<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>ドキドキわかめ</title>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/kanako-dokin-chan/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>赤裸々日記</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>多分必然だったのだと思う</title>
<description>
<![CDATA[ <p>9月11日（日）、第6回白馬国際トレイルランに参加し、はじめてのトレイルランを完走してまいりました。</p><p>すごくですね、わたしにとって気持ちの良い、そしてとても重要な意味を持つ体験となったので、Blogに書き残すことにしました。</p><p>&nbsp;</p><p>トレイルランって何？という人もいらっしゃるかと思います。</p><p>要は舗装路以外の自然の山道を走るマラソンみたいなものです。登山の要素とランニングの要素が合わさったもの、という感じでしょうか...国内外さまざまな大会がありますが、数kmのものから、100kmを超えるもの（当然複数日にわたって走ることになる）もあります。</p><p>今回私が参加した白馬国際トレイルランは、7km、20km、35km、51kmという複数のコース設定がありました。私がエントリーしたのは20kmです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>このトレランの体験が何故とても気持ちが良かったか、わたしにとって重要なのかですが、それを表現するためには私のこれまでの運動歴や体を動かすことに対する考え方、現在の生活、将来像等々お話しなければなりません。</p><p>長くなりそうですがお付き合い頂ければと思います！</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>&nbsp;</p><p>まずわたし、超がつく運動音痴です。</p><p>少なくとも、学生の頃の体育の授業を思い返せば、走るのは遅い（50ｍ9秒台）し、長距離も走れない（すぐ脇腹痛くなって生きも苦しくなって歩いちゃう）し、球技もダメ（バット空振り、ボールキャッチできない、投げれない）、泳げない（ほんとに蹴伸びしかできない）、体かたい、体育祭は迷惑をかけたくないので色モノ競技しか出たことない、体育の先生からは「頑張れ」じゃなくて「かわいそう」とのお言葉をちょうだいする、、そんな感じでした。</p><p>&nbsp;</p><p>人間は早くもっと進化して肉体を捨て魂（思念体）だけで生きていけるようになればいいのにと本気で思っていた人生です。</p><p>&nbsp;</p><p>でも心ではスポーツがすごく好きで、小学校・中学校の校庭ではひとりでボールを追い掛け回していたし、高校生になってからは、運動音痴でもどうにかしてスポーツに関わりたいと、運動部のマネージャーになって選手のサポートをしていました（弱小バスケ部だったけど）。</p><p>&nbsp;</p><p>大学生になってからは専ら観るだけになりましたが、観るなら観るでガチで観る程度にはやはり好きなので、大きな大会で言えば、大学生になりたてほやほやの2002年日韓ワールドカップでは新潟まで日本代表以外のゲームを観に行ったり、その後ハマったF1は大学4年から鈴鹿に行くようになり、社会人になって自由に使えるお金が増えてからは海外のグランプリも観に行き、フィギュアスケートも好きなのでバンクーバーオリンピックも行きましたし、次の目標はフェデラーが現役でかつ錦織もピークのうちにグランドスラムを観戦しに行くことでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん普段はTV観戦しかできませんが、私なりに楽しく観戦したいので、個人で出来る範囲で好きなスポーツについて詳しく知る努力をします。</p><p>F1であればタイヤ説明会（なにそれ）に参加したり、物理のクラスを履修してダウンフォースの勉強をしたり、フィギュアスケートであれば、公式に発表される各試合のスコアをすべてExcelに落とし込んで、応援している選手とライバル選手の比較やそれぞれのプログラムの強みなどを研究したりします。</p><p>&nbsp;</p><p>...瑣末な話が長くなりましたが、要は自分でスポーツをすることは「苦手」「上手にできない」けど、とにかくスポーツは好きでしょうがないということです。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、自分ができないからというのも理由のひとつかもしれませんが、アスリートに対する尊敬が止めようにも止まらないくらい湧き出ています。</p><p>勝ち負けという明確な白黒を付けられることを受け入れ、挑戦し、厳しいトレーニングにも耐える精神力。ここ一番で最大の力を発揮する集中力。それらすべてを自分の身ひとつで引き受ける覚悟。そして勿論、生まれ持った非凡な才能。それを活かす並々ならぬ努力。何をとっても尊敬しかありません。</p><p>&nbsp;</p><p>このように素晴らしいアスリートの皆さんに比べ私の運動神経がミジンコの尻尾以下なのは勿論のこと、このあまりにもひどいわたしの運動能力は、わたしが有しているその他の能力に比してもミジンコレベルだなあと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>幼少期より、いわゆる”勉強”とよばれる類のもの＝頭を動かすことについての能力を使う作業は比較的まわりの人に比べスムーズにできるなあと実感がありました。そして不幸にも、これと「運動＝身体を動かすことについての能力」が、体感値としてあまりにも違いすぎるので、わたしは物心ついてから約30年にわたり、自分の肉体と精神を切り離して考えていたきらいがあるのですね（やっと核心部分に近づいてきた）。</p><p>勿論、何らかの形で連関していることは理解はしていましたが、どちらも同じ「自分自身である」ということを体現できていなかったというか。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな風に、約30年生きてきました。</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>&nbsp;</p><p>さて、話は変わり、2015年の夏頃。いろいろとあって（割愛）、やっぱりわたし人生もうひと頑張りしたい。と思うようになりました。</p><p>mid-career crisisと言ってしまえばそれまでなのかもしれません（ちょっと早いけど）、でもただなんとなく進んでいく人生をもう一度舵取りしなおしたくなったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>何度も思い浮かんでは、理由をつけて（そのときは本気でそう思っていたし人生をやり直したとしても同じようにしたと思うから後悔はしていない、ということを念のため強調したい）やめてしまっていた進学を再度決意しました。</p><p>多分、はたから見て特に進路変更すべき人生だったとは思わないし、それでもやりたいと思ったから、ああ今度こそ絶対にあきらめない、絶対に実現させると強く思ったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>それから始めたことは、勿論勉強し直すことだったり、改めて自分の追究したいものとは具体的になんなのかを考えなおしたりもしましたが、それ以外にも、二度とあきらめてしまわないよう自分のモチベーションを高い状態で維持したり、集中力を高めたり、能力を上手に発揮する方法についても改めてアンテナを張って取り入れるようにしました。