<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>語るぞ！Ｊ－ＰＯＰ</title>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/jpop-taro21/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>３０代、男です。新旧問わず、Ｊ-ＰＯＰの作品に関して、僕の思うところを、好き勝手に書いていく、というもの。不定期掲載です。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>サンボマスター「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」（2005年）</title>
<description>
<![CDATA[ <div id="diary_body" class="FANCYURL_EMBED">「電車男」を本気で見ていたので、僕は主題歌にも期待してしまったのだが、この「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、いろいろな意味ですごい曲だと思った。 <br><br>ミュージックステーションではじめてサンボマスターを見た。語弊を怖れずに言うならば、ボーカル・ギターの山口は、曲がはじまるより前に、つまりＭＣの最中にもう、十分に「イッちゃって」いる雰囲気を醸し出していた。何かを見すぎていているのだが、一方で明らかに何かを見落としている目、というか、そんな類の目をしていた。それがたまらなくよかった。で、それを受けるタモリも良かった。山口の話を、その本質を聞き逃さず、淡々と聞いていた。すごいと思った。そういえば、イッちゃっている人とタモリの相性は抜群に良い。例えば、Coccoとタモリもそう。<br>話を戻す。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の何がすごいのか。 <br><br>「叫び」とか「絶叫」とかいう言葉でサンボマスターは語られる。確かにそうなのだけど、その言葉にだけ囚われていると、大切なところを見落としてしまう。ではその、大切なところとは何か。それは、作中主体の、痛々しいほどの「コミュニケーションの希求」だ。 <br><br>昨日のあなたが　偽だと言うなら <br>昨日の景色を　捨てちまうだけだ <br><br>１番のＢメロの歌詞。これは開き直りだろうか。おそらく違うだろう。「偽」とわかったときに誰よりも傷付くのは、作中主体自身なのだ。それを言わば逆の形で表現しているのではないか。小学生男子が好きな女子をいじめてしまう感覚に似ているかもしれない。冗談ではなく、僕は本気でそう思う。僕はそれを、青春（というかコドモ）をいつまでも引きずっている人間の「臆病さ」「ナイーブさ」として聞いた。サビにこんなふうにあるのだ。 <br><br>心の声をつなぐのが <br>これ程怖いモノだとは <br><br>あなたのために歌うのが <br>これ程怖いモノだとは <br><br>作中主体は「本当のコミュニケーション」を願い、求めている。表面的なものでない、真実のつながり。けれど僕たちの世代は、真実のつながりなど、経験したことはない。はじめから圧倒的な量の情報に翻弄されていた僕たちは、その中で、本当の愛・友情・コミュニケーションの存在を言い聞かされてきたけれど、現実にはそんなものはなかった。（それを知ったとき、僕らはどうするのか。どうなったのか。それはとりあえず措く。） <br><br>現実には存在しないはずの「本当のコミュニケーション」を希求する者が、観念でなくて、現実において他者と繋がろうとするとき、何を感じるのか。他者を希求することにおいて、恥ずかしげもなく「本当の愛」を叫ぶ者が、本気でそれを得たり与えたりしようとするとき、何を感じるのか。それが「怖いモノ」なのだろう。「あなたのために歌うのが　これ程怖いモノだとは」。このナイーブさはなんだ。Ａメロもコード進行も、そういえば荒々しさからは遠い。とても繊細なのだ。ギターの一音一音も、とてもやさしく聞こえる。 <br><br>ナイーブさと同居する「叫び」「絶叫」だから、その叫びは形骸化しない。 <br><br>終盤、「愛と平和」と繰り返し叫んだあと、山口は絞り出すようにして「悲しみで花が咲くものか」と歌う。この猛烈な哀しさ。怨念のような、しかし、いくら叫んでも決して「怨念」というほどの強い思いには届かないような、この絶叫。繰り返し聞くほどに、「愛と平和」が叶わないことを確かめるようで、哀しいのだ。 <br><br>このナイーブさは、確実に現代のある側面を切り取っている。絶叫と共に置かれた痛々しいほどの繊細さは、まさしくこの「今」の一部だ。サンボマスター「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」はまさに、現代の日本語によるロックなのだと思う。だからあんまり恥ずかしくない。<br></div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10323551114.html</link>
