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<title>kakeromaのブログ</title>
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<title>チューリップ263球</title>
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<![CDATA[ この程、植えたチュ－リップの球根は、２３種（ブログに載せたもの以外も含めて）、２６３球になりました。ついでに、ユリも植えました。鹿の子ユリ、ヤマユリ、オニユリ、リリーポップ<br>みんな、上手く咲いてくれるでしょうか？<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101227/08/kakeroma1/f7/c5/j/o0128012810943351936.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101227/08/kakeroma1/f7/c5/j/o0128012810943351936.jpg" alt="$kakeromaのブログ" border="0"></a></div><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101230/11/kakeroma1/36/1e/j/o0160012010949817078.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101230/11/kakeroma1/36/1e/j/o0160012010949817078.jpg" alt="$kakeromaのブログ" border="0"></a></div><br><br><br>植木鉢の数は２３、長方形の短いプランター４　計２７。<br>使用した用土は、２０ℓ　６袋<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101230/11/kakeroma1/4a/80/j/o0240032010949812966.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101230/11/kakeroma1/4a/80/j/o0240032010949812966.jpg" alt="kakeromaのブログ" border="0"></a></div><br><br>●<div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20101230/11/kakeroma1/99/85/j/o0240032010949812965.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20101230/11/kakeroma1/99/85/j/o0240032010949812965.jpg" alt="kakeromaのブログ" border="0"></a></div>
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<pubDate>Sat, 21 Nov 2015 04:16:42 +0900</pubDate>
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<title>パリの建物</title>
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<![CDATA[ 古い写真ですが、私がパリを一番好きだった頃（23年前）です。一階のお店の看板、シックです。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20100514/13/kakeroma1/f5/65/j/o0600040010540951581.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20100514/13/kakeroma1/f5/65/j/o0600040010540951581.jpg" alt="kakeromaのブログ" border="0"></a></div><br><br><br><br><br><br>下の写真は数年前のものです。パリの建物に看板を多く見かけるようになりました。<br>左下に緑の看板がありますが、これは入居者募集の看板です。<br>20年前のパリは、今程、看板を見ませんでした。<br>また、窓枠を見て下さい。凝ってますね～。そして、アイアン（窓についている黒いフェンスみたいなヤツ）もいい感じと思いませんか？<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20100514/13/kakeroma1/27/7a/j/o0800060010540950865.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20100514/13/kakeroma1/27/7a/j/o0800060010540950865.jpg" alt="kakeromaのブログ" border="0"></a></div>
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<pubDate>Fri, 29 Mar 2013 01:23:29 +0900</pubDate>
