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<title>私小説の館へようこそ</title>
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<description>自らの体験をもとに、若干の脚色を加えて小説風にしたてています。お暇な方はどうぞ！</description>
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<title>「母の最期、父の最期」を終えて</title>
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<![CDATA[ <p>いかがでしたか？「母の最期、父の最期」は。</p><p>こうして過去を振り返ってみると、とてもつらかった日々が笑い話のように思えてきます。でも、当時は本当に大変でした。同じような苦労をした人もどこかにはいるのでしょう。</p><p>現在は次回作に向けての構想中です。来週にはアップできると思いますので、お楽しみに！</p><p>＜って誰も楽しみなんかしてないって？＞</p>
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<pubDate>Fri, 28 Oct 2005 20:47:13 +0900</pubDate>
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<title>その８　父の最期（最終回）</title>
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<![CDATA[ 　一週間で生活費を使い切るのが２週続いた。あと少しで貯金が無くなる。妻からこの現実は本人にわからせるしかないと通帳を返す提案。私も最後の警告ということで<br>「こんなんじゃ、うちで預かっていても意味がない。もう通帳は返すよ。」<br>「そうか、しょうがないな。」<br>１２月のことだった。父は通帳を受け取るとさびしそうに帰っていった。<br>　そうして連絡のない日々が続いて迎えた年の暮れ、父の隣人から電話が入る。<br>「もう１０時過ぎたんだけど、お父さん帰ってこないよ。」<br>その人とは３０年もの付き合いだ。その人がいてくれるおかげで父の一人暮らしが成立しているところもある。すぐに実家へ向かった。階段の踊り場で、その人と昔の話をしながら待った。最終バスが坂を上る音がして父の姿が見えた。父は別に変わったところもなく「何しに来たんだ？」と少し驚いていた。事情を説明し、無事ならばと別れを告げた。それが最後だった。<br>　年が明けた３日、その隣人から電話。<br>「今日、朝からお風呂場で水の出る音がしっぱなしなんだけど、見に行ってみてもいい？」<br>何かあったときのために鍵は預けてあった。そして電話を持った玄関を開ける。<br>「やだ！おじちゃん！…救急車！」<br>「ダメだよ、冷たいよ。警察呼ばないと。」<br>隣家のご主人が冷静に判断してくれた。警察への連絡を頼み、急いで駆けつけると、浴槽に父がいた。目を閉じて、なぜか少しホッとした表情。勝手な解釈かも知れないが、まるで母か祖母が迎えに来たかのように見えた。<br>　警察官はわりとすぐに来たが、検視官がなかなかこない。<br>「正月はお年寄りが亡くなることが多くて…」<br>いいか悪いか、しばらく世間話をしていると検視官到着。父は司法解剖のため警察病院へ。<br>「時間がはっきりしたら連絡しますが、直接葬儀場へ搬送します。」<br>と言うので連絡先を告げいったん自宅へ戻る。そして葬儀場へ行ってふたたびのご対面。葬儀屋との打ち合わせは２度目なので慣れたもの。もうその頃は父も交流が減り参列者はほとんど親戚だけ。通夜の夜は親戚の誰も残らなかったので子供たちが寝ると我ら夫婦二人きり。この８年を振り返った。<br>「なんだかんだ言ってお父さんがんばったよね。」<br>葬儀が始まる前に確認した父の通帳は残高が約２万円。これで今月をどう過ごそうとしていたのか。どうがんばったのか…<br>　葬儀後の後始末は母の時とは違った。二束三文とはいえ実家は相続手続きをとらなくてはならない。しかも、そこに住む気はないのだから売却を考えねば。その前に家の中を片付ける必要がある。３ＤＫの部屋にはいらない家具とゴミの山。母の時には目に付いたものを捨てただけだったが、今回は空にしなくてはいけない。片付けの多くは妻と、定年退職して平日暇のある義父がやってくれた。燃えるゴミは我が家に持ち帰り、こつこつ捨てた。燃えないゴミはリサイクル業者に一部は引き取ってもらったが、家具は解体して処理場へ自分で持っていった。<br>　平行して相続としての名義変更。