についての「追慕」を表すため造られることとなったものではないかと見られ、その際に「薬王」「薬上」菩薩に擬して造像されたものと考えられます。そして、それは「四箇院」で行われていた、「怪我や病気で苦しむ人を救う」という「事業」の遂行者が彼女たちであったことを示すものではないでしょうか。<br>　この「四箇院」は「阿毎多利思北孤」の「母」など彼の親類縁者の「女性」達により営まれた、当時としては画期的な「福祉施設」であったものと推測されます。「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘文によると「阿毎多利思北孤」と「鬼前太后」「干食王后」はほぼ同時に亡くなったとされていますが、それは何らかの「感染症」によるという可能性もあり、それがこの「施薬院」等における「看護活動」の際に、患者から何らかの「病気」に「感染」した結果という可能性もあると思われます。<br>　同時期に複数の人間が病に倒れ、死に至るというからにはそのような「感染症」や「伝染病」を考える必要がありますから、「四箇院」の存在はその感染ルートとして考慮の対象とすべきものと思われます。その際最も可能性が考えられるのは「天然痘」ではないでしょうか。<br>　『敏達紀』にも「疱瘡」による死者が多数に上ったことが書かれていますが、その「疱瘡」という表記やそこに書かれた「火に焼かれるよう」という表現からも「天然痘」が最も疑われます。<br>　その時代からかなり年数は経過していることとなりますが、「筑紫」など半島と交渉のある地域から繰り返し「病原菌」が持ち込まれていたものと思われ、「上宮法皇」たち三人もそのような環境の中で「天然痘」患者の救済にあたっていたものであり、患者から感染したものではないかと考えられます。<br><br>Ⅱ．藥獵（薬がり）と施薬院<br>　「施薬院」には「薬草」を栽培する場所を設け、数多くの「薬草」となる草木を植えていたと伝えられていますが、また『万葉集』にも、「茜さす　紫野行き　標野行き　野守はみずや　君が袖振る」という有名な歌があり、そこで言われている「紫野」とは「塗り薬」として使用されていた「紫根」を栽培していたところと思われ、「標野」とはそのような「薬草」を取るために区画された領域であったと思われます。<br>　この歌は「大海人」と「額田女王」の間に交わされたとされ、「七世紀なかば」の作と思われますが、このような場所が設けられるようになったのはそれを遡る「七世紀初め」の頃と考えられ、これらで得た「薬草」などを「施薬院」で、病に悩む人々の治療に役立てていたものではないかと思料されます。<br>　また、『書紀』には「施薬院」で使用する薬を採るためと思われる「藥獵（薬がり）」が行われていた事が記載されています。<br><br>「（推古）十九年（六一一年）夏五月五日。『藥獵』於兎田野。取鷄鳴時集于藤原池上。以曾明乃徃之。粟田細目臣爲前部領。額田部比羅夫連爲後部領。是日。諸臣服色皆隨冠色、各著髻華。則大徳。小徳並用金。大仁。小仁用豹尾。大禮以下用鳥尾。」<br><br>　ここでいう「藥獵（薬がり）」とは、「野山」に出て「野草」などを取るものですが、女性は､野で「薬草」を摘み、男性は「鹿狩り」をして「若い牡鹿の袋角」を取ったもののようです。（この記事自体「鹿狩り」を推定させるものと言えます）<br>　また、この記事は「五月五日」にこの「藥獵（薬がり）」が行なわれた事を示していますが、この「五月五日」は古来中国では「薬草」を採取して「毒気」を払う時期とされていたものであり、例えば「六朝時代」の「荊楚」地方（揚子江中流域）の「年中行事」を記した「荊楚記」では「五月五日， 並蹋百草，採艾為人，懸門戶，禳毒氣。」などとされています。<br>　この「五月五日」という日付は「倭国」ではこれが初見ですが、この年次付近でこれらに関する情報が伝来したのかもしれません。（ただし『隋書俀国伝』によれば「節」の習俗はほぼ中国と同じとされていますから、「隋」との交渉以前からすでにそれら「節」の週間は国内に定着していたと思われ、「五月五日」の「薬がり」も行われていたのかもしれません。