<pubDate>Tue, 18 Aug 2009 20:05:36 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Ｂ.Ｂ.クイーンズ「ぼくらの七日間戦争～Seven Days Dream～」（1991年）</title>
<description>
<![CDATA[ <font color="#ffffff">僕はたまに、トップ10チャートにぎりぎり入るか入らないかの歌に、ものすごくはまったりします。ヒットしたともしていないとも言えないような、微妙な歌にやられてしまう。 <br>Ｂ.Ｂ.クイーンズの「ぼくらの七日間戦争～Seven Days Dream～」も、そのような歌のひとつです。映画「ぼくらの七日間戦争２」の主題歌。 <br><br>坪内唯子はＢ.Ｂ.クイーンズで、とても幼い声で歌っていました。「おどるポンポコリン」では、たしか制作の段階で、録音した歌の再生スピード上げて、加工し、幼い声をわざと演出していたはずです。あれは作られた声だったんですね。「ぼくらの七日間戦争」ではそこまではやっていないと思うのですが、幼い声に違いはない。 <br>２番のＡメロです。 <br><br>波によろめいて <br>くちびるを開いた <br>そう　バカンスの恋 <br>駆け抜ける　夕立ちのあとに <br>二人の夜が　壊れてゆく <br><br>幼い声とはバランスのとれない内容です。解散したＳＰＥＥＤがデビューした頃、曲の歌詞がメンバーの年齢にそぐわない、ギャップがある、ということで話題になっていましたが、それとは比べものにならないと思います。声と内容が、明らかに合っていない。アレンジも実にさわやかで、「夏」を演出しています。極端にバランスが悪いとも言えるんです。それなのにこの歌には、妙な説得力があると思います。それはなぜなのか。 <br>冒頭のサビです。 <br><br>青い夏のまぼろし　Sevenday’s My dream <br>もう一度　会いたいよ <br>思いがけぬ　胸を焦がす出逢いの <br>Oh　偶然の奇跡よ <br><br>この歌のテーマは「あの夏」です。過ぎ去った夏をせつなく思い出す、という内容。ありがちなんですね。でも、この歌においてはそれが問題にならない。なぜなのでしょうか。その理由は、他でもなく、坪内唯子の「幼い声」にあるのだと思います。そしてそれこそが、「説得力」につながっていくんです。 <br><br>大ヒット曲「おどるボンポコリン」や「ギンギラバラダイス」は、言ってみれば「子供向け」の歌でした。だから幼い声に違和感はなかった。むしろ、幼い声でなければならなかった。それが「ぼくらの七日間戦争」でガラリと変わってしまう。内容が一気に「大人向け」になってしまうんですね。どちらかというとシリアスな。で、逆に考えてみます。つまり、もし幼い声ではなかったら「ぼくらの七日間戦争」はどうなるか、ということ。どのように聞こえるのか。 <br>幼い声でなかったら、たぶん「ぼくらの七日間戦争」は、歌として失敗してしまったと思います。歌詞がベタすぎるからです。ありがちだからです。ありがちでベタな歌詞に、ベタな声や「あの夏」を演出するアレンジが加わったら、聞いていられないと思います。ある種のクサさがつきまとってしまうでしょう。 <br>ここではじめて、「幼い声」が機能する。「幼い声」は、この歌から、情緒や感情を、良い意味で抜き取ってしまうんですね。「幼い声」だから歌がベタベタとしない。そして、ありがちな歌詞も気にならない。それどころか、切なさは増してしまうんです。 <br><br>時が流れても　Sevenday’s Our Dream <br>変わらないで　いとしい人 <br>青い夏のまぼろし　Sevenday’s My dream <br>もう一度　会いたいよ <br><br>1番のサビです。きっとＲ＆Ｂの有名女性歌手かなにかが歌ったら、情感が過剰になって聞いていられないと思います。泣きながら相手に訴えかけるような印象になってしまう。ベタベタとしてしまう。けれどもここでは、感情を抜き取るような声で「もう一度　会いたいよ」と歌われているんです。すると、歌詞の人物が、悲しいのにもかかわらず笑ったまま立ち尽くしているような、非常に微妙な切なさを背負って現れてくるんです。けれども、逆にこの切なさは強力ですよね。で、そこでさらに逆転現象が起こる。つまり、いくら切なくても、結局は幼い声ですから、聴き手は完全な感情移入ができない、ということです。そしてまた、感情移入はできないのだけれども、さらにひっくり返って、だからこそかえって切ない、という…。この、どこにも逃げ場のないような、「宙ぶらりんの切なさ」だけが、聴き手と歌を結んでいる。聴き手との距離のとり方がうまい歌なんだと思います。だからこそ、説得力があるんですね。何度聞いても飽きません。14年前の歌ですが、まだまだ聞けると思います。 <br><br>「青い夏のまぼろし」とあります。J-POPの歌詞としては、それなりに厚みのある、キャッチーなフレーズだと思います。このフレーズが、絶妙なバランスで実現されたのが、「ぼくらの七日間戦争」なんだと思います。</font>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10321782825.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Aug 2009 05:52:45 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>サンボマスター「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」（2005年）</title>
