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<title>Ａ型袋小路</title>
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<description>…俺の言いたい事を言うのに誰の同意やら支持が必要なんだ？…と言うスタンスのブログ。流行りにゃ興味ないね。年は食ったが、俺はパンクロッカーだからさ。</description>
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<title>ナポリタン</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160212/12/jhonah/62/0f/j/o0800044813564978613.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160212/12/jhonah/62/0f/j/o0800044813564978613.jpg"></a><br><br>ナポリタン…。イタリア料理のサルサ・ディ・ナポリタンと言うソースの事ではない。<br>戦後、横浜に進駐したアメリカ兵が食っていた戦闘糧食の缶詰め…トマトソースにどっぷり漬かったパスタを日本人コックが改良・考案した料理の事である。<br><br>昭和20年代。<br><br>総力戦に疲弊しきった日本に進駐したダグラス・マッカーサー率いる米軍他連合軍は、当然の事ながら自弁で進駐して来た。<br>進駐軍は日本人の執念深さを身にしみて知っていたから、食糧難の日本人を懐柔すべく余剰物資を放出した。その中には、そのトマトソースのパスタ缶もあった。<br>それとは別に、簡易トマトソースとも言うべきケチャップがあった。他に当時の米兵が毛嫌いしたSPAMもあれば、ハム、チーズ、要するに当時の日本人憧れの動物タンパク質の配給が始まったのである。…ちなみにSPAMの名誉のために言っておくが、SPAMは決して不味くない。が、来る日も来る日も続く苦しい戦闘の食事に毎日これを食わされてみたまえ。諸君はドブに放り込んでやりたくならぬだろうか。<br><br>それはさて置き…このトマトソースパスタ缶には「Neapolitan」と印刷されてあった。…なるほど。これはナポリタンと言うのか…。<br>で、フランスで修行経験のある日本人シェフが食うてみた。ふむ…。なるほど。米兵は具無しのトマトパスタを食わされておるか…。日本人の感覚から言えば、うどんも蕎麦も、できれば具を入れればより贅沢である。ハムかベーコンに玉ねぎ。あればキノコの食感も合う。<br><br>そしてスパゲティ・ナポリタンとして進駐軍の上下問わずに愛されたのが、横浜の老舗、ホテル・ニューグランドのナポリタンなのである。<br>トマトケチャップではなくトマトピューレを使ったスパゲティ・ディ・ナポリタンはイタリア系アメリカ兵に絶賛された。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160212/13/jhonah/62/4d/j/o0800059613565049598.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160212/13/jhonah/62/4d/j/o0800059613565049598.jpg"></a><br><br>で､俺が小学生だった昭和40年代。<br>街には米軍のMPがジープで徘徊し、学校の給食では米食が否定され米国の余剰小麦粉で作ったコッペパンや“ソフト麺”と言う不味いうどん擬き、砂糖をまぶした揚げパンなどが出された。米国本土で余剰物資だった薄力粉を、その当時まで日本の子供は食わされていた。…今の小学生は給食にお米のご飯を頂く。私はある意味、良いことだと思っている。<br>それで、懐古趣味から当時の給食メニューを食わせる店があって、こうしたものを出すらしい。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160212/14/jhonah/9d/c7/j/o0800060013565076674.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160212/14/jhonah/9d/c7/j/o0800060013565076674.jpg"></a><br><br>…当時揚げパンは時々供されたが、既に復興期と言うより高度成長期、俺たちは甘い主食に不満であり、カード目的に仮面ライダースナックを買ってスナックは路傍に捨てる者が多かった。アメリカ産のクラッカージャックを筆頭に、中途半端に甘い菓子は子供達には不評であった。戦中を生きた大人たちは、それを理解できなかった。<br><br>…そもそも、こう言う経緯の料理である。<br>これが庶民的なものとして知られたのは、冒頭の写真のようなトマトケチャップを使ったナポリタンが紹介されてからである。発祥は横浜は野毛のセンターグリルさんと言う洋食店である。<br>当時、スパゲティそのものもさることながら、ホテル・ニューグランドで使っていたようなトマトピューレは輸入品の高級食材であった。これを使った料理はとても日本の一般庶民が日常的に食える値段ではなく、飽くまでも米軍向けであった。ナポリタンと言うよりはイタリア料理のポモドーロに近いパスタである。ニューグランドの営業再開とほぼ同時期に開業した野毛のセンターグリルでは、米軍の持ち込んだトマトケチャップを使って焼きうどん風にこしらえたものを安価に出して、庶民の好評を得た。2.2mmの太めのスパゲティパスタをわざと茹で置きにして、うどん風のもちもち感を出した。以後、このスタイルが日本では受け入れられ、調理も簡便なため喫茶店や学食、家庭の惣菜として浸透して行った。やがて米軍製のパスタ製造機が輸入され、国産のスパゲティも出回った。アメリカ本土でだぶついた小麦粉を消費させるためGHQがやった米食否定・粉モン奨励政策は、こうして日本人の食卓の欧米化を推し進めたのであった。<br><br>…その後、トルーマン大統領と仲違いしたマッカーサー指令は解任され、1952年にGHQは解散、日本は連合国側の承認を得て国連に加盟、朝鮮戦争の特需を経て奇跡的な復興と躍進を遂げた。<br>だが、食い物の記憶と言うのは…特に美味いものを食った記憶は長く残るものである。俺もコンビニで買ってきたのびのびもちもちのナポリタンを食いながらこれを書いている。<br>諸君。のびのびだらだらこそが日本のナポリタンの正当なスタイルなのである。これがもしアルデンテなら、俺は一晩放置して改めてチンして食うだろう。まぁ、当時の給食みたいに言い訳程度に、赤ウインナーや玉ねぎ、ピーマンの具でなく、ソーセージの斜め切り他具が豊富なのはいささか遺憾ではあるが…。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/jhonah/entry-12128050281.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Feb 2016 22:02:00 +0900</pubDate>
