<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>縄文杉の50年</title>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/jomonsugi50y/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>屋久島の森の奥で縄文杉が見つかって今年で50年になる。悠久の歴史を刻んできた1本の大樹の発見は、収奪の対象でしかなかった森に、人間が新たな価値を見いだす出発点となった。保護運動から世界自然遺産登録、登山観光の盛衰に至る半世紀の歩みをシリーズで紹介する。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>「縄文杉の50年　森を守る」⑩ 　【１９９９　最後の闘い 】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/1f/85/p/o0563044013650649435.png"><img width="220" height="172" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/1f/85/p/o0563044013650649435.png"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月18日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">屋久島の西端に「緑のトンネル」が続いている。深い森から差し込む木漏れ日を浴びて、道端でサルがたわむれる。島で唯一、高山から海まで世界遺産の森が広がる西部林道地域だ。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>　１９８２年に瀬切川上流の伐採が止まり、ひとまず、ヤクシマザルの森は守られた。ところが、９３年の世界遺産登録を目前にして、県が林道の拡張計画を発表する。</p><p>&nbsp;</p><p>　「道幅が広がれば、連続する植生が分断され、垂直分布の価値が損なわれる」</p><p>&nbsp;</p><p>　元京都大学霊長類研究所の東滋（８１）らサルの研究者たちは反対だった。約１０キロの間にトンネル２本と橋３本が建設され、大型バスも走らせる計画なのだ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/67/9e/p/o0700046813650649600.png"><img width="420" height="281" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/67/9e/p/o0700046813650649600.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">西部林道の脇で寝そべるヤクシマザル＝屋久島町</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　初めて東が島を訪れたのは６４年。野生ザルの調査地を南九州で探したが、どこも伐採で森が消えていた。期待して屋久島へ足を延ばしたが、「痛々しい」皆伐が進んでいた。そして、最後にたどり着いた島西部で、手つかずの原生林に出会った。</p><p>&nbsp;</p><p>　当時は車道がなく、猟師と一緒にワナを仕掛けた「シカ道」を歩いた。すると思わぬ光景に出くわした。サルが猟師に近づいてくるのだ。本土のサルはすぐに逃げるが、島ではワナ猟なので、人間への警戒心が薄いことが分かった。</p><p>&nbsp;</p><p>　それまで、餌づけをして野生ザルの調査をしていたが、群れの個体数が増えるなどの問題があった。より自然な形で観察するには、人間に慣れさせる「人づけ」が必要だった。</p><p>&nbsp;</p><p>　「真の野生ザルの調査は屋久島でしかできない」</p><p>&nbsp;</p><p>　本格的な調査は６７年から開始。毎夏、十数人の若い研究者が島で合宿をした。７０年代には、丸橋珠樹ら京大院生が人づけによる群れの調査方法を確立。森が豊かなため、多くの群れが暮らせる屋久島での研究成果は、高い評価を受けた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/6e/e1/p/o0700046913650649773.png"><img width="420" height="281" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/6e/e1/p/o0700046913650649773.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">未舗装の西部林道を歩くヤクシマザル＝1970年代、丸橋珠樹さん提供</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　一方、県は林道の拡張計画について、「エコロード」として理解を求めた。既存の道を基本に、大工事が必要な急カーブやけもの道が横断する場所にはトンネルや橋を建設して、自然を保護するという。</p><p>&nbsp;</p><p>　しかし、それ以前の県道工事を見てきた丸橋は信じなかった。拡張によって、巨大なコンクリートの法面（のり・めん）ができたり、土砂で谷が埋められたりして、道が原生林を分断していた。</p><p>&nbsp;</p><p>　そこで日本霊長類学会長の伊谷純一郎（故人）に執筆を頼み、１本の論考を朝日新聞「論壇」（９４年５月２７日付）に投稿する。「屋久島の道路拡張は再考を」と題して、計画を「連続植生帯への介入」と批判、「大型車両を通すか否かは、屋久島の将来の岐路だと私は考える」と訴えた。</p><p>&nbsp;</p><p>　京大の研究者として、５２年に初めて屋久島に分け入った伊谷の論考は反響を呼び、環境庁（当時）内では慎重論が出始めた。さらに国際霊長類学会が日本政府に要望書を提出。それを知ったユネスコ（国連教育科学文化機関）の世界遺産センターは、「適切な環境アセスメントの実施が必要」との見解を示した。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/fb/0b/p/o0700035013650649873.png"><img width="420" height="210" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/fb/0b/p/o0700035013650649873.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">サルの観察ガイドブックの出版を記念して、屋久島の人たちと</font><font size="2">記念</font><font size="2">撮影</font></span></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">をする京都大などの研究者たち＝1995年撮影、長井三郎さん提供</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　観光に依存する島にとって、大型バスが周遊できる県道は魅力的だった。一方、世界遺産の島という自覚も求められた。やがて、島内でも拡張反対の声が次々と上がり、９９年に県は計画を撤回。その後、環境省は西部林道の周辺を国立公園の中で、最も開発規制が厳しい特別保護地区に指定した。</p><p>&nbsp;</p><p>（敬称略）</p><p>&nbsp;</p><p>　　　　　◇</p><p>　半世紀前、消えゆく運命にあった屋久島の原生林は、縄文杉の発見で救われた。島出身の青年や研究者らの熱意で、その森は守られ、やがて世界遺産になる。しかし、登録後に急増した観光客の影響などで、再び屋久島は受難の時代を迎えることになる。（この連載は屋久島通信員・武田剛が担当しました）</p><p>&nbsp;</p><p>　　　　　◇　　　　　</p><p>　第１部は今回で終わります。続いて第２部「森を伝える」（６月）、第３部「森との共生」（８月）を予定しています。</p><p>&nbsp;</p><p>《朝日新聞デジタル》</p><p><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470010.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470010.html</a></p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/68/26/j/o0800091513650650004.jpg"><img width="1200" height="1372" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/10/jomonsugi50y/68/26/j/o0800091513650650004.jpg"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12162182708.html</link>