<description>
<![CDATA[ <font color="#ffffff">古い話だが、「電車男」を本気で見ていた。僕は主題歌にも期待してしまうのだが、この「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、いろいろな意味ですごい曲だと思う。 <br><br>ミュージックステーションではじめてサンボマスターを見た。語弊を怖れずに言うならば、ボーカル・ギターの山口は、曲がはじまるより前に、つまりＭＣの最中にもう、十分に「イッちゃって」いる雰囲気を醸し出していた。何かを見すぎていているのだが、一方で明らかに何かを見落としている目、というか、そんな類の目をしていた。それがたまらなくよかった。で、それを受けるタモリも良かった。山口の話を、その本質を聞き逃さず、淡々と聞いていた。すごいと思った。そういえば、イッちゃっている人とタモリの相性は抜群に良い。例えば、Coccoとタモリもそう。（明日のミュージックステーションにSINGER SONGERが出演する。Coccoとタモリの絡みがちょっとだけ楽しみ。） <br><br>話を戻す。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の何がすごいのか。 <br><br>「叫び」とか「絶叫」とかいう言葉でサンボマスターは語られる。確かにそうなのだけど、その言葉にだけ囚われていると、大切なところを見落としてしまう。ではその、大切なところとは何か。それは、作中主体の、痛々しいほどの「コミュニケーションの希求」だ。 <br><br>昨日のあなたが　偽だと言うなら <br>昨日の景色を　捨てちまうだけだ <br><br>１番のＢメロの歌詞。これは開き直りだろうか。おそらく違うだろう。「偽」とわかったときに誰よりも傷付くのは、作中主体自身なのだ。それを言わば逆の形で表現しているのではないか。小学生男子が好きな女子をいじめてしまう感覚に似ているかもしれない。冗談ではなく、僕は本気でそう思う。僕はそれを、青春（というかコドモ）をいつまでも引きずっている人間の「臆病さ」「ナイーブさ」として聞いた。サビにこんなふうにあるのだ。 <br><br>心の声をつなぐのが <br>これ程怖いモノだとは <br><br>あなたのために歌うのが <br>これ程怖いモノだとは <br><br>作中主体は「本当のコミュニケーション」を願い、求めている。表面的なものでない、真実のつながり。けれど僕たちの世代は、真実のつながりなど、経験したことはない。はじめから圧倒的な量の情報に翻弄されていた僕たちは、その中で、本当の愛・友情・コミュニケーションの存在を言い聞かされてきたけれど、現実にはそんなものはなかった。（それを知ったとき、僕らはどうするのか。どうなったのか。それはとりあえず措く。） <br><br>現実には存在しないはずの「本当のコミュニケーション」を希求する者が、観念でなくて、現実において他者と繋がろうとするとき、何を感じるのか。他者を希求することにおいて、恥ずかしげもなく「本当の愛」を叫ぶ者が、本気でそれを得たり与えたりしようとするとき、何を感じるのか。それが「怖いモノ」なのだろう。「あなたのために歌うのが　これ程怖いモノだとは」。このナイーブさはなんだ。Ａメロもコード進行も、そういえば荒々しさからは遠い。とても繊細なのだ。ギターの一音一音も、とてもやさしく聞こえる。 <br><br>ナイーブさと同居する「叫び」「絶叫」だから、その叫びは形骸化しない。 <br><br>終盤、「愛と平和」と繰り返し叫んだあと、山口は絞り出すようにして「悲しみで花が咲くものか」と歌う。この猛烈な哀しさ。怨念のような、しかし、いくら叫んでも決して「怨念」というほどの強い思いには届かないような、この絶叫。繰り返し聞くほどに、「愛と平和」が叶わないことを確かめるようで、哀しいのだ。 <br><br>このナイーブさは、確実に現代のある側面を切り取っている。絶叫と共に置かれた痛々しいほどの繊細さは、まさしくこの「今」の一部だ。サンボマスター「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」はまさに、現代の日本語によるロックなのだと思う。だからあんまり恥ずかしくない。</font>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10321103558.html</link>
<pubDate>Sat, 15 Aug 2009 04:52:39 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>aiko「えりあし」（2003年）</title>
