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<title>kamiya-2019のブログ</title>
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<title>自分のサイトを開設しました。</title>
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<![CDATA[ 自分のサイトを開設しました。新しいサイトは以下です。一度ご訪問ください。Yahoo!ブログは終了します。<br><br>　　　　　　　　<a href="https://religio.amebaownd.com/" target="_blank">https://religio.amebaownd.com/</a>
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<pubDate>Sun, 21 Jan 2018 10:32:14 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（15）</title>
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<![CDATA[ あとから思い出したのですが、トーマス・マンは、われわれの生は、先人たちの「轍（わだち）」を踏んでいくと、確か、書いていたのでした。<br><br>さて、世界戦場化の時代にあって、世界を美化するという実践美学は、考えて見れば、きわめて道徳的な要請だと捉えることができるでしょう。<br><br>ウエーバーは、神も預言者も遠ざかった時代においては、小さな神々がその代理をすると言いました。それは、たとえば国家であり、芸術であり、エロスです。<br><br>「神」がわれわれの人生に意味を与えたように、国家はわれわれに死を命じることができる。つまり、自分の人生に崇高な意味を与えることができるのです。国のために命を捧げることは、美しい行為として称揚されます。しかし、国家のために死ぬことは本当に美しいことなのでしょうか。世界を美化することなのでしょうか。<br><br>今道先生は、アリストテレスが共同体のために死ぬことを徳として捉えていることについて語ったときに、現代ではこれはあてはまらないとしました。理由は二つあって、一つは現代の戦闘行為がアリストテレスの時代とは大きく異なっていること。もう一つは、イエスの十字架での死以前の世界に彼が生きていたからというものです。<br><br>他者のために自らの命を投げ出す行為をわれわれは「愛」と呼びますが、国家ではなくとも、何か大義のようなもの、信念のようなものに殉じることは、美しいことと考えてならないものなのでしょうか。これは難問に思えます。
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<pubDate>Thu, 18 Jan 2018 19:35:23 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（14）</title>
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<![CDATA[ 自分自身の人生を作品化する、という言葉を、今道先生は本の中で書いたことがあります。この言葉に私は強い印象を受けたのでした。<br><br>自分の人生の作品化とは、どういうことでしょうか。芸術化と言い換えてもいいのではないでしょうか。なぜなら、誰でも自分の人生を美しい作品にしたいと思うに違いないからです。そして、美しい作品とは芸術にほかならないからです。<br><br>人生は、自分で支配することができません。人間的な努力だけで人生が思うようになるものでないことは、誰でも知っています。何かそこには運命的なものが関与しています。人生は謎めいています。芸術のように！<br><br>芸術が、作家の自己表現ではないように、人生という作品もまた、もしかすると、「私」の自己表現ではないのかもしれません。<br><br>トーマス・マンが、「ヨゼフとその兄弟たち」などを通して、われわれ個人が、つまり、一人一人の誰でもが、先人たち、すなわち死者たち、祖先たちの生の軌跡を辿っていくと語ったのは、含蓄のあることです。<br><br>私たちは、物語の中の誰かに良く似ています。絵画の中に、私たちは自分を発見することもあります。崇高な愛の悲劇が世俗化した姿を、私たちは新聞の三面記事に見出します。<br><br>人生の作品化と、社会の芸術化とは、どういう関係にあるのでしょうか。人間的努力だけで、社会は芸術化することができるのでしょうか。
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<pubDate>Tue, 16 Jan 2018 20:43:55 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（13）</title>