そのあたりは不明ですが、記述がないのは重要とも思われます。）<br>　後に「天智」の時代にも「藥獵」が行なわれており、その場所が「蒲生野」と記されていることから、この場所についても「蒲（がま）」の栽培を行なっていた「標野」であることが推定されます。「蒲」は『出雲風土記』に出てくる「大国主の兎」の話の中で、「兎」の背中に塗ったとされる薬草です。<br>　『推古紀』でも「薬狩り」をした場所として「兎田野」と書かれており、「兎」という字が入っているのは「偶然」ではないと思われます。<br>　このように「四天王寺」の「別院」として「施薬院」が営まれたわけですが、「鬼前太后」あるいは「干食王后」など「王権」の女性達がこの寺院の主役であったと考えられ、その場所で「聖徳太子」は「勝鬘経」を講説したとされているわけですから、「勝鬘経」と深く関係しているのはやはり「女性」であると考えざるを得ません。<br>　ところで『続日本紀』の「元正紀」には「菖蒲鬘」についての記事があります。<br><br>「（天平）十九年（七四七年）五月丙子朔庚辰条」「天皇御南苑觀騎射走馬。是曰。太上天皇詔曰。昔者五月之節常用菖蒲爲縵。比來已停此事。從今而後。非菖蒲縵者勿入宮中。」<br><br>　この「元正女帝」（既に「聖武天皇」に禅譲しているため「太上天皇」と称される）の「詔」では、「昔」は五月の節（五月五日）には必ず「菖蒲」を「鬘」にしていたものである。それは既に行なわれなくなっているが、今後はそれを復活させ、「菖蒲」を鬘にしなければ宮中に入ってはいけない、とする強い「指示」を出しています。<br>　この「詔｣を出した「五月丙子朔庚辰」という日が「五月五日」です。この「五月五日」は上に見たように「藥獵」の日であり、｢鬘｣にするという「菖蒲」も薬草とされていたものです。<br>　「菖蒲」は「神農本草経（上品）」では「薬草」の先頭に書かれているものであり、古くから「治風寒、開心孔、補五蔵、通九竅、久服、軽身、延年。」等々の効果があるとされていました。その他の「薬草関係」の書にも非常に多数の効能や処方例が書かれており、｢薬草｣の代表例であったものです。<br> 「元正」によれば、以前はこれを「藥獵」の際には「鬘」としていたというわけですが、上の『推古紀』の「藥獵」の記事によれば、参加者は皆「冠」を頭にかぶり、それと同色の衣服を身につけ、頭頂には「華飾り」を着けるとされています。但しこれは男性であり、女性はどうであったか不明ですが、「女性」はこの日は「薬草」を採取していたようであり、当然彼女らも（男性と同様）「華飾り」を頭に着けていたことでしょう。この「華飾り」が「菖蒲」の「花」であったという可能性があるのではないでしょうか。<br>　また、「元正」が「菖蒲」を「鬘」にするようにという「詔」を出したのは、「厩戸勝鬘」が「菖蒲」を「鬘」としていたからではないでしょうか。<br>　「厩戸勝鬘」はその名の通り、「花」の「鬘」（髪飾り）を頭に着けていたものであり、それが「菖蒲」であったという可能性があります。それは「阿毎多利思北孤」や「鬼前大后」達への崇敬の念からであり、「施薬院」を開き、貧しいもの、恵まれないもの達への愛情を示した彼女達の「功績」を忘れないために、その「施薬院」附属の「標野」で栽培していた「菖蒲」を髪飾りとして「鬘」にしていたのではないかと思われ、それを「元正」は知っていてそれに倣ったのではないかと考えられます。そのことから「元正」の「厩戸勝鬘」への傾倒が読み取れるものでもありますが、それは「聖武」の「后」である「光明子」に受け継がれたものと思われます。<br><br>Ⅲ．「出雲」と医療<br>　「古代」において「治療」というと、既に触れましたが、「大国主」に関連した説話として知られている「因幡の白兎」というものがあります。この中では「大国主」は「八十神」に欺された「兎」に「薬」（蒲（がま）の穂）を与えたとされます。