<description>
<![CDATA[ <font color="#ffffff">２００３年の紅白歌合戦でaikoが「えりあし」を歌っていました。あの生歌は、本当に素晴らしかったと思います。そのときの紅白はたまたまビデオに撮っていたので、今でもたまに見ています。透明感をもち幼くさえあるのにハスキーなあの声が、とても安定していて、また、フェイクもバランスが良かった。aiko自身の表情なども含め、あの年の紅白の、ベストライブのひとつだったと思います。 <br><br>時は経ち目をつむっても歩ける程よ　あたしの旅 <br>季節に逆らい想い続けて今もあなたを好きなままよ <br><br>今歌詞を写しながら思ったんですが、「歩ける程よ」とか「好きなままよ」とか、この女言葉で歌詞だけ読むと、内容がずいぶんやわらかく感じられます。けれども実際は、易しい内容ではない。「目をつむっても歩ける」というのは、何かに慣れている証拠ですが、何に慣れているかと言えばそれは、「季節に逆らい想い続け」ることなんですね。苦しさを、日常の、当然のものとして受け入れているんだと思います。そう考えてみると「目をつむっても歩ける」なんて、本当に痛々しい。 <br><br>５年後あなたを見つけたら　背筋を伸ばして声を掛けるね <br>一度たりとも忘れた事はない　少しのびた襟足を <br>あなたのヘタな笑顔を <br><br>「５年」ってずいぶん長いと思います。でもそれくらい経たないと「背筋」を伸ばせないんでしょうね。そして、忘れたことがないのは何かといえば、「少しのびた襟足」。付き合っている間に襟足が少しだけ伸びたんだと思います。ということは、実際に想い合えた期間はごく短いということになる。 <br>その短い期間の恋を、これだけ痛々しく背負っているわけです。 <br><br>aikoの歌はミスチルと違って、１曲１曲が短編小説のようです。ごくごく小さな物語が、上質のメロディーや声に乗って、聴く人に届く。バックでどれだけストリングスが鳴っていても、声と歌詞とメロディーによって、その曲はaikoというひとりのキャラクターに収斂されていく。 <br>変なたとえですが、琵琶法師とか語り部とか、そんな感じです。こういう人が本当のシンガーソングライター（死語？）なんだと思います。</font>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10320430436.html</link>
<pubDate>Fri, 14 Aug 2009 05:11:44 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Mr.Children「ファスナー」(2002年)</title>
<description>
<![CDATA[ <font color="#ffffff">アルバム「It’s a wonderful world」より。 <br>ミスチルについては、言いたいことがたくさんあるようで、そうでもないようで、微妙なのですが、とりあえずこの「ファスナー」という曲については言いたいことが大いにある。間違いなく名曲だと思います。 <br>特に歌詞に注目します。 <br><br>この歌の見た目はラブソングです。この歌で桜井和寿は結局「君が大切」と歌います。けれどその前提となっているものが、その辺のラブソングとは違うんです。 <br>一番のサビ。 <br><br>きっと　ウルトラマンのそれのように <br>僕の背中にもファスナーが付いていて <br>僕の手の届かない闇の中で <br>違う顔を誰かに見せているんだろう <br>そんなの知っている <br><br>ウルトラマン（後には仮面ライダーも出てくる）という比喩でユーモアを付け加えながら、「自分の知らない君がいる」と歌っているわけです。で、未知の君がいると知って、この「僕」が最終的に何を思ったのか。それが重要なんです。この曲を名曲たらしめている大きな理由のひとつになります。 <br><br>もしも　ウルトラマンのそれのように <br>総ての事にはファスナーが付いていて <br>僕が背中見せているその隙に <br>牙を剥くつもりでも　信じてみる値打ちは <br>あると思えるんだ <br><br>二番のサビです。ここでファスナーが付いているのは「君」に留まらず「総ての事」にまで広がっています。 <br>次のサビ。 <br><br>きっとウルトラマンのそれのように <br>僕の背中にもファスナーが付いていて <br><br>今度は自分にもファスナーを想定しています。 <br><br>自分の知らない君がいる。総ての事に関して、未知のことがある。自分の知らない自分だっている。…そう気付いた「僕」が思っていること。それが二番のサビにあるわけです。 <br><br>信じてみる値打ちは　あると思えるんだ <br><br>こんな風に歌う。「わからないこと」があることを、肯定しているんです。総ての事が未知の何かを含んでいても、それを受け入れている。信じようとする。そこがこの歌の眼目だと思います。たとえば、「自分の知らない君」がいたとき、普通のラブソングだったら、「僕」は嫉妬するでしょう。もしくは別れようとするでしょう。でもそうじゃないんですね。 <br>歌詞の最後の一行です。 <br><br>惜しみない敬意と愛を込めてファスナーを・・・ <br><br>「愛を込めて」、その上で対象との距離を置く。はじめからコミュニケーションのある部分を諦めているとも言えるんです。とても哀しくないですか。 <br>ごくシンプルなアレンジと、わかりやすいメロディーに乗せて、そんな内容が歌われるんです。 <br><br>初期の作品の一部を除いて、ミスチルの歌は、どんなにシンプルにやったつもりでも、長編小説のような重厚さが出てしまう。一曲で、他のアーティストのアルバム一枚分くらいある。その原因のほとんどが歌詞とアレンジにあると思います。桜井和寿の歌詞は批評力・批判力が強いし、小林武史のアレンジはまさしくプロのものとして、しかも非常に繊細な形で、練られているからです。シンプルとはいえ「ファスナー」も例外ではありません。けれどもこの「ファスナー」については、歌詞の「哀しさ」が、そういった「力」を少し和らげているような気がします。 <br><br>カラオケで歌うと必ず失敗します。シンプルだけど難しいのです。</font>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10319754657.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Aug 2009 04:50:51 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>和田アキ子「真夏の夜の２３時」(1998年)</title>
<description>
<![CDATA[ <div id="diary_body" class="FANCYURL_EMBED"><font color="#ffffff">和田アキ子に似合うのは、弦楽器ではなくて管楽器。スローテンポよりもアップテンポ。とにかくリズムが強調される曲と相性がいい。ずっとそんな風に思っていました。実際、初期の「古い日記」なんて、その典型だと思います。「Ｒ＆Ｂの女王」というのは決して大げさじゃない。 <br>そのような和田アキ子の特徴をうまく捉えて、それをメジャーなところに最初に甦らせた曲がこの「真夏の夜の２３時」だと思います。最近はクレイジーケンバンドと共演したりして、和田アキ子の初期の良い部分を復活させようとする動きが見られますが、それよりずいぶん前にこの曲は発売されました。 <br>作詞・作曲・プロデュースは小西康陽。元ピチカート・ファイブのこの人はすごい…。 <br><br>「真夏の夜の２３時」は、和田アキ子の歌の中でも、もっともテンポの速いもののひとつだと思います。そして、ブラスセクションが強調されたアレンジです。和田アキ子の声は、圧力が高いんですね。以前書いた奥居香もそうなんですが、なんというか、風船がぱんぱんに膨れているような声（わかりにくいですか）。それが管楽器と相性がいいんです。また、アップテンポだったり複雑なリズムを刻む歌の方が相性がいいと思います。和田アキ子のスローバラードは、僕にはたまに気持ち悪く聞こえます。メロディーが和田アキ子の声を持て余しているという印象で、無理やり歌わされている感じさえする。曲が声に追いついていないという感じ。「あの鐘を鳴らすのはあなた」のような極端に壮大な歌や、加藤登紀子が作った「今あなたにつたえたい」のようなマイナー調で抒情性の高いメロディーなら、リズムやテンポは気にならないのですが。 <br>その点、「真夏の～」は、和田アキ子の良さを最大限引き出していて気持ちがいい。 <br>この歌の気持ち良さは、特に最後のこの部分に表れています。 <br><br>真夏の夜の２３時　愛が消える <br>ライラ　ライラ　愛は死んだ <br>もう二度と　もう二度と　もう二度と <br>恋などしないから <br><br>「２３時」から最後の「もう二度と」まで、２音が交互に現れるだけのメロディー。そのリピートがとても気持ちいい。そして「恋などしないから」という着地も気持ちがいい。ブラスアレンジが、声の圧力をコントロールし、さらに高いところへと引き上げていると思います。 <br>破壊的とも言えるこの「気持ちよさ」が、和田アキ子の最大の特徴なんでしょうね。 <br><br>ピチカート・ファイブのカバーである「悲しい歌」とともに、もっと宣伝されてテレビで歌われたらよかったのになと思います。</font><br></div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10319065318.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Aug 2009 04:50:22 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>爆風スランプ「天使の涙」（1997年）</title>
<description>