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<![CDATA[ 芸術の世界には善悪の区別がないというのは、不正確な言い方で、善も悪も自由に解放されているという方が正確です。現実世界にも善悪が存在しますが、そのような現実世界の真実が凝縮された芸術世界では、道徳的な制約が現実世界とは違ってありません。<br><br>社会全体を芸術化しようとした人に、ヨーゼフ･ボイスのような人がいます。彼がどのような社会を目指したのかは、慎重な検討が必要でしょう。社会全体が芸術であるというのは、一体どのような思想なのでしょうか。<br><br>第一高等学校時代の恩師である片山敏彦について、今道先生は「片山先生はもうまったく芸術と夢だけで生きているような感じでした。いや、あの方の現実がわれわれの夢なのでしょう」と語ったことがあります。<br><br>われわれは現実に生きているのであって、夢に生きているわけではありません。片山についてはかなり詳しく調べたことがあるのですが、ファシズムに傾斜していく時代に、彼は時局にほとんど抵抗することができませんでした。<br><br>加藤周一さんは、本当によく訪れていたのですと、片山のご遺族からうかがったことがあります。戦後、加藤さんが片山に距離をとるようになっていったのは、現実世界への対決的な姿勢という観点から「芸術と夢だけで生きていた」片山に対する評価の変化があったからだと私は思います。
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<link>https://ameblo.jp/kamiya-2019/entry-12552800118.html</link>
<pubDate>Mon, 15 Jan 2018 19:12:00 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（12）</title>
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<![CDATA[ 世界を美化することと、世界を芸術化することは、やはり違うのではないかというのが、私がぼんやりと考えていることです。<br><br>ヒットラーは画家志望の青年でした。ナチスの美的センスはずば抜けています。以前に触れた制服ひとつをとってもそうです。それは、ヒットラーが芸術家を目指したことと無関係ではないのでしょう。久世光彦さんが、少年時代にナチスにどれだけ魅了されかを、小説に書いています。<br><br>現実と芸術を区別する必要ということを、前回書きましたが、建築や服飾などは、両者の境を曖昧にするものでもあります。音楽体験は、自分の内部の体験なのか外部の体験なのか、そもそもわかりません。したがって、緻密な議論をしようと思うと、なかなか大変です。<br><br>街角の音楽家はどうでしょうか。すばらしい演奏で往来の人々を魅了する彼らは、現実に出現した芸術そのものです。彼らの新鮮さは、いつもはいない場所で演奏するからです。常日頃、現実世界から芸術が隔離されているからこそ、意表をつく彼らの出現が、ハプニングとして色褪せた現実を活性化するのです。そして世界は元の現実に戻ります。<br><br>モーツアルトの名曲も、10時間強制的に聴かされると無意味化すると、中井久夫先生が書いていました。それは兵士が訓練によって、人を撃つことが無意味化するのと同じです。<br><br>24時間芸術の世界に耽溺するのは、おそらく危険なことです。芸術の世界は、善悪がない世界だからです。少し言葉が足りませんが、今日はここまでにします。
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<link>https://ameblo.jp/kamiya-2019/entry-12552800116.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Jan 2018 10:45:47 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（11）</title>
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<![CDATA[ ドイツ文学者の高橋義孝先生は、留学したのがナチスの時代だったので、ナチス文学に関する研究から出発した方です。読んでみると、韜晦に満ちたナチス文学批判の書物です。<br><br>その高橋先生は、多くの翻訳や、リルケや鴎外に関する優れた論考があるほか、文芸理論に関する論文が多数あって、現在読んでも、さまざまな示唆に富む考察を展開しています。<br><br>ずいぶん昔のことですが、高橋先生のインタビューをテレビ番組で見たことがありました。髪型は綺麗なオールバックで、銀縁の眼鏡をかけ、蝶ネクタイを締めていることが多かった。美しく装うことに、こだわりがある方なのです。<br><br>「西洋人は笑うときに、ドアを開けて閉めるように笑う」と高橋先生は語っていました。また「西洋人は、横を向くときに、顔だけを横に向けるのではなく、身体ごと横に向く」とも言っていました。（西洋人ではなく、ドイツ人だったかもしれません。）<br><br>「西洋の劇場は、幕が上がって始まり、幕が下りて終わる」「西洋の絵画は額縁の中にある。額縁の外が現実世界で、額縁の中が作品世界である」という意味のことも語っていました。