<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>kama-9のブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/kama-9/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/kama-9/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>北関東の釜屋の起源</title>
<description>
<![CDATA[ <i>kama-9さんのプロフィールページ</i><br><p><a href="https://profile.ameba.jp/me">https://profile.ameba.jp/me</a></p><p><br></p><p></p><p></p><p dir="ltr" id="docs-internal-guid-01cb8084-7fff-3b7f-47ae-578bfd7e3c31"><span>北関東の釜屋の起源</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　江戸時代に北関東や利根川周辺の河岸で大活躍して飛躍的に商売を広げた釜屋商人たちはみな近江に起源を持っている。特に有名なのは渡良瀬川支流の栃木町の釜屋兄弟や江戸川の西宝珠花河岸の釜屋市兵衛や源兵衛である。高崎の釜九の祖先は河岸問屋で豪商として知られた市兵衛になる。彼らは、江戸時代の経済、物流の大きな部分を担った。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="151.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXfRpQPOsB4dyn7gx6hkAyJlXXC4gH5jxVFb2wWTlfArWHjIVBih_vxkNy9CnZD0trWLHbswoOq6T9EhNM1VLN6DApDQ0vPwatqx2zK8Nei-72oOTgvGN2FaWk9JVjvKpeHzhrOhhIQvYg=s2048?key=km3pGDBEj3x6MMQT4Zj5zw" width="227.0"></span></p><p dir="ltr"><span><img height="151.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXe9N_GbwJhuPlFAw4RuSFKngsQz2POHp-wB5Fty7YSAOvGsTQq6rAn5nqMpkZC5y5J_uUSd6NWwsWlJMY9EBemBrB-kuYkXH26_LdEXfvwOnK3SHkLMNow8pzycLJEPSJIEe1G_BDnvFg=s2048?key=km3pGDBEj3x6MMQT4Zj5zw" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　近江の彼らの出身地、野洲川周辺の守本や山村は、辻鋳物師や近江日野商人の主流からは少し外れた郊外の地になる。だから朝廷に与治郎の釜が献上されたり、江戸期には幕府の御用鋳物師になる井口天神を中心に金屋を持った権威ある辻鋳物師の本流ではない。また戦国大名たちに育てられ保護を受け、遠隔地交易で広く活躍した近江八幡、五箇荘、日野などの近江商人の主流でもない。戦国大名蒲生氏の城を中心に栄えた日野の街からは少し離れた郊外になる。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="151.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXeaH7W4lCn40pcOv48uOaaRbR8TAdl9DL4wbrwhqJ8xAb09KbbShr3OTKlrUNJgZ5Mtb9GBZQARRv0H_FV4VUpFVORro-Lq6skSWznv1AMnuzaQ-h8891Ld3G3rNK8Zhdrl43yeJVnlmA=s2048?key=km3pGDBEj3x6MMQT4Zj5zw" width="227.0"></span></p><p dir="ltr"><span><img height="243.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXchswYrBKZWEo2Yuuxj2TinpBEwazGXBPVNCMO_Z2GUXazM8s2eNEe7otaSVJbZLykatzex3PM-wr1Z0OrZpijadRTN3J0KW8BnhPbOk0Q1Hox62kegFGz1oU1Esnp5akQDPaESnVf_vA=s2048?key=km3pGDBEj3x6MMQT4Zj5zw" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　だから北関東で活躍して莫大な財を蓄えた釜屋たちは歴史的にも、鋳物師、近江商人のどちらにも位置付けられていない。彼らは野洲川や琵琶湖の舟運や野洲川が一大産地であった川砂鉄の採取や鋳物材料や製品の輸送で鋳物師、近江商人の両方と関係を持っていたと考えられている。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="161.