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<title>犬も食わない</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160210/16/jhonah/9b/e2/j/o0800053113563412390.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160210/16/jhonah/9b/e2/j/o0800053113563412390.jpg"></a><br><br>これは中国は天津の老舗包子店が何処ぞのイベントに出した出店であるそうな。<br>かなり歴史のある有名店であって屋号は狗不理。中国語では「犬も食わない」と言う意味である。随分非道い屋号もあったものだ。<br><br>まぁ屋号はともかく、この店は歴史遺産的な存在価値から今なお商品の小ぶりな豚まんじゅうは絶大な信頼がある。<br>…良いですかな。特別に美味いのではない。中国では食い物は安全である事が最大のご馳走なのである。報道等で皆さんも或いはいろいろご存じであろう。<br>笑い事でもないがそう言う国柄である。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160210/20/jhonah/ac/ff/j/o0800052513563602066.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160210/20/jhonah/ac/ff/j/o0800052513563602066.jpg"></a><br><br>我らが日本にもこの類の小ぶりな豚まんじゅうがある。神戸南京町の豚まんはあまりにも有名である。いくつかの老舗がある。<br>こちらも昔ながらの手作りを守っておられ、店頭のテイクアウトはやるが品質への責任感から地方発送はしない。正真正銘、神戸の味である。俺も実は大好きである。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160210/21/jhonah/6d/7a/j/o0800048313563639917.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160210/21/jhonah/6d/7a/j/o0800048313563639917.jpg"></a><br><br>神戸南京町もさることながら、長崎、横浜、それぞれに息づく中華の文化は創意に富んでいる。<br>地元の特色と相まってそれぞれに多彩で実に楽しい。かの中国本場だとて、歴史的であるが新しい外来の味も上手に取り入れて今なお魅力的である。<br><br>…やはり俺などは食い道楽が大きな楽しみであるから食わず嫌いと言う事をまずしない。<br>美味い事は楽しい。が、それなりに覚悟も要る。言っておくが、食品衛生法なるものがあるにしても、己が食う以上責任は己に在るものだと俺は思っている。俺は己がこしらえた鮭の飯鮨に中った時に痛感したのだ。<br><br>…中りはしたが…だが美味かったぞ…(￣。￣)y-～♪<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/jhonah/entry-12127318327.html</link>
<pubDate>Wed, 10 Feb 2016 22:09:00 +0900</pubDate>
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<title>鎌倉閑話</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160121/11/jhonah/5a/55/j/o0800060013546274012.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160121/11/jhonah/5a/55/j/o0800060013546274012.jpg"></a><br><br>俺の住まいの近郊には、往古武士の都であった鎌倉が在る。<br><br>まぁ、今や武家の世でもなく、かつての文学者も去り、上郎下郎の別なく住まう普通の観光都市である。<br>ちょっと鎌倉をかじった者なら、各種老舗飲食店や菓子舗、刀剣で有名な事はご存知であろう。が、俺にはちょっと別の感慨があるのだ。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160121/14/jhonah/85/1a/j/o0800042613546377596.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160121/14/jhonah/85/1a/j/o0800042613546377596.jpg"></a><br><br>鎌倉…。紀元前後のある時期、南関東の沿岸地域に大挙して上陸して来た集団があった。百済人である。今で言うなら難民とでも言うべきか。当時の朝鮮半島のドタバタで故国を逃げ出さざるを得なかった一団なのだ。彼らは当時の「倭国」の垂涎の的であった大陸の先進文化・技術を持っていた。先に奈良朝廷にて移住を許された首長「弓月の君」の命により関東に下向、各地を開拓して定住したのであった。ちなみに彼らが「秦(ハタ)」を名乗るのは、先に述べた弓月の君が「我らは亡き秦王家の末裔である」と当時の帝の前で大風呂敷を広げたからである。…まぁ、情勢から鑑みて彼らは必死だったのに違いない。<br>で、当時この地域には先住の縄文人…北方系の狩猟民もおったのだし先着の新羅系、もちろん大和・出雲他の混成官人組織もあったであろう。とにもかくにも、当時の関東は未開の原野だったのだから提携して切り開いて行く他ない。とりあえず百済人は要害に優れた鎌倉の地に拠点の一つを置いたであろう事は想像に難くない。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160121/13/jhonah/35/20/j/o0800054113546329717.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160121/13/jhonah/35/20/j/o0800054113546329717.jpg"></a><br><br>…「鎌倉」と言う地名の由来は諸説あるのだが、縄文人の言語に通ずると言われるアイヌ語で解釈すると「カマクラン」と言う言葉に行き当たる。