<br>　また『出雲風土記』の中では「大国主」自身が「大やけど」を負う事態になったときに「宇武賀比売」と「支佐加比売」により治療を受けた際、「赤貝の粉」と「ハマグリの煮汁」を火傷の場所に塗布されたとされているなど、「出雲」という地域には「薬草」だけではなく、怪我・病気治療に関して多くの「薬」の存在とその処方の知識があるように感じられます。<br>　他にも『出雲風土記』などには大量の「薬草」となる「草木」の名前が列挙されており、その種類の数は『延喜式』に記載されている数の過半に亘り、他郡を圧倒しています。まさに「薬」の「特産地」であることが示されています。<br>　その後も「出雲臣」とその子孫が「各代」の天皇の「侍医」を勤めるなど、「出雲」と「医術」の関わりは深いものであり、これは長い伝統のなせるわざと考えられるものです。<br>　また「大国主」と共に国造りをしたとされる「少彦名命」は現在も大阪に「祭神」とする神社が多く、「薬」に関係した神とされています。彼は『書紀』では「カガミ」（これも薬草の名前と考えられています）の皮で造った舟に乗ってきたとされます。<br>　また、『書紀』の別の部分（「神代第八段一書第六」）では「大国主」と「少彦名」は人間や益のある動物のため、病を治す方法を定めたとされています。<br><br>「一書第六曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神 夫大己貴命與少彦名命戮力一心經營天下 復為顯見蒼生及畜? 則定其療病之方 又為攘鳥獸昆蟲之災異 則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩賴。」<br><br>　さらに、「大国主」と「少彦名」については各地の伝承として「薬」と共に「温泉」の治療効果を人々に教えたとされています。<br>　『伊予国風土記』（『釈日本紀』に引く逸文）には「大分の速見郡の湯」により「死んだはず」の「少彦名」を「大国主」が生き返らせる話が書かれています。<br>　また『風土記』逸文としては享保二年（一七一七年）の『鎌倉実記』の中に「北畠親房」の『准后親房の記』という書物（これは正体不明）からの引用があります。その中では『伊豆国風土記』にあるとして「大己貴」（「大国主」）と「少彦名」とが、民が早死にすることを憐れんで、「薬」「温泉」の術を定め、そのような中に「箱根」の湯もあるとされています。<br><br>「准后親房記 引伊豆國風土記曰 稽温泉 玄古 天孫未降也 大己貴與少彦名 我秋津州 憫民夭折 始制禁薬湯泉之術　伊津神湯 又其数而 箱根之元湯是也 …」<br><br>　『出雲風土記』にも後の「玉造温泉」につながる記事があります。<br><br>「忌部神戸。郡家正西廿一里二百六十歩。國造神吉詞奏參向朝廷時御沐之忌里。故云忌部。即川邊出湯。出湯所在兼海陸。仍男女老少或道路駱驛或海中沿洲日集成市繽紛燕樂。一濯則形容端正再沐則万病悉除。自古至今無不得驗。故俗人曰神湯也。…」<br><br>　この「温泉」は「大国主」の御子である「阿遅須枳高日子」が「口の利けなかった」ものが「快癒」した事とつながっているものであり、このように「温泉」の効能が「大国主」や「出雲」という地域との関連で語られているのです。<br>　これらの「出雲」と「薬」あるいは「治療法」というものの間に深い関係があることや、「大国主」という存在が「力」だけを背景にした統治者ではなく「医療」など文化的側面においても傑出した存在であったことなどに付いては現代においてもある程度認知されているようです。しかし、それらは一般には「弥生時代」のことであるとして、いわば「過去」の出来事というような扱いをされています。<br>　しかし、そうとばかりは云えないと思われるのです。それは、『書紀』で「医」「薬」について具体的な記事が見られ始めるのが「六世紀」半ばのことであり「温湯」に至っては『舒明紀』まで存在しないと云うことが重要であると思われるからです。それまでも「湯」という単語に関連する記事は各種あるものの「温湯」ないし「温泉」という記事は以下の記事が初出なのです。<br><br>「幸干攝津國有間温湯。」