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXcN8S53M3pV0KVwltGiiBoHxdQWajEO8-AAjWdaxXZHZZjdmIaybZh-q3xlONa-WDaIaSCuGv8JbQWdguNMOePTK-LHnfxn-zWGbKaBciel9QDo3atc5Mps3NxKtfZWTAudhOhR7HqSDA=s2048?key=km3pGDBEj3x6MMQT4Zj5zw" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　彼らの出身地は古代から帰化人たちが定着した地で、多くの銅鐸や韓国式土器が出土しており、朝鮮半島由来の石塔や帰化人を祭った神社が残っている。地元で神山として崇敬される琵琶湖富士三上山の中腹には、関東の釜屋商人が奉納した玉垣が多く残る、朝鮮半島由来の北斗星信仰妙見宮の遺跡がある。白州正子が描く近江金勝寺を中心に石造文化を作った東大寺大仏建造や紫香楽宮建設で活躍した帰化人僧良弁がおり、周辺には鬼室神社を始め帰化人を祭った寺社が多くある。菅原道真を継いで大学者になる五男が難を逃れて信仰した山村神社は帰化人であった道真と関係が深く、釜屋の祖先のひとつはそこの神社を衛る信徒の村の出身だ。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="190.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXeskHDHAFBbZmG3gqCAZKDhgLUeOLbfq3xPOCfP4K_jP_CQ_-3H-xTit4TbN4N1ie2tSi9t9JxpRE18tnHe4ltdzNJPnzhOvPzWgvjxFXUEDsWBHf0c8UWJxgODJnZpAdsGseQedTrMvg=s2048?key=km3pGDBEj3x6MMQT4Zj5zw" width="227.0"></span></p><p dir="ltr"><span><img height="170.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXfEDjX8q8YV-VdFDUckOskSqOxiePJdH6sjfZdUsA8Pve5ZwRxqRH6prFnykgPNo726x29RXvczYdc1_UuDDtY_LmQexk8aTtgGaLoGaHXbOeVXADsrAmG5ZGBPc39Jyd9006xIG_moHg=s2048?key=km3pGDBEj3x6MMQT4Zj5zw" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　北関東で大活躍して急速に拡大した釜屋商人たちは近江商人としても辻鋳物師系の商人としても傍流であったが、それは帰化人出自こそが彼らのアイデンティティーだったからではないだろうか。だからこそ彼らは河岸場といった言わば誰の領地でもなかった公界(くがい)に定着できたし、様々な定住的農業民ではない非定住の雑多で多用な人々と暮らし、生き生きとたくましかったのだろう。そんな河岸を通りすぎる遊行の宗教者、移動交易する商人、職人、浪人や無宿人等様々な社会の外側で生きる人々の中での営みが、新しい流通する経済の形成に繋がっていくのだろう。釜屋商人が多く集住した西宝珠花河岸は、江戸川を人の手で開削して作られた河岸場で、指揮を取った代官小島正右衛門の墓は釜屋商人たちと同じ寺にある。そこでは武州周辺に隠れ住んでいた隠れきりしたんたちの労働力も欠かせなかったと言う。そうした際にも釜屋商人たちの帰化人由来の柔軟な異邦人性が効をそうしたに違いないと言ったらそれはもう夢想に近いだろうか。</span></p><p></p><br><p></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kama-9/entry-12974937702.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Aug 2026 16:20:57 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>小説　め組の喧嘩(釜屋芝界隈出店風聞)</title>
<description>
<![CDATA[ <i>kama-9さんのプロフィールページ</i><br><p><a href="https://profile.ameba.jp/me">https://profile.ameba.jp/me</a></p><p><br></p><p></p><p></p><p dir="ltr" id="docs-internal-guid-ed720000-7fff-2d5b-2bfe-b98efbdffa17"><span>め組の喧嘩(釜屋芝界隈出店風聞)</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　「お若えの、ちょいと、お待ちなせいやし。」　　　</span></p><br><p dir="ltr"><span>明暦年間に、町奴の幡随院長兵衛が、旗本奴の水野十郎左衞門を、その野太い声で呼び止めてから、喧嘩は江戸の華として、街の刺激剤として欠かせないものとなった。歌舞伎も街の悪所のひとつとされて、またこうした歌舞いた不良たちを好んで題材に取り上げた。直情直行の幡随院長兵衛は旗本子弟の不良集団旗本奴たちの策略にはまって殺されてしまうが、長兵衛は狭客の元祖となり、その顛末は歌舞伎の人気の演題となった。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="341.