「山を越え(て行く土地)」と言う意味だそうだ。<br>なるほど鎌倉は三方を山が囲み南方だけ相模湾に口を開いた地形である。俺は詳しくないのだが鎌倉の地形は、狭いながら風水の考え方に適うらしい。<br><br>斯くして後世、征夷大将軍源頼朝は鎌倉に本拠地を置き幕府を開いて武家の世を創業した。<br><br>その後も戦乱は続き鎌倉は寂れ、また半農半漁の田園に戻った。幕府は京の室町、江戸に移り、三百年の太平の後半に大山・江ノ島参りの遊山の中継地に、さらに明治以降は居留外国人の遠乗りコースを経て別荘地に、鎌倉文士の住む文化都市へと変化して行った。寺社も往古よりの歴史的な古刹を売りに観光名所となり、今の観光都市鎌倉が在ると言うわけである。<br><br>今のところよく調べてみぬのだが、他にもアイヌ語に由来する地名や言葉が、日本には数々残っておるらしい。今後調べてみたいと思うが、何とも床しく遥けき歴史の風情ではないか。<br><br>ちなみに、一番上に貼った写真の奥の頂の丸い山を、地元では「高麗山(こまやま)」と呼ぶ。ここは鎌倉のある東相模から馬入川(相模川の河口)を挟んだ西相模、大磯の地である。高麗山の麓には古くから高麗神社と言う社があって、この山一帯が神域なのだ。<br>また高麗山のある大磯町を隔てる花水川を挟んで東の平塚市側の田園一帯を、往古は「唐土ヶ原(もろこしがはら)」と呼んだ。かつて移住して来た百済人一行はこの花水川沿いに北上し、最奥の秦野盆地に本拠地を置いたと言われる。この秦野も、東部のみ相模平野に開口した三方を山が囲んだ要害の地である。盆地は丹沢山系の伏流水に富み、水が良い。川は扇状地を形成し地は肥え、田畑の実りが豊かである。しかも東部には善波峠から派生した丘陵が東南に延びており、侵入者に対し高所を占める砦に打って付けの要害を与えている。<br>また盆地の中ほどには彼らの残したと思われる円墳の古墳群、西部の堀山と言う場所には丘陵から麓にかけて長大な堀が掘られ、かつての防御線としていたと思われる。<br>そして丹沢山塊の最高峰、秦野盆地から見て北西にある蛭ヶ岳の東麓の沢は「ユーシン沢」と呼ばれている。ユーシン…おそらく熊津であろう。かつて百済が平壌を落とされ南方の山中に遷都した都の名前なのである。一朝事あらばこの山中に逃げ延びる算段だったのではないか。<br><br>斯くして亡命百済人は先住民族や先着の海の民、海神族などとも提携し、徐々に後の坂東武者の原型となったに違いない。<br>何しろ彼らは三々五々、いくつものグループでやって来たらしい。ちゃっかり便乗して朝鮮半島南部の伽耶人だって混じっていたかも知れぬ。何故なら我ら日本人の顔つきは、どうやら古代の百済人や新羅、高句麗の人々よりは、南方の伽耶(加羅)人に近いらしい。まぁ、俺などはどっちみち北方縄文系で母親は出雲族のツングース系だ。俺は生まれた時に蒙古斑が無かったのだ。俺は倭人ではないので先に述べた範疇には入らぬ。<br>…そんな事はどうでもよろしいが、武編無類なる坂東武者の直情頑固と見栄っ張りは、ある意味朝鮮半島南西岸の人間に似ていなくもない。もっとも、元々「日本人」などと言う人種区分は存在しない。そもそも我ら日本人は東アジアの雑種なのだ。先も申したように、基本ベースは中国・朝鮮である。ただし「日本民族」と言うのはある。我らの言語はウラル・アルタイル語族に一応は分類されるが、文法はほぼ朝鮮語と同じ、それに古代の中国や朝鮮、アイヌ、南島諸言語の語彙を取り込んでいると言われておる。世界で唯一無二のややこしい言語なのである。<br><br>…まぁ、ことさら日本人である事に気負いも誇りも感じてはおらぬ。たまたまこの島に生まれて勝手に日本人として暮らしておるだけさ。だが、俺はこの日本の天地は好きだ。なので方々ほっつき歩いていろいろ見物して聞いた事は忘れぬ。ただ昔のようにやたらと写真を撮ってはド叱られるもの歳が赦さぬから、まぁ控えてはおるのだ。<br><br>あれこれ述べてとっ散らかってしまったが…明日も良い日和であれば、また図書館でご老人の昔話でも拝聴したい気分である。<br><br><br><br><br>
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<pubDate>Thu, 21 Jan 2016 11:47:02 +0900</pubDate>
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<title>魯山人の数寄焼き</title>
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<![CDATA[ ちょっと興味をそそられたから紹介したい。<br>俺のような変人が興味を持つんだからまたおかしな事を言いやがるんだと、まぁ逃げ腰にならんで欲しい。<br>俺に輪をかけたような世紀の大変人にして大偏屈の大べらぼう、北大路魯山人先生の食った塩っぺぇすき焼きの話が述べてあって面白いのだ。だが待てよ…このブログはリンクが貼れたのだっけかな。まぁとにかく、貼れていなかったら気の利かぬアメーバのせいだ。貼れておるものとして敢えて絵は貼らぬ。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160114/02/jhonah/23/50/j/o0800053213540260638.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160114/02/jhonah/23/50/j/o0800053213540260638.jpg" width="100%"></a><br><br><br><br><br>http://www.yuasasyouyu.co.jp/shoku-story/genba012.html
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<pubDate>Thu, 14 Jan 2016 02:03:21 +0900</pubDate>