「（舒明）三年（六三一年）秋九月丁巳朔乙亥条」<br><br>　このように各種の資料等が示す「出雲」と「薬」また「温湯」というものの間に他の地域より緊密な関係が存在している事と、「六世紀」から「七世紀」というかなり「新しい」年代にそれらの記事が『書紀』に現れること、また「施薬院」が設置され、病と傷の治療に「薬草」などの知識が導入されるようになることの間には深い「関係」があるように思えます。つまり、それはこの時点で「王権」の内部に「出雲」の「薬」に関する知識が導入されたことを示すものと思われ、それは「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」あるいは「鬼前太后」などという「王権中枢」と「出雲」の間に何らかの関係があった事を推定させるものといえます。<br>　そして、そのことにつながる「信仰」が「薬師如来」であり、「薬師信仰」であると思われます。<br><br>Ⅳ．大国主と薬師信仰<br>　「薬師」信仰は非常に新しいものであり、中国では「薬師」信仰も「薬師」仏も見られません。特に「日本列島」で盛んになったものです。<br>　「法隆寺」の「金堂」には「薬師如来」像が存在しますが、その「光背」には「用明天皇の時に病気になった天皇の治癒祈願のため」に「薬師如来像」が造られたとされ、この時点付近で「薬師信仰」が始まったように書かれていますが、この「仏像」も「光背」も実はかなり新しい、と考えられており、「光背」に書かれたことは「事実」ではないと考えられています。ただし、巷間言われるような「七世紀後半」の事であったとは考えられません。実際には「薬師寺」の創建とほぼ同時であって、「七世紀半ば」のことではなかったかと推察されます。<br>　しかし「光背」で、特に「用命」という時代設定にされているのは、「仏」の力と共に「薬」などの力によって「病」を直すという事が行なわれるようになったのが「用命」つまり「推古」の兄であり「聖徳太子」の「父」とされる人物の時代であったという「伝承」があった事を示すものとも思われます。（これは「天然痘」に対する救済としてのものであった可能性が高いと思料します）<br>　そして、それはそのまま「阿毎多利思北孤」の時代に重なるものであり、この年次付近に「薬師信仰」の根源があることを示す為にこの「如来像」は造られ、また「光背銘」が書かれたものと考えられ、この「薬師如来」の「光背銘」や「如来像」の「形式」などが「擬古的」なのは、「天王寺」の「施薬院」の創建時期と重ねることを想定したものと推定します。<br>　ところで、「薬師如来」と「素戔嗚尊」が同一化されている事例が多いことは注目すべきであり、例えば京都の「八坂神社」は、祭神が「牛頭天王」とされていますが、これは「素戔嗚尊」のことを示すといわれ、また「薬師如来」の化身でもあるとされています。<br>　つまり「薬師如来」と「素戔嗚尊」が関係づけられているわけですが、「素戔嗚尊」が「出雲」に深く関係した人物であることは言うまでもなく、「出雲」の「薬」に対する知識というものが「薬師」信仰の下敷きにあったと考えるべきことを示唆します。<br>　例えば「アイヌ」が狩りに使用していた「トリカブト」という「毒草」があります。この「根」の部分の毒は特に強烈で「フグ毒」に次ぐとされています。しかし、この部分は「加熱」などの加工を加えると「減毒」される事が知られており、そのようにしたものは「痛み止め」あるいは「麻酔」としての効果が期待されていました。<br>　そして、これは「藤原京遺跡」から出土した木簡などから当時「武蔵」など「東国」からの「貢納品」であったと推定されています。しかし、その「トリカブト」の「和名」は「於宇」であるとされています。これは「出雲」にある「意宇郡」という地名との関連が強く示唆されるものであり、（「意宇郡」も「和名抄」によれば「於宇」と発音されていました）本来「出雲」の特産であったという可能性もあります。