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXcG5i7olGCPBNVOZK24rF0kew2caaI5FfAz02nRPtZiPIAzcQtmzTEQ57-wNX9zNUUH09fOgRVgObKEKFhySd90-PhlZTAcx14_X0jiQyg-U5BLP2tyT8D2O0HbGcquBWjcllLyIDaspOyULTXbpRv4aNPaTXDHEqk=s2048?key=xPhWrKtZjXEOjiXjadlLTw" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　最後の侠客と言われた新門の辰五郎は火消しであった。飾り職人の息子で、浅草を組の町火消になり、火消の勢力争いで他の組と喧嘩し牢獄にいたこともあった。新門は浅草寺の門で、浅草寺界隈の顔役のひとりであった。娘は最後の将軍慶喜の妾であり、何から何まで任侠らしい世界を生きた。享保年間になって町火消が設けられたのは、その頃には町人地が飛躍的に広がったことがある。町火消は貨幣経済の浸透につれ町人や商人の力が強くなったことが背景にある。当時の消火は荒っぽい破壊消火であり、屋根の上で纏を振ったりしたため、高所で作業する鳶職の者も含まれていた。鳶職や火消は侠客と紙一重の存在であり、侠気に生き、喧嘩っぱやいという意味では変わるところはなかった。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="340.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXeZIAYY42XRI-iW93fzQt4TEAVk54rafgLV5uC1FJfZuP0tkvPgb4znWLu3__xQLKIHtfsD9bqWpEgbQpslYkIfq6ujvmnReQCN7qtUUhNh9jS5EN6qDhVxLvvWUBLvrgBfcgjNbYzLr97DGbfjNhkqgRaCIE5xWnU=s2048?key=xPhWrKtZjXEOjiXjadlLTw" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　明暦の大火後、幕府はそれまでの大名火消しに変えて、旗本からなる定火消しを置いて消防活動を強化した。そうして享保年間に財政上の理由から町人の消防組織の町火消し、いろは４８組を置いた。火事もまた江戸の華であった。そもそも大名火消しの時代から、火事というと派手や華美に走る傾向があり、大名の中には自ら騎馬にまたがり思わせぶりにゆっくりと現場に駆けつけ、消火活動の最中に三度も派手な衣装替えを行ったりした者もいたという。それ以前の奉書火消しは、火事が起こって奉書が届いてからやっと出動した。加賀大名屋敷の加賀火消しは増上寺の火事の際、本郷から芝までそろいの法被で水桶リレーをやって呆れられている。江戸時代を通じて有名な明暦の振り袖火事、目黒行人坂の火事、芝車町の三大大火以外に、二千回近い火事があった、何しろ火事の多い江戸である。それまで見当外れな消火活動しか行われなかったわけであるから、素早くきびきびと動く機敏な定火消しや町火消しの登場は江戸庶民の待望したものであり、喝采をもって受け入れられたのだ。そうして彼らは、長半纏に胸当て股引姿に鳶口を持った颯爽とした出で立ちとともに羨望の的となった。そうして町火消しはまた江戸の喧嘩の主役のひとつでもあった。短気でせっかち、喧嘩っ早いその気質は、消火活動にはうってつけで、江戸の庶民からは歓迎されこそすれ、嫌われるものではなかった。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="227.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXd-1tJY3a_br31vKu7BQHJ5BbYOWL51jLd-2ldj9pUlj58wYd9WvRpFDL3aO68h3ov6XWefDMBPHgfJd6vKbY35DV8KlN6kU96Qsc0jYMzD1BSK8v8Pphhp8tInj9o0ABLPENbWzerN1SH_OkYY-QrsnL3mywySNi8=s2048?key=xPhWrKtZjXEOjiXjadlLTw" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　市兵衛は、芝の芝神明宮近くで相撲興行に合わせて行われていた宮芝居見物に来ていた。同じ屋号の釜屋の店が多く芝や浜松町に出店しており、また増上寺に懇意の僧侶がいるので、市兵衛へはよくこの界隈を訪ねることがあった。また普段は巨大な増上寺の境内が広がり、多くの塔頭があるこの辺りは静かな界隈だが、門前で祭りや興行があると大門の辺りを中心に人でごったがえすほど賑やかになる。ところがその日、芝居は芝居そっちのけで、火消し衆と相撲取りの言い合いが始まってしまい途中で中断してしまった。</span></p><p dir="ltr"><span>　　</span></p><p dir="ltr"><span>　「こちとらお相撲とりのでっけえ背中を見に来てるわけじゃねえんだ。そんながたいで前のほうに居座られたひにゃ、芝居見物だか相撲見物だかわけがわからねえ」</span></p><br><p dir="ltr"><span>　め組の鳶、辰五郎だ。先ほど火消しの特権にかこつけて木戸銭を払わず、相撲興行を見物しようとしたのを九竜山に咎められて根に持っているのだ。</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　「やめとけ、やめとけ。芝居見物の衆の迷惑になる。」　　</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　市兵衛も声を出した。</span></p><p dir="ltr"><span>　　「だまっとけ、め組のちんぴらめ。」