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<title>鮪喰い</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160110/13/jhonah/72/40/j/o0240043213536903214.jpg"><img width="240" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160110/13/jhonah/72/40/j/o0240043213536903214.jpg"></a><br><br>年があらたまって正月も十日。近畿から西国では九日の宵戎から十日の本戎、十一日の残り福まで、商売繁盛・家内安全の予祝を祝う。<br><br>やはり戎さんは漁師の信仰が篤いわけで、神前には立派な鯛が神饌として供えられる。まぁそれは俺のような門外漢でも分かるのだけれど…。<br>とてつもない鮪が上がるのだ。<br>古来神饌と言うものは清浄を旨とするのだが、青魚の類を上げるのは天下の奇観である。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160110/14/jhonah/75/32/j/o0800060013536931343.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160110/14/jhonah/75/32/j/o0800060013536931343.jpg"></a><br><br>そもそも、鮪は昔は「しび」と呼ばれており、鎌倉、室町・桃山から江戸初期くらいまでは毛嫌いされてあまり食う者が無かった。何故かと言うと、まず武家が嫌った。呼称の「しび」が死日と同音だからだと言われている。出陣して敵と雌雄を決する侍は常に験を担ぐ。死日などと縁起の悪い名の魚ではなく、鯛や鰹を珍重した。何しろ開き干しの魚を食うのにさえ、切腹を連想させる腹開きを嫌うくらいであった。<br>それに倣ってかどうか、庶民も喜んでは食わなかった。赤身が獣の肉のように見えるからだそうだ。江戸中期以降、野田や銚子の醤油の品質が向上、香り高い濃い口醤油が庶民の手でも買えるようになってようやく、赤身を醤油漬け…通称ヅケにして食うようになった。それに鰹の外道で揚がる魚でめっぽう安かった。売る方もさばく手間さえ面倒だと言うので鉈でぶった切って売ったのだとか。それでも、今は高価な大トロなどは脂が深くて醤油を弾いてしまってヅケには向かない。棄てるか畑の肥料にするか、上の写真の如くに甘辛の割り下をこしらえて葱と煮て食うか。いずれにしても、この葱鮪鍋もヅケにしても、下手な食い物であったわけだ。<br><br><br><div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160110/17/jhonah/c5/24/j/o0800052513537105135.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160110/17/jhonah/c5/24/j/o0800052513537105135.jpg" width="100%"></a></div><br><br><br>此なんヅケ寿司にて候。<br>今でも伊豆諸島では江戸期の寿司の名残を伝えている。今の寿司よりよほどデカく握る。だがその大きさも江戸時代のままなのだ。<br><br>寿司と言えば、今でこそ鮪が握り寿司の代表のようだが、当時は違った。江戸前握りの代表格は何と言っても車海老の蒸し海老だった。他に小鰭や玉子焼き、煮穴子、貝類など、寿司屋のいわゆる仕事を施したタネが主流で、刺身を握るのは冷蔵庫の普及する明治期を待つか、或いは遊山客目当てに河岸の最寄に屋台で売る如く、鮮度の良いまま売り切れる場合に限った。しゃり玉は今の倍以上デカいので、一カン売りで酒は出さない。客は立ち食いでとっとと食って小腹を満たす。酒なんぞ呑んで居座れた日には陽気によってはタネが傷む。<br><br>ところで、この握り寿司の考案者の逸話が伝わっている。華屋與兵衛と言う者だそうだ。それまで江戸では上方寿司が主流だったが、箱抜きなんぞやっている暇に手で握った方が手っ取り早いと思ったかどうか。最初は寿司の振り売りで小金を貯めて、本所だったか何処だったかに與兵衛寿司と言う小店を出して売った。その内模倣店が出来てきてこれはいかんと言うので、客を座敷に上げて豪華な会席風の寿司を出した。ところがその時分、お上は天保の改革を進めており質素倹約令が出されたのだ。哀れ我らが與兵衛は岡っ引きに商い仲間と共にしょっぴかれ、御白州の筵の上で御奉行様に大目玉を喰らい、お仕置きに牢屋にぶち込まれてしまった。その後の與兵衛の消息は定かでない。<br><br>…はてさて。我が住む田舎町にも和食チェーンの華屋与兵衛があるが、ここでは手打ちうどんと寿司の他にも今世に合わせていろいろな料理を出している。どうやら、彼の與兵衛居士とは直接関係は無いようだ。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/jhonah/entry-12115914102.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Jan 2016 16:52:00 +0900</pubDate>
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<title>豚一公方</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151229/23/jhonah/0d/63/j/o0273031013525918686.jpg"><img width="273" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151229/23/jhonah/0d/63/j/o0273031013525918686.jpg"></a><br><br><br><br>十五代征夷大将軍徳川慶喜公…と申さば言わずと知れた最後の公方である。<br><br><br><br>黒船来航(来寇？)以来世論は沸騰、蒸気機関、ライフル・キャノン砲装備の戦艦に驚き、隣国支那の阿片戦争の風聞に戦慄した西国諸藩は海防論を唱えて尊皇攘夷を叫び、そんな最中、彦根藩主井伊直弼大老は米国最新鋭の兵器を背景にしたペリー艦隊の会見要求を呑まざるを得ず、会見の末独断で開国してしまった。西国諸藩や水戸の若い藩士たちは激昂し江戸城桜田門外で井伊直弼を襲撃、血祭りに上げた。そして尊皇倒幕へと世論は移り、各藩の脱藩浪士による幕府要人、佐幕派、公武合体派の暗殺事件が相次いだ。<br><br><br><br>そう言うご時世に火中の栗を拾わされたのが、この水戸から養子に出された一橋徳川家の跡取り、慶喜公…豚一様である。<br><br>何でまた「豚一」などと陰口を叩かれたかと言うと、井伊の開国以来外国人との交流があったのか無類の豚肉好きであられたからだそうだ。無論、嘉永以降まだ間もない頃だから、多くの日本人は肉食に馴染みが薄い。大名衆もそりゃあ鴨鍋くらいは食ったろうが、四つ脚の動物を食う習慣が無い。江戸在勤の侍は、まぁ立場にもよるが人前で蕎麦をすするのさえ外聞の良いものではなかったそうだ。そんな時代に慶喜公は平気で豚肉料理をあつらえ牛乳を飲み、健康のためと称して水戸の牧場でこしらえておるバターを舐めておった。