（「トリカブト」は東国や北海道だけではなく全国広範囲に自生しており、当然「出雲」にも存在します）<br>　当時も今も「薬」に期待する一番のものは「痛み止め」であると思われ、それが「ケガ」であれ、「病気」であれ、痛みを伴わないものは皆無とも言えますから、「痛み」を和らげられるものが一番「珍重」されたものと考えられます。そのための「特効的」なものとして「トリカブト」（表記としては「鳥頭」「附子」等）が用いられたものではないでしょうか。<br>　これら「鳥頭」や「附子」は「漢方」の世界では中世以前から「鎮痛」「温熱」「利尿」など有効性の高い治療薬として著名であったものです。<br>　「トリカブト」は日本全国至る所に繁茂していますから、特にそれについての使用法などがアイヌのように「東北・北海道」に居住していた住民などに限定された知識であったというわけではないと思われます。それは「コンブ」が「軍布」と記され、「アイヌ語」をそのまま「漢字」に当てはめていると考えられるのに対して、「トリカブト」や「ブス」あるいは「於宇」（オウ）も「アイヌ語」ではない（アイヌ語では「スルク」（Suruku）と呼称されています）という事からもその関わり合いが直接的ではないか、あるいは関わり合いがあっても、その程度が非常に薄い事を示すと考えられるからです。<br>　つまり、「於宇」という「和語」で記されていることを考えると、「東国」から伝わったものではなく、それとは全く別の次元（領域）との関連で発生したことを示唆するものと言えるでしょう。<br>　中国で「一九七三年」に発掘された「馬王堆」漢墓からは、「薬」等についての記録が発見されており、それは「五十二病方」と呼称されているものですが、その中の記載では圧倒的に「鳥喙」（「鳥頭」と同義であり「トリカブト」のことを指すもの）関連記事が多く、それは当時から「鎮痛」などに対してかなりの「有効性」が認められていた事を示すものと思われ、このような「医薬」についての知識が「倭国」にかなり早期に伝えられていた事は蓋然性の高い出来事と思えます。この事からも「トリカブト」に関する知識というものが「アイヌ」からと云うよりは「中国」から伝来したものである可能性が高いと考えられ、そうであれば「東国」から「特産」となったのは「後代」のことであり、「東国」に行政制度の網がかぶせられ、「支配地域」として「倭国体制」の中に強力に組み込まれることとなった「七世紀」初め以降のことであろうと考えられるものです。<br>　そうであれば「出雲」に中国の医薬の情報が入ったのはそれ以前のこととなるわけであり、一番契機となった時点は「遣隋使」による「医薬」の伝来ではないでしょうか。<br>　「六世紀末」に行われた「遣隋使」とその返答使としての「隋使」の往来では、多くの文物が導入されたものと見られますが、医薬の分野においてもその時点の最先端の知識や技術あるいは薬などが倭国へ導入されることとなったと考えて不思議はなく、この時点が画期となったことは間違いないと思われます。<br>　「史料」から見てその主役は二人おり『元興寺伽藍縁起』に「裴世清」と共にその名が書かれた「遍光高」という人物と、さらに「倭国」から「遣唐使」として送られ、特に「医薬」の知識を持って帰国したため以降「薬師」と呼ばれたという「恵日」という人物が挙げられます。<br>　「遍光高」は「尚書祠部」という役職であったことが『縁起』に残されていますが、この「尚書祠部」の管轄範囲には「医薬」も含まれており、この時の「来倭」ではそのような「医薬」に関するものも彼との交渉の中に含まれていたのではないかと思われます。<br>　『隋書』には「倭国」に関して「医薬」に直結する記事はありませんが、「知卜筮尤信巫覡。」という文章があり、そこからは「病気」などに罹ったときに「祈祷」「呪術」などによって治療行為を行っていたという可能性が示唆されます。このような背景の中で「倭国」から「隋」に対して「最新の医療技術」あるいは「薬」などについての要望があったとしても不思議ではないでしょう。それに対応するように「隋」も「裴世清」という通常の外務官僚以外に、「尚書祠部」という役職の担当官を「副」として随行させたものと見られ、彼の存在意義もそこにあると思われます。