</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　言葉すくなに応戦していた九竜山は、口の減らない辰五郎に最後には堪えきれなくなって、九竜山は辰五郎につかみかかった。その瞬間辰五郎の身体は投げられて、芝居舞台の上でもんどり打った。すべてはここから始まった。相撲部屋の連中、親方衆が九竜山の肩を持った。め組の火消しの鳶衆は、半鐘を打ち鳴らして火事装束の仲間を集めた。両者は芝神明宮の境内でにらみあった。にらみ合い、乱闘は数日に渡って続いた。乱闘に与力や同心が割って入り、仲裁に町奉行、寺社奉行、勘定奉行の三奉行が顔を揃えて、喧嘩は江戸中の評判になった。世に言う文化二年の「め組の喧嘩」である。</span></p><p dir="ltr"><span>　　</span></p><p dir="ltr"><span><img height="114.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXeCWTljAFG-7EptU7cnY36FjwljU1u77XDPvfLtdpNWzHUR9iz98Imxbnhh3xjpAAXaFNHSZTBmUEZObgL6yVinE2U0la38HIOqPwKCotCV4nd-l8MyW_KzOctxyMWR0nc_dy54s-8vmqeCVnVQ9YFek5ioLmg_tg=s2048?key=xPhWrKtZjXEOjiXjadlLTw" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　江戸時代には江戸の華と呼ばれた大きな喧嘩がたびたび起こり、時には大きなぶつかり合いが繰り広げられた。しかし不思議とけが人は多数出ても、死者はほとんどいなかった。江戸っ子の間で行われた喧嘩には、激しい啖呵を応酬しあいながらも、その中に一定の節度があったことが窺える。「め組の喧嘩」では、辰五郎はじめ火消し数人と、九竜山が江戸払いとなった。なんとも粋なはからいなのが、打ち鳴らされた半鐘の鐘自体が遠島となったことだ。江戸の悶着の決着や喧嘩の仲裁は、どこか粋でユーモラス、暗さがない。半鐘は明治時代に島からもどされて現在も芝神明にある。</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　江戸っ子は五月の鯉のふきながし。　口先ばかりではらわたなし　　　　　　　　　（江戸川柳）</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　火消しは、多くは鳶職だった。芝にも町火消し、いろは４８組の「め組」があり、威勢のいいところを見せて門前町を盛り立てて活躍していた。その伝統だろうか、後代には芝神明の近くに、地元の鳶たちの技術で江戸東京の象徴である東京タワーが建設されている。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="151.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXczsTcrr6PpDMUqBBCCviJXGSz1wx97bLWzyLWEKfx8SY7oCYmCSqS-WIWBwFd9jGAGMYr2eORtkJtwU2AeXeYuaGolxyDsuzH57pQd_GKO3zj9ZzvnoUbBaIFEVPbymV43t22fIsazaJ5q5Ms5HxQ7SHCW6KCKqQQ=s2048?key=xPhWrKtZjXEOjiXjadlLTw" width="227.0"></span></p><p></p><br><p></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kama-9/entry-12974919626.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Aug 2026 12:30:09 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>小説辰己芸者太鼓橋渡り初め</title>
<description>
<![CDATA[ <i>kama-9さんのプロフィールページ</i><br><p><a href="https://profile.ameba.jp/me">https://profile.ameba.jp/me</a></p><p>　</p><p></p><p></p><p dir="ltr" id="docs-internal-guid-0aa9d526-7fff-4d24-2bc6-2ed9f6fe213e"><span>辰己芸者太鼓橋渡り初め　 &nbsp; 　　</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　　　辰巳芸者と言えば、江戸で人気の深川の男勝りの芸者衆たちのことで、男言葉を喋り、男の衣類である羽織を着て、一年中吾妻下駄に裸足で過ごす薄化粧の活発な女性たちの事である。三味線や唄、踊りなどの芸で身を立て、「芸は売っても色は売らない」という、気っぷの良い心意気と侠気に生きようとした女たちで、男性人口が多く、男社会であった江戸という街で、それに抗して生きようとした、もうひとつの別の側面を垣間見させてくれる存在だった。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="146.