Issay's Essay https://ameblo.jp/kanmonya/ 週のはじめに1編くらいなら、こんな調子で書けるかなって思っています。『歴史的なこと』『旅や環境など』そして、『教育・人・食物』など、下関をはじめ私の目に留まったことを紹介したいと思います。 ja-jp 中世のふるさと11 -鎌倉幕府下の長門守護- https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12803653312.html  源頼朝が富士川で、平氏に勝ったのは治承4年(1180)だった。その後、平氏は追いつめられ遂に寿永4年(1185)3月24日、壇之浦の戦いで安徳天皇とともに平氏は滅亡する。 今ぞ知るみもすそ川のおん流れ波の下にも都ありとは(二位尼) まもなく頼朝は、従二位に叙せられ幕府の公文所を政所と改称。更に文治元年(1185)11月には諸国に守護をおいて全国の直接支配にのりだすことになる。(しかし幕府内部も義経の追捕などの一筋縄とはいかない事情も抱えていた) 下関市史(原始-中世・H/20刊)によれば、最初 2023-06-19T09:00:00+09:00 中世のふるさと10 -源平遺跡・伝説など- https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12803652942.html  平家伝承地は、市域だけでも彦島や高畑・藤ケ谷・女郎ヶ迫、或いは県内各地の人里離れた場所に平家の落人が住んでいたという伝承がある。 中でも彦島八幡宮に伝わる「サイ上がり神事」は、保元2年(1157)10月「里の西南の海に輝くものがある」と島の長・河野通次に知らせたところ男に調べさせた。男は船を出してこわごわと網を打って引き上げると、それは八幡尊像を刻む明鏡だった。道次らは「これこそわが一族の守り本尊」だと喜び近くの小島に光格殿をつくって祀った。この様子を再現する祭りが860年も続いている。 さら 2023-06-12T09:00:00+09:00 中世のふるさと9 -源平史跡・赤間神宮- https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12803652460.html  源平壇之浦の合戦で、8歳の身で平氏とともに海中に没した安徳天皇の霊を弔うため、 建久2年(1191)後白河天皇は長門国に霊廟を発願し、これが阿弥陀寺(現・赤間神宮)の創建となった。安徳天皇御陵墓は明治22年(1189)宮内庁から阿弥陀寺御陵と定められた。御陵は墳塋(ふんえい)と呼ばれる円墳で高さ80㎝の御影石で八角形に囲まれている。阿弥陀寺は代々の領主からも保護を受け、維新後の神仏分離令で廃寺となり「安徳天皇社」、昭和15年に「赤間神宮」と改称された。しかし昭和20年の第二次世界大戦の空襲で社 2023-06-05T09:00:00+09:00 中世のふるさと8 -源平の合戦- https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12803652190.html  源平二大勢力で、先ず政権をとったのは平氏で、平清盛は太政大臣とまでなった。 『平家物語』には、平氏一族の知行国は30余か国、荘園は500余ヶ所、それらの多くは西国にあった。清盛は当時の中国(宋)との貿易で大きな利益を上げ、経済力を充実させ、瀬戸内海を勢力基盤としていたが、奢れる平氏久しからず。 寿永2年(1183)先ず木曽義仲に攻められて都落ち。次いで、頼朝が弟の義経、範頼を派遣して一の谷の戦い、屋島の戦いと平氏を追い詰め、遂に、平氏の平宗盛、事実上は知盛が長門の彦島(当時は引島)に城を構え、 2023-05-29T09:00:00+09:00 「グリンピース」に思う https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12803651835.html  この季節、食卓に上がるタケノコやフキそしてエンドウ豆は、何といっても初夏の色合いと香りをともない、まさに旬のイメージをそのまま運んでくれる。 先日、取り立てのエンドウを少々頂き、莢(さや)から「グリンピース」を取り出す快感に季節を満喫した気分になった。同時に、莢の中に6~8粒がつやつやと綺麗に並び育った、自然の美しさにも感動した。 