司法書士には頼まず、インターネットで調べた知識を元に自力でやった。そして売却。仲介業者を介しての手続きは、購入時のことを思い出させられた。資産価値としては低額なので相続税はかからなかったが、売却すると譲渡所得に税がかかるという。翌年の確定申告。よくよく確認すると購入時より売却価格が目減りした場合、その年の所得がその分目減りした計算になるという。つまり、確定申告によって税金が還付される。意外とありがたい仕組みになっているものだ。<br>　ということで、約１０年間にわたる物語が終わった。振り返れば多数の貴重な経験ができ、それは良かったと思う。しかし、母が亡くなってからは甘えられる存在がなくなり、その意味ではつらい日々であった。いずれにしても自身の成長は確実にできたと思う。
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<link>https://ameblo.jp/jonbovix/entry-10005513945.html</link>
<pubDate>Wed, 26 Oct 2005 20:52:20 +0900</pubDate>
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<title>その７　情けない日々</title>
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<![CDATA[ 　「こちら○○消防署の救急隊員ですが…」<br>電話に出ると父が路上で倒れて、近くにいた人が救急車を呼んでくれたと言う。だが、本人は転んだだけだからと言ってそのまま家に帰ってしまったそうだ。その人の見たところ、だいぶ酔っているようで心配なので様子を確かめて欲しいと言う。父に電話をすると<br>「そうなんだよ。転んじゃってさあ。たまたまつかまるものがなくて起き上がれなかっただけなんだけど…」<br>まあ、多少酔っ払い口調ではあったが大丈夫そうなのでその日はそれで終わりにした。だが、その週末<br>「こちら××診療所ですが、お父さんを迎えに来てくれますか？」<br>今度は本当に救急車で病院まで運ばれていた。本人はもう大丈夫と言って帰ろうとしているらしいのだが、あまりに酔っているのでこのまま帰らすわけにはいかないと病院側は言う。<br>「悪いな。」<br>迎えに行くと酒臭い父はこう謝った。このまま家に帰せばまた飲むに決まっているので、その日はうちに連れて行くことにした。車中言い訳をしつつ出た言葉が<br>「本当にたいして飲んでいないんだ。」<br>そんな言葉に私は切れた。<br>「それだけ酒臭いのに飲んでないわけがあるか！だいたい一週間に２回も救急車を呼ばせる馬鹿がどこにいる！」<br>「すみません。」<br>本気で父を叱ったのはそのときが初めてだった。生活費を２週間で使ってしまったときも、そこまでは怒らなかった。子供にとって父親は怒られる存在。まさか自分がその人を叱るなんて。しかも「すみません」と謝られた。寂しかった。<br>　そんな父にとっても情けない日々を過ごす中、祖母が他界した。年齢的には天寿をまっとうというにふさわしいもの。だが父にとっては最後の心の支えを失ったような気がした。そうははっきりと言わなかったが、少なくとも月に一度は祖母を訪ね、多少の小遣いをもらっていたふしがある。昔の祖母はかなり厳格だったようで、詳しい事情は聞かされてはいないが、父と母はその厳しさに耐えかねてか家を出たらしい。私が物心ついたときにはすでに和解し、折々に訪ねるようになってはいたが、たぶんそれで父が長男なのに家を継がなかったのだろう。その年はさすがに老人性痴呆というのか、もう頼れるといえる状態ではなかったことが幸いし、訃報にも父は取り乱すといった状況ではなかった。私が行くと、いつも「あいつを頼むよ」と父の心配ばかりしていた祖母。その意味では父は親不孝者だと思う。が、最後の親孝行と言えるのは、あの世へ向かう順序を間違えなかったこと。<br>　祖母の四十九日が過ぎると、母の七回忌だった。なんだかんだであれから８年。ここまで良くやってきた。三回忌の時はまだ涙が止まらない父であったが、さすがにこの時は淡々としていた。自分の親を失ったことでやっとひとり立ちできたのか。だが、生活ぶりは改善されない。あいかわらずのお酒とパチンコの日々。何度か「最近お酒ぜんぜん飲んでいないんだよ」とか、「パチンコぜんぜん行ってないんだ」とか言うときがあったが、それはどうやら２・３日間のこと。一週間もすれば元通りの生活に戻ってしまう。そろそろ妻も不安になってきたようで<br>「通帳が空になったらどうするのかなあ？」<br>と言う。まあ、ダメになったら我が家への強制収容か。もちろんお酒、タバコ、パチンコ禁止で。実際窮屈な暮らしにはなるが、父は食べるのには困らず、こちらも年金をすべて預かれば大もうけ？いや、一応小遣いは渡さないと。でも、それじゃあパチンコに行く？お酒も飲む？だんだん現実的な問題として悩むようになってきた。だが、その悩みもそう長くは続かなかった。