ちなみに公の妹御は遠く仙台伊達家に嫁がれる時に、牧畜に長けた者を伴って輿入れした。<br><br><br><br>ところが、豚一公方が食った料理がどんなものだったかが伝わっていない。あれこれ調べてみたのだが皆目判らない。<br><br>そこで俺なりに考えてみたのだが、先の記事に述べた両国の山くじら…将軍就任以前であっても御三家の家柄の者である。そうそう紅毛人と親しく交わる機会も無かろう。やはり当時は高位の武士は家人を遣わして鍋料理の材料を届けさせ食う事があったそうだから、この方式で豚肉をあつらえ濃い口醤油の割り下に更に八丁味噌を加えると言うももんじ屋風に食ったのではないか。これなら西洋料理の知識など無用であるし己の好きに食える。この当時揚げ物は天麩羅は一般的であったろうが、豚カツの出現はまだ先の維新後の話。もちろん、維新後四十余年の生涯で、豚一様は大いに食ったろう。<br><br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151230/01/jhonah/c7/52/j/o0800059913526015289.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151230/01/jhonah/c7/52/j/o0800059913526015289.jpg"></a><br><br><br><br>余談だが俺は神奈川県の田舎町に住んでいて、一度ももんじ屋さんの呼び物の猪鍋を味わいたいと思ってはおるのだがいささか遠い。<br><br>そこで相模大山だったら近間であるから、時折行って鄙びた風情の料理屋で食う事がある。また住まいの周辺は一応高座豚の産地なのだが、不思議な事に高座豚を商う精肉店を俺はたったの一軒しか知らない。しかも味噌漬け肉やハム・ソーセージが中心だ。まぁ、慶喜公はこう言った洋風がお好みであって、妙な事に銀製の飯盒をわざわざ造らせて飯を炊かせたり珈琲なども早くから嗜まれた御仁である。こうしたお好みを偲ぶよすがにはなろうかとは思っている。<br><br><br><br>…豚一とはある意味、開明的で型破りな公方様の称号であると俺は捉えたい。俺の家は父母どちらをたどっても会津藩士と長岡藩士なのだ。将軍家は主筋も主筋、もちろん又者の先祖が公方様にお目通りなどしたはずもない。無冠の俺など本来は寛永寺や増上寺に詣でるのすら畏れ多いのだが、良い時代に落っこちて来たお陰でこんな処で「豚一」などとほざいても、お縄になる気遣いが無い。だが、大政奉還を、例え陰謀の網に架かったにせよ成し遂げられ、鳥羽伏見で前線指揮を放り出してズラカッタのは如何にもマズかったが、最後まで己を貫かれて錦旗に砲を向けられなかった事は、末端ではあるが旧家臣の子孫として俺は誇らしく思う。だってそうじゃないか。お一人で罪名を背負って一言も言い訳なさらずに、時代を逆行させたり止めようとは一切なさらなかった。<br><br><br><br>俺も見習いたいものである。時を恨まず今を笑って生きる生き方をである。<br><br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151230/02/jhonah/b6/a4/j/o0800048013526045270.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151230/02/jhonah/b6/a4/j/o0800048013526045270.jpg"></a><br><br><br><br>…そうだ。正月には雑煮もさることながら、親父の好きな納豆餅でもこしらえて食おう。質素倹約は武士の嗜み、上様、御覧くださりませ。我が父も米寿の年越しをば目出度く迎えますれば、御廟所に参る事もはや叶わざれども、遙拝し奉りて愚拙共々御挨拶申し上げ奉りまする。…平伏。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/jhonah/entry-12111701538.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Dec 2015 23:25:27 +0900</pubDate>
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<title>牛鍋のはなし</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151227/09/jhonah/12/07/j/o0350026213523304960.jpg"><img width="350" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151227/09/jhonah/12/07/j/o0350026213523304960.jpg"></a><br><br>どうもあれだな…。どうでも良いようなブログではあるが、入力途中でこうもぶっ飛ばしてくれると腹立たしいのを通り越してもはや滑稽である。<br>…これで同じ題で入力するのは三回目なのだが、どうなのだアメーバのCEO君よ。ホリエモンとでも提携してもぅ少し軽く使い勝手の良い仕様に変更して行きたまえ。今やPCより圧倒的にスマホやタブレットでアクセスする者が多いはずである。もう少しこう、賢く稼いだらどうなのか…。<br><br>閑話休題、牛鍋の話だ｡｡｡<br><br>上に貼り付けた写真はご存じの方々も多かろう。明治の始めより横浜の開港場付近で評判の牛鍋である。牛肉の角切りを葱と共に味噌ダレで炒りつけて食わせるのが特色だ。ちなみに濃い口醤油の割り下や生醤油が使われ、上方風の「すき焼き」と言う食い方が流行るのは大正の大震災後からであるそうな。<br><br>で、この牛鍋、山手や元町の居留外国人、吉田新田を埋め立てて造成された南京町…今の横浜中華街の支那人の需要を満たすべく建てられた屠殺場､今の海岸通り､万國橋の付近だそうだが、近隣農村で飼育された牛を精肉して卸しておった者が、横浜では初めて日本人向けに提供し出したと言う。しかしながら当時の日本人は一般的に獣肉の処理に慣れておらず血抜きなどの技術も未熟なために、当時の牛肉は今とは違い相当に臭いがきつかったのだ。また西洋料理などは庶民には敷居が高く、支那料理などは食いなれておらぬ。そこで、まぁここで申すのも憚られる類の人々の知恵に倣うて、味噌や酒に葱などで臭いを抑えて日本式に食わせたわけだ。<br><br>だがこう言った食い方はもっと以前、江戸時代から行われおったのである。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151227/10/jhonah/43/2e/j/o0744088413523370108.