<![CDATA[ 爆風スランプが作る曲も、ヒットしたものを見渡すと、J-POP的わかりやすさに満ちたものが多い。その中で注目すべきは、サンプラザ中野の歌詞です。 <br><br><font color="#ffffff" size="2">「天使の涙」のメロディーは本当にわかりやすい。サビはほとんど、クリスタル・キングの「大都会」のパクリのようです。けれどもそんなのは瑣末なこと。 <br>サビから始まります。 <br><br>神様わたしは　今日も約束どおりに　死なないで　何とか眠れそうです <br><br>実際に聴くとわかるのですが、わかりやすさとキャッチーさの中で「死」という言葉が出てくると、どきっとします。そしてあっという間に日本のフォークソング的な暗さに覆われてしまう。けれどもこの曲には、暗さだけではないものがあります。 <br><br>果てしない日々を　絶望の日々を　闘いの日々を　乗り越えんが為 <br>卍固め　回転海老固め　技をかませ　侮らない人生を <br><br>ドリカムの「何度でも」には、10000という数字と吉田美和の声に説得力がありました。ここでその説得力にあたるのは、「卍固め」「回転海老固め」です。ユーモアです。最初から最後まで大真面目に「絶望」や「闘いの日々」を歌われても、暗さだけが残ってしまい、泥臭さを拭うことができません。けれどもサンプラザ中野はその泥臭さを逆手にとっている。そこをテコにして、ユーモアを乗せる。そうすることで、歌の世界にアクセントがつく。そのアクセントとは、この歌には一見不似合いな「軽さ」です。ではそれは、歌の中でどのように機能しているのか。それは、この「軽さ」によって「絶望」が相対化されるということです。そこには、ありがちな暗さや絶望に溺れない、客観する視点が感じられます。すると聴き手としてはこの歌詞を信用しても良い気にさせられてしまう。 <br>そして最後にこの歌詞。 <br><br>神様わたしは　今日も約束どおりに　死なないで　何とか眠れそうです <br>天使の涙が　春雷の風にのって窓を叩く　切ない夜 <br><br>最後の一行が、曲の転調とサンプラザ中野のがなり声、それから上の「軽さ」を踏み台にして、歌を一気に「詩」に押し上げる。 <br><br>人ごみの中で疲れて涙を流す女性（たぶん）が、「天使」に喩えられています。その涙が「春雷」とともに降る雨と重なる。軽さと泥臭さの後で、いきなりそんな「詩」を突きつけられたら、感動しないわけにはいかない、と思うのです。</font>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10317743452.html</link>
<pubDate>Mon, 10 Aug 2009 05:10:27 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Dreams Come True「何度でも」(2005年)</title>
<description>
<![CDATA[ <font color="#ffffff">テレビＣＭでこの歌のサビが流れてきたとき、ちょっとした違和感を抱きました。ドリカムの曲は、僕が考えるJ-POPの定石、つまりＡメロで導入、Ｂメロで弾みをつけ、サビでわかりやすく気持ちよさを演出する、という枠から少しはみ出ていて、そこにちょっとした「プロ仕様」とでもいうべき高級感が漂うところに、その特徴があると思っていました。メロディーラインそのものも、素人には予想がつかない流れを見せることが多い。でも「何度でも」は違ったんです。J-POP的わかりやすさに満ちていて、しかもサビは単純なメロディーの繰り返し、機械的ですらある。どうしたんだろうドリカム、と思いました。そんなに売れたいのか、とさえ思ってしまいました。 <br>気になって借りてきました。それで、今言ったような考え方は浅はかだったと思い直しました。 <br><br>「未来は希望に満ちている」なんてことが、ただの幻想でしかないということに、もうみんなとっくに気付いているはずです。昨日も今日も明日も、何も変わらない。希望なんてそう簡単に持てない。日常地獄は延々と続く。それは自明のことです。けれどもJ-POPの歌詞は、いまだに「未来」や「明日」を高らかに歌います。「愛」のかけがえのなさを歌い上げます。たとえそれが絶望に満ちた歌でも、その背後にはかけがえのない「未来」や「愛」があるんです（だからこそ「絶望」が成り立つ）。「未来」が明るい力を持ち得ない時代の人々には、それらの歌は説得力を持ちません。しかもJ-POPの歌詞の言葉はあまり練られていない場合が多く、概念的・観念的になりがちで、オリジナリティーを持ったものは少ないと思います。金太郎飴的な既視感がつねにつきまとう。どの歌を聞いても「あなたが好き」「明日があるさ」としか聞こえない。 <br>聴けば聴くほど歌の説得力が薄れていく。安っぽくなる。そこをクリアするのは、ディテールやストーリー性、言葉遣い、それから、練られた音（あるいは勢いのある音）と、声の力・技術であると僕は思うのですが。 <br><br>「何度でも」はそのJ-POP的な安っぽさをクリアしていると思うんです。どのようにクリアしているのか。 <br><br>何度でも何度でも何度でも　立ち上がり呼ぶよ <br>きみの名前　声が涸れるまで <br>悔しくて苦しくて　がんばってもどうしようもない時も　きみを思い出すよ <br><br>ここだけ言葉だけで読むと、どうしても「安い」です。希望に満ちた未来はないとわかっている私たちには、説得力を持たない。