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<title>フランス〜地中海（２）</title>
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<![CDATA[ プロバンスと言えば、ゴッホ、モネ、ルノワール、セザンヌ、シニャック、シャガール等の<br>画家を思い起こします。しかし、私が10数年前にプロバンスを歩いた時に、住宅のユニークさ<br>に魅かれました。<br><br>石を使った玄関、窓の形などありますが、とりわけ興味深く思ったのは、<br>瓦です。瓦は素焼きで、テラコッタの一種です。<br><br>写真の屋根の下を見て下さい。これは、瓦を重ねて、薄暗い部分に長い濃い影をつくり、<br>ファサードをより明るく見せる効果を持っています。<br>この重ねた屋根の事を「ジュノワーズ」といいます。<br><br>パリでは、見る事のない屋根になっています。<br>建物を見るだけでもプロバンスは、パリとは異なる文化や暮らしが<br>育まれてきたことが分かります。<br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20100509/20/kakeroma1/07/e6/j/o0600045010534076670.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20100509/20/kakeroma1/07/e6/j/o0600045010534076670.jpg" alt="$kakeromaのブログ-プホテル" border="0"></a><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20100509/20/kakeroma1/32/b4/j/o0300022510534077692.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20100509/20/kakeroma1/32/b4/j/o0300022510534077692.jpg" alt="$kakeromaのブログ" border="0"></a><br>　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>
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<pubDate>Sun, 03 Mar 2013 20:43:45 +0900</pubDate>
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<title>下手でも勝てる!? 開成高校野球部の“異常な”戦術</title>
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<![CDATA[ 開成高校といえば、なんといっても「東京大学合格者数第一位」。生徒の4～5割が東大に行く、「賢い学校」という印象がある。その野球部と聞けば、さぞかし弱いだろう、とまず想像してしまうのだが、東京都大会でベスト16まで勝ち進んだという。すごい。でも、なぜ？……そのナゾに迫るのが、今回紹介する『「弱くても勝てます」: 開成高校野球部のセオリー』（高橋 秀実／新潮社）である。<br><br>　まず、平成17年全国高等学校野球選手権大会の東東京予選における開成高校の戦績を見てほしい。<br><br>・1回戦　開成10－2都立科学技術高校（7回コールド）<br><br>・2回戦　開成13－3都立八丈高校（5回コールド）<br><br>・3回戦　開成14－3都立九段高校（７回コールド）<br><br>・4回戦　開成9 －5都立淵江高校<br><br>・5回戦　国士舘高校10－3開成（7回コールド）<br><br>　なんというか、ものすごく大雑把な感じがしないだろうか？　著者はこう書く。「野球は9回裏まで何が起こるかわからない」という決まり文句があるが、開成の野球には9回がないのである、と。<br><br>　著者が開成高校の練習を見に行った際の、最初の感想を記しておく。<br><br>下手なのである。<br><br>それも異常に。<br><br>　内野ゴロが野手の股の下を抜け、球拾いをしている選手の股も抜け、壁にぶつかるまで転がり続ける。フライの落下点を誤って後逸し、走塁すれば足がもつれそうになる。キャッチボールでさえエラーするので、いつ球が飛んでくるかわからず、百戦錬磨の著者をして、「危なくて気が抜けない取材」だったという。<br><br>　レフトを守る3年生は言う。<br><br>「内野は打者に近い。近いとこわいです。外野なら遠くて安心なんです」<br><br>　彼は固い地面もこわいそうで、ヘッドスライディングができないという。<br><br>　サードの3年生は胸を張る。<br><br>「エラーは開成の伝統ですから」<br><br>　エラーしまくると相手は油断する。エラーは一種の戦略でもあるのだ。<br><br>　そして個人的に一番気に入ったのは、2年生のピッチャーのこの一言<br><br>「実は、僕は逆上がりもできないんです」<br><br>　念のため書いておくが、小学2年生ではなく、高校2年生である。<br><br>　開成高校野球部には送りバントやスクイズはない。そもそもサインプレーがなく、監督は大声で指示を出す。サインプレーをし、スクイズで1点取っても、意味がない。なぜならていねいに1点取ったところで、その裏に相手に10点取られてしまうからだ。