<br><br>ここには観察の鋭さがあり、その観察が観察だけで終わっていないと、そのとき私は敬服したのでした。<br><br>高橋先生は、お能をやっていましたが、能舞台には西洋の劇場のような幕がありません。いつの間にか始まり、いつの間にか終わります。そもそも能舞台は、観客席の方に迫り出している。<br><br>つまり、現実と芸術との境目が曖昧である。西洋の場合は、それがはっきりと区別されている、ということです。ここまでは現実である。しかし、ここからは芸術であるということが明確になっている。<br><br>芸術の世界のなかでは――それは文学でも映画でもよいのですが――ありとあらゆる怖ろしい出来事が起きます。犯罪者、殺人をする人物が主人公であることすら珍しいことではありません。<br><br>殺人者の心理が物語の進展とともに詳細に描かれ、読者のわれわれは、主人公に感情移入して、それが優れた文学作品であったならば、何か運命的なものを感じて心打たれます。人間の真実の一端に触れたのです。<br><br>絵画が額縁のなかに閉じ込められているように、怖ろしい物語は書物のなかに閉じ込められている。封印されている。そう考えることができるのではないでしょうか。<br><br>それはある種の智慧のように感じられます。現実と芸術とを地続きにしない。現実と芸術を区別する。これは大切なことなのではないでしょうか。虚の世界と実の世界を混同するのは危険なことだと思われるからです。<br><br>現実の世界と芸術の世界は、往還すべき二つの世界なのであって、両者が混淆してしまうと、日常の生活は少しずつ狂っていくように思います。夢想が現実を侵食し始めると危険です。個人はもちろんですが、社会全体が夢遊病者のようになってしまったとしたら！<br><br>しかし、歴史をふりかえると、意図的に両者を混淆させようとする力も、世の中には潜んでいるような気がします。
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<link>https://ameblo.jp/kamiya-2019/entry-12552800113.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Jan 2018 11:57:18 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（10）</title>
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<![CDATA[ 制服の美しさについて考えて見たいと思います。極めつけは軍服でしょう。中井久夫先生がいうように、軍服は老人に威厳を与え、青年に凜々しさを与えます。長い時間をかけて、われわれは軍隊のコスチュームに美的洗練を加えてきたのです。<br><br>ナチスの制服は、現在でも有名な紳士服ブランドのデザイナーによるものだと聞いて、さもありなんと思ったことがあります。私立学校の制服に少年少女が憧れるように、青年を美的に誘惑する使命を軍服は持っているのです。<br><br>YouTubeで各国の軍事パレードを視聴すると、どれもよく似ています。相互に模倣しているのではないでしょうか。一糸乱れぬ兵士の行進には、ある種の美しさがあります。加藤周一さんが、フランス留学時代に、パリ市内での軍事パレードを見たときのことを自伝で書き残しています。そこで加藤さんは、感性的に魅せられつつ、それを理性で否定してました。感性が先で、理性が後です。<br><br>圧倒的な美には、理性を麻痺させるパワーがあります。その事実をわれわれは忘れるべきではないでしょう。
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<link>https://ameblo.jp/kamiya-2019/entry-12552800111.html</link>
<pubDate>Thu, 11 Jan 2018 21:06:55 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（９）</title>
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<![CDATA[ 世界美化とは、醜悪な現実に華麗な衣装を着せることではありませんでした。感性的に美しいものを称揚することは、汚いものを忌み嫌うことにも繋がります。さらには、見慣れないもの、異質のものに「汚いもの」というレッテルを貼って排除することに繋がる可能性があるのです。<br><br>ずいぶん昔の話ですが、評論家の大西赤人さんが、現代日本社会の清潔へのこだわりに潜む危険性に警鐘を鳴らしたことがあります。また、ナチス・ドイツ研究の池田浩士先生が、ファシズム体制の国家が、清潔さを称揚して異分子を「汚いもの」として排除したことを論じています。<br><br>世界美化を推進しようとするときに、一歩間違えると、不寛容で攻撃的な、それこそ美しくない社会になってしまう危険性があるのです。普通の意味では決して美しくない、むしろ不快を催すような現代芸術作品を、こんなものは芸術ではないといって排除するような社会にもなりかねないわけです。<br><br>ここで私が思い出すのは、美学者の高橋巖先生が著書のなかで紹介していた、ある話です。イエスが弟子たちとともに歩いていると、路傍に犬の死骸がありました。弟子たちの誰もが顔を背けたとき、見てごらん、何て綺麗な歯をしていることだろう、とイエスが言ったというのです。<br><br>この話は強い印象を与えます。一見すると醜悪なもののなかにさえ美を見出すという行為こそ、世界を美化するということなのかもしれません。