<pubDate>Fri, 20 May 2016 10:09:32 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年 森を守る」⑧【１９９３　世界遺産登録】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/81/61/p/o0569045013650640441.png"><img width="220" height="174" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/81/61/p/o0569045013650640441.png"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月16日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p>&nbsp;</p><p>「日本初自然遺産の島」</p><p>&nbsp;</p><p>屋久島の玄関口・宮之浦港に着くと、そう記された大きな岩が出迎えてくれる。１９９３年のユネスコ（国連教育科学文化機関）世界遺産登録を記念して建てられた石碑だ。</p><p>&nbsp;</p><p>「世界遺産が知られていない時代で、島では反対の声が多くて大変でした」</p><p>&nbsp;</p><p>県環境政策課長として登録への道筋をつけた小野寺浩（６９）＝現・屋久島環境文化財団理事長＝は当時、島に８０回通い、登録の意義を説明した。「開発の規制は？」「補助金は？」。島民の不安や疑問は多く、町議たちに糾弾されることもあった。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/8a/0e/p/o0700046713650640561.png"><img width="420" height="280" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/8a/0e/p/o0700046713650640561.png"></a></p><p style="text-align: center;"><font size="2"><span style="font-weight:bold;">登山道に立つ「世界自然遺産地域」を示す看板＝屋久島町</span> </font></p><p>&nbsp;</p><p>登録への動きは９１年４月、県が発案した「屋久島環境文化村構想」の懇談会で始まった。「共生と循環」をテーマに、将来の屋久島の在り方を議論する中で、委員の一人で当時、国立公園協会理事長だった大井道夫（故人）が言い出した。「屋久島を世界遺産にしよう」。</p><p>&nbsp;</p><p>小野寺は驚いた。自分の出向元が環境庁（当時）とはいえ、県の課長で世界遺産登録の準備ができるのか。世界遺産条約は７２年にユネスコ総会で採択され、７５年に発効したにもかかわらず、日本はまだ条約を批准すらしていなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>一方、自信もあった。自然保護官や旧国土庁の仕事で知床や富士山など全国の自然を見てきたが、屋久島は「別格」だった。屋久杉や照葉樹の原生林は、世界遺産の価値が十分にあると思っていた。</p><p>&nbsp;</p><p>懇談会は、自然環境の問題に造詣（ぞう・けい）が深い哲学者の梅原猛（９１）、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一（故人）ら「破格のメンバー」が委員だった。鹿児島市や屋久島などで計６回開催。うち２回は東京で開き、集まった２００人以上の聴衆の中には、各省庁の官僚の姿もあった。そして委員らが関係省庁に島の魅力を訴えた結果、９２年に条約加盟が実現する。</p><p>&nbsp;</p><p>そして翌年１２月、屋久島は白神山地（青森・秋田）と共に世界自然遺産に登録されることが決まった。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/c8/6d/p/o0520070013650640688.png"><img width="220" height="296" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/c8/6d/p/o0520070013650640688.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">世界遺産への登録が決まり、旧上屋久町役場には登録を</font></span></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">祝う</font><font size="2">垂れ幕が掲げられた＝1993年12月撮影、屋久島町提供</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>決定の知らせを受け、旧上屋久町役場には登録を祝う垂れ幕が掲げられた。花火が打ち上げられ、町内放送では「町民こぞってお祝いしましょう」と流れた。</p><p>だが、一般の島民は冷めていた。</p><p>&nbsp;</p><p>「何それって感じでした」。８７年から島で暮らすガイドの松本毅（５８）＝現・屋久島観光協会長＝は、マスコミの取材で初めて世界遺産を知った。登録後は取材陣が押し寄せたが、制度の内容が分からず、コメントできなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、取材を受けるうちに観光客からの問い合わせも増え始めた。仲間と運営する屋久島野外活動総合センターでは、当時から「エコツアー」と称して、森を案内していた。新聞で「自然と共生する新しい観光」と紹介されると、切り抜きを持って訪れる観光客も出てきた。</p><p>&nbsp;</p><p>２年後、島を訪れる観光客は２５万人を超え、その自然美は広く知られていく。</p><p>&nbsp;</p><p>垂直分布や樹齢千年を超える屋久杉の森など、世界遺産に登録されたのは島全体の約２割だ。「屋久島を守る会」などが伐採の反対運動を続け、最後にかろうじて残った原生林である。</p><p>&nbsp;</p><p>当時を振り返って、小野寺は言う。「屋久島が世界遺産になったのは、あの森と自然の力だが、同時に日本初を受け入れようとした島の人たちの勇気に感動する」</p><p>&nbsp;</p><p>（敬称略）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">《朝日新聞デジタル》</p><p style="text-align: left;"><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470009.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470009.html</a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/c3/7f/j/o0800149513650643825.jpg"><img width="1200" height="2242" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/c3/7f/j/o0800149513650643825.jpg"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12162178369.html</link>
<pubDate>Fri, 20 May 2016 09:52:26 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年 森を守る」⑧【１９８３　スター誕生】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/cf/08/p/o0560047013650633370.png"><img width="220" height="185" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/cf/08/p/o0560047013650633370.png"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月14日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: right;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">「縄文杉を切ってほしい」</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>　そんな気は全くないが、「屋久島を守る会」の長井三郎は、東京で訴えた。一本の有名な大樹よりも、広大な原生林を守ることの方が大切だと考えたからだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　ところが、長井の発言は「縄文杉伐採論」として知られるようになる。人寄せパンダのように縄文杉に登山客が集中して、周辺の森の環境破壊を心配する声が高まったからだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　一枚のポスターが、きっかけの一つになった。筋骨隆々とした縄文杉の幹に、セーラー服姿の女子高生が手を添えて、ポツンと寄り添う。下には、太い文字で「７２００歳です。」。</p><p>&nbsp;</p><p>　１９８３年に旧環境庁が制作した環境週間のポスターだ。全国の駅や役所といった公共スペースに貼られ、縄文杉は「スター」になる。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/87/3d/p/o0700098813650633930.png"><img width="220" height="311" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/87/3d/p/o0700098813650633930.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">セーラー服姿の女子高生と「7200歳です。」で話題になった縄文杉のポスター</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　「水っぽい、ねっとりとした幹で、かさかさと見える今の縄文杉とは違いました」</p><p>&nbsp;</p><p>　屋久島高校の生徒で、モデルになった川東かな子（５０）は、生き生きとした幹の感触を覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>　ポスターが貼られると、話題になった。