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<link>https://ameblo.jp/jonbovix/entry-10005443785.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Oct 2005 21:34:48 +0900</pubDate>
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<title>その６　一週間で５万円</title>
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<![CDATA[ 　「お金がなくなっちゃったんだけど、おろしてくれないかな？」<br>父から電話が来た。前回の生活費を渡してからまだ２週間しか経っていない。理由を聞くと、怪しい言い逃れをするので追求するとパチンコで使ってしまったそうだ。考えてみれば、仕事をしていたときはパチンコができるのは仕事をしていないとき、つまり夕方からか休日だけ。それでも３万円以上使っていたのだから一日中パチンコできる日々が続けば５万円の生活費が消えるのは当たり前。だからといってそれを許すわけにはいかない。収入以上にお金を使える人なんているはずがない。とはいっても生活費がなくなってはしかたがないので、きつく言い聞かせふたたび５万円を渡す。そんなことがたびたびあった。ひどいときには一週間でなくなることもあった。<br>　パチンコに行けないとなると家にいるしかない。するとついついお酒を口にする機会が増える。お彼岸だからと迎えに行くと父は寝ていた。起こしても起きない。「お寺は午前中行くものだ」とは父が言った言葉。昼まで待ったがぜんぜん起きない。仕方なくその日は父を置いてお寺へ行った。<br>　それからはパチンコで生活費がなくなるか、酔っ払って問題を起こすか、究極の選択を迫られている気がした。だが、私の答えはどちらもNO！。<br>「定額預金解約してくれないかなあ。」<br>ある日父が言い出した。母も比較的浪費家で、貯蓄はできないほうだった。唯一の貯蓄は祖父が遺産の代わりに残してくれた定額預金。それがまだあることは父も知っていた。もちろん母が亡くなった時点で私が預かっていた。それより解約したい理由がとんでもなかった。<br>「手持ちのお金が少ないと安心してパチンコができないんだ。５０万円あればもう負けることはないからさあ。」<br>一瞬返す言葉を失った。どこまで馬鹿なのか。が、思った。「これで懲りればパチンコがやめられるか？」<br>「まだ働いていた頃の貯金があるから、それをおろしておくよ。だけどこれっきりだよ。」<br>みすみす５０万円どぶに捨てるのかと親しい友人に話したら言われた。それでもいい、パチンコかお酒かという毎日から抜け出すきっかけになってくれれば。お金を受け取った父は「よーし、がんばるぞー」と言って帰っていった。<br>　それから１ヶ月。お金があればうちなんかには来ないと思っていたら予告もなくやってきた。<br>「もうお金つかっちゃったの？」<br>「いや、残りは１５万だけど、１５万になってからはぜんぜん減らないんだ。」<br>と父は得意げに答えた。あきれた。１ヶ月で３５万円使ってしまった。なのに本人は悪びれる様子がない。ボケたのか？とにかくこれで、こんなことくらいで懲りる人ではないと悟った。予想通り、翌月途中で資金は尽きた。そのときはさすがに多少は反省しているようだった。<br>　その年の秋は長雨が続いた。そして現れた父は足を引きずっていた。たしかに脳梗塞で入院した直後は多少足が不自由ではあったが、引きずって歩く必要はないくらいに回復したはずだった。それからずっと普通に歩いていた。それなのに正月を迎える頃にはさらに足の状態は悪化した。杖を買ってあげた。<br>「脳梗塞で倒れてこんなになっちゃったんだ。」<br>と言って知人たちの同情を集めようとするかのような態度に腹が立ち「毎日歩かずにお酒ばっか飲んでいたからだ」と私は説明した。<br>「退院後はあそこにも歩いていったし・・・」<br>と言うと<br>「最近なにがなんだかよくわからないんだ。」<br>とごまかす。が、もしかしたら・・・テレビで「人間は記憶を都合のいいように書き換えられる。」という話を聞いた。もしかしたら心底病気のせいだと思っているのか。「母さんが生きていた頃にはパチンコは負けたことがない」とも良く口にした。それも記憶を捻じ曲げた？とにかく足を引きずりながらパチンコ屋通いを続けた結果、確実に預金残高は減っていった。