既視感がある。問題は次です。 <br><br>10000回だめで　へとへとになっても <br>10001回目は　何か　変わるかもしれない <br><br>100回や1000回では、もうリアルじゃないんです。かといって10万回や100万回では逆に観念的になってしまう。10000という数字（歌詞カードは実際数字表記です）の、現代におけるリアルさ。絶望のぎりぎりから立ち上がろうとする意志が、この数字でリアルに伝わるのではないでしょうか。…いや、それでも実は安っぽいんです。これまでのJ-POP的「明日があるさ」とさほど変わらない。 <br>「何度でも」には10000という数字だけではない説得力もあると思います。 <br><br>最後のサビです。 <br><br>この先も躓いて傷ついて傷つけて終わりのないやり場のない怒りさえ <br>もどかしく抱きながら <br>どうしてわからないんだ？伝わらないんだ？　喘ぎ嘆きながら <br>自分と戦ってみるよ <br><br>この言葉をたたみかける吉田美和の声が、本当に強いんです。息継ぎなしで、音にアクセントをつけながら、「この先も」から「抱きながら」までを、強く押し出す。必死さが漂う。けれども歌として聴いたときは、バランス感覚を含めた確かな技術がありますから、感情の垂れ流しにはなっていない。抑制が利いていて、安定感もある。それから、吉田美和の声は、そもそも落ち着いたマイナー調の似合う声ですから（たぶん）、明るい歌を歌うときも、どこか影がつきまとう。この影が、単純な明るさに深みを与え、説得力をもたせる。つまり、技術に裏打ちされた必死さと影が、J-POP的な安っぽさからこの曲を救い出しているんです。やはり結局、吉田美和の声の強さと技術に行き着いてしまう。 <br><br>「何度でも」のメロディーのJ-POP的わかりやすさは、ドリカムの「プロ仕様の高級感」とは逆のやり方の、吉田美和の歌の力と歌詞のリアリティーを引き出すための装置だったのだ、ということに、ここまで書いてやっと気付いたのでした。</font>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10315707911.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Aug 2009 05:10:19 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Mr.Children「ファスナー」(2002年)</title>
<description>
<![CDATA[ <font color="#ffffff">アルバム「It’s a wonderful world」より。 <br>ミスチルについては、言いたいことがたくさんあるようで、そうでもないようで、微妙なのですが、とりあえずこの「ファスナー」という曲については言いたいことが大いにある。間違いなく名曲だと思います。 <br>特に歌詞に注目します。 <br><br>この歌の見た目はラブソングです。この歌で桜井和寿は結局「君が大切」と歌います。けれどその前提となっているものが、その辺のラブソングとは違うんです。 <br>一番のサビ。 <br><br>きっと　ウルトラマンのそれのように <br>僕の背中にもファスナーが付いていて <br>僕の手の届かない闇の中で <br>違う顔を誰かに見せているんだろう <br>そんなの知っている <br><br>ウルトラマン（後には仮面ライダーも出てくる）という比喩でユーモアを付け加えながら、「自分の知らない君がいる」と歌っているわけです。で、未知の君がいると知って、この「僕」が最終的に何を思ったのか。それが重要なんです。この曲を名曲たらしめている大きな理由のひとつになります。 <br><br>もしも　ウルトラマンのそれのように <br>総ての事にはファスナーが付いていて <br>僕が背中見せているその隙に <br>牙を剥くつもりでも　信じてみる値打ちは <br>あると思えるんだ <br><br>二番のサビです。ここでファスナーが付いているのは「君」に留まらず「総ての事」にまで広がっています。 <br>次のサビ。 <br><br>きっとウルトラマンのそれのように <br>僕の背中にもファスナーが付いていて <br><br>今度は自分にもファスナーを想定しています。 <br><br>自分の知らない君がいる。総ての事に関して、未知のことがある。自分の知らない自分だっている。…そう気付いた「僕」が思っていること。それが二番のサビにあるわけです。 <br><br>信じてみる値打ちは　あると思えるんだ <br><br>こんな風に歌う。「わからないこと」があることを、肯定しているんです。総ての事が未知の何かを含んでいても、それを受け入れている。信じようとする。そこがこの歌の眼目だと思います。たとえば、「自分の知らない君」がいたとき、普通のラブソングだったら、「僕」は嫉妬するでしょう。もしくは別れようとするでしょう。でもそうじゃないんですね。 <br>歌詞の最後の一行です。 <br><br>惜しみない敬意と愛を込めてファスナーを・・・ <br><br>「愛を込めて」、その上で対象との距離を置く。