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<title>Kaiのブログ</title>
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<description>思ったことを書いています。</description>
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<title>久々に</title>
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<![CDATA[ <p>久々に開いてみた。なにかと忙しくて書く暇がなかったし、あれからいろんなことがあった。</p><p>マンションを購入から５年。紆余曲折ののち、今もそのマンションに暮らしている。</p><p>思った通り、緑に囲まれ、快適である。しかし、この快適さを今一番味わっているこの今、それが感染拡大による人類の窮地においてであることを、五年前、予想も空想もすることはできなかった。</p><p>そして、そんな中、このブログを久々に開き、この一文を記す。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-12590338084.html</link>
<pubDate>Fri, 17 Apr 2020 18:04:21 +0900</pubDate>
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<title>マンション</title>
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<![CDATA[ マンションを買った。<br>家を買うということ自体に、興味を覚えたことはこれまでなかった。<br>それでもそろそろ所有欲も出てきて、購入に至る。<br>購入するに際し、気をつけたこと。<br>立地。よく言われることだけど、山の上が好条件で高いと。<br>しかし最近は駅に近く、駅からフラットに歩ける場所のほうが若者には受けるとのこと。<br>僕としてはどちらでもいいけど、もうあまりごちゃごちゃしたところに住みたい気はしなくなった。<br>環境。立地に似てるけど、どんな環境が、どんな自分をこの先育てるのかを考えた。<br>これまで住んだところは確かに今の自分を育てた。とするなら、今後10年くらいはどうだろう？と。<br>やっぱり、緑が多くて、物を考えるための、散歩道があって、静かで空気もきれい。でも都心から離れていない。今回選んだ場所はおまけに、美味しいお店が多い、というのも加わった。<br>そのマンションには、緑も多かったので、購入の決め手になった。<br>やっぱり静かに物をじっと考えられる空間が欲しいんだなと思った。<br>今までと比べて不便なところもある。<br>駅からは９分。今までが７分。<br>さほど、差はないが、今までの７分は途中にいろいろお店もあったりして、すぐに着けた印象。<br>今度は住宅街だから、静かな道となり、やや距離を感じる。<br>しかし歩く中、静かに物を考えられる。<br>中心部からは少し離れるため、今までの様な便利さはないかもしれない。<br>しかし、今までの10年と違って、車を使ったりタクシーを使ったりすれば、そこまでの不便さはないはず。<br>便利さよりも、物を学び、ものを考える、その時間と空間を、この先重んじようと思った。<br>住環境の選択は、今と、この先の自分の設計をより明確にしてくれる。<br>今自分に必要なこと、この先自分に必要なことが浮き彫りになる。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-12046090627.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Jul 2015 13:38:31 +0900</pubDate>
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<title>陳腐化</title>
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<![CDATA[ <font size="3">小説というのは、一回、形が行き詰まって、そのスタイルというものが飽和し、コモディティ化・陳腐化したもののような気がする。実は音楽もそうだと思うのだが、小説はしかし律儀に小説でありつづけても、飽きられることはなかった。<br><br>　つまりストーリーというものは、とっくに飽きられたものでも、人生初めて接する時、新鮮味を持って受け入れられる。こういうからくりが小説にはあるのかもしれない。<br><br>　音楽について言えば、ぐるっと回って新鮮に聞こえるというメロディやスタイルもあるだろう。それでも、クラシックのスタイルに、現代の音楽が戻るということはない。それはやはり一度形式としてはコモディティ化して、現代音楽によって解体され、今に流れている。この流れは遡行しない。そこにはやはり、コモディティ化・陳腐化ということが作用しているように思う。<br><br>　最近のソニーのバイオの売却もそうだけど、電子機器やパソコンの陳腐化のスピードはすさまじい。パソコンはもはや、大型テレビと同じように、コモディティ化・陳腐化し、それを正面切って開発して売ること自体が反経済的な行為になってしまっているのだ。<br><br>　同じようなことは、音楽にも、小説にも起こっているし、もちろん、映画にも起こっている。<br><br>　昔エントロピーの増大ということがブームになって語られたことがある。脱構築という言葉が盛んに議論されたこともあった。今、この陳腐化という流れは、崩れることや、脱構築することとはまた違った、問題意識となっている気がする。</font><br><br><br>2015/07/03 追記：陳腐化、というのは、会得みたいなことか？　腐敗は次の成長への肥やしとなる。と同じように、陳腐化から、次の発見と成長の芽がでるのかもしれない。ということは、一度、陳腐化までの道を歩かないと、次への発芽には至れないのかも。飽きるということも含めて、想像には非常に重要なプロセスなのかもしれない。<br>例えば、小津の映画がある。あれは、陳腐化を自らのスタイルに組み込んだとも言える。そこからの発芽を、ほとんど包み隠す。しかし、我々はその陳腐化したスタイルの繰り返しに、生き生きとした新しい芽を、永久に感じ続けることになる。