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<link>https://ameblo.jp/jonbovix/entry-10005371174.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Oct 2005 13:41:50 +0900</pubDate>
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<title>その５　父の新しい生活</title>
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<![CDATA[ 　母が亡くなったのが１１月。それから翌月が四十九日、次が百か日、春の彼岸、新盆と、それまでの生活には無縁だった法要がどんどんやってくる。そのたびに父のところへ行った。法要がなくても月に一度は顔を見に行った。大晦日と正月は我が家で過ごさせた。本当は同居したほうが良いのだろうが、父がそれを望まなかった。<br>「同居してもいいけど、それならお酒とタバコはやめてもらわないと。」<br>と私が言った言葉が効いたようだ。私はタバコは吸わない。お酒もほとんど飲まない。せっかくの新居をタバコで汚させる気はない。お酒も程度しだいだが、酔っ払いの相手はしたくない。そんな私との暮らしよりはひとりが気楽と考えたのだろう。今まで家事や身の回りのことすべてを母に押し付けていたので心配ではあったが、「少しはお母さんのありがたみがわかる」と親戚たちは私のやり方を認めてくれていた。<br>　６０歳をとうに過ぎ年金をもらっていた父だったが、父の実家が小さな会社を営んでおり、その当時も従業員として働いていた。祖母が社長、従業員はすべて父の兄弟。みな「もういい年なんだから」と引退を勧めていたが自分勝手な父は「俺は働く」と言って聞かない。母が亡くなったことでさすがに給料は大幅に減額された。約１０万円。それでも口座に振り込まれる年金は公共料金の引き落とし分のみ使って、あとは貯めることができた。給料は食費や趣味のパチンコには充分だったようだ。<br>　そんな父の新しい生活パターンが定まりつつあった８月、父は倒れた。倒れたと言っても自分の足で病院に行き、そのまま入院したという。脳梗塞だった。<br>　前の日、それまでずっと取引してきた得意先が取引中止を言ってきたそうだ。その晩は納得がいかず酒量がいつもより増した。それで二日酔いだと思っていた。出社はしたものの「具合が悪い」と言ってごろごろしている父を見て、社長である祖母が病院に行くことを勧めた。そのタイミングがリミットだったのかもしれない。叔父から父の入院の知らせを聞いて病院に駆けつけた。父はベッドに座ったいた。状況を説明する父の口調は酔っているかのように、ろれつが回らない。ぞっとした。あと少し遅ければ寝たきりになっていたかもしれない。最悪命がなかったのかもしれない。まあ、そのとき死ぬことと、それからの苦悩の日々を生きること、どちらが幸せかはわからないが。とにかく手足はうまく動かせない状態だった。それから入院生活は約一ヶ月間続いた。<br>　回復は目覚しかった。手術はせずに血栓を溶かすための投薬治療。その順調な回復振りは、医師も目を見張るほどだった。退院時には、片方の足だけ動きが多少不自然ではあったが、注意してみなければ倒れた人には見えないほどに回復していた。さすがに仕事は引退することを受け入れた。仕事中にまた倒れるわけにはいかないというのが、さすがに本人にも納得できたようだ。となると生活費は年金だけでやりくりする必要がある。母の生前は、貯蓄ができない母をなじるだけで家計はノーチェック。自身のパチンコ用小遣い３万円ですら一ヶ月持たないことがしばしばあったと聞いている。通帳は私が預かることにした。<br>「年金が月約１０万、公共料金が約５万だから、月の生活費は５万円だね。」<br>と言って、「月に一度我が家に来て一泊し、生活費を持って帰る」というのを基本パターンと定めた。<br>「たまにはお前のところに行ってお酒を飲まない日にしたいから。」<br>と本人もそのパターンで納得した。「通帳持ってると使っちゃいそうだから」というのも理由にあげていた。給料は１０万円程度だったので、それを生活費に充てていたのに比べれば半減したことになる。だが、なんとなくそれでやっていけると思っていた。目安として一週間１万円。一日千五百円。お酒やタバコにどれだけかかるかは私にはわからなかったが、食べるだけなら充分である。食べたければお酒やタバコ代を節約せよというのが私の主張である。とうぜんパチンコなどやる余裕はない。まあ、やりたければ節約すればいい。我が家だってローンを払いながら一家４人での生活、父に小遣いをあげられる余裕はない。私の小遣いだって月１万円だ。父を遊ばせるために働いているのではない。それでやってもらわなくてはならない。<br>　しかしそううまくはいかなかった。重大な見落としがあった。いや、気づいていながら無視しようとしていたのだろう、父の趣味はパチンコしかなかったということを・・・