<br><br>「送りバントのような局面における確実性を積み上げていくと結果的に負けてしまうんです」とは聡明なる監督の弁である。…<br><br>そんな開成高校野球部の戦略は以下のようなものだ。<br><br>　まず、1番から6番まで、できる限り強い打球を打てる選手を並べていく。もっとも強い打者は2番。そして、ひたすら強振する。一番チャンスがあるのは8番、9番からはじめるイニングで、彼らがうまいことヒットやフォアボールで出塁した場合だ。下位打線を抑えられなかったことで動揺する相手ピッチャーに1番が強振して長打、そして最強の2番打者が打つ。弱いチームに打たれたことにショックを受けている相手を逃さず、後続がとにかく振り抜いて連打を食らわせして大量点を取るイニングを作り、そのままドサクサに紛れて勝つ、のだそうだ。<br><br>　超進学校の勝てるセオリーは「ドサクサ」なのである。そして、実際そうやって勝ち上がってきたことは、冒頭の戦績で見た通りだ。<br><br>　青木監督は言う。<br><br>「チームに貢献するなんていうのは人間の本能じゃないと思います」<br><br>「思いっきり振って球を遠くに飛ばす。それが一番楽しいはずなんです。生徒たちはグラウンドで本能的に大胆にやっていいのに、それを押し殺しているのを見ると、僕は本能的に我慢できない。たとえミスしてもワーッと元気よくやっていれば、怒れませんよ。伸びやかに自由に暴れまくってほしい。野球は『俺が俺が』でいいんです」<br><br>　実は青木監督は選手時代、常にチームに貢献することを考え、送りバント、セーフティーバントの練習ばかりしていたという。その経験を経て気づいたことを、選手たちに託しているのだ。<br><br>「大人になってからの勝負は大胆にはできません。だからこそ、今なんです」<br><br>　本当にそうだと思う。自分の楽しさのために、ただ思いっきりバットを振る。そんな素晴らしく心地良い経験は、大人げない大人ならいざ知らず、多くの人にとってなかなかできない。東大をはじめとする有名大学に進み、将来、国や企業の要職につくような開成高校の子たちならなおさらであろう。<br><br>　そして、最終章では、平成24年東東京予選大会でベスト16進出に挑む彼らの姿が描かれる。彼らの空振りが空気を震わせるさまは感動的でさえあり、「爆発の予感」を感じさせるのだ……。＜レビュー／土屋 敦（HONZ）＞<br>
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<link>https://ameblo.jp/kakeroma1/entry-11370893696.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Oct 2012 11:07:43 +0900</pubDate>
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<title>どん底時代のスティーブ・ジョブズ3</title>
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<![CDATA[ つまりクルマに個性が無くても、ただ庶民に手が届くというだけで十分だったのだ。でもそういう時代はすぐに終わる。」<br><br>というものでした。そして：<br><br>「次に来るのはね、個性の時代なんだよ。例えばクルマで言えばポルシェとかそういうイメージだ。ポルシェがＧＭと同じエンジンを搭載していたら、誰も買わないだろう？」<br><br>「つまり消費者が思い入れを持ってくれるような狂おしいほど魅力ある、個性的なコンピュータをデザインしようと思えば、全てをコントロールする必要が当然あるのだ！」<br><br>その後、アップルは５色のボディカラーをもつiMacを出し、業績を急角度に回復してゆきます。<br><br>ある日のミーティングで「そろそろスティーブも暫定ＣＥＯというタイトルを単なるＣＥＯにした方がいいんじゃないの？」という声がＨ＆Ｑの社員の間から上がりました。<br><br>でもその時にスティーブは「いや、これはまだ暫定のままでいいんだ」と強く否定しました。<br><br>結局、誰からも文句を言わせないだけ十分に実績が出来るまで、スティーブは３年近くも暫定ＣＥＯというタイトルを使いました。<br><br>その意地になった様子はまるで親と喧嘩して、すねた高校生のように感情が剥き出しでした。<br><br>その時、我々Ｈ＆Ｑの社員はスティーブがアップルを追い出された時、彼が心に負った傷がどんなに深かったかを思い知ったのです。<br><br>どんなに逆境でもプライドを失わず、自分のビジョンを曲げなかったスティーブ・ジョブズですが、ビル・ハンブレクトは自分の投資銀行家のキャリアを回顧して次のように語っています。<br><br>Quality deals are not measured in size, and only over the long term. Therefore, let us be aggressive in betting on people.<br><br>どんなに素晴らしいＩＰＯを手掛けたかは調達金額の大きさでは測れない。そして長い年月を経て初めてそれが良いディールだったかどうか判明する。だから僕たちは経営者の「人物」にアグレッシブに賭けよう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kakeroma1/entry-11040413683.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Oct 2011 05:56:12 +0900</pubDate>