<br>　さらに「恵日（惠日）」はその「遍光高」の示した医療技術などを実際に「本場」で習得しようとして派遣されたものと見られ、その後の「漢方医療」の祖とも言うべき位置にいると思われます。（ただし、後にその子孫は「医薬」とは違う職掌に就いていたため、「薬師」という「姓」を忌避して新しい「姓」を朝廷から下賜されたことが『続日本紀』に見えています。）　<br>　これらのことから「薬師如来」と「出雲」さらには「隋」との間には「深い」関係が考えられるものですが、その「実体」としては時代的にも「阿毎多利思北孤」ないしは「利歌彌多仏利」へ投影されていたものと思料され、それはこの「薬師如来」の発祥につながったものとして、「釈迦三尊」の両脇侍である「薬王菩薩」と「薬上菩薩」の存在があったことを想定すべきであるように思われます。<br>　「薬師如来」は、いわばこの両「菩薩」の「発展形」とも言えるものと思われ、「鬼前太后」と「干食王后」の業績が、年月の経過と共に「美化」「聖化」されていく経過があったと見られるとともに、そこに「阿毎多利思北孤」等の業績も加味されることとなっていったと考えられます。
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<pubDate>Sun, 09 Nov 2025 23:56:41 +0900</pubDate>
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<title>伝染病対策としての「祓」</title>
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<![CDATA[ 　既にみたように「後漢」の末期には天変地異の他、「大疫」（疫癘）と称される強い伝染病の蔓延があった可能性が高く、そのため一般の人々（特に農民）にとっては彼等を取り巻く環境が大きく悪化したものと思われるわけですが、その時「後漢王朝」とそれを支えていた人達は自己の権益を優先したため、事態の悪化を招いたものです。<br>　「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われます。<br>　そのような中で「難民」（流民）となって「故郷」を捨てて流浪する人々が増加し、彼等のうち相当多くのものが半島へ移動したとみられ、更にその一部は倭国へ流入するという事態となったと思われます。（『新撰姓氏録』にも「後漢」の末裔と称する人々が数多くみられることが、そのことを物語っています。）<br>　このような人の動きは「列島」の中に少なからず波紋を広げたものであり、居住地をめぐる争いというレベルの問題から、彼等によって持ち込まれることとなった「伝染病」も重大な影響を列島内にもたらすこととなったものと思われ、「後漢」と同様な天候不順や地震などという天変地異と重なって社会に混乱をもたらしたものと推測されます。<br><br>　「新大陸」にヨーロッパから「天然痘」が持ち込まれた際には多くの原住民が亡くなったことがあるなど、「伝染病」は特にその「病気」に対する「抗体」を持っていない地域では破滅的な結果になる場合があります。「卑弥呼」の当時の日本列島にも同様のことが起きた可能性があるでしょう。特に列島内には家畜の習慣（特に牛）がなく、当時の人々は「牛痘」や「天然痘」に対する「抗体」は全く持っていなかった可能性が強いと思われます。（「弥生時代」に豚家畜の痕跡があるとされますが、それは渡来人によるものではなかったかと思われ、列島に元々いた人々については「家畜」を起源とする伝染病に対して抗体を全く持たなかった可能性が高いと推量します）<br>　このため、かなりの感染者が出た可能性が高く、致死率も高かったでしょうから、各地で混乱が発生したものと考えられます。<br>　このような「エピデミック」は現代でもなかなか沈静化させることは難しく、当時の「王権」には至難の事業であったと思われます。