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXdiGLU6iilJiRx4tkpMleIolFBepCXRcPP3ytphu5SnMBY0UfKvhCOA6Qlg08Vrc5LMOxo9maDuBFhJ0h6HiHGlXrgN3ECkXqwaIInVXh0-C3-J4GLpz2Sh50-ITc03vZO0GSjXx5F03Q=s2048?key=idhSSycglD7oDBiOWmWp5H8G" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　　その心意気は、その信条にあるように専門の技芸に生きるということにあり、そのことがある意味で彼女らを男性化させた。江戸時代では専門的な知識などは未成熟あったし、どの分野においても専門家というほどのステイタスはまだ確立されていなかっただろう。現代に見られるような社会のダイナミックな動きをその技術や知識で支える専門家、専門的職業といったものはまだほとんどみられなかったが、その萌芽はあちこちに芽吹いていたはずである。専門の技芸に打ち込むという「張り」をもって、それによって身を立てる「粋」を追求することに徹し、誇りをもって生きた江戸の辰巳の方角、深川の女たちもそうした魁けのひとつと言っていい。そうした強い職業意識の裏打ちなくしてはとても「粋の権化」とまでは言われなかっただろう。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="336.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXfpGOPPdX1KNA9_9q5_IuFbrNlEWEwQx64W-Dc-siyeYPcOLaW_vu6piKb1oytyNgT94fTU57MbuidZbqeYENv1A8AzQocWczTtmGuhFM5ZkW7yoPt5noEXMK_OiaHXzsbqbWfafM5ocQ=s2048?key=idhSSycglD7oDBiOWmWp5H8G" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　市兵衛は、河岸の商売の傍ら、江戸の街へ出た折などに辰巳芸者の音吉のところに三味線の稽古に通っていた。当時商人の中には師匠について、小唄、長唄や常磐津などの三味線を習う町人は少なくなかった。市兵衛はまたその腕前を買われ音吉とともに料理屋の宴席の手伝いをすることもあった。</span></p><p dir="ltr"><span>　　「市兵衛はん。今日も料亭の宴席でお囃子をやるのでおめえも助けておくれ。」ぶっきらぼうな言い方で稽古に来ている市兵衛に紺の着物にシックなグレーの帯姿の音吉が声をかけた。</span></p><p dir="ltr"><span>　　「かまわねえよ。それにしても辰巳の芸者衆はいつも江戸の人気者よなあ。それが寛政の世直しの後で、お上の目にとまってお咎めを喰らうとはなあ。」市兵衛はここのところの幕府の度量の狭さに辟易とするものを感じる。天明の大火で吉原が焼けて以来活気づいていた深川芸者は幕府に風紀を乱すものとして警戒されていたのだ。</span></p><p dir="ltr"><span>　　「そうだわ。俺たちは何も好きこのんで目立とうとひているわけじゃあねえけどねえ。出る杭はほっとかねえというのが、質素、倹約しか頭にない、役人どものひがみ根性ってもんだわさ。」</span></p><p dir="ltr"><span>　　「姐さんたちも、前は粋な黒羽織を羽織っていたが、それが御法度になったんだってねえ。」</span></p><p dir="ltr"><span>　　「そうよ。おめえさん。で、俺たちだって好きで羽織をやめたわけではないんよ。羽織と素足はねえ、吉原の逆を行く深川の心意気だったんだから。でも、ちくしょうめ辰巳芸者はただじゃ起き上がらないよ。」</span></p><p dir="ltr"><span>　　音吉たち辰巳芸者衆が、幕府に意趣返しの当てつけをするというので市兵衛も手を貸してやることになった。、ちょうど懇意だった亀戸天神の宮司に、今度予定されている太鼓橋のお披露目に辰巳芸者衆が揃って渡り初めできるように一言斡旋しておいた。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="170.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXffVPIy3ar2ak8x7nEmMPRFzzShk3cupTxqt-r5OUIKX9xrbt4gXYIvik5SDO8CZsA8aJWeKxzIYkMjA31ZhcW0ngWyfV9eCnBuhc6n2HuSbhy1PzsCm_vPCDznu84bgnbwdyBqXKfc=s2048?key=idhSSycglD7oDBiOWmWp5H8G" width="227.0"></span></p><p dir="ltr"><span>　　</span></p><p dir="ltr"><span>　　かつてお座敷での旦那衆の芸者遊びには、深い教養と洗練した技芸を必要とした。芸に卓越した技量を持っているほど深く遊びを楽しめたからである。小唄や長唄などを芸者の三味線に合わせて、唄を合わせたり、三味線のパートを互いに弾き分けたりする。三味線などの邦楽の楽曲は多くが唄の旋律と三味線などによる伴奏の旋律の複雑な掛け合いで構成されている。短音の伴奏は三度や五度、時には九度のような微妙な音程で唄とハーモナイズされ、緊張感を帯びた掛け合いの上に展開されていくのだ。様々な楽曲を多く共有するようになるとさらに深い芸の交流がそこでは行われた。また芸者衆は多くの人と接して多くの情報をもたらしてくれもし、様々な世間的な相談にも乗ってくれる度量の広さを持って、世故に長けていた。そうしてほのかな色気とともに、絶品の料理が趣味の良いお座敷の意匠の中で饗されたのであった。