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<link>https://ameblo.jp/jonbovix/entry-10005322447.html</link>
<pubDate>Thu, 20 Oct 2005 21:20:52 +0900</pubDate>
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<title>その４　母の最期</title>
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<![CDATA[ 　入院後主治医から検査結果を聞いた。転移は進み、特に肝臓はCT画像で見てもほとんど真っ黒だった。<br>「ここ２・３日が山場だと思います。」<br>山場、それは死期という意味だった。しかし、なぜか山場を乗り越えて容態が安定してきた。安定しているうちだけだからと自宅への外泊を勧められた。母には「仮退院」などと言って喜ばせた。実家は集合住宅の３階。エレベーターなどない。私は母を背負って上がることにした。痩せて軽くなったとはいえ、人一人背負っての階段はきつかった。幸い私の足腰はスポーツによって人並み以上に鍛えてあったので、なんとか上がることができた。最後の一段でよろけそうにはなったが。母を背負ったということで以前悔やんだ「迎えにいってやるべきだった」という思いが少し和らいだ。<br>　その日は母の誕生日だった。ケーキを用意し、夕食は寿司をとった。病院ではほとんど食べ物を口にしなかったようだが、一口ずつ食べた。もちろん周囲を気遣ってのことだった。母が不在の実家は荒れ放題だったので、寝る場所だけをようやく確保してその日を終えた。そして翌日病院へと戻った。<br>　それから約２週間、容態は多少の変動はあるものの安定していた。主治医からはふたたび外泊を勧められた。「弱らそうとしているのでは？」という疑念を持ちつつも、今度は私の家に連れて行った。私の家なら落ち着いて看病ができるからという理由で。２泊を想定して病院から飲み薬や座薬をもらった。<br>「無理しないでくださいね。」<br>看護婦さんたちは心配そうに送り出してくれた。情けないことに病人の扱い方がわからないからと、看病は妻にまかせっきりにしてしまった。途中、薬の与え方で病院に電話することはあったが、なんとか２泊過ごすことができ、病院に戻った。<br>　病院の思惑通りってことはないだろうが、その後は容態が悪化した。骨折もした。「何をやっているんだ」と病院の対応に怒りを覚えたが、理由を聞くと骨まで癌が侵攻しているので自然に折れたそうだ。そのときはもう母は眠ったままだった。そしてその日の夜中の２時に電話が鳴った。<br>「親戚など親しい人を呼んでいただいたほうがよろしいかと・・・」<br>ついにその時はやってきた。親戚に電話をして、すぐに病院へと向かった。すでに父は来ていた。テレビドラマで見る風景である。親戚が続々と集まってきた。父が何度もベッドのフレームを叩く。昏睡状態の母を起こそうとしているのであろう。あるいは奇跡を起こすつもりだったのか。しかし、奇跡は起こらなかった。夜はすっかり明けていた。最後まで粘り強く生きた。使い方は違うが、この半年、そして今日この数時間、往生際ということばが頭に浮かんだ。そして母は静かに息を引き取った。<br>　そのあとはめまぐるしい展開が待っていた。自分たちで出す初めての葬式。とりあえず、それだけはと調べてあった葬儀屋に電話をし実家へと向かう。あとはすべてが初体験の連続。比較するのはおかしいが、結婚式と似ている気がした。祭壇、棺桶、花輪、等々すべてを選ばなくてはならない。葬儀屋の“普通”、父方親戚の“普通”、母方の“普通”、ご近所さんの“普通”。たいていは食い違っていた。実は、父は長男、母は長女ということで、こんなとき親戚を仕切るのは母の役目だった。その母がいないのだから親戚たちは、みな歯切れが悪い。それでもどうにか決めて葬儀が始まった。父は酔っていた。母の旅支度さえ手伝えなかった。葬儀中何度も「バカヤロウ」を繰り返した。誰も声はかけられなかった。多くの人は泣いていた。６３歳という年齢はとうぜん早すぎる。私だけが平然としている気がした。それはそうだ、この一ヶ月そう近くはない病院に通いつめ、この２・３日必死に走り回ったのだ。葬儀の最中がむしろ、やっと落ち着いていられる場だということだ。参列者は多かった。生前の母はいろいろなところで人の面倒を見ていた。ともすれば家庭のことは顧みず的な印象すらあった。そんな生前をしのぶに余りある多数の参列者と涙の数だった。<br>　すべてが終わり実家に祭壇をセットして自分の家へ戻ることにした。父のことは心配ではあったが寝る場所のない実家にいつまでもいるわけにはいかない。母の遺骨を実家においておく以上はそうするしかない。まわりからは薄情に思えただろうが父を残して家へ帰った。その後の２・３日は役所や生命保険、年金などの手続き関係に追われた。人一人がいなくなることの大きさを実感した。