</p><p>&nbsp;</p><p>そのときに出会ったのが、Mindfulnessでした。</p><p>たまたま何かのネットの記事か何かでGoogleのリーダーシップ研修で行われているというのを読んだり、その当時わたしが「わたしもうひと頑張りする」と話していた人から聞いたりし、なにより敬愛するテニスプレイヤーであるジョコビッチ選手が取り入れているというのを知り、「極限まで肉体と精神を鍛えている第一線のアスリートが行っているならきっと間違いない」と、トライすることにしました。</p><p>今考えると、ここでもわたしのスポーツ好きが生きているとも言えるのかもしれませんが、それは余談。</p><p>&nbsp;</p><p>どうせやるなら、と、日本で間違いなくもっとも本格的にMindfulnessを体験することのできる、Mindful Leadership InstituteによるSearch Inside Yourselfという2日間のプログラムに出たわけです。それが2015年10月末日のこと。</p><p>&nbsp;</p><p>なお、このプログラムについては当時数エントリにわたってBlogに認めましたのでよろしければご覧ください。</p><p><a target="_blank" href="http://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12091695241.html">Search Inside Yourself Ⅰ 前置き編</a></p><p>&nbsp;</p><p>ここでMeditationをはじめとした、Mindfulでいるためのさまざまなトレーニングを知るわけです。</p><p>その中で、あああ、そういうことか、と膝打ちまくったことのひとつが、身体感覚を養うということでした。</p><p>&nbsp;</p><p>当時のBlogの表現でいくと、</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>感情は身体に出現するので、その身体感覚を養い、自分の身体に何が起きているのかを知る</p><p>---</p><p>そもそも、人というのは、何らかの判断を下す際に感情のセンサーが優位的に動き、その領域は非言語的であるため、この微妙な情動を認識するためにMindfulnessによって鍛えておくと有効</p><p>---</p><p>...衝動が起きていることに気づく必要があります。扁桃体ハイジャックが起きかけているとき、身体・情動・思考それぞれのパートで変化があります。呼吸が浅くなったり、闘争心が芽生えたり、人のせいにしたり...そういったことが自身に起きているということを認識する</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、肉体と精神が統合された一個体であるわたしが、さまざまな意味でハイパフォーマンスを発揮するためには、わたしが最も苦手とする「身体の声を聞く」ことが不可欠だったわけです。</p><p>これを意識的に行なうことをBody Scanと言います。</p><p>&nbsp;</p><p>ですが、このときわたしはまだ、decision makingには感情センサーが優位であり、それが身体にリアクションとして先に現れるからそれに気づくために身体に注意しよう、そういえばこれ運動能力のなさに関係しているっぽいな、ぐらいにしか思っていませんでした。</p><p>あくまで優先しているのは自身の精神的なパワーアップであり、身体はその手段かのような扱いです。肉体と精神の一致感のなさはまだ拭いきれていません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ところで、さきほど「身体の声を聞く」ことが苦手と言いました。</p><p>わたしは、自分が運動音痴なのは、ひとえに身体感覚のなさゆえであると感じています。</p><p>これは、生まれつきもあると思うし、幼少期の生活習慣やら思考の癖も要因かもしれません。</p><p>とにかく、自分の身体がどう動いているかが脳にfeedbackされない。</p><p>だから、たとえば誰かに「こう動きなさい」と言われ、それを理解して脳から「こう動く」ように信号を送ったとしても、実際に自分がどう動いたかが脳に返ってこないので、いくら他者から「そうじゃない、もうちょっと腕をこうして」などと言われても修正できない。もっと言えば脳から送られている信号が正しいのかも判断できない。実際その通りに動けているかがわからないから。</p><p>簡単に言うと、ドアを開けて部屋に入ろうというときに自分の体の大きさや動きが認識できていないからドアや壁にぶつかることがよくあった。</p><p>&nbsp;</p><p>この「苦手なこと」が、運動能力以外にも関連しているとは思っていなかったし、</p><p>さらに、これを少しでもマシにするために何が出来るかということも、それまでのわたしはわかっていなかった。</p><p>そんなこんなで、精神性が優先しているとはいえ、Body scanという方法に出会い、これを始めた私は、もしかすると生まれ変わり始めていたのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>&nbsp;</p><p>時は少し前に戻ります。</p><p>2015年の6月より、わたしは近所のジムに通い始めていました。</p><p>ジムに通うのは初めてではありませんでしたが、むかしは専らダイエットとストレス解消（マーシャルアーツ系のプログラムに出ていた）が目的であり、他方今回は完全に「健康と美容」が目的でした。</p><p>齢30を超え、体重はあまり増えないで済んでいるものの、なんだか体つきが貧相であることが美意識上の悩みで、また健康面としても体力のなさが気になっていたので、適度に筋肉が付き、引き締まって、生物として生きる力がありそうな感じになりたい、という願望が芽生えたのです。</p><p>そういうわけで、トレーナーのアドバイスのもと、マシンを使った筋トレ、食生活の改善（タンパク質を超意識して摂る、ちなみにわたしはちゃんと食材から栄養素を摂りたいタイプなのでサプリは使わない）、食事を多めにとることになったので太るのも違うよねってことで多少の有酸素運動（トレッドミルで筋トレの前後に20分ずつ走る）を始めました。</p><p>筋トレのメニューは大したことがないのですが、およそ2,3分すら走るのすら困難であった私にとって8～10km/時間のペースで20分走るというのはなかなかにタフなワークでして、最初はヒイヒイ言いながら走っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな生活をして3,4ヵ月という頃、先ほどのMindfulnessを知るわけです。</p><p>そしてあるとき、トレッドミルでのランニングの最中に、ふと「あれ、今わたしめっちゃMindfulなのでは」という気付きを得ました。</p><p>他の方にとってどうなのかはわからないのですが、私は走ることに鋭敏に集中力を傾けていないと走り続けることができません。</p><p>姿勢がおかしいとか、重心がおかしいとか、呼吸が乱れているとか、感じ取れるものすべてしっかり感じていないとすぐ心折れて疲労困憊となり「もうダメ、走りたくない、というか走れない」という風になって足が止まってしまうのです。</p><p>なので、走っている時わたしはその瞬間にすごく集中していて、そして気づくわけです。