はじめからコミュニケーションのある部分を諦めているとも言えるんです。とても哀しくないですか。 <br>ごくシンプルなアレンジと、わかりやすいメロディーに乗せて、そんな内容が歌われるんです。 <br><br>初期の作品の一部を除いて、ミスチルの歌は、どんなにシンプルにやったつもりでも、長編小説のような重厚さが出てしまう。一曲で、他のアーティストのアルバム一枚分くらいある。その原因のほとんどが歌詞とアレンジにあると思います。桜井和寿の歌詞は批評力・批判力が強いし、小林武史のアレンジはまさしくプロのものとして、しかも非常に繊細な形で、練られているからです。シンプルとはいえ「ファスナー」も例外ではありません。けれどもこの「ファスナー」については、歌詞の「哀しさ」が、そういった「力」を少し和らげているような気がします。 <br><br>カラオケで歌うと必ず失敗します。シンプルだけど難しいのです。</font>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10315026077.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Aug 2009 05:24:22 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>チェッカーズ「ミセスマーメイド」(1991年)</title>
<description>
<![CDATA[ <font color="#ffffff">もう18年前の曲ですか。 <br><br>僕がチェッカーズのファンだった理由は、歌のメロディーが好きだからです。今自分で歌を作っていますが、とても影響を受けています。具体的にどんな影響を受けているかと言うと、メロディーの盛り上げ方です。Ａメロで抑えて入って、Ｂメロでサビへの助走をつけ、サビで歌い上げるというパターン。いわゆるＪ-ＰＯＰ的なやり方だと思います。Ｂメロからサビへのつながりと、サビの気持ちよさを追求するというやり方を、素人なりにやっているつもりですが、それはチェッカーズの影響です。 <br>だからチェッカーズに関しては、今まで、ほとんどそのアレンジや歌詞については考えることがなかったんです。でも、十代の頃の熱狂？を過ぎて、今改めて聞きなおすと、歌詞やアレンジに関して新しい発見が多い。とてもおもしろいです。 <br><br>さて「ミセスマーメイド」。 <br>これもザッツＪ-ＰＯＰ的な気持ち良さのあふれるメロディーです。藤井郁弥のクセのある声もよく合っている。 <br>最近改めて聞いているのですが、今聞いてもこのアレンジ、新鮮だと思うんです。特にドラムの表情の豊かさ。具体的には、弾けるような、砂を撒き散らすような音。それからリズムギター。曲を通して細かくフレーズを刻んでいます。こういうリズムギターって、今のヒットチャートに出てくるでしょうか。 <br>それから歌詞。 <br><br>約束の街で降り出した雨が <br>日にやけた　素肌を冷やしてゆくのさ <br>傘を差し出され　振り向いた時に <br>大人びた笑顔に　ふと息を止めた <br>白いハンカチ　とりだす　君の指に <br>何も言えずに　くちびるかんだ <br>恋しくて　せつなくて　君に会いに来たよ <br>あの夏の　あの恋は　幻だね　ミセスマーメイド <br><br>「大人びた笑顔に　ふと息を止めた」のは、自分がそこに追いついていないと気付いたからでしょう。「君」がとても遠くに感じられたんですね。「白いハンカチ」と書くと、ちょっと時代が古そうにも感じられますが、曲の中で郁弥が発音すると、この「白いハンカチ」が、とてもうまい小道具であることがわかります。雨に濡れた自分に向けて差し出されたハンカチは、真っ白で、それ自体はとても親しみやすい印象でもありますが、実際には違う。雨にけむってしまう「あの夏のあの恋」でしかない。だからこそ、強いせつなさを感じなければならない。親しみやすいはずなのにそうではないから、余計かなしく感じる。これは、今から見れば、ちょっと古くさく、クサいシチュエーションかもしれない。キザとも思えます。けれど、このようなシチュエーションを、小道具を生かして具体的に、観念的にならずに、ポップスとして仕上げることができる作詞家って、今のヒットチャートにそうはいないと思います。 <br>それから、夏が終わったあとの雨降り、という場面とサウンドの関連について。この雨が、弾けるように響くドラムや細かく刻まれるリズムギターと、うまく重なっていると思うんです。曲の中にずっと雨が降っているような感じ。サウンドが歌詞のイメージを効果的に増幅させている。もちろん、このサウンドのイメージから藤井郁弥がこの「雨」を設定したのかもしれませんが。 <br><br>何かのＣＭでまた使われたりしないかなあ。ヒットすると思うんですが。</font>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/jpop-taro21/entry-10314338428.html</link>
<pubDate>Wed, 05 Aug 2009 04:16:26 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