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<link>https://ameblo.jp/jonbovix/entry-10005297721.html</link>
<pubDate>Wed, 19 Oct 2005 23:34:34 +0900</pubDate>
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<title>その３　偽りの日々</title>
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<![CDATA[ 　母にとって楽しかったであろう日々が始まった。私にとっては末期癌であるという事実を隠し続けなければならない、いわば偽りの日々。<br>「先生は何を食べても、何処に行ってもいいって言ってるよ。癌じゃなかったんだし。」<br>「そんなこと言ったって、油ものばかり食べるのは良くないし、出歩きすぎもどうかなあ。」<br>私も医師の「なんでも」は聞いていた。が、それを言うと“助からない人”にかける言葉のような気がして、あえて“注意”をし続けた。入院前は太りすぎていて、ちょっと歩いてもふうふう言っていた母は、退院後少し健康的な感じに痩せて体調は見るからに良さそうだった。よく妻と子供をさそって遊びに出かけていた。出かけないときでも父の車で私の家（社宅）を訪れた。以前は私が月に一回実家に行くことを習慣にしていたが、孫の顔見たさに毎週むこうから訪れるようになっては、すっかり実家には行かなくなっていた。<br>　手術直後に「持って３ヶ月」と言われた母であったが７月を迎えても変わりないように見えた。そして８月、我が家の引越し。「子供たちは私が見てるから」と言ってまっさきに新居に上がり母は楽しそうだった。確実に死に近づいている人には見えなかった。赤飯やおでんを用意してきて、我々や手伝ってくれた友人たちにも振舞ってくれた。思えば元気だったのはそこまでだったか。あるいは「引越しが終わるまでは」という緊張感が母を支えていたのかもしれない。<br>　転居して少し遠くなったので両親の訪問頻度は確実に落ちた。あるいは体調も落ちてきたのか。<br>「この頃食べ物の味が変に感じるんだよね。薬の副作用かなあ。」<br>たしかに本人にはそうとは言っていなかったが、弱い抗癌剤は飲んでもらっていた。一応私から医師に尋ねると<br>「それは薬のせいではないでしょう。癌によって体が弱ってきた一つの兆候だと思います。」<br>そんな話は母にはできない。ただ、手術後口癖のようになっていた「癌じゃなかったから」というせりふがいつのまにか母の口から消えていた。それに代わって「薬の副作用じゃないのか」と言うようになった気がする。自分の病気に気づいたのか？それでも、祖父の法事で会った母は、元気だった。引越しの時とさほど変わっていないように見えた。<br>　９月になると「あまり食欲がない」と言うようになった。<br>「じゃあ、たまにはうちに来て２・３日泊まっていったら？」<br>と言って１０月の初め、母をうちに呼んだ。<br>「バスが行ったばっかなんだけど。」<br>と駅から電話してきたので少し不機嫌に私は答えた。<br>「そんなすぐに支度なんかできないよ。迎えに来いって言うの？」<br>「いや、いいよ。次のバスで行くよ。」<br>しばらくしてチャイムが鳴りドアを開けた私は驚いた。母はすっかり痩せこけ別人のようだった。というか「どなたですか？」と言いそうになった。後悔した。迎えに行くべきであった。一息ついたあと母が「目が回る」と言い出した。また「薬の副作用では」と言い出した。しかたがないので医師に電話するといつもの答え。<br>「そんなはずはないってよ。疲れたんだろうから少し寝れば。」<br>そう言って休ませると少し元気になった。食事になると、電話では「食欲がない」と言っていたはずなのに良く食べた。少し安心した。帰る日には「近くで久々に友達と遊びに行く約束をしてあるから。」と言って駅の近くで私の車を降りた。その後姿を見ながら、こんなことを繰り返していれば「まだまだ大丈夫なのでは」と思った。<br>　しかし、再入院はその約一週間後だった。食事がまったく取れなくなったそうだ。うちではちゃんと食べていたのにと、少し父を「面倒だから入院させたんじゃあ」と疑った。私の認識が甘かった。あとで聞けば、うちに来たときは心配かけまいと無理して食事を押し込んでいたらしい。あくまでも気丈な母であった。考えてみれば「あと３ヶ月」と医者に言われてから半年が過ぎていた。医者が大げさだったのではなく母が人より強かったのだろう。体も気持ちも。