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<pubDate>Wed, 10 Jan 2018 21:01:10 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（８）</title>
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<![CDATA[ 芸術家について考えてきましたが、実践美学の立場からすると、世界を美化する仕事は、画家や俳優、音楽家といった芸術家だけに委ねられたものではありません。<br><br>芸術家は、会社員や公務員、農家や工場労働者といった職業人とは違う世界の人々であるという先入観がわれわれにはあります。そこでは、ある種の貴族化、聖別化が行われているわけです。しかし、世界美化という視点からは、美化という行為を、むしろ庶民化、世俗化してみる必要があるでしょう。<br><br>植木職人、理容師、料理人、清掃員、ゴミ収集人、内装業者、クリーニング業、貸衣装業、公衆浴場といった業種が、世界美化に従事していることは、ちょっと考えてみれば明らかでしょう。<br><br>世界美化を、職業からも自由に考えると、花に水をやる、部屋を片付ける、靴を磨く、洗濯をする、あるいは微笑むといった行為のひとつひとつが、世界を美化する実践であることも見えてきます。<br><br>このように考えると、世界美化は、劇場や美術館、コンサートホールのみならず、日常の世界こそが舞台であることがわかります。私がいる、今、ここの問題であることが見えてきます。
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<link>https://ameblo.jp/kamiya-2019/entry-12552800106.html</link>
<pubDate>Tue, 09 Jan 2018 19:30:56 +0900</pubDate>
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<title>世界美化の思想（７）</title>
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<![CDATA[ 芸術が、世界の本質の強化的表現である（ミーメーシス美学）。あるいは、世界の真実が開示される場所である（存在論美学）と考えると、学術は真理を明らかにすることを目的としていますから、芸術と学問は同じ目的を持っているということになります。そして、これはすでに青山昌文先生が著書で指摘していることです。<br><br>ただし、芸術も学術も、ともに人間の営みですから、真理を明らかにするという意味においては、完全ということはあり得ず、つねに不完全、不充分なものに止まらざるを得ないわけです。<br><br>世界美化という主題に戻ります。世界を美化するという行為は、単に感性的な美しさを追求することではなく、真や善を追求することでした。真善美は切り離すことができない価値だったからです。<br><br>そして美を追究する芸術と、真を追求する学術とは、方法は異なるけれども、同じ目的をもつものということがわかりました。芸術作品を創作することと、研究者が学術論文を書くことは、両方とも、世界美化に挺身する行為だったと考えることができるのです。<br><br>こうした考え方それ自体が、果たして大文字の真理、普遍性を持つ真理にどこまで迫るものなのかはわかりませんが、世界美化、実践美学は行為の学であり、認識で完結するものではないことを考えると、意味のある議論であると私は思います。<br><br>私は若い頃に、小説の創作を試みたことがあります。それから、文芸評論を書いた時期があり、現在では、学術論文を書いています。論文を書くのは、隠されている真実を明らかにすることですが、それがそのまま世界を美化することであると考えることは、研究という行為への、大きな力付けでもあります。<br><br>真実を明らかにするという意味では、ジャーナリストの仕事もそうでしょう。不正義や不公正、社会の腐敗を明らかにする彼らの仕事もまた、世界を美化する行為にほかならないからです。世界美化とは、醜悪な現実に美しい衣をまとわせることではないのです。
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<link>https://ameblo.jp/kamiya-2019/entry-12552800105.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Jan 2018 13:22:00 +0900</pubDate>
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