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<title>どん底時代のスティーブ・ジョブズ2</title>
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<![CDATA[ でも（本当はスティーブは行き場所が無いんだな）という事はＨ＆Ｑの社員は皆、ひしひしと感じていました。<br><br>つまりNeXTでもピクサーでも仕事が行き詰っており、両社とも「硫黄島玉砕」みたいなギリギリの状態でしたので、心を開いていろいろ相談したり、長期的なハイテク業界の未来について心おきなく語ったりすることが出来る環境ではとてもなかったのです。<br><br>スティーブが来ると「じゃ、折角だからサンドイッチを買って、ブラウンバッグ・ランチにしよう」という事で株式営業部員は全員トレーディング・デスクを離れ、会議室でスティーブを囲みました。<br><br>僕の仕事はスティーブのサンドイッチを会社の斜向かいにあるサンドイッチ屋、「スペシャルティーズ」から買ってくることです。<br><br>「スティーブ、サンドイッチは何にしますか？ターキーですか、ハムですか？」<br><br>「パンはホール・ウィートですか、ホワイト・ブレッドですか？」<br><br>僕がスティーブ・ジョブズと最初に口を利いたのは、そんなやりとりでした。<br><br>スティーブを囲んだブラウンバッグ・ランチはいつも無礼講みたいな感じで活発なテクノロジー談義になり、スティーブのビジョン、さらに彼の美意識ということ知る上で大変貴重な経験になりました。<br><br>ピクサーに関しては「映画作りでいちばん大切なのは心にグッとくるストーリーだ。映像が美しいことも大事だけど、コンピュータが可能にする特撮に技巧の虜になってはいけない」という事を強く主張していたのが記憶に残っています。<br><br>ＰＣに関しては当時はウインテルの黄金時代でしたので「ＰＣでおよそＰＣで最も付加価値がある部分はマイクロプロセッサーとＯＳであり、これはインテルとマイクロソフトがおさえている。だからそれらを内製するのは自殺行為だ」という事が世間の常識になっていました。<br><br>アップルはその後、NeXTを買い、スティーブは暫定ＣＥＯというカタチで１９９７年からアップルに戻ります。その時のアップルはどんどんキャッシュを燃焼していて、「あと何カ月持つかしら？」という状態だったと記憶しています。<br><br>「こんなに財務的リソースがカツカツになっているのに、ＯＳからコア・プロセッサーまで全て自前で開発するメリットはどこにあるのですか？」<br><br>僕はそういう質問をスティーブにしました。<br><br>スティーブの答えは：<br><br>「いまはパーソナル・コンピュータには個性は無いけれど、これはちょうどフォードがモデルＴを出した頃の状況と同じさ。…
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<link>https://ameblo.jp/kakeroma1/entry-11040413571.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Oct 2011 05:55:31 +0900</pubDate>
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<title>どん底時代のスティーブ・ジョブズの思い出1</title>
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<![CDATA[ <br>http://www.excite.co.jp/News/market/20111006/Markethack_5916144.html<br><br>ここ数年のスティーブ・ジョブズはiPhoneやiPadなどを次々に成功させ、殆ど神格化された存在でした。そんなスティーブ・ジョブズにもやることなすこと全て上手く行かない極度のスランプの時期がありました。<br><br>僕はたまたま仕事の関係でスティーブがどん底の時期に彼という人物を知るきっかけがあり、大変強い印象を受けました。<br><br>それは１９９６年から２０００年にかけての時期です。<br><br>スティーブは１９８３年に自分が雇ったペプシコーラ出身のジョン・スカリーとソリが合わなくなり、重役会にはかった結果、自分が創業したアップルから追い出されました。<br><br>そしてNeXTを創業しますが、１９８８年に発表したNeXTの黒いＰＣは高価過ぎて全然売れませんでした。<br><br>また映画、『スターウォーズ』シリーズを制作したジョージ・ルーカス監督のインダストリアル・ライト＆マジック（＝現在のルーカスフィルム）からコンピュータ・グラフィックス部門を買収し、ピクサーと命名し、コンピュータ・グラフィックス専用のハードウェアを発売しますが、これもぜんぜん売れませんでした。<br><br>売れないグラフィックス・コンピュータの処置に困ったピクサーの社員が何とか食いつなぐためにＣＭの映像制作の下請けをしたのが映画製作会社としてのピクサーの始まりだったわけです。<br><br>スティーブが僕の勤めていたサンフランシスコの投資銀行、ハンブレクト＆クイスト（Ｈ＆Ｑ）によく遊びに来たのはそんな当時です。<br><br>「よお、ビルの親爺、居るか？」と突然、やってきてＨ＆Ｑの創業者であり会長であるビル・ハンブレクトと歓談してゆきました。<br><br>ビル・ハンブレクトはアップルが１９８０年にＩＰＯしたときのアドバイザーであり、Ｈ＆Ｑはモルガン・スタンレーと並んでこのディールの主幹事を務めました。<br><br>墓石広告ではモルガン・スタンレーが左側（上位）に位置していますが、これは会社の規模がモルガン・スタンレーの方が大きかったからで、もともとスティーブ・ジョブズに上場会社になるときの細かいアドバイスを与えていたのはビル・ハンブレクトでした。<br><br>スティーブの意向で「バルジ・ブラケット（大手の意味）証券を噛ませたい」と言われた時、ビルが旧友でモルガン・スタンレーのＣＥＯを務めていたディック・フィッシャーに電話したのです。<br><br>そんな事からスティーブはビルのことを父親のように慕っていました。<br><br>「ちょっと近所まできたからさ」<br><br>そう言ってスティーブが会社に寄るといつもＨ＆Ｑの社員はスティーブを暖かく迎えました。…<br>