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<link>https://ameblo.jp/jonbovix/entry-10005184860.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Oct 2005 13:40:57 +0900</pubDate>
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<title>その２　母の手術結果</title>
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<![CDATA[ 　どうやら母は以前から胃の辺りが痛かったらしい。辺りとは言っても本人は胃癌と決めつけていた。というのも母方は、祖父と叔母の二人が癌で他界しており癌家系という認識があった。そして母は妹にあたる叔母の癌治療の凄惨さを見てきたことで「私が癌になってもあんな治療は受けたくない。手遅れで発見され、たいした治療もされずに死にたい。」と思っていたそうだ。それでかなりの痛みがあったが医者には行かず胃薬を飲んで過ごしてきたそうだ。胆石の痛みだとは知らずに・・・<br>　手術設備のある病院に移り、手術前の検査としてCTやMRIなどを受けた。結果説明で医師は<br>「胆石の他に特に心配なところはありません。膵臓の映りが多少弱いのはスポンジ化の傾向があるからでしょう。膵尾部（膵臓の後端部）に水球状のいわゆる良性腫瘍があるようですが、今回の手術でいっしょに取ってしまいましょう。」<br>と言った。初めてみる体内の画像は学生時代にならった“体の仕組み”の記憶と照らし合わせてなんとなくわかる程度のものだった。まあ、医者がたいしたことなさそうに言うのだから手術を受ければいいということだろうと理解した。<br>　迎えた手術の日、支度を終え移動用ベッドに横たわった母が手を差し伸べてきた。妻はがんばってと手を握ったが、私は「この世の別れでもあるまいし」と少し笑って拒否した。そのせいでは当然ないはずだが、手術中に主治医が私を呼んで信じられないことを言い出した。<br>「胆嚢はこれです。中にはこのように石が入ってました。それで、膵臓のほうなんですが、多少スポンジ化していると思っていましたが、すべて癌細胞におかされているようです。正式には組織を詳しく調べる必要がありますが、私の見たところでは癌に間違いありません。腹膜にも無数の転移があり、残念ですが膵臓を取るよりはこのままにしてあげたほうがよいと思います。」<br>どう判断してよいかわかるはずがない。医師の判断に従うしかないじゃないか。手術後医師は<br>「正式な結果は５月頭にはわかります。それで、癌だったとした場合今後どうするかということを考えておいてください。考えられるのは延命効果を狙った抗癌剤投与や放射線治療などを受けるか、あるいはこのまま病気の進行にまかせるか。医師の私がいうのも申し訳ありませんが、あまり効果が見込めない延命治療をするよりは、胆石から開放され、ここ１・２ヶ月くらいは快適な生活が送れると思うので、このままというのが本人のためという気がします。それと、本人に告知するかどうか。」<br>「実は今回のことは関係なく、母は常々“癌治療は受けたくない”と言っていたので、基本的にはこのままにさせてあげたい。本人には告知はしないでください。」<br>そうは言ったものの迷っていた。それにこの医者の見込み違いってこともあるとも考えていた。とりあえず母には膵尾部の水球を取らなかったことを言い訳する必要ができた。麻酔からさめた母に<br>「膵臓のほうは問題なさそうなので、そのままにしたってよ。」<br>まあ、無難な言い方か。しかし親に嘘をつくのは心が痛む。しかも癌であることを隠さなければいけない。父には本当のことを話したが、当然ショックを受けていた。<br>　母は入院中だったが、５月連休を迎えたのでいつものように妻の実家に帰省した。行かなければ“重い病気では？”と母に疑念を抱かれるのではという気遣いもあった。そのせいで、検査結果は電話で聞くことになった。<br>「残念ですが、やはり癌でした。もって３ヶ月といったところでしょうか。」<br>天井がぐるぐる回っている気がした。しばらく動けなかった。父に結果を連絡すべきか少し迷ったが、事実は伝えなければと電話した。<br>「やっぱり癌だってよ。」<br>「しょうがないな。」<br>だれでも予想外の不幸に見舞われたらそんな言葉しか出ないだろう。父の声を聞いて逆に私が少し落ち着くことができた。そして連休は終わり、母も無事（？）退院した。