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-11766423947.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Feb 2014 22:09:21 +0900</pubDate>
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<title>お酒</title>
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<![CDATA[ <font size="3"><br>最近、お酒をやめている。<br><br>一人で飲むことを、四ヶ月くらいやめている。<br>もちろん誘われれば、人とは飲みに行くが。<br>それも、仕事で忙しくて減っている。<br><br>日々が軽快に過ぎていく実感はある。<br>お酒を飲むと、どうにもこうにも、重い。<br>日々が重くなる。<br>そういう感覚から開放されて、日々やりたいことができるようになっている気がする。<br><br>お酒はいいものだ。<br>それはわかっている。<br>日々、飲んでたころも、悪いところよりも、良い所のほうをより享受していたように思う。<br><br>飲めば意識が覚醒して、より快活に、大胆になれた。<br>でも、それをやめて分かるのは、酩酊しない、クリアな時間の継続が、いかになめらかに、円滑に日々を進行させることかということ。<br><br>明晰な神経と感覚が進行し、ただ、眠気だけが意識のまどろみとなる。<br>その中間はない。<br>これがもたらす効果を考える。<br><br>子供の頃、意識は常に明晰で、永続的だった。<br>それがある考えを突き詰めるのに必要だったように思う。<br>空想を突き詰めるのに必要な時間だったように思う。<br><br>お酒を飲まなくなって、大人になって初めて、そうした時間を取り戻せているような気がする。<br><br><br><br></font>
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-11762333683.html</link>
<pubDate>Sat, 01 Feb 2014 10:10:00 +0900</pubDate>
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<title>早起き</title>
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<![CDATA[ 　早起きのできない日は、必ず夜更かししている。早起きをしたいが、したところで、絶対に居眠りをして、ほぼ、睡眠時間は元に戻っている。死ぬまでの睡眠時間の絶対量は、人によって様々だろうが、その人のキャパというものがありそうだ。<br><br>　早く起きるには、早く寝るしかない。みんなとしょっちゅう飲みに行ってるような生活を続けてては、無理。<br><br>　みんなとしょっちゅう飲んでも、一体人生、何が変わるのか。早起きをするよりも、何か得をすることがあるのか。十年間、みんなと飲むことを優先させ、早起きというものをないがしろにしていた自身の価値観を検証する所、どうも、みんなといくら頑張ってたくさん飲みに行っても、自身の中で大きく変化が現れることは無さそうだ。<br><br>　飲むのもいい。みんなと話して刺激を受けるのもいい。でも早起きはもっといい。付き合いを少し目減りさせても、自分と付き合う時間を朝たくさん持つ方がいいかもしれない。もしも、自分に成し遂げたい目的があるならば、特にそうである。<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-11266819475.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Jun 2012 09:28:50 +0900</pubDate>
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<title>カント</title>
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<![CDATA[ 　カントは、ある一点から、全てをある論理で見通すという従来型の方法を疑ったそうだ。その論理そのものが、必ず、様々な諸条件で揺らいでいるのを知ったから。<br><br>　この論理によって、あらゆる事象を見渡す方法というものは、哲学ではなく、「数学」に由来するらしい。「数学」の根源的な方法とは、一つの公理から、あらゆる事象を分解し、証明する。しかし数学においても、この公理というものが揺らぐ限界を見つけていた。非ユークリッド幾何学の提唱などがそれである。<br><br>　僕らが生きている中では、すでに感覚的に、こうした「ひとつの論理からすべてを見渡そうとする」こと自体、経験的感覚的レベルで、古風なもののように思えている。この感覚は、すでに１９世紀や２０世紀においてもうっすらと漂っていたのだろうか。当時はまだ宗教の力が支配的だった。哲学上で議論されて来たことが、今、我々の社会の中で、肉眼でも透視できるようになって来たのだろうか。<br><br>　社会というもの、世界というものは、それほど分かりやすく様相が変わっていくものだろうか。人間の意識が、社会を変えるのだろうか。だとしたら、当時語られていた哲学的な意識が、世界のありようを、科学、数学、様々な観点から変えて来たと言えるのだろうか。それとも単なる気のせいなのだろうか。<br><br>　これからの世界の見え方は、過去の哲学に見ることができるのかもしれない。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-11265198608.html</link>
<pubDate>Thu, 31 May 2012 11:02:54 +0900</pubDate>
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<title>今日</title>