当時は映画「セーラー服と機関銃」が大ヒットした後で、主演の薬師丸ひろ子をもじって、「屋久杉丸ひろ子」とちゃかされた。島の知名度も上がった。高校を卒業して東京で就職すると、「自然の豊かな島から来たのね」と言われ、誇らしかった。</p><p>&nbsp;</p><p>　「７２００歳です。」という表現も話題を呼んだ。九州大学の研究者が推定した樹齢だが、有名になると疑問の声が上がった。そこで、林野庁が放射性炭素年代測定法で調査すると、結果は「２１７０歳」に。腐食によって幹の中が空洞になっていて、最も古いサンプルが採れなかったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　ポスター効果で年間６万人だった観光客は、９０年には１０万人に。そのうち、１万人が縄文杉まで登った。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/fc/63/p/o0464070013650634099.png"><img width="220" height="332" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/fc/63/p/o0464070013650634099.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">1982年の高校総体で、手をつないで縄文杉を囲む高校生たち＝屋久島町提供</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　そんな中、縄文杉までロープウェーを建設する計画が浮上する。川崎製鉄が「７０００年のタイムカプセル　太古の中の体験型リゾート基地」と銘打った観光開発構想をまとめたのだ。林道終点から縄文杉までを結び、周りに展望台やレストランなどを建てる計画だった。</p><p>&nbsp;</p><p>　「ロープウェーで年間に１０万人が訪れたら、縄文杉は根を踏み荒らされて、すぐに枯れてしまう」</p><p>&nbsp;</p><p>　再び、守る会の兵頭昌明（まさ・はる）たちは反対運動を展開した。旧上屋久町長は経済の振興を掲げて推進したが、新聞報道などで批判が高まり、ほどなく計画は撤回される。</p><p>&nbsp;</p><p>　一躍、縄文杉が有名になっていく中、８７年に第一発見者の岩川貞次が亡くなる。８３歳だった。</p><p>&nbsp;</p><p>　「いつも少数派だった守る会の側に立ってもらい、大きな存在でした」</p><p>&nbsp;</p><p>　公開討論会でも一緒に闘ってくれた岩川を、兵頭たちは「貞次おじ」と呼んで慕った。会の集まりがあると、「あれは縄文杉じゃない、大岩杉だ」が口癖で、一本の巨木だけに脚光が当たることを憂えていた。そして、いつも最後にこう言った。</p><p>&nbsp;</p><p>　「大岩杉（縄文杉）より、もっと大きな万年杉を知っちょるが、おいは誰にも言わん」</p><p>&nbsp;</p><p>（敬称略）</p><p>&nbsp;</p><p>《朝日新聞デジタル》</p><p><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470008.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470008.html</a></p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/5d/70/j/o0800098913650634264.jpg"><img width="1200" height="1483" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/5d/70/j/o0800098913650634264.jpg"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12162174822.html</link>
<pubDate>Fri, 20 May 2016 09:38:47 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年 森を守る」⑦【１９８２　伐採ストップ】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/4b/68/p/o0572044713650622169.png"><img width="220" height="172" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/4b/68/p/o0572044713650622169.png"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月13日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">世界遺産か否か――。その運命を分けた谷がある。屋久島の西部を流れる瀬切川だ。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>　上空から見ると、谷の左には高山から海まで世界遺産の森が続く。一方、右の斜面には、伐採後の人工林が濃い緑となって広がり、まるで虫食い跡のようだ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/5a/f4/p/o0700045613650622306.png"><img width="420" height="274" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/5a/f4/p/o0700045613650622306.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">瀬切川（中央）を挟んで右側の斜面は、濃い緑色の人工林に覆われている。</font></span></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">川の左側は世界遺産に登録されている＝5月12日、屋久島町、本社機から</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　その伐採に気づいたのは、ヤクシマザルの調査を続ける京都大学の研究者たちだ。群れを追って上流域を歩く度に、斜面の緑をなめるようにむしり取る皆伐が進んでいた。</p><p>&nbsp;</p><p>　「この伐採が谷を渡って広がれば、サルも生きる原生林が消えてしまう」</p><p>&nbsp;</p><p>　１９７０年代半ば、島に「移住」してサルを追っていた京大院生、丸橋珠樹（６３）＝現・武蔵大教授＝は、危機感を募らせていた。現場で作業員と話すと、「自分の山だったら、こんな乱暴な伐採はしない」と言っている。</p><p>&nbsp;</p><p>　島一円に皆伐が広がる中、西部は「最後のとりで」だった。だが、周辺に集落がないため、島民は気づいていない。丸橋と同じ院生の山極寿一（６４）＝現・京大総長＝らは「屋久島を守る会」に、「瀬切の森を残したい」と訴えた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/eb/70/p/o0700046713650622468.png"><img width="420" height="280" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/eb/70/p/o0700046713650622468.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">屋久島西部を流れる瀬切川。川の</font></span><span style="font-weight:bold;"><font size="2">左側は世界遺産に登録されている＝4月、屋久島町</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　守る会は、柴鉄生（てっ・せい）に加え、兵頭昌明（まさ・はる）の議員２人を旧上屋久町議会に送り込んでいた。保護を求める研究者の請願を採択したり、林野庁と交渉を重ねたりしたが、伐採計画は変わらなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>　手詰まり感が漂う中、守る会は生態学者の助言で、標高０メートルから２千メートルまで続く「植生の垂直分布」という言葉に出会う。西部の森は、標高に従って温かい沖縄から寒い北海道までの植物が連続して分布する、世界的にも貴重な原生林だというのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　「直感で、これは使えると思った」。８２年２月、「垂直分布」の保護を訴えるため、兵頭ら４人が東京へ向かった。国会議員や文化人、自然保護団体などに島の窮状を伝え、「国を動かす」のが狙いだった。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/09/10/p/o0700048013650622666.png"><img width="420" height="288" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/09/10/p/o0700048013650622666.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">視察で瀬切川上流の山に立つ兵頭昌明さん（左）と長井三郎さん＝1981年撮影、兵頭さん提供</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　早稲田大学を卒業後、７５年に故郷の島に戻った長井三郎（６５）も、代表として訴えた。しかし、反応はいま一つ。有名な縄文杉だけに注目が集まり、「垂直分布」への関心は薄かった。</p><p>　そこで、長井は「垂直分布」の大切さを強調するため、思い切って言った。</p><p>&nbsp;</p><p>　「瀬切の森を切るより、縄文杉を切って下さい。