これはMindful Meditationとほぼ同じ状態であると。</p><p>&nbsp;</p><p>こうやって振り返ると、この頃からどうやらだんだん、わたしの精神と肉体が一致してきているようです。</p><p>それでもまだ、当時のわたしは「走ると瞑想状態になれるなー」くらいにしか感じていませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>&nbsp;</p><p>そうこうしながら大学院入試を経て、晴れて2016年4月より社会人大学院生となりました。</p><p>そこで、衝撃的な出会いを果たすわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>わたしの通う大学院では、毎週外部から講師を招聘し講演いただくという講義があります。</p><p>ある日のその講義、NHK出版の編集者である松島倫明さんが講師としていらっしゃいました。講演のタイトルはDigital Love ＆ Peace。</p><p>松島さんは、FREEやSHAREといった書籍を通じ、間もなくシンギュラリティを迎えるデジタルテクノロジーの発達した社会のこれからのあり方をわたし達に伝え、そしてまたGo WildやBorn to Runなどの書籍ではフィジカルの重要性を説いています。</p><p>デジタルとフィジカル、一見なんの繋がりもないようである2者間は実は同じ文脈で語ることが出来る...</p><p>講演は、松島さんのこれまでの編集者のお仕事を紐解きながらこの2者を接続する試みの時間でした。</p><p>&nbsp;</p><p>内容を詳しく書こうとすると、それだけでご飯3杯いけるというかそれだけでBlog書けるというかむしろ1エントリ費やしても全然足りないくらいなのですが！</p><p>この1.5時間の講義によって、わたしは目から鱗、いや、眼が開いたというか、天地がひっくり返る思いをしました。</p><p>&nbsp;</p><p>自分がMindfulnessなどを行なうことで精神性を高めていること、そして身体を動かし、同時に身体感覚を養い、自分の肉体が何を感じているかを客観的に見つめようとしていること、これは偶然シンクロしているのではなく、必然に同時進行されているものだと気がついたのです。というかそもそも切り分けて考えていることがおかしいのだと。</p><p>やっと、わたしの肉体と精神が一致し、さらにそのことに自覚できたのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>講義はそれだけにとどまらず、1歩も2歩も先を行っていました。</p><p>人類（ホモ・サピエンス）の肉体は近年（といっても万単位だけれども）大幅なバージョンアップをしていなくて、この肉体に進化したときと異なる環境で生活していることがどれほど不自然なことか。</p><p>そして、その進化の過程に沿って人類の肉体を見てみると、実は「（長く）走るために進化してきたた」肉体であるということ。</p><p>つまり、自然な環境を長く走ることは人類にとって自然な生活スタイルなわけですが、それをしていない自分は一体何なのかという話です。</p><p>かねてよりわたしは自分がこの世に生を受けたのには理由があり、その理由こそが生きる意味であり、生涯をかけて果たすべき役割であるとの心持ちで生きてきたはずなのに、</p><p>天然に所有している肉体がどういう目的を持ってこの形、この機能を持っているかに気がついていなかったのですから、なんという浅はかさでしょう。</p><p>このときわたしは、この生まれ持った肉体が持つ機能とそれが果たす目的を絶対に達成させると心に誓いました。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、わたしはジムのトレッドミルで走ることで、「走ることに集中している」と感じていましたが、これはある面では真理ですが、その先に「自然の中を走る（つまるところトレイルラン）」ことがあるのだと教えていただきました。</p><p>よく、走るひとは屋外を走ると景色が変わって良いなどと言いますが、私はそれがまったく理解できなくて、というのもそれじゃ走ることに集中できないですやんと思っていたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>トレイルランでいうところの「自然の中を走ろう」というのは、そういうことではありませんでした。</p><p>舗装されていない不整地はでこぼこで傾斜や障害物もあり、枝や葉、虫や日光、湿度といった外的要因が肉体に影響を与えます。</p><p>そのような環境で走るためには、自分の肉体の感覚を研ぎすませていないといけないのです。ジムで走っていながら実現できる集中状態とは、質も内容もまったく異なる集中状態です。</p><p>そして想像するに完全にそれはMindfulな状態です。</p><p>さらに、それが人間の肉体にとって自然な状態だというのだから、もはや今考えると、なぜ30年の長きにわたりそれをやってこなかったのか不思議なくらいです...</p><p>&nbsp;</p><p>そんなこんなで、わたくし、決意。「トレイルランを始める。」</p><p>&nbsp;</p><p>人生って面白いもので、やろうと思うと環境はかんたんに見つかるのですね。</p><p>周囲の方々よりご厚意を賜り、白馬国際トレイルランへのエントリーを果たすことになります。</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>&nbsp;</p><p>というわけで、9月11日（日）、走ってまいりました。（やっと当日まで来た...）</p><p>一言で言うと、20kmちょーあっという間に終わってしまいました！！！！</p><p>&nbsp;</p><p>正直、わたしが1km以上を走るなんて、信じられませんでした。（※トレイルラン中はのぼりはさすがに歩き）</p><p>エントリーしてから本番まで、20km通して走った（しかも途中歩いた）のもジムで１回だけ。</p><p>制限時間内にゴールにたどり着ければ良いな、、と思っていたのですが、思いのほかすぐにゴールしてしまって、</p><p>勿論最後の方は脚きついなーという感じだったのですが、</p><p>とにかく自分でも驚くほどあっという間に終わってしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>初めてのトレイルラン、あっという間でとても気持ちが良い３時間５０分でした。</p><p>&nbsp;</p><p>不整地を走ることは、本当に身体感覚がどんどん研ぎ澄まされていくようでした。</p><p>小石や小枝を踏んで片足の、それも一部分に重心が乗り、脚や体幹、腕が自然とバランスを取ろうとする感覚、ぬかるみやふかふかの地面にそっと踏み入れる一歩、普段の生活で味わうことのない傾斜に緊張する足首やふくらはぎ、乱れた呼吸を戻そうと深呼吸すれば胸が開いて背筋が伸びて、自然と視界も開けていって、脚が止まったわけではないのに、新たに走り出したような気持ちになって。</p><p>自然の中に身を置くとこんなにも身体の声を聴くことができるのかと。すこし耳を傾けるだけでこんなにも気がつくことができるのかと。心底、新鮮な感覚でありました。</p><p>&nbsp;</p><p>こういう感覚を終始味わっていたら、いつの間にか終わってしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>ほんとに最後の2kmくらいのロードは脚つらいｗという感じだったのですが、ゴール前では沿道の声援を受けてアドレナリンが出てしまい、ゴール後すごい元気になるという謎のハイも経験いたしました。