時代が進むに従って、一人でひっそりと深い世界を楽しみに来る旦那は減って、にぎやかな宴会が多くなってくるが、お座敷の本質は、本来芸達者な旦那衆の技量と日常の鍛錬に支えられ、それが専門家の芸者の技量とコラボし共振して現出する深い静謐な世界にあるものだった。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="302.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXehPTE-8LbPBNZFROqmRVhMTT5Zs2ESABbGafflHLlrteVTfidztI-JN7du3Ca1_qtn4jfoRGNgIi_eLiN2dNtv8S27k42rfcq3bSCw1lUJK2NH2qzJau0h-p8pop82rTGIKbp7IfJT=s2048?key=idhSSycglD7oDBiOWmWp5H8G" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　文化年間の空の晴れ渡ったその日、火災で焼けた亀戸天神の太鼓橋が掛け代わり、落成式が行われた。亀戸天神は、ご開帳並の人だかりになって江戸の人々が集まってきていた。シンボルの真っ赤な太鼓橋の前で、祈祷や宮司の挨拶があり、ひちりきや笙の優雅な雅楽が高鳴っている。いよいよ橋の御開通である。宮司や招待されている旗本や、町名主が最初に渡り初めを行い、続いて、武士や町人の人々。と、その前に華やかな一団の女たちがいた。それが境内に大きなどよめきを起こさせた。世に言う辰巳芸者の太鼓橋渡り初めであった。紺や黒を基調にしたシックな着物をきりりと端正に着こなし、皆そろって太めの帯を大きく膨らませて今までにない結びで結んでいる。足下は吾妻下駄に素足だが、それがかえって、すっきりした立ち姿と相俟って新鮮味を感じさせる。皆島田髷に結い、トレードマークの一文字の櫛をそれぞれつけている豆奴、音吉、穂吉、佐介ら、辰巳芸者の１０人ほどの一団だ。どこからともなく喚声とともに喝采が起こった。「よー鉄火芸者！」「よおっ色男、羽織芸者！」人々にまぎれて後ろにいた市兵衛も大きく手を叩いた。江戸の人々はいつまでも橋の上を占領する女たちに賞賛の拍手を送り続けた。それはまさに寛政の改革による羽織着用禁止に対する女たちの意地をかけた幕府に対するやり返しだったのだ。このことは江戸中の評判となり、そうしてその太鼓橋をかたどった帯結び「太鼓結び」は多くの女性たちに支持され、現代ではもっとも一般的な帯の結びのひとつとなってその名残りを今に伝えている。</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　　辰巳よいとこ、素足が歩く　　羽織やお江戸の誇りもの（江戸小唄）</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="330.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXcPUpit3A-9yUCJr7WAMdkzGpoLjPAF7B0HJnKP4rVN2USFCF7mNDNd9sXcVvRlKBR-13AWMgdW_BvAE_B9Xecg7AKo0Sj1XIi-y7mmmEV4bQfqxtFqp6MS8lzCrYoiG0D6z_ao9sLrDg=s2048?key=idhSSycglD7oDBiOWmWp5H8G" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　天保の改革以後、深川富岡不動、門前仲町周辺の辰巳芸者たちは柳橋へと移された。年月を経て明治期に入って浅草橋の問屋の旦那衆に支えられて再び興隆したが、その中には辰巳芸者の伝統を引き継ぐ男勝りの芸者衆が少なくなかったと言われている。その後政治家や起業家たちによって派手に賑わった東京の花柳界で最大となった新橋や赤坂とは、隅田川のほとりにある柳橋は少し違った情緒を醸していくのである。　</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　</span></p><p></p><br><p></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kama-9/entry-12974917901.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Aug 2026 12:06:15 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>利根川の河岸と江戸の水運</title>
<description>
<![CDATA[ <i>kama-9さんのプロフィールページ</i><br><a href="https://profile.ameba.jp/me">https://profile.ameba.jp/me<p></p><p dir="ltr" id="docs-internal-guid-1439cb1c-7fff-2eea-7a0a-021042d43178"><span>江戸川開削と江戸の水運</span></p><br><p dir="ltr"><span>　　江戸川は元からあった河川ではない。江戸時代中期の早い時期までに、幕府の命によって人の手で掘られたものだ。それ以前にも氾濫の多い不安定な河川としては元利根川や庄内川があったが、流路も定まらない、船もまばらな輸送路であった。</span></p><p dir="ltr"><span><img height="151.