それほど貴重な森なのです」</p><p>&nbsp;</p><p>　そう迫ると、議員たちの顔色が変わった。後に環境庁長官になる岩垂寿喜男（故人）ら複数の議員が国会で質問に立ち、瀬切の森を守るよう国に訴えた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/b9/a0/p/o0700049313650622765.png"><img width="420" height="296" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/b9/a0/p/o0700049313650622765.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">伐採反対を訴える「屋久島を守る会」のチラシ</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　翌３月、町議会で最後の闘いに臨んだ。伐採計画は地元の意向を踏まえて決まる。保護を訴える多数の請願も出ていたが、町長は継続を主張。審議をする委員会の過半数も反対だった。</p><p>&nbsp;</p><p>　窮した委員長の柴は、休憩を取る。すると兵頭が助け舟を出した。前年に採択した研究者の請願を持ち出し、「同じ内容の請願で違う結論は許されない」と、各委員を説得したのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　結果、保護の請願は本会議で採択された。それを受け、国は瀬切川右岸の上流域を国立公園に指定。全島で屋久杉の伐採が止まった。</p><p>&nbsp;</p><p>（敬称略）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">《朝日新聞デジタル》</p><p style="text-align: left;"><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470007.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470007.html</a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/25/0a/j/o0800101313650622975.jpg"><img width="1200" height="1518" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/09/jomonsugi50y/25/0a/j/o0800101313650622975.jpg"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12162170304.html</link>
<pubDate>Fri, 20 May 2016 09:21:27 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年 森を守る」⑥【１９７９　大自然の反乱】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/91/09/p/o0563044413650611763.png"><img width="220" height="173" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/91/09/p/o0563044413650611763.png"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月11日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">ウミガメの産卵地として知られる永田浜は、２本の川によって、白い砂浜を保ってきた。名峰・永田岳（１８８６メートル）を水源とする永田川は、花崗岩（か・こう・がん）のプールが広がる横河渓谷など、清流をたたえる景勝地だ。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>　一方、すぐ東隣を流れる土面川は、３５基もの治山ダムで人工的に固められている。上流には土砂崩れの跡が見られ、河原の堰堤（えん・てい）には大量の土砂が堆積（たい・せき）。まさに「満身創痍（まん・しん・そう・い）」の川だ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/f6/ad/p/o0700046713650611964.png"><img width="420" height="280" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/f6/ad/p/o0700046713650611964.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">土面川に設置された治山ダム＝４月、屋久島町の永田地区</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　「昔の土面川は森に包まれた美しい流れで、テナガエビやウナギを捕って、よく遊んだもんだ」</p><p>&nbsp;</p><p>　永田集落で生まれ育った日高重喜（９０）は、コンクリートの河原を見つめながら、子どものころを懐かしんだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　１９７９年９月３０日未明、台風１６号による大雨で、「神河（かん・ご）」と呼ばれた清流は、土石混じりの濁流に変貌（へん・ぼう）した。</p><p>&nbsp;</p><p>　「ズッドーン」。地響きとともに、大量の泥水が寝室に流れ込み、跳び起きた。胸まで水につかり、妻と息子の３人で手をつないで逃げようとするものの、水圧で玄関の戸が開かない。息子が何度も蹴って戸を破ったが、外も急流だった。流れに足を取られる妻を２人で抱え、高台へ逃れた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/5c/2d/p/o0700046113650614091.png"><img width="420" height="277" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/5c/2d/p/o0700046113650614091.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">土面川（写真上）の氾濫で被害を受けた永田集落＝1979年9月30日、大山勇作さん撮影</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　辺りを見渡すと、目を疑う光景が広がっていた。土砂が河口をせき止め、逆流した永田川からあふれ出た水が、津波のように集落をのみ込んだ。幸い犠牲者は出なかったが、約２０軒が流失や全壊などの被害に遭い、２００軒以上が浸水した。</p><p>&nbsp;</p><p>　「上流で続くパルプ材の伐採が原因だ」とすぐに思った。皆伐で次々とハゲ山になる急斜面を見て、不安を感じていた。現場にも足を運び、木の根などの伐採くずが川に捨てられ、川底にたまっているのも確認していた。</p><p>&nbsp;</p><p>　同じ永田で暮らす旧上屋久町議の柴鉄生（てっ・せい）（７３）らが中心となり、伐採の中止を求めて、地区住民の署名を集めていた。しかし、陳情先の林野庁に「相手にされなかった」という。</p><p>&nbsp;</p><p>　「自然災害ではなく、伐採による人災だった」</p><p>&nbsp;</p><p>　専門家による調査を踏まえ、柴は確信した。そして、災害から３年後、被災した住民が国を相手取り、損害賠償を求めて、提訴した。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/67/4b/p/o0700046713650614496.png"><img width="420" height="280" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/67/4b/p/o0700046713650614496.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">コンクリートで固められた土面川の河原＝４月、屋久島町の永田地区</font></span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　住民側は、森林伐採で地盤が緩んだために山地崩壊が起き、土石流が発生したと主張。これに対して、国側は、災害は異常豪雨によるもので、伐採との因果関係はないと反論した。</p><p>&nbsp;</p><p>　「現場の作業員も証言したが、内容はウソばかり。国が信じられなくなった」</p><p>&nbsp;</p><p>　原告団長として法廷に通い続けた日高は、悔しげに振り返る。最高裁まで争ったが、裁判所は「予想できない豪雨の来襲」「不可抗力の自然現象（深層崩壊）」として、住民側の請求をすべて棄却した。</p><p>&nbsp;</p><p>　敗訴こそしたものの、大きな成果を得た。土面川上流の伐採が止まったのだ。伐採が永田川に及ぶことはなく、天然の清流は守られた。</p><p>&nbsp;</p><p>（敬称略）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">《朝日新聞デジタル》</p><p style="text-align: left;"><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470006.