</p><p>&nbsp;</p><p>改めて振り返り、この運動音痴の私が20km走ったなんてやはり信じられないという思いです。</p><p>マラソンを走ることの出来る人や体力のある人、スポーツを日常に取り入れることの出来る人がずっと羨ましいと思っていました。わたしには一生出来ないことなんだと思っていました。</p><p>物心ついてからずっと、どんな種目であれ人並みに身体を動かすことなんて自分にはできないんだと思っていました。スポーツはひとに迷惑をかけないように、ひとりでしなきゃいけないものだと思っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>ずっと憧れてきた、アスリートの皆さんや運動ができるお友達が感じているのであろう、身体を動かすことが楽しいという感覚、身体と向き合うという感覚、身体も心もひっくるめて「自分である」という感覚、そんなようなものと同じ感覚を、私もほんの少しだけでも味わえたのでしょうか。</p><p>多分、そうなんじゃないかなと思えているのですが、</p><p>なんて感慨深いのだろうと、ちょっと今これ書いてて泣けてきました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>30歳を過ぎてからも、ひとは変化できるものなのだなあと思います。</p><p>でもこれは、タイトルにもした通り、きっと偶然ではなく必然の変化だったのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>身体を動かすことが下手で、でもスポーツが好きで、憧れていて、その気持ちの通りに生きてきて、</p><p>それでも精神と肉体がバラバラになっていて、</p><p>だけど自分が好きなことを突き詰めようとしていたら、しかるべき人たちと出会って、</p><p>ある時ちゃんとくっついて、</p><p>その中で、素敵な体験として現れてくれた。</p><p>&nbsp;</p><p>身体を動かす、走る、トレイルランをするということは、人によって意義も目的も違って、ただ私にとってはこんな意味があった、ということなんだと思います。</p><p>来年も走る気でいるのですが（というかその他にも色々自然環境を走ってみたいという気持ちでいるのですが）、そのたびに感じる何かがあるだろうし、</p><p>楽しい、気持ちいいだけじゃない何かもあるのだと思いますが、</p><p>初めての体験で味わったこの気持ちよさを、忘れずにいたいなと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>そういうわけで、書き残したのがこのBlogでした。</p><p>長かった...</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>この一連の人生の変化をもたらしてくれた方たちに感謝をこめて。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>また走るぞー</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12199847222.html</link>
<pubDate>Wed, 14 Sep 2016 22:53:07 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Identified.</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ああちょっとこれは新鮮なうちに書き残しておかなければならない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>今日は、Serch Inside Yourself（いわゆるGoogle Mindfulness）を日本で主宰するMindful Leadership Instituteの荻野さんが、FREEやSHARE、BORN TO RUNやGO WILDを日本で手に入る形にしてくれた松島さんを招いての講演会に行ってまいりました。</p><p>お二方とご縁あってこのような機会をちょうだい出来て、本当に幸運です...</p><p>&nbsp;</p><p>Digitalが極限まで進みつつある（間もなくシンギュラリティを迎える）この社会における身体性の重要さ。この文脈を、編集という仕事を通じ、DJ（ディスクジョッキー）ならぬBJ（ブックジョッキー）スタイルで紐解く姿は本当に軽やかで、、わたしはこのお話を聞くのが本当に大好きです。</p><p>&nbsp;</p><p>こんかい印象に残ったことがいくつかありました。</p><p>限界費用ゼロの社会で、own（所有）ではなくaccessあるいはshareが基軸となる新たな社会に、私たちは既に足を踏み入れ始めています。</p><p>その中で出た、「share社会において、自己と他者との境界が曖昧になってしまうことにどう対処すればよいか」という質問。</p><p>&nbsp;</p><p>常々日頃、個とは何かということについて考えています。</p><p>&nbsp;</p><p>境界が曖昧で困るのは何故なのでしょう。自分が他者と区別されていなければ不安なのは何故なのでしょう。</p><p>その一方で、他者との交流なくして自己を確立できないこともまた真実です。</p><p>&nbsp;</p><p>肉体で言えば簡単に見えます。肉体には視認できる境界があるから。</p><p>でも、たとえば、事故で足を失った人にとって、自分の体をイメージするときには足先まで思い浮かべるだろう。その時、境界はとたんに曖昧になる。</p><p>もっと身近なところでいくと、コンタクトレンズという限りなく薄く、そして視力を代替してくれる装置を装着しているとき、わたしたちは、このレンズが自分の肉体の一部のように感じてはいないだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>やはり、曖昧だ。</p><p>&nbsp;</p><p>自己と他者との境界は、physical にもmentalにも曖昧なんだろう。というか、常に変動する有機的なものなんだろう。</p><p>その上で自分が不安にならないためには、どんな変動があろうとも変わらない自己を持つことしかないのではないか。</p><p>肉体でいうところの、心臓がとまってしまっては自分とは言えない、とか、脳みそをすげ替えたら自分とは言えない、とか、なんらかの自分なりのボーダー。</p><p>とはいえ、これもやはり自分で設定するのだから、突き詰めると変動的ではあるのだけど。</p><p>&nbsp;</p><p>松島さんのおっしゃる、Open/Privacyのツマミを自分で調整するということは多分そういうことなんだと私は理解しました。</p><p>そして、わたしにとっての自己は、与えられた役割（この世に生まれてきた意味）を果さすために存在している自己であって、これをidentifiedな状態と呼んでいる。</p><p>ソクラテスはこれを魂の一致と呼んだし、魂のみならず、生まれ持ち、ここまで育ったこの肉体をも含めて自己であると一致させることもまたidentify。だからこそ、身体性が重要。どこからどこまでを100％の自分であると捉えるか。つまりは、どこからが自分ではない＝他者あるいは外界か、ということでもあるのだけど。