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXeL33u8msrO_-67xAAk0PvPC8QPkHMRIqPHU9tMPXyK9IffqEuONqy1tYMl0iyBjI9hbRL8Aq-VGcATT9BSNxEbPZxDP6U2dk423-sUFsgk5-Z2pwswCfxVOz5N6_HBK9Gps3olA3kRbg=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　江戸川開削を西宝珠花で指揮をとったのは関東郡代伊奈忠次の親族であった代官小島庄右衛門であり、土木治水に精通した伊奈氏はその後も長く関東郡代てして関東地方の利根川東遷など土木治水対策に携わり続けた。それは寛政期に家の内紛からその勢力を不安視した幕府に関東郡代を改易されるまで続いた。周辺の農民、土木の仕事を求めて集まってきた浪人、もともと一帯の河川で舟運に従事してきたものたち、無宿人や近くに隠れ暮らしていた隠れきりしたんなどの様々な人々が開削に携わった。近隣の大地主石川民部も中心なって関わり、江戸川が開通したおりには幕府から周辺の広大な土地を与えられている。他にも似たような報奨の事例があっただろうと推測できる。</span></p><p dir="ltr"><span><img height="170.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXf8nbcjVI7OAj5wQ7X5AqL0R-yciYjGLEr_-yjDqleOKnwxeBmj-bdjwwMDo4lpyj-2WIQrPtsvekLRVOYakorfXTL-Go02xcPvoPufVlY2AD6mxlyf1_5ZgoZDHiRcIJkGoYP36ERYLw=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　　江戸川が通水されると、そこは人工的に作られた江戸への唯一の輸送路となり、利根川、渡良瀬川その奥の碓氷川烏川や巴波川、また鬼怒川、その支流常盤川、さらには印旛沼や北浦に注ぐ東北からの河川、太平洋岸の銚子からの荷物、北関東、上州や下野から、また常磐地方やその先の東北からの荷。遠くは信州、越後、また最上川や東北の沿岸部からの荷がすべて通過することとなった。ありとあらゆる荷物が高瀬舟千石船はじめ様々な川船に満載されて通過した。江戸川の河岸で荷降し荷積みするものもあるが、通過するだけの荷もあり、相当な量、物流になった。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="170.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXeWcp_fytmnfqLvNuFp7Kv0Dg9vksal05irKnc4DWfbVDgI4YdDJ6_vx7QncUs1p_270nqWfYFJm7ylCtjF63Or92e1VfNZFJJUd-dMTBinDcQ8yqvb_KRaC_iKTWMKV-l0GF2EmVsU8Q=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span></p><p dir="ltr"><span>　　　</span></p><p dir="ltr"><span>　　　何もなかった武蔵、下総の丘陵地帯や湿地、江戸や日光への街道からも遠い片田舎。そこを世界でも数少ない百万都市になろうとする江戸の街を支える膨大な物資が通り過ぎ、江戸川の河岸は周辺の穀物、野菜や醸造品の集散地となった。米や麦等の穀物は俵に入れられ船に山積みされ、酒、みりん、醤油などの醸造品は陶製の壺に入れられ整然と積み上げられる。荒縄でくくられた薪や墨、木材や紙、行灯、机、釜、陶器など様々な家財道具もある。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="162.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXfNeDe6SFdrJLLGwWVtIPpqAwV157WsVGUrPDmRjdQ2S6uQZMNzxolPb4SRdzKrETzdtRNmRb4V_CXtvq-Gd1bBAUIbkIlkOwPyMDqUThcdxjR4ZdjVA9kNe7l8q1g7yghjJes7L0lB1g=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span></p><p dir="ltr"><span>　　厚ぼったい布の帆を風にはらませながら、川用に底を平たく作られた高瀬舟や川ひらたはゆっくりと進んだ。浅瀬にかかると、待ち受けている綱引き人足がいる場合もあるし、船頭が船を降りて岸から船を曳いたりした。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="154.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXd9q0QQh9G34FrWE7_eohn_rpXPN_4V36mr5XaQL69jKtf8uUyI_j97Hhgj_Ca2tXWrJYpYAWx5vpHdO3HKJViqa6sJvbIOqmaXZewE64FTsW_i4kpFTqZDdTIrdeHedzU--oUAdobNPw=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span><span>　　</span></p><p dir="ltr"><span>　　　河岸場は多くの荷物が積み上げられ、水夫や人足たちが忙しく船へ積み降ろしたり、中身を検分したりしている。