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470006.html</a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/2e/6c/j/o0800098013650614667.jpg"><img width="1200" height="1469" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160520/08/jomonsugi50y/2e/6c/j/o0800098013650614667.jpg"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12161961324.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2016 18:05:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年 森を守る」⑤ 【１９７８　告発の映画】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/52/ed/p/o0561045313650125961.png"><img width="220" height="178" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/52/ed/p/o0561045313650125961.png"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月10日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">屋久杉の丸太や無残なハゲ山――。原生林の伐採を記録した１６ミリ映画のリールが、写真とともに押し入れの奥で眠っていた。伐採を告発する映画「屋久島からの報告」のフィルムだ。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>　「皆伐の惨状を全国に伝え、伐採を止めたかった」</p><p>&nbsp;</p><p>　「屋久島の自然を記録する会」の代表だった大山勇作（７２）が目を細め、リールのほこりを払った。</p><p>&nbsp;</p><p>　１９６０年代、製紙用のパルプ材にするため、伐採は人里近くまで広がった。県道から望む森までが、バリカンで刈られるように皆伐され、姿を消していた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/ff/87/p/o0700047813650126379.png"><img width="420" height="287" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/ff/87/p/o0700047813650126379.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">皆伐で「屋久杉の墓場」と化した山の斜面＝1970年代、大山勇作さん撮影</font></span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p>　屋久島高校の理科助手だった大山は、休みのたびに現場で写真を撮った。スライド上映会を開き、その惨状を伝えることを重ねた。</p><p>&nbsp;</p><p>　反対運動をする仲間うちで、映画の話が持ち上がった。試算すると、製作費は数百万円はかかりそうだった。資金を集め、製作に専念するため、「記録する会」を立ち上げた。</p><p>&nbsp;</p><p>　まずは１枚千円の前売り券を作り、島中の家を一軒ずつ訪ね歩いた。伐採現場の写真を見せて説明すると、想像以上に協力が寄せられた。島外も含め、７００万円が集まった。</p><p>&nbsp;</p><p>　「息子の仕送りで買ってくれる老人もいた。券を売ることで、伐採に対する住民の意識が高まりました」</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><img width="420" height="165" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/af/5c/p/o0700027513650127075.png"></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">映画「屋久島からの報告」のチケット</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　島民の追い風も受け、７６年に製作を開始。東京の制作会社も協力を買って出てくれた。ロケは２年間で計６回。会のメンバーが機材を担ぎ上げたり、民家を借りて自炊をしたりして、手弁当で撮影を進めた。</p><p>&nbsp;</p><p>　米国からも強力な支援があった。環境問題に取り組む人気カントリー歌手のジョン・デンバー（故人）に島の窮状を手紙で伝えた。すると、大ヒット曲の「太陽を背に受けて」と「緑の風のアニー」を、無償で使うことを了承してくれた。</p><p>&nbsp;</p><p>　７８年に完成した１時間弱の作品には、屋久島の「喜怒哀楽」が凝縮された。</p><p>&nbsp;</p><p>　苔（こけ）むした太古の森に生きるヤクシカやヤクザル、積雪が２メートルもある白銀の稜線（りょう・せん）――。太陽がやさしく降り注ぐようなメロディーに乗って、島の大自然の魅力をたっぷり紹介したあと、映像は一気に暗転する。</p><p>&nbsp;</p><p>　うなりを上げるチェーンソーの音とともに、生き生きとした大樹が次々切られていく。一本、また一本。最後は樹齢数千年の屋久杉に刃が向けられた。</p><p>&nbsp;</p><p>　「数千年も生きた屋久杉が切られるまで、たったの１７分。倒れる瞬間、幹の空洞から水が流れるのを見て、悲しくなりました」</p><p>&nbsp;</p><p>　東京から島に通い続けたカメラマンの杉浦誠（６９）は、「屋久杉の墓場」と化した斜面を歩き回り、巨木たちの最期を追い続けた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/9c/36/p/o0700051813650126722.png"><img width="420" height="311" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/9c/36/p/o0700051813650126722.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">映画「屋久島からの報告」のタイトルシーン</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　映画は島内に加え、東京や大阪などでも上映され、大きな反響を呼んだ。朝日新聞で「天声人語」を担当し、退社後に自然環境保全審議会委員などを務めた荒垣秀雄（故人）は作品を見て、自身の著作で痛烈に批判した。</p><p>&nbsp;</p><p>　「長い歴史の風雪に耐えてきた老樹巨木をこのように無造作に惜し気もなく伐（か）り倒すことは、歴史に対する冒涜（ぼう・とく）であり、大自然に対する反逆といわねばならぬ」</p><p>&nbsp;</p><p>（敬称略）</p><p>&nbsp;</p><p>《朝日新聞デジタル》</p><p><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470005.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470005.html</a></p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/d4/4c/j/o0800104213650127619.jpg"><img width="1200" height="1563" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/d4/4c/j/o0800104213650127619.jpg"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12161957544.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2016 17:52:28 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年 森を守る」④ 【１９７４　自然保護か生活か】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/f9/54/p/o0563045613650099983.png"><img width="220" height="178" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/f9/54/p/o0563045613650099983.png"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月9日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">屋久島の乱伐が全国に知れわたると、島には調査や視察が相次いだ。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>　１９６９年には林野庁が「屋久島国有林の自然保護に関する調査団」を派遣。荒川ヤクスギ観賞林（現ヤクスギランド）や花山学術参考保護林などが設置され、一部の原生林は保護された。</p><p>&nbsp;</p><p>　しかし、６４年に国立公園に指定された地域も含め、広大な原生林から見れば、それはわずかだった。白谷雲水峡近くの森では、小杉谷と同じように皆伐が進み、山は緑の衣を次々とはぎ取られていった。山奥の現場のそんな光景は、大半の島民の目に触れることはなかったが、「屋久島を守る会」の兵頭昌明（まさ・はる）たちは山を歩いて確認し続けた。</p><p>&nbsp;</p><p>　「一部の森を保護しても免罪符でしかない」</p><p>&nbsp;</p><p>　７４年、旧環境庁の自然環境保全審議会の視察団が来島した。