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151227/10/jhonah/43/2e/j/o0744088413523370108.jpg"></a><br><br>これは歌川広重の江戸の名所を紹介した浮世絵集の中に見える処の江戸両国橋界隈の雪中風景だ。手前に大きく表現された看板の「山くじら」とは猪肉の料理を意味する。猟師の持ち込む猪を代表する、今で言うならジビエ料理の店である。実はこの店は屋号を「ももんじ屋」と言って、今現在も９代目のご当主が営業されている。今でもやはり猪鍋の老舗として現役なのだ。<br><br>江戸時代は言うまでもなく武家社会であったが、江戸幕府は仏教寺院を保護し、檀家組織を利用して士農工商各身分の戸籍代わりとし、また身分の固定、職業の固定を行っておった。当然、寺院は殺生戒を説いておるし将軍家以下諸公も鷹狩で捕らえた雉や兎は鷹匠に下し置き、専ら鷹の飼育に用いるようになり、まずは己の食膳には上らせなくなった。生類憐れみの令などと言う極端な動物保護、と言うか物忌みに近い禁令が出されたのも推して知るべし。さりながら…。<br><br>太平続きとは言ってもやはり武家政権である。侍はそれぞれ分に応じた武具・馬具を揃えて尚武に励み事に備えるもの。されば甲冑他の維持には動物の革が必須である。古には外国からの輸入と言う事もあったが、キリスト教を国禁としたので鎖国が必用になり、オランダ、ポルトガル、支那とのみ長崎にて貿易をしたのであったが、革材料は慢性的に不足した。そこで山のマタギ衆や餌捕りと言う身分は忌み嫌われてはおっても保護を加え、鹿などを狩らせて革を得たり死牛馬の革を剥がせて武具職人が材に困らぬようにしたわけである。<br>当然、死牛馬は食うわけにいかぬけれどもマタギ衆の獲物は卸されて江戸市中にも届く。「薬喰い」と言って薬種扱いと言う事で、滋養強壮のため…と言う名目でしばしば食ったようだ。当時はゲテモノの怖いもの見たさの興味だってあったであろう。江戸の町衆は物見高いのだ。ものの本によれば大名など高位の武士が通行する際など、しばしば閉店の命令が出されたのだとか。何しろ当時は猪の他にも兎や鼬などあらゆる獲物を値段に応じて出したそうで、周辺の臭気たるや豚骨ラーメン屋の比ではなかったと思われる。そう言うわけだから、味噌や葱、場合によっては茗荷や山椒、根生姜に野蒜だって使ってご利益に与ったのであろう。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151227/12/jhonah/e3/d9/j/o0800058613523442343.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151227/12/jhonah/e3/d9/j/o0800058613523442343.jpg"></a><br><br>さて左様なる次第にて､明治は遠く成りにけり…。<br>明治の帝に在らせられては宮城にて牛肉料理を始めてきこしめされ、「こりゃあいいや。これを食わざあ維新じゃないよ。西洋人に早く追い付くように国民にも食うように言ってこい…」てな事をば宣ったかどうか。太政官布告にて肉食を奨励するお達しが出て牛鍋屋が繁盛、老舗の多くがこの時代に創業したという家伝を伝えている。ちなみに上の写真は浅草今半さんのすき焼きである。<br>この時分になると関東風の濃い口醤油は銚子や野田で品質が向上、ほぼ現在のものと同等の美味い醤油に進化した。牛肉の質も向上して輸入種牛との交配も進み、日本人好みの牛肉が味わえるようになったと言う。だがまぁ流行りとは言え、メディアが今のスピードであったわけではない。飽くまで東京の流行りであって牛鍋は東京スタイルと横浜スタイルが今に残っている所以である。他に関西には元祖すき焼きの伝統も健在で、魯山人式にギョク(卵)にくぐらせず甘い割り下も用いず、醤油の付け焼き風に煎りつけて下ろし大根で食う独自の楽しみ方もあるらしい。<br><br>俺なども呑み助の端くれであるが普段はあまり肉料理を好まない。どうせ我が家はすき焼きをやるとごった煮風の、魯山人翁のいわゆる書生喰いにしてしまうから風情に乏しい。だが団欒を演出する装置としてはすこぶる優秀であると言える。これから家族の所望に備え、割り下を調合して瓶に寝かせて置こうかと思う。<br><br>なぁに。神奈川県は肉も野菜も小麦もキノコも、産地に恵まれて優秀な食材に事欠かぬのだ。<br><br><br><br>…その後更に調べてみたのだが、そもそも横浜で牛鍋を発明したのは伊勢熊と言う人物であるとの事。<br>文久二年頃、先に述べた屠殺場が開かれて間もなく、居酒屋を営んでいた店を二つに仕切り、一方で牛肉の串焼きを売り出した。…とWikipediaにはあるのだが、どうやら居酒屋はこの男の細君に切り盛りさせておったようである。伊勢熊本人は居留外国人に肉を卸すべく、当時から牛の産地であった神戸や近江から牛を買い付ける商いをやっておったようだ。開国間もない頃の外国人は、牛豚を自弁で支那や朝鮮、場合によってはアメリカからも運んでおった。しかし需要が追い付かず国産の牛豚を求めたわけだ。<br>そう言う事情だから、当時忌み嫌われた屠殺をやったって滅法売れる。そんならちょっと俺も食ってみようか…思ったかどうか。何しろ伊勢熊自身は無類の酒呑みだったらしい。始め細君は、そんなものを売るんなら離縁するとカンカンだったと言う。それでもそのうち評判になり繁盛し出したから、細君も我を折り、一緒にやりだしたのだとか。<br>…斯くして、評判は更に評判を呼んで、串焼きも良いが手間を食って客がさばけない。そこで伊勢熊、一計を案じ目を付けたのが、これも先に述べたるももんじ屋の牡丹鍋。真似て味噌と葱の鍋仕立てで出す事にした。肉はぶつ切りで出すわけだから酔っ払っていたって造作もない。これが元祖牛鍋の誕生物語である。<br><br>…まぁそんなこんなで市が栄えたわけであるが、周辺には模倣店が次々にできた。今に残る老舗は太田縄のれんさん、荒井屋牛鍋店さんなどなど。明治になって伊勢熊は東京にのれん分けの店を出したそうなのだが今現在、東京には「伊勢重」さんと言うすき焼きの老舗がある。お店のプロフィールに伊勢熊は出てこないのではっきり言えぬが、もしかしたら縁があるのかも知れぬ。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/jhonah/entry-12110790854.html</link>
<pubDate>Sun, 27 Dec 2015 09:12:42 +0900</pubDate>