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<link>https://ameblo.jp/kakeroma1/entry-11040413426.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Oct 2011 05:53:04 +0900</pubDate>
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<title>もう１つの柔道〜増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』〜４</title>
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<![CDATA[ さて、ここまであえて触れなかったことがある。表題にも謳われている「対力道山」の側面だ。戦後の木村は、師・牛島辰熊が創設に携わったプロ柔道に参加したことを皮切りにプロ格闘家としての道を歩み、力道山よりもはるかに早くプロレスラーとしてデビューを果たす（その戦跡は「Ｇスピリッツ　VOL.21」に詳しい）。常に格闘界の最前線を走り続けた男がなぜ力道山に負けたのか。それを探究するのが本書のもう１つの役目である。<br>すでに巷間に知れ渡っていることであるが、プロレスは真剣勝負ではない。あらかじめ勝敗の決まったショーであり、観客に娯楽を供するための芸能である（そして当時は興行を仕切る黒社会の力関係までが勝敗に影響していた）。そのことを当事者の力道山と木村は承知の上で1954年12月22日の試合に臨んだ。しかし待っていたのは娯楽とは程遠い凄惨な流血試合であり、木村は力道山によって一生消えない心の傷を刻まれた。始まったばかりのＴＶ放送により、自分がマットに屈するさまを全国に放映されてしまったのだ。木村の74年の人生においてちょうど中間点にあたる37歳での出来事だ。木村は残りの37年を、悔恨に包まれながら送ったという。華々しい前半生と比べてなんと痛ましく、なんと暗い時間なのだろうか。<br>柔道経験者である増田は心情の上で明らかに木村贔屓だ。なんとか文章によって木村を救おう、名誉を回復しようという気持ちが行間から滲んで見える。しかしノンフィクションの著者として公平でもあろうとする。その揺れ方に著者・増田俊也の人間が見えている。本書が凡百の格闘技本と一線を画すのは、その揺れがあったからこそだ。著者は心の底から木村政彦に惚れ抜いており、それゆえに真実をもって故人を悼もうともしている。ところどころで魂の叫びというべき記述があり、胸を熱くしながらそれを読んだ。これは読者が増田の視線を借りながら木村政彦に惚れていく本でもある。<br>もっとも心を奪われたのは、木村とエリオ・グレイシーが闘いを通じて心を通わせていくくだりである。強く厳しい木村には素朴で優しい素顔があった。そのことがエリオとの対話の中でわかるのだ（思想家として名を馳せた師の牛島と対照的に、木村はいつまでたっても熊本出身の悪童のままだった）。だからこそエリオは自分を子供のようにあしらった木村の実力に敬服し、自分の腕を砕いた技・腕がらみをキムラ・ロックと呼んで自身の技体系に組み込んだ。<br><br>最晩年のエリオ・グレイシーの述懐は、木村政彦に対する最大の敬意を表したものである。<br>「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘られぬ屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない。五十年前に戦い私に勝った木村、彼のことは特別に尊敬しています」<br>講道館が黙殺し七段のまま留め置いている男。力道山が日本マット統一のために利用し、負け犬として葬り去った男。その真価は日本ではなく、地球の裏側で伝えられ続けてきた。<br>（杉江松恋）
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<pubDate>Mon, 03 Oct 2011 23:14:36 +0900</pubDate>
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<title>もう１つの柔道〜増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』〜３</title>