守る会の約４０人は、「子孫に残そう、屋久杉原生林」と書いた横断幕を掲げ、港で出迎えた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/1b/38/p/o0700038513650100211.png"><img width="420" height="231" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/1b/38/p/o0700038513650100211.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">原生林の伐採現場を厳しい表情で見る視察団＝旧上屋久町の「広報かみやく」（1974年6月10</font><font size="2">日発行）より </font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　予定された視察先は豊かな森が残る白谷雲水峡など。伐採現場は含まれてもいなかった。柴鉄生（てっ・せい）ら守る会のメンバーは必死に訴えた。バスに乗る視察団を追いかけ、「私たちは即時全面伐採禁止を訴えています。ぜひ伐採現場を見てください」と、乗車口で声を上げ続けた。</p><p>&nbsp;</p><p>　訴えは視察団の心を動かし、宮之浦川上流域の伐採現場がコースに加わった。</p><p>&nbsp;</p><p>　現場に立った視察団は、一様に驚きと怒りをあらわにしたという。旧上屋久町の「広報かみやく」（７４年６月１０日発行）は、その声を次のように伝えた。</p><p>&nbsp;</p><p>　「国立公園特別保護区のみを残して、その隣接区は丸裸にしてしまう施業は、まったくの無神経。精神鑑定すべきだ」「急傾斜地をブルドーザーで削り、土砂を谷筋に流すだけで、防災、自然保護への配慮がまったく見られない」</p><p>&nbsp;</p><p>　伐採への逆風が増した。だが、林業従事者も黙ってはいなかった。仕事を守るために「屋久島住民の生活を守る会」を立ち上げ、伐採の継続を訴えた。</p><p>&nbsp;</p><p>　元上屋久町議で、生活を守る会を支援した安藤義之（８５）は悩んだ。島には林業関連の組合員が約１７０人いて、その他にも大勢の島民が林業で生活していた。</p><p>&nbsp;</p><p>「原生林は守るべきだが、即時伐採禁止は急すぎた。伐採で家族の生活を支えている島民がいることも、忘れてはいけなかった」</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/ef/e7/p/o0700039113650100360.png"><img width="420" height="234" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/ef/e7/p/o0700039113650100360.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">満員になった公開討論会の会場＝旧上屋久町の「広報かみやく」（1974年7</font><font size="2">月10</font><font size="2">日発行）より</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　審議会の視察後、両会は伐採の是非について、公開討論会に臨んだ。住民の関心は高く、会場には約５００人が押し寄せ、立ち見が出るほどだった。</p><p>&nbsp;</p><p>　出席者の９割を伐採継続派が占める中、柴らは「屋久杉は人工による再生が不可能であり、後世に残すべきだ」と主張。生活を守る会は「伐採や加工で生計を維持している人たちのことも考慮すべき」と反論した。</p><p>&nbsp;</p><p>　約３時間にわたる議論は、平行線に終わったが、兵頭は確信した。</p><p>&nbsp;</p><p>　「少数派だった自分たちが、この討論会で初めて表舞台に立った。あとは、しっかり正論を主張し続ければ、必ず結果が出る」</p><p>&nbsp;</p><p>（敬称略）</p><p>&nbsp;</p><p>《朝日新聞デジタル》</p><p><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470004.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470004.html</a></p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/12/65/j/o0800101313650110950.jpg"><img width="1200" height="1518" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/17/jomonsugi50y/12/65/j/o0800101313650110950.jpg"></a></p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12161946691.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2016 17:16:15 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年 森を守る」③ 【１９６９ 立ち上がる青年】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/a8/12/p/o0558045613650087192.png"><img width="220" height="180" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/a8/12/p/o0558045613650087192.png"></a></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月8日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: right;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　清流が花崗岩（か・こう・がん）を磨く音が心地よく響く。屋久島の景勝地、白谷雲水峡の森に入ると、ひんやりとして澄んだ酸素が体の隅々に染み込んでくる。樹齢３千年の「弥生杉」、幹が三つに分かれた「三本足杉」。原生の銘木が、悠久の世界へと訪れる人をいざなう。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>　「もし縄文杉が発見されなかったら、白谷の森も、消えていたかもしれない」</p><p>&nbsp;</p><p>　かつて、原生林伐採に反対して「屋久島を守る会」を立ち上げた兵頭昌明（まさ・はる）（７４）はそう語る。</p><p>&nbsp;</p><p>　発見のニュースを機に、東京や大阪などで伐採反対の声が次々と上がった。日本自然保護協会は、伐採によって「世界に誇るべき神秘的な屋久杉原生林は殆（ほとん）ど絶滅」するとして林野庁に皆伐計画の中止を陳情。日本学術会議も、政府に計画の見直しを勧告した。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/22/c7/p/o0700048013650087505.png"><img width="420" height="288" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/22/c7/p/o0700048013650087505.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">林道脇に積み上げられた屋久杉＝１９７０年代、大山勇作さん撮影</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　東京にいた島出身の青年も立ち上がった。気象庁で働く兵頭らを中心に、「原生林全面伐採禁止」を訴えて、反対運動を始めた。</p><p>&nbsp;</p><p>　きっかけは明治大学の学園祭で見た、屋久島の伐採問題についての展示だ。</p><p>&nbsp;</p><p>　「屋久島からすべての住民をどこかへ移住させなければ、この自然は守れない」。展示にあったこんな提言に言葉を失った。</p><p>&nbsp;</p><p>　「自分の故郷が、そんな風に見られているとは」</p><p>&nbsp;</p><p>　１９６９年夏、兵頭は島の声を聞くため、高校の後輩で法政大学の学生だった柴鉄生（てっ・せい）（７３）らと帰省。伐採に反対する３千枚のチラシを抱え、島中を歩いた。</p><p>&nbsp;</p><p>　だが、故郷は冷たかった。林業関係者から「山眺めて、めしが食えるか、ばか」とののしられた。昔の仲間からは「東京にいて何を言うか。島に帰ってきたら信用してやる」と言われた。</p><p>&nbsp;</p><p>　「このまま学生を続けたら、屋久島の森は消える」</p><p>&nbsp;</p><p>　柴は東京に戻ってから決心し、翌７０年に大学を中退して帰郷。１年後には、兵頭も１０年間勤めた気象庁を辞め、柴に続いた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/d4/cf/p/o0477070013650087802.png"><img width="286" height="420" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/d4/cf/p/o0477070013650087802.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">皆伐による原生林の伐採が進む山の斜面＝１９７０年代、大山勇作さん撮影 </font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　ところが、すぐには「伐採禁止」を叫べなかった。当時の屋久島は「林業の島」で、多くの島民が山の仕事をしていた。親しい知人も林業で暮らしを支えていた。