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<title>侘び助椿</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151221/12/jhonah/2d/9a/j/o0240043213517512037.jpg"><img width="240" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151221/12/jhonah/2d/9a/j/o0240043213517512037.jpg"></a><br><br>季節柄、忙しいのか忙しいふりだけなのかは知らぬが…。<br><br>無能な顔つきの勤め人が年寄りを突き飛ばして駅のホームを駆けて行く。嫌なご時世だ。<br>まぁ、俺の知った事ではないが官民合わせてボーナス時期、俺はと言えば親父の調子も今日は良さそうだから、こうして参禅後の茶振る舞いの点前を頂いた次第。<br>寺とてこの時期は気ぜわしく人の出入りがある。早々に退散して行き着けの珈琲店で寛いでいるところだ。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151221/12/jhonah/d6/1b/j/o0800063413517524565.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151221/12/jhonah/d6/1b/j/o0800063413517524565.jpg"></a><br><br>…いわゆる茶の湯と言うが、元々は禅宗の茶礼から始まった道楽だそうな。後世、茶道などという無粋な言葉がどういう経緯で発明されたか、俺は詳しく調べぬから解らぬ。<br>こんな茶道みたようなものは大方成り上がり者の見栄かそうでなくば、婦女子の花嫁修行なんぞという要らぬ暇つぶしの方便に用いられるものだ。俺が嗜好する侘び数寄の理想とは全くかけ離れた別物と言える。<br><br>侘び数寄、と言うものもなかなか言語化しづらいのだが、例えて言うなら狭い薄暗い茶室で、モノトーンの幽玄空間に冴えた茶の緑を前にする緊張感…とでも言うかな。投げ込み花器に一輪だけ活けた侘び助椿の印象…何の飾り気も無い床の壁に掛けたなら、どんな国宝の掛け軸より映えるのだ。残念ながら俺はまだ訪ねる機会が無いが、京都にある利休居士の草庵茶室、「待庵」のコンセプトこそ正にそれだ。<br>だがまぁ、数寄者と言うのは有り難がって茶のみ啜っておる趣味ではない。釣り道楽がいれば懐石の膳に楽しみが増え、歌詠み、俳諧師は風流を愛で、音曲の才は場を和ませる。そんな風に、数寄は昔も今も総合芸術…とあまり力み返るのも無粋なのだけれども。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151221/13/jhonah/2e/4a/j/o0240043213517558794.jpg"><img width="240" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151221/13/jhonah/2e/4a/j/o0240043213517558794.jpg"></a><br><br>ともあれ、武家、町衆の別なく、酒宴のどんちゃん騒ぎも時には良いが、今少し精神を研ぎ澄まして「美」と言う事象と向き合う事が茶の湯の楽しみなので。侘び寂びと言うものは正に日本の国風であって、外国人に説明するのが最も難しい美意識であろう。<br>狭い海峡を隔てた隣国の人々ですら、俺たちが至宝として美術館で眺める高麗井戸茶碗を、田舎の民家で使う日用品の土器だとあざ笑うのだから…。<br><br><br>
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<pubDate>Mon, 21 Dec 2015 13:29:00 +0900</pubDate>
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<title>茶の湯の美学</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151219/10/jhonah/96/ff/j/o0800043313515605142.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151219/10/jhonah/96/ff/j/o0800043313515605142.jpg"></a><br><br>まぁ、何はともあれ…。<br><br>このご時世に暇つぶしなんぞと言うのも語弊はあるのだが。<br>近ごろ以前にも増して数寄心を追いかけ回している。…何を言っておるかと申さば、詩歌・管弦・絵画に茶の湯、キチガイの馬鹿げた幽霊話に付き合うのも、こうした風流や粋を愛でる趣味が根底にあると言うわけなのだ。<br><br>良いではないか。俺は大真面目に数寄者をやろうと思っている。不粋なオヤジなどと言われたくないし、そんな事を言おうものなら出かけて行って殴ってやる気でいる。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151219/10/jhonah/71/86/j/o0400030013515615578.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151219/10/jhonah/71/86/j/o0400030013515615578.jpg"></a><br><br>…とは言え、人には分と言うものがあるのは重々承知している。<br>先日、鎌倉の茶人から季節の茶菓子が届いたのだが、俺は実はこの菓子の値段を知っている。俺のような者が普段、番茶を啜りながら食うべき物ではない。また俺の趣味嗜好にも全くそぐわない。侘びた見かけに慢心を包んだが如く、正直に言って美味くない。<br><br>まぁ、出す場所と贈る者を間違えたのであって、これが皇室御列席の茶事に供されるなら十分映えるであろう。<br>言っておくが俺は侘び数寄を追う者なのだ。TPOにもよるが、どちらかと言えば絢爛豪華を嫌うタイプの人間である。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151219/10/jhonah/14/1b/j/o0554033713515633162.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151219/10/jhonah/14/1b/j/o0554033713515633162.jpg"></a><br><br>例えば、これなどは本膳料理と言って元々武家の饗応料理なのだが、今日では婚礼などハレの宴席で用いられる。<br>本来的には杯の上げ下げから箸を付けるタイミングまで細かな作法があるのだが、今はそう言う武家社会でもなく最低限の常識だけわきまえておれば楽しめる。<br>要するに派手なものは派手なもので使いようなのだ。…だがまぁ、俺個人は例えば稽古であっても書院での大寄せ風の茶事は好かん。できれば師匠とマンツーマンの草庵茶事が好きだ。