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<title>週刊マサキ</title>
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<title>「ララランド」を観て</title>
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<![CDATA[ <p>先週、「ララランド」を鑑賞した。いきなりの冒頭のシーンでとても驚かされた。なぜなら、そこにはワンカットも挟んでいないかなりの長回しのシーンがあったからだ。最初にカメラが横に流れ出し、あとはアップとひきのショットを繰り返す。ひきのショットで観客に位置情報を把握させ、登場人物の顔をアップすることで映画に迫力を出している。ミュージカル映画は1カットが長くなりがちだが、このシークエンスはそれでも非常に長いといえる。またこの映画は色を多く使っている。エマストーン演じる主人公ミアがパーティーに行くシーンでエマの来ている服は黄色、友だち２人はそれぞれ赤、青。このようなカメラの長回しそして色を多く使う手法はフランスの映画監督ジャンリュックゴダールを思い出させる。ゴダールの「気狂いピエロ」や「軽蔑」にもこのような赤、黄、青の色の配置が至る所に現われる。またこのデイミアンチャゼル監督は感情を表現する媒体として、役者の表情の他に手とジャズを用いる。手をあえてアップにして何かを伝えることは過去の映画でも使われてきた技術ではある。例えばアランレネ監督の「二十四時間の情事」の冒頭のシークエンスの男女が交わっているときの手のアップはその男女の情欲さらには手の表情までもが読み取れる。またロベールブレッソン監督の「スリ」は手をアップに移すことにより、観客の頭の中に画面には映し出されていないある種の異空間を作り出している。しかしこの監督の特殊な点は、それに加えジャズを使っていることである。それもそのジャズはセバスチャンがピアノで弾いて初めて流れる、一種のリアリズムとも呼べる技法での挿入である。ミュージカル映画のようなあからさまにフィクションの映画にこのようなリアリズムの技法を用いるのはなかなか面白い点である。最後のオチについて、すなわちミアとセバスチャンが結ばれず、ミアにはすでに旦那や子どもがいるというのは、ジャックドゥミ監督の「シェルブールの雨傘」のオチと非常にかぶる。ただし、まったく同じではもちろんない。デイミアンチャゼルはミアとセバスチャンが結ばれいる、もう一つの世界を挿入しているのだ。これはライプニッツのいう「可能世界論」的考え方と言える。そしてこの考え方を取り入れている最近の映画が新海誠監督の「君の名は。」である。「君の名は。」も可能世界論ＶＳ運命という対立を基に構成されている。</p><p>以上のように、「ララランド」は今までの技術を継承しつつ新しい取り組みを施した新たなミュージカル映画であり、間違いなく傑作と言って良いのではないだろうか。</p>
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<pubDate>Mon, 27 Mar 2017 01:20:58 +0900</pubDate>
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