</p><p>&nbsp;</p><p>　そこで柴は、７１年の旧上屋久町議選挙への立候補を決意した。２８歳、独身。現職の議長だった親族からは「お前の票はない」と言われた。それでも、兵頭や高校の仲間らの応援を受けて立った。</p><p>&nbsp;</p><p>　当時の選挙は血縁地縁が頼りで、候補者は選挙運動をほとんどしなかった。そんななか、柴はマイクを手に町中を回った。そのかいあって、当選した。</p><p>&nbsp;</p><p>　翌年、有志で「守る会」を結成した。建材業を営んでいた兵頭は、「屋久杉原生林即時全面伐採禁止」と書いた看板を配達のトラックに掲げ、島中を回った。柴は議会を奔走して、原生林の保護を訴えた。</p><p>&nbsp;</p><p>　少しずつ賛同の輪が広がり、７３年に町議会は「屋久杉原生林の保護に関する決議」を可決。国に伐採の中止を求めた。しかし、屋久杉は切られ続けた。（敬称略）</p><p>&nbsp;</p><p>《朝日新聞デジタル》</p><p><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470003.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470003.html</a></p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/dc/51/j/o0800101113650088337.jpg"><img width="1200" height="1516" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/dc/51/j/o0800101113650088337.jpg"></a></p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12161942019.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2016 17:00:35 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年　森を守る」②　【１９６６　大伐採時代】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><img width="200" height="153" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/1c/9e/p/o0560042813650075262.png"></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田 剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月5日付 朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">屋久島の山中、標高６６０メートルの森にかつて「都会」があった。食料品店や郵便局、診療所などが通りに並び、夜になると、各家庭の電灯が暗い森を照らした。大正末期から半世紀近くの間、屋久杉伐採の拠点だった小杉谷集落だ。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>縄文杉への登山道を進むと、集落にあった学校跡に出会う。子どもたちが走って遊び、踏み固めたためか、樹木は今も伸びない。苔（こけ）むした校庭跡の上には、広々とした空が見える。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/bd/1d/p/o0700046713650076061.png"><img width="420" height="281" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/bd/1d/p/o0700046713650076061.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">旧小杉谷集落の小中学校跡で休む登山者たち＝５月１日、屋久島町</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　集落のあった小杉谷周辺には「屋久島一の美林」があった。南東に開けた谷には温かな陽光が差し、北と南に連なる稜線（りょう・せん）が台風や季節風から森を守る。好条件が縄文杉や大王杉など、樹齢数千年の銘木を育んだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　美林の運命を大きく変えたのが、明治期の地租改正だ。島の森林の８割が国有林化され、島民は下げ戻しを求めて争ったが、１９２０年に敗訴。国は大規模伐採に向けて動き出す。</p><p>&nbsp;</p><p>　一方、島民の生活を安定させるために、翌年に「屋久島憲法」と呼ばれる屋久島国有林経営の大綱を制定。７千ヘクタールを住民が使える共有林とし、伐採事業で島民を優先的に雇用することなどを決めた。</p><p>&nbsp;</p><p>　２３年には島東部を流れる安房川に沿って、木材を港まで運ぶ安房森林鉄道が開通。沿線の小杉谷山中に営林署の事業所が開かれ、作業員や家族が暮らす集落が生まれた。</p><p>&nbsp;</p><p>　当初、樹齢千年を超す屋久杉の生立木（せい・りゅう・ぼく）は伐採が禁止された。ところが、第２次世界大戦時には禁が解かれ、軍用材の臨時伐採が始まる。戦後も朝鮮戦争の特需により、伐採が続いた。</p><p>&nbsp;</p><p>　続く高度経済成長期に入ると、木材の供給不足や価格の高騰が社会問題になる。新聞各社は「国有林の伐採制限の緩和を」「国有林は増伐を」などと社説で訴えた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/d4/97/p/o0700054413650075816.png"><img width="420" height="326" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/d4/97/p/o0700054413650075816.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">小杉谷で屋久杉の集材をする作業員たち＝昭和20年代、林野庁屋久島森林生態系保全センター提供</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　増産を迫られた林野庁は５７年、屋久杉の生立木の伐採を正式に解禁する。チェーンソーも導入され、山の斜面を丸裸にする皆伐方式によって、原生林を本格的に切り始めた。６６年、屋久島の国有林の伐採量は、１８万立方メートルとピークに達した。</p><p>&nbsp;</p><p>　６０年代、集落にある小杉谷荘の管理人だった両親と暮らしていた若松昭男（６３）は、こう振り返る。</p><p>&nbsp;</p><p>　「谷周辺の森は丸刈りのように切られ、ハゲ山だった。でも、当時は経済優先で、誰も問題にしなかった」</p><p>&nbsp;</p><p>　小杉谷中学時代、仲間と山登りをした。伐採の進んだ山に木陰は少なく、強い日差しで大汗をかいた。</p><p>&nbsp;</p><p>　現場の作業員も必死だった。「トロ乗り」と呼ばれる木材の運搬要員だった鎌田利夫（８２）は、トロッコに屋久杉を満載して急な軌道を港まで下った。</p><p>&nbsp;</p><p>　「トロッコを２連結するとブレーキの利きが悪くて怖かった。でも、営林署からは『もっと出せ、もっと出せ』とせかされて、やるしかなかった」</p><p>&nbsp;</p><p>　その分、賃金は良かった。出来高制で、多い月は１３万円。当時のサラリーマンの平均の約３倍だ。休日に町に出ると、一晩で２万円分、飲んだ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/59/96/p/o0700042613650076261.png"><img width="420" height="256" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/59/96/p/o0700042613650076261.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">小杉谷小中学校の運動会＝屋久島町立屋久杉自然館提供</font></span></p><p>&nbsp;</p><p>　小杉谷集落も繁栄した。５３年、安房川に発電所が完成するといち早く電気が通じ、最盛期の人口は５４０人に達した。小中学校には約１５０人が通っていた。</p><p>&nbsp;</p><p>　しかし、裕福な集落は、小杉谷事業所の閉鎖とともに７０年に閉じられる。半世紀に及ぶ伐採で、高価な屋久杉は切り尽くされた。作業員たちは島内の別の地域に移る。屋久杉に加え、パルプ材の原料となる広葉樹を切り続けた。（敬称略）</p><p>&nbsp;</p><p>《朝日新聞デジタル》</p><p><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470002.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470002.html</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/e6/d7/j/o0800134213650076658.jpg"><img width="1300" height="2179" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/16/jomonsugi50y/e6/d7/j/o0800134213650076658.jpg"></a></p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: right;">&nbsp;</p><p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12161936997.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2016 16:43:32 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「縄文杉の50年　森を守る」① 　【１９６６　「大岩杉」発見 】</title>