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<![CDATA[ 今日は映画を見たり、片付けた部屋でのんびりしたり。<br>テレビのような映像が、人々の好みの映像になっている気がする。<br>テレビのような映像とは、テレビで見るような、見心地の良い映像だ。<br>ぼんやり見ていても、苦にならない映像。<br>意識に直接働きかける映像というものは、思いのほか、バリエーションに乏しいのかもしれない、と思ったりする。人々は生理的に、映像に沢山のバリエーションをそれほど求めていないのかもしれない、とも。<br>全く新しい革新的な映像……こんな言葉がいつの日か、古い言葉になるのかもしれない。というか、もうすでになっているのかも。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-11251525263.html</link>
<pubDate>Tue, 15 May 2012 20:30:37 +0900</pubDate>
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<title>「新しい」ものを「作る」</title>
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<![CDATA[ 　物を作るといっても簡単なことではない。<br>　まずはじめに、何を作るのか？　例えば僕の場合は、目に見える物を作りたいと思う。視覚に訴えたいのだ。<br>　しかしなぜ視覚に訴えたいのか？　なぜなら、人は目に見える物に対しては、従順だ。耳で聞く物に対しては寛容だ。肌で感じる物に対しては、利己的だ。<br>　視覚というものに対して、僕は活発に刺激を与えたいと思う。<br>　世の中に、新しいというものがあるとしたら、それは感覚的な問題にすぎない。新しい物は常に古い物の累積だ。<br>　見え方が新しいだけであり、常に古い物の累積によってしか、新しさは表現できない。<br>「新しい」の逆は、「古い」ではない。<br>「新しい」の逆は、「未知」である。<br>「未知」なるものに、新しさは無い。むしろそれは、真逆からの支配があるばかりだ。<br>　ところで、僕は、未知なるものを人々の視覚に与えたい。
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-11227881552.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Apr 2012 01:52:15 +0900</pubDate>
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<title>カント</title>
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<![CDATA[ 　ある日、彼女が聞いて来た。<br>「カントって、わかる？」<br>「分かるよ」<br>　彼は一応、大学４年の文学部だ。<br>「どんな人？」<br>「どんな人って？　性格？」<br>「何やった人？」<br>「哲学の人だろ」<br>「哲学で何やった人？」<br>「批判した人だろ」<br>「批判って？」<br>「純粋に理性を批判した人だよ。あんじゃん『純粋理性批判』」<br>「へぇ」<br>「へぇって、しらねーの？　純粋理性批判」<br>「知らない」<br>「じゃなんでカントのこととか聞いたの」<br>「いや、なんか知ってるかなと思って」<br>「カントって言ったら、純粋理性批判だろ」<br>「理性を批判したの？」<br>「そう。純粋に」<br>「凄いね」<br>「凄いか？」<br>「だって、理性ってさ、批判していいの？」<br>「いいよ！そんなもん。自由だろ」
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-11227878220.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Apr 2012 01:41:22 +0900</pubDate>
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<title>考えること</title>
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<![CDATA[ 何か考えることというのは、この現代、難しいと思う。非常に沢山の情報が舞い込んで来る中で、何かに対して集中的に考えるということが、困難んいなってきていると感じる。<br>　昔から自分で考えながら行動している人間というのは、こういう状況にあっても、考えることが「得意」である。<br>　今、一体なにを考えていくべきなのだろうか。現在においては、「戦時中」と同じように、現実的な問題について答えを出さなければならないように思う。こういう時、「抽象」は、非常に蔑まれてしまう。そういうものは理解されないし、尊ばれない。具体的なものを考え始めるとやはり各論になる。そこでは、非常に論理的なものよりも、状況を把握しながら、常に、その先を考え抜く結論的な断定が尊重されるように思う。<br>　今はなにを考えるべきだろうか。なにが必要とされているのだろうか。現実への断定と決定と結論だろう。そういう時代は常に忙しい。「抽象」と戯れる時間はない。しかし「抽象」が次のまったく得体のしれない将来という時代の方向性を示す。示すて係となる。しかし、こんな時代に、「抽象」は必要ない。<br>　そんな時、なにをするべきなのだろうか。何かは分からないが、「物」を作ることに徹することが、ある種の抽象を表現するのかもしれない。
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<link>https://ameblo.jp/kai-sinsuke/entry-11222430212.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Apr 2012 00:06:58 +0900</pubDate>
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