</p><p>&nbsp;</p><p>この、自分のidentificationができていないと、おそらく、他者との境界についての不安が生まれるのだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>自己は他者によって脅かされると同時に、他者によって確立される（この世に生まれてきた意味は他者に対して発揮されるものだから）。</p><p>きっとこの水面下的たたかいが、ツマミ調整のデリケートな部分なんだろうな。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>もう１つ印象的だったこと。</p><p>会社や組織のなかで、shareの精神（共感といった精神を要する）はどう発露可能なのかという質問。</p><p>&nbsp;</p><p>わたしが思ったのは、組織や会社を、solidな全体として捉えているとこのような困難に直面するのではないかと思う。</p><p>組織や会社といった存在は、まさにshareではなくownの象徴ではないだろうか。（それが現実なのだからというのはさておき）</p><p>従業員・構成員は１部分であり、それを所有する全体としての、組織。この組織は、非常にsolidで、有機的でない。</p><p>しかし、一方で、それを構成するひとりひとりは有機体。有機体は、有機的な動きをする。それが、現代のテクノロジーと結びついたものがshare的な振る舞い。</p><p>&nbsp;</p><p>わたしたちひとりひとりという「部分」はまさに「個」です。</p><p>そして、デジタルテクノロジーは、shareを可能にし、伝達や移動をFREEにしたように、容易にconnectもしてくれるわけです。</p><p>そのような社会において、部分部分が、有機的に振る舞うことの出来ないsolidな組織に所有される必要性とはなんなのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>パーツは、パーツとしての振る舞いをし、その役割・機能を果たすことが出来る以上、所有されずにaccessされるためのconnectionさえあれば、「solidではないが、全体として振る舞う何か」を実現することができるのではないか。</p><p>きっとわたしたちは、実はそんな社会に生きているんじゃないだろうかと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>血みどろのたたかいが待っているんですよといった松島さん。</p><p>その通りかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>でも、このような文脈下において、どのような世界にしたいかを選択するのはほかならぬ私たちだ。</p><p>その覚悟を持つ。変化を恐れない勇気と、ポジティブなものを作り上げていくという責任感、そしてどのような未来が来ようとも倒れないようidentifiedされた自己。</p><p>&nbsp;</p><p>よい未来をつくることができるのは、わたしたち。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12193744243.html</link>
<pubDate>Fri, 26 Aug 2016 00:16:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Part of that world</title>
<description>
<![CDATA[ <p>学校からの帰り、最寄り駅に着いた頃あたりに、シャッフルしていたMad.Phoneがいきものがかりの「ありがとう」を流しました</p><p>去年の今頃、前職同期の結婚式の余興のために即席バンドを組んで、ピアノ担当としてこの曲をめいっぱい練習したのでした</p><p>&nbsp;</p><p>10年以上ぶりに触るピアノでちゃんと役目を果たせるのか（新郎から新婦へのサプライズ演出のためのバンドでした）とても心配で、毎日のようにせっせとピアノ室に通って練習したのをよく覚えています。</p><p>&nbsp;</p><p>全員集まって演奏ができたのは本番を含めて数回だったけれども、とても楽しいひとときでした。</p><p>&nbsp;</p><p>思えば、わたしは小さい頃からピアノを習って弾いていたけれども、自分ひとりの演奏で完成する音楽よりも、誰かと一緒に完成させる音楽が好きでした</p><p>たとえば、発表会で弾いたものよりも、小学校・中学校の式典や合唱コンクールで弾いた合唱曲の伴奏をすることが好きで思い入れがあるし、</p><p>昔からフルオーケストラのクラシック音楽が好きで、このうちのひとりになれたらどんなに気持ちが良いだろうと、つよく憧れたものです。</p><p>&nbsp;</p><p>わたしは全体の一部になるのが好きなのだと思います。</p><p>そしてそれが自分の生き方にもよくあらわれているなあとも思います。</p><p>わたしにはわたしに与えられた（神からなのか、運命からなのか、はたまた両親からなのかはわからない）役割があって、その役割はわたしのためにあるのではなくて何かわたしが属する全体のためにあって、</p><p>それを生涯を通じて果たしてこそ、わたし自身、あるいはわたしの人生が完成するように思っています。</p><p>かといって、わたしそのものは独立して自律した個体であるし、今この瞬間に例えば死んだとしたらわたしは役割すべてを果たしたわけではなく、その意味で道半ばなわけだけれど、だから存在しなかったものと同じとは思わないから、個、つまり全体であることと部分であることは同時に実現されるものなのだなと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>このことはとても、いま学んでいることに似ていて、そしてわたしがこれから追究したいことの考えの根っこにもあるなと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、なにをもって全体とするかが問題だということです。</p><p>問題というのは、解決されるべき課題だという意味ではなくて、考慮の対象という意味です。</p><p>&nbsp;</p><p>大学院では、「物事をシステムとして捉えて全体を俯瞰する」ということを学んでいますが、その際にも境界線をどこで引くかが非常に重要な考え方になっています。</p><p>&nbsp;</p><p>「全体」というのは、境界の引き方によって変わってくる。</p><p>わたしが所属する「全体」も、その境界線によって違ってくるのです。</p><p>そして、その最小単位が、わたしという個体なのだと思います。（勿論これよりも細分化はできるのだけど、そうすると細胞とかいう話になってしまって、自分の意思にかかわらないものになってしまうので、そこまでは掘り下げないことにします）</p><p>&nbsp;</p><p>だからわたしは個体として完成されることができる（あるいはもうしている）のだと思います</p><p>&nbsp;</p><p>そして、わたしが部分であるときの全体というのも、ひとつではないのです。</p><p>ひとつではないということは、全体と言えるものを包含しながら更に大きな全体があるというだけではなくて、</p><p>数次元的に複数であるようなイメージです。</p><p>そのうちのひとつに、社会の構成員としてわたしが一部分であるというのがあって、社会の捉え方が、間所家であったり、都民であったり、日本人であったりします</p><p>&nbsp;</p><p>この、あらゆる社会を全体として捉えようとするとき、</p><p>社会は動的であって、決定的に境界線を引くことの困難さを感じます</p><p>時間的にも動的で、広がり的にも動的な存在に対して、わたしたちはどのように境界線を引き、これを全体であると言うのか。