<description>
<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><img width="200" height="152" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/13/jomonsugi50y/b5/77/p/o0571043413649978345.png"></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">【朝日新聞屋久島通信員・武田　剛】</p><p style="text-align: right;">（2016年5月4日付　朝日新聞鹿児島版掲載）</p><p style="text-align: right;">&nbsp;</p><p>　</p><p>　標高１３００メートル。屋久島の山奥に立つ縄文杉に１日、大勢の登山客が集まった。今年新設された観察デッキでは、全容が見えるようになった大樹を背に、記念撮影の列ができる。この日の登山者は約６００人。毎年見られる大型連休の光景だ。</p><p>&nbsp;</p><p>　「高さ２５・３メートル、胸の高さの幹回り１６・４メートルで、世界最大級の杉です。樹齢は７２００年とも数千年とも言われる、太古の生き証人です」</p><p>&nbsp;</p><p>ガイドの菊池淑廣（よし・ひろ）（４６）が説明すると、ツアー客たちは巨木を見上げる。東京から訪れた男性客（５４）は「神々しい太い幹に圧倒されました。なんだか縄文杉に呼ばれたような気がします」と、汗をぬぐった。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/14/jomonsugi50y/81/3e/p/o0453070013649989057.png"><img width="200" height="309" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/14/jomonsugi50y/81/3e/p/o0453070013649989057.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">今年新設された縄文杉の観察デッキで記念撮影をする登山者たち＝１日、屋久島町</font></span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　登山者が往復１０時間も歩いて縄文杉に会いにくる。その数はこの２０年近くで累計１００万人を超えた。</p><p>&nbsp;</p><p>　そんな世界自然遺産・屋久島の「象徴」の存在は、つい５０年前まで誰にも知られていなかった。初めて、この太古の巨木に出会ったのは１９６６年５月２８日。旧上屋久町の元観光担当だった岩川貞次（故人）だ。</p><p>&nbsp;</p><p>　「小杉谷の奥に巨大な屋久杉があるらしい」</p><p>&nbsp;</p><p>　地元の猟師から、そんな噂（うわさ）を聞き、巻き尺を手に小杉谷周辺を探し歩いた。その日、谷の奥にある高塚山（１３９６メートル）中腹で登山道を外れ、２０メートルほど山側に潜り込んでみた。すると、深い茂みから、巨岩のような屋久杉が忽然（こつ・ぜん）と現れた。</p><p>&nbsp;</p><p>　岩川は、その巨木に「大岩杉」と名づけた。「大いなる岩のような木」の姿と、自分の名字の「岩」の字を重ねての命名だ。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/14/jomonsugi50y/5b/7b/p/o0496070013649992518.png"><img width="200" height="282" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/14/jomonsugi50y/5b/7b/p/o0496070013649992518.png"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">縄文杉を発見した岩川貞次さん＝１９６６年８月撮影、岩川貞之さん提供</font></span></p><table class="ThmbColTb"><tbody><tr><td class="Phot"><p style="text-align: right;">&nbsp;</p></td></tr><tr><td class="Rec2">&nbsp;</td></tr></tbody></table><div class="BodyTxt"><p>　下山した岩川は上機嫌だった。晩酌しながら「あったぞ」と嬉（うれ）しそうに話して、にんまり笑う姿を、中学生だった長男の貞之（６４）＝現・屋久島電工常務＝は今でも覚えている。喜怒哀楽をあまり顔に出さない父親が、満面の笑みを浮かべていた。</p><p>&nbsp;</p><p>　「大岩杉を観光の目玉にしたかったのでしょう」</p><p>&nbsp;</p><p>　当時、島には観光客が少しずつ訪れるようになっていた。港に船が着くと、のぼり旗を掲げて出迎えるのが岩川だった。</p><p>&nbsp;</p><p>　「大岩杉」発見の噂は、翌日には島中に広まった。その約半年後、南日本新聞の記者が現地取材に入り、翌６７年元日、１面を埋め尽くす特大の記事で、巨大杉発見のニュースを報じた。</p><p>&nbsp;</p></div><p>　元日の新聞は数日遅れで島に届く。待ちに待った岩川は両手を打って祈り、空を拝んで新聞を開いた。岩川の見つけた巨木の写真が紙面の半分以上を埋め、「生き続ける“縄文の春”」「推定樹齢四千年」の見出しが躍っていた。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/14/jomonsugi50y/97/6b/j/o0533070013649997747.jpg"><img width="220" height="289" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/14/jomonsugi50y/97/6b/j/o0533070013649997747.jpg"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-weight:bold;"><font size="2">縄文杉発見を伝える1967年元日の南日本新聞の紙面が、</font><font size="2">町立屋久杉自然館には大きく展示されている</font></span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p>　ところが記事には「大岩杉」の名も、発見者岩川の記述もなかった。結びにはこう記されていた。</p><p>&nbsp;</p><p>　「その一粒のタネが芽を出したころ、縄文時代であった。（中略）それは『縄文時代の郷土の、生きた確かな証人』である」</p><p>&nbsp;</p><p>　この記事をきっかけに、巨木はやがて「縄文杉」と呼ばれるようになる。</p><p>&nbsp;</p><p>　だが、島では「大岩杉」として親しまれた。貞之は「大岩杉」と墨で書いて作った銘板を手に、友人と登った。生い茂った草木の間から姿を現した巨木を、のけぞるようにして仰いだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　下山時は、屋久杉搬出に使われていた安房森林鉄道の軌道を歩いた。周囲の山腹は茶色の地肌をさらしていた。その異様な光景を、貞之は今も覚えている。</p><p>&nbsp;</p><p>　「大岩杉」が見つかった６６年、屋久島は伐採量として、最大値の１８万立方メートルを記録した。小杉谷では皆伐が進み、樹齢千年以上の屋久杉が次々と姿を消していた。（敬称略）</p><p>　　　　　◇　　　　　　</p><p>　屋久島の森の奥で縄文杉が見つかって今月で５０年になる。悠久の歴史を刻んできた１本の大樹の発見は、収奪の対象でしかなかった森に、人間が新たな価値を見いだす出発点となった。保護運動から世界自然遺産登録、登山観光の盛衰に至る半世紀の歩みをシリーズで紹介する。</p><p>&nbsp;</p><p>《朝日新聞デジタル》</p><p><a href="http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470001.html" target="_blank">http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20160518470470001.html</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20160519/13/jomonsugi50y/90/88/j/o0800131713649973867.jpg"><img width="1200" height="1975" contenteditable="inherit" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20160519/13/jomonsugi50y/90/88/j/o0800131713649973867.jpg"></a></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jomonsugi50y/entry-12161890346.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2016 14:58:04 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