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<link>https://ameblo.jp/jonbovix/entry-10005124870.html</link>
<pubDate>Fri, 14 Oct 2005 11:23:01 +0900</pubDate>
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<title>その１　始まりは・・・</title>
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<![CDATA[ 　「今年はいい一年になるぞ。」<br>と言った父の言葉が今も耳から離れない。その忙しい一年は我が家に長男が生まれたことから始まった。実は父方のいとこは多数いるが同姓の男の子はまだ一人もいなかった。昔風に言えば跡取りの資格を持つ唯一の子ということになる。そんな思いからか喜びもひとしおだったのだろう。それが１月の終わりの出来事。そしてそれがすべての始まりだった気がする。<br>　良いことは続かなかった。２月に父が網膜はく離で入院した。原因は不明。ただ早急な手術が必要だとのこと。知人の勧めで少し遠いが東京の病院に入院した。母は毎日通っていたようだ。もう６０歳を過ぎてはいたが、出歩くのが好きな分、少しも苦ではないと言う。そんなはずはないだろうと気遣う私にはかまわず母は通いつめた。私は退院の日に車を出しただけだった。<br>　そんなことが落ち着いてきて3月になると我が家では<br>「二人目の子供も生まれたし、社宅では手狭なので家を買おうかな。」<br>と思い住宅探しを始めた。週間○宅情報などを見るうち「これは？」と思える物件があった。仲介業者に電話をすると<br>「あーそれですか。カースペース有りとは書いてはありますが、実は車は入れないんですよ。でも他にもいい物件がありますので一度お越しください。」<br>なんだ、掲載しているのは客寄せ物件か。どうりで安いわけだ。まあ、何事も経験だと、その業者を訪ねることにした。なにせ今までのんきに暮らしてきたので多少のたくわえはあるものの、私の年収でいくら貯金があれば家が買えるのかもわかっていない。その辺の下調べと思い、業者の話を聞きに行った。<br>「では逆算してみましょう。年収がこれこれで、貯金がこれだけ。銀行なら年収の○割りは貸してくれるから、３５年ローンとして・・・」<br>なんか勢いに押されている気もするが、どうやら私にも人並みの一軒家が買えるらしい。業者の車で何箇所か回って戻ると冷静な妻が「あそこを買ったら良さそうだ」と言う。私は物心付いたときから集合住宅しか住んでいないので、一軒家のポイントが良くわかっていなかった。妻は「日当たりが良さそう」というところで判断したらしい。そしてそのまま仮契約。うーん、衝動買いか？<br>　そんな日々を送っていた４月初め、母からとんでもない電話が入った。<br>「実は今入院してるんだ。胆石らしいよ。手術が必要らしいけど、この診療所じゃダメなんだって。今先生が他の病院のベッドの空きを確認してくれている。」<br>驚いた私はすぐに実家近くの診療所へと向かった。もうそのときには容態は落ち着いていたが、ピークのときはひどかったらしい。父と車で出かけている途中に吐き気＜痛みからくるものだったらしいが＞がして、車を降りて嘔吐したそうだ。そんな母を見て父が言った言葉は「バカヤロウ！」昔から母は「お父さんが言うバカヤロウはアイシテルって意味なんだよ。」って言ってはいたが、苦しむ母にかける言葉ではないことはたしかだ。まあ、夫婦のことは子供にも理解はできない。そんなことを思ううちに看護婦が来て医師のところへ案内してくれた。<br>「今は鎮痛剤と点滴で容態が安定してはいるが早急に手術を受けたほうがいい。今、○○病院と××病院に当てっているのでベッドが確保でき次第救急車で運んでもらいます。」<br>「救急車って使うといくらぐらいかかるんですか？」<br>「金の心配はいりません。救急車を使えばタダです。」<br>その医師が口にした“金（かね）”と言う言葉が気になった。いかにもお金だけにこだわって仕事しているように思えた。容態が落ち着いている母を見ると少し大げさなんじゃないかとも思え、余計なことを企まれているのではと疑いたくなった。その時はまさかこれから母が命にかかわる病気と対峙するとは誰にも予想できなかった。たぶん医師でさえも・・・
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<pubDate>Wed, 12 Oct 2005 21:13:30 +0900</pubDate>
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