このようなときに「後漢」に「太平道」や「五斗米道」が起きたように「倭国」でも新しい宗教に救済を求める雰囲気ができあがった結果、「鬼道」に事える人物である「卑弥呼」に対する依存と信頼が民衆の間で発生したものと思われるわけです。<br>　「宗教」にはいくつかの発展段階があり、「キリスト教」や「浄土教」など「来世」における救済を説くものは発展の後期段階のものであるのに対して、それ以前の宗教は「現世利益」あるいは「現世救済」を説くことが特徴です。<br>　社会の構造などが「強力」で不正が改善される気配や徴候が全く見られない時点において、現世ではそれらが決して解決されず救済もされないと多くの人々が考える（いわば「諦める」）時点において「来世救済」という考え方が発生するものです。つまり「来世救済」が説かれるまでは人生は「死」で終わるのであって「来世」という概念そのものがなかったというわけです。（あの世も天国もない）それらは後に仏教によって列島に持ち込まれた概念であり、それ以前には「救済」とはすなわち「命」が助かることを意味していたものです。<br>　この「後漢」あるいは「倭」において「宗教」が求められたというのも、それは当然「現世利益」つまり「命」が助かることを多くの人々が望んでいたことを示しますが、それは言い換えると多くの人々の「命」が失われつつある現状があったことを示すものです。<br>　それまでの男王にはそれほど「宗教的」な能力は必要とされず、俗務（実務）の占めるウェイトの方が大きかったものと見られますが、社会不安を鎮めるための能力は「男王」や彼を含む「王権」の当事者達にはなかったものであり、そのため「王権」の権威は大きく低下したものと思われます。このため、当時としては宗教的部分に偏る統治が求められたということではないでしょうか。<br>　時代も地域も異なりますが、「新大陸」に「清教徒」が移民した際にも「天然痘」が繰り返し発生し多くの被害を出したとされますが、その時点でも「清教徒」の「聖職者」による「伝統的」というべき「宗教的救済」として「数日に及ぶ祈りと断食」がもっぱら行われたとされます。<br>　「卑弥呼」もこれら「清教徒」集団における「聖職者」とほぼ似たような「使命」を帯びることとなったものと思われ、彼女も「宗教的救済」としての「祭祀」を行っていたものであり、それにより「神意」を読み取り、それを「民衆」に伝えるということにより「能く衆を惑わす」ということとなったものと見られます。<br>　この「卑弥呼」の行為を「王」として行っていたことから、その行動は「国家行為」という高い次元のものとなったわけであり、「神勅」という形で民衆にそれが伝えられ、彼等にとるべき行動を限定させ、「暴発」が押さえられた民衆を「男弟」が「実務」、つまり実際の統治機構を機能させる役割の中で、彼が「コントロール」するという「兄（姉）弟統治」の体制が構築されたものと思われるわけです。<br>　ところで『書紀』の『孝徳紀』をみると「薄葬令」の後に旧習を止めるようにと言う「詔」が続いています。そこでは「祓除（祓え）」がキーワードとなっています。<br><br>「…復有被役邊畔之民。事了還郷之日。忽然得疾臥死路頭。於是路頭之家。乃謂之曰。何故使人死余路。因留死者友伴。強使祓除。由是。兄雖臥死於路其弟不收者多。<br>復有百姓溺死於河逢者。乃謂之曰。何故於我使遇溺人。因留溺者友伴強使祓除。由是。兄雖溺死於河。其弟不救者衆。<br>復有被役之民。路頭炊飯。於是路頭之家。乃謂之曰。何故任情炊飯余路。強使祓除。<br>復有百姓就他借甑炊飯。其甑觸物而覆。於是。甑主乃使祓除。如是等類。愚俗所染。今悉除斷。勿使復爲。…」<br><br>　以上のように「路頭」で亡くなったもの、「溺死」したもの、「路頭で炊飯」したもの、借りた「甑」（鍋のようなもの）などについて触れたものなどに対して「祓除」を強要しています。これらは「死」やそれにつながるもの及び「移動する人々」に対する警戒が根底にあると思われます。つまり、このような考え方は「旧習」であり、「愚俗」はこれに染まっているというわけですから、かなり以前からこのような風習が続いていたことを示唆しますが、それをたどると「卑弥呼」の「鬼道」にまで行くのではないでしょうか。