</p><p>&nbsp;</p><p>それぞれの個体がそれぞれが属する全体のために自分の役割を果たしているとき、</p><p>そしてそのそれぞれが属している全体が別物であると捉えられているとき、</p><p>それでも影響し合うことを避けられない社会をあらたなひとつの全体として捉えようとする試みに対して、どのような意味（しかもより良い意味）を与えることができるだろうか。というよりも、それを全体として存在せしめるものとは一体何なんだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>&nbsp;</p><p>途中からだいぶ意味不明になってしまいました。</p><p>うまく表現しようというよりも完全にひとりごとに...</p><p>&nbsp;</p><p>---</p><p>&nbsp;</p><p>わたしがこれからあきらかにしようとしていることは、自分を包摂するものであるから、頭を冷やしておかねばならないなあ。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、わたしはわたしで、明らかになっていない現象のなかで完成されるために、わたしに与えられている役割をすべて果たさなくては。そのためには、頭を冷やす以上に、心を燃やしておかなければね。</p><p>炎のように。むかしそんなBlogを書いた。</p><p>&nbsp;</p><p>What's a fire and why does it<br>(What's the word?) BURN!<br><br>Wish I could be part of your world...</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12181621103.html</link>
<pubDate>Mon, 18 Jul 2016 00:45:31 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Carpe diem,</title>
<description>
<![CDATA[ <p>Truth... Truth is like a blanket that always leaves your feet cold.&nbsp;<br>Stretch it, pull it,&nbsp;<br>it will never cover any of us.&nbsp;<br>Kick at it, beat at it, it will never be enough-&nbsp;<br>From the moment we enter crying to the moment&nbsp;<br>we leave dying,&nbsp;<br>It will cover just your head as you wail and cry and scream!&nbsp;<br><br> </p><p>号泣。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12173244617.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Jun 2016 13:54:36 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>What I want to do is,</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ひさしぶりにこの言葉を誰かに対して口にしたなあと思ったので、なんとなくBlog書くことにしました。</p><p>&nbsp;</p><p>「やらなきゃいけないことが多いから（あるいは、あるから）、やりたいことができない」</p><p>&nbsp;</p><p>って、よく聞ききますね。</p><p>&nbsp;</p><p>わたしもそう思ってました。ずーっと。</p><p>仕事もそうだし、なんだろう、社会的にこなさなきゃいけないこととか沢山あるしね、</p><p>そうやって、「やりたくもないこと」を我慢して「やらなきゃいけない」からってやって、「やりたいこと」はできない生活を「頑張ってる」とか「努力してる」とか呼んでました。</p><p>&nbsp;</p><p>でもあるとき目が開いたんですね。</p><p>&nbsp;</p><p>「やりたいこと」こそが、もっとも「やらなきゃいけないこと」ではないか！と。</p><p>「やりたいこと」をできていないことこそが罪深い。</p><p>&nbsp;</p><p>努力や、頑張ることの意味がひっくり返った瞬間でした。</p><p>&nbsp;</p><p>勿論、ほんとに、別にやりたくもないけどやらなきゃいけないことってありますよ。</p><p>税金払いに税務署行くとか。義務と呼ばれるものはそうかもしれないですね。</p><p>&nbsp;</p><p>でも、それらを含めたとしても、「やりたいこと」こそ、一番「やらなきゃいけないこと」なんです。それぐらい、大事なことなんです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>もし、やりたいことがあるのだけど、やらなきゃいけないことが沢山あるなあって、やりたいことをしていない人がいましたら。</p><p>&nbsp;</p><p>ぜひ、</p><p>やりたいこと＝やらなきゃいけないこと</p><p>ぐらいに思えたら、世界の見え方がほんの少しだけでも変わるんじゃないかなあって思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12170687982.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Jun 2016 19:53:43 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Difficult Conversation</title>
<description>
<![CDATA[ <p>生きていると、気の進まない困難な対話をしなければならないタイミングが突然訪れますね。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば、お世話になった会社を辞めるために、直属の上司に話をするとき。</p><p>たとえば、自分の能力を超えた仕事を頼まれ、期限や内容について猶予をもらうとき。</p><p>&nbsp;</p><p>そういうのが、困難な対話です。</p><p>&nbsp;</p><p>－－－</p><p>&nbsp;</p><p>この新生活の中でも、ありました。</p><p>&nbsp;</p><p>どんなに気が進まなくても、それは乗り越えなければなりません。</p><p>自分で、自分の思い描く将来を描くために必要なエネルギーなのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>自分ががまんをしたり、無理をすれば回避できるのなら、と、ついつい先延ばしにしたり、あるいは対話そのものから逃げてしまいそうになることがあります。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなとき、ぐっと、自分の過去や未来に思いを馳せて、立ち向かうことにしています。</p><p>困難な対話から逃げ出すほど、やわではないのだ。</p><p>そんな風につぶやいて、自分を奮い立たせながら。