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<![CDATA[ これが戦後になって消滅した理由は、戦中に東條英樹によって組織が私物化された歴史があり、ＧＨＱに守旧勢力として睨まれたためだ。<br>もう１つは1914年に第1回大会が開かれた高専柔道である。これは戦前の旧制高校（戦後になって東京大学教養学部などの各国立大学に吸収）旧制専門学校（徳島大学や同志社大学などの前身）の学生が選手として競い合っていたもので、講道館柔道とは一線を画すルールが適用されていた。投げからではなく組み合ってすぐに寝技に入る「引き込み」が許されていること、寝技の膠着状態による「待て」がないことなどの特徴がある。また、十五対十五の団体勝ち抜き戦が適用されていたため、弱い選手であっても技術を学べば強い選手を引き分けで止めることが可能だった。このため選手たちは知恵を絞り、大会のたびに新しい技術を考案されるという技術革新が成し遂げられたのだった。木村の師である牛島辰熊は早くからこの高専柔道に着目し、技術を学んだ。それを木村政彦にも教えたのである。後にエリオを破った腕がらみの技は、高専柔道仕込みの技術から生まれたものだ。高専柔道家たちの闘志はすさまじく、敗れるときとはすなわち意識を失い、骨が折れるときだったという。<br>『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の魅力は、この高専柔道を中心とした技術論があることである。牛島・木村の師弟は格闘技術を貪欲に学び続けた。木村は投げ技で大外刈り、極め技で腕がらみという二大武器を身につけたが、それに飽き足らず当時は柔道の下に見られていた空手にも関心を持ち、近代空手の祖である船越義珍の松涛館に通って打撃をマスターしていた。真剣勝負においては組み合っての投げで決することはなく、間合いをつめるための打撃、組み敷いて戦闘能力を奪うための寝技が必ず必要になる。つまり今でいう総合格闘技に近いものを「柔道」として認識していたと増田は指摘するのだ。<br>対する講道館柔道はＧＨＱの手前もあってスポーツ化を意識しすぎたために始祖・嘉納治五郎が認めていた当て身（打撃）を排除し、一度投げてからではないと寝技には入れないというルールを作って柔道における投げ技の特権を確保しようとした。その結果歪みが生じ、東京オリンピック以降に外国人選手の台頭を許してしまうのである。講道館柔道が世界柔道の中で孤立している状況を、柔道を愛する者として増田は憂う。こうした形で一者支配による歴史の粛清、技術が絶えたための弱体化という現状が描かれているのだ。
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<pubDate>Mon, 03 Oct 2011 23:13:39 +0900</pubDate>
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<title>もう１つの柔道〜増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』〜２</title>
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<![CDATA[ 当時のブラジルでは日系人社会が敗戦のために混乱の極みに達していた。現地ではすでに日本人柔道家・前田光世の流れを汲むブラジリアン柔術が勃興していたが、それを日本の伝統競技である柔道で圧倒し、民族の誇りを取り戻そうと考えた者があったのだ。講道館が支配する戦後柔道界と訣別し、結核に倒れた妻の医療費を稼ぐために海外へと雄飛していた木村に呼び声がかかった。木村はプロレス・プロ柔道交じりの興行を打ちながら現地を訪れ、やがてエリオ・グレイシーの挑戦を受けてこれを一蹴する。決まり手は戦前から得意にしていた関節技の腕がらみだった。グレイシー一族が来日し格闘技界を席巻した際、平成のマスコミはこれを黒船の来襲に喩えた。しかしそれ以前に敵地へと堂々と乗り込み、日本武道家の実力を見せ付けた男があったのだ。<br><br>すでに木村政彦をめぐる言説が多数流布されている。本書で増田俊也はそうした「伝説」の１つ１つに、一次資料の検証という地道な作業によって光を当て、虚実の別を明らかにしたのである。木村を巡っては正史編纂が可能な立場にある２つの団体がその存在を抹消、あるいは誹謗によって卑小化しようとしてきた。その１つが日本柔道連盟と一体の関係にある講道館、もう１つが力道山の興した日本プロレス協会の流れを汲む団体とその息がかかったプロレス・マスコミである。1993年11月にグレイシー一族の一人であるホイス・グレイシーが第1回ＵＦＣ大会に優勝し、「マサヒコ・キムラは我々にとって特別な存在である」と発言しなければ、まだまだこの封殺状態は続いたはずだ。<br>本書で増田は木村伝説の検証と同時に歴史の暗部から２つの事実を発掘している。１つは戦後・講道館によって日本柔道界が統一される以前には、２つの対抗勢力があったという事実である。もう１つは、それらの流派には近代以前の遺物（古式）どころではなく、スポーツとしての柔道を標榜する講道館の柔道からは失われた技術が継承されていたということだ。特に高専柔道についての詳細な記述は素晴らしい。<br>講道館に対抗する２つの勢力とは、１つが1895（明治28）年に発足した武徳会である。1882（明治15）年に設立された講道館に対抗するために古流柔術の各派が結束したもので、講道館が独占しようとしていた段位の発行（五段まで）の権利を持ち、特に関西以西では講道館を凌ぐ勢力を誇っていた。前述の唯一木村政彦を破った男である阿部謙四郎はこの武徳会に属していた。
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<link>https://ameblo.jp/kakeroma1/entry-11037436563.html</link>
<pubDate>Mon, 03 Oct 2011 23:12:54 +0900</pubDate>
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