<br>　「卑弥呼」（および男弟）は「疫病」（「天然痘」など）を視野に入れて「死者」や「移動する人々」に対する警戒を「祓除」という形で防衛しようとしていたものと思われるわけです。『倭人伝』中にも「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」とする記事があり、「死」の持つ「穢れ」を「禊ぎ」により払い落とす意義を持つ行為であると思われますが、特にそれが「天然痘」などの「伝染病」への対策としてのものであったという可能性も考えられるところです。ただしそれが効果があるかは微妙ですが、このように「病原菌」が人の移動にともなうものという見識は持っていたものと思われることとなり、それに対する警戒であると理解できるでしょう。そう考えると「男弟」の仕事の中には「移動する人々」に対する「制限」や「禁止」あるいは「隔離」などの施策があったという可能性が出てくると思われます。つまり、「姉」である「卑弥呼」の「託宣」と表裏一体のものとして「実務」が行われたと見ることができると思われるわけです。これらを実施すれば「エピデミック」に多少の歯止めがかかりますから、「終息」が早まったという可能性もあるでしょう。<br>　この考え方に近いものが「祓」となり、さらに後の時代（平安時代など）には自然国境である「川」「淵」「峠」などで「神」に「幣」（「木綿」など）を手向ける風習として残ったものと思われます。<br>　たとえば『延喜式』には「六処界川共御禊」があり（『延喜式齋官式』）「山城」「近江勢多川」「甲賀川」「伊勢鈴鹿川」「下樋小川」「多気川」では「幣」を手向けるなど境界祭祀を行うこととされており、「伊勢神宮」の「齋官」の往還の際にも同様のことが行われていました。これらはそこに「境界神」がおり、そこを通過する人々に対し「清浄さ」を要求する意思の表れであり、「旅」の安全を祈る意義と共に「他」の領域からの「汚穢」で自らの領域が汚されることのないよう身を浄める事があったものです。これらは一見「宗教的」な部分にとどまるものと思われがちですが、実態としては「伝染病」に対する方策の一つであり、それを「宗教的」に具現化したものであることが了解できるでしょう。<br>　この時「卑弥呼」が「王」となったこと、その後「壹與」もまた「王」となって政情が安定したことが伝えられていますが、このように「女性」あるいは「幼少」の人間が「祭祀」の主宰者として選ばれたということには二つの理由があったものと思われます。<br>　一つは「王」の陰から実力者（この場合「男弟」）が実務をやりやすくするためですが、さらに一つは「実務」の能力が高いものは「霊的能力」が低いと思われ民衆の支持を受けられないと判断されたためであったといえるでしょう。<br>　すでに述べたようにこの時代には成人した五体満足な人には「霊的能力」がない（欠けている）と考えられていたものと推測され、「祭祀」の主宰者には不適格とされていたものと思われます。その意味で「女性」（特に「幼少」あるいは「老年」の女性）が「巫覡」として尊敬を集めていたものと思われるわけです。<br>　「卑弥呼」以前には社会不安が少なかったため「王」には霊的能力の多寡は問われなかったものと思われるものの、「疫病」が流行り、天候不順などがあると実務能力が高いというだけでは民衆を律しきれなくなったものではないでしょうか。そのため複数年に亘って紛争が続くこととなったとみられるわけです。
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<link>https://ameblo.jp/james-5530/entry-12944231608.html</link>
<pubDate>Sun, 09 Nov 2025 16:02:49 +0900</pubDate>
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