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>－－－</p><p>&nbsp;</p><p>そう思えるようになったきっかけが過去にありました。</p><p>まさに、前職を退職するときです。</p><p>会社そのものも、同僚も、みな良くしてくれた。しかし、大きな歯車によって動く会社のシステムそのものは、わたしの将来にとって良くない結果をもたらすように感じて久しくなってしまっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>辞めたい。辞めると言いたい。でも、逃げ出したい。</p><p>そのとき、ある先輩が言った言葉に、わたしの目が開きました。</p><p>「まどちゃん。そんな話上司にするのいやだよね。でも、その30分を耐えて乗りきれば、もっとずっと楽になるよ。まどちゃんが欲しい未来が待ってるよ」</p><p>そう言ってくれました。</p><p>当たり前のことなのに、わかっていなかった。</p><p>この話をしてすぐに、直属の上司に話をした。それ以来わたしは、困難な対話からは逃げない強さを持ち得た。</p><p>&nbsp;</p><p>－－－</p><p>&nbsp;</p><p>当初はこんな風になると思わなくて。</p><p>困難な対話を迎える以前に、自分なりに、色々なトライをしたと思っています。</p><p>その過程で、わたしが間違っているのではないか、わたしが不勉強なだけなのではないか、自分には価値がないのではないか、</p><p>そのような不安が襲い、心身が蝕まれるのを感じました。</p><p>&nbsp;</p><p>ある決定的な出来事によって、わたしは困難な対話へのチャンレンジを決意しました。</p><p>というより、もうその時点で、対話に困難さを感じていたように思います。</p><p>&nbsp;</p><p>そのときのことをあとから冷静に思い出し、ひとり泣きました。</p><p>&nbsp;</p><p>ゆるせない、という感情がふつふつと顔を出してきて、泣きそうです</p><p>&nbsp;</p><p>わたしが、この道に足を踏み入れた決意を何だと思っているんだろう</p><p>&nbsp;</p><p>わたしは、自分に忠実でいたくて今この生活をしているのだから、それを叶えてあげられないなんてことは過去の自分に対して申し訳がたたないから絶対にしない</p><p>&nbsp;</p><p>そしてそこへの配慮や想像のないものやひとのことなんて、信じない</p><p>&nbsp;</p><p>あの対話は、わたしにとってだけでなく、困難なものでなければならなかったのだ、そうでなかったことがゆるせないと思っているのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>そうして、築いた信頼が瓦解したのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>そして残る、困難な対話を数度にわたり行いました。</p><p>&nbsp;</p><p>－－－</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも、このような対話が何故困難に感じられるのか。</p><p>Googel Mindfulnessを教えるSearch Inside Yourselfでは、</p><p>アイデンティティへの脅威の存在を挙げています。</p><p>つまり、結果にかかわらず、自分の無能さ、相手の無能さを露呈させる可能性があること、自分の真意が曲がって伝わる可能性があること、などです。</p><p>&nbsp;</p><p>どのような結果を生むにしても、わたしは自分のためにこの対話に立ち向かわなくてはならない。</p><p>であればわたしができることはただ一つ、自分と相手のアイデンティティへ最大限配慮することだ。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、昨日、一連の困難な対話集を完結させてまいりました。</p><p>わたしの配慮が通じたかどうかはわかりません。</p><p>しかし、わたしは不用意に傷つかなかったし、相手の落胆、あるいは憤りの声色と表情は見えたものの、もとよりわたしと相手とではこの対話に対し感じている困難さはおそらく大きな隔たりがあるのであろうし、</p><p>とにかく、わたしも、相手も、大人であり、不必要に困難さを増すような愚行を犯さなかったおかげで、冷たい時間ではあったものの、乗り切ることが出来ました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>今はすっきりとしています。</p><p>胃の調子もこのまま良くなるでしょう。</p><p>約30分を耐え、乗り切ったわたしは、根本的な心配事を一つ払拭でき、やるべきことが明確かつリーズナブルになりました。</p><p>これが、わたしが求めていた直近の未来でした。</p><p>&nbsp;</p><p>今日からのわたしはまた、きっとフレッシュに頑張ることが出来る。</p><p>すすめ、すすめすすめ、そう言い聞かせる必要なんてなく。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12168469238.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Jun 2016 04:58:35 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Switching.</title>
<description>
<![CDATA[ <p>明日土曜日朝一でシステムデザイン・マネジメント序論の講義のちょっとしたテストがあります…試験対策方法はなく、読んでおいてねと言われたものを読むしかありません。</p><p>&nbsp;</p><p>それが、すごく、多いです...</p><p>&nbsp;</p><p>そして、SDM学は日本ではあまり進んでいないので、文献はすべて英語です。読んでいてもなかなか頭に入ってこない！一読しただけで大丈夫なんだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>しかも、GW中に行ったのはDesign Projectといって、イノベーティブな発想、デザイン思考を念頭においた講義。</p><p>一方でSDM序論の（少なくとも今の時点では）力点は、システムエンジニアリングといって、</p><p>顧客の要求分析をロジカルに行って、ステイクホルダーをMECEに挙げ、想像しうるソリューションを比較検討しながらそれらの検証をぐるぐる回して最適解を求める。。。</p><p>的な考え方なので、はりきって使っている脳みその部位が全く違う！</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>へっぽこCPUの脳みそをフル回転して、Reading頑張ります。（課題もね）</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12157632020.html</link>
<pubDate>Fri, 06 May 2016 20:17:57 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Design Project、本格始動。</title>
<description>