<br>ついでに言うと…これを偏見ととられては困るのだが…俺は女の点前を美味いと思った事が無い。事実そうなのだから仕方がない。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151219/11/jhonah/22/ff/j/o0800043313515647355.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151219/11/jhonah/22/ff/j/o0800043313515647355.jpg"></a><br><br>…で、まぁ…。<br><br>草庵もどきの自室には火鉢も風呂も置かないから、台所で沸かした湯をコーヒーケトルで持ってきて自分点前で気楽に茶を点てる。菓子も今の時期なら、ゆず味噌を甘く作って小麦粉を焼いた皮に塗って巻き、利休居士の麩の焼めいたものをこしらえるのが気に入っている。<br>これぞ俺の身の丈に合った茶であって、腹が減っているならこんな一汁一菜を、俺は客にでも出す。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151219/11/jhonah/ee/57/j/o0648048613515660283.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151219/11/jhonah/ee/57/j/o0648048613515660283.jpg"></a><br><br>利休に宗二、織部に遠州…。だが今俺は、やり過ぎてもはや笑ってしまうひょうげた茶人、丿貫(へちかん)の侘び数寄に興味深々なのだ。ヘヘヘ。知らねばググれ♪<br>
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<link>https://ameblo.jp/jhonah/entry-12107916821.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Dec 2015 10:10:32 +0900</pubDate>
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<title>物好きの食卓</title>
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<![CDATA[ <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151203/22/jhonah/99/ab/j/o0230017213501669334.jpg"><img width="230" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151203/22/jhonah/99/ab/j/o0230017213501669334.jpg"></a><br><br>俺と言う男はガラッパチでぶっきらぼうで、お世辞にも人好きのする人間ではない。<br><br>それでもまぁ道楽は一人前に多いのだ。そんな中でも食道楽が俺の看板のようになっていて、こう言うSNSでもよく食い物の話をする。<br>だが食道楽と言ったって彼の魯山人翁や小津安二郎監督のような粋な美食家なんぞではない。第一そんな贅沢ができるご身分でもなし。安価な蕎麦屋や中華料理屋、はたまた焼き鳥屋にメキシコ料理など…まだまだあれこれあるのだが、何しろ酒呑みだからそれに見合った量と、後は雰囲気を食わせる店に行く。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151203/22/jhonah/cf/db/j/o0500037413501715301.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151203/22/jhonah/cf/db/j/o0500037413501715301.jpg"></a><br><br>だからその時間帯やその日の気分で風情を味わう。下手な話、俺は別に体力勝負の仕事をやるわけでもないから食事は一日朝夕の二度でたくさんなのだ。またあんまり空腹の時に呑むと酒の味が卑しくなると思っている。まぁ欧米人のような食後酒党ではないが、英国人のように午後の茶で点心を摘んで夜の巷を呑み歩く事はある。<br>以前はものを味わうと言う分別も無く一端の顔をしてラヲタを気取ったものだが、どうもラーメンも味の流行りで豚骨が流行れば右へ倣え、それ今度は鶏白湯だと何処へ這入っても大同小異、どんぐりの背比べに付き合わされるなど馬鹿馬鹿しい。同じマンネリなら立ち食い蕎麦屋で江戸以来の蕎麦喰いの真似事でもする方がよっぽど趣味人である。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151203/23/jhonah/80/35/j/o0448033613501753474.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151203/23/jhonah/80/35/j/o0448033613501753474.jpg"></a><br><br>斯くして、呑み歩き食い歩きもそうそう頻繁では家計が傾く。そこで味を覚えて来たならば、家でフライパンを振り回すのも楽しみの一つで。<br>それはもちろん板場の玄人のようには行かぬものの、そこは俺なりの工夫やら家族に振る舞う事を楽しむ。何しろ趣味でやる食い道楽なわけで大喰らいの延長ではない。ましてや俺は料理を生業にしている者ではない。美味いものを作りたいのも美味いものに出会いたいのも、書画・芸術を愛でる気持ちと同等なのだと俺は思っている。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151204/00/jhonah/f5/cb/j/o0711053313501785989.jpg"><img width="400" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151204/00/jhonah/f5/cb/j/o0711053313501785989.jpg"></a><br><br>生き難い世の中だが、酒肴を楽しむ隙間くらいは残っている。見方を変えれば日々是好日。今はこれで良しとせよ。<br><br><br>
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<pubDate>Thu, 03 Dec 2015 22:04:47 +0900</pubDate>
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