吸い物や卵とじなどに、ちらっと添えた「絹さや」も彩が素敵だし、「さやえんどう」のシャキシャキした触感も嬉しい。もちろん「グリンピース」は、あっさりと煮豆、そして豆ご 2023-05-22T09:00:00+09:00 中世のふるさと7 -厚東氏と豊田氏- https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12800607832.html  皇極2年(643)周防・長門の間にあたる厚東郡棚井(現・宇部市の一部)に配流された物部武忠が地名をとって厚東武忠と称したのが厚東氏の始まりと伝えられている。 古代大和政権の豪族勢力の中に蘇我氏らとともにあった物部氏だが、仏像の尊信問題で反対の立場をとった物部守屋が、用明2年(587)蘇我馬子、厩戸王(聖徳太子)らに滅ぼされた。厚東武忠は、その物部守屋の末裔である。 厚東氏は、旧厚狭郡東部の武士であったが徐々にその勢力を広げることになる。 厚東氏2代・武基(草壁醜経と書かれた本があるが、そうであ 2023-05-15T09:00:00+09:00 中世のふるさと6 -俊乗房重源が周防徳地に- https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12800607448.html  現在、山口市に編入(平成17年=2005)された徳地町は、山口県の中部佐波川上流の山間部にあり山口市全域の40%を占め、その90%は山林が占めているといわれる。 律令制下の国家体制が確立し、周防国庁が開設されると国衙領に位置づけされ、石見国への通路にあたることから政治的にも重要な地域となっていた。平安時代に、関白藤原兼実の所領となって「得地」という名称が誕生したという。 治承4年(1180)4月、源頼政の打倒平家に呼応して各地に挙兵があり、これに対する平家政権は南都焼け打ちが行われ、この時、東 2023-05-08T09:00:00+09:00 二冊の本 https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12800607231.html  これは非売品であろうが、入院中に2冊の本が届いた。 一冊は、美術館からの『潮流・下関2021』で、一昨年度の美術館の企画として私と清水恒治氏の写真展を開催された記録冊子である。モノクロながら会場雰囲気と作品群一切を記録したもので、本当に有り難いものだった。 実は、入院前日その校正が美術館から送られてきて、当日は一部の構成の組み換えを指摘した程度で、文章の細部まで目を通す気力がなく、そのまま美術館に届ける様にお願いして入院し、これが製本されたものである。 期待の反面、細部を見なかった怖さもあった 2023-05-01T09:00:00+09:00 院内選挙のこと https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12800606859.html  満開に近い我が家の桜に見送られて約1ヶ月腰痛治療のため入院し、この間に2度の選挙、院内投票という貴重な体験をさせて頂いた。 選挙の院内投票があることを聞いてはいたが、公示日が過ぎても何の連絡がないので、看護師に「選挙はどうなっているの」と聞いてみたら「一寸待ってください。大切なことじゃ」と事務方に報告されたのだろうか、1時間ばかりして別の方が『投票用紙及び投票用封筒の請求依頼書』を持ってきて名前などを書かされた。 まずは県会議員選挙だが、何方が立候補されているか分らないまま、3日過ぎて看護師が 2023-04-24T09:00:00+09:00 中世のふるさと5 -大内氏の出自- https://ameblo.jp/kanmonya/entry-12792896214.html  「大内」を広辞苑で見れば「室町時代周防長門および豊前の守護大名。古くは周防の在庁官人で多々良氏を称。」とあり、琳聖太子は出ていない。 ところで、大内氏が渡来系民族と最初に公言したのは第25代大内義弘のときで、戦国時代の貴族の系図に発想したであろう。その弟26代・盛見も「琳聖太子の末裔」だと主張し始めたのは、対鮮貿易を有利に展開しようとするものだった。 (ここで、第25代とあるのは琳聖太子を初代とした大内氏系図による) 百済の国王・聖明王の第三子・琳聖太子は、すでに前史で「推古19年(611)に 2023-04-17T09:00:00+09:00