<![CDATA[ <p>GWまっただ中の5月3日＆4日に、SDMの名物講義であるDesign Projectをみっちり行ってきました。</p><p>※SDMとは、4月より通っている慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科のことです！</p><p>&nbsp;</p><p>Design Project（D.pro）は、慶應義塾大学、マサチューセッツ工科大学（MIT）、スタンフォード大学およびデルフト工科大学（オランダ）が連携して開発したプロジェクト形式の授業。SDMで学ぶ「システムデザイン・マネジメント」の技法を使って、イノベーティブなプロダクトやサービス＝システムをデザインし、世に出すまでを実践することができます。</p><p>プロジェクトには企業や自治体がプロポーザーとして全面的に協力してくださり、それぞれテーマを提案していただいて、学生は自分で選んだプロポーザーのテーマに向かってチームで取り組みます。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、7つのプロポーザーの中から、わたしは株式会社ミズノさんを選ばせていただきました。そしてチーム分け発表が4日の講義後に行われ、これから約半年にわたって運命をともにするチームメンバーが決まりました！（プロポーザー選択までは自分でできるのですが、その後のチーム分けはファカルティメンバーが行なうのです。ミズノを選んだ学生は12人いたので、2チームにわかれました）</p><p>&nbsp;</p><p>わたしのチームは日本人が3人と台湾、ベトナム、ドイツからの留学生3人のinternationalチーム。そもそもミズノを選択した学生は留学生が多めだったのでこれは予想どおり。既に2度一緒のチームを組んでいる（一つは現在進行形！）大手お弁当屋さんの社長さんとまた一緒になったことだけ予想外でした！笑　</p><p>ほかにも一緒になりたかった人いたんだけど、こればかりは仕方ないー</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみにD.proの授業は普段隔週土曜日の13時～18時という長丁場で行われるのですが、5月3日＆4日は2日連続な上に両日9時～18時までだったのと、これまで留学生と分けられていた授業がついにcombineされ全編英語だったこともあり、ひっじょーに疲れました...おかげさまで懇親会でちょっと飲み過ぎました。ていうか、しばらく脳内言語が英語でつらい。</p><p>わたしの英語力は多分学生の中だと中くらいのレベル（ペラペラでもなく、しゃべれないこともない）で、しゃべれない学生は基本的に日本人オンリーのチームを組んでいる中、わたしはチャレンジングにもinternationalチームを組ませてもらったので、これから英語のブラッシュアップ頑張ります。</p><p>&nbsp;</p><p>D.proでは最終的にプロダクトかサービスをアウトプットするので、ミラノサローネへの出展の道も開かれています。</p><p>※ミラノサローネ＝世界最大の国際家具見本市のことですが、今では家具に限らず、世界中の「デザイン」に関わるものすべてが集まります。</p><p>&nbsp;</p><p>勿論これは、良い物をアウトプットできて、しかもプロポーザー企業の許可をいただけたらの話。ミズノさんでは、役員決裁matterだそうです。</p><p>ミラノ行きた過ぎるし、ミラノサローネ出展したすぎるので、これもひとつの目標に頑張ります！</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12157309172.html</link>
<pubDate>Thu, 05 May 2016 21:24:46 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>What a lovely...♡</title>
<description>
<![CDATA[ <p>大好きなお友達が、大学院への入学祝いをくれました！！！</p><p>なんと、Amazonのギフトカード。すっごく使える！！！！さすがたえこ♡</p><p>&nbsp;</p><p>彼女はわたしよりももっと前に大学院への入学を決意して、</p><p>それもアメリカの大学院へ留学して、すでに修士を取って現地で働いて、去年かえってきたばかり。</p><p>&nbsp;</p><p>彼女が留学するときの餞別はボールペンでした。なんてアナログな...</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>沢山本も買わなくちゃだし、ポストイットwも買わなくちゃなので、Amazonギフトカードほんと嬉しい。</p><p>大切に使って沢山勉強するどー！</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>たえこありがとう！</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12156406606.html</link>
<pubDate>Tue, 03 May 2016 08:44:06 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Creative Mindset</title>
<description>
<![CDATA[ <p>講義の中で、参考図書とかおすすめ書籍とかを紹介されることが多くてですね。</p><p>そのたびに特に興味あるものについてはさくっとAmazonでぽちるんですけど</p><p>たまたま、近くにいた同級生（と呼んだらいいのかしら）に「買っちゃったー」と話した本、</p><p>後日（今日）になって「あの本Amazonになかったんだけど？？」と言われたんです</p><p>&nbsp;</p><p>え？と思って再検索</p><p>&nbsp;</p><p>「クリエイティブ マインドセット（デヴィッド・ケリー）」なかみ検索！</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ありますねえ...</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>アプリだからかな？ということでわたしもアプリで検索するも、</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ありますねえ...</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>彼のスマホをよくよく見せてもらったところ、</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「クリエイティブマイドセット 本」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>よーく見ないと気づかないけど、マイドセット...毎度セット...</p><p>脱字...</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>毎度セットにツボって課題が進まない夜の教室でした。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kanako-dokin-chan/entry-12155600854.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Apr 2016 21:58:25 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