多くの荷が行き交い、倉庫や船屋、船問屋、商家の背後は、船頭たちのための旅籠屋や料理屋や場所によっては遊郭が立ち並び、さながら街区の様相になってきていた。それは言ってみれば、荒野に突如出現した都市のようなものだった。そこでは急激に貨幣経済が浸透して市場原理が行き渡り、従来の価値観が大きく変容しようとしていた。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="151.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXeYgWydo1F57IBE6OE8eBfDb-vOHHF-IBwUKKwhR-Cjr-a5sCrebgo9920j6vM4soq8g-nOdFx9RbcR-Bf637jtmheSevAprCVRxJ6iipLCy8iMOsqAsMxBiAUdbtJvoz_7f8EmRwYw=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span><span>　　　</span></p><p dir="ltr"><span>　　　　怪談累の事件は鬼怒川と小貝川の間に位置した利根川水系の有力河岸、水海道近くで起きた出来事である。祐天上人の評伝に出てくる累伝説は、当時の生成する河岸のもたらす価値観の混乱を反映していると思われる。まだほんの子供であった女の子累は、醜くく商品価値がないと川に投げ込まれ殺されてしまう。累の悪霊は別の娘に取り憑き、河岸を巡る祈祷師祐天によって悪霊祓いが行われる。宙に浮いたりする累の悪霊と、成田金剛不動より知恵の剣をのどに突き立てられ覚醒した祐天が念仏の六字名号を唱えて立ち向かう。後に歌舞伎の有名な怪談ものになるこの話の背後には、自分の娘さえ商品としてしか見ない、物流を通じてもたらされる市場貨幣経済の急劇な浸透があるのは明らかだ。後に祐天は祈祷活動が、将軍綱吉の母親、桂昌院の目にとまり将軍家菩提寺の増上寺の大僧正に取り立てられる。祐天は大奥でも信奉され、祐天寺の祐天像はその死後も長く、節句には大奥に持ち込まれ綺麗に飾られて寺に返されたとか。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="115.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXfSo1SxAYscBVdHTnHyWDXu9oO7HhpLCWJugUYsnML2Av3wuF1vA5IQAMvYPHtpYuqqOwIR52LFD4g5cEQwQ1vAAdBLk37BRqbZ_e0Pg0H2awrFSMm9qNaBg4m65eIROKXm2X_anJ2rFQ=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="163.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXcIbCQrXyA7THsHxGVpBU4MCM3Xxu7QToyCOGlLYiVDk95Jp1mRDdzhCGNwTwSR0VWSCZfGxtmxJ_x_T_SYbtjxcdK7-JowECSHWNDR1rAwFc2IafE8aVrS4627sC9VaEmWYNe9Lhav=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span>　　　　祐天上人は西宝珠花の清岸寺で住持を勤めながら河岸を巡った時期がある。河岸の物流をかたち作った江戸川開作の中心は、伊奈氏と関係の深い代官小島庄右衛門が指揮を取った西宝珠花河岸であった。そうしてそこは釜屋商人たちが、下野の栃木町と並び多く集住した場所で、釜屋中島市兵衛はそこの中心的商人だった。釜屋商人たちと代官庄右衛門は同じ寺の墓に眠っている。不思議な巡り合わせだといえよう。</span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="170.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXcHo7Bxyk7juk5rRxth8r5hMkB_9vg0xdUs5ydNzPaHauf20lYvWm5UoYJY_H-1UXSGT6ekt9MBoZV6JiTJPiQCftG_m_UUeu4IBexhMZeS7dG_pBxSwflbp1gW5KAyvPmkyqMegt5uCw=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span></p><br><p dir="ltr"><span><img height="128.0" src="https://lh7-rt.googleusercontent.com/docsz/AD_4nXdlLsG4NzcovTcxSN2Jz9u-0mIOrFa8rsgUGiY8Ai6g91TanLcy3KSNoBkYVNxGQiva08ttvdWMnR9i34iZAoE_JnN0IYfSynZeDxU48lSzeA-fve9QUV7bIJFESkl_L0HbqOsalnEi=s2048?key=zR5yPXm98iaSfpwXBQItXA" width="227.0"></span></p